2008年2月1日金曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 12

西有寺時代第一期
 穆山師は、京浜間を巡教中に、横浜市の財界の大物太田治兵衛さんに、「新らしい寺を建てたら行ってやる」という口約束をしていたのであります。ところが、太田氏は鎌倉にあった光明寺の本堂を買い求めて、中区大平町に地をトして一寺を建立し穆山師を開山として拝請したのであります。これを聞いた穆山師の熱心な信者、宮田牛岳居士が猛然として反対しました。その理由は「横浜は商業地帯で、仏法修行の場所には適さない、もし伝心寺で生活が苦しくなったら、東京の信者達が如何ようにも方法を講じて生活は保証してあげます」という長い手紙を穆山師に寄せて横浜にゆかぬように懇願した。穆山師は、その手紙を押し戴いて、
「さきに横浜の信者に懇望された時、寺を立ててくれたならば来てやると約束しておいた。その寺が出来だのだから往かぬわけにいかぬ、火事に焼け出されたと思えば苦にならぬ、半年の間維持することができれば、きっと仏法修行の道場にしてみせる」と返事を出し、敢然として約束実行に起ちあがられたのであります。穆山師は可睡斎時代に用意された貴重な御袈裟や、法衣や、白めのうの珠数などを売って、
 「これで半年はもつ、半年もてば西有寺が、きっと叢林(そうりん・禅寺)になる」
といって、十五人の門下僧をつれ、島田の伝心寺を出て西有寺に乗り込まれたのであります。
当時のことを岸沢師が「私達弟子どもは、禅師の袈裟、衣を食べて、修行させて戴いた」といって提唱の度毎に泣いたものであります。そして穆山師自ら街頭に立って市内の托鉢をせられたのであります。この姿を見た上野氏(貴族院議員)とか渡辺銀行頭取等、横浜の政財界の大物を始め多くの人々が感激して、穆山師の托鉢姿を拝み西有寺の信徒となり、修行憎も穆山師の徳を慕って雲集し、誰も彼も働きながら参禅弁道して、無信仰といわれた横浜商業都市に仏法修行並びに布教伝道の大道場が忽ち出現したのであります。穆山師は他の結制修行の助化師(最高指導者)もまた授戒式の戒師もことわって、寸陰を惜しみ、専ら西有寺に於て、竜象(聖者・高僧を威力ある竜や象にたとえていう語)打出に専念せられたのであります。その気持を西有寺の聯(れん・柱または壁などの左右に、相対してかけて飾りとする細長い書画の板)に、
   光明山上一切の群類を照破し
   西有寺裏無量の佛陀を打出す(原漢詩)
と、力強く刻みこんで居られます。
 光明山は西有寺の山号で、最初の本堂を鎌倉の光明寺を買って来て建てた因縁により名づけたといわれます。
 穆山師が西有寺を開創し、これに力を入れられた目的は、法孫門弟の教育にあるといわれています。明治二十六年開創以来の経過をたどると、これが実証されます。二世玉田仁齢は、穆山師を補佐して認可僧堂を開設し、その後宗門制度の改変により、西有寺専門僧堂、西有寺禅林、曹洞宗第八禅林等名称の変化はあったが、歴代の住職は能く穆山師の御意志を継承して、財団法人西有専修学校を併設して、宗門第一の禅林、人材養成の専門道場として、昭和二十年大東亜戦の空襲で全施設を焼失するまで、多くの竜象を打出したのであります。
