八戸の地元紙、デーリー東北新聞の人気欄に「こだま」がある。死亡欄とこだまは絶対に見ると市民に言わせるほど。
ここに時折投稿をする人物に奥山秀二って人がいる。この人は売市の床屋さん。この奥山三兄弟は父親の代から床屋で、そろぞれが優秀、三人兄弟とも店を持っていて、いずれも盛業。人が良くって話が上手だ、自然お客もつくわけ。
この床屋の話を昔「はちのへ今昔」に掲載したことがあったが、最近は白鳥保護に乗り出しているというので早速取材。
奥山さんの投稿は次のもの
毎年傷付く白鳥
事故防ぐ配慮を
馬淵川の河川敷が整備され、「水辺の学校」が徐々に出来上がってきました。いずれ水草や草木が生い茂り、水中生物や多くの水鳥が集まるオアシスとなるでしょう。
ここには毎年百羽近い白鳥が飛来して、多くの人たちを楽しませてくれます。しかし悲しいことに、この春も、北郷行を目前にして三羽が傷付きました。二羽は二度と飛ぶことができないほど翼が折れ、もう一羽も皮膚がそげ落ちて骨が露出するほどのけがをしました。その鳥には仲間が寄り添っていましたが、残念なことに、後日力尽きてしまいました。あまりにも哀れでなりません。
私の知る限りですが、新井田川ではこの冬三羽の白鳥が命を落とし、浅水川では幼鳥一羽がけがをして保護されました。
毎年数羽がけがをしています。その原因の多くは、川の上を伝う高圧電線に接触したためだと考えます。できるだけ安全に飛来し、そして無事に 帰れるように対策を講じるべきだと思います。川幅分だけでも反射板を設置して、接触を防ぐこと はできないでしょうか。
河川敷は整備され、人が自然と触れ合える場所を提供していただきました。しかし上を見上げると、ちょうど渡り鳥たちが降り立つ辺りに一番の危険が待ち構えています。アンバランスな光景 は、渡り鳥に優しい環境とはいえません。
県には鳥獣保護センターがあり、傷付いた白鳥 などに命の配慮がなされています。しかし、そこへ行かざるを得ない状況になる前に、安全への配 慮をしてもらえたら。
関係者の皆さまに心よりお願い申し上げます。
(八戸市奥山秀二 38)
奥山さんは犬を散歩させる途中、白鳥がいるのに気づいたそうだ。七年も前のこと。餌をやろうとパンを買いにいってから、今日まで毎年餌代を負担し、白鳥の数も増加してきた。ところが、怪我をする白鳥がいる。
白鳥に餌を与えるから怪我をするという人もいるそうだ。百人いれば意見は百ある。たしかにそうした面もあろうが、白鳥に餌を与えている所は方々にある。湖や河川、東北地方ならどこでも見ることが出来る。八戸近辺では下田の飛来地が有名。
すると、こうした怪我の話も方々にあるのだろうかと、インターネットで探してみた。あるある。
一関の上空を通過するハクチョウを見て、磐井川にもハクチョウに来てほしいと思った人がいた。横沢重雄さんは、ハクチョウたちが安心して舞い降りるように、毎年、ボーイスカウトの団員たちと白いアヒルを飼育して磐井川に放った。「白いアヒルでハクチョウを呼んだ一関」だ。
飛来したハクチョウが越冬するようになって2年目のことだった。新幹線高架線に激突して飛べなくなったメスのハクチョウに、オスのハクチョウがずっと寄り添っていた。毎日新聞が全国版に「白鳥の美しい夫婦愛」として報道し、翌日には日本テレビなども磐井川を取材に来た。
一躍有名になったハクチョウを見ようと大勢の人たちが磐井川に押しかけ、見物人から与えられたエサを過食したオスのハクチョウは、翌日、死体になって発見された。そのことは「磐井川白鳥物語」としてTBSテレビ、毎日新聞によって全国に伝えられた。1981年のことだった。
