前号に引き続き八戸選管のいいかげんな体質を暴露。投票用紙の検査がズサンであったことは、青森選管が示したとおりで、八戸選管に睨まれたらどんな議員でも当選はおぼつかない。吉田ひろじを吉田ひろしと書いても無効票だった。
つまり、どんなに正しく書いても、無効だと言われれば抗弁できない。八戸選管が下した決定はくつがえさないからだ。吉田淳一落選が、票の再点検をして欲しいと異議申し立てをすると、中身の検査ではなく、投票用紙だけを数えなおした。漫才なら天然ボケでうけるところだが、娑婆世界では顰蹙(ひんしゅく・顔をしかめさせる)。だれが、投票用紙だけを数え直してくれと要求した。これを決めたのは選管委員長の駒場。この男の意向で総てが決まる。事務局長は玉田。これまた陰険の塊。
気に入らない人がいたときは、その課の金の流れを衝けばいい。かならず間違いがある。これは一○○%ある。しかし、丹念に見ることが肝要。この玉田、駒場の物言いが気に食わないので徹底的に調べた。
選挙は四年ごとにある。市議、県議、市長選、国政である衆参議員は別の年次計算があるが、毎年選挙があると思って間違いはない。
この選挙費用は県から出る。その金の使い方を情報公開で調べた。
すると、いいかげんな金の使い方をしていた。この県からの金は返す必要がない。使いきりでよいことに着目し、本来の選挙以外に消費した。選管職員がつかいこみをしたのではないが、選挙の前に金が送られてくることを勿怪の幸い(もっけのさいわい・思いがけぬ好機)とばかり、選管が働きかけて、八戸市役所内をメガホン片手に、欲しいものはありませんか、選挙の費用がまたまた、青森県から参りました。日ごろ、予算がない、買いたくても金がないと、お困りの課がありましたら、わたくしが通りすがりましたら、お手を挙げてお知らせください。毎度、皆様おなじみの八戸選挙管理委員会、選挙の都度、各課の皆様に、県費、県費をもって、欲しい品々を、無料、無料にて提供させていただきます。中央公民館さまにはコピー用紙、コピー用紙を三年分、無料、無料にて進呈いたしました。
このお金は八戸市民から頂戴いたしました、税金、血税を以って購入し、各課に無料、無料にて進呈するものでは決してございません。全て、全てを県から送られてくるお金、これは返金する必要など、指の先ほどもございません、市民の税金の無駄をはぶき、県を騙して各課の利便をはかる、とても巧妙、かつ合理的なものでございます。メガホン片手に各課を廻っております、御用の方は手を挙げてお知らせください。とても便利、青森県を騙しての特別サービス。毎度おなじみ選挙ごとの椀飯振舞(おうばんぶるまい・(「大盤振舞」は当て字) 江戸時代、民間で、一家の主人が正月などに親類縁者を招き御馳走をふるまったこと)です。
こんなことは勿論言わないだろうが、選管が備品として購入したことにして、必要な課に差し上げたのがロッカー。そして、上の折りたたみ椅子・テーブル等々。出るわ、出るわ。
このロッカー・キャビネットの流れを解明。
これらは一旦、八戸選挙管理委員会が購入したことにする。実際はこの品物は要望した課に搬入される。購入した品物は備品台帳に記載しなければならないので、選挙管理委員会は備品台帳に当該の品物を記載し、備品管理シールを貼る。
この流れを解明するべく、情報公開の部屋(総務・旧館二階)から新館の五階、選挙管理委員会の部屋に行った。
備品台帳は? これです。
これにはテクノルから買ったと書いてあるが、この部屋の何処にあるのか、この備品台帳と照合できるのか
おかしいな、どこにあるのかな…、正直に申し上げます、これは資産税課にあります
すると、選挙管理委員会が県の金を騙して消費し、ロッカーを買った。それが、夜中にひとりでに資産税課に歩いて行ったのか?
……(無言)
そうではあるまい、県がこの選挙費の明細を求めないことをよいことにして、本来必要でないものまで買って、適当に分配したな
……(無言)
本当に資産税課にあるか確認する
ト、資産税課、同様の手口の財政課を廻り、本来選管になければいけないロッカー等を確認。この金は選管職員が私的に飲み食いしたものではないが、他の課の備品を代理購入した手口。
上の表では見難いが、テクノルの右に資産税課と書き込みが鉛筆でなされている。
当然、こうした不正を選管委員長駒場、事務局長玉田は知っている。知っていながら、それをさせるは公金不正消費で、この金は県に弁償しなければならない。
今回あばいている事件は平成十五年の青森県議会選挙においてだ。
こうした手口で県の金を騙し取っていたのだ。挙句、八戸市民の金でなく、県の金ですト。県の金でも国の金でも、国民の税金だ。悪いことは誰がみても悪い。極悪非道はこれをさす。
八戸市民の血税を使わず、県を騙して使ったんだから勘弁しろと言いたいのだろうが、そうはいかない。
こうした金の不正消費は八戸選管には沢山ある。読売新聞が報道した蛍光灯の問題。これも蛍光灯を多量に買い、公民館にくれたト。まだある、写真のフイルムを多量に買い、その現像料がメチャ少ないなど、金の流れを追えば、誰しも抗弁ができない不正が発覚するもんだ。
しかし、ある程度、経理感覚がないと、何を見てもノンシャランじゃ、不正を見つけることはできない。気に入らない人間がいたら、金の流れを追え。必ず不正が見つかるもんだ。どうも、八戸市役所は全てにおいていい加減な処理をしたがる。
旧館の地下に互助会が委託し物品販売をさせている生協がある。ここは前にも解明したように、市長が職員互助会長である市長に貸している。ここは毎月六十万だかの経営委託料を支払っている。つまり赤字でも六十万の毎月の援助があるというシロモノ。
ここは壁の中だけを借りているが、壁よりはみでて物を陳列する。そこは通路で、火事になれば万人がそこを走りぬけなければ焼け死ぬ。陳列する場ではなく避難路なのだ。そこに物をならべるなと再三通告。消防法違反で、事故が起きる前に検察庁に訴えると言ったら、やっと守るようになった。事故が起きてからでは遅い。小さなことでも守る姿勢が大事。市民各位も地下の生協の避難路への物品陳列を監視せよ。
次号はいよいよ、駒場委員長の所得税法違反事件解明の全貌。
2007年10月1日月曜日
八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる1
唄に夜明けたかもめの港
船は出て行く南へ北へ
鮫の岬は汐けむり
八戸小唄あれこれ
昭和三十六年元旦 デーリー東北新聞
本当の作詞者 法師浜氏から聞く
八戸市の代表的民謡として全国的にうたわれている「八戸小唄」は神田市長と市政記者の合作とされてきたが、実際の作詞者は法師浜直吉氏である。一部の人は知っているが、当の法師浜氏もこのことについて、いままで一度も語っていない。作られた当時のいきさつについても誤り伝えられたりしているので、この機会に覆面を脱いでいただき、当時の事実を明らかにしておくことも意義あると思うので、同氏にお願いして「八戸小唄」について、あれこれ語っていただいた。(聞き手角田本社編集局長)
八戸の宣伝が端緒
発起人、作詞背負わされる
問い これ以上本当の作者の名を伏せておくことは市民感情も許さないと思います。ご無理をお願いするわけです。
法師浜 八戸小唄のことは、こんにちまで名前も伏せてきたのですが、きょうは表面に立って小唄のことを話せと言われますと、いささか恥ずかしいことです。三十年ぶりで覆面をひっぱがすことですね。
問い まず最初に作られた当時のいきさつは?
法師浜 市役所の記録によりますと、唄の発表は昭和七年三月になっているそうですね。私は当時東京日々新聞(毎日新聞)のここの通信部主任でしたが、昭和六年二月三日に鮫の石田家で「八戸を語る」座談会を東日の主催で開きました。まだ埋め立ても魚市場もなく、石田家の座敷の下に太平洋の波がひたひたと押し寄せているころでした。
出席者は神田市長、遠山市議会長、市会議員の石橋要吉さんや経済人三、四人、それに元芸妓の三平(石橋トラ)、芸妓才三(橋本こと)さんたち十二、三人でした。話は市の発展ということになりますと、なんと言っても八戸を世の中に宣伝しなければならない。それには「八戸小唄」でも作る必要があるという話になりました。この日の座談会の記録(東日青森県版の記事)を見ますとこう書いてあります。
菊池(東日青森主任)八戸小唄というようなものを作って、八戸市を紹介するということも必要ですね。
才三 それで私は考えております。八戸宣伝にもなりますし、市になった記念にもなるように、だれか名のある方に願って、名のある方の作曲で、八戸というものがピリっと頭にしみこむような唄がほしいのです。それで計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから、市長さん方のお声がかりででもやっていただくように願いたいのです。
三平 実際唄はたいへん宣伝になるものです。
才三 この辺でも、ようやく足が立ったばかりの三つの子でさえ「草津よいとこ一度はおいで」とやります。草津はよいとこか悪いとこかわからなくても、とにかく、歌われるだけ広く知られているのですから。
無名より有名で 神田市長と合作に
その年の夏だったと思いますが、座談会のときの小唄のことがなんとなく気にかかっていたので、神田さん(市長)に話をもとかけたら「よかろう。計画をすすめてほしい」ということです。当時も市政記者クラブがありましたので、その全員の協力をたのんだら、各社もこころよく賛成してくれたから、ある日、市役所の市長室で神田市長を囲んで打ち合わせをしました。記録はありませんが、この時は、工藤有厚(河北)三浦広蔵(奥南)下野末太郎(時事)峰正太郎(奥南)伊藤周吉(朝日)佐々木要市(はちのへ)角田四郎(八毎)、それと私と、ほかにもいたかも知れません。まず、作詞をどうするか、委員を何人かあげて合作にするかなど意見がありましたが、結局一人に任せた方がいいという話になり、法師浜に一任というわけで、発頭人が自ら背負ってしまう結果になりました。
神田市長が作った「鮫の岬」
作詞中のころ、ある朝、市長室に入っていくと、神田さんがニヤニヤしながら和服のたもとから一枚の便箋を取り出しました。
「歌なんて難しいものだね」と、小唄の歌詞の一節が書いてありました。
「これは私にください」と、ポケットに納めました。この中から「鮫の岬が汐けむり」の一行をもらって歌詞に織り込み、第一節にしたのです。才三さんの話ではないが、無名人よりは「名のある方」の方がいいのですから、出来上がった歌詞を市長にもって行って「市長さんの名前も出させてください」と言ったら「フフン」と笑ったんです。その「フフン」を承認と受け取り。のちにレコード吹き込みの時に、作詞神田市長・市政クラブ員と書いたのです。
野口雨情は「歌に明けたよ」
弱弱しいと「夜明けた」にする
問い 何かエピソードでもありませんか
法師浜 歌が完成して間もないころ、毎日新聞の当時の奥村信太郎社長が視察に来八したとき、車で鮫へ行く途中、どっかで八戸小唄の声がしているのを聞いて、案内の者が「社長、あれは法師浜君が作ったものですよ」とへんなところで暴露した。せっかく点数をかせごうとしているのに油を売っている尻尾を出してしまった。社長は黙って小唄を聞いていましたが、「野口雨情くそくらえか」とニヤリとしました。 その後、八戸の文人グループが野口雨情を招き、石田家に一泊し湊の館鼻まで私たちが案内したことがありました。野口さんは縞の着流しでトボトボ歩いていましたが、歩きながらたまたま八戸小唄の話になったら、
「なかなかいい歌だが、僕に作らせると唄に明けたよとするな」と言いました。私もなるほどと思いましたが、実は作った最初は「明けたよ」だったが、ある友人に明けたよという歌がどっかにあった気もすると言われたので、なんとなく気になって、そんな弱弱しい「よ」などよりは、もっと線の太い「夜明けた」に変えたのです。
とにかく、できた当初からなにやかやと話題になる歌でした。こうして歌の完成までかれこれ一年ちかくもかかったでしょう。
後藤氏 尺八譜で口伝
大きい芸妓連の協力
問い 作曲や振りつけなどでも苦心されたとうかがっていますが。
法師浜 そのころは新しい曲の小唄ばやりでしたが、神田市長が
「歌はやはり古い民謡調でなければ長持ちがしない。仙台放送局の嘱託で後藤桃水という民謡研究と尺八で知られている人がいるから頼んでみよう」と言うことでした。後藤氏も引き受けてくれました。この人は民謡の歌い手の上野翁桃君の師匠とかいう話でした。
問い 最初に曲を聞かされたとき、どう思われましたか。
法師浜 曲が出来たというので、後藤さんがやってきました。踊りの振り付けとして吉木桃園という女の人を連れてきました。後藤さんは、ちょっと白いもののまじった長いアゴヒゲを持ち、体格のがっちりした剣道師範のような感じの人で、吉木さんは背の高い袴をはいた学校の先生のような方でした。
この歌をつくるために石田家の主人、石田正太郎さんが一役買って「小唄つくり」の会場を引き受けてくれました。まず鮫と小中野両見番から芸妓代表の人たちにきてもらい、上野君にもきてもらって「小唄のおさらい」をはじめたのです。作曲といってもこんにちのように普通の譜面ではなく、尺八の譜をもってきて、後藤さんが手拍子をしながら歌うと、みんながあとについてまねるといった、あまりにも古典的すぎる方法で、いわゆる口伝練習だったのです。洋楽の譜面などができたのはあとのことです。後藤さんが言うには
「作詞者にまず聞いてもらい、気にいるかどうかで、まずいところがあれば変えましょう」というので私と対座して歌い出しました。一節を聞き終わって、私は正直のところ心の中では直ちに拍手を送る気持ちになれませんでした。せっかくの作曲者のお話でしたから、ちょっと気にかかるところがありましたので、変えてもらいました。
それでOKということで、練習が始まりました。誰もいいとも悪いとも言いませんでしたが、石田さんだけは「ウン、これはいける」と言っていました。だんだん聞き慣れると、波の感じを出していることや、作詞を忠実に表現しようとした苦心などがわかってきて、歌い続けるうちに、みんなの「わが唄」に変わってきました。
これは三味線をつける曲ですから、三味線はさすがに餅は餅屋で、芸妓諸君は後藤さんと協議しながらその場で直に曲ができた。その晩のうちに振りつけもやった。これも芸妓諸君の協力で作りあげたのです。
歌詞は最初四小節でしたが、稽古中にみんなに「四は数がよくないので、五にしてください」と言われ、そのころスケートも加えて欲しいという希望もあったので、その場で、石田家の帳場で第五節をつくって追加し五つにしたのでした。
神田市長仲裁に
売れ行き良好 レコード会社喧嘩
問い さて、出来上がったというので、宣伝にも力を入れたわけでしょうが、どんなふうだったのでしょう。
法師浜 地元の小中野、鮫の料亭の宣伝はもちろん、神田市長はなかなか力をいれ、まず東京日東レコード会社に交渉してレコードをつくらせるし、仙台の放送局からも放送させました。
レコードは会社負担で最初千枚作ったそうですが、のちに数千枚売れてローカル盤としては記録破りと言われたものでした。放送もこんにちのように放送局から出張して簡単にテープに録音するといったわけにはゆかなかったんです。レコードを作るにも放送をするにも、歌、三味線連中を選抜して稽古をしたうえで、大勢で東京や仙台へ出張したわけです。芸妓諸君でさえも、みんなおぼえたつもりでも、いざレコードに吹き込むとなると、ふだん歌っているのと違って固くなるし、なかなかうまくゆかない。「本番OK」まで何回も稽古を続けました。
妙な話ですが「一任」はただ作詞だけのつもりでしたが、踏み出してみると途中でやめるわけにはゆかない。こんなことをしていたら新聞社からクビになりはしないかと、ビクビクものでコソコソと石田家に通ったわけです。
当時中心になっていた見番の人たちは。鮫は才三、かの子、梅太郎、まり子、小中野は三吉、粂八、まる子などといった顔ぶれと記憶していますが、小唄に関しては、たれかれの区別なくみんな熱心にやりました。時にはレコードの売れ行きがいいためか、レコード会社が製作競争してケンカになり、そのシリを市役所に持ってきて、やむなく神田市長が東京へ出かけてレコード会社の仲裁に立ち、おさめたという一幕もありました。
成長ぶりに思わず涙
くずれてきた節だが本場は立派
旅暮らしになつかしい歌
問い 作者である法師浜さんは県外に出られ、そこで八戸小唄が全国的に歌われてゆくのを見ておられたわけですが。
法師浜 私は昭和十三年からは旅に出ましたから、その後の郷土の様子はわかりませんが、思うに郷土のみなさんがみなさんで「わが唄」という郷土愛が大きい力となってひろがって行ったのだと思うのです。
旅から旅に暮らし続けてきた身にとっては、ふるさとの歌を聞くこと、こんな懐かしいものはありません。いつか常磐線の上り列車の中で隣のボックスにいた三人連れの中年紳士が、額を集めて手帳を出し、小さい声で唄の練習を始めました。それがなんと八戸小唄でした。八戸から仕入れてきたばかりの唄を復習しているらしい。すぐ側で見ていて私は思わず一人笑いをもらしました。ときには八戸小唄を聞かせてくれた人もありました。
近年のことですが、コロンビア会社で八戸小唄を作り変えた「つるさんかめさん」問題は当時私は東京にいて郷里の騒ぎをよそごとのように見ていましたが、東京でも話題になりましたし、このとき「八戸小唄」が新たに名を売ったことは事実でしょう。
問い 最近の感想は?
法師浜 歌が出来てから三十年になりますから、最近は節が崩れております。東京の人が吹き込んでいるレコードの中にはひどいのがありますし、有名な歌手も多少の崩れがあります。
私は去年の八月、二十三年ぶりに郷土に戻りましたが、驚いたことには、さすがに「わが唄:だけあって、本場の八戸小唄は立派に育っていると思いました。
去年の秋の運動会のころ、学区運動会前夜祭とかいう踊り大会を柏崎小学校へふらりと出かけてみたら、広い校庭いっぱいに、おとなも子どももそろって八戸小唄を踊る立派さを初めて眼の前に見て、ただなんとはなしに頬の濡れるものがありました。
法師浜氏略歴
八戸市出身、毎日新聞入社、盛岡、新潟支局長、北海道総局長、東京本社地方版編集長、同地方部顧問を歴任、現在同社名誉職員。
この法師浜が著作権を手にし、それを八戸市に寄贈。その時、従来手にした三十万円も出した。わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。
(出典・法師浜著、唄に夜明けたかもめの港)
こうした好意で公会堂基金が出来た。その詳細は次号に掲載。基金の主旨、寄付行為の覚書を教育員会に開示請求をかけているので、それを待って紹介予定。
それにつけても教育委員会は妙な所で、仕事をいいかげんにしようと心がける場だ。おいおいその証拠を見せるが、教育長の何たるかを自問せよ。
船は出て行く南へ北へ
鮫の岬は汐けむり
八戸小唄あれこれ
昭和三十六年元旦 デーリー東北新聞
本当の作詞者 法師浜氏から聞く
八戸市の代表的民謡として全国的にうたわれている「八戸小唄」は神田市長と市政記者の合作とされてきたが、実際の作詞者は法師浜直吉氏である。一部の人は知っているが、当の法師浜氏もこのことについて、いままで一度も語っていない。作られた当時のいきさつについても誤り伝えられたりしているので、この機会に覆面を脱いでいただき、当時の事実を明らかにしておくことも意義あると思うので、同氏にお願いして「八戸小唄」について、あれこれ語っていただいた。(聞き手角田本社編集局長)
八戸の宣伝が端緒
発起人、作詞背負わされる
問い これ以上本当の作者の名を伏せておくことは市民感情も許さないと思います。ご無理をお願いするわけです。
法師浜 八戸小唄のことは、こんにちまで名前も伏せてきたのですが、きょうは表面に立って小唄のことを話せと言われますと、いささか恥ずかしいことです。三十年ぶりで覆面をひっぱがすことですね。
問い まず最初に作られた当時のいきさつは?
