西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
三十九、名門坊主出て行け
安政三年(一八五六)三十六歳
月潭老人の膝下には多くの傑人が雲集したが、その一人に後の大本山総持寺独往第二世の貫首となった。畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師が居ります。
月潭老人は結制修行といって、規則で定めた正規の修行期間中は、寸分の隙も人情も差しはさまぬ、厳格そのものでありましたが、解間(げあい)といって自由研究修行中は、大変寛大であって鳴らし物もさせなかった。ところが楳仙禅師は謹厳そのものといった型の、真面目な人柄であったから、関左(かんさ・東京神奈川など六県をさす)禅林として有名な禅林に於て、たとえ解間中でも鳴らし物をせぬと怠けているようで風聞が悪い。いわんや解間中でも宿泊して参禅する者や、昼食を取り聞法(もんぽう・仏教を聞くこと)してゆく修行者が、始終出入しているから、この修行人達が「海蔵寺は鳴らし物もせぬだらしのない修行寺だ」などと吹聴したら困ると思って、楳仙和尚解間中でも自分で梵鐘(ぼんしょう・鐘)を鳴らしたのである。すると、月潭「鐘を打ったのは誰だ」と大声でおこり出した。楳仙和尚が老人の前に出て、私でございます。拝宿(はいしゅく・宿泊)や点心(てんしん・食事)している修行僧への手前もありますので鳴らしました。」
月潭、「この名聞(みょうもん・名誉をてらうこと。みえをはること)坊主め、出て行け」と怒髪天を衡く(どはつてんをつく・頭髪の逆立った、ものすごい怒りの形相)勢で下山(破門退去)を命ぜられた、月潭老人はいい出したら容易に引込まぬ性質であることを知っている修行僧達は、誰も出てゆきません。穆山和尚同僚親友の一大事と思い、「老師様、楳仙さんは馬鹿真面目な事を御存知でございましょう。馬鹿を相手にしたら老師様の徳を損じます。私にまかせて下さい。」月潭 「そうか、仕様がないな、鐘はへらぬから勝手にしろ」でけりがつきました。楳仙師は謹厳そのもののような性格であることは、月潭老人もよく知っておられたから、そこを衡いて老人の心の転換を計ったのであります。又穆山和尚が月潭老人の大の気に入りでありましたから「そうかそうか」ということで落着しました。
かくて、こと無きを得た二人は月潭老人の信用を高め、片や穆山和尚は典座(てんぞ・料理番)といって一山の料理部長となり、片今夜仙和尚は侍者といって、月潭老人の秘書役を勤めていた。
典座寮と侍者寮は向合っており、典座寮の隣りが飯頭寮(料理係長)であった。その料理係長が寒中に門前から、「すま」(小麦からうどん粉を取ったのこりかす)をもらって来て、それをねって中に味噌をつめて焼き、天井ぶち(御粥がうすくって、天井に米粒がおよいでいるのが写るから名づけた)のすき腹を満足させようとたのしみながら、まどろみもせず料理部長さんが就寝するのを待っていた。穆山和尚それとも知らず、夜遅く迄読書して、いざ休もうとした時、隣りの室でぶすぶす音を立てて異な臭いがするので入ってみると、炉の中がくすぶるので火箸でかき回してみると、すか焼餅が出るわ出るわ十四五個も出て来た。穆山和尚ほくそ笑んでそれを懐に入れて廊下に出ると、楳仙和尚も読書をやめて手洗に行くのに出合った。コイと手まねきをすると、楳仙和尚も心得えたもの、小声で「あるか」といいながら寄りそってきて、二人で餅を平げてしまった。
物がありすぎて「消費は美徳なり」などといっておる現代の人々には、夢にも想像にも浮かばぬ至上の美味であります。これほど貧乏で粗食で、普通人の寄りつかぬ月潭老人の膝下によく忍び、求道に命をかけた人々のエピソードはいみじくも尊いものであります。
四十、錫杖が鳴る
安政四年(一八五七)三十七歳
