デーリー東北新聞の発行は昭和二十年十二月十五日。月十回発行、購読料は一ヶ月二円五十銭、一部売り十銭。つまり現今の百円が十銭にあたるか。
創刊号はタブロイド判四ページ。資本金十万円、今の金にすると一億円になるだろう。出資者は成田武夫、神田宏(神田重雄の五男、八戸中学から早稲田高等工学校に進学後、漁業、艀業に従事、番町の中央印刷の専務)、峯正太郎、大津毅、木村錠之助、田口豊洲、広田豊柳、穂積義孝、笹本嘉一、平野善次郎、金野豊作、工藤忠三、佐々木正太郎、木村正逸。この中から社長に神田宏が選ばれた。
穂積は田子町の出身、早稲田を卒業、昭和四年に読売新聞入社、昭和十四年上海「大陸新報」へ転ずる。十七年に帰郷し建設、貨物輸送、航空会社役員。穂積は終戦直後、直ちに行動を起こし、まず新聞用紙の確保に奔走した。当時、用紙の配給割り当てはGHQ(連合軍総司令部)の意向に左右され、GHQの了解を得ることが先決問題だった。GHQの許可を得やすくするため、紙面の半分を英語、半分を日本語で表記した半英字新聞を発行し、東北地方の進駐軍キャンプにも配布する計画だった。
穂積は同年九月、GHQに顔の利く知人ラジオプレスの広塚常務を東京から呼んで八戸市高舘に進駐していた米軍司令官ベル代将に用紙の配給を要請した。ベル代将はこれを快諾、十一月にタブロイド判で三万部の用紙割り当ての通知があった。十二月五日に情報局総裁河相達夫宛に正式な新聞用紙配給申請書を提出し許可。 ベル代将は「英字新聞は必要ない」、日本語による普通の新聞を発行することになった。当時、八戸市には印刷所が五ヵ所ほどあったが、このうち新聞印刷ができるのは同市番町五番地の中央印刷株式会社であった.同社は雑誌「月刊評論」を発刊した実績を待ち、平版活版印刷機十台、活字三セットなどを設備し、その規模は県内一だった。また、同社は戦時中、大湊軍事部の海軍軍需工場に指定されており、印刷用紙が現物支給されていた。
終戦でこれが払い下げとなり、同社は大量の紙を所有していた。この設備と用紙に着目し、戦前の新聞の復刊や新規発刊を待ちかけた旧新聞関係者が何人かいたが、同社はこれを断っていた。
穂積は中央印刷に印刷を要請。新聞印刷は毎日、数多くの活字を酷使するため、活字の摩耗を嫌い最初これを断った。しかし、穂積は早期に活字鋳造機を設置し、自社印刷へ切り替えることを約束、再三の協力を求めようやく印刷を引き受けさせる。
さらに、中央印刷に近接する番町三番地のボロ家屋、旧奥南新報社を譲り受け本社設置。従業員を採用、創刊準備。穂積は並行して会社創立発起人と株主を募り、定款を作成するなど新聞社創立に向けての準備を着々と進めていった。
穂積が社長に就任しなかったのは、翌年、昭和二十一年四月の総選挙に日本民党から出馬予定のため。
お鉢が廻った神田とはどんな人物だったのだろう。未亡人から聞いてみた。
神田宏、大正三年生まれ、八戸中学から早稲田実業に進学、父は重雄(二代八戸市長、根室郵便局勤務後、湊小学校教員、水産界先駆者長谷川藤次郎の帳場を勤め明治四十四年鯨騒動では新井田川に身を潜め難を逃れる。二十五歳で湊村村会議員、昭和五年市長就任、十七年までの三期を勤めた)、戦争に出ることなく神田家の漁業などを管理。昭和十七年成田裕子と結婚、この成田一族が中央印刷を経営し、昭和十二年「月刊評論」を発刊、八戸に新聞以外の活字文化を開花させる。宏もこの「月刊評論」に加わり編集部門を担当。人が良く頼まれると嫌と言えない性格、常に新しいものに意欲を燃やし、貧乏暮らしをするも理想に燃えた人。平成二年没。
人は齢を重ねるだけでは老人にならない。理想を失った時にこそ老人になる。神田宏はそうした人で、青年の理想を最後の一瞬まで失わない男だった。
成田一族が経営した中央印刷の協力なく、デーリー東北新聞は存在しない。策士穂積は成田武夫を監査役に招聘、神田宏を社長に祭り上げる。人は人の協力なくして夢を現実に置き換えることはかなわない。
穂積は実を取り名を捨て、政界へ確実な一歩を踏み出す為、メディアたる新聞社を興す。時代が要求したことではあるが、先の読める男だったのだろう。すると、ここで成田一族とはどのような人物構成で、何の事跡を残したかが気になるところ。ここらは神田裕子さんの記憶を整理していただき、成田一族四姉妹から色々と掘り出す予定。東奥日報刊の「青森県大人名辞典」に成田一族は掲載されておらぬ。神田宏もしかり。こうなると「八戸人名辞典」刊行が待たれる。世の中は人が動かす場。その人を知らず何が人生か。