 又、その教育面に如何に力を注いだかの片鱗として、僧堂配役の主なるものをあげると、西堂には秋野孝道禅師、栗山泰音禅師、眼蔵会講師岸沢惟安老師、後堂には神保如天老師、安藤文英老師、(総持寺監院)、講師として、前駒沢大学総長榑林皓堂博士、永久岳水博士、藤田俊訓師、小川達道師、准師家都寺として細川石屋師(総持寺監院)等でありました。又歴代住職も、三世佐野良光師は僧堂禅林の経営に力を入れたことは勿論、宗政方面では宗門の教学部長を勤め、又大本山総持寺侍局長を勤務し、四世西沢浩仙師は曹洞宗宗務総長という宗政最高の要職及び永平寺顧門を勤め、五世横山競禅師(青森県出身)は灰塵に帰した諸堂を復興し、宗議会議員として宗政に参与し、大本山総持寺顧問の栄誉を輝かして遷化せられたが、現住六世横山敏明師(穆山師の曾孫)も開山禅師の祖訓を奉じて現代社会に相応した専門僧堂復活の意欲に燃えているから西有寺の将来は期して待つべきものがあります。
大本山総持寺時代(自八十一歳至八十五歳)
 組織は人によって高められもし、又下げられもするものである。
 大本山総持寺は穆山禅師をお迎えして、その評価がより以上高められたと思います。禅師は鳳仙寺住職時代既に本山の代理となって、東北、北海道の巡教及び開拓に不惜身命に御働きになり、又総持寺出張所監院を勤められ、更に可睡斎時代には水平寺西堂職、及び曹洞宗管長事務取扱を勤務する等両大本山に対して公平に御勤めなされています。門下生及び法孫の人情からすれば、眼蔵の最高権威者であり、常に御開山、御開山と道元禅師讃仰に徹していた穆山禅師であるから、宗祖の御膝下永平寺様の貫首にしてやりたかったと思うのも無理からぬ事と思いますが、人事は時の運もあるから、穆山様が永平寺の貫首にならなかったからと云う理由で穆山様の価値が下るものではない。明治時代に於ける宗門は勿論、各宗各僧中穆山様の道誉は最高で、教化範囲と感化力も最大であった事は何人も異議の無いところでありましょう。寧ろ私は、大火災で困窮している大本山総持寺を復興する為に穆山様を貫首猊下(げいか・各宗の管長の敬称)として推戴(すいたい・おしいただくこと。特に、団体などの長としてむかえること)するように働かれた石川素童監院老師の明鑑と大英断に最大の敬意を表すべきであると思います。石川監院は穆山禅師の後継者として、総特寺独往四世となり、本山を横浜に移転する大事業を敢行せられ、本山中興の称号を戴いて居りますが、その本山を概記して穆素(穆山素童)両禅師の偉徳を称讃したいと思う。
 総持寺は元亨元年(一三二一)瑩山禅師の開創であります。もと能登国石川県鳳至郡門前町にあり、真言宗諸嶽寺と称して、天平年間行基菩薩の創立した古道場でありました。元亨元年住職定賢律師の請をうけて住職となり、諸嶽山総持寺と改称し、律宗を改めて禅宗の寺としたのであります。同年後醍醐天皇から仏教に関する十種の勅問を受け、即時奉答致しました所、その奉答が大変叡慮(えいりょ・天子のお考え)にかないましたので、勅使を派遣して紫袋を賜い、また蔵人頭左近衛中将藤原行房の筆になる。勅額「総持寺」を下賜、ついで同二年曹洞宗出世の道場に補任するとの綸旨(りんじ・蔵人くろうどが勅命を受けて書いた文書)を賜いまして、総持寺はここに曹洞宗の本山、勅願の大道場となったのであります。
 徳川幕府初期以来明治維新までは、列祖の法制により、五院門派から本寺へ輔佐する制度でありましたが、維新と共に廃止され、独往制となり、一宗の公選により貫首を選定し、歴代貫首は禅師号を勅賜されることになりました
 明治三十一年四月十三日、大法堂から出火し、若干の建物を残してほとんど烏有に帰したのであります。