法師浜 市役所の記録によりますと、唄の発表は昭和七年三月になっているそうですね。私は当時東京日々新聞(毎日新聞)のここの通信部主任でしたが、昭和六年二月三日に鮫の石田家で「八戸を語る」座談会を東日の主催で開きました。まだ埋め立ても魚市場もなく、石田家の座敷の下に太平洋の波がひたひたと押し寄せているころでした。
出席者は神田市長、遠山市議会長、市会議員の石橋要吉さんや経済人三、四人、それに元芸妓の三平(石橋トラ)、芸妓才三(橋本こと)さんたち十二、三人でした。話は市の発展ということになりますと、なんと言っても八戸を世の中に宣伝しなければならない。それには「八戸小唄」でも作る必要があるという話になりました。この日の座談会の記録(東日青森県版の記事)を見ますとこう書いてあります。
菊池(東日青森主任)八戸小唄というようなものを作って、八戸市を紹介するということも必要ですね。
才三 それで私は考えております。八戸宣伝にもなりますし、市になった記念にもなるように、だれか名のある方に願って、名のある方の作曲で、八戸というものがピリっと頭にしみこむような唄がほしいのです。それで計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから、市長さん方のお声がかりででもやっていただくように願いたいのです。
三平 実際唄はたいへん宣伝になるものです。
才三 この辺でも、ようやく足が立ったばかりの三つの子でさえ「草津よいとこ一度はおいで」とやります。草津はよいとこか悪いとこかわからなくても、とにかく、歌われるだけ広く知られているのですから。
無名より有名で 神田市長と合作に
その年の夏だったと思いますが、座談会のときの小唄のことがなんとなく気にかかっていたので、神田さん(市長)に話をもとかけたら「よかろう。計画をすすめてほしい」ということです。当時も市政記者クラブがありましたので、その全員の協力をたのんだら、各社もこころよく賛成してくれたから、ある日、市役所の市長室で神田市長を囲んで打ち合わせをしました。記録はありませんが、この時は、工藤有厚(河北)三浦広蔵(奥南)下野末太郎(時事)峰正太郎(奥南)伊藤周吉(朝日)佐々木要市(はちのへ)角田四郎(八毎)、それと私と、ほかにもいたかも知れません。まず、作詞をどうするか、委員を何人かあげて合作にするかなど意見がありましたが、結局一人に任せた方がいいという話になり、法師浜に一任というわけで、発頭人が自ら背負ってしまう結果になりました。
神田市長が作った「鮫の岬」
作詞中のころ、ある朝、市長室に入っていくと、神田さんがニヤニヤしながら和服のたもとから一枚の便箋を取り出しました。
「歌なんて難しいものだね」と、小唄の歌詞の一節が書いてありました。
「これは私にください」と、ポケットに納めました。この中から「鮫の岬が汐けむり」の一行をもらって歌詞に織り込み、第一節にしたのです。才三さんの話ではないが、無名人よりは「名のある方」の方がいいのですから、出来上がった歌詞を市長にもって行って「市長さんの名前も出させてください」と言ったら「フフン」と笑ったんです。その「フフン」を承認と受け取り。のちにレコード吹き込みの時に、作詞神田市長・市政クラブ員と書いたのです。
野口雨情は「歌に明けたよ」
弱弱しいと「夜明けた」にする
問い 何かエピソードでもありませんか
法師浜 歌が完成して間もないころ、毎日新聞の当時の奥村信太郎社長が視察に来八したとき、車で鮫へ行く途中、どっかで八戸小唄の声がしているのを聞いて、案内の者が「社長、あれは法師浜君が作ったものですよ」とへんなところで暴露した。せっかく点数をかせごうとしているのに油を売っている尻尾を出してしまった。社長は黙って小唄を聞いていましたが、「野口雨情くそくらえか」とニヤリとしました。 その後、八戸の文人グループが野口雨情を招き、石田家に一泊し湊の館鼻まで私たちが案内したことがありました。野口さんは縞の着流しでトボトボ歩いていましたが、歩きながらたまたま八戸小唄の話になったら、
「なかなかいい歌だが、僕に作らせると唄に明けたよとするな」と言いました。私もなるほどと思いましたが、実は作った最初は「明けたよ」だったが、ある友人に明けたよという歌がどっかにあった気もすると言われたので、なんとなく気になって、そんな弱弱しい「よ」などよりは、もっと線の太い「夜明けた」に変えたのです。
とにかく、できた当初からなにやかやと話題になる歌でした。こうして歌の完成までかれこれ一年ちかくもかかったでしょう。
後藤氏 尺八譜で口伝
大きい芸妓連の協力
問い 作曲や振りつけなどでも苦心されたとうかがっていますが。
法師浜 そのころは新しい曲の小唄ばやりでしたが、神田市長が
「歌はやはり古い民謡調でなければ長持ちがしない。仙台放送局の嘱託で後藤桃水という民謡研究と尺八で知られている人がいるから頼んでみよう」と言うことでした。後藤氏も引き受けてくれました。この人は民謡の歌い手の上野翁桃君の師匠とかいう話でした。
問い 最初に曲を聞かされたとき、どう思われましたか。
法師浜 曲が出来たというので、後藤さんがやってきました。踊りの振り付けとして吉木桃園という女の人を連れてきました。後藤さんは、ちょっと白いもののまじった長いアゴヒゲを持ち、体格のがっちりした剣道師範のような感じの人で、吉木さんは背の高い袴をはいた学校の先生のような方でした。
この歌をつくるために石田家の主人、石田正太郎さんが一役買って「小唄つくり」の会場を引き受けてくれました。まず鮫と小中野両見番から芸妓代表の人たちにきてもらい、上野君にもきてもらって「小唄のおさらい」をはじめたのです。作曲といってもこんにちのように普通の譜面ではなく、尺八の譜をもってきて、後藤さんが手拍子をしながら歌うと、みんながあとについてまねるといった、あまりにも古典的すぎる方法で、いわゆる口伝練習だったのです。洋楽の譜面などができたのはあとのことです。後藤さんが言うには
「作詞者にまず聞いてもらい、気にいるかどうかで、まずいところがあれば変えましょう」というので私と対座して歌い出しました。一節を聞き終わって、私は正直のところ心の中では直ちに拍手を送る気持ちになれませんでした。せっかくの作曲者のお話でしたから、ちょっと気にかかるところがありましたので、変えてもらいました。
それでOKということで、練習が始まりました。誰もいいとも悪いとも言いませんでしたが、石田さんだけは「ウン、これはいける」と言っていました。だんだん聞き慣れると、波の感じを出していることや、作詞を忠実に表現しようとした苦心などがわかってきて、歌い続けるうちに、みんなの「わが唄」に変わってきました。
これは三味線をつける曲ですから、三味線はさすがに餅は餅屋で、芸妓諸君は後藤さんと協議しながらその場で直に曲ができた。その晩のうちに振りつけもやった。これも芸妓諸君の協力で作りあげたのです。
歌詞は最初四小節でしたが、稽古中にみんなに「四は数がよくないので、五にしてください」と言われ、そのころスケートも加えて欲しいという希望もあったので、その場で、石田家の帳場で第五節をつくって追加し五つにしたのでした。
神田市長仲裁に
売れ行き良好 レコード会社喧嘩
問い さて、出来上がったというので、宣伝にも力を入れたわけでしょうが、どんなふうだったのでしょう。
法師浜 地元の小中野、鮫の料亭の宣伝はもちろん、神田市長はなかなか力をいれ、まず東京日東レコード会社に交渉してレコードをつくらせるし、仙台の放送局からも放送させました。
レコードは会社負担で最初千枚作ったそうですが、のちに数千枚売れてローカル盤としては記録破りと言われたものでした。放送もこんにちのように放送局から出張して簡単にテープに録音するといったわけにはゆかなかったんです。レコードを作るにも放送をするにも、歌、三味線連中を選抜して稽古をしたうえで、大勢で東京や仙台へ出張したわけです。芸妓諸君でさえも、みんなおぼえたつもりでも、いざレコードに吹き込むとなると、ふだん歌っているのと違って固くなるし、なかなかうまくゆかない。「本番OK」まで何回も稽古を続けました。
妙な話ですが「一任」はただ作詞だけのつもりでしたが、踏み出してみると途中でやめるわけにはゆかない。こんなことをしていたら新聞社からクビになりはしないかと、ビクビクものでコソコソと石田家に通ったわけです。
当時中心になっていた見番の人たちは。鮫は才三、かの子、梅太郎、まり子、小中野は三吉、粂八、まる子などといった顔ぶれと記憶していますが、小唄に関しては、たれかれの区別なくみんな熱心にやりました。時にはレコードの売れ行きがいいためか、レコード会社が製作競争してケンカになり、そのシリを市役所に持ってきて、やむなく神田市長が東京へ出かけてレコード会社の仲裁に立ち、おさめたという一幕もありました。
成長ぶりに思わず涙
くずれてきた節だが本場は立派
旅暮らしになつかしい歌
問い 作者である法師浜さんは県外に出られ、そこで八戸小唄が全国的に歌われてゆくのを見ておられたわけですが。
法師浜 私は昭和十三年からは旅に出ましたから、その後の郷土の様子はわかりませんが、思うに郷土のみなさんがみなさんで「わが唄」という郷土愛が大きい力となってひろがって行ったのだと思うのです。
旅から旅に暮らし続けてきた身にとっては、ふるさとの歌を聞くこと、こんな懐かしいものはありません。いつか常磐線の上り列車の中で隣のボックスにいた三人連れの中年紳士が、額を集めて手帳を出し、小さい声で唄の練習を始めました。それがなんと八戸小唄でした。八戸から仕入れてきたばかりの唄を復習しているらしい。すぐ側で見ていて私は思わず一人笑いをもらしました。ときには八戸小唄を聞かせてくれた人もありました。
近年のことですが、コロンビア会社で八戸小唄を作り変えた「つるさんかめさん」問題は当時私は東京にいて郷里の騒ぎをよそごとのように見ていましたが、東京でも話題になりましたし、このとき「八戸小唄」が新たに名を売ったことは事実でしょう。
問い 最近の感想は?
法師浜 歌が出来てから三十年になりますから、最近は節が崩れております。東京の人が吹き込んでいるレコードの中にはひどいのがありますし、有名な歌手も多少の崩れがあります。
私は去年の八月、二十三年ぶりに郷土に戻りましたが、驚いたことには、さすがに「わが唄:だけあって、本場の八戸小唄は立派に育っていると思いました。
去年の秋の運動会のころ、学区運動会前夜祭とかいう踊り大会を柏崎小学校へふらりと出かけてみたら、広い校庭いっぱいに、おとなも子どももそろって八戸小唄を踊る立派さを初めて眼の前に見て、ただなんとはなしに頬の濡れるものがありました。
法師浜氏略歴
八戸市出身、毎日新聞入社、盛岡、新潟支局長、北海道総局長、東京本社地方版編集長、同地方部顧問を歴任、現在同社名誉職員。
この法師浜が著作権を手にし、それを八戸市に寄贈。その時、従来手にした三十万円も出した。わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。
(出典・法師浜著、唄に夜明けたかもめの港)
こうした好意で公会堂基金が出来た。その詳細は次号に掲載。基金の主旨、寄付行為の覚書を教育員会に開示請求をかけているので、それを待って紹介予定。
それにつけても教育委員会は妙な所で、仕事をいいかげんにしようと心がける場だ。おいおいその証拠を見せるが、教育長の何たるかを自問せよ。
昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 3
出席者(敬称賂)
古山 正三
(昭和8年10月~昭和19年3月)
佐々木 重男
(昭和21年3月~昭和25年3月)
正部家 誠
(昭和?年3月~昭和28年3月)
松尾 禎吉
(昭和28年3月~昭和32年3月)
鈴木 亨
(昭和32年4月~昭和33年3月)
船場 武志
(昭和26年4月~昭和32年3月)
司会
井畑 信明(現校長・33年4月~ )
八尋今昔
井畑 きょうはお忙しいところわざわざお集まりいただきましてありがとうございました。
ことしこの学校は創立九十周年を迎えまして、その記念式典を十月十二日に行なう予定でおりますが、そのほか記念事業なども計画しております。記念事業の一つに記念誌の発行がありますが、その記念誌の内容を飾る意味で私らの大先輩である先生方にお集りいただいて思い出を語っていただこうというのです。
十二年間おられた古山先生はじめ佐々木先生、正部家先生、松尾先生、鈴木先生、船場先生と、その時代のことをいろいろとお話し願いたいと思います。
「忠君愛国」から終戦へ
井畑 先生方の着任当時のようすをお伺いしたいと思いますが、古山先生はもうずいぶんと古いことなのでご記憶もうすれたと思いますが先生の着任当時の学校のようすは。
古山 (左半身の姿勢で)昭和十九年退職以来、みなさんと、久しぶりにこうしておあいし、おはなし合い出来て、まことに(力づよく)うれしいと思います。やはり、長生きすれば、何かにつけて、得をするものですなあ。わたしは、数え年七十五才になります。自分では、まだまだほんとうに若いつもりでおります。山登りなどと違って、こうしてすわったまま、お話ししていると何時間でも平気です。(ほんとうに、かくしやくたるものですねえ)
何せ私がここへ赴任したのは昭和八年、それから数えても、もうすでに三十年、ずいぶん古いことです。私は津軽の藤崎からここへ来たのですが、抜てきでも何でもありません。私は南部衆ですが、その南部衆が津軽へ行っていたもんですから、津軽から南部へつれもどしたというかっこうだったと思います。
当時の世相と言いましょうか社会状勢は、とにかく忠君愛国、滅私奉公これ一点ばりでしたから、学校教育もそういった国家社会の思想にただひたすらに向かっていったものです。
井畑 佐々木先生は戦後の変動期にここへ来られたと思いますが。
佐々木 私は昭和二十一年四月に西川栄一郎先生からバトンを引きついでここの校長に任ぜられましたが、当時は終戦直後の混乱期でした。校舎は三分の一戦災で焼かれる、物資はない、食糧難はシンコク、ほんとうに大変な時代でした。学校をとりまく周囲のようすと言えば進駐軍がやって来る。CICがすぐとなりにかまえているという状態でした。
井畑 正部家先生の時には社会状勢もだんだん落ちついて来た頃と思いますが。
正部家 私がこちらへお世話になることになったのは昭和二十五年三月です。湊小学校からまいりました。私の時には幸いにして民主教育が軌道にのりつつあった時代でしたので……。
松尾 私は昭和二十八年度から三十一年度まで四年間ここでお世話になりました。八戸小学校は、私の三十六年の教員生活の終着駅でもありました。それだけに私にとっては生涯忘れられない思い出のハチジンです。
鈴木 昭和三十二年の四月に名校長松尾先生のあとを引きつぐことになりましたが、私も何か一つがんばろうと思っていたのですが不幸にして実働八か月で病に倒れ誠に残念でした。
船場 正部家、松尾、鈴木という三大校長に私は教頭として仕えましたが、私のここでの六年間はちょうど戦後の新しい教育が漸く軌道にのり新教育の方向ヘと進みつつあった時代でした。教育方針も全人教育という方向をめざして、それに基ずいた学校経営をおしすすめていきました。
ハチジン子
井畑 先生方からみたここの学校の子どもについてお話していただきます。まあその時代時代によっても子どもの気質がちがうと思いますが、八尋の子どもたちについて。
古山 私らの時代はさっきも申しましたように、忠君愛国の精神でひたすら国家社会に尽すということが教育の目ざす道でありましたので、子ども等に対しましても非常に厳格であったものです。儀式などにはせきばらい一つしてもならんというふうに。それに何せ支那事変から大東亜戦争へと進み戦局益々さかんになっていた時ですから武道には非常に力を人れたもんです。柔道、剣道、弓道、なぎなた、すもうと、まずあらゆる武道をさかんにやったもんです。正課にしてやりました。子どもの精神をこうしたものできたえましたので自然当時の子ども等の考え方もやはり国家の目ざす方向にいやおうなしに引っぱられていったものでした。
佐々木 私の時は終戦直後の事ですから、先ず何よりも食糧難でありまして、子どもたちは誠にかわいそうなものでした。子ども等の体位は著しく低下しておりまして、ちょうど年より一つ下の体位しかしておりませんでした。実にかわいそうな子どもたちでした。
正部家 その点私らの時は戦後の混乱期も漸く落ちついて来た頃でしたから、まず生活状態もそんなじゃありませんでしたね。
古山 いずれにしても戦前の子どもたちは戦時下という特別な状況の中でよく働らきましたね。よく勉強もしたし、よく労働もしました。今の子どもだちと比べたらまあ隔世の感ですよ、全く。
司会 やはり戦前と戦後では、子どもたちの考え方などもずいぶんちがって来ているんじゃないですか。
松尾 私がここへ来て子どもたちから受けた印象は、まず何となく落ちつきのない子どもたちだと思ったことです。どうしてそうだろうと思い先生方ともいろいろ考えてみました。そうしたらここは学校が対外的な方面から非常に多くの回数使われているということ、それが子ども等の生活態度に影響しているんじゃないかということだったのです。
鈴木 私もここの子どもたちを見て最初に感じたのは今、松尾先生のおっしやった事、落ちつきがないという事、ちょうど女子師範の付属の子どもに共通したところが見うけられたのです。まあ都会ふうのあかぬけした面があって、それはいいのですが、今一つ何かどっしりしたところがほしいと思いました。
松尾 そこで私はそういう事を先生方と相談して、いろいろな手をうってみました。
さいわいにして国語教育研究の指定を受けましたので国語指導の中で人の話をよく聞くという態度を指導したり、落ちついた雰囲気で読書をするという態度、そんな事をやってみたわけです。
船場 そうですね、松尾先生の言われたようにここの子どもたちには落ちついた生活態度がほしいと思いました。そのための指導はいろいろと致しました。
古山 わたしの教育のモットーは健康教育でありました。あんな時代でしたから、あらゆる武道(大きな手で一つ一つ指折りながら)柔道、剣道をはじめ、なぎなた、すもうなどみんなやりました。そして、毎日のように体力、精神力の精進をさせ、県下の先生方をおまねきして、武道教育研究発表会をしたことは、今でも、わたしの思い出深いものの一つです。当時、先生方は、子どもたちに、外へでろ、外へでろといって、戸外の運
動を大いにおすすめくださったので、わたしの長年の信条が認められて、体操優良校として、文部大臣より、表彰されて、非常に感激したことを、今、なおまざまざと思い出します。(しばし、感無量のてい)
井畑 古山先生、当時の職員の生活態度について重ねてお願いいたします。
古山 (一つ大きくうなずく様に力んで)いやぁ.それは、実に(一つ一つのことばに、力を入れて)まじめなものでした。わたしは、先生方のちこくを、ほんとうに、きびしく、いましめました。自転車で通学しておりましたが、定刻五分前に校長室にすわっており、それよりおそく入って来た先生が、「おはようございます」とあいさつしても、応答してやりませんでしたよ。(一同、身に覚えありそうに苦笑)支那事変にはいってからは、職員の朝会の時、誓いのことばを読み、校長の訓辞があって、教室ヘという順序でした。
今、考えてみれば、苦しいこともあったと思いますが、最初にも話しました通り、滅私奉公の時代ですから、さして苦しそうな顔もしてなかったほどでしたなあ……(笑い)
佐々木 今、学校要覧をみていて思い出しましたが、東北の子ども、特に八小の子どもは、口が重くて人前で堂々と話すことが、不得意でしたから、自発、協同の綱領をかかげて、日常の生活を指導しました。自協会という今の児童会のようなものを組織して、学校生活をたのしく、有意義にすごさせました。どうぞ、この精神を長く続けてください。
松尾 それは、大事にまもりましたよ。(笑い)
正部家 わたしの在職中、特に心に残ることのうち、一つ二つ述べてみましょう。まず一つは、現南郷村助役の冷水鉄之助さんのおすすめにより、子ども銀行を創立したことであります。おそらく、子ども銀行では、市内で一番はじめてではなかったでしょうか。親銀行は、青森銀行で、子どもたちに、働いたお金、自分のおこづかいを節約したお金をもちより、貯蓄させました。そして、社会科学習の一助のもと、親銀行に似た組織を作って、六年生の子どもたちにもその事務をさせました。ひとりひとりの貯蓄を修学旅行、進学の際のいろいろな費用にあてさせたので、子どもたちもよろこんで貯蓄にはげんでおりました。
その二としては、前からさけばれていた、民主教育がだんだん広まり、いろいろな研究会などが、本校を会場にして開かれ、先生方もその研修を積み、子どもたちに、その新風をふきこんだ時代でした。よく高館から、アメリカの子どもたちが、本校を参観し、又、招待されたりして、日米親善の一役をになった時でもありました。
次に校歌ですが、これも時代に即したものにしては……と先輩、職員たちから気運がもりあがり作詞は本校の卒業生で全国的に有名な作家でもある北村小松氏におねがいしました。北村氏も快くご承知くだされ、ついで、作曲を花嫁人形でこれまた、有名な杉山長谷夫氏(故人)におねがい申しあげ、お二人で作詞作曲についても、何度となく、お打ち合わせになり、本校にふさわしいものを作りあげてくださいました。今、子どもたちが事あるごとに歌います、三八城の園の云々……がそれです。
松尾 今、なお、わたしは、その気持を大切にしております。校長だけその気になっても決して、その精神は、いかされるものではありませんが、さいわい教頭に人を得、わたしの心をよくくんでくださって、四年目になって、いい先生方だった、めんこいこどもたちだったと心からそう思うことができたことをよろこびました。私はこの子どもたちに情操面の教育をしたいと思いまして昭和二十八年に小鳥の家を作りました。また、先生や、友だちのはなしていることがらをおちついて聞ける子どもにするために、わたし自身子どもたちに、よびかける気持ちで、朝礼の時、いろいろなむかしばなしをしました。(当時、子どもたちも、おはなしを心待ちにし、おのずから整然として待っていたのを思い出します)こういうことで、たのしい四年間をすごし、気持ちよく、終着駅をおり、第二の人生を歩んでいるところです。
井畑 では、鈴木先生、先生の時代は、新教育に向って、まい進していらっしやった頃と、おききしておりますが:・
鈴木 名校長松尾先生の後をお受けしましたのは、昭和三十二年四月でした。名将のもとに弱卒なしとか、本校の先生方の訓練が行届いて、態度の立派なのに、おどろかされました。
特に船場先生のファイト、わたしは、こんな恵まれた学校に赴任したことをよろこび、これから、何かやろうとした時に、病魔に倒れ、本当に残念でございました。
井畑 では船場先生、三代(正部家、松尾、鈴木)の校長先生方の教頭先生として、結びのことばを一つ……。
船場 このような席におよびしていただきましてほんとうにうれしく思います。三十二年十二月二日に校長(鈴木)先生が休職なさったので、全く途方にくれました。しかし、もう年も半ばをすぎている。とにかく卒業式だけは立派にしたいと、そのことだけ考えました。校長先生がお休みになったというので、学校の中がヒソッとした様な感じでしたので、おたがい心を一つにして、昭和三十二年度を通過した時は、まことに感無量でした。正部家、松尾先生、鈴木先生の六ケ年、教頭としてお仕えしましたが、当時、学校貸与簿という誠に奇妙なものがありました。その厚さが百科辞典のようでした。一日に二つ、三つぐらいの会議はざらで、玄関には、いろいろな人のはきものがならび、こちらからは、お茶のさいそく、そちらからはすいがら入れのさいそく、全く教頭とは、サービスボーイのようなものではないかと自分自身の立場をふりかえったことが度々でした。そこで、校長(松尾)先生とも相談し、子どもたちがおちつきのないのはそのためではないか。これでは何としても校舎使用を制限しなければならない。一つ命がけでへらそうと、これに取りくみました。そして、年間五百回ちかい使用をへらそう。わたしたちは、子どもの教育をしっかり守るのが本務である。というので断乎と、その初志をつらぬきました。そのため、子どもたちの学力がいくらかでも向上できたことは本望だったと思っております。
井畑 船場先生のあとを受けたのはわたしです。先生方の命がけの校舎使用制限が効を奏してか、現在では年間使用七十回程に解消されました。共進会の件も、昨年までは、校舎使用は、ご遠慮ねがっておりましたが、ことしは、新産都市の指定に伴う特別な事情でありますので、便宜をはかりました。給食は現在、完全給食で理想に近い状態であります。わたしたちは、諸先生の意志を継いで、一丸となって、子どもたちの教育のためがんばるつもりでおります。
八尋のシンボル
