波打 その頃私は同窓会の会計をやったが、同窓会の会計はいまどうなっていますか?
中沢 今は卒業生から卒業の時、原則として百円もらっているが、あれこれと使っているので大したことはありません。同窓会はですね。この新校舎が出きてピアノが必要になったので、同窓会を復活したのです。だからそれまで中断して無かったのです。
浪打 それでは前のことはどうなったのでしょうか。
中沢 さあ、わかりませんが、三島さんが最後の母校への奉仕だと言って奮起して寄付金をもらって、そしたら蔵五郎先生が一番先にグランドピアノを寄贈してくれました。
善行で大臣賞
波打 ここの学校で、菊地勘右エ門という文部大臣から表彰された阿部という人があった。友三郎さんという人だったがあれはどうなっているんでしょうか?
大久保 だれですか? 文さんというのは、阿部文三郎さん?文次郎さん?
波打 あの人に文部大臣の菊地(たいう)?という人から表彰状が来て、ちがう額にかけていたと思うが?
大久保 何で表彰がきたのですか?
波打 善行です。
小井田 それは何年頃のことですか?阿部何という人ですか。
浪打 阿部友次郎さん。浦町の、新地から浦町へ行くところの。
山浦 ああ、阿部そばやの人ですか。
浪打 そうそう、この人は偉かった。
山浦 阿部幹先生のおじさんですな。
大久保 表彰の話があったので何ですが、この記録をみると六ケ年精勤というのが、なかなか無く、月宇さんが六ケ年の皆勤か精勤かで賞状を受けているのが残っていますが。なかなか無かったんでしょう。皆勤が一名だけの時もあったようです。
戌一つが芸者一人
稲葉 月宇さんが六年生の第一回卒業生、私は第二回、佐川さんは第三回で、三人主催になって尋常六年制二十五周年記念恩師謝恩会をやりました。一人から会費二円とり、二円のお膳で小松屋でやり六年卒業の時に丁が一つあったものは、丁子一本出し、戌があったものは芸者を出せというのでやったんです。そしたら大低戌があり、大さわぎをしたこともありました。
大久保その時の成績は何でわかったんですか?
稲葉 学校からエンマ帳を借りていき、みんな読みあげたんです。アハハハ……
大久保 それでおちついた訳ですね。
山浦 会費が余るだけだったんでしょう。
スパルタの中に師弟のきづな
大久保 今と比べると、明治、大正の頃の先生の教え方は今のことばで言うとスパルタ式だったと思うが、その時の思い出話を聞かせてくれませんか。
夏堀 私からはじめますが、大矢先生に音楽の時間にいたずらをして、友達と耳をおさえられ頭をぶっつけ合わされ目から火ばなが出る程やられたが、当時の父兄は、それでも、文句を言わなかったんです。地図を掛ける竹で頭をぶたれて、怪我をし、親に聞かれたので「ころんで怪我した」と言ったが、姉が「いたずらをして先生にやられた」といってばれたこともあった。兎に角スパルタ式でした。
月宇 立たせる場合でも、そのまま立たせるのでなく、頭の上に水を入れたバケツなどを持たせられたものでした。こわい先生がいたものでした。
夏堀 なぐられた大矢先生とも東京で親子のようなご交際をしていただいたし、こわい先生ほどなつかしく、今思い出しても一番親しみがあります。
稲葉 私は柏崎徳蔵先生になぐられたんだが私達もきかなかったんですね。
大久保 その頃の先生方は非常に厳格であったが所謂師弟の間が心で結ばれていたというわけですね。私達もよく罰を受けたものですが、そういう先生程印象に残っていますね。
