人は人によって伸ばされ励まされる
人生は不思議な道場、自分では、それと気付かぬが同じ事を繰り返す日々、幾つになっても稽古、稽古。稽古とは(昔の物事を考え調べること。学んだことを練習すること)千日(三年)をもって鍛(たん)といい、万日(三十年)を以て錬(れん)という。
鮫の駅前に三浦仲さんという笑顔のステキな可愛いおばあちゃんがいる。この人は美容師、現役ではりきっているけど、生まれは昭和二年、今度誕生日がくると八十才におなりだ。
昭和生まれも八十才になった、と思うと感慨無量。つい昨日まで若いつもりでいたのだが、歳に勝てない足腰痛いで、八戸美容組合支部長を長く務め、更に県の組合理事長職も全(まっと)うされた三浦仲さんも、馴染みのお客様だけを相手にノンビリ雑談、しんみり昔話を語ります。
ところが、この仲さん、女なれども弁舌さわやかにして、人々の胸をえぐる話をされる。「はちのへ今昔」が、その昔、表紙を色刷りし、今より三倍も売れていた。その当時、筆者も本誌をひろめたく理・美容組合にお願いし市内の床屋、美容室に「はちのへ今昔」を置いてくださいと懇願。よろしいと両組合が快諾し、各店に「はちのへ今昔」が置かれるようになった。今から八年も前の話だ。
その時から三浦仲さんを知るようになったが、この人に演説させると、右に出る者なしの巧さ。
仲さんのは言語明瞭、意味鮮明ときているから聞く人は納得し説得される。この人が政界に出たら世の中良くなるだろうとつくづく思った。ところが世の中は妙なもので、なって欲しい人が出ないで、なりたい人が出るのが選挙。「したい人よりさせたい人を」という標語があるが、この仲さんはまさにそれ。
と言うのもこの人には信念があり、それが口を開 かせる。全国津々浦々に神社仏閣は山ほどあるが、仲さんは名だたる神社仏閣にしか足を運ばれない。そして只の一度たりとも我が身の幸せを念じたことがない。いつも願うのは同じ言葉、それは「世界平和」。
というのも、この人のたどった足跡を見れば判る。
それでは、三浦仲さんの人生スゴロクをたどってみよう。
下田(現今はおいらせ町)の農家の五女として誕生、幼い頃から母親、姉妹の髪をいじることに興味を持ち、髪結いさんになろうと心に決める。昔は美容師なんて言葉もなかった。仲さんが十歳の頃、八戸の髪結いさんはどうなっていたかと言うと、明治三十七年開業が糠塚下屋敷の佐々木スケ、明治三十九年が朔日町の櫛引ヤス、鍛冶町の舘合トメ、大正六年、小中野中道の松橋シモ、大正八年、小中野佐比代、中道トメ、六日町、板橋てつ、大正九年、八幡町、水梨タミ、大正十年、六日町、中村結髪所の中村貞、大正十三年、鮫、杉橋アサ、大正十四年、鮫、吉田リサ、大正十五年、長横町新山美粧院の新山はな、この美粧院はいい名前だ。はなさんにお目にかかったことがあるが、この人も八戸の立志伝中の一人、小中野佐比代、佐々木カヨ、昭和二年、大工町、植村もと、昭和四年、朔日町、金沢え、小中野佐比代、竹沢マツ、昭和六年、小中野佐比代、中野ソノ、北横町、村尾トメ、鮫、山田キエ、昭和七年、小中野佐比代、織笠ナミ、昭和九年、小中野中道、富田ナツ、鮫町松苗場、宮崎みい、昭和十年、六日町、中村サダ、小中野中道、吉田オリ、昭和十一年、小中野新丁、夏堀キク、小中野浦町、平船チヨと続く。これら美容師連に師事し免許を取得する組と、東京、仙台の美容学校で免許取得組とに大別されるが、三浦仲さんは東京組。
なんで下田の娘が東京に出ることが可能かとの疑問を持つのは大変によろしい。そこを解説すると、仲さんに姉、その人が東京葛飾の柴又近く、堀切菖蒲園のそばに嫁した。十月十日を過ぎると飛び出すのが赤ん坊。そのお産の手伝いに仲さんが出た。