古山 わたしはヒマラヤシーダを八尋のシンボルにしたいと思います。わたしが赴任した翌年の昭和九年に植えたものですがね。それがもう三十年たってるんですよ。あれがあるとないとで八尋も非常にちがうと思う。種市良春さんが寄附したのですがな。百五十円のかねを持ってきて「木を植えてくれ」というんです。それでヒマラヤシーダを十七本植えた。見るたんびに大事にしなくっちゃと思うんです。入口の前にそのことを書いた石があったんですが、戦争時分にどこかへやったらしい。
正部家 わたしも趣旨には大いに賛成です。愛護したいと思っていたんですがな。わたしの時に三八城山に電線をひく工事の時、わたしにだまって切ってしまった。枝をおとしていたのを見て「けしからん」というので会社にかけあったんですが法律上は何らふれないそうですね。法律上はともかく美観をそこないましたな。
井畑 いや去年も自動車協会から文書でもってきて、大型の自動車がふれてこまるというんです。
古山 いや、あれがなければならない。種市さんに何かの機会に感謝してください。
正部家 新しい市庁舎を建てる時も何本か切られたでしょう。
古山 ぜんぶで十七木でしたから。(特に大きな声で感動をこめて。)
正部家 もったいなかったね。(感慨深く)
古山 正三
(昭和8年10月~昭和19年3月)
佐々木 重男
(昭和21年3月~昭和25年3月)
正部家 誠
(昭和?年3月~昭和28年3月)
松尾 禎吉
(昭和28年3月~昭和32年3月)
鈴木 亨
(昭和32年4月~昭和33年3月)
船場 武志
(昭和26年4月~昭和32年3月)
司会
井畑 信明(現校長・33年4月~ )
八尋今昔
井畑 きょうはお忙しいところわざわざお集まりいただきましてありがとうございました。
ことしこの学校は創立九十周年を迎えまして、その記念式典を十月十二日に行なう予定でおりますが、そのほか記念事業なども計画しております。記念事業の一つに記念誌の発行がありますが、その記念誌の内容を飾る意味で私らの大先輩である先生方にお集りいただいて思い出を語っていただこうというのです。
十二年間おられた古山先生はじめ佐々木先生、正部家先生、松尾先生、鈴木先生、船場先生と、その時代のことをいろいろとお話し願いたいと思います。
「忠君愛国」から終戦へ
井畑 先生方の着任当時のようすをお伺いしたいと思いますが、古山先生はもうずいぶんと古いことなのでご記憶もうすれたと思いますが先生の着任当時の学校のようすは。
古山 (左半身の姿勢で)昭和十九年退職以来、みなさんと、久しぶりにこうしておあいし、おはなし合い出来て、まことに(力づよく)うれしいと思います。やはり、長生きすれば、何かにつけて、得をするものですなあ。わたしは、数え年七十五才になります。自分では、まだまだほんとうに若いつもりでおります。山登りなどと違って、こうしてすわったまま、お話ししていると何時間でも平気です。(ほんとうに、かくしやくたるものですねえ)
何せ私がここへ赴任したのは昭和八年、それから数えても、もうすでに三十年、ずいぶん古いことです。私は津軽の藤崎からここへ来たのですが、抜てきでも何でもありません。私は南部衆ですが、その南部衆が津軽へ行っていたもんですから、津軽から南部へつれもどしたというかっこうだったと思います。
当時の世相と言いましょうか社会状勢は、とにかく忠君愛国、滅私奉公これ一点ばりでしたから、学校教育もそういった国家社会の思想にただひたすらに向かっていったものです。
井畑 佐々木先生は戦後の変動期にここへ来られたと思いますが。
佐々木 私は昭和二十一年四月に西川栄一郎先生からバトンを引きついでここの校長に任ぜられましたが、当時は終戦直後の混乱期でした。校舎は三分の一戦災で焼かれる、物資はない、食糧難はシンコク、ほんとうに大変な時代でした。学校をとりまく周囲のようすと言えば進駐軍がやって来る。CICがすぐとなりにかまえているという状態でした。
井畑 正部家先生の時には社会状勢もだんだん落ちついて来た頃と思いますが。
正部家 私がこちらへお世話になることになったのは昭和二十五年三月です。湊小学校からまいりました。私の時には幸いにして民主教育が軌道にのりつつあった時代でしたので……。
松尾 私は昭和二十八年度から三十一年度まで四年間ここでお世話になりました。八戸小学校は、私の三十六年の教員生活の終着駅でもありました。それだけに私にとっては生涯忘れられない思い出のハチジンです。
鈴木 昭和三十二年の四月に名校長松尾先生のあとを引きつぐことになりましたが、私も何か一つがんばろうと思っていたのですが不幸にして実働八か月で病に倒れ誠に残念でした。
船場 正部家、松尾、鈴木という三大校長に私は教頭として仕えましたが、私のここでの六年間はちょうど戦後の新しい教育が漸く軌道にのり新教育の方向ヘと進みつつあった時代でした。教育方針も全人教育という方向をめざして、それに基ずいた学校経営をおしすすめていきました。
ハチジン子
井畑 先生方からみたここの学校の子どもについてお話していただきます。まあその時代時代によっても子どもの気質がちがうと思いますが、八尋の子どもたちについて。
古山 私らの時代はさっきも申しましたように、忠君愛国の精神でひたすら国家社会に尽すということが教育の目ざす道でありましたので、子ども等に対しましても非常に厳格であったものです。儀式などにはせきばらい一つしてもならんというふうに。それに何せ支那事変から大東亜戦争へと進み戦局益々さかんになっていた時ですから武道には非常に力を人れたもんです。柔道、剣道、弓道、なぎなた、すもうと、まずあらゆる武道をさかんにやったもんです。正課にしてやりました。子どもの精神をこうしたものできたえましたので自然当時の子ども等の考え方もやはり国家の目ざす方向にいやおうなしに引っぱられていったものでした。
佐々木 私の時は終戦直後の事ですから、先ず何よりも食糧難でありまして、子どもたちは誠にかわいそうなものでした。子ども等の体位は著しく低下しておりまして、ちょうど年より一つ下の体位しかしておりませんでした。実にかわいそうな子どもたちでした。
正部家 その点私らの時は戦後の混乱期も漸く落ちついて来た頃でしたから、まず生活状態もそんなじゃありませんでしたね。
古山 いずれにしても戦前の子どもたちは戦時下という特別な状況の中でよく働らきましたね。よく勉強もしたし、よく労働もしました。今の子どもだちと比べたらまあ隔世の感ですよ、全く。
司会 やはり戦前と戦後では、子どもたちの考え方などもずいぶんちがって来ているんじゃないですか。
松尾 私がここへ来て子どもたちから受けた印象は、まず何となく落ちつきのない子どもたちだと思ったことです。どうしてそうだろうと思い先生方ともいろいろ考えてみました。そうしたらここは学校が対外的な方面から非常に多くの回数使われているということ、それが子ども等の生活態度に影響しているんじゃないかということだったのです。
鈴木 私もここの子どもたちを見て最初に感じたのは今、松尾先生のおっしやった事、落ちつきがないという事、ちょうど女子師範の付属の子どもに共通したところが見うけられたのです。まあ都会ふうのあかぬけした面があって、それはいいのですが、今一つ何かどっしりしたところがほしいと思いました。
松尾 そこで私はそういう事を先生方と相談して、いろいろな手をうってみました。
さいわいにして国語教育研究の指定を受けましたので国語指導の中で人の話をよく聞くという態度を指導したり、落ちついた雰囲気で読書をするという態度、そんな事をやってみたわけです。
船場 そうですね、松尾先生の言われたようにここの子どもたちには落ちついた生活態度がほしいと思いました。そのための指導はいろいろと致しました。
古山 わたしの教育のモットーは健康教育でありました。あんな時代でしたから、あらゆる武道(大きな手で一つ一つ指折りながら)柔道、剣道をはじめ、なぎなた、すもうなどみんなやりました。そして、毎日のように体力、精神力の精進をさせ、県下の先生方をおまねきして、武道教育研究発表会をしたことは、今でも、わたしの思い出深いものの一つです。当時、先生方は、子どもたちに、外へでろ、外へでろといって、戸外の運
動を大いにおすすめくださったので、わたしの長年の信条が認められて、体操優良校として、文部大臣より、表彰されて、非常に感激したことを、今、なおまざまざと思い出します。(しばし、感無量のてい)
井畑 古山先生、当時の職員の生活態度について重ねてお願いいたします。
古山 (一つ大きくうなずく様に力んで)いやぁ.それは、実に(一つ一つのことばに、力を入れて)まじめなものでした。わたしは、先生方のちこくを、ほんとうに、きびしく、いましめました。自転車で通学しておりましたが、定刻五分前に校長室にすわっており、それよりおそく入って来た先生が、「おはようございます」とあいさつしても、応答してやりませんでしたよ。(一同、身に覚えありそうに苦笑)支那事変にはいってからは、職員の朝会の時、誓いのことばを読み、校長の訓辞があって、教室ヘという順序でした。
今、考えてみれば、苦しいこともあったと思いますが、最初にも話しました通り、滅私奉公の時代ですから、さして苦しそうな顔もしてなかったほどでしたなあ……(笑い)
佐々木 今、学校要覧をみていて思い出しましたが、東北の子ども、特に八小の子どもは、口が重くて人前で堂々と話すことが、不得意でしたから、自発、協同の綱領をかかげて、日常の生活を指導しました。自協会という今の児童会のようなものを組織して、学校生活をたのしく、有意義にすごさせました。どうぞ、この精神を長く続けてください。
松尾 それは、大事にまもりましたよ。(笑い)
正部家 わたしの在職中、特に心に残ることのうち、一つ二つ述べてみましょう。まず一つは、現南郷村助役の冷水鉄之助さんのおすすめにより、子ども銀行を創立したことであります。おそらく、子ども銀行では、市内で一番はじめてではなかったでしょうか。親銀行は、青森銀行で、子どもたちに、働いたお金、自分のおこづかいを節約したお金をもちより、貯蓄させました。そして、社会科学習の一助のもと、親銀行に似た組織を作って、六年生の子どもたちにもその事務をさせました。ひとりひとりの貯蓄を修学旅行、進学の際のいろいろな費用にあてさせたので、子どもたちもよろこんで貯蓄にはげんでおりました。
その二としては、前からさけばれていた、民主教育がだんだん広まり、いろいろな研究会などが、本校を会場にして開かれ、先生方もその研修を積み、子どもたちに、その新風をふきこんだ時代でした。よく高館から、アメリカの子どもたちが、本校を参観し、又、招待されたりして、日米親善の一役をになった時でもありました。
次に校歌ですが、これも時代に即したものにしては……と先輩、職員たちから気運がもりあがり作詞は本校の卒業生で全国的に有名な作家でもある北村小松氏におねがいしました。北村氏も快くご承知くだされ、ついで、作曲を花嫁人形でこれまた、有名な杉山長谷夫氏(故人)におねがい申しあげ、お二人で作詞作曲についても、何度となく、お打ち合わせになり、本校にふさわしいものを作りあげてくださいました。今、子どもたちが事あるごとに歌います、三八城の園の云々……がそれです。
松尾 今、なお、わたしは、その気持を大切にしております。校長だけその気になっても決して、その精神は、いかされるものではありませんが、さいわい教頭に人を得、わたしの心をよくくんでくださって、四年目になって、いい先生方だった、めんこいこどもたちだったと心からそう思うことができたことをよろこびました。私はこの子どもたちに情操面の教育をしたいと思いまして昭和二十八年に小鳥の家を作りました。また、先生や、友だちのはなしていることがらをおちついて聞ける子どもにするために、わたし自身子どもたちに、よびかける気持ちで、朝礼の時、いろいろなむかしばなしをしました。(当時、子どもたちも、おはなしを心待ちにし、おのずから整然として待っていたのを思い出します)こういうことで、たのしい四年間をすごし、気持ちよく、終着駅をおり、第二の人生を歩んでいるところです。
井畑 では、鈴木先生、先生の時代は、新教育に向って、まい進していらっしやった頃と、おききしておりますが:・
鈴木 名校長松尾先生の後をお受けしましたのは、昭和三十二年四月でした。名将のもとに弱卒なしとか、本校の先生方の訓練が行届いて、態度の立派なのに、おどろかされました。
特に船場先生のファイト、わたしは、こんな恵まれた学校に赴任したことをよろこび、これから、何かやろうとした時に、病魔に倒れ、本当に残念でございました。
井畑 では船場先生、三代(正部家、松尾、鈴木)の校長先生方の教頭先生として、結びのことばを一つ……。
船場 このような席におよびしていただきましてほんとうにうれしく思います。三十二年十二月二日に校長(鈴木)先生が休職なさったので、全く途方にくれました。しかし、もう年も半ばをすぎている。とにかく卒業式だけは立派にしたいと、そのことだけ考えました。校長先生がお休みになったというので、学校の中がヒソッとした様な感じでしたので、おたがい心を一つにして、昭和三十二年度を通過した時は、まことに感無量でした。正部家、松尾先生、鈴木先生の六ケ年、教頭としてお仕えしましたが、当時、学校貸与簿という誠に奇妙なものがありました。その厚さが百科辞典のようでした。一日に二つ、三つぐらいの会議はざらで、玄関には、いろいろな人のはきものがならび、こちらからは、お茶のさいそく、そちらからはすいがら入れのさいそく、全く教頭とは、サービスボーイのようなものではないかと自分自身の立場をふりかえったことが度々でした。そこで、校長(松尾)先生とも相談し、子どもたちがおちつきのないのはそのためではないか。これでは何としても校舎使用を制限しなければならない。一つ命がけでへらそうと、これに取りくみました。そして、年間五百回ちかい使用をへらそう。わたしたちは、子どもの教育をしっかり守るのが本務である。というので断乎と、その初志をつらぬきました。そのため、子どもたちの学力がいくらかでも向上できたことは本望だったと思っております。
井畑 船場先生のあとを受けたのはわたしです。先生方の命がけの校舎使用制限が効を奏してか、現在では年間使用七十回程に解消されました。共進会の件も、昨年までは、校舎使用は、ご遠慮ねがっておりましたが、ことしは、新産都市の指定に伴う特別な事情でありますので、便宜をはかりました。給食は現在、完全給食で理想に近い状態であります。わたしたちは、諸先生の意志を継いで、一丸となって、子どもたちの教育のためがんばるつもりでおります。
八尋のシンボル
古山 わたしはヒマラヤシーダを八尋のシンボルにしたいと思います。わたしが赴任した翌年の昭和九年に植えたものですがね。それがもう三十年たってるんですよ。あれがあるとないとで八尋も非常にちがうと思う。種市良春さんが寄附したのですがな。百五十円のかねを持ってきて「木を植えてくれ」というんです。それでヒマラヤシーダを十七本植えた。見るたんびに大事にしなくっちゃと思うんです。入口の前にそのことを書いた石があったんですが、戦争時分にどこかへやったらしい。
正部家 わたしも趣旨には大いに賛成です。愛護したいと思っていたんですがな。わたしの時に三八城山に電線をひく工事の時、わたしにだまって切ってしまった。枝をおとしていたのを見て「けしからん」というので会社にかけあったんですが法律上は何らふれないそうですね。法律上はともかく美観をそこないましたな。
井畑 いや去年も自動車協会から文書でもってきて、大型の自動車がふれてこまるというんです。
古山 いや、あれがなければならない。種市さんに何かの機会に感謝してください。
正部家 新しい市庁舎を建てる時も何本か切られたでしょう。
古山 ぜんぶで十七木でしたから。(特に大きな声で感動をこめて。)
正部家 もったいなかったね。(感慨深く)
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 4
心に残る思い出
桂木 規好
南売市町内に住んで最早27年になります。忘れもしない、昭和49年4月14日三八教育会館で南売市町内会の総会が開催されました。
ところが役員改選で突然に私が副会長を拝命、以来51年3月まで2ケ年未熟ものでしたが皆様の暖かいご指導とご協力を頂き乍ら勤めさせて頂きました。
町内会心に残る思い出 その1
年度変りに会長がおやめになり、次期会長候補のお願いに役員の皆さんと約10日間程、町内を廻った時の苦労したこと。
町内会心に残る思い出 その2
町内の民生委員の方がおやめになりその後任者依頼に役員の皆さんと約一週間程町内を廻りましたがついに引受けて頂ける人がなかったことです。致し方なく役員の皆さんと相談した結果小生が推薦のハメになり、以来昭和49年11月より58年10月まで9ケ年その職を勤めさせて頂いた次第です。
民生委員心に残る思い出 その1
日赤募金は私が民生委員になる前までは、町内会に割当が来て町内会費から納めていたのですが、日赤募金は寄付的性格上町内会費からは出さないことになり、私の時から日赤社員募集に入り日夜3、4ケ月も町内一軒一軒お願いして廻りました時には犬に吠えられ追われることもありましたが、おかげ様で皆さんのご理解とご協力を頂くことが出来ました。それ以来毎年民生委員が町内の日赤社員募集や集金などを担当することになりました。したがって町内会費からは日赤募金を出さなくてもよくなりました。良かったと思っております。
民生委員心に残る思い出 その2
民生委員の活動で町内を廻ったり例会に出席して勉強や情報交換をしたり、又関係ある会合に出席したり、時には養護老人ホーム、身体障害者、精薄者などの福祉施設など視察して参考にし、民生委員活動の使命のもと、日夜出来る限りの努力を続けたものでした。
民生委員心に残る思い出 その3
まだ働ける様に見える人に地区民生委員の意見もきかず、民生委員の知らないうちに役所が生活保護決定したからと突然通知を頂いた時、民生委員の役割とは何だったのかと考えさせられ、残念に思ったいやな思いをしたこと。
むすび 町内会の役員として4年間、民生委員としての9年間、勉強したことや一生懸命活動したことは私の貴重な体験として懐かしい思い出としていつまでも心の中に生きてゆくことと思います。 皆様に感謝申し上げますと共にご多幸をお祈りし、これからもよろしくお願いします。
記念誌によせて
片峯 正夫
南売市町内会三十周年おめでとうございます。その陰には、何代にもわたる会長さん始め役員の方々の御努力と、いつも温かく支えて来られた町内の方々のご理解とご協力があったことを思い、お祝い申し上げます。町内会活動でユニークな事は資源ごみ回収事業です。各町内に先駆けて市の事業に賛同して計画され、当日は回収物の整理に当たる方々のご協力と、品物を出してくださる町内の方々のご協力で成果をあげ、これまで少ない会費で町内活動がなされて来たことです。町内会についての苦情が、時々デーリー東北紙こだま欄に掲載されておりますが、町内会の基本は、地位や名誉に関係無く地域社会で生活するお隣さん同士の交わりの中で、理解と協力によってよりよい生活環境を整えて、明るく過ごすことと理解しております。
動物はこの世を一匹で生きることが出来るそうですが、人は他の人に支えられ、人の間でこそ生きることが出来、また生かされて行く者です。家族を除いて近い他人はお隣さんです。
しかし、ご近所の方でも中々親しくお会いする機会がありません。今年班長の番が回って来て、町内の用事で戸別にお訪ねさせて頂きましたが、お陰で最近越して来られた方とはじめてお会いしてお話も出来、嬉しく感謝でした。班長でなければ、わざわざお訪ね出来ませんし、また、顔見しりにもなれませんでした。班のある方が「町内会の行事にはなるべく参加して交わりを持ち、親しくなる事が大事だと思います」とお話しされ、区民運動会にも町内懇親会にもご参加なさいましたが、全く同感です。
三十年前の南売市は、国道を除き畑地や空き地の中のやっと車が通れる数本の道路に添って住宅が疎らに建ち、近年まで夏になれば背の高い草やとうもろこし等が人目を遮り、その蔭から人が急に出て来て驚かされた事もありました。
約二十年来区画整理の移転工事で落ち着かない日々でしたが、今では町並みが整い住宅が並び、街灯も整備されて素晴らしい生活環境に変貌しました。新しい住民の方々もお迎えし、これからは落ち着いた生活の中で新しい交わりを持ちつつ、活発な町内会活動炉なされることを期待いたします。
南売市在住30年
大久保勝次
○転入の頃
終戦直後昭和20年9月1日、郷里の疎開先から家族と共に売市字下久根15番地の市営住宅に入居し、南売市の住人になりました。知人の世話で入居しましたが随分遠い場所に落着いたものだと思ったのは実感でした。住宅は背中あわせの二軒長屋で8畳、6畳、3畳間と台所、風呂場、井戸は、屋根付き2軒で使用する。それに物置小屋、周りには板塀に囲まれ格子戸のついた門その上宅地内が広く、菜園花壇に適しておりました。市住宅課のお話によれば、昭和16年、軍の要請により、民有地を借り上げ、将校用軍関係者の官舎として建築、終戦により市営住宅に転用したと記憶しております。入居した時は隣近所に多数軍人の家族がおりました。私の住宅の家賃は月額21円で当時、市内各所にあった市営住宅の家賃は、3円から5円であったので高い家賃だったようですが、住宅の条件が良かったので21円の家賃は妥当だったようです。
○市営住宅払下げのこと
昭和30年頃だったと思いますが、故岩岡市長さんの時、市の方針として、戦前建築した住宅を払い下げることになりました。急遽会合を開き組合をつくり書類を作成して、居住者に払下げて下さるよう陳情しました。結果は約半数が居住者に払い下げになりましたが、私の通りにある住宅は、地主の承諾が得られず、購入する事が出来ませんでした。
○町内会長として
私は勤務先を退職した頃、前町内会長の中村繁蔵さん、近所の野沢宗芳さん、行政委員で町内会の事務局長の久慈さん達が拙宅を訪問され町内会長就任を要請されました。突然のお話で考えても見なかった事でもありお断り致しましたが、長年お世話になった町内でもあり、御恩返しのつもりでお引受けした次第です。その時、南売市町内会の世帯数は587世帯、34班編成運営されておりました。町内会長とはこんなに多忙なものかと身をもって体験致しました。これまでの町内会長をつとめられた方々の御苦労が偲ばれました。
町内会は勿論の事、各種団体の会合行事に出席する回数の多いのに精神的な疲労が強く感じられました。又それにも増して事務局長の久慈さんには会の運営行事の立案、会議の進行、他団体との連絡等、行政員の要職にあって精力的に活躍され敬服致しました。
南売市在住の皆々様の御健勝と町内の益々の御発展をお祈り申しあげます。
.南売市に住んで20年になります
婦人部長 杉本 鈴子
昭和48年8月に八日町から南売市に転居して、はや20年になりました。その間父母をあの世に送り、区画整理がありで、何かと心せわしい日々を送りました。今は町内婦人部員と仲よく楽しいふれあいの集いをもっております。
婦人部は、春と秋の料理講習会、日帰りのふれあいの旅、一年の終わりには歌や踊りをしながらの楽しみ会などをもち、又町内の廃品回収にも協力しながら、部員同志の心の交流を深めるようつとめたり、婦人部員の中には民謡、カラオケ、詩吟、おいしい漬物の得意な人達がおり、年毎に親密度も増す楽しい会であります。
このような集いがもてますのも、町内会長さんはじめ、町内の皆様の温かい思いやりとやさしさに支えられているお陰だと、心から感謝し、うれしく思っております。
南売市の魅力
体育部長 田中博逸
私30才で東京より古里に帰り以来17年間、とりわけスポーツが好きでしたので、町内の体育部員として、又、連町の体育部員として参加させていただきました。日曜日返上で夫婦での活動をする理事の方には頭の下がる思いでした。
元旦マラソン、うみねこマラソン、区民運動会、連町の各種競技会、市総合と年間スケジュールを皆さんと一緒に頑張って成功させる様努力の日々です。問題も沢山あります、くじけずに頑張りたいと思います。
町内の資源ゴミ回収活動、表彰されたことをほこりに続けたいと思います。又売市山車組に参加して以来、今年初めて最優秀賞をいただきました。
用地の確保、近在への山車貸し出し料の契約、小屋の設定、山車づくりの若者の参加人数の確保、沢山の問題をクリアーしつつ、受賞をいただいた時は感動の一言でした。
皆が手をとり合って一つの目標に向かえばすばらしい結果が生まれることを学びました。売市のえんぶり組の親方の一人として先人の残した民族の遺産を守りたく活動しています。
とりとめもなく書きならべましたけど、町内の皆さんと仲よく、手を取り合って、子供達の住みよい町内、伝統の芸能を守り豊かな町内にする様、これからも私個人も今以上に頑張り、より人間として成長していくつもりです。
町内会の移り変わり
川口助四郎