 明治三十三年、長野県北部の宗門寺院住職と檀徒から、本山を東京へ移転すべきであるとの請願が出され、本山再興問題は複雑となった。この非常時にあたり、明治三十四年三月十九日、八十一歳の高齢を以て、一宗の公選により、穆山禅師が、大本山総持寺独往三世の貫首となり、同年六月十九日、明治天皇より、直心浄国の禅師号を勅賜せられ、本山再興の最高責任者となられたのであります。穆山禅師は、明治三十五年一月元日、宗制の定める所により、曹洞宗第七代目の管長に就任し、拝賀参列の為、宮中に参内しました。侍者が、参内用に頭巾を新調したのでありますが、寸法が大きすぎて、ガブガブして目をふさぐので、侍者伊藤覚典和尚さんが、真綿を丸くして、頭廻りの芯として、明日は、二頭立の馬車で参内致しますということになり侍者にまかせた。いよいよその頭巾をかぶって参内し、相見の間で、しばらく待っていると、陛下の御出御というので、頭巾を取ると真綿の芯が真白に、そりたての頭にひっかかって残ってしまったのであります。御伴をして参りました八戸南部旧藩主南部利克さんが、あわてて、真綿を取り除いてあげようとしている様子を御簾の中から御覧になっていた明治天皇の「そのままでよろしい」という御声と共に笑い声が聞えたのでありました。八十二歳の老禅師様、光栄であると共に恐縮したのであります。
 禅師は監院石川素童師に命じて再興の策を錬らせたのであります。明治三十五年五月二十八日、移転先として横浜市鶴見の地形を、栗山泰音総持寺東京出張所副寺に探検せしめた。明治三十六年六月十八日、栗山出張所副寺、石川本山監院の両人をして、鶴見の移転地を撰定せしめ、ここに大本山移転を内定したのであります。私はここで一言しておきたいことは、本山の移転方針及び移転先の撰定は、恰も栗山副寺と石川監院とが密かに勝手に穆山禅師の御許可も得ずにやった如くに書いている宗史家があるが、そうした見方は三禅師の徳を損ずるものであると反省を促すものであります。歴史はありのままに書いてこそ価値があるものと思う、のみならず宗教界に於て、宗門の浮沈にかかわる本山の移転問題を最高責任者 最高権限者である貫首の承認も得ずに決定したとなると、宗権根本の破壊となり宗門の破滅を招くことになる。西有穆山禅師が明治三十四年三月十九日より同三十八年まで大本山総持寺貫首であられたのだから、その間の権限と責任は禅師にある。然らばその間の決定事項は穆山禅師が決定したことになるは当然であります。偉大な宗政家石川禅師と俊英の宗史家栗山禅師の御二人はこうしたことを誤る筈がない。況んや、穆山禅師と石川監院との間は後に述べるようにまことに親密であった点を合せ考える時、この問題を取扱う史家は、三禅師の功罪共に判然とする必要があると思う。
 穆山禅師は、本山移転再興の方針も確立し、八十五歳の老齢にも達し、再建担当の適任者も得たので、明治三十八年、移転復興の最高責任者となって、思う存分その力量を発揮せしめる為に石川素童監院をして貫首たらしめ、横浜市の西有寺に退隠したのであります。
 明治四十二年、朝廷より総持寺に、本山鶴見移転建設の援助金壱千円を賜わりました。同四十四年石川禅師は大英断を以て現在地に移転再興したのであります。穆山禅師は、明治四十一年八十八歳の時、総持寺貴賓室である紫雲台の大扁額と、大庫院接賓室である香積台の大扁額(二つとも幅九尺、高さ四尺)を、石川禅師の依嘱で揮毫して、石川禅師の再建促進を激励し祝福したのであります。現在その大扁額が、両玄関に各々高くかかげられて、穆山禅師の徳を讃えているのであります。この大本山は、境内十五万坪、山門、太祖堂(一万人収容可能)、勅使門等三十数棟を有する大禅苑となり、諸堂いらかをならべ、末寺一万五千余ケ寺を持つ我国屈指の大本山となり、日本仏教を代表する国際的大本山として国際的会場としても活用されています。穆山、素童、泰音の三禅師が、両大本山が各々特色ある活動表もあって、まあまあよかったなと眺めていらっしやることと思います。