04/17;安曇野の犀川白鳥湖など安曇野一帯に飛来しているコハクチョウが5羽になった。地元の「アルプス白鳥の会」は「昨年より早く北帰行はほぼ完了」と。原とみ子さんは「無事に帰るんだよと見送った。うれしさと別れの寂しさが入り交じり複雑な気持。残る5羽を見守りたい」と。残っている5羽はふくちゃんと、電線に衝突してけがした2羽。あとの2羽は飛べないふくちゃんを気づかっている。中州に2羽、向こう岸2羽、ふくちゃんは中州とこちらの岸とを行ったり来たり。ったり2005年北帰行できなかった「ふくちゃん」は白鳥湖にとどまったままです。ふくちゃんは2004年に散弾銃で撃たれ左翼を負傷。ふくちゃんは犀川で飛ぶ練習をしていましたがまだ100m程度で水面より1m程度でした。2羽のペアはつがいなのか一緒に行動。そんな中、ふくちゃんは近づいては離れてを繰り返していました。04/16夕~04/17朝で150羽が北帰行。犀川河川敷から奥に「アルプス白鳥の会」の餌小屋も小屋閉めしてました。豊科安曇野には約2400羽のコハクチョウが飛来した。2005-2006年シーズンは事故も多く7羽が死亡。電線に衝突したもが5羽、豆を器官に詰まらせた1羽、鉛中毒1羽。
夕方の地元ニュースで白鳥の“フクちゃん”について伝えていました
(“フクちゃん”とは、2年前散弾で怪我をして飛べなくなり犀川ダム湖で1年を過ごした白鳥さんです)
「昨日、犀川ダム湖に最後に残った4羽の白鳥は
フクちゃんを残して北帰行した。フクちゃんも一緒に飛ぼうと羽ばたくが水面から飛び立つことができず取り残されてしまった」
4羽の後ろから着いていこうと羽ばたくフクちゃん。羽ばたいたも羽ばたいても体が浮かない。
この様子を撮影したアルプス白鳥の会の方は一生懸命着いていこうとするフクちゃんの姿に涙でファインダーがにじんだと話されていました。
「ところが 15分後、1羽が戻ってきた。今日、2羽は寄り添うように何度も何度も飛び立つ練習をしていた」
白鳥は家族単位で行動するっていうから戻ってきた1羽は親か兄弟姉妹かな?
(フクちゃんはメス)
また犀川ダム湖に様子を見に行ってこなきゃ
がんばれ!フクちゃん!
2006.04.24;安曇野白鳥飛来数;白鳥湖に2羽。安曇野も桜が咲き、コハクチョウの北帰行は終わり。残るはふくちゃんと1羽のみ。安曇野の犀川白鳥湖にけがの後遺症で飛び立てない雌のコハクチョウ「ふくちゃん」とは別の1羽が仲間の北帰行後も残り、04/25も2羽で過ごしていた。「アルプス白鳥の会」によると04/24早朝、残っていた5羽のうちふくちゃんを除く4羽が一斉に飛び立った。ところがすぐに1羽が戻ってきたという。2羽はいつも寄り添い、「ふくちゃんに恋人ができたかな」と原さんはにっこり。会田仁さんは「他県では北帰行しなかった白鳥が営巣した例がある。帰ってきた1羽が雄なら幼鳥が誕生するかも」と
事実は小説より奇なり。
人々の心を慰める白鳥の世界にも、こんなにもいろいろなことが隠されているとは。
奥山さんも橋の下を通過しようとした白鳥が、橋の修理に架けられた鉄パイプに激突して翼が折れたそうだ。こうした白鳥も間もなく死ぬそうだ。奥山さんは自費でチラシを作り、怪我した白鳥を助けようと探し続けている。頭が下がる。
2007年7月1日日曜日
八戸自動車史 2
O八戸から久慈まで自動車は行く
営業路線の許可を得た岩淵氏は、早速、常盤商会を速してリパブリック箱型(または電車型とも呼び現在のバスと同様の型)を購入した。渡辺という運転手も付いてきた。
そのころの一日、この渡辺運転手の助手台に乗せてもらって久慈まで行った上杉氏の談話をまとめてみる。
この車は、なんとブレーキがきかず、スピードを落してゆるやかに止める程度であったが渡辺運転手はひどく慣れたものだった。この渡辺運転手のスタイルは、前に東京でどこかのおかかえ運転手だったといい、八字ヒゲを貯え、袴を着用し、麻裏草履をはいて出るといういでたちである。
まず久慈行の客を扱う旅館に前夜、出立を告げ、客の有無をきいておく。
翌朝、客のある旅館をひとまわりして、朝九時頃に八戸を出発、鍛治町、吹上を通ると通りすがりの旅館で、久慈行の客があれば赤い旗を軒先に立てていて、その客をも集めて一路中居林から十日市、田代へと向う。