八戸市の市制発足より遅れること十年、館村の八戸市合併は昭和十五年一月一日のことでありました。合併を機に、それまでの区長制度を改め、新たに町内会を設けることになりました。なにぶん戦前のことですので、名称は変わっても、活動の内容はさほど変化はなかったと記憶しています。
「売市町内会」が発足して一年、どうも、売市地区を一町内とするには余りに広すぎるのではないかということになり、翌十六年、「南売市」「西売市」「長根」の三つに分割することになりました。時局柄、上部組織からの情報伝達が円滑にいくようにとの配慮があったのかも知れません。
町内の命名に関しては、西村徳次郎さんの発案であったとうかがっておりますが、誰からの反対もなく、全会一致で決定したようでした。
南売市町内会発足当時より会長を仰せつかってきた私の父、大次郎が任期途中で病没したのは昭和二十年三月のことでありました。その頃、私は出征中であり、復員したのは二十一年六月でしたので、その当時の様子などは余り詳しくは存じあげないのですが、当時憲兵隊長をなさっていた松田久五郎さんに会長を引き継いでいただいたようです。
終戦後、世の中がすっかり変わって、いわゆる民主主義に基づいた新しい町内会の発足をということで、私が第一回目の会長に推挙していただいたのは、確か昭和二十五年のことだったと思います。お恥しい話ですが、新しい町内会といっても、何も新しいことをしなかったからでしょう、だんだん町内会そのものが衰退していきました。これではいけないということで、三十五年、再度町内会を組織しなおし、初代の会長は岡田実さん、二代目に松田久五郎さんにお願いいたしました。現在の町内会隆盛の基礎はこのあたりに築かれたものです。松田さんの後、再び私に声がかかった時、私のすることはもう何もございませんでした。ですから、安心して引き受けたわけでございます。
雑感 交通安全部長 後村美代治
昭和45年に南売市に住居を構えて以来、実に22年余の歳月が週ぎました。
ご存知の通り、当地区の区画整理事業も完成に近く、街並みも整い、市内では最も住宅地としてふさわしいとの評判が高まっております。
往事を振り返り、この変容を見ると隔世の感があるが、あの頃の長閑で緑豊かであった風情が懐かしく思われる今日です。それは田舎育ちのせいなのかも知れません。 ところで私達が住む地域と町内の方々の事を知り、交流を深める近道は、やはり町内会の活動に参加することが一番と考え、まず体育部に入れて頂きました。当時は区民運動会の外、当町内会単独での運動会を企画する等の部活動も大変活発であった。体育部は、10年程前に若い方々に後事を託し、交通安全部に移り、現在に至って居ります。交通安全部では区画整理の進行に伴って、順次カーブミラー、道路標識の設置を進めるなど、当町内からの交通事故防止に努めております。しかしながらこの様に道路事情がよくなる反面、交通事故発生率が高まることが懸念されるところですが、当町内独自での交通安全キャンペーンを行うことは、その費用と人的な面からも難かしい状況であり、勢い根城地区全体での運動に終始していることは否めないが、少くとも当町内から交通事故が起きないよう微力ながら運動を続けて行きますので、今後ともご理解とご協力をお願いしたい。
桂木 規好
南売市町内に住んで最早27年になります。忘れもしない、昭和49年4月14日三八教育会館で南売市町内会の総会が開催されました。
ところが役員改選で突然に私が副会長を拝命、以来51年3月まで2ケ年未熟ものでしたが皆様の暖かいご指導とご協力を頂き乍ら勤めさせて頂きました。
町内会心に残る思い出 その1
年度変りに会長がおやめになり、次期会長候補のお願いに役員の皆さんと約10日間程、町内を廻った時の苦労したこと。
町内会心に残る思い出 その2
町内の民生委員の方がおやめになりその後任者依頼に役員の皆さんと約一週間程町内を廻りましたがついに引受けて頂ける人がなかったことです。致し方なく役員の皆さんと相談した結果小生が推薦のハメになり、以来昭和49年11月より58年10月まで9ケ年その職を勤めさせて頂いた次第です。
民生委員心に残る思い出 その1
日赤募金は私が民生委員になる前までは、町内会に割当が来て町内会費から納めていたのですが、日赤募金は寄付的性格上町内会費からは出さないことになり、私の時から日赤社員募集に入り日夜3、4ケ月も町内一軒一軒お願いして廻りました時には犬に吠えられ追われることもありましたが、おかげ様で皆さんのご理解とご協力を頂くことが出来ました。それ以来毎年民生委員が町内の日赤社員募集や集金などを担当することになりました。したがって町内会費からは日赤募金を出さなくてもよくなりました。良かったと思っております。
民生委員心に残る思い出 その2
民生委員の活動で町内を廻ったり例会に出席して勉強や情報交換をしたり、又関係ある会合に出席したり、時には養護老人ホーム、身体障害者、精薄者などの福祉施設など視察して参考にし、民生委員活動の使命のもと、日夜出来る限りの努力を続けたものでした。
民生委員心に残る思い出 その3
まだ働ける様に見える人に地区民生委員の意見もきかず、民生委員の知らないうちに役所が生活保護決定したからと突然通知を頂いた時、民生委員の役割とは何だったのかと考えさせられ、残念に思ったいやな思いをしたこと。
むすび 町内会の役員として4年間、民生委員としての9年間、勉強したことや一生懸命活動したことは私の貴重な体験として懐かしい思い出としていつまでも心の中に生きてゆくことと思います。 皆様に感謝申し上げますと共にご多幸をお祈りし、これからもよろしくお願いします。
記念誌によせて
片峯 正夫
南売市町内会三十周年おめでとうございます。その陰には、何代にもわたる会長さん始め役員の方々の御努力と、いつも温かく支えて来られた町内の方々のご理解とご協力があったことを思い、お祝い申し上げます。町内会活動でユニークな事は資源ごみ回収事業です。各町内に先駆けて市の事業に賛同して計画され、当日は回収物の整理に当たる方々のご協力と、品物を出してくださる町内の方々のご協力で成果をあげ、これまで少ない会費で町内活動がなされて来たことです。町内会についての苦情が、時々デーリー東北紙こだま欄に掲載されておりますが、町内会の基本は、地位や名誉に関係無く地域社会で生活するお隣さん同士の交わりの中で、理解と協力によってよりよい生活環境を整えて、明るく過ごすことと理解しております。
動物はこの世を一匹で生きることが出来るそうですが、人は他の人に支えられ、人の間でこそ生きることが出来、また生かされて行く者です。家族を除いて近い他人はお隣さんです。
しかし、ご近所の方でも中々親しくお会いする機会がありません。今年班長の番が回って来て、町内の用事で戸別にお訪ねさせて頂きましたが、お陰で最近越して来られた方とはじめてお会いしてお話も出来、嬉しく感謝でした。班長でなければ、わざわざお訪ね出来ませんし、また、顔見しりにもなれませんでした。班のある方が「町内会の行事にはなるべく参加して交わりを持ち、親しくなる事が大事だと思います」とお話しされ、区民運動会にも町内懇親会にもご参加なさいましたが、全く同感です。
三十年前の南売市は、国道を除き畑地や空き地の中のやっと車が通れる数本の道路に添って住宅が疎らに建ち、近年まで夏になれば背の高い草やとうもろこし等が人目を遮り、その蔭から人が急に出て来て驚かされた事もありました。
約二十年来区画整理の移転工事で落ち着かない日々でしたが、今では町並みが整い住宅が並び、街灯も整備されて素晴らしい生活環境に変貌しました。新しい住民の方々もお迎えし、これからは落ち着いた生活の中で新しい交わりを持ちつつ、活発な町内会活動炉なされることを期待いたします。
南売市在住30年
大久保勝次
○転入の頃
終戦直後昭和20年9月1日、郷里の疎開先から家族と共に売市字下久根15番地の市営住宅に入居し、南売市の住人になりました。知人の世話で入居しましたが随分遠い場所に落着いたものだと思ったのは実感でした。住宅は背中あわせの二軒長屋で8畳、6畳、3畳間と台所、風呂場、井戸は、屋根付き2軒で使用する。それに物置小屋、周りには板塀に囲まれ格子戸のついた門その上宅地内が広く、菜園花壇に適しておりました。市住宅課のお話によれば、昭和16年、軍の要請により、民有地を借り上げ、将校用軍関係者の官舎として建築、終戦により市営住宅に転用したと記憶しております。入居した時は隣近所に多数軍人の家族がおりました。私の住宅の家賃は月額21円で当時、市内各所にあった市営住宅の家賃は、3円から5円であったので高い家賃だったようですが、住宅の条件が良かったので21円の家賃は妥当だったようです。
○市営住宅払下げのこと
昭和30年頃だったと思いますが、故岩岡市長さんの時、市の方針として、戦前建築した住宅を払い下げることになりました。急遽会合を開き組合をつくり書類を作成して、居住者に払下げて下さるよう陳情しました。結果は約半数が居住者に払い下げになりましたが、私の通りにある住宅は、地主の承諾が得られず、購入する事が出来ませんでした。
○町内会長として
私は勤務先を退職した頃、前町内会長の中村繁蔵さん、近所の野沢宗芳さん、行政委員で町内会の事務局長の久慈さん達が拙宅を訪問され町内会長就任を要請されました。突然のお話で考えても見なかった事でもありお断り致しましたが、長年お世話になった町内でもあり、御恩返しのつもりでお引受けした次第です。その時、南売市町内会の世帯数は587世帯、34班編成運営されておりました。町内会長とはこんなに多忙なものかと身をもって体験致しました。これまでの町内会長をつとめられた方々の御苦労が偲ばれました。
町内会は勿論の事、各種団体の会合行事に出席する回数の多いのに精神的な疲労が強く感じられました。又それにも増して事務局長の久慈さんには会の運営行事の立案、会議の進行、他団体との連絡等、行政員の要職にあって精力的に活躍され敬服致しました。
南売市在住の皆々様の御健勝と町内の益々の御発展をお祈り申しあげます。
.南売市に住んで20年になります
婦人部長 杉本 鈴子
昭和48年8月に八日町から南売市に転居して、はや20年になりました。その間父母をあの世に送り、区画整理がありで、何かと心せわしい日々を送りました。今は町内婦人部員と仲よく楽しいふれあいの集いをもっております。
婦人部は、春と秋の料理講習会、日帰りのふれあいの旅、一年の終わりには歌や踊りをしながらの楽しみ会などをもち、又町内の廃品回収にも協力しながら、部員同志の心の交流を深めるようつとめたり、婦人部員の中には民謡、カラオケ、詩吟、おいしい漬物の得意な人達がおり、年毎に親密度も増す楽しい会であります。
このような集いがもてますのも、町内会長さんはじめ、町内の皆様の温かい思いやりとやさしさに支えられているお陰だと、心から感謝し、うれしく思っております。
南売市の魅力
体育部長 田中博逸
私30才で東京より古里に帰り以来17年間、とりわけスポーツが好きでしたので、町内の体育部員として、又、連町の体育部員として参加させていただきました。日曜日返上で夫婦での活動をする理事の方には頭の下がる思いでした。
元旦マラソン、うみねこマラソン、区民運動会、連町の各種競技会、市総合と年間スケジュールを皆さんと一緒に頑張って成功させる様努力の日々です。問題も沢山あります、くじけずに頑張りたいと思います。
町内の資源ゴミ回収活動、表彰されたことをほこりに続けたいと思います。又売市山車組に参加して以来、今年初めて最優秀賞をいただきました。
用地の確保、近在への山車貸し出し料の契約、小屋の設定、山車づくりの若者の参加人数の確保、沢山の問題をクリアーしつつ、受賞をいただいた時は感動の一言でした。
皆が手をとり合って一つの目標に向かえばすばらしい結果が生まれることを学びました。売市のえんぶり組の親方の一人として先人の残した民族の遺産を守りたく活動しています。
とりとめもなく書きならべましたけど、町内の皆さんと仲よく、手を取り合って、子供達の住みよい町内、伝統の芸能を守り豊かな町内にする様、これからも私個人も今以上に頑張り、より人間として成長していくつもりです。
町内会の移り変わり
川口助四郎
八戸市の市制発足より遅れること十年、館村の八戸市合併は昭和十五年一月一日のことでありました。合併を機に、それまでの区長制度を改め、新たに町内会を設けることになりました。なにぶん戦前のことですので、名称は変わっても、活動の内容はさほど変化はなかったと記憶しています。
「売市町内会」が発足して一年、どうも、売市地区を一町内とするには余りに広すぎるのではないかということになり、翌十六年、「南売市」「西売市」「長根」の三つに分割することになりました。時局柄、上部組織からの情報伝達が円滑にいくようにとの配慮があったのかも知れません。
町内の命名に関しては、西村徳次郎さんの発案であったとうかがっておりますが、誰からの反対もなく、全会一致で決定したようでした。
南売市町内会発足当時より会長を仰せつかってきた私の父、大次郎が任期途中で病没したのは昭和二十年三月のことでありました。その頃、私は出征中であり、復員したのは二十一年六月でしたので、その当時の様子などは余り詳しくは存じあげないのですが、当時憲兵隊長をなさっていた松田久五郎さんに会長を引き継いでいただいたようです。
終戦後、世の中がすっかり変わって、いわゆる民主主義に基づいた新しい町内会の発足をということで、私が第一回目の会長に推挙していただいたのは、確か昭和二十五年のことだったと思います。お恥しい話ですが、新しい町内会といっても、何も新しいことをしなかったからでしょう、だんだん町内会そのものが衰退していきました。これではいけないということで、三十五年、再度町内会を組織しなおし、初代の会長は岡田実さん、二代目に松田久五郎さんにお願いいたしました。現在の町内会隆盛の基礎はこのあたりに築かれたものです。松田さんの後、再び私に声がかかった時、私のすることはもう何もございませんでした。ですから、安心して引き受けたわけでございます。
雑感 交通安全部長 後村美代治
昭和45年に南売市に住居を構えて以来、実に22年余の歳月が週ぎました。
ご存知の通り、当地区の区画整理事業も完成に近く、街並みも整い、市内では最も住宅地としてふさわしいとの評判が高まっております。
往事を振り返り、この変容を見ると隔世の感があるが、あの頃の長閑で緑豊かであった風情が懐かしく思われる今日です。それは田舎育ちのせいなのかも知れません。 ところで私達が住む地域と町内の方々の事を知り、交流を深める近道は、やはり町内会の活動に参加することが一番と考え、まず体育部に入れて頂きました。当時は区民運動会の外、当町内会単独での運動会を企画する等の部活動も大変活発であった。体育部は、10年程前に若い方々に後事を託し、交通安全部に移り、現在に至って居ります。交通安全部では区画整理の進行に伴って、順次カーブミラー、道路標識の設置を進めるなど、当町内からの交通事故防止に努めております。しかしながらこの様に道路事情がよくなる反面、交通事故発生率が高まることが懸念されるところですが、当町内独自での交通安全キャンペーンを行うことは、その費用と人的な面からも難かしい状況であり、勢い根城地区全体での運動に終始していることは否めないが、少くとも当町内から交通事故が起きないよう微力ながら運動を続けて行きますので、今後ともご理解とご協力をお願いしたい。
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」4
八月の例会出席者 売市・岩館さん、天内さん、市川さん、北山さん、竹岸さん、南郷・中村ご夫妻、新井田・畑屋さん、高舘・木村さん、下長・小針さんとお孫さん、根城・石鉢さん、田面木・吉成さん。
毎回いろいろな人の人生経験を聞くのは実に楽しいもの。今回は八戸から岩手県に転勤となり、水沢の娘さんを射止めて八戸に連れ帰った人がいた。結婚生活は円満で、子等にもめぐまれ順調に加齢。ところが突然、ご主人が脳梗塞に倒れ、奥さんは必死に介護。
その時、つくづく夫の有難みがわかったそうだ。誰しも健康で今の生活水準が永遠に続くものだと思いこんでいる。ところが六十になれば定年。昨日まで座っていた椅子から御破算(ごわさん・今までやって来た事を、最初の何もなかった状態にもどすこと)でねがいましてと抛りだされる。夫が元気でいればこそ、この生活があった、もしこのまま亡くなれば、私は一体どうしたらよいやら、とこう考えた。
なかなか、こうは考えられないもの。夫が死んだ? そりゃ寿命だから仕方がない。粗大ゴミだって年に何回かの集荷がある。それと同じでハイ、サヨウナラと言われるのが多くの夫の宿命だ。
亭主は元気で留守がいいってな言葉もあるが、いつまでも夫が元気で、月給の運び屋だと思うな。オット、そうはいかないゾ。この人の亭主のように病気にもなるもんだ。
それでも気のいい水沢生まれの女房は、リハビリに亭主と共に励み、見事回復したそうだ。世の中は一寸先は闇、誰にもこうした嘆きは襲うものだ。でも、その時、頭を抱えこんではダメ。生きている限りは死んではいない。生きる以上は努力をしろと教えられる。努力するしないは誰が決める?
皆、自分自身が決めることなんだ。自分がもうダメだと決めると総てがそこで停止する。
まだある、もう少しがんばろうとするからこそ、生きている証がある。
こういう言葉がある。立っているより座ったほうが楽だ。座っているより寝たほうが楽だ。寝ているより死んだほうが楽だで、死んでしまえば全てがなくなる。
生きてること自体が不思議なようなもので、死んでしまえば何もない。痛いも苦しいもない。金の苦労も人付き合いの心労もない。上司に怒鳴られることもないと、楽を求めれば行き着く先は死んでしまうだけ。生きてるからこそ、努力が出来る。その努力は他人が認めなくてもよい。自身が出来なかったことが出来るようになったことを喜びとすればそれでよい。
六十の手習いでもダンスでも何でも、自分がしてみたい、やってみたいことを具現できるのが、この世なんだ、死んでしまえば何もできない。旅行でもいい、観劇でもいい、何でもいいからすることだ。死んで金を地獄に持参した人は一人もいない。美味い物を食うでもいい、何でも生きている間にすることだ。そして、今日も無事に眼が開いたことを有難いと思えるようになることだ。こうなると、なんにでも有難うと言えるようになる。石につまずいて転んでも、ありがとう、そこまで行くには修行がいるが、転んだときに、怪我しなくてよかったと思え。そうすりゃ膝小僧をさすりながらも有難うと言えるようになる。
大体腹がたつというが、腹をたてないようにすると長生きできる。西有穆山が年中腹を立てている婆さんに教えた。
「婆さん長生きしたいか」
「ハイ」
「それでは腹をたてないようにすることだ」
「それでも禅師さま、家の嫁ときたら、だらしがなくて、どうもこうもなりません、だから私が言うんです」
「そうかそうか、誰しも腹が立つときがある、でもな、腹を立てるたびに三日づつ寿命が縮ぞ」
「それはいけません、禅師さま、すると嫁は私の寿命を縮める出刃包丁ですか」
「これこれ、そう思うことが寿命を縮めるもとだ、どうしてお前さんはそう嫁を悪く言う、嫁さんはもともとこの家の者ではない、他所の家から嫁に来た、来たと思うから間違いで、来てくれた、来てくださったと先ず思うことだ、お前さんだって昔は若くて美しかった」
「あらいやだ、禅師さま、あなたは私の昔をご存知で?」
「そうだろう、皺だらけで見る影もないお前さんだって昔は若くて綺麗だった、そのお前さんは昔から、この家の者だったか? 違うだろう、お前さんも昔は他所の娘だった、それが縁あってこの家に嫁に来た、すると姑がお前さんに辛く当たった、だから、その腹癒せに今の嫁に辛く当たってはいまいか、それでは因果応報、いつまで経ってもこの家の姑婆は嫁の仇でしかない、お前さんもいつかは死ぬ、死なぬ者は一人だっておらぬ。死ぬのは誰しも嫌なことだ、長生きしたければ腹を立てないことだ。それには有難い呪文を唱えると腹が立たなくなって長生きができるようになる。それを教えてやろう」
「是非教えてください、その有難い呪文を、でも長いと覚えられません」
「短いから心配するな、いいか、文句を言いたい、腹が立つと思う時に、こう唱えろ、おん、腹立てまいソワカ、これだけで腹が立つのが治まる」
婆さんはそれから、この呪文を唱えて長生きしたそうだ。こうしたように、何事にも腹を立てると寿命は縮む。それでなくとも、人間は四苦八苦のうちの一つ、病を得るようになっている。それも健康で気力、体力十分な人がそれに遭遇した。
五戸高校と言うと、直ぐサッカーと答が返るほど、実力のある高校、このサッカー部員で元気いっぱいでグランドを走り廻った練習熱心な生徒が、病に倒れた。それは練習中に水を飲むなという指示を守って腎臓を壊した。人間の体は六割が水。その水の調整を行なうのが腎臓。
急激な運動、水を摂取しないことで、体が調整機能を失い、透析をするようになった。腎臓が動か なくなると生きていけない。体の血を綺麗にするため透析をするのだが、病院に週三回、およそ四時間ベットに寝る。こうなると改善はなく、腎臓移植をする以外に生存はむずかしい。透析患者は全国に二十二万人もいる。
水を飲むと簡単に言うが、これほど体に大切なものはない。腎臓移植、誰が肝腎というように肝臓、腎臓をくれる者があろうか。
昨今はフィリピン人が腎臓を売るそうだが、手に入れた腎臓を体が受け付けない場合もある。拒否反応というもの。こうなると、折角手に入れた腎臓も役に立たない。
日本では毎年新しく透析を開始する人が三万人もいる。だが、一年間で腎臓移植をする人は七百人しかいない。0.02%と極めて低い。透析を開始すると七年がメド。三十年も透析をして生きている人もいるが稀なこと。
この人も死を覚悟。生きたい。また元気に仕事をしたいと思うが体がついていかない。当然悩んだ。
この人に弟が二人いた。この弟たちは兄が腎臓病で悩んでいるのを知っている。
さて、読者諸君、どうだ、あなたに二つある腎臓の一つを呉れと言われたらどうする。勿論、腎臓はひとつだけでも生きていける。あなたの配偶者なら否応なしに提供するだろう。
だが、兄であり姉であるとしたらどうだ。あなたに差し出すだけの勇気があり義侠心が備わっているだろうか。
上の弟は腎臓をくれないと言う。下の弟が兄さん、俺のを使ってくれと投げ出した。二つしかない腎臓、一つを取れば疲れやすい、今までどおりの生活が出来るの保障もない。でも、長兄のためなら、どうぞ、俺のを使ってくださいと己の体を投げ出した。
有難いじゃないか。尊いじゃないか。普段偉そうなことを言う人格者と称される人が、こうした嘆きの場に出会って、己の体を投げ出せる者が何人あろう。他人の痛いのは百年我慢が出来るという。そうした人間ばかりが多い世の中。
こうした弟さんもいるんだ。そして手術は成功。それでも、年に何回かは拒絶反応のようなものが出る。そのために入院するそうだが、透析のことを考えれば、天と地ほどの差があるそうだ。
健康と一言でいうが、健康は失ってこそ初めて、その有難みがわかるもんだ。
今、この人は保険の仕事を営んでおられる。失って初めて有難みがわかる、この自分こそ、財産を失う前に保全する術があると教えて歩く。
この人にとって保険は金を戻すための手段ではなく、失う前に手立てを考えよう、保険の組み立て方次第で、何の心配もなくなると、転ばぬ先の杖に仕組みを説いて歩く。
その根底にあるのは、自分は弟があればこそ、こうして生きていかれる。この有難みこそ、弟の恩顧、だが、保険は自分の意思で損害を回避できるのだ。恩愛は買えずとも保険は買える。だから、人のお役に立とうと今日も顧客を歩く。
毎回いろいろな人の人生経験を聞くのは実に楽しいもの。今回は八戸から岩手県に転勤となり、水沢の娘さんを射止めて八戸に連れ帰った人がいた。結婚生活は円満で、子等にもめぐまれ順調に加齢。ところが突然、ご主人が脳梗塞に倒れ、奥さんは必死に介護。
その時、つくづく夫の有難みがわかったそうだ。誰しも健康で今の生活水準が永遠に続くものだと思いこんでいる。ところが六十になれば定年。昨日まで座っていた椅子から御破算(ごわさん・今までやって来た事を、最初の何もなかった状態にもどすこと)でねがいましてと抛りだされる。夫が元気でいればこそ、この生活があった、もしこのまま亡くなれば、私は一体どうしたらよいやら、とこう考えた。
なかなか、こうは考えられないもの。夫が死んだ? そりゃ寿命だから仕方がない。粗大ゴミだって年に何回かの集荷がある。それと同じでハイ、サヨウナラと言われるのが多くの夫の宿命だ。
亭主は元気で留守がいいってな言葉もあるが、いつまでも夫が元気で、月給の運び屋だと思うな。オット、そうはいかないゾ。この人の亭主のように病気にもなるもんだ。
それでも気のいい水沢生まれの女房は、リハビリに亭主と共に励み、見事回復したそうだ。世の中は一寸先は闇、誰にもこうした嘆きは襲うものだ。でも、その時、頭を抱えこんではダメ。生きている限りは死んではいない。生きる以上は努力をしろと教えられる。努力するしないは誰が決める?