波打 唯なぐるのでなく、愛の鞭だったんですね。それ位のきびしい先生でなければ、生徒はついていきませんでした。今の先生などは…
柳川先生の思い出
佐々木直 長者山の別当さんが、私らが高等科になってから来ました。
大久保 ああ、柳川さん、柳川先生が::
佐々木直 「ハア、歩兵少尉だずよ、おっかねずよ。」と。ほんとにタイプからして、態度からして、ぶんなぐられそうだった。だが、たたかなかった。ただし「ぶんなぐってやる。」という言葉でぴんとしたものでした。「おっかないぞ、ぼやぼやしていられないぞ、柳川先生だとぶんなぐられるぞ」と思ったものでした。身体は大きく髭もたてていたので、
大久保 若い時から髭をたてていたんですか
月宇 はあ、陸軍中尉だったんですよ。戦争にいってちょっと怪我をした為、金鵄勲章をもらわれないというので、生徒を集めては残念がっていたものでした。
佐々木直 案外たたかなかったんですね。態度がおそろしかった。
月宇 女生徒といっしょで、石筆などを女生徒にぶつけたりすると、柳川先生はその時の級長達を二人たたせて、お前たちが悪いからだ。」といって立たせて「お前達が女生徒にぶっつけたから、お前達にためしてみる」といって、石筆の小さいのをぶっつけた。すると、この二人は顔にあたってもびくともしなかったから、先生は「感心だね、勇敢だね。」と大へんほめてくれたことが記憶にありますよ。
稲葉 それから、柳川先生のことでは、日韓合併の時、伊藤博文といっしょに季王殿下が尻内を通過したことがあるんです。その時に尻内へわれわれが両国の国旗を持って並んだものでしたが、校庭でその予習をした時、その時われわれが並んでいる前を柳川先生が髭をたてて自転車に乗って、汽車のかわりに通ると「気をつけ、礼」とやったものでした。
大久保 その頃の自転車といったら珍らしいものだったんでしょうね。
夏堀 今の自動車位の値打がありましたね。
三河 八戸では、北村益さんと柳川先生とがはじめて自転車に乗りました。北村さんは東京から持って来たんです。
夏堀 自転車の草分けですね。
月宇 電気のついたのは大正何年頃でしたっけ
稲葉 明治四十四年です。
大久保 電燈がついたあたりのお話は?
波打 その頃私は電気会社に務めていました。あなた方は電燈がついたのをみているんでしょうが、私に感謝しなければなりませんよ。会社の浮沈にかかわることに私はたずさわったものですからね:。ハハハ。
活発だった各種発表会
佐々木哲 その頃の学芸会のプログラムがあります。(プリントしたものを見ながら)これは大正三年十一月六日のものです。その種目に、男は朗読、暗誦、唱歌、対話、図画もあり、図画も描いたんです。音喜多富寿さんは、四年の時富士の山の図画、伏谷さんの奥さんは富士の山の暗誦、中村寿夫さんは黒板画をかきました。大久保正夫、今の大弥さんは談話「自分のものと人のもの」私のもありますが、高等一年の時、先生が書いた程度の高いものを暗記させられました。松木秀生のもあります。談話「あやまちをかくして」竹内きよさんというと新丁の音喜多きよさんで談話「お月さま」となっている。道合もとさんといって産婆さん、談話「応急治療の二・三」。岩見正男先生のは談話こうもり、尋常三年岩見正男となっています。中野ふみさん小学校三年生「正直なでっち。」というお話、算術「掛算九九」というのもありました。
大久保 何ですかそれは?
