ありがとうは珠玉 Aさんのこと
七月の例会「私のありがとう」第三回が開かれた。地域交流センター「ギャラリーみち」に多くの善男善女が集まった。常連となられた方、初めての方、年齢も小学生から八十才の女性までと幅ひろい。
「あなたは今までの生涯でどなたに感謝したいですか?」で熱を帯びたやりとりがあり会場はいっぱいとなりました。
やはり人は生きているのは誰かの助けがありその想いをどこかで口に出さなければ生きている実感がないのです。すなわち誰かのお陰で生かされているわけです。「ありがとう」を言いたい、人生は長いようでいながら自然の中の まばたきほどであろうか、短い。感謝しなければならない方がおられたら、たったの今、しかないと考えよう。
参加者の石川県七尾市生まれのA子さんが「私は父親に命を助けられた、六十二年前の八戸空襲で米軍の爆撃を受けたが父親が自分の身を挺して被さってくれたので命が助かった、今、自分があるのはそのおかげ」と・・目頭を濡らしながら話して下さった。
名前や詳細な事情は本紙に出さないでくれとのことで省くが、場所は八戸市内のセメント工場。山口県から一家で転勤配属になった。優秀な技術者だったろうか、重要な人物であったか、兵士として前線には送られず此処八戸市に派遣されたようである。
住居は湊ホロキ長根、工場のすぐ傍にある小高 い場所であった。確か終戦のたった一月前、一九四五(昭和一九年)年七月十四日であったろうか。(一五日にも爆撃あった)
セメントの生産は戦争のための直接兵器ではないが本土決戦を目論んだ我が国は敵アメリカを迎え撃つ要塞や砲台の建設に極めて重要とされていた。そのためのひとつ「八戸要塞」と呼ばれる南郷地区に建設にされたものがある。高学年の生徒達は大勢動員され昼夜を問わずセメントや砂を背負い、凍てつく季節にはそりを使い勤労奉仕をさせられた。私の兄や姉もそうだった。食料も枯渇していて空腹も極限の状態ではこの作業に携わったもの達は戦争の勝利は信じられないものではなかったかと思われる。
最初は高館の陸軍飛行場が艦載機のグラマンに襲われた。それから標的は工場、橋脚、鉄路、軍艦、小型の漁船までに移った。動くものは人間も猫一匹でも機銃掃射をあびせたものだ。岩城セメント八戸工場、日東化学八戸工場が大型爆弾を無数に投下された。もう力尽きた日本軍の反撃もほとんど無く、成すがまま。(海防艦 稲木はまだ配属になっていなかったか?八戸港を守っていた稲木は翌月十日の空襲で反撃奮戦するも撃沈された。八月六日はすでに広島市に原爆が投下されている)
八戸戦争の状況の一部始終をみて実録した 花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の記述の一こまを見てみよう。
稲 木 の 最 後
八月八日日暮時大湊軍港から出港した海防艦が一隻津軽から尻屋沖を南下して掃戎に当り八戸港の西防波堤南側よりに投錨。八月に入ると頻繁に八戸港に軍艦が入港していたが、これは敵が本土上陸の作戦をたてたとみた大湊海軍司令部は太平洋沿岸警備の任を強めて八戸防衛の陣を敷いた。
その朝六時八戸港の西防波堤に投錨したのは戦艦稲木だった。
そして我々市民が忘れることの出来ない日本海軍最後の海戦を捲き起こした。稲木の艦員達は朝食前、次ぎに来る米動部隊の来襲に備えて攻撃準備の点検をしていた。グラマンは八戸沖を見逃して三沢空軍基地を空爆した。グラマンは三沢空爆から反転して鮫港の上空に姿を見せていた。稲木は揚錨の作業をしながら内火艇の揚艇にかかっていた。そこへグラマンが機銃掃射をかけてきた。攻撃を受けながらの揚錨作業で艦上の兵士は右往左往している。防御の体制が出来ていないが艦砲が鳴り渡っていた。全くの不意打ち同様の攻撃をうけたので甲板の上は沢山の兵士が飛び跳ねているのが見える。鮫角高台の上空からロケット砲と機銃で二列三列になって撃ちまくってくる。稲木からの艦砲をかわして又戻ってくる。揚錨が出来ない稲木は戦闘能力はガタ落ち、文字通りの釘付け状態。グラマンは主に艦橋を狙ってのロケット弾を雨のように射かける。艦全体がロケット弾で吹き荒れている。その中で大砲を発射し機銃を撃ち、応戦をして敵機を近ずけまいと懸命に頑張っている。稲木も又死力をつくして反撃します。錨を引きずっての戦いですから左舷の三速機銃はつかえない。稲木の砲撃も敵機に標準を定める余裕がなく滅多やたらな弾幕をつくる撃ち方だったが狙いが定まってくると艦砲はグラマンの飛翼をかすめてうなりをあげ、右舷の二連装機銃の弾丸はグラマンの尾翼に被弾。左舷の機銃は使えず片肺攻撃だが機関銃、艦砲が能力全開。蕪島上空から低空で稲木に向いロケット弾は直線に延びて橋上をかすめ海に消える。稲木も前門後門の高角砲の砲口は赤味を帯びてパッパッと火焔を発し、砲弾を二連発してグラマン向っていきます。それが一瞬にしてグラマンの飛翼に当り破片が四方に散ります。右サイドの三連装機弾は列をなして飛び、蕪島低空から襲う敵機に命中して行きます。沖防の彼方にきりもみをしながらグラマンが火を吹いて落下。鮫港の空は火と煙に覆われて八戸沖を見えなくしていった。