田代へ着くと小休止となり、ラジヱーターの水を抜き、冷水にかえる。旅客とともにそばを食べてから出かけることになる。この田代の出口から大道口と呼ばれる県境までが、最大の難関である。道路は深くえぐられ、とても自動車の通れるようなところではない。従って自動車には必らず、モッタ、スコップ、バケツ、ロープが用意されてあって、動けなくなると来客に降りてもらって、モッタ、スコップで路をつくり、路の両側の畑の高い所をロープを引いて歩いてもらうことになる。また大野の村の農家では自動車に会ってもこわがらない馬を用意して来ていて、この自動車を引っぱってくれたものである。太って力のある馬を自動車の通る頃にはいつでも用意しておいたという。この引っばり賃は、当時の馬車の駄賃の一週間分であったから大野の村の農家ではすすんで用意するようになっていた。こうした難行苦行の末、漸やく大野の村に入ると昼休みになり、乗客は思い思いにくつろぎ、運転手と助手はガソリンを給し、オイルを見てまわり、エンジンを冷す。
午後の二時か三時になって、自動車は再び走り出す。熊の沢のダラダラ坂を下って、ニツ谷を経て久慈湊に着く。久慈湊で小休止して乗客は乱れた服装をつくろって、いよいよ久慈に入る。もう日暮れになっている。
こうした悪落と長距離の事業では自動車の車体そのものの傷みのはなはだしかったのも無理はない。しかし、この事業は有志の努力と熱意によって自動車事業に光明をもたらし、草創期を脱したきっかけを与えたといってよい。
○上杉自動車部のこと
岩淵氏の八戸・久慈間の乗合事業は遠距離区間の営業であったが、やがて一九一二年 (大正十一年)上杉修氏が小中野で自動車部を創設した。藤田金五郎氏宅に居住し、同宅の電話を借り、まだ若かった上杉氏の後見として会計は藤田金五郎氏があずかり、営業をはじめた。これが図に当り、一年経って、丁度自動車一台分の黒字になっていた。
これで自信満々とした上杉氏は、自動車を一年に一台ずつ増やすことにより、経費の欠損を防ぐとともに事業の存続に意をそそぐことにした。
この計画がまた適切だったのであろう。一年一台ずつの増車は見事に果され、営業は順調に継続されていった。
一年乗りまわした自動車は、すっかり痛んでしまうわけではなかったが、修理に多大の労力と出費を覚悟せねばならず、かえって営業の衰退に及ぶを恐れたからである。
一年後、上杉氏は音喜多旅館に移転し、藤田金五郎氏の手からはなれ、完全な独立独歩の体制をとり、第一次発展期の最初の烽火(のろし)を打ちあげたのである。
○乗合業者の組合結成
上杉自動車部の成功は多かれ少なかれ、自動車事業に関心を奇せていた人々を動かしはじめたようである。
上杉自動車部創設の翌一九一三(大正十二年)藤田金五郎氏が吉田三郎兵衛氏名儀で自動車営業をはじめており、一方、自動車に対する人々の恐怖と危険感が薄らぐにつれて、この文明の利器を利用する人も増加しはじめていた。馬車の能力と比較にならぬ面が押し出されていて、やがて来る自動車時代を予知せしめるに十分だった。
やがて、鮫の荷馬車業、相馬屋、角田一雄氏、庭田佐太郎氏も営業をはじめた。
これら乗り合い営業権をもつ業者が「八戸乗り合い自動車営業組合」を結成した。
メンバーは吉田三郎兵衛、岩淵栄助、角田一雄、庭田佐太郎、小笠原八十美、相馬徳松、上杉修の七名であった。
小笠原八十美氏の名前が見えるが、大正十四年二月一日現在で国鉄当局が国鉄各駅に起終点を有するバス事業の実態調査を行った資料をみると、小笠原八十美、阿部五兵衛の連名で八戸~久慈間を営業していたもようである。また、すでに大正末年であるか、昭和に入ってからであるか釈然としないが、氏が三本木で経営していた「世界公園」の支店のような形で、八戸にも同名「世界公園」の名称で貸切業をしていた。
ともかくこのメンバーは八戸の大正末年における乗り合い業者の主要なものであっただろう。