皆、自分自身が決めることなんだ。自分がもうダメだと決めると総てがそこで停止する。
まだある、もう少しがんばろうとするからこそ、生きている証がある。
こういう言葉がある。立っているより座ったほうが楽だ。座っているより寝たほうが楽だ。寝ているより死んだほうが楽だで、死んでしまえば全てがなくなる。
生きてること自体が不思議なようなもので、死んでしまえば何もない。痛いも苦しいもない。金の苦労も人付き合いの心労もない。上司に怒鳴られることもないと、楽を求めれば行き着く先は死んでしまうだけ。生きてるからこそ、努力が出来る。その努力は他人が認めなくてもよい。自身が出来なかったことが出来るようになったことを喜びとすればそれでよい。
六十の手習いでもダンスでも何でも、自分がしてみたい、やってみたいことを具現できるのが、この世なんだ、死んでしまえば何もできない。旅行でもいい、観劇でもいい、何でもいいからすることだ。死んで金を地獄に持参した人は一人もいない。美味い物を食うでもいい、何でも生きている間にすることだ。そして、今日も無事に眼が開いたことを有難いと思えるようになることだ。こうなると、なんにでも有難うと言えるようになる。石につまずいて転んでも、ありがとう、そこまで行くには修行がいるが、転んだときに、怪我しなくてよかったと思え。そうすりゃ膝小僧をさすりながらも有難うと言えるようになる。
大体腹がたつというが、腹をたてないようにすると長生きできる。西有穆山が年中腹を立てている婆さんに教えた。
「婆さん長生きしたいか」
「ハイ」
「それでは腹をたてないようにすることだ」
「それでも禅師さま、家の嫁ときたら、だらしがなくて、どうもこうもなりません、だから私が言うんです」
「そうかそうか、誰しも腹が立つときがある、でもな、腹を立てるたびに三日づつ寿命が縮ぞ」
「それはいけません、禅師さま、すると嫁は私の寿命を縮める出刃包丁ですか」
「これこれ、そう思うことが寿命を縮めるもとだ、どうしてお前さんはそう嫁を悪く言う、嫁さんはもともとこの家の者ではない、他所の家から嫁に来た、来たと思うから間違いで、来てくれた、来てくださったと先ず思うことだ、お前さんだって昔は若くて美しかった」
「あらいやだ、禅師さま、あなたは私の昔をご存知で?」
「そうだろう、皺だらけで見る影もないお前さんだって昔は若くて綺麗だった、そのお前さんは昔から、この家の者だったか? 違うだろう、お前さんも昔は他所の娘だった、それが縁あってこの家に嫁に来た、すると姑がお前さんに辛く当たった、だから、その腹癒せに今の嫁に辛く当たってはいまいか、それでは因果応報、いつまで経ってもこの家の姑婆は嫁の仇でしかない、お前さんもいつかは死ぬ、死なぬ者は一人だっておらぬ。死ぬのは誰しも嫌なことだ、長生きしたければ腹を立てないことだ。それには有難い呪文を唱えると腹が立たなくなって長生きができるようになる。それを教えてやろう」
「是非教えてください、その有難い呪文を、でも長いと覚えられません」
「短いから心配するな、いいか、文句を言いたい、腹が立つと思う時に、こう唱えろ、おん、腹立てまいソワカ、これだけで腹が立つのが治まる」
婆さんはそれから、この呪文を唱えて長生きしたそうだ。こうしたように、何事にも腹を立てると寿命は縮む。それでなくとも、人間は四苦八苦のうちの一つ、病を得るようになっている。それも健康で気力、体力十分な人がそれに遭遇した。
五戸高校と言うと、直ぐサッカーと答が返るほど、実力のある高校、このサッカー部員で元気いっぱいでグランドを走り廻った練習熱心な生徒が、病に倒れた。それは練習中に水を飲むなという指示を守って腎臓を壊した。人間の体は六割が水。その水の調整を行なうのが腎臓。
急激な運動、水を摂取しないことで、体が調整機能を失い、透析をするようになった。腎臓が動か なくなると生きていけない。体の血を綺麗にするため透析をするのだが、病院に週三回、およそ四時間ベットに寝る。こうなると改善はなく、腎臓移植をする以外に生存はむずかしい。透析患者は全国に二十二万人もいる。
水を飲むと簡単に言うが、これほど体に大切なものはない。腎臓移植、誰が肝腎というように肝臓、腎臓をくれる者があろうか。
昨今はフィリピン人が腎臓を売るそうだが、手に入れた腎臓を体が受け付けない場合もある。拒否反応というもの。こうなると、折角手に入れた腎臓も役に立たない。
日本では毎年新しく透析を開始する人が三万人もいる。だが、一年間で腎臓移植をする人は七百人しかいない。0.02%と極めて低い。透析を開始すると七年がメド。三十年も透析をして生きている人もいるが稀なこと。
この人も死を覚悟。生きたい。また元気に仕事をしたいと思うが体がついていかない。当然悩んだ。
この人に弟が二人いた。この弟たちは兄が腎臓病で悩んでいるのを知っている。
さて、読者諸君、どうだ、あなたに二つある腎臓の一つを呉れと言われたらどうする。勿論、腎臓はひとつだけでも生きていける。あなたの配偶者なら否応なしに提供するだろう。
だが、兄であり姉であるとしたらどうだ。あなたに差し出すだけの勇気があり義侠心が備わっているだろうか。
上の弟は腎臓をくれないと言う。下の弟が兄さん、俺のを使ってくれと投げ出した。二つしかない腎臓、一つを取れば疲れやすい、今までどおりの生活が出来るの保障もない。でも、長兄のためなら、どうぞ、俺のを使ってくださいと己の体を投げ出した。
有難いじゃないか。尊いじゃないか。普段偉そうなことを言う人格者と称される人が、こうした嘆きの場に出会って、己の体を投げ出せる者が何人あろう。他人の痛いのは百年我慢が出来るという。そうした人間ばかりが多い世の中。
こうした弟さんもいるんだ。そして手術は成功。それでも、年に何回かは拒絶反応のようなものが出る。そのために入院するそうだが、透析のことを考えれば、天と地ほどの差があるそうだ。
健康と一言でいうが、健康は失ってこそ初めて、その有難みがわかるもんだ。
今、この人は保険の仕事を営んでおられる。失って初めて有難みがわかる、この自分こそ、財産を失う前に保全する術があると教えて歩く。
この人にとって保険は金を戻すための手段ではなく、失う前に手立てを考えよう、保険の組み立て方次第で、何の心配もなくなると、転ばぬ先の杖に仕組みを説いて歩く。
その根底にあるのは、自分は弟があればこそ、こうして生きていかれる。この有難みこそ、弟の恩顧、だが、保険は自分の意思で損害を回避できるのだ。恩愛は買えずとも保険は買える。だから、人のお役に立とうと今日も顧客を歩く。
手記 我が人生に悔いなし 二
中村節子
○ 三沢
三沢市は父の故郷で、お盆には父と共に何度か来たことがあったが、昭和三十一年の三沢市の印象は「外国に来たようだ」である。駅前広場に大きな映画看板があった。畳四枚ぐらいの大きさで、「エデンの東」とジェームス・ディーンの顔が大きく描かれキラキラと光る絵の具が使われていた。街のショウウインドウは外国人向けの飾りつけがしてあり、米軍兵が闊歩していた。
○ 映画
映画館は街の中心に洋画専門の大三沢劇場、マレン劇場、日本映画専門のセントラル劇場、そして中心街から離れた古間木駅(現三沢駅)の近くの古間木劇場と四軒。私の高校への通学路は必ず中心街を通り、洋画専門館の前を抜ける。日中でもキラキラと看板が光り、すごいなあと思った。映画館の客はほとんどアメリカ人と聞いていたので、私は一度も入ったことがない。高校生であったからでもあるが。鉄道官舎は薬師町といって駅と線路をへだてた向かい側にあり、古間木劇場は官舎から歩いて三分弱の近さだった。東千代之助、中村錦之助、大川橋蔵の映画が上映され、母と一緒に見に行った。官舎の奥さん方にも人気のある映画館で「今日は夕食を早くすませて映画に行くの」と言っていた。
古間木劇場は建物が古く、冬には前と後ろにストーブが一台づつあるだけで、寒くて湯たんぽを抱いて出かけた。ところが歩くたびにチャポチャポ音がする。後年、この音を聞くと映画館に行く青春の頃を思い出した。また、座席は椅子で防寒と固さしのぎに座布団を持参、映画の楽しさですっかり忘れ、また取りに戻ったこともあった。
その古間木劇場が駅前の大火の時、線路を飛び越えてきた火の粉で燃え上がった。鉄道官舎が燃えないかとハラハラした。学校の道具を風呂敷包みにし、避難準備をするほどだった。劇場は半焼し、のちに取り壊された。
中心街のセントラル劇場で赤胴鈴之助(チョコザイな小僧め、名を名乗れ!)「赤胴鈴之助だあ!」で、始まる連続ラジオドラマ・デビューしたのが、千葉周作の娘・さゆり役の吉永小百合。出演者に語り手、山東昭子、千葉周作、久松保夫、しのぶ、藤田弓子、竜巻雷之進、宝田明。原作、『少年画報』連載武内つなよしのマンガ)が上映されることになり、小学校五年生の弟がどうしても見たいと言う。「一人では心配だからお姉ちゃんも一緒に行きなさい」と言われ弟の同級生四、五人に付き添っていった。二部作、三部作と上映され都度見に行った。笛吹童子(一九五四)、紅孔雀(同年・興行成績は笛吹童子より上。・共に北村寿夫作のNHKラジオドラマ、それを映画化、東千代之助、中村錦之助が活躍)も弟と一緒に見たが、赤胴鈴之助(一九五七)とどっちが先だか忘れた。
やがて古間木劇場が再建されることになり焼けた劇場の三分の一ぐらいの小さなものが出来上がり、一月二日に開館した。美空ひばりの正月映画だったと思う。満員で椅子もふんわりしていたし、なにより暖かかった。
○ 日本舞踊
三沢駅通りに花柳流日本舞踊教室があり、母に連れられ入門、特に日舞が好きというわけではない。かと言って無理やりさせられたのでもない。しないよりしたほうがいいかなと思った程度。しかしする以上は真剣に取り組んだ。初めての稽古日、母が腰あげを取って着丈(きたけ)にした着物を持たせてくれた。私が端折(はしょり・和服の褄つまなどを折りかかげて帯に挟む)が出来なかったからだ。ところが先輩弟子の小学生が簡単にはよって着付けをしているではないか。高校生の私は恥ずかしかった。次からは腰あげをほどき、はしょりを取って着られるように練習した。
父は三沢駅に三年勤務し、隣の向山駅に赴任。私は高校を卒業し、航空自衛隊職員となり、向山から汽車通勤することになった。
○ マヨネーズ
航空自衛隊に勤務した私は三沢基地業務部補給隊に配属になった。一番初めに導入教育が一週間あり、その年採用された職員が一緒に自衛隊のこと、基地のことについて教育を受ける。食事を扱う給養班に行ったとき、小隊長自ら厨房を案内し説明した。大きな炊飯器、巨大な冷蔵庫、調理台のある場所で「ここは何百人もの食事を作る。マヨネーズもここで作る。マヨーネーズを作れるかい?」と私の顔を見た。「ハイ。作れます」意外そうな顔で」なら、作ってみて」と言う。当時はマヨネーズは珍しかった。家庭科が嫌いで裁縫も料理もあまり好きでないのに、マヨネーズだけは作り方を知っていた。
三沢市に住んでいた高校生のころ、母は○ツの支店長の奥さんと親しくなった。東京出身の奥さんはお料理の先生であったらしい。そこで母は官舎の奥さんたちと料理を習いに行った。私の記憶にあるのはコロッケとポテトサラダである。母は習った料理は必ずその日に復習として、材料を買い込み私を助手としてそれを作り夕食に出した。コロッケはおいしく出来た。ポテトサラダにはマヨネーズが必要。母はマヨネーズと初めて出会った。我が家には泡立て器がないので、箸を代用したが、うまく出来なかった。次の日母は泡立て器を買い求め、私の学校帰りを待ちうけた。そして二人でマヨネーズを作りあげた。その時のポテトサラダの美味しかったことを今でも忘れられない。家族全員が大好きになり、三日に一度は作った。だから私は作れますと答えたのである。
私は小隊長の前で卵二個を卵白と卵黄にわけ、卵白を別にし、卵黄だけをステンレスのボールに入れ、泡立て器で丹念に泡立て、マヨネーズの出来上がり。このことがあり、今度入った女の子はマヨネーズを作ると評判になったと後で聞いた。
○ 編み物
下田村向山に編み物の先生が住んでいた。その先生を探しあてたのは母である。八戸の編み物教室の先生をしていて日曜日はお休み、もちろん日曜は私も休みなのでお互いに都合の良い時に、先生のお宅に習いに行った。編み物機械で編むのである。今は手で編む時代ではない。機械編みを覚えなさいと言ったのは母である。今まで私たちのセーターを全部母が編んでくれた。当時は中細という細い毛糸が普通であったので、編み棒で一針一針編むのですごく時間がかかった。編み機だとシャーっと機械を動かすと一回シャーで二段編める。早いなあと一番喜んだのは母であった。
たまたま隣の官舎の助役さんの奥さんも機械編みをする人だったので、私の編み機の音がすると見に来てアドバイスしてくれた。一枚目のセーターが出来上がったとき感動した。
この日以来、家族のセーターを編むのは私の役となった。私は小学校三年の時に眼を怪我をしている。「良い方の眼を大事にしなさい。細かいものを見て眼を疲れさせないように」と口ぐせに言っている母が、細かい作業をする編み物を勧めるなんて矛盾していると思うこともあったが編み物は楽しかった。現在は極太など太い毛糸での手編みの方が手軽と思うが、一年に一度はシャーシャーと使っている。当時の編み機は今でも健在である。
編み針のように一つ心にひっかかることがある。編み物の先生への最後の月謝を払い忘れていた。向山駅で父は定年を向え八戸に引っ越すことになった。私も自衛隊を退職することにし、色々と心忙しくすっかり忘れてしまった。思い出したときは既に一年近く経っていて、そのまま現在に至っているのだが、ふと、街角で編み機の看板を見たりすると、なんとなくドキっと心に針が刺すのも不思議。生きてるうちにお支払いを済ませたいものと何十年もの借金を抱えている。
○ 三沢
三沢市は父の故郷で、お盆には父と共に何度か来たことがあったが、昭和三十一年の三沢市の印象は「外国に来たようだ」である。駅前広場に大きな映画看板があった。畳四枚ぐらいの大きさで、「エデンの東」とジェームス・ディーンの顔が大きく描かれキラキラと光る絵の具が使われていた。街のショウウインドウは外国人向けの飾りつけがしてあり、米軍兵が闊歩していた。
○ 映画
映画館は街の中心に洋画専門の大三沢劇場、マレン劇場、日本映画専門のセントラル劇場、そして中心街から離れた古間木駅(現三沢駅)の近くの古間木劇場と四軒。私の高校への通学路は必ず中心街を通り、洋画専門館の前を抜ける。日中でもキラキラと看板が光り、すごいなあと思った。映画館の客はほとんどアメリカ人と聞いていたので、私は一度も入ったことがない。高校生であったからでもあるが。鉄道官舎は薬師町といって駅と線路をへだてた向かい側にあり、古間木劇場は官舎から歩いて三分弱の近さだった。東千代之助、中村錦之助、大川橋蔵の映画が上映され、母と一緒に見に行った。官舎の奥さん方にも人気のある映画館で「今日は夕食を早くすませて映画に行くの」と言っていた。
古間木劇場は建物が古く、冬には前と後ろにストーブが一台づつあるだけで、寒くて湯たんぽを抱いて出かけた。ところが歩くたびにチャポチャポ音がする。後年、この音を聞くと映画館に行く青春の頃を思い出した。また、座席は椅子で防寒と固さしのぎに座布団を持参、映画の楽しさですっかり忘れ、また取りに戻ったこともあった。
その古間木劇場が駅前の大火の時、線路を飛び越えてきた火の粉で燃え上がった。鉄道官舎が燃えないかとハラハラした。学校の道具を風呂敷包みにし、避難準備をするほどだった。劇場は半焼し、のちに取り壊された。
中心街のセントラル劇場で赤胴鈴之助(チョコザイな小僧め、名を名乗れ!)「赤胴鈴之助だあ!」で、始まる連続ラジオドラマ・デビューしたのが、千葉周作の娘・さゆり役の吉永小百合。出演者に語り手、山東昭子、千葉周作、久松保夫、しのぶ、藤田弓子、竜巻雷之進、宝田明。原作、『少年画報』連載武内つなよしのマンガ)が上映されることになり、小学校五年生の弟がどうしても見たいと言う。「一人では心配だからお姉ちゃんも一緒に行きなさい」と言われ弟の同級生四、五人に付き添っていった。二部作、三部作と上映され都度見に行った。笛吹童子(一九五四)、紅孔雀(同年・興行成績は笛吹童子より上。・共に北村寿夫作のNHKラジオドラマ、それを映画化、東千代之助、中村錦之助が活躍)も弟と一緒に見たが、赤胴鈴之助(一九五七)とどっちが先だか忘れた。
やがて古間木劇場が再建されることになり焼けた劇場の三分の一ぐらいの小さなものが出来上がり、一月二日に開館した。美空ひばりの正月映画だったと思う。満員で椅子もふんわりしていたし、なにより暖かかった。
○ 日本舞踊
三沢駅通りに花柳流日本舞踊教室があり、母に連れられ入門、特に日舞が好きというわけではない。かと言って無理やりさせられたのでもない。しないよりしたほうがいいかなと思った程度。しかしする以上は真剣に取り組んだ。初めての稽古日、母が腰あげを取って着丈(きたけ)にした着物を持たせてくれた。私が端折(はしょり・和服の褄つまなどを折りかかげて帯に挟む)が出来なかったからだ。ところが先輩弟子の小学生が簡単にはよって着付けをしているではないか。高校生の私は恥ずかしかった。次からは腰あげをほどき、はしょりを取って着られるように練習した。
父は三沢駅に三年勤務し、隣の向山駅に赴任。私は高校を卒業し、航空自衛隊職員となり、向山から汽車通勤することになった。
○ マヨネーズ
航空自衛隊に勤務した私は三沢基地業務部補給隊に配属になった。一番初めに導入教育が一週間あり、その年採用された職員が一緒に自衛隊のこと、基地のことについて教育を受ける。食事を扱う給養班に行ったとき、小隊長自ら厨房を案内し説明した。大きな炊飯器、巨大な冷蔵庫、調理台のある場所で「ここは何百人もの食事を作る。マヨネーズもここで作る。マヨーネーズを作れるかい?」と私の顔を見た。「ハイ。作れます」意外そうな顔で」なら、作ってみて」と言う。当時はマヨネーズは珍しかった。家庭科が嫌いで裁縫も料理もあまり好きでないのに、マヨネーズだけは作り方を知っていた。
三沢市に住んでいた高校生のころ、母は○ツの支店長の奥さんと親しくなった。東京出身の奥さんはお料理の先生であったらしい。そこで母は官舎の奥さんたちと料理を習いに行った。私の記憶にあるのはコロッケとポテトサラダである。母は習った料理は必ずその日に復習として、材料を買い込み私を助手としてそれを作り夕食に出した。コロッケはおいしく出来た。ポテトサラダにはマヨネーズが必要。母はマヨネーズと初めて出会った。我が家には泡立て器がないので、箸を代用したが、うまく出来なかった。次の日母は泡立て器を買い求め、私の学校帰りを待ちうけた。そして二人でマヨネーズを作りあげた。その時のポテトサラダの美味しかったことを今でも忘れられない。家族全員が大好きになり、三日に一度は作った。だから私は作れますと答えたのである。
私は小隊長の前で卵二個を卵白と卵黄にわけ、卵白を別にし、卵黄だけをステンレスのボールに入れ、泡立て器で丹念に泡立て、マヨネーズの出来上がり。このことがあり、今度入った女の子はマヨネーズを作ると評判になったと後で聞いた。
○ 編み物
下田村向山に編み物の先生が住んでいた。その先生を探しあてたのは母である。八戸の編み物教室の先生をしていて日曜日はお休み、もちろん日曜は私も休みなのでお互いに都合の良い時に、先生のお宅に習いに行った。編み物機械で編むのである。今は手で編む時代ではない。機械編みを覚えなさいと言ったのは母である。今まで私たちのセーターを全部母が編んでくれた。当時は中細という細い毛糸が普通であったので、編み棒で一針一針編むのですごく時間がかかった。編み機だとシャーっと機械を動かすと一回シャーで二段編める。早いなあと一番喜んだのは母であった。
たまたま隣の官舎の助役さんの奥さんも機械編みをする人だったので、私の編み機の音がすると見に来てアドバイスしてくれた。一枚目のセーターが出来上がったとき感動した。
この日以来、家族のセーターを編むのは私の役となった。私は小学校三年の時に眼を怪我をしている。「良い方の眼を大事にしなさい。細かいものを見て眼を疲れさせないように」と口ぐせに言っている母が、細かい作業をする編み物を勧めるなんて矛盾していると思うこともあったが編み物は楽しかった。現在は極太など太い毛糸での手編みの方が手軽と思うが、一年に一度はシャーシャーと使っている。当時の編み機は今でも健在である。
編み針のように一つ心にひっかかることがある。編み物の先生への最後の月謝を払い忘れていた。向山駅で父は定年を向え八戸に引っ越すことになった。私も自衛隊を退職することにし、色々と心忙しくすっかり忘れてしまった。思い出したときは既に一年近く経っていて、そのまま現在に至っているのだが、ふと、街角で編み機の看板を見たりすると、なんとなくドキっと心に針が刺すのも不思議。生きてるうちにお支払いを済ませたいものと何十年もの借金を抱えている。
人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 1
年寄りの話は面白い。結末を知った推理小説で、安心して聞いてられる。八戸の若者に仕事がなく、シルバー人材センターの定年者たちに仕事が集まり、その額が四十五億もあった。これを若者に回せと力説したが、「はちのへ今昔」は売れない雑誌で、まさにごまめの歯ぎしり(力のない者が、いたずらにいきりたつこと)だ。ごまめってのは正月のおせち料理に出る田作りの、あの小さいカタクチイワシの干物を言う。それの歯軋りじゃ、ドウモコウモナラン。
シルバー人材センターは毎年八戸市から補助を得ている。若者の受け入れ先がないから、補助はまったくない。若者をないがしろにすると未来はないぞ。
それでも若者、嘆く前に先人の足跡から、自立の道を考えよう。人にこき使われるだけが人生じゃない。
八戸には、無一物から人生の大道を堂々を歩んだ人が何人もおられる。今回は武輪水産の創始者を紹介。この人が上梓された「零からの出発」を読み、人生はやる気と根気を読み取ろう。そして、ヨタヨタでも人生の航海を開始しよう。北朝鮮から木造小船で青森まで逃げてきた家族のように、意のあるところには必ず道があるんだ。
一、生い立ち
私は大正三年十二月三十一日、父安太郎、母マサの長男として京都市下京区西七条に生まれました。父は大正五年一月十九日に死去しましたので、私が生まれてから僅か満一年でした,母は三人の姉と私をかかえ苦労した事と思います。
私が物心のついた頃には長姉は住み込みの勤めをし、次姉は叔父の養女となり、末の姉と私を母が育てて居りました。
京都市立七条尋常小学校を卒業、京都府立京都第二中学校に進学、小学、中学を通じ無欠席で通しました。此の間風邪を引いた事もあったでしょうが頑張らなくてはという気持がそうさせたと思います。
後日大学卒業後就職の際健康診断の時、肺に異常ありとの事で京都府立医大でレントゲン撮影の結果、確かに二、三ケ所痕跡があるが、既に完治しているから大丈夫と太鼓判をおされました。その旨を会社に報告無事入社出来ましたが矢張り二、三回発熱をおして頑張った結果だと思います。旧制中学卒業の頃、母が多年無理をして働いたいた結果、リウマチスで立てなくなりました。止むを得ず進学をあきらめ、京都府立京都第二中学校の校長を三十年勤められた中山再次郎先生にお願いし、当時中学生を寄宿させ指導されていた浴風塾に働めさせて頂き、いわゆる内弟子として御指導頂く事になりました。
然し、進学の念をあきらめきれず更に、お願いして、昼は浴風塾に勤めながら夜、立命館大学専門学部に通う事となりました。その後台風が京都市を直撃し、浴風塾の木造二階建二棟が倒壊しました。止むを得ず、校長、教員の舎宅の空室を使わせて頂き塾生たちの勉学指導をし、それにより得た報酬で家計をささえながら夜学に通いました。
中山先生も校長勤続三十年で退職され、卒業生の父兄で先生に心酔されていた、伏見の月桂冠の社長の寄進で東福寺の近くに建てられた住宅におすまいでしたが、その一部を塾とし中学生を指導されていました。少年の指導が何物にもかえがたく思われたのでしょう。終生続けられました。私も其頃は自宅、又は近所に部屋を借り中学生の勉学の指導をし、先生の御宅にも御邪魔して何かと御用達しをし、夜は専門学部から大学に進学し、相当忙しい日々を送りました。末の姉も結婚し一家をかまえ、私もその隣りの家を借りて母と住み、姉が立てない母の世話をしてくれましたので、心おきなく頑張れました。
二、北京での思い出
立命館大学経済学部経済学科卒業も間近になった頃、日本軍が満州より北支那に進出、華北臨時政府を擁立、行政顧問として内務官僚であった湯沢三千男氏を送り込みました。
一方経済面の開発を担当する北支那開発株式会社を設立、鉄道、電気等の建設、石炭、鉄鉱、綿花、塩等資源の開発を大々的に進めました。初代の総裁として、拓務大臣も勤められた大谷尊由氏が就任されました。この頃大谷氏が中山先生の教え子でもあった関係から、又、北支那開発株式会社の当時、北京支社総務課長兼経理課長でもあった中島要造氏も、中山先生の教え子であった関係上、私も採用される事に内定しました。
先ず母に相談した所、病気で立てない状態でありながら気丈にも賛成してくれました。世話をして貰っている姉夫婦にも相談した所、心配せずに就職する様にと賛成してくれました。そこで意を決し、昭和十四年四月北支那開発株式会社(半官半民の国策会社)に入社、東京本社に二ケ月勤務後、当時大学卒第一期生として三十名勇躍北京支社勤務として赴任しました。赴任早々文書課勤務となり、総裁公邸内の一室をあてがわれ暗号電報翻訳担当となり、大金庫に当時軍が使用していた乱数表を収納、暗号電報の来る度に翻訳しました。記憶に残る事は、三十九度の発熱時に長文の暗号電報が来信、二時間かけて無事翻訳出来、使命を果たした事もありました。一緒に北京に赴任した第一期生三十名が、それぞれ病気欠勤した中で、入社時健康診断でクレームのついた私が欠勤する事なく、勤務出来た事を有難いと思っています。其後、産業課勤務となり内蒙古龍畑鉄鉱や山西省の石炭鉱山等々視察に行き、又年に一度は東京支社(北京支社は一年位で本社となった)に出張、主として子会社に対する資金及び、建設資材の調達と開発計画の打合せでした。途中京都に立寄り母の見舞、中山先生ヘ近況報告をしました。