ここは東京の下町、小津安二郎が撮った松竹映画昭和二十三年作、不朽の名映画、「東京物語」、長兄の医師を演じたのが山村聰、実に渋い役者だった。この医者の診療所兼居宅があったのが堀切。東武線沿いに荒川が流れる、風情溢れる町。ここに折角出てきたのだからと、持ち前の負けん気魂の持ち主仲さんは、当時東京一と称された美容学校に学ぶ。この学校は大正十五年、新宿区四谷にオリエンタル美容研究所を創設した真野房子が新技術を新生日本に広めるべく、最新の美容指導集団を結成し、新宿区西大久保に真野高等美容女学校を創立したのが昭和二十五年、ここに仲さんが飛び込んだ。真野は熱心な燃える瞳を持つ仲さんに惚れ込み、自ら厳しく指導。また仲さんもなかなか骨あるところを見せ、優秀な成績で東京都の美容師免許を取得。
教える側、受ける側の呼吸がピッタリすると、予想以上の成果が上がる。真野先生は仲さんを手放そうとせず、新宿伊勢丹近くの店、次は飯田橋の店と放さない。仲さんも都会の水がすっかり気にいって、月日は夢の如く。
これを心配した仲さんの母は、「ハハキトクスグカエレ」と自分で電報を打つ。危篤どころか少々具合が悪く、八戸市内の一松堂種市病院に入院、十日も過ぎると慌ただしく東京へ、そんなこんなを三回も繰り返すうち、母の薦めもあって鮫に店を出す。母としては可愛い娘を手もとに置きたかったのだろう。
鮫の店は借家、呉服屋の二階を借りたが、東京帰りの凄腕の美容師がいる。鮫に店を開いたゾと噂が噂をよんで、朝四時から開店を待つ婦人たち。女心だ、誰よりも美しくなりたいと血道を上げる、まるで白雪姫のお母さんのようなもの。磯仕事を終えた人達、加工場、イサバのかっちゃたちが仲さんを育てた。
当時東京帰りの美容師は二人しかいなかったそうだ。そして昭和二十七年に八戸理容美容学校を創立する、三浦さんも役員に入れと強談判。そして、八戸の理・美容家たちが卵たちを手取足とりながら指導。第一期生のうち三人が三浦先生の店で働く。
こうなると仕事は忙しい、お客さんはたてこむ、嫁入りの相談がきて、花嫁仕度をさせる、それに
お客さんはたてこむ、嫁入りの相談がきて、花嫁仕度をさせる、それにはカツラから衣装まで自前で先生が揃えて貸し出す。
つまり現今のホテルがする仕事を美容師さんが担当。入る金も多いが出る金も莫大。それで飯炊き婆さんが毎日来る。新郷村まで馬車、泊まり込みで花嫁さんを作ったという。
昭和三十年代までは牛・馬と人間は仲良く暮らしたもんだ。今は何でも農協から借金して揃え、農家はアップアップしている。鉄の馬に鉄の牛、草を食わずに油くうからアブラッかしい。毎年春先になると老農夫がトラクターの下敷きになって亡くなる。馬は倒れても起きあがるが、鉄の馬はウマくない。
仲さんもなまなかじゃない金を稼いだ。お弟子さんも沢山、十本の指では足りない、ゴメン、指貸してと隣の人に頼みこまにゃなりません。みなさん現役で活躍中。仲さんの名はむつ湊から階上に浸透し、近郷近在から評判を聞いた人が集まる。だから、毎晩遅くまで仕事になる。小さな店だったが溢れかえるほどになり当然、自分で店を建築。
東京に憧れ若くして新宿の町で修業し、美容師としても活躍、いつか又、あのむせかえるような都会の雑踏のなかで店を開きたいと念願。すると、どうでしょう、東京世田谷の砧に売り地があると教えてくれた親戚。いつかはと思っていた念願がかなうと、借金で購入。
妙なものでいつしかこれが噂になり、私たちを棄 てる気かと、談判したのがお客様。商売人はお客様あればこそ。
ああ、私は間違っていた。支えてくださるお客様を粗末にすれば罰があたると思い直す。するとこの話が方々に伝わり、息子に下宿として貸して欲しいと話は次々、お陰をもちまして借金返済。そんなこんなをしているうち東京の地下が急激に高騰。これがバブル。買いたいという人が現れ、思い切りよく売却。するとスルスルと地価が降下、いい目をみた数少ない一人が仲さん。何、大枚な税金払えばたいして残っていません。国家は網の 目、洩らすことなく絞ります。