この組合の業者は八戸市内の路線及び駅構内営業権を順番に行使していたもようであるが、組合そのものは営業上の規制も格別に有するものでなく、大正十四年五月十六日の会合では、岩淵、相馬、上杉の三氏だけの加入になっている。のち小笠原氏が加入したのみである。
他に大正十三年頃、田中タケシ氏が一持経営したらしいが詳かにしない。
昭和に入ると業者はさらに増加する。
市川氏、宮沢氏、梅本氏等があげられる。
市川氏は八戸~尻内間を、梅本氏は八戸~新井田間を運行した。宮沢氏については不分明ではあるが市内路線であったらしい。
勿論この頃は乗合、貸切の車別はなく、またトラックも兼業の業者もあり、いささか未分の態ではあったが、乗合、貸切ともに現在の乗用車を用いたもので停留所から停留所まで一定料金を徴収して走るのが乗り合い自動車であり、特定の注文によって走るのが貸切だったわけである。
○トラック業のさきがけ、目時千太郎氏
乗合貸切自動車業の隆盛のさなかに、大正十五年十月二十九日付で、目時千太郎氏に貸切貸物自動車営業の許可がおりた。
目時氏は当時を回想していう。そのころ、三戸方面(諏訪平)から毎朝野菜市場に人と野菜をどっさり運んでくるトラックがあった。丸の中に七の標識が威勢よく乗り込む姿を見てすごく便利なものもあるものだと、いつでも感心してながめていた。
目時家は代々、荷馬車業をやり三年ほど前には(大正十二年頃)逓送さえしたものであった。荷物は主として岩手県大野、久慈方面へ行く、塩、米、酒などと大野、久慈方面から来る木炭輸送で八戸~田代間を一日一往復するのみであった。この荷馬車の量と速度とトラックのそれを想像してみるとき、歴然とした差を感じないわけにはゆかない。青物市場に停車中のトラックの側へ行き、目時氏はしばしみつめたものだという。やがて、意を決した目時氏は、トラックも使用して営業することにし、購入した。かくして大正十五年十月二十九日、貸切貨物自動車運輸の許可がおり、営業のはこびとなったものである。
某氏の記憶によれば、目時氏の貨物自動車は、藤金自動車部で貨物運送用として購入したけれども荷物の集積が思わしくなく間もなく廃した、その折に譲渡された、と伝えている。
こうしてトラックを用意した目時氏の事業は、八戸~田代間の往復から、さらに岩手県大野村へ、そして岩手県乗入れの許可を得るや九戸郡一円に及んだ。当時の貨物運送の料金は一・五㌧につき一円五十銭であった。
やがて目時氏に続いて、昭和二、三年頃から鳥谷部氏が六日町で、八戸~三本本間の管業を開始、前後して栗本氏も十一日町で、八戸~軽米間の営業を、また鮫方面では榎本氏が開業している。
○市営バスの発足
八戸市内の乗り合い自動車業も隆盛に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗り合いの各業者への営業権譲渡方の話し合いが持込まれた。このころ乗り合い業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟(きし・はたとのぼり。はたじるし)と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の権利をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権を市営バスに譲渡した。
市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
市営バスの経営には、市側からは室岡氏があたり、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備担当者として迎えた。
市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。