北京本社勤務中、同好者でコーラス団を組み、本格的に勉強した事もなかった私も下手の横好きで入り、ラジオ放送をした事がありました。それがたまたま軍の幹部の耳に入り、名簿を出せと言われ、出したそうです。これは終戦後知った事ですが、とんでもない事に結びつきました。
昭和十九年に入り戦況がますますきびしくなり、北京現地でも召集があると言う情報が私の耳に入りました。元情報担当をしていたせいでしょう、私は戦前の兵隊検査で第二国民兵役、丙種合格と言う、当時では兵隊になる資格がないと言う決定をされていました。それで私は絶対に召集されないが、同期生たちに現地召集がありそうだから心構えをした方がよいと伝えました。私の予想通り間もなく現地召集がありましたが、何と、私に第一回目の召集が来ました。それは終戦後しばらくしてわかったのですが、コーラス放送が原因だったのです。止むなく入隊しましたが、幹部候補生になれというのです。私は丙種合格だから大学で教練を受けていないと言うと中学では受けただろうとの事で、勿論検査前だから教練は受けていると答えると、それで沢山だという事で、幹部候補生教育を受ける事になりました。その内益々日本国内も満州もきびしくなり、教育訓練中の者を半分は国内に、半分は満州に移駐させる事になりました。幸い私は国内組に入り、仙台に移駐、王城子原の演習場で訓練を続行されました。その間に仙台市は空襲を受け焼野原になりました。訓練が終り東北軍管区司令部付防空指揮班に編入され、仙台城地下壕で空襲警報発令の任務につきました。終戦になり武器弾薬を集結アメリカ軍に引渡し、逐次兵隊は除隊し最後に私も除隊しました。
余談ですが兵隊になる資格のなかった私が、いわゆる、ポツダム少尉で、当時陸軍では本科歩兵少尉と言っていた者になるとは信じられませんでした。八戸市に来てから正八位に任ぜられましたから本当だったのです。ちなみに北京現地では同僚、後輩達が続々召集され半分近く戦死したそうです。第一回目に召集され、然も国内に移駐され命拾いした私は結果的に考えると運がよかったと思います。母は私が召集される前に姉夫婦に見とられなくなりました。私は会社より特別休暇を貰い帰京しましたが間にあいませんでした。気丈な母は最後迄取りみださず、私を案じてくれていたと聞かされ心をうたれました。
又若い頃好きだった歌も、召集の原因がコーラスだったと知り、歌う気にならなくなりました。平成十年一月は私の創業五十周年になります。これを契機に気分を入れかえ、北京在勤中に覚えた「好日君再来」でも歌おうかなと思います。
三、八戸に来て
終戦後除隊して、最初に北支那開発株式会社の東京支社に行きました。所がアメリカ兵が剣付鉄砲を構え中に入れてくれません。国策会社なるが故に閉鎖されたのです。近所の人に聞きますと、社員は渋谷の寮に居るとの事で訪ねて行きますと、会社は全部さし押さえられていました。支社勤務の人たちも明日からの生活が大変で、北京本社から引揚げて来る何千人の同僚の事を考える余裕もなかったのです。幸い一期生の仲間や先輩達数人が居り、引揚げ者中、家も焼かれ困っている人達を一人でも受入れる会社を創ろうと言う事になりました。今後は商売で中国と取引する為、社名も中国向きに大龍産業㈱としました。同僚の一人に八戸で海産商を手広くやっていた店と関係のある者が居り、八戸に営業所を設ける事になり、たまたま私が独身者で身軽な事から八戸に来る事になりました。
終戦の昭和二十年秋満三十才の時でした。早速、鮫の宮市に事務所を借り、中国との取引に船が必要だと言う事から、船を買う事になりました。たまたま青森市に売りたい船があるとの情報、船の事に詳しいと言う人と一緒に見に行きました。この船は瀬戸内海で航行していたのを軍に徴用され、北千島に食糧等を運搬する事になったそうですが、船足がおそく青森の造船所で機関をつけかえる為、ドック入りしていたが、青森市も空襲を受け、船も一部焼けて立往生。何と船主が船長でおまけに奥さんも一緒で、とても寒い青森では、大変だから早く船を売って帰り度いと言う事でした。船の事は何も判らず一緒に行ってくれた人が、船底に銅版が張ってあり虫がつかず好い船だと言う事で、早速買う事にしました。東京本社に行き当時百円札で代金拾五万円を受けとり、腹にまき再び青森に行き買取ったのは昭和二十一年一月元旦でした。早速造船所に修理と機関の取りかえを契約し、八戸に帰り宮市の主人とも相談し、鰊の積取りをする事にしました。船長、機関長はじめ乗組員六名も雇い入れ船にのせました。所が青森の造船所が中々手をつけてくれません。
丁度、その頃から戦争も終り青森地元の人たちも船を使う気運になり、つぎつぎに好条件で修理を発注し始めたのです。青森に八戸から日参し督促したのですが埓があきません。乗組員の食糧の事もあり、秋田へ米を買いにやったり苦労しました。とうとう鰊の積取りが間に合わなくなり、意を決して造船所に船をおろす事を申入れ、八戸に廻航する事にしました。私も始めての経験でしたが、一緒に船に乗り昼頃青森を出港しました。船の事にまだふれていませんでしたが、船名は住若九百トンの木造機帆船、機関は九十九馬力、いわゆるトン馬力という船で、おまけに瀬戸内海航行の船底の平らな船でした。機関つけ替えの為、大湊から一二〇馬力の機関を貰い受け一緒に積んで居りました。知らないと言う事は恐ろしいものですが、当時は知らない為にこわさ知らずに一緒に船に乗り、八戸廻航を決行したのです。しばらく航行して津軽海峡に出る前に、突然機関が止まりました。どうしたのだろうと思っている内、又機関がかかりました。大間のさきあたりに来た時に、船長が気圧計の針が立って乗たので時化になり、岬をかわせないから停船しようという事になりいかりを下ろしました,既に日が暮れ漁村のあかりが見えていました。
しばらくして船長室からあかりを見ると随分小さく見えました。船長を起し、その旨話すといかりが砂浜できかず流されている。いかりを上げ機関をかけぬと大変だという事で、全員あらしの中で手まきでいかりを上げました。船酔いをしていた私も、必死であらしの中いかり上げを手伝いました。不思議なもので、船酔いも吹き飛びシャンとしました。もう一度機関をかけ浜近く迄船を寄せ、様子を見ました。夜明けにかけ針も下って来たので、もう大丈夫だと岬をかわし津軽海峡から太平洋に出て、岸づたいに八戸を目指しました。大波で船はきしむし、しばらくすると又機関が止まり岸に打寄せられます。あわや坐礁する直前、又機関がかかり沖に向けてはしり、その事の繰返しで夜に入り、一昼夜半でようやく鮫に帰港しました。宮市の主人にも青森を出たまま音沙汰なく、浜は岩がごろごろ転がる大しけの中、どうしたのだろうと随分心配をかけました。機関が止まった理由は八戸でドックに入れ、調べた結果機関の手入れをせず、錆ついて循環水が充分に通らずピストンの熱で動かなくなった為でした。知識の無いと言う事はこわいもので、あやうく命をおとす所でした。
昭和二十一年春の鰊積取りは、この様な訳で出来ませんでしたが、それから八戸の造船所で船体の整備をし、もう一台の一二〇馬力の機関の買手があり、八万円で売却し鰊積取りの資金も出来、翌昭和二十二年春いよいよ北海道余市へ向け出港しました。運よく鰊を満船し帰港すると言う連絡があり、もう帰る筈だと待っていても、中々帰らず同じ鰊の積取りをして、帰港した他の船に聞いた所、函館に居たという事でした。何しろ船足の遅い船なので、地元の船の様には走れず遅れながらも鮫港に帰港しました。丁度住若丸唯一隻の販売で全部売れました。
当時は魚の統制販売の時で、魚の鮮度に関係なく鰊の価格は一定でした。地元船は小型船で三〇トンばかりで、スピードも出ますから鮮度がよいのですが、住若丸はスピードが遅く鮮度も悪かったのですが価格は同じで売れました。一〇〇トン積でしたから数量は多く扱え、販売利益は十五万円以上あり、船の買取り価格をカバーしました。船長連はすっかり昧をしめ、もう一度行きたいという。私は船足は遅いし鰊の北上に追いつけないから止めた方がよいと言ったのですが中々聞かず、間に合わない場合は、ホッケでも積取りするという事で、再度出港させました。果して北海道の北端迄行ったが鰊の姿はなくホッケを積んで帰って来ました。所が船足が遅く、おまけにホッケは鮮度が落ち易いため到着した時は、すっかり魚体がとけていました。今なら公害問題で大変でしたが、当時は肥料が少なく農家に連絡、馬車にこえ樽を積んで来て貰い、何とか全量買いとって貰いました。此航海では多少損失を出しましたが、前の利益があり機関の売却益もあり、経営には大きな影響がありませんでした。其後、東京本社で今迄社長には北支那開発時代の先輩をお願いして来たのですが、北支那開発に関係のあった天津で事業をしていた、会社の社長を本社の社長にしたという事でした。おまけに引揚げて来た同僚を収容してきたのを全部解雇したと言う事を聞き、大龍産業設立の目的に反するという事で、その社長をやめさすか、それが出来なければ私はやめると言う事になりました。
一時京都に帰っていましたが、その後、住若丸を秋田に塩辛樽の運搬にやった帰港途中に、時化の為坐礁し函館よりサルベージ船を救援に頼んだ処、住若丸の乗組員は全員たすかったものの、サルベージ船の乗組員が死亡したという事を聞きました。もともと住若丸は、日本海の荒海を時化早い時に乗り切れる船ではなかったのですが、無茶な事をしたものだと悔まれました。私の頼んだ住若丸の乗組員が助かったのはせめてもの幸いでしたが、サルベージ船の乗組員には気の毒な事をしたと、今でも思い出すたびに心がいたみます。
大龍産業の其後は事業がうまく行かず、後任の社長が責任をとり自殺したと言う事を聞きました。大龍産業も運命を共にし終焉を迎えたと聞きました。
シルバー人材センターは毎年八戸市から補助を得ている。若者の受け入れ先がないから、補助はまったくない。若者をないがしろにすると未来はないぞ。
それでも若者、嘆く前に先人の足跡から、自立の道を考えよう。人にこき使われるだけが人生じゃない。
八戸には、無一物から人生の大道を堂々を歩んだ人が何人もおられる。今回は武輪水産の創始者を紹介。この人が上梓された「零からの出発」を読み、人生はやる気と根気を読み取ろう。そして、ヨタヨタでも人生の航海を開始しよう。北朝鮮から木造小船で青森まで逃げてきた家族のように、意のあるところには必ず道があるんだ。
一、生い立ち
私は大正三年十二月三十一日、父安太郎、母マサの長男として京都市下京区西七条に生まれました。父は大正五年一月十九日に死去しましたので、私が生まれてから僅か満一年でした,母は三人の姉と私をかかえ苦労した事と思います。
私が物心のついた頃には長姉は住み込みの勤めをし、次姉は叔父の養女となり、末の姉と私を母が育てて居りました。
京都市立七条尋常小学校を卒業、京都府立京都第二中学校に進学、小学、中学を通じ無欠席で通しました。此の間風邪を引いた事もあったでしょうが頑張らなくてはという気持がそうさせたと思います。
後日大学卒業後就職の際健康診断の時、肺に異常ありとの事で京都府立医大でレントゲン撮影の結果、確かに二、三ケ所痕跡があるが、既に完治しているから大丈夫と太鼓判をおされました。その旨を会社に報告無事入社出来ましたが矢張り二、三回発熱をおして頑張った結果だと思います。旧制中学卒業の頃、母が多年無理をして働いたいた結果、リウマチスで立てなくなりました。止むを得ず進学をあきらめ、京都府立京都第二中学校の校長を三十年勤められた中山再次郎先生にお願いし、当時中学生を寄宿させ指導されていた浴風塾に働めさせて頂き、いわゆる内弟子として御指導頂く事になりました。
然し、進学の念をあきらめきれず更に、お願いして、昼は浴風塾に勤めながら夜、立命館大学専門学部に通う事となりました。その後台風が京都市を直撃し、浴風塾の木造二階建二棟が倒壊しました。止むを得ず、校長、教員の舎宅の空室を使わせて頂き塾生たちの勉学指導をし、それにより得た報酬で家計をささえながら夜学に通いました。
中山先生も校長勤続三十年で退職され、卒業生の父兄で先生に心酔されていた、伏見の月桂冠の社長の寄進で東福寺の近くに建てられた住宅におすまいでしたが、その一部を塾とし中学生を指導されていました。少年の指導が何物にもかえがたく思われたのでしょう。終生続けられました。私も其頃は自宅、又は近所に部屋を借り中学生の勉学の指導をし、先生の御宅にも御邪魔して何かと御用達しをし、夜は専門学部から大学に進学し、相当忙しい日々を送りました。末の姉も結婚し一家をかまえ、私もその隣りの家を借りて母と住み、姉が立てない母の世話をしてくれましたので、心おきなく頑張れました。
二、北京での思い出
立命館大学経済学部経済学科卒業も間近になった頃、日本軍が満州より北支那に進出、華北臨時政府を擁立、行政顧問として内務官僚であった湯沢三千男氏を送り込みました。
一方経済面の開発を担当する北支那開発株式会社を設立、鉄道、電気等の建設、石炭、鉄鉱、綿花、塩等資源の開発を大々的に進めました。初代の総裁として、拓務大臣も勤められた大谷尊由氏が就任されました。この頃大谷氏が中山先生の教え子でもあった関係から、又、北支那開発株式会社の当時、北京支社総務課長兼経理課長でもあった中島要造氏も、中山先生の教え子であった関係上、私も採用される事に内定しました。
先ず母に相談した所、病気で立てない状態でありながら気丈にも賛成してくれました。世話をして貰っている姉夫婦にも相談した所、心配せずに就職する様にと賛成してくれました。そこで意を決し、昭和十四年四月北支那開発株式会社(半官半民の国策会社)に入社、東京本社に二ケ月勤務後、当時大学卒第一期生として三十名勇躍北京支社勤務として赴任しました。赴任早々文書課勤務となり、総裁公邸内の一室をあてがわれ暗号電報翻訳担当となり、大金庫に当時軍が使用していた乱数表を収納、暗号電報の来る度に翻訳しました。記憶に残る事は、三十九度の発熱時に長文の暗号電報が来信、二時間かけて無事翻訳出来、使命を果たした事もありました。一緒に北京に赴任した第一期生三十名が、それぞれ病気欠勤した中で、入社時健康診断でクレームのついた私が欠勤する事なく、勤務出来た事を有難いと思っています。其後、産業課勤務となり内蒙古龍畑鉄鉱や山西省の石炭鉱山等々視察に行き、又年に一度は東京支社(北京支社は一年位で本社となった)に出張、主として子会社に対する資金及び、建設資材の調達と開発計画の打合せでした。途中京都に立寄り母の見舞、中山先生ヘ近況報告をしました。
北京本社勤務中、同好者でコーラス団を組み、本格的に勉強した事もなかった私も下手の横好きで入り、ラジオ放送をした事がありました。それがたまたま軍の幹部の耳に入り、名簿を出せと言われ、出したそうです。これは終戦後知った事ですが、とんでもない事に結びつきました。
昭和十九年に入り戦況がますますきびしくなり、北京現地でも召集があると言う情報が私の耳に入りました。元情報担当をしていたせいでしょう、私は戦前の兵隊検査で第二国民兵役、丙種合格と言う、当時では兵隊になる資格がないと言う決定をされていました。それで私は絶対に召集されないが、同期生たちに現地召集がありそうだから心構えをした方がよいと伝えました。私の予想通り間もなく現地召集がありましたが、何と、私に第一回目の召集が来ました。それは終戦後しばらくしてわかったのですが、コーラス放送が原因だったのです。止むなく入隊しましたが、幹部候補生になれというのです。私は丙種合格だから大学で教練を受けていないと言うと中学では受けただろうとの事で、勿論検査前だから教練は受けていると答えると、それで沢山だという事で、幹部候補生教育を受ける事になりました。その内益々日本国内も満州もきびしくなり、教育訓練中の者を半分は国内に、半分は満州に移駐させる事になりました。幸い私は国内組に入り、仙台に移駐、王城子原の演習場で訓練を続行されました。その間に仙台市は空襲を受け焼野原になりました。訓練が終り東北軍管区司令部付防空指揮班に編入され、仙台城地下壕で空襲警報発令の任務につきました。終戦になり武器弾薬を集結アメリカ軍に引渡し、逐次兵隊は除隊し最後に私も除隊しました。
余談ですが兵隊になる資格のなかった私が、いわゆる、ポツダム少尉で、当時陸軍では本科歩兵少尉と言っていた者になるとは信じられませんでした。八戸市に来てから正八位に任ぜられましたから本当だったのです。ちなみに北京現地では同僚、後輩達が続々召集され半分近く戦死したそうです。第一回目に召集され、然も国内に移駐され命拾いした私は結果的に考えると運がよかったと思います。母は私が召集される前に姉夫婦に見とられなくなりました。私は会社より特別休暇を貰い帰京しましたが間にあいませんでした。気丈な母は最後迄取りみださず、私を案じてくれていたと聞かされ心をうたれました。
又若い頃好きだった歌も、召集の原因がコーラスだったと知り、歌う気にならなくなりました。平成十年一月は私の創業五十周年になります。これを契機に気分を入れかえ、北京在勤中に覚えた「好日君再来」でも歌おうかなと思います。
三、八戸に来て
終戦後除隊して、最初に北支那開発株式会社の東京支社に行きました。所がアメリカ兵が剣付鉄砲を構え中に入れてくれません。国策会社なるが故に閉鎖されたのです。近所の人に聞きますと、社員は渋谷の寮に居るとの事で訪ねて行きますと、会社は全部さし押さえられていました。支社勤務の人たちも明日からの生活が大変で、北京本社から引揚げて来る何千人の同僚の事を考える余裕もなかったのです。幸い一期生の仲間や先輩達数人が居り、引揚げ者中、家も焼かれ困っている人達を一人でも受入れる会社を創ろうと言う事になりました。今後は商売で中国と取引する為、社名も中国向きに大龍産業㈱としました。同僚の一人に八戸で海産商を手広くやっていた店と関係のある者が居り、八戸に営業所を設ける事になり、たまたま私が独身者で身軽な事から八戸に来る事になりました。
終戦の昭和二十年秋満三十才の時でした。早速、鮫の宮市に事務所を借り、中国との取引に船が必要だと言う事から、船を買う事になりました。たまたま青森市に売りたい船があるとの情報、船の事に詳しいと言う人と一緒に見に行きました。この船は瀬戸内海で航行していたのを軍に徴用され、北千島に食糧等を運搬する事になったそうですが、船足がおそく青森の造船所で機関をつけかえる為、ドック入りしていたが、青森市も空襲を受け、船も一部焼けて立往生。何と船主が船長でおまけに奥さんも一緒で、とても寒い青森では、大変だから早く船を売って帰り度いと言う事でした。船の事は何も判らず一緒に行ってくれた人が、船底に銅版が張ってあり虫がつかず好い船だと言う事で、早速買う事にしました。東京本社に行き当時百円札で代金拾五万円を受けとり、腹にまき再び青森に行き買取ったのは昭和二十一年一月元旦でした。早速造船所に修理と機関の取りかえを契約し、八戸に帰り宮市の主人とも相談し、鰊の積取りをする事にしました。船長、機関長はじめ乗組員六名も雇い入れ船にのせました。所が青森の造船所が中々手をつけてくれません。
丁度、その頃から戦争も終り青森地元の人たちも船を使う気運になり、つぎつぎに好条件で修理を発注し始めたのです。青森に八戸から日参し督促したのですが埓があきません。乗組員の食糧の事もあり、秋田へ米を買いにやったり苦労しました。とうとう鰊の積取りが間に合わなくなり、意を決して造船所に船をおろす事を申入れ、八戸に廻航する事にしました。私も始めての経験でしたが、一緒に船に乗り昼頃青森を出港しました。船の事にまだふれていませんでしたが、船名は住若九百トンの木造機帆船、機関は九十九馬力、いわゆるトン馬力という船で、おまけに瀬戸内海航行の船底の平らな船でした。機関つけ替えの為、大湊から一二〇馬力の機関を貰い受け一緒に積んで居りました。知らないと言う事は恐ろしいものですが、当時は知らない為にこわさ知らずに一緒に船に乗り、八戸廻航を決行したのです。しばらく航行して津軽海峡に出る前に、突然機関が止まりました。どうしたのだろうと思っている内、又機関がかかりました。大間のさきあたりに来た時に、船長が気圧計の針が立って乗たので時化になり、岬をかわせないから停船しようという事になりいかりを下ろしました,既に日が暮れ漁村のあかりが見えていました。
しばらくして船長室からあかりを見ると随分小さく見えました。船長を起し、その旨話すといかりが砂浜できかず流されている。いかりを上げ機関をかけぬと大変だという事で、全員あらしの中で手まきでいかりを上げました。船酔いをしていた私も、必死であらしの中いかり上げを手伝いました。不思議なもので、船酔いも吹き飛びシャンとしました。もう一度機関をかけ浜近く迄船を寄せ、様子を見ました。夜明けにかけ針も下って来たので、もう大丈夫だと岬をかわし津軽海峡から太平洋に出て、岸づたいに八戸を目指しました。大波で船はきしむし、しばらくすると又機関が止まり岸に打寄せられます。あわや坐礁する直前、又機関がかかり沖に向けてはしり、その事の繰返しで夜に入り、一昼夜半でようやく鮫に帰港しました。宮市の主人にも青森を出たまま音沙汰なく、浜は岩がごろごろ転がる大しけの中、どうしたのだろうと随分心配をかけました。機関が止まった理由は八戸でドックに入れ、調べた結果機関の手入れをせず、錆ついて循環水が充分に通らずピストンの熱で動かなくなった為でした。知識の無いと言う事はこわいもので、あやうく命をおとす所でした。
昭和二十一年春の鰊積取りは、この様な訳で出来ませんでしたが、それから八戸の造船所で船体の整備をし、もう一台の一二〇馬力の機関の買手があり、八万円で売却し鰊積取りの資金も出来、翌昭和二十二年春いよいよ北海道余市へ向け出港しました。運よく鰊を満船し帰港すると言う連絡があり、もう帰る筈だと待っていても、中々帰らず同じ鰊の積取りをして、帰港した他の船に聞いた所、函館に居たという事でした。何しろ船足の遅い船なので、地元の船の様には走れず遅れながらも鮫港に帰港しました。丁度住若丸唯一隻の販売で全部売れました。
当時は魚の統制販売の時で、魚の鮮度に関係なく鰊の価格は一定でした。地元船は小型船で三〇トンばかりで、スピードも出ますから鮮度がよいのですが、住若丸はスピードが遅く鮮度も悪かったのですが価格は同じで売れました。一〇〇トン積でしたから数量は多く扱え、販売利益は十五万円以上あり、船の買取り価格をカバーしました。船長連はすっかり昧をしめ、もう一度行きたいという。私は船足は遅いし鰊の北上に追いつけないから止めた方がよいと言ったのですが中々聞かず、間に合わない場合は、ホッケでも積取りするという事で、再度出港させました。果して北海道の北端迄行ったが鰊の姿はなくホッケを積んで帰って来ました。所が船足が遅く、おまけにホッケは鮮度が落ち易いため到着した時は、すっかり魚体がとけていました。今なら公害問題で大変でしたが、当時は肥料が少なく農家に連絡、馬車にこえ樽を積んで来て貰い、何とか全量買いとって貰いました。此航海では多少損失を出しましたが、前の利益があり機関の売却益もあり、経営には大きな影響がありませんでした。其後、東京本社で今迄社長には北支那開発時代の先輩をお願いして来たのですが、北支那開発に関係のあった天津で事業をしていた、会社の社長を本社の社長にしたという事でした。おまけに引揚げて来た同僚を収容してきたのを全部解雇したと言う事を聞き、大龍産業設立の目的に反するという事で、その社長をやめさすか、それが出来なければ私はやめると言う事になりました。
一時京都に帰っていましたが、その後、住若丸を秋田に塩辛樽の運搬にやった帰港途中に、時化の為坐礁し函館よりサルベージ船を救援に頼んだ処、住若丸の乗組員は全員たすかったものの、サルベージ船の乗組員が死亡したという事を聞きました。もともと住若丸は、日本海の荒海を時化早い時に乗り切れる船ではなかったのですが、無茶な事をしたものだと悔まれました。私の頼んだ住若丸の乗組員が助かったのはせめてもの幸いでしたが、サルベージ船の乗組員には気の毒な事をしたと、今でも思い出すたびに心がいたみます。
大龍産業の其後は事業がうまく行かず、後任の社長が責任をとり自殺したと言う事を聞きました。大龍産業も運命を共にし終焉を迎えたと聞きました。
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 8
西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
月潭老人の印可証明
文久二年(一八六二年)穆山和尚四十二歳となる。後世、国立東京大学印度哲学科の開祖となった豪僧原垣山和尚が三ケ月で逃げ出し、後の大本山総持寺独往二世畔上楳仙和尚でさえ三ケ年しか居れなかった。海蔵寺の貧乏生活と、月潭老人の無類の厳格な膝下に十二年間隠忍自重、辛苦精励したのが穆山和尚ただ一人であった。
弟子の岸沢惟安師が「参禅学道は一筋繩でゆけるものでない。悟ったばかりにて好いことならば、古人がみな歯がぬけ、頭のはげるまで骨をおられるはずがない。身心脱落をも通りぬけて、山僧無仏法の平穏地にいたらなければ本物でない」といっておる。穆山和尚の天才優秀の器を以って、四十二歳まで実参実究した事を評讃した言葉であり、山僧無仏法の穆山和尚が月潭老人から与えられる仏法が一つもなくなったことを意味するものであります。
かくして、師匠の月潭老人の方から如来寺の穆山和尚を訪問する場面となったのであります。
昔の御師家様は親切です。如来寺を訪問した月潭老人は穆山和尚と夕食を共にし十二年間能く忍び、能く学び、能く行じた中に色々面白かったこと、つらかったことなどを語りながら一偈(げ・韻文の詩のこと)を作り穆山和尚に呈示したのであります。
それは、
富嶽の巽兮三島の乾
霊龕年古りて草??