先人の労苦を知り、時代の一齣である我が人生の範とする、これこそ大事。
さて、今回の取材で判明した「月刊評論」がどのような紙面であったかを、お見せする。
デーリー東北新聞の話を続ける、創刊号の紙面は、一行十三字、一段五十五行、一ページ八段。縦書きの題字で、上部欄外に右から「紀元二六〇五年デーリー東北昭和二十年十二月十五日(土曜)創刊号」と表示している。一面に創刊の辞、神田社長の発刊の辞、金井元彦青森県知事の祝辞、祝辞寄贈芳名を掲載。二面は穂積会長の「民主々義日本の建設」国会と青森県議会記事。三面は千葉富江千葉女学校長の寄稿、佐々木泰南書道展、新有権者数などの雑報。四面は
婦人参政権座談会と女性投稿欄「女性論壇」。各面に二段から三段の広告が入っている。
創刊の辞、発刊の辞には終戦直後の疲弊した政治、経済、社会情勢の中で新聞を新規発刊する意図、意気込みがあふれている。
この紙面はそのうちお見せすることにして、昭和十二年の「月刊評論」を語る。B4縦判で大ぶりな雑誌。
創刊号は●上水道敷設に関し果たして疑点なきや、●市は市民の財産を如何に算定したか●次回市会議員模擬メンバー●魚市場はこんな仕組みだ●田口和尚は鸚鵡ではない●小型映画界の権威橋本雄造氏●三戸の測候校長●八戸一流の商店に苦言を呈す●新春殿方洋服調べ●三戸地方一帯小正月の慣習●六十年ぶりに日の目を仰ぐ三本木原国営開墾事業●三本木に大ホテル建設の要なきや●情けない市議諸公●予算市会を批判検討する座談会●深夜の大塚横町を探る●県南より東京オリンピック選手を出せるか●県南中等校各部選手、卒業生と本年度選手●夜這いと家宅侵入罪●いんきん奇譚●水のない港の行船覚書●汽車時間表▲表紙オフセット四色・写真石井写真館撮影と盛りだくさん。
写真館の名が出たので整理してみる。
古い順に明治三十四年創業の瀬川義寿の高沢写真館、鷹匠小路、この高沢写真館の創始者は彦六、明治四十年、鷹匠小路、高野写真館、明治四十四年、番町の北山写真館、大正九年、鳥屋部町、青霞堂、大正十二年、小中野新丁、成田写真館、昭和二年、長者山下、大島写真館、昭和三年、番町、富士写真館、長者山、米田写真館、長横町、石井写真館、昭和九年、番町、中居写真館、昭和十年、十三日町、林写真研究所、十六日町、シラト写真館、昭和十一年、鍛冶町米田写真館支店、鮫、ウシホ写真館、小中野新地、小野三栄スタジオ、昭和十二年、平中、花写真館と陸続。
この頃は庶民が写真機を持たず、戦争もあれば記念写真を撮らないと戦死した時、記録も記憶もなくなる。つまり軍事産業と言えるだろうか。こんな暗闇の時代でも八戸は活き活きしていた。「月刊評論」は昭和十二年二月創業。当時の印刷・出版界は明治三十年、八戸印刷、北村益、長横町、明治三十三年、八戸新聞社、鈴木惣吉、八幡町、明治四十一年、奥南新報、小山田義郎、番町、大正九年、八戸毎日新聞、武藤勝美、番町、八戸荷札、金沢慶蔵、長横町、大正十二年、三八城公論社、稲川義忍、古常泉下、報知新聞、金沢正美、吉川印刷所、二十八日町、吉川亮、大正十四年、東北荷札、伊藤富松、昭和五年、八戸日報、下野末太郎、藤村印刷、藤村喜代治、長横町、丸の内印刷、原易三、八幡町、昭和六年、片子沢印刷、片子沢由蔵、常番町、昭和七年、森越印刷、森越亀太郎、鍛冶町、昭和八年、立花印刷、立花周三、小中野佐比代、、八戸報知新聞、金沢正美、下組町、昭和十年、浄国青年公論社、高橋松海、湊十王院、昭和十二年三八城公論社印刷部とある。「月刊評論」の印刷所は八毎印刷部とある。中央印刷は八戸毎日印刷と同じなのだろうか。
いくつかの疑問点を整理しなければならないが、「はちのへ今昔」もギョッとするような斬り込みを見せる。
八戸市一流の商店に苦言を呈す
むくれる前に御考慮ありたし XYZ
前略 早い話が八戸市一流の店で最もヒドい一つが「仙台屋」さんだ。いつ行っても店先が大繁盛で、人が黒山―でもないがーの如く居るのだから、配達に手が足らないのであろう。それに「大根十銭届ける」「ネギ五銭」じゃ配達甲斐のないのも解るが…。ひどい時には三時間位投げられる。急場に慌てて注文した品が三時間後に到着したのでは話にならない。大分腹を立てている向きもあるが、なにしろ八戸第一の信頼のおける店なだけに何と言っても仙台屋さんなのだから、この点を考えて、小僧を増員するなり、何とか敏速な方法を講じて貰いたい。