営業路線の許可を得た岩淵氏は、早速、常盤商会を速してリパブリック箱型(または電車型とも呼び現在のバスと同様の型)を購入した。渡辺という運転手も付いてきた。
そのころの一日、この渡辺運転手の助手台に乗せてもらって久慈まで行った上杉氏の談話をまとめてみる。
この車は、なんとブレーキがきかず、スピードを落してゆるやかに止める程度であったが渡辺運転手はひどく慣れたものだった。この渡辺運転手のスタイルは、前に東京でどこかのおかかえ運転手だったといい、八字ヒゲを貯え、袴を着用し、麻裏草履をはいて出るといういでたちである。
まず久慈行の客を扱う旅館に前夜、出立を告げ、客の有無をきいておく。
翌朝、客のある旅館をひとまわりして、朝九時頃に八戸を出発、鍛治町、吹上を通ると通りすがりの旅館で、久慈行の客があれば赤い旗を軒先に立てていて、その客をも集めて一路中居林から十日市、田代へと向う。
田代へ着くと小休止となり、ラジヱーターの水を抜き、冷水にかえる。旅客とともにそばを食べてから出かけることになる。この田代の出口から大道口と呼ばれる県境までが、最大の難関である。道路は深くえぐられ、とても自動車の通れるようなところではない。従って自動車には必らず、モッタ、スコップ、バケツ、ロープが用意されてあって、動けなくなると来客に降りてもらって、モッタ、スコップで路をつくり、路の両側の畑の高い所をロープを引いて歩いてもらうことになる。また大野の村の農家では自動車に会ってもこわがらない馬を用意して来ていて、この自動車を引っぱってくれたものである。太って力のある馬を自動車の通る頃にはいつでも用意しておいたという。この引っばり賃は、当時の馬車の駄賃の一週間分であったから大野の村の農家ではすすんで用意するようになっていた。こうした難行苦行の末、漸やく大野の村に入ると昼休みになり、乗客は思い思いにくつろぎ、運転手と助手はガソリンを給し、オイルを見てまわり、エンジンを冷す。
午後の二時か三時になって、自動車は再び走り出す。熊の沢のダラダラ坂を下って、ニツ谷を経て久慈湊に着く。久慈湊で小休止して乗客は乱れた服装をつくろって、いよいよ久慈に入る。もう日暮れになっている。
こうした悪落と長距離の事業では自動車の車体そのものの傷みのはなはだしかったのも無理はない。しかし、この事業は有志の努力と熱意によって自動車事業に光明をもたらし、草創期を脱したきっかけを与えたといってよい。
○上杉自動車部のこと
岩淵氏の八戸・久慈間の乗合事業は遠距離区間の営業であったが、やがて一九一二年 (大正十一年)上杉修氏が小中野で自動車部を創設した。藤田金五郎氏宅に居住し、同宅の電話を借り、まだ若かった上杉氏の後見として会計は藤田金五郎氏があずかり、営業をはじめた。これが図に当り、一年経って、丁度自動車一台分の黒字になっていた。
これで自信満々とした上杉氏は、自動車を一年に一台ずつ増やすことにより、経費の欠損を防ぐとともに事業の存続に意をそそぐことにした。
この計画がまた適切だったのであろう。一年一台ずつの増車は見事に果され、営業は順調に継続されていった。
一年乗りまわした自動車は、すっかり痛んでしまうわけではなかったが、修理に多大の労力と出費を覚悟せねばならず、かえって営業の衰退に及ぶを恐れたからである。
一年後、上杉氏は音喜多旅館に移転し、藤田金五郎氏の手からはなれ、完全な独立独歩の体制をとり、第一次発展期の最初の烽火(のろし)を打ちあげたのである。
○乗合業者の組合結成
上杉自動車部の成功は多かれ少なかれ、自動車事業に関心を奇せていた人々を動かしはじめたようである。
上杉自動車部創設の翌一九一三(大正十二年)藤田金五郎氏が吉田三郎兵衛氏名儀で自動車営業をはじめており、一方、自動車に対する人々の恐怖と危険感が薄らぐにつれて、この文明の利器を利用する人も増加しはじめていた。馬車の能力と比較にならぬ面が押し出されていて、やがて来る自動車時代を予知せしめるに十分だった。