兎経一路水に随うと雖も
采葉流れず徳自ら鮮なり(原漢文)
という一詩であります。
日本一の秀嶺富士山の東南に当り、清冽な三島川の西北方に位する如来寺の霊龕に長年月わだかまっていた真竜が今や天高く伸びてその茂りが見ごとである。
今日まで十二年間(早川の)小路をひたすらに水の流れに随って来たけれども采葉も流れることなく長年月練行の徳の光が自然と鮮明に輝いている。
今や穆山和尚は、日本一の富士山のもと、三島川の清冽な水に身も心も浄め、その徳光富嶽に映じて清鮮な輝きを発するに至ったのであります。
月潭老人の印可証明の詩は穆山和尚が東京駒込の吉祥寺栴檀林時代に於て、既に漢学宗学等を修得して博士の実力を持ちながら尚進んで海蔵寺に於て宗乗(しゅうじょう・宗義および教典)を学び眼蔵を窮尽し、如来寺に於て多くの若き雲水を説得している勇姿を讃歌したものであります。まことに穆山和尚の学徳は博士号を取ってから更にひたすらに専門の道に不惜身命の精進を、歯がぬけるほど、頭がはげるほど、骨身を削って得られた深く高い内容のものでありました。こうした深さと高さがあったので後世日本一の眼蔵の大家と評され、「穆山死して眼蔵亡ぶ」とまでいわれるようになったのであります。
第二部 宗参寺時代
瞋恚(しんに・自分の心に逆らうものをいかりうらむこと。怒り)徹底の教育法
文久二年(一八六二年)穆山和尚は恩師曹隆様の寺、宗参寺の住職となる。穆山師を慕って集まれる者古知知常、折居光輪、野々部至遊、福永毫千等の老師を始め二十名程の学僧であった。その中の古知さんは、月潭老人の弟子であり、二十歳前の前途有望の学僧であった。古知さんは、毎日よく穆山師の提唱を聴いて、何かしきりに書いておった。穆山師は恩師の弟子である古知さんが、一生懸命筆記しているのを見て喜んでいた。ある日古知さんを方丈の間(住職の部屋)に呼んで、
穆山「古知、お前は毎日よく筆記しているようだが、何を書いているか?」
古知「いえ、何も書いていません。」
穆山「わしが毎日みていると何か書いているようだかな」
古知「いえ、何も書いていません。」
穆山「何もかくすことはない。わしがちゃんと見ておるぞ。」
告知「叱らなければいいます。」
橋山「決して叱らぬからいってみよ。」
告知「馬を書いています。」
穆山師まさかと思いながら
穆山「毎日書いていたら、もう三年にもなるから、大分上手になったろうな。」
古知「へい。」といって頭をかく。
穆山「はじめて書いた帳面と、最近書いた帳面を持って来て見せろ。」というと、いそいそと立って、持ってきたのをみると、馬ばかり書いている。
その馬たるや最初のものは保育園園児が書いたような絵で、五体ばらばらで、胸のあたりから足がはえていたり、背中から尾が出ていたり、馬とは見えぬものであった。それが三年目の最近のものは、足の出るところに足があり、尾のつけぎわもととのって、走るような、生きているような馬になっていた。
穆山師は、叱ることも出来ず、微苦笑しながら「おう、上手になった。精出して書け、もっと上手になる。」というと古知さんは喜んで帳面を持って自分の室に帰った。
これらの御話は、古知さんが十八歳から二十三歳頃迄のことで、古知さんは月潭老人の弟子であったから穆山和尚が特別温情をかたむけて教育した結果、後世曹洞宗大学林(今の駒沢大学)の学長となって恩返しをしています。(西有穆山門下の出世組の一人であります。)
傑人としての穆山和尚の教育法は、月潭老人譲りで、相手の不合理、欠点、無作法は寸分だに容赦せず厳しく叱正する方法で通した。この家風が宗参寺時代に既に激しく現われている。或時、古知さんが穆山和尚に叱られた。怒り出すと容易におさまらないことを知っている古知さんは、先輩達がやっているように、便所に逃げこんだ、ところがまだ中に入って戸を閉めないうちに追いつめられてしまった。進退ここにきわまった古知さんは、くるりと向きなおり、便所の戸を背水の陣として、合掌低頭して、穆山師にむかって、「前人悔を求めて、善言懺謝すれども猶ほ瞋り解けざるは、是れ菩薩の波羅夷罪なり。」と称えた。これは穆山和尚の得意として、毎日宗参寺で遶行(にょうぎょう・お堂の中を巡りながら読経する)しながら読誦されられていた梵網経の一節でいかりを戒めた戒法であります。
「御師匠様の前にいる私が、後悔して、おわびしているのにおわびを聴き入れずに、何時までも怒っているのは、不瞋恚戒を犯しているので、断頭罪でございます。教育者の生命を失ってしまいますが‥」と叫んだのである。
古知の真剣な態度と顔を見た穆山和尚、くすくす笑いながら方丈の間に退却してしまった。穆山和尚は教育熱心であったから、門弟達の為に殆んど講義を休まなかった。ところが或日、宗参寺の元旗本家の檀徒総代長が来ていろいろ話を持ち出し、酒食を共にして、朝から夜まで尻長の長談義をしてしまった。ついに、その日は休講の余儀なきに至った。その旗本の総代長が帰ると折居光倫(後の曹洞宗大学学長)さんを先頭に代表三名の門弟が来て、
折居「講義をしてくれぬようなところにいても無益ですから送行(そうあん・お暇乞)します。」
と申しあげた。
穆山「そうか、師家(教育の最高権威者)に暇をくれて、門弟の方から送行するというのか、よし、さあ出てゆけ、すぐ出てゆけ、さあ出てゆけ」
一同は面くらって狼狽したが、
折居「荷物をまとめる耶合もありますから、明日まで、お待ちください。」と策をめぐらしたが、
穆山「いいや、ならぬ、一刻もおくことはならぬ、さあ立て、さあ立て」と追いたてられて、荷物に手をつける暇も与えられず、門外に追い出されてしまった。代表となって「これからは休講をしない。」という言質を取ろうと思って、交渉した析居さんは、とうとう門前の信者の家に蟄居(ちっきょ・家にこもって外出しないこと)して、そこの篤信の老人をたのみ、老人と共に、日参してお詫びすること七日間、やっとゆるされて講義に加わることが出来たのである。
穆山和尚は、終生この瞋恚徹底の熱心な教育法を一貫したが、それが為に「百姓坊主、無道心者」と怒鳴られた。無理解の軽薄僧侶遠の感情を害した点もあり、いわゆる世間的出世が遅れて弟分の畔上楳仙師が、大本山総待寺独往二世に昇進した当時「弟の楳仙さんに負けた。」と評されたこともあるが、真の宗教家、表裏や、掛け引きのない指導者は殷誉褒貶を気にするようでは役に立たぬ、無位の真人よ、憂国の真士よ、不正に対していかれ、無道心者、恥を知らざる者をゆるすな、真の人間、有能の人材を養成打出する為の瞋恚の鬼となれ、と穆山和尚の生涯は人間を叱咤している。我々は襟を正さねばならぬ。
二、芝居の番附
穆山和尚が宗参寺の住職となり、一方の法将として幢幡(どうばん・堂内の荘厳具しようごんぐの一。竜頭または宝珠の飾りのある竿柱に六旒の旗を集めて六角形または円形に小旗を下げたもの。木製・金属製および金襴・綾製などがある)を高く掲げて多くの門弟が雲集し、恩師月潭老人の補助師家として機会ある度毎に随行して来たが、山梨県の有力寺院から、月潭老人に西堂(せいどう)職(僧侶修行の最高指導役)を拝請(御招待)に来た。その時、月潭老人は重病で応請できない状態でことわった。「それでは、御老人の代理として相応した師家様を差遣して下さい。」と要求されたので、月潭老人は、使者を宗参寺に派遣して、穆山師を呼び「これから後、私に代って、西堂職や、授戒会の戒師を勤め得るものは、お前より外にあるまい、御釈迦様に代って戒弟の懺悔をうける自信があるかな?」と念を押し、期待をかけて、老人が今日まで使用してきた三牌、紅幕、回向草紙、お袈裟、白浄衣等、結制授戒会という曹洞宗の命脈(生命)を継承する最高儀式の必要具を全部授与せられた。これで穆山師は月潭老人門下の第一人者という証明をされたのであります。
月潭老人の門下は前述せる如く畔上楳仙師、原垣山師等後世名を挙げた方々の外文字通り多士済々でありました。この幕末のかくれた大宗将も因縁つきて遷化(せんげ・逝去)せられたのでありますが、その遺書をひらいてみると、海蔵寺の後住候補者として、次の如く書かれてあった。
初筆 穆山瑾英
二筆 徳山快豊
三筆 義祐
これによって、嗣法の弟子古知知常老師が、檀徒総代を帯同して、初筆の穆山和尚を拝請(御招待)する為に牛込の宗参寺にやってこられた。
穆山師は月潭老人の大恩に報いる為にその招待に応じようと思って、浅草の本然寺の住職をしておる一番弟子の昶庵和尚を呼び寄せその話をすると、喜んで賛成してくれた。
それでは御前が宗参寺の後住になってくれというと、わたしは、その器ではありません。ことに宗参寺には先住時代からの借金が千両もあり御師匠様の力量でなければ到底整理することが出来ません。小子(私)が住職になれば宗参寺は破産してしまいます。
御師匠様(穆山師のこと)御本師泰禅様の寺(宗参寺)がつぶれても師家(月潭老人)に義理立てて晋住(住職となる)しなければなりませんかと突っ込んで来るのでやむを得ず海蔵寺行をおことわりした。
ところが数日後の早朝、穆山師が朝の勤行をすませて玄関までくると、立派な篤が二挺そろって横づけにされた。
それは関三ケ寺(総録の寺で大本山永平寺の貫首候補の寺)の一つである鴻の台の総寧寺様と、駒込の吉祥寺様であった。総寧寺は海蔵寺の本寺で、吉祥寺は宗参寺の本寺であるから、ただ事でないと思いながら書院に御案内申し上げた。
上位に御着席願い、湯茶を差し上げると、
総寧寺「古知知常師の御話によりますと、海蔵寺への晋住をおことわりとのこと、色々御事情 もありましようが枉(ま)げて御出頭願いたく存じ、御本寺吉祥寺様も御同道願って、改めて 拝請に参りました。先住月潭師の御遺言もありますので是非御願い致します。」と、本寺吉祥寺方丈(住職)様と共に深く頭を下げられたのであります。
穆山「両御本寺様の御尊来を賜わり、誠に恐縮に存じます。大恩を受けました老人の御遺言で ありますので、報恩の情をかたむけて、私自身は内諾申し上げましたが、本然寺の昶庵が宗参寺に来るといわぬので困っております。」と深々と頭を下げてお詫びしました。それでは私達から話してみよう。といって昶庵師を呼び、
総寧寺、吉祥寺「昶庵殿、御本師様が御承知であるから、貴殿も御承知願いたい。」
昶庵「本師(穆山師)が、老人の海蔵寺後住に晋住することは、有難いことであります。小子からもよろしく御願い致します」
総寧寺、吉祥寺「それでは、宗参寺に出て下さいますね。」と念を押しますと
昶庵「小子はその器でありませぬ。本師(穆山)以外に宗参寺を救うものはございません。」と頑として持論をまげません。流石の両御本寺様の権威も効むなしく、穆山師に、どうもお騒がせしました。と御挨拶して帰られ、穆山師、海蔵寺招待劇が幕を閉じたのであります。けれども自分が出られないと決まったからといって投げておくわけにゆかぬ、穆山師は書面を以て第二筆の快豊和尚を呼び、又古知老師も総代を帯同して宗参寺に集合した。
古知「穆山老師は種々の事情でおいで下さいませんので、二筆の貴師を拝請したいと思いま す。」
すると、謙譲を美徳としていた快豊師であるから、
快豊「拙僧の如き無学不徳の者は、老人の後住となるなど恐縮です。」と辞退した。すると、古知老師は「そんならよせ」といってさっさと帰ってしまった。
これは、古知師が恩師の穆山様なら無条件に心服しているが、その他では公平な態度をとった一証左である。古知師が帰った後に穆山師に向って、
快豊「あなたから御親切な書面を載いたから、適当な人材が見つかるまで席をけがす心算で出 て来たが古知師のあの態度ではね。」といって懐中から相当額の金を出して、この金も要がなくなったから使ってしまうまで置いて下さい」といって、江戸中を見物して帰ってしまった。
穆山師は古知師と相談の結果第三筆の義祐師を呼んで、
穆山「老人はお前さんを気に入りだったから海蔵寺に出てくれ。」と単刀直入に話した。
義祐「わしを後住にする気なら、何故初筆に書かぬ。三筆は要らぬという証拠だ。いやなこと だ。」といって突っぱねた。
穆山師、突如として、義祐師に向い、
穆山「貴公は芝居の番付を知っておるか。」
義祐「知っておるとも」
穆山「芝居の寄附は、書き出しが女形で、中軸が殿様で、おつとめが座頭だ。」
義祐「うん、そうだ。」
福山「それで、初筆のわしが女形で、役に立たず、二筆の快豊は殿様役で大根だ。三筆の貴公 がおつとめ役者の座頭で老人が一番頼りにしたのだ。どうだ。それでも三筆は要らぬという証拠か。」と逆襲すると、
義祐「うん、わかった。よし。よし。」これで海蔵寺月潭老人の後住が決定したのであります。
穆山師が、長年月、月潭門下として、問答の飯を喫して、義祐師が負けずぎらいで、何を訊かれても知らぬということが大嫌いであることを知りぬいていたから芝居の番附をかつぎ出して、義祐師をうまくはめこんだのであります。
穆山師の機智策略以って知るべし。それにしても、この時代までの宗風が有難いと恩います。自分に古知知常という立派な弟子があるのに一顧だにせず、随身(門下生)中より人物本位で後任住職を遺言し、又、弟子の方も師匠の意志を尊重して、それの実現に一生懸命努力している点は真に、仏法尊重の精神に燃えているので、現代の僧侶に薬として飲ませたいものであります。
月潭老人の印可証明
文久二年(一八六二年)穆山和尚四十二歳となる。後世、国立東京大学印度哲学科の開祖となった豪僧原垣山和尚が三ケ月で逃げ出し、後の大本山総持寺独往二世畔上楳仙和尚でさえ三ケ年しか居れなかった。海蔵寺の貧乏生活と、月潭老人の無類の厳格な膝下に十二年間隠忍自重、辛苦精励したのが穆山和尚ただ一人であった。
弟子の岸沢惟安師が「参禅学道は一筋繩でゆけるものでない。悟ったばかりにて好いことならば、古人がみな歯がぬけ、頭のはげるまで骨をおられるはずがない。身心脱落をも通りぬけて、山僧無仏法の平穏地にいたらなければ本物でない」といっておる。穆山和尚の天才優秀の器を以って、四十二歳まで実参実究した事を評讃した言葉であり、山僧無仏法の穆山和尚が月潭老人から与えられる仏法が一つもなくなったことを意味するものであります。
かくして、師匠の月潭老人の方から如来寺の穆山和尚を訪問する場面となったのであります。
昔の御師家様は親切です。如来寺を訪問した月潭老人は穆山和尚と夕食を共にし十二年間能く忍び、能く学び、能く行じた中に色々面白かったこと、つらかったことなどを語りながら一偈(げ・韻文の詩のこと)を作り穆山和尚に呈示したのであります。
それは、
富嶽の巽兮三島の乾
霊龕年古りて草??
兎経一路水に随うと雖も
采葉流れず徳自ら鮮なり(原漢文)
という一詩であります。
日本一の秀嶺富士山の東南に当り、清冽な三島川の西北方に位する如来寺の霊龕に長年月わだかまっていた真竜が今や天高く伸びてその茂りが見ごとである。
今日まで十二年間(早川の)小路をひたすらに水の流れに随って来たけれども采葉も流れることなく長年月練行の徳の光が自然と鮮明に輝いている。
今や穆山和尚は、日本一の富士山のもと、三島川の清冽な水に身も心も浄め、その徳光富嶽に映じて清鮮な輝きを発するに至ったのであります。
月潭老人の印可証明の詩は穆山和尚が東京駒込の吉祥寺栴檀林時代に於て、既に漢学宗学等を修得して博士の実力を持ちながら尚進んで海蔵寺に於て宗乗(しゅうじょう・宗義および教典)を学び眼蔵を窮尽し、如来寺に於て多くの若き雲水を説得している勇姿を讃歌したものであります。まことに穆山和尚の学徳は博士号を取ってから更にひたすらに専門の道に不惜身命の精進を、歯がぬけるほど、頭がはげるほど、骨身を削って得られた深く高い内容のものでありました。こうした深さと高さがあったので後世日本一の眼蔵の大家と評され、「穆山死して眼蔵亡ぶ」とまでいわれるようになったのであります。
第二部 宗参寺時代
瞋恚(しんに・自分の心に逆らうものをいかりうらむこと。怒り)徹底の教育法
文久二年(一八六二年)穆山和尚は恩師曹隆様の寺、宗参寺の住職となる。穆山師を慕って集まれる者古知知常、折居光輪、野々部至遊、福永毫千等の老師を始め二十名程の学僧であった。その中の古知さんは、月潭老人の弟子であり、二十歳前の前途有望の学僧であった。古知さんは、毎日よく穆山師の提唱を聴いて、何かしきりに書いておった。穆山師は恩師の弟子である古知さんが、一生懸命筆記しているのを見て喜んでいた。ある日古知さんを方丈の間(住職の部屋)に呼んで、
穆山「古知、お前は毎日よく筆記しているようだが、何を書いているか?」
古知「いえ、何も書いていません。」
穆山「わしが毎日みていると何か書いているようだかな」
古知「いえ、何も書いていません。」
穆山「何もかくすことはない。わしがちゃんと見ておるぞ。」
告知「叱らなければいいます。」
橋山「決して叱らぬからいってみよ。」
告知「馬を書いています。」
穆山師まさかと思いながら
穆山「毎日書いていたら、もう三年にもなるから、大分上手になったろうな。」
古知「へい。」といって頭をかく。
穆山「はじめて書いた帳面と、最近書いた帳面を持って来て見せろ。」というと、いそいそと立って、持ってきたのをみると、馬ばかり書いている。
その馬たるや最初のものは保育園園児が書いたような絵で、五体ばらばらで、胸のあたりから足がはえていたり、背中から尾が出ていたり、馬とは見えぬものであった。それが三年目の最近のものは、足の出るところに足があり、尾のつけぎわもととのって、走るような、生きているような馬になっていた。
穆山師は、叱ることも出来ず、微苦笑しながら「おう、上手になった。精出して書け、もっと上手になる。」というと古知さんは喜んで帳面を持って自分の室に帰った。
これらの御話は、古知さんが十八歳から二十三歳頃迄のことで、古知さんは月潭老人の弟子であったから穆山和尚が特別温情をかたむけて教育した結果、後世曹洞宗大学林(今の駒沢大学)の学長となって恩返しをしています。(西有穆山門下の出世組の一人であります。)
傑人としての穆山和尚の教育法は、月潭老人譲りで、相手の不合理、欠点、無作法は寸分だに容赦せず厳しく叱正する方法で通した。この家風が宗参寺時代に既に激しく現われている。或時、古知さんが穆山和尚に叱られた。怒り出すと容易におさまらないことを知っている古知さんは、先輩達がやっているように、便所に逃げこんだ、ところがまだ中に入って戸を閉めないうちに追いつめられてしまった。進退ここにきわまった古知さんは、くるりと向きなおり、便所の戸を背水の陣として、合掌低頭して、穆山師にむかって、「前人悔を求めて、善言懺謝すれども猶ほ瞋り解けざるは、是れ菩薩の波羅夷罪なり。」と称えた。これは穆山和尚の得意として、毎日宗参寺で遶行(にょうぎょう・お堂の中を巡りながら読経する)しながら読誦されられていた梵網経の一節でいかりを戒めた戒法であります。
「御師匠様の前にいる私が、後悔して、おわびしているのにおわびを聴き入れずに、何時までも怒っているのは、不瞋恚戒を犯しているので、断頭罪でございます。教育者の生命を失ってしまいますが‥」と叫んだのである。
古知の真剣な態度と顔を見た穆山和尚、くすくす笑いながら方丈の間に退却してしまった。穆山和尚は教育熱心であったから、門弟達の為に殆んど講義を休まなかった。ところが或日、宗参寺の元旗本家の檀徒総代長が来ていろいろ話を持ち出し、酒食を共にして、朝から夜まで尻長の長談義をしてしまった。ついに、その日は休講の余儀なきに至った。その旗本の総代長が帰ると折居光倫(後の曹洞宗大学学長)さんを先頭に代表三名の門弟が来て、
折居「講義をしてくれぬようなところにいても無益ですから送行(そうあん・お暇乞)します。」
と申しあげた。
穆山「そうか、師家(教育の最高権威者)に暇をくれて、門弟の方から送行するというのか、よし、さあ出てゆけ、すぐ出てゆけ、さあ出てゆけ」
一同は面くらって狼狽したが、
折居「荷物をまとめる耶合もありますから、明日まで、お待ちください。」と策をめぐらしたが、
穆山「いいや、ならぬ、一刻もおくことはならぬ、さあ立て、さあ立て」と追いたてられて、荷物に手をつける暇も与えられず、門外に追い出されてしまった。代表となって「これからは休講をしない。」という言質を取ろうと思って、交渉した析居さんは、とうとう門前の信者の家に蟄居(ちっきょ・家にこもって外出しないこと)して、そこの篤信の老人をたのみ、老人と共に、日参してお詫びすること七日間、やっとゆるされて講義に加わることが出来たのである。
穆山和尚は、終生この瞋恚徹底の熱心な教育法を一貫したが、それが為に「百姓坊主、無道心者」と怒鳴られた。無理解の軽薄僧侶遠の感情を害した点もあり、いわゆる世間的出世が遅れて弟分の畔上楳仙師が、大本山総待寺独往二世に昇進した当時「弟の楳仙さんに負けた。」と評されたこともあるが、真の宗教家、表裏や、掛け引きのない指導者は殷誉褒貶を気にするようでは役に立たぬ、無位の真人よ、憂国の真士よ、不正に対していかれ、無道心者、恥を知らざる者をゆるすな、真の人間、有能の人材を養成打出する為の瞋恚の鬼となれ、と穆山和尚の生涯は人間を叱咤している。我々は襟を正さねばならぬ。
二、芝居の番附
穆山和尚が宗参寺の住職となり、一方の法将として幢幡(どうばん・堂内の荘厳具しようごんぐの一。竜頭または宝珠の飾りのある竿柱に六旒の旗を集めて六角形または円形に小旗を下げたもの。木製・金属製および金襴・綾製などがある)を高く掲げて多くの門弟が雲集し、恩師月潭老人の補助師家として機会ある度毎に随行して来たが、山梨県の有力寺院から、月潭老人に西堂(せいどう)職(僧侶修行の最高指導役)を拝請(御招待)に来た。その時、月潭老人は重病で応請できない状態でことわった。「それでは、御老人の代理として相応した師家様を差遣して下さい。」と要求されたので、月潭老人は、使者を宗参寺に派遣して、穆山師を呼び「これから後、私に代って、西堂職や、授戒会の戒師を勤め得るものは、お前より外にあるまい、御釈迦様に代って戒弟の懺悔をうける自信があるかな?」と念を押し、期待をかけて、老人が今日まで使用してきた三牌、紅幕、回向草紙、お袈裟、白浄衣等、結制授戒会という曹洞宗の命脈(生命)を継承する最高儀式の必要具を全部授与せられた。これで穆山師は月潭老人門下の第一人者という証明をされたのであります。
月潭老人の門下は前述せる如く畔上楳仙師、原垣山師等後世名を挙げた方々の外文字通り多士済々でありました。この幕末のかくれた大宗将も因縁つきて遷化(せんげ・逝去)せられたのでありますが、その遺書をひらいてみると、海蔵寺の後住候補者として、次の如く書かれてあった。
初筆 穆山瑾英
二筆 徳山快豊
三筆 義祐
これによって、嗣法の弟子古知知常老師が、檀徒総代を帯同して、初筆の穆山和尚を拝請(御招待)する為に牛込の宗参寺にやってこられた。
穆山師は月潭老人の大恩に報いる為にその招待に応じようと思って、浅草の本然寺の住職をしておる一番弟子の昶庵和尚を呼び寄せその話をすると、喜んで賛成してくれた。