佐々木哲 掛算九九も舞台でやったもので、普段習ったものを学芸会で発表したものでした。
稲葉 私は高等一年の時、戊辰詔書を暗誦したことがありました。文句は忘れましたが私が暗誦している間みんな起立して聞いていたものでした。その時、ジキョウヲヤマザルベシと読む所を、ジキュウヲヤマザルベシと読んだものだから、みんなわっと笑ったものでした。
月宇 その頃、土曜日はお話の日だった。毎週土曜日に生徒にお話をさせた。しゃべる人達はよかったが、しゃべれない人達は土曜日がこなければよいなあと思いました。というのは壇上で立往生するわけです。ですから日曜日が来るのは楽しかったが、その前の土曜日はいやでいやで仕方がありませんでした。
波打 私達の時は、弁論会とか討論会というのがありました。
大久保 学校でですか。
波打 そうそう、卒業式に代表者が男一人女一人でやらされた。
山浦 その頃処女会なんかも大分活躍したような記億がありますが。大正三年ですか、あの八戸の大火があったこと、又、十三年の五月にアメリカの世界一週の飛行機が来ていますし、七月にはイギリスの飛行機が来ていますが私達はアメリカの国旗と日本の国旗をもって歓迎にかり出され又、処女会もそれに大分かり出されて活躍していましたね。はじめて八戸の白銀の海岸に着水したこともあるんですが
大久保 あれは不時着したのですか、又前もって予定したのですか。
夏掘 さあてそれはどうだったか? 小西浅次郎が通訳した。
佐川 白銀に着水した時の八戸の警察署長が困った。私もつとめていましたが、何しろ英語がわからない。誰に頼んだらということになり、女鹿さんに頼んで鮫の石田家で何とか格好をつけたものでした。
夏掘 その女鹿先生があやしげなる英語を使ったわけですね。ローマ字読みしたという傑作もあった。女鹿先生はその当時の八戸の新知識で、慶応大学の英文学を出たといううわさでした。
小井田 それは何年ごろですか?
山浦 大正十三年の五月二十二日、アメリカ機。七月十三日に英国機が来たと記録されていますからこの時でしょう。
稲葉 山浦さんのお父さんがいた頃ですか?
山浦 まだ生きていた筈です。
中沢 大正四年の写真をみると山浦さんが鬚をはやして中央にすわっています。
小井田 山浦さんは大正二年に村長になっていますね。
山浦 村長になった時のことを聞いたことがあるんですが、何でも大学を出て京都にいた時のこと、おばあさんからせんべいが送られて来たその包紙が八戸の新聞で、それに村長に当選した事がついていたというんです。「いやうるさいことになったな」と思い、二ケ月程たって、大概もうよかろうと帰ってきたら、まだ待っていたそうで、そこで当時の郡長に相談にいったら「やってみたら」と言われ止むなくやったということです。とんだきっかけで政治に足を入れたとの事でした。
旧校舎の建築と校舎移転
稲葉 そうそうこの校舎(旧校舎)をたてる時、山浦さんが村長でした。
浪打 そのころこの小中野はどうだったんですか。この辺は麦畑か、芋畑でしたなあ。
波打 麦畑もなんだけど、きつねやたぬきがおったと言われているが?
小井田 ほんとにきつねやたぬきがいたのですか?
波打 ほんとの所、新地の角に助次郎屋といって、そこの小屋があった。そこに盆踊りがあって毎晩さわいだものだ。小屋の中を調べたら大きなたらいの中にたぬきが二匹はいっていた。それに針をさして殺したという話です。又私の家が新地にあったんですが天ぷらをあげれば必ず来たものです。
大久保 旧い校舎を現在の場所に移転したのは大正十年、私は小学校一年のころですが、古い校舎を持ってくるのにコロか何かでもって来たものでしょう。そうすると家が全くなかったわけですね。
稲葉 そうです。家が全然なかったのです。真中頃にホイド宿(木賃宿)があって、そこまで来れば安心したものです。
佐々木直 その頃は雪も沢山降って、左比代のあたりで雪の落し穴に入って上れなかった小さい人があり、その人を引っぱり上げて助けたことを今でも覚えている。それ程雪も降ったわけですよ。
稲葉 この場所は、首切場のあった場所で校舎を建てるためここを堀ったら、骨などが沢山出たわけですよ。そのたたりでとか、首切り場のために小中野小学校で、運動会や遠足などがあると、雨が降るといわれているというわけで高田先生の時代に父兄会の幹部とか先生方ではらってもらったことがありました。
大久保 それでも尚も降るわけだ。やはり確かにこのあたりは首切り揚があったわけですね。
一同 そうだということです。
大久保 小学校は義務教育で授業料などは、全然なかったわけですか?
稲葉 授業料は高等科ではありました。
佐々木哲 私の頃の高等科の授業料は十六銭でした。
岩見 昭和の四・五年で五十銭ですね。
三河 先生方の給料は、師範卒で十七円、校長二十四円でしたよ。
大久保 どうもありがとうございます。