やがて、鮫の荷馬車業、相馬屋、角田一雄氏、庭田佐太郎氏も営業をはじめた。
これら乗り合い営業権をもつ業者が「八戸乗り合い自動車営業組合」を結成した。
メンバーは吉田三郎兵衛、岩淵栄助、角田一雄、庭田佐太郎、小笠原八十美、相馬徳松、上杉修の七名であった。
小笠原八十美氏の名前が見えるが、大正十四年二月一日現在で国鉄当局が国鉄各駅に起終点を有するバス事業の実態調査を行った資料をみると、小笠原八十美、阿部五兵衛の連名で八戸~久慈間を営業していたもようである。また、すでに大正末年であるか、昭和に入ってからであるか釈然としないが、氏が三本木で経営していた「世界公園」の支店のような形で、八戸にも同名「世界公園」の名称で貸切業をしていた。
ともかくこのメンバーは八戸の大正末年における乗り合い業者の主要なものであっただろう。
この組合の業者は八戸市内の路線及び駅構内営業権を順番に行使していたもようであるが、組合そのものは営業上の規制も格別に有するものでなく、大正十四年五月十六日の会合では、岩淵、相馬、上杉の三氏だけの加入になっている。のち小笠原氏が加入したのみである。
他に大正十三年頃、田中タケシ氏が一持経営したらしいが詳かにしない。
昭和に入ると業者はさらに増加する。
市川氏、宮沢氏、梅本氏等があげられる。
市川氏は八戸~尻内間を、梅本氏は八戸~新井田間を運行した。宮沢氏については不分明ではあるが市内路線であったらしい。
勿論この頃は乗合、貸切の車別はなく、またトラックも兼業の業者もあり、いささか未分の態ではあったが、乗合、貸切ともに現在の乗用車を用いたもので停留所から停留所まで一定料金を徴収して走るのが乗り合い自動車であり、特定の注文によって走るのが貸切だったわけである。
○トラック業のさきがけ、目時千太郎氏
乗合貸切自動車業の隆盛のさなかに、大正十五年十月二十九日付で、目時千太郎氏に貸切貸物自動車営業の許可がおりた。
目時氏は当時を回想していう。そのころ、三戸方面(諏訪平)から毎朝野菜市場に人と野菜をどっさり運んでくるトラックがあった。丸の中に七の標識が威勢よく乗り込む姿を見てすごく便利なものもあるものだと、いつでも感心してながめていた。
目時家は代々、荷馬車業をやり三年ほど前には(大正十二年頃)逓送さえしたものであった。荷物は主として岩手県大野、久慈方面へ行く、塩、米、酒などと大野、久慈方面から来る木炭輸送で八戸~田代間を一日一往復するのみであった。この荷馬車の量と速度とトラックのそれを想像してみるとき、歴然とした差を感じないわけにはゆかない。青物市場に停車中のトラックの側へ行き、目時氏はしばしみつめたものだという。やがて、意を決した目時氏は、トラックも使用して営業することにし、購入した。かくして大正十五年十月二十九日、貸切貨物自動車運輸の許可がおり、営業のはこびとなったものである。
某氏の記憶によれば、目時氏の貨物自動車は、藤金自動車部で貨物運送用として購入したけれども荷物の集積が思わしくなく間もなく廃した、その折に譲渡された、と伝えている。
こうしてトラックを用意した目時氏の事業は、八戸~田代間の往復から、さらに岩手県大野村へ、そして岩手県乗入れの許可を得るや九戸郡一円に及んだ。当時の貨物運送の料金は一・五㌧につき一円五十銭であった。
やがて目時氏に続いて、昭和二、三年頃から鳥谷部氏が六日町で、八戸~三本本間の管業を開始、前後して栗本氏も十一日町で、八戸~軽米間の営業を、また鮫方面では榎本氏が開業している。
○市営バスの発足
八戸市内の乗り合い自動車業も隆盛に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗り合いの各業者への営業権譲渡方の話し合いが持込まれた。このころ乗り合い業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟(きし・はたとのぼり。はたじるし)と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の権利をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権を市営バスに譲渡した。