それでも仲さんサバサバしていて、お金を残そうと思うことが間違い。毎日汗して稼ぐからお金も尊い。不動産を売買して稼ぐのは邪道とキッパリ。
美容組合の話をすると、当時組合員は三十名程度。美空ひばりが盛んに活躍する頃、島倉千代子がデビユーする前年の昭和二十八年、仲さんは入会。
当時の支部長はロー丁の板橋さん、次いで朔日町の金沢さん、十六日町の山谷さん、尻内の前田さん、根城の平山さん、そして三浦仲さんは十一年真剣に務めまして、その一本気の性格を慕って組合員も沢山増えましたとも。
若い頃から技術習得に銭は惜しまず、東京、大阪、北海道札幌、仙台と技術講習会に、主宰者が居なくとも、受講者には必ず三浦の顔ありと言われる程。全国大会の美容コンテスト、優勝はしなかったが様々な賞を獲得。日本ヘアデザイン協会会員、広島から出て、東京新宿に美容学校を開いた真野さんは山野愛子、メイ牛山などより古く、そして著名だった。その学校の卒業生の仲さんも、今年は八十におなりです。
この歳の廻りを気に留めて、長年お世話になった鮫地区の人々が、安心、安全と暮らせますようにと、仲さんが心に決めていた三部作、つまり鮫駅前の整備、鮫小学校生徒による図画作品の掲示、最後に幸運の七福神を祀(まつ)りました。七福神は船に乗り来る。つまり鮫の港にはなくてはならぬもの。江戸の昔は初夢を見るために、この宝船の絵を枕の下に置いたという。その絵には勿論、七福神が描かれていますが、更に上から読んでも、下から読んでも同じ言葉が書かれています。「ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな」これを回文といい、幸福廻り来るの意味もあり。八十歳のお祝いを、傘寿(さんじゅ・「傘」の略字が「八十」と読めるところから)と言います。仲さんは若い人に、こう言います。「努力するなら花を咲かせるような努力をしよう、苦労をするなら実を結ぶような苦労を」と、生涯をひとり身で過ごした仲さんに、郷土の偉人、西有穆山を思い重ねるのは筆者一人だろうか。妻も無ければ子も持たず凛(りん)とした人生を仏教界全体の為に明治新政府と敢然(かんぜん)と渡り合い、仏教全体を護持(ごじ)された西有禅師は、単に曹洞宗という宗派を超え、行きすぎた政府にブレーキをかけた。 仲さんは女の細腕一本、人生一筋道、美容界で腕を磨き、はさみ一丁で堂々たる人生を切り開いた。苦労して身につけた技術は誰も盗んで持ってはいかぬ。金だの物は泥棒や火事の前にはあっけなく消える。仲さんの母親は、身についた知識・技術は生涯の宝、世の中は一時の位を表すようなもの、「いつまでも有ると思うな親と金、無いと思うな運と災難」、更に、今乞食をしている人も一時(いっとき)の位で乞食をされた、何時、いかなる時に元の裕福な暮らしができないとも限らない、だから落ちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるるで、お乞食さんにも、物や金を投げてはいけないと諭(さと)された。
仲さんのお母さんは偉大だった。昔の人はこうしたことを折りに触れ、時に当たり教えたもんだ。この母の言葉を生涯胸にたたんだ仲さんも、御歳八十。知人、友人、そして長年、仲さんを支え続けてくださったお客様とともに傘寿の祝いを開きます。
厳しかったけど楽しい人生を送られた仲さんに、おめでとう、そしてありがとうと伝えたい。「はちのへ今昔」がお声をかけます、そのとき又お目にかかりましょう。