穆山和尚が坐禅の奕堂(えきどう)、公案の梅苗(みょうばい)や、興聖寺回天の三善知識(ぜんちしき・仏教の指導者)の何れも捨てて、真の大善知識であると判断した月潭老人を、小田原早川の海蔵寺に、尾張の千丈和尚と、越後の泰道和尚の三人で訪問して、門下生として下さいと願った時、月潭「わしのところは食べ物がない。置くことはできぬ」と冷たくことわられた。穆山「食べ物はわたし達が心配します。置いて頂きさえすれば結構です」月潭「じゃ、勝手にしろ」というわけで安居(あんご・宿舎に泊まり修行する)修学を許されたのであった。
私(吉田隆悦)は昭和四十六年に海蔵寺を訪問した所、住職は学校の教職を兼業して生活費の一部を補充するという状態でありました。格式は大本山の次位の格地(かくち・立派な寺)であるが、経済力は弱くその収入で五十人もの修行僧の食事を支弁する事は不可能でありました。従って修行僧達は自ら生活費を得なければなりません、僧侶の自活の最短にして最善の方法は托鉢(たくはつ)であります。
穆山和尚達は毎日小田原の城下町に出て托鉢したのであります。侍者の楳仙師が先出に立って案内役を勤め、典座という寺の重役である穆山和尚は導師(指導者)を勤めて、堂々と長い列で雁行(雁が並んで飛ぶように歩行すること)して托鉢したのであります。雁行してきた僧侶の列に両側の住民が、「おひねり」或は「現なま」で僧侶のささげている応量器(おうりょうき・托鉢につかう器)に入れて施す作法が本当の托鉢であります。門付して物を乞うのは真実の托鉢作法ではありません。後年穆山和尚が横浜市の西有寺の住職に勧請されて、修行僧と共に八十の老翁自ら陣頭に立って、雁行托鉢をした貴い姿を見た京浜間の、大政治家、大富豪達が感激して、穆山和尚に帰依(きえ)したのであります。
さて話しを海蔵寺の穆山和尚にもどします。学友楳仙和尚も共に、天井ぶちの御粥の粗食で栄養失調にならない為に、適当に御酒を飲んだのであります。
この御酒のことについて二俊傑の間に面白いお話しがあります。前述したように海蔵寺時代は穆山和尚が典座という重役であり、楳仙師は侍者という準重役でありますから、穆山和尚の方が上位であります。
小田原市を雁行托鉢して帰り道には、先頭の侍者楳仙和尚が応量器(酒なら一升近く入る)に酒をもらい、町はづれに出ると穆山和尚が受け取って、一気に六分位飲みほして、のこりを楳仙和尚にわたすのが通例となっていました。役は下であるが無二の親友同志、楳仙和尚一計を案じ小路をみつけ、列をはなれて一気に七八分飲みほし、のこりを穆山和尚にわたして一矢を報いてやった。これを知った穆山和尚以後の托鉢において、先頭に居る楳仙和尚が列を離れるや否や、最後列に居る穆山和尚が導師の指揮杖である錫杖をガチャガチャはげしく鳴らし、
「列を乱すな」と怒鳴ったが、先頭と最後と離れているから、楳仙和尚聞こえぬふりをして相変らず七八分飲んで、のこりを穆山和尚に渡したのであった。
楳仙和尚はこのように穆山和尚と知慧くらべをして、海蔵寺の枯淡(こたん・あっさりしている中に深いおもむきのある)巌励の修学を三年間堪え忍んだのである。辛抱強さでは、原担山和尚の十二倍の強さであった。
四十一、千手観音菩薩との奇遇
安政五年(一八五八)三十八歳
京都九条の地蔵堂に招待されて、修行僧の為に円覚経の講義を二ケ月続行していた。そこに神奈川湯河原町の英潮院から、住職になってほしいという請待の使者が来ました。穆山和尚は三度まで辞退したが、月潭老人が特に親書を送って「英潮院は海蔵寺の末寺であるからまげて、住職してほしい」と懇切に慫慂(しょうよう・傍らから誘いすすめること)して来ました。それでも穆山和尚は心を決めずに、直接老人に会って辞退の諒解を得ようとして旅立ち、途中英潮院に立ち寄って見たところ、金華山という山号額がかかっており、これを見た穆山和尚は自分の原名は金英であり、号は穆山である、又英潮院の英も金英の英であるから不思議な因縁だと思って仏殿に人って見ると、本尊様は観世音菩薩であった。穆山和尚は観音様が自分を招待したのだと感じて遂に決意して住職となることを承諾した。