市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
市営バスの経営には、市側からは室岡氏があたり、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備担当者として迎えた。
市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。
八戸自動車史と八戸市営バスを考える 1
本を漫然と読んでいると気づかないことも、えっ、どうしてだろうと思うと次々に調べたくなるもの。自動車史の2を入力していて、八戸市営バスにつながることを知らされた。
つまり、現今では大赤字に悩んでいる市営バスを、かくなる事態が生ずるとも思わずに、市民の利便性を考えて、八戸にバス事業が必要だと、昭和六年ごろから検討。神田市長の頃。
市制は昭和四年からで、ほとんど直ぐにバス事業を開始したことになる。市民の足の確保は重要事項だった。
八戸自動車史でもわかるように、乗客の区分として、乗り合いバスと貸切自動車、つまりタクシーとに分類される。八戸市営バスは勿論乗り合い。
この乗り合いの権利を上杉修氏等から買い上げる。その辺を調べようと「八戸市議会史」を開いてみた。
すると昭和五年第五回定例会(十一月二十五日)
失業救済商港埋立と自動車経営に次の一文あり。
世界的不況が地方の八戸銀行の休業等にまで波及した。そのため八戸港を商港として埋立の計画をすることでその事業によって失業者の救済に当てようとするものである」との提案理由をのべた。
これに対して、大久保弥三郎議員は「埋立工事は拡張によるものだというが、三五万円の公債を五年間すえ置一五年償還とすれば、利子支払いがかなりのものになる、現在以上の公債は市民を苦しめるものではないか」との反対意見をのべた。これに答えて神田市長は「埋立によって漁港商港として発展する見通しである」と答えた。
これは実に面白い。というのは戦後間もなく八戸市が倒産し、財政再建団体に陥るもとがこれ。大久保弥三郎も卓見、また、神田もこれが新産都市のもとになるため、これまた間違いがなかった。
採決の結果拡立者多数で原案通り可決確立した。
これに続いて、第三六号の乗合自動車経営の件の審議に入り、神田市長は
「本案は、買収交渉と路線の認可を受ける都合上上提したので、具体的な予算等については、明年度予算会議のときに、市財政に計上しうるようであれば改めて決議を願いたい。また、それ以前に計上の目安がつけば、市是調査会等に諮るつもりである」
と提案理由を述べた。
これに対して理由書と区間賃金表とが配布されたが収支予算表が添付されていなかったため、大久保弥三郎議員は「資本関係及び現在の経営者との関係を詳細にしないのは抽象的すぎる。また、実施するとしたらその収支はどういう予定になっているのか。乗合馬車、営業自動車が利用されている現在時期尚早ではないか」との意見を提出した。神田市長は「資金関係や詳細な数字は、明年度予算に計上出来た場合、その席で御決議願いたい」と答弁した。
なお承認となった市営自動車業計画書の概要は、市内を四区として一区五銭の乗車賃とす。運転する車数は七台で購入金の二一○○○円は年賦式とする。基点を新荒町、八戸駅両所に置く。等であった。
次に出るのは昭和七年第四回定例会。
仮契約までに至った。なお本件は本契約締結ならびに準備のため急を要するとし、急施案件として、ここで遠山議長は、市長から追加提出された、急施第一二号の自動車買収に関する件の付議を宣告した。