鮫灯台から回りこんだグラマンの一発のロケット弾が稲木めがけて走っていきました。弾丸は一直線に目に見えてのびていきます。真昼でも白い閃光となって飛行し、行きついた先の艦尾で物凄い火焔が横なぐりに広がり、巨大な火の玉が艦上を揺さぶって宙天に跳ねあがった。轟音は耳をつん裂き、鼓膜を一時不能にした。爆煙は艦尾を覆って大小の火の玉が花火の様に煙の中から飛散します。もくもくと真っ黒い煙が艦橋をつつみ、更に艦首に流れて来ます。稲木は除々に艦尾を重くして艦体を傾け海中にかくしていった。
そしてこの海防艦稲木が最後を遂げた次ぎの日、十日、日本政府はスイスとスウェーデンを通じてポツダム宣言を受諾する事を認め、連合国側に通知をしていた。第三艦隊司令長官ハルゼー将軍は洋上でこの日本降伏の通知を受けていたのですが尚も日本を痛めつけようと太平洋岸全体の都市猛爆の命令を指令していたのです。
花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の原文抜粋
話しはまた戻る。A子さんの母親は身重で下の子ひとりをつれて山口の実家にお産に帰郷していたそうな。父娘で戦時下の留守をあずかっていた。工場は無数の直撃弾で壊滅。いくらも離れていない住居も爆風だけで破壊された。グラマンからの機銃掃射は12.7㍉機関砲、もし当ったら身体は原形をとどめなく砕け散る。
その時の詳細を尋ねたが、Aさんは首を横に振るばかり。
父の命を懸けた子への愛情をひしとうけとめ現在までこの珠玉(宝石としての玉)は胸のなかに大事に大事に仕舞いこんで来たものだろう。目頭の光るものがそれを物語る。
ひとには、それぞれの生きた歴史がある。現在のように混沌とした社会の風潮を真っ直ぐに進むのは至難である。暴風である。人生にも遭難、難破がある。結婚式では新しい船出として祝われるが、一生、安閑として過ごすものなど唯ひとりとしていないのだ。Aさんはこの珠玉、時をみては取りだし磨いてきた。そして今燦然と輝いているのではなかろうか。
「親は子を命懸けで育てること」これは人間が発生?した太古から当然のこととして行われてきたものであり、とりわけこの項で述べるまでではないが、しかし、この行為は簡単そうで容易なことではない。日常、自分だけを維持するだけでも精いっぱいなことである。だが、生き物はすべて自己犠牲があってこそ成り立っているのだ。
Aさん、このことは普段の会話では軽やかに口にはしないであろう。宝物は、とても勿体無くて、そう簡単に他人の眼にも耳にも晒せないし、晒したくない。そんな思いではないだろうか。詳細を拝聴出来なかったので推測の域をでないが、Aさんはこの親御さんの意志を受け継ぎ、子を立派に育て上げたのではないだろうか?「現代の親たちよ!子は命懸けで育てよ!」と教えられた思いである。子は親の背をみて育つ。古くからの格言である。しかし、現代、子殺し、親殺しが日常の茶飯ではなんとも嘆かわしいではないか。「しっかりしろ日本!」と声を大きくして叫びたい。蛇足であるが、同じ時、A子さんの所と対岸、私は小中野の防空壕にいた。五〇メーターほど離れた湊橋に直撃弾をうけた。250キロ爆弾破裂の地響きで身体が飛ばされ頭が天井にぶつかった。国民学校三年生、子供ながら「この先はどうなっていくのだろう」と不安感でいっぱいであった。空襲警報解除。橋の中央に人の落ちるぐらいの穴が空き、夏の川面がキラキラ光っていた。一年前には朋友と、ここで泳いだり、釣りをしたりして遊んでいたものだった。その日のうち親戚をたより、岩手との県境「梅の木」という家が三軒だけの村にお世話になった。翌日もグラマンの爆撃は続いていた。山の上の大木に登りセメント工場の爆撃をみていた。爆撃音は耳には入らなかったが私の登っている木の頭上を低空で飛行するグラマンには首が縮まったものだ。あの爆撃の下では何人の人が死んでいるのだ。子供心にもそのように思い暗い気持ちであった。記録では民間人だけで数十人と言われているがもっと多いのではなかったか?詳細はわからない。
文責 風天弘坊