この英潮院たるや壁落ち、床壊れ、荒廃その極に達していた。穆山和尚早速掃除を始めたのでありますが清掃中、積み重ねた古紙の中から千手観音菩薩尊像の小軸を発見しました。これは明の有名な画家沈西蘋が画いたもので英潮院の寺宝でありました。穆山和尚はこの尊像を守り本尊として常に身につけて離さず、礼拝供養したのであります。
穆山和尚は幼少時に父母より観音信仰を教えられ終生観音信仰を続けたのでありますが、この観音様に助けられ幾多の災難をまぬがれております。
穆山和尚は英潮院を修築して益々観音信仰を強め日夜本尊観音菩薩に、奉勅すると共に、夏安居冬安居の制中は月潭老人に随行して、教化を補佐すると共に参師聞法に一層の磨きをかけたのであります。解間中には英潮院において集まって来た修行僧、十五六人に参同契、宝鏡三昧、坐禅儀、碧厳録、従容録、典座教訓等の祖録を講義提唱してやったのである。又英潮院から二粁ほど離れた寺の所有地に、自ら陣頭指揮して杉苗を植林し、午前午後の休み時間にはお茶を飲み、沢庵をかじりながら、雲水僧の為に道元禅師の大清規を講義して光陰を空しくしなかった。
四十二、雪団熱湯裏に豁然(かつぜん)として大悟す
安政六年(一八五九)三十九歳
月潭老人はこの辺で坐禅専門の道場に行ってみたらどうだろうと勧めて、前橋市の竜海院に諸嶽奕堂師(後の大本山総持寺独往一世)の門をたたかせた。奕堂門下には百人以上の修業憎が雲集していた。奕堂師は穆山を一見し、凡人に非ざるを看破し、ただちに副寺(財政部長)に抜擢し、毎月の一日、十五日の小参(修学憎が問答すること)には払子(ほっす・導師をつとめる道具)を穆山和尚に渡し、「小参は副寺和尚に一任す」といって自分は方丈の間へ帰られた。その直後本堂では火の出るような命をかけた法戦問答が闘かわされたのであります。穆山和尚の行解(坐禅と学問)両全の人格の力量が、修行憎の質問に対して烈火の如く爆発し、激流の如く流出したのであります。既に穆山和尚は一家の大宗将であったのであります。
当時早くもその道誉が大本山永平寺にも聞こえて、穆山和尚は不老閣(永平寺貫首の室)に登って霊堂禅師に相見して来ました。
万延元年(一八六〇)四十歳の時、穆山和尚奕堂師の専使(代理)として、沼田市迦葉山竜華院に趣き、雪中に身体をこおらして帰り、オー寒いといいながら行者(あんじゃ・寺院にあって諸種の用務に従事する給仕)の出したたらいの熱湯に足を入れてしまった。「あ、あつい」と叫んで足をひぎあげる刹那、行者がすばやく庭にとび出し、かかえて来た雪のかたまりを湯の中にたたきこんだ。雪はしゅっと音をたててとけてしまった。
穆山和尚これを見て豁然として大悟した。少にして人間個々人に於ても、大にして宇宙天地 全体に於ても原形そのままで停止したり、人間の欲望のままになるものはない。春夏秋冬の変化は自然の法則、春来れば百花爛漫、秋来れば万山紅葉、
「春は花夏ほととぎす 秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」の宗祖道元禅師の親訓がここにも露現したのであります。
それを我々人間は冷たいといって若情をいい、熱いと叫んで力んでみたり、雪のかたまりを投げ 込んで洗足たらいをひっくりかえして、大騒ぎしたり大笑いしたりしていることを、自分も演じたものであるわい。
とうたって、方丈の間に上り、奕堂師に一部始終を報告申し上げてから更に静かに、
等閑(なおざり)に口を開いて心肝を吐く
慙愧す従来習気の残すを
地の身を容(い)るる無しをいかんが歩を転ぜん、この時、知んぬる棒頭を免ること難きを
そしてその光景否真実の相を
雪団を把って熱湯に投ずれば
乾坤撲落して妙高僵る
知らず今日何の時節ぞ
銀槃を?倒して大笑い(原漢詩)
これで穆山和尚は印可(いんか・師僧が弟子の悟りを証明すること)証明を奕堂師から得た。