まず神田市長は「本案については一昨年市会で協賛を得て以来、市内の乗合自動車営業者と買収の交渉を繰返してきたが、過般、このために定められた委員と協議の結果、県保安課長の斡旋によってここに提出した」と説明を述べ、市民交通の便宜を図りまた市の繁栄にも通ずることを力説した。これに対して大久保弥三郎議員は、本案は何等急施を要するものではないと反論さらに、予算を伴わない本案件は議案として不適当であるとして、撤回を要求した。神田市長は同議員に答えて「本来ならば議会招集の際に通告すべき処ながら、出張中のためそれが出来なかった。急施としたのは、仮契約から本契約に進む関係上からであり、予算の件は十月の営業開始以前に審議を願いたい」と述べた。しかし同議員は「本案については五年度の市会で、六年度には予算を計上すると言明しておきながら、六年度にも七年度にも計上されていない。二三、五〇〇円という大金をこの窮迫した市の財政からいかに捻出するかという点が不明である以上、賛成はできない」と、あくまでも予算提出を要求、さらに「乗合馬車業者の失業対策はどうなっているのか」等、とうとうと長広舌をふるって反対した。
次いで西村菊次郎議員が立ち「だいたい大久保(弥)議員と同意見である、乗合馬車から市営自動車に推移していくのは時代の流れで、むしろ当然である。しかし、この買収案を急施として提出した裏には、何んらかの事情があるのではないか。また本案について、なぜ、営業権、自動車価格等の金額をそれぞれ別個に明記していないのか。さらに、失業補償は馬車業者にこそ支払うべきであり、これを新たに追加することを提案したい」と意見を述べた。神田市長は答えて「買収については、かねてから選出されている委員が折衝した結果である。また、予算はたしかに付議すべきであったが、前述した事情の通りである買収という形ではなく、新たに権利を取るとの意見については、鉄道省の管理に属しその手続は困難であり、現在の乗合自動車業者を買収することが、県および鉄道省の一致した意向である」と述べたが、同議員はさらに、現在七人の業者が営業権を持っているが、うち一人分だけを買収して市営としてはどうかと意見を述べたが、市長は不可能であると答えた、この後、西村、大久保(弥)両議員が反対意見をなおも繰返したが、遠山議長は四日間休憩し七月四日に、再び本会議を開く旨を宣告、五時五分に散会となった。
市営自動車買収案決定
自動車買収案を審議する市会の休会明け会議は、予定通り七月四日に開会された。
議長ならび副議長欠席のため、最年長議員である近藤岩太郎議員が、金沢慶蔵議員を仮議長に指名し満場異議なくこれを認めて審議に入った。
会議に先立ち金沢仮議長は議決第一八号の昭和七年度八戸市歳入歳出追加予算と同一九号の八戸市営乗合自動車乗車料条例認定の件が市長から追加提案となっている旨、また六月二九日に急施案件として提出された急施第四号の乗合自動車買収に開する件については、日数を経ているため普通案件とすること以上を報告、さらに「第四号実は論が尽きたと思われるので」と、ただちに採決に入る旨を宣告した。
しかし大久保万吉議員は市長に対して、改めてこの場で言明頂きたいと、従来の運転手をそのまま市営自動車に採用する件について確認を求め、市長は「本人の希望があれば採用する」と答えた。
また大久保弥三郎議員は「現在七台の自動車のうち二台は廃棄されているのに、七台を買収するということはどういう事情であるのか」と市長に詰め寄り、さらに失業補償を支出する理由、その支払期日の協定の可否等を訥々と問いただし、仮契約書の提案を要求した。神田市長はこれに対して「交渉当初は七台であったためそのまま話を進めた。ついては、権利は営業権と一緒であり車体と合せて二五、〇〇〇円、失業補償費二、〇〇〇円の支払期日は七・八月とし、以上は保安課長の仲介の許に協定したものである。なお仮契約書は調印が未済であるためまだ提出できない」と答弁した。同議員は「仮契約成立以前に市会に提案するのは納得できない」