近来旅の人が沢山入り込んでいる八戸だ。旅の人達は五銭、十銭の電話買いは普通の習慣なのだから、八戸市の名誉?のためにも代表的商店として何とかしてほしい。
「葱二十銭大至急にね」
「ハアハア、只今すぐに」
が三時間になるのだから、そうでなく、手の足りない時は
「三十分御ゆうよ願います」
とか兎に角、時間的ペテン売りではなく、そこいらも紳士的にお互いに信用し合うよう、やって貰いたい。でないと、それぞれ、有力な競争店が出現した場合に「八戸の仙台屋さん」の長いノレンに相当打撃を与えることになりはすまいか。これは親しみある店であるだけに甚だ惜しい。御考慮を願う。
お届けの長いのに、七尾家具店がある。これなどは極端で。電話で再三の催促にもかかわらず二日も投げられる。これは少々ベラ棒な話で、商店にとって
「職人が休んだ」とか
「人手が足りないので」
などは何も弁解になるものではない。
既製品を買っても二日投げられるとなるとこれは少々考えなきゃなるまい。
商店は芸術家の原稿とは違う。
購買心理というものは妙にデリケートなもので、商店の頭痛の種もその見極めにあるものだが、八戸一流の七尾さんだとてあまりにあまりだとこれからの客はそっぽを向きます。それに、色々な家具店が相当八戸にもあるのだから、そういう点を、率先して改めてもらいたい。七尾さんが八戸の代表的商店であるからこそ敢えて苦言を呈する次第。
「くどう吉」
極めて、お世辞の良い店に「くどう吉」がある。あの世辞は、一面購買者の心を捕らえるようだが、しかし極めて危険である。
売らんかなの空お世辞に聞こえるからだ。
「あなたにこれを着せて八戸中を歩いて貰いたいようです。肩といい胸のあたりと言い八戸には惜しいスタイルだ」などとやられては顔では笑っていてもムッとくる。何言ってやがるんだ…と反感に似たものがグッとくる。
やはり誠意をもって、客と共に品とか柄とかを選んで、これなら、この人に合うという自信を持って薦めてもらいたい。余り美辞なお世辞をやられると、品質にまでフト疑いが起きて信用できない怖れがある。
殊に色々目の高い人達が八戸に入りこんでいる今日、ご用心が肝要。
関野薬局
これと又正反対にお世辞など薬にしたくない薬店―洒落ではないーは関野薬局。
「ゲバルトがあるかえ?」
「そこにある」
とご主人ニコリともしない。
「これつけてくれるね」
「持っていったらよかろう」
万事この調子。最初に行った時びはムッとする。何だこの野郎!と思う。
ところが、二度三度行くうちに、妙に親しみを感じてくる。遠慮のいらない気の置けない店だと思い始めて来る。それに悪気がないのだの品物は確かだから、客には無駄なお愛嬌よりは安心だ。「やあ親父…」そう言って親しんで行ける店である。しかも配達となると小僧連実に敏速で気が利いているのだから文句が言えない。これなど購買心理の裏を行く方法だろうが、これはこれで、又面白い店である。商法としての危険も多いだろうがヨキである。
伊吉書店
ひどいのは伊吉書店。田舎の本屋としては品物が相当豊富―但し、次第に都会化して行く八戸の読者階級を軽視するなかれーだが、お世辞も愛嬌も全くない。それで、親しめるかというと、どっこい。銀行へ借金の言い訳に出向いたみたいに重苦しい雰囲気だ。高座に頑張ってるご主人を見て
「閻魔様みたいだ」と評した失礼な奴がいるが、しかし、評するには何らかの理由があるのだろうから、宜しくご賢察を乞う。それに、配達は敏速にして貰いたい。
さて、最後は三萬デパートだが、八戸唯一のデパート三萬の名は余りにも有名だ。八戸として誇りの一つであろうが、それだけ、品質共他に苦情も文句もあるわけがない。
兎に角、八戸地方文化生活の水準を調査するには、三萬を調査してみれば、大体正鵠な結果が得られるだろうと思われる。
だが一言。―二階売り場の売り子さん達にー店員同士の私語や忍び笑いが、例え客の批評をしているのではなくとも愉快なものではない。暇にまかせて、こそこそ話をしてしていたり登って行った客をジロジロー例えジロジロでなくとも、そう感じられますゾー見回すのは不愉快至極、「私語を慎め」「忍び笑い絶対排撃」を実施されたし。
ご主人様に御一考を慮わす次第―
続