それでは御前が宗参寺の後住になってくれというと、わたしは、その器ではありません。ことに宗参寺には先住時代からの借金が千両もあり御師匠様の力量でなければ到底整理することが出来ません。小子(私)が住職になれば宗参寺は破産してしまいます。
御師匠様(穆山師のこと)御本師泰禅様の寺(宗参寺)がつぶれても師家(月潭老人)に義理立てて晋住(住職となる)しなければなりませんかと突っ込んで来るのでやむを得ず海蔵寺行をおことわりした。
ところが数日後の早朝、穆山師が朝の勤行をすませて玄関までくると、立派な篤が二挺そろって横づけにされた。
それは関三ケ寺(総録の寺で大本山永平寺の貫首候補の寺)の一つである鴻の台の総寧寺様と、駒込の吉祥寺様であった。総寧寺は海蔵寺の本寺で、吉祥寺は宗参寺の本寺であるから、ただ事でないと思いながら書院に御案内申し上げた。
上位に御着席願い、湯茶を差し上げると、
総寧寺「古知知常師の御話によりますと、海蔵寺への晋住をおことわりとのこと、色々御事情 もありましようが枉(ま)げて御出頭願いたく存じ、御本寺吉祥寺様も御同道願って、改めて 拝請に参りました。先住月潭師の御遺言もありますので是非御願い致します。」と、本寺吉祥寺方丈(住職)様と共に深く頭を下げられたのであります。
穆山「両御本寺様の御尊来を賜わり、誠に恐縮に存じます。大恩を受けました老人の御遺言で ありますので、報恩の情をかたむけて、私自身は内諾申し上げましたが、本然寺の昶庵が宗参寺に来るといわぬので困っております。」と深々と頭を下げてお詫びしました。それでは私達から話してみよう。といって昶庵師を呼び、
総寧寺、吉祥寺「昶庵殿、御本師様が御承知であるから、貴殿も御承知願いたい。」
昶庵「本師(穆山師)が、老人の海蔵寺後住に晋住することは、有難いことであります。小子からもよろしく御願い致します」
総寧寺、吉祥寺「それでは、宗参寺に出て下さいますね。」と念を押しますと
昶庵「小子はその器でありませぬ。本師(穆山)以外に宗参寺を救うものはございません。」と頑として持論をまげません。流石の両御本寺様の権威も効むなしく、穆山師に、どうもお騒がせしました。と御挨拶して帰られ、穆山師、海蔵寺招待劇が幕を閉じたのであります。けれども自分が出られないと決まったからといって投げておくわけにゆかぬ、穆山師は書面を以て第二筆の快豊和尚を呼び、又古知老師も総代を帯同して宗参寺に集合した。
古知「穆山老師は種々の事情でおいで下さいませんので、二筆の貴師を拝請したいと思いま す。」
すると、謙譲を美徳としていた快豊師であるから、
快豊「拙僧の如き無学不徳の者は、老人の後住となるなど恐縮です。」と辞退した。すると、古知老師は「そんならよせ」といってさっさと帰ってしまった。
これは、古知師が恩師の穆山様なら無条件に心服しているが、その他では公平な態度をとった一証左である。古知師が帰った後に穆山師に向って、
快豊「あなたから御親切な書面を載いたから、適当な人材が見つかるまで席をけがす心算で出 て来たが古知師のあの態度ではね。」といって懐中から相当額の金を出して、この金も要がなくなったから使ってしまうまで置いて下さい」といって、江戸中を見物して帰ってしまった。
穆山師は古知師と相談の結果第三筆の義祐師を呼んで、
穆山「老人はお前さんを気に入りだったから海蔵寺に出てくれ。」と単刀直入に話した。
義祐「わしを後住にする気なら、何故初筆に書かぬ。三筆は要らぬという証拠だ。いやなこと だ。」といって突っぱねた。
穆山師、突如として、義祐師に向い、
穆山「貴公は芝居の番付を知っておるか。」
義祐「知っておるとも」
穆山「芝居の寄附は、書き出しが女形で、中軸が殿様で、おつとめが座頭だ。」
義祐「うん、そうだ。」
福山「それで、初筆のわしが女形で、役に立たず、二筆の快豊は殿様役で大根だ。三筆の貴公 がおつとめ役者の座頭で老人が一番頼りにしたのだ。どうだ。それでも三筆は要らぬという証拠か。」と逆襲すると、
義祐「うん、わかった。よし。よし。」これで海蔵寺月潭老人の後住が決定したのであります。
穆山師が、長年月、月潭門下として、問答の飯を喫して、義祐師が負けずぎらいで、何を訊かれても知らぬということが大嫌いであることを知りぬいていたから芝居の番附をかつぎ出して、義祐師をうまくはめこんだのであります。
穆山師の機智策略以って知るべし。それにしても、この時代までの宗風が有難いと恩います。自分に古知知常という立派な弟子があるのに一顧だにせず、随身(門下生)中より人物本位で後任住職を遺言し、又、弟子の方も師匠の意志を尊重して、それの実現に一生懸命努力している点は真に、仏法尊重の精神に燃えているので、現代の僧侶に薬として飲ませたいものであります。
東奥日報に見る明治三十三年の八戸及び八戸人
三戸郡の重要漁業
鰮漁業の始期は五月下旬なりしが昨年は魚群来集少なきをもって漁獲甚だ少なく漁季を経過せり盛漁期は八月中旬に至り鰮群来集せるを以って相応の漁獲あり然るに九月に至り風浪出水等の為漁家憂慮せしが十月初旬に至りて再び来集し越えて中旬より下旬に渉りて魚群益々加わり日々の収穫高二千円及び五千円の巨額に達し近年稀なる盛漁を来せり十一月十二月初旬に渉りて風浪のため出漁の季を失せしをありといえどもこれ又相応の漁獲ありて実に二十九年以来の盛漁なり然れども是沖取網の漁獲にして地引網おける僅かに二三回相応の漁獲ありしのみ十二月初旬前浜における投網は昨年の終漁とす而して魚場は南は鮫村金浜より岩手県の海面とす漁獲高昨年総量大凡百五十萬貫比価一貫目平均より立算すれば総額十万円余に達し前年に比すれば実に盛漁といわざるを得ず是沖取揚繰網の増加と豊漁の結果により斯くの如き昨年は相応の漁獲ありしを以って前年来の衰を幾分か復するを得一般の人気大いに引き立てり漁具に至っては二十五年揚繰網創始以来漸く発達し漁獲上到底地引網の比にあらざるを以って昨年の如きは三十余度の漁途に上れり今後益々揚繰網の発達を見るに至るべし次に?(いさざ)漁業漁期は例年四月中旬より漁獲に従事し産数少なからず殊に近年大に増殖し五六七八月の候を以って漁季となすと雖も鰮漁の余暇を以ってするか故本年の収穫総量大凡五百貫目価二千五百円鰮漁の次に上れり?は従来同沿岸に群来しありしと雖も 単に地引網で捕獲来たりしを以って漁獲寡少にして物産として目するに足らざりしか二十四五年頃より従来の手繰網に細目網を使用し捕獲するに至れり且つ漁法においても大に改良を加え現今盛況に至れり今後益々発達増進するや
電燈会社設立の計画
先日来八戸の有志者八戸町役場楼上にて相会し頻りに計画研究に余念なしという
八戸学事報
高等師範入学生 八戸町より本年高等師範学校へ入学するもの男子二名、女子高等師範学校へ入学するもの二名
八戸小学校の分割 同校は余りに膨大に遇ぐるを以って校長一人にて三十五名の職員二千名の生徒を統括すること実に困難なりしを以って文部省地方庁より数回分離に勧告を受けしが町会は之を否決し来たりしが今回学務員の奮発により漸く男女二校に分離することとなれり即学級の数は男子二十女子十四
教員の俸給 義務格より言うも他村教員の俸給に比するも何時も劣等の処新学務員の奮発により幾分か高まり気味となれり然れども能不能勤惰により増減せざれば有為の先生に逃げられる心配有之事と察せらる
実業補習学校 同校は漸く三十名ばかりの生徒を有し毎日二時間か三時間の学科あるのみにて後は歌かるたのみ妙齢の婦女しかも生徒の機嫌のみとる取りおるとは同校職員は女中か僕婢の積もりにや
水産補習学校 同校は湊村に創立せられ設備全く成りしをもって来月より始業せる由
中学校入学生徒志願者 本年第二中学校にて募集すべき生徒は百二十名にして志願者の数は二百六十名ばかり内八戸町にて九十七名ありという
第二中学校の先生 同校の先生には中々酒と白首をお好きの方あり夜な夜な新地遊郭地鮫遊郭地に通う先生あり下宿やの老婆先生にご忠告申し上げるに先生端然としてお答えあそばさるに「僕は○○を教授に出かけるんだ」婆曰くラシャメン御養成ですか先生赤面金時の火事見舞いの如し
中学校長の転任の噂 同校津田清長氏は岩手県福岡中学校へ転任すべしとの風説あり果たして真か
八戸小学校授業料全廃 八戸小学校にては本年より授業料を全廃する実に喜ばしきことなり
師範学校女子講習科 八戸町より今回入学するものは十一名にして何れも九日出発せり
八戸電燈と商業会議所 客月の通常町会に於いて八戸町において電燈業を営む者は一年三百六十円補助するの建議案全会一致にて通過したるより以来電燈熱頓に増加、永田市左衛門下斗米斉次郎の諸氏年来斯業に熱心企画せらるる事なれば大に有志を煽動し今や同所にて有力の方面にて之が発起人たらんとを諾せられたる者既に三十余名の多きに達せりと言う八戸も電燈の輝く時あるべきか因みに記す資本金は三万円にして五百燈を設置する見込みの由又同町にて斯案と同時に八戸商業会議所設置の議を郡長に稟議するの件並びに旧裁判所敷地建物は悉皆八戸町に保管せられたる旨司法大臣へ請願する件も同様一致を以って決定せりと言う
八戸の大漁
八戸近海にては本年は鰮大不漁にて営業者一同非常に困惑しおれる処一昨日は前浜、南浜、北浜にも一円の大漁なりしと引き続き好漁ならんには景気を回復するなるべし
子弟の情義
かくもありたし三戸郡小中野村小学校教員たりし戸来ちよ子は病魔の襲うところとなり去る一日終に不帰の客となり同三日光亀寺に埋葬の当時天亦之を悲しみてか雷雨甚だしく暗く袂を湿らすにかてて加えて同氏受け持ちの女生徒一里半余の道を遠しとせずして会葬し皆声を発し涕泣し中にも某生徒が悲しみに堪えかねてにや先生そこから出てきてくださいと叫びては泣きなきては叫ぶいじらしさに会葬の者皆鼻をすすり涙を流さぬはなしいわんや之を引率せし教師の胸中果たして如何なりしや小中野村は是人情軽薄の花柳界なる地しかもこれ等女生徒は一々がその卵と目せらるるもの然るにこの状を見るに及び如何に其の情義に篤く師を慕うの念深きかを知り併せて信服を得し教育者の徳波及する所如何に極まるかを知るに足るちよ子は八戸の人にして仙台高等女学校を卒業し三十二年四月より小中野小学校教師となり生徒を導くこと頗る懇切にして又学識に富み性質温良にして友情厚く為に父兄の信用を得ることも深かりしが行年二十二歳にして空しく黄泉の客となる真に斯道のために惜しむべきなり聞くところによれば氏と交情深かりし女教師某及び生前の親しかりし友某と発企者となり…略
八戸通信 赤痢 昨年末より本年にかけて清潔法施行其の功を奏す殊に本年夏期における果物及び鮪販売禁止ならびに祭奠群集禁止の結果にや当町に於ける赤痢患者は初めより七八名に過ぎず殊に昨年最多数の同患を出したる八太郎村小中野村鮫村の如きは未だ患者を出さざるは偏に警官の注意周到の功と言わん先に禁止の為細民の怨みを買いたる警察は今や町中の歓声となるに至れり昨今寒暖計も朝夕六十七八度の冷気なれば今後は愈々気支なき事ならん
医師 過般避病院の新築落成に付き町長は各医師に通牒し是が維持経営の件を相談せるに医師等はその如き小額の金にては到底経営する能わざるにて更に若干金を増加せざるにおいては当町医師一人も之に応ぜざるべしとて殆ど同盟の有様を以って其の場は退きたるにも拘わらずその後如何なる内約ありしか知らざるも二三の医師は町長の勧告によりて院長とか主治医とかの名目の下に承諾せるかかる輩は常には公席においては立派なる口をきくも其の内心は陋いことを知るべし
八戸の娼妓自由廃業
三戸郡小中野村大字裏新町裏新廓地花月楼娼妓トヨ(二十)といえるは湊村大字浜通り字白銀二百五十壱番地中村仁助の妹なるが今より五年前現楼主福島トメより僅かの金を借り受け七年の年季にて雇い入れられたるものなるがその後トメはトヨの段々成長するに従って見目麗しくなり兄仁助に相談し戸籍面を養女と為しトヨが十八歳のとき初めて娼妓の業を営ましめしも本人はなんとかして廃業せんものと思いおる内この頃(注・明治三十三年は各地で自由廃業が叫ばれた)自由廃業の耳にせしより哀れ其の手続きをも聞き糾し一臂の力を添えくれる人の来よかしと泣いて嬉しき月日を送りおるに然るに八戸町の某なる者フト先夜遊びに来たり知れる仲とて種々の世間話より花が咲き自由廃業のことに至りし某はトヨの心を哀れに思いて之を引き受け直に楼主トメへ其の旨を談じ込みたり然るにトメは前来の事情などを述べ立てて中々承引する様子なきより遂に中村トヨは盛岡市なる介川弁護士を頼み楼主福島トメは八戸町永安弁護士を以って八戸区裁判所へ出訴せしが去る十九日同裁判所にて判決を下し本人営業の意思なきこと明白なるにより廃業せしめ且つ養女の離籍を為し裁判費用は福島トメにて負担すべき旨宣告せられたるより結局トヨの勝利に帰したり之を聞きたる同楼のイシと言えるも廃業の談判を持ち込みたるより福島トメは青くなり狂気の如く奔走しおれると
八戸通信
極楽祭 旧南部藩にて斬罪に処せられたる者の慰霊を祀るが為旧藩士大沢多門氏の尽力にて石地蔵を作り延命極楽祭りとし昨日より今日まで長者村大慈寺に於いて大供養を行いたるに雨夜に球燈を吊るしたるも賑わいたるたるが明三十日は石地蔵を大慈寺より引っ張り八戸町例祭の通行路を経て小中野村梅翁庵に至る筈なりと
鉄道惨死
八戸町馬場吉太郎(四八)といえるは同停車場に雇われ貨車を押送中尚引き続き他の貨車後方より押送し来たりて吉太郎を圧搾し頭部及び胸部に重傷を負い両眼を出るなど眼も当てられぬ最期を遂げたりと
八戸女学校問題
県当局者は明年度において八戸に高等女学校設置に企てあることはこのほどの紙上に記せるが昨日の「陸奥日報」は福田白浜氏の名を署せる篇と論説を掲載し南部地方利益の交換課題とし八戸高等女学校設置するに至れりとなし県知事の方針を難じ八戸未だ高等女学校を設けるの必要なしとて之に反対す(後略)
八戸商報の発行
八戸印刷株式会社にては来る三十日を以って八戸商報を創刊する由
鰮漁業の始期は五月下旬なりしが昨年は魚群来集少なきをもって漁獲甚だ少なく漁季を経過せり盛漁期は八月中旬に至り鰮群来集せるを以って相応の漁獲あり然るに九月に至り風浪出水等の為漁家憂慮せしが十月初旬に至りて再び来集し越えて中旬より下旬に渉りて魚群益々加わり日々の収穫高二千円及び五千円の巨額に達し近年稀なる盛漁を来せり十一月十二月初旬に渉りて風浪のため出漁の季を失せしをありといえどもこれ又相応の漁獲ありて実に二十九年以来の盛漁なり然れども是沖取網の漁獲にして地引網おける僅かに二三回相応の漁獲ありしのみ十二月初旬前浜における投網は昨年の終漁とす而して魚場は南は鮫村金浜より岩手県の海面とす漁獲高昨年総量大凡百五十萬貫比価一貫目平均より立算すれば総額十万円余に達し前年に比すれば実に盛漁といわざるを得ず是沖取揚繰網の増加と豊漁の結果により斯くの如き昨年は相応の漁獲ありしを以って前年来の衰を幾分か復するを得一般の人気大いに引き立てり漁具に至っては二十五年揚繰網創始以来漸く発達し漁獲上到底地引網の比にあらざるを以って昨年の如きは三十余度の漁途に上れり今後益々揚繰網の発達を見るに至るべし次に?(いさざ)漁業漁期は例年四月中旬より漁獲に従事し産数少なからず殊に近年大に増殖し五六七八月の候を以って漁季となすと雖も鰮漁の余暇を以ってするか故本年の収穫総量大凡五百貫目価二千五百円鰮漁の次に上れり?は従来同沿岸に群来しありしと雖も 単に地引網で捕獲来たりしを以って漁獲寡少にして物産として目するに足らざりしか二十四五年頃より従来の手繰網に細目網を使用し捕獲するに至れり且つ漁法においても大に改良を加え現今盛況に至れり今後益々発達増進するや
電燈会社設立の計画
先日来八戸の有志者八戸町役場楼上にて相会し頻りに計画研究に余念なしという
八戸学事報
高等師範入学生 八戸町より本年高等師範学校へ入学するもの男子二名、女子高等師範学校へ入学するもの二名
八戸小学校の分割 同校は余りに膨大に遇ぐるを以って校長一人にて三十五名の職員二千名の生徒を統括すること実に困難なりしを以って文部省地方庁より数回分離に勧告を受けしが町会は之を否決し来たりしが今回学務員の奮発により漸く男女二校に分離することとなれり即学級の数は男子二十女子十四
教員の俸給 義務格より言うも他村教員の俸給に比するも何時も劣等の処新学務員の奮発により幾分か高まり気味となれり然れども能不能勤惰により増減せざれば有為の先生に逃げられる心配有之事と察せらる
実業補習学校 同校は漸く三十名ばかりの生徒を有し毎日二時間か三時間の学科あるのみにて後は歌かるたのみ妙齢の婦女しかも生徒の機嫌のみとる取りおるとは同校職員は女中か僕婢の積もりにや
水産補習学校 同校は湊村に創立せられ設備全く成りしをもって来月より始業せる由
中学校入学生徒志願者 本年第二中学校にて募集すべき生徒は百二十名にして志願者の数は二百六十名ばかり内八戸町にて九十七名ありという
第二中学校の先生 同校の先生には中々酒と白首をお好きの方あり夜な夜な新地遊郭地鮫遊郭地に通う先生あり下宿やの老婆先生にご忠告申し上げるに先生端然としてお答えあそばさるに「僕は○○を教授に出かけるんだ」婆曰くラシャメン御養成ですか先生赤面金時の火事見舞いの如し
中学校長の転任の噂 同校津田清長氏は岩手県福岡中学校へ転任すべしとの風説あり果たして真か
八戸小学校授業料全廃 八戸小学校にては本年より授業料を全廃する実に喜ばしきことなり
師範学校女子講習科 八戸町より今回入学するものは十一名にして何れも九日出発せり
八戸電燈と商業会議所 客月の通常町会に於いて八戸町において電燈業を営む者は一年三百六十円補助するの建議案全会一致にて通過したるより以来電燈熱頓に増加、永田市左衛門下斗米斉次郎の諸氏年来斯業に熱心企画せらるる事なれば大に有志を煽動し今や同所にて有力の方面にて之が発起人たらんとを諾せられたる者既に三十余名の多きに達せりと言う八戸も電燈の輝く時あるべきか因みに記す資本金は三万円にして五百燈を設置する見込みの由又同町にて斯案と同時に八戸商業会議所設置の議を郡長に稟議するの件並びに旧裁判所敷地建物は悉皆八戸町に保管せられたる旨司法大臣へ請願する件も同様一致を以って決定せりと言う
八戸の大漁
八戸近海にては本年は鰮大不漁にて営業者一同非常に困惑しおれる処一昨日は前浜、南浜、北浜にも一円の大漁なりしと引き続き好漁ならんには景気を回復するなるべし
子弟の情義
かくもありたし三戸郡小中野村小学校教員たりし戸来ちよ子は病魔の襲うところとなり去る一日終に不帰の客となり同三日光亀寺に埋葬の当時天亦之を悲しみてか雷雨甚だしく暗く袂を湿らすにかてて加えて同氏受け持ちの女生徒一里半余の道を遠しとせずして会葬し皆声を発し涕泣し中にも某生徒が悲しみに堪えかねてにや先生そこから出てきてくださいと叫びては泣きなきては叫ぶいじらしさに会葬の者皆鼻をすすり涙を流さぬはなしいわんや之を引率せし教師の胸中果たして如何なりしや小中野村は是人情軽薄の花柳界なる地しかもこれ等女生徒は一々がその卵と目せらるるもの然るにこの状を見るに及び如何に其の情義に篤く師を慕うの念深きかを知り併せて信服を得し教育者の徳波及する所如何に極まるかを知るに足るちよ子は八戸の人にして仙台高等女学校を卒業し三十二年四月より小中野小学校教師となり生徒を導くこと頗る懇切にして又学識に富み性質温良にして友情厚く為に父兄の信用を得ることも深かりしが行年二十二歳にして空しく黄泉の客となる真に斯道のために惜しむべきなり聞くところによれば氏と交情深かりし女教師某及び生前の親しかりし友某と発企者となり…略
八戸通信 赤痢 昨年末より本年にかけて清潔法施行其の功を奏す殊に本年夏期における果物及び鮪販売禁止ならびに祭奠群集禁止の結果にや当町に於ける赤痢患者は初めより七八名に過ぎず殊に昨年最多数の同患を出したる八太郎村小中野村鮫村の如きは未だ患者を出さざるは偏に警官の注意周到の功と言わん先に禁止の為細民の怨みを買いたる警察は今や町中の歓声となるに至れり昨今寒暖計も朝夕六十七八度の冷気なれば今後は愈々気支なき事ならん
医師 過般避病院の新築落成に付き町長は各医師に通牒し是が維持経営の件を相談せるに医師等はその如き小額の金にては到底経営する能わざるにて更に若干金を増加せざるにおいては当町医師一人も之に応ぜざるべしとて殆ど同盟の有様を以って其の場は退きたるにも拘わらずその後如何なる内約ありしか知らざるも二三の医師は町長の勧告によりて院長とか主治医とかの名目の下に承諾せるかかる輩は常には公席においては立派なる口をきくも其の内心は陋いことを知るべし
八戸の娼妓自由廃業
三戸郡小中野村大字裏新町裏新廓地花月楼娼妓トヨ(二十)といえるは湊村大字浜通り字白銀二百五十壱番地中村仁助の妹なるが今より五年前現楼主福島トメより僅かの金を借り受け七年の年季にて雇い入れられたるものなるがその後トメはトヨの段々成長するに従って見目麗しくなり兄仁助に相談し戸籍面を養女と為しトヨが十八歳のとき初めて娼妓の業を営ましめしも本人はなんとかして廃業せんものと思いおる内この頃(注・明治三十三年は各地で自由廃業が叫ばれた)自由廃業の耳にせしより哀れ其の手続きをも聞き糾し一臂の力を添えくれる人の来よかしと泣いて嬉しき月日を送りおるに然るに八戸町の某なる者フト先夜遊びに来たり知れる仲とて種々の世間話より花が咲き自由廃業のことに至りし某はトヨの心を哀れに思いて之を引き受け直に楼主トメへ其の旨を談じ込みたり然るにトメは前来の事情などを述べ立てて中々承引する様子なきより遂に中村トヨは盛岡市なる介川弁護士を頼み楼主福島トメは八戸町永安弁護士を以って八戸区裁判所へ出訴せしが去る十九日同裁判所にて判決を下し本人営業の意思なきこと明白なるにより廃業せしめ且つ養女の離籍を為し裁判費用は福島トメにて負担すべき旨宣告せられたるより結局トヨの勝利に帰したり之を聞きたる同楼のイシと言えるも廃業の談判を持ち込みたるより福島トメは青くなり狂気の如く奔走しおれると
八戸通信
極楽祭 旧南部藩にて斬罪に処せられたる者の慰霊を祀るが為旧藩士大沢多門氏の尽力にて石地蔵を作り延命極楽祭りとし昨日より今日まで長者村大慈寺に於いて大供養を行いたるに雨夜に球燈を吊るしたるも賑わいたるたるが明三十日は石地蔵を大慈寺より引っ張り八戸町例祭の通行路を経て小中野村梅翁庵に至る筈なりと
鉄道惨死
八戸町馬場吉太郎(四八)といえるは同停車場に雇われ貨車を押送中尚引き続き他の貨車後方より押送し来たりて吉太郎を圧搾し頭部及び胸部に重傷を負い両眼を出るなど眼も当てられぬ最期を遂げたりと
八戸女学校問題
県当局者は明年度において八戸に高等女学校設置に企てあることはこのほどの紙上に記せるが昨日の「陸奥日報」は福田白浜氏の名を署せる篇と論説を掲載し南部地方利益の交換課題とし八戸高等女学校設置するに至れりとなし県知事の方針を難じ八戸未だ高等女学校を設けるの必要なしとて之に反対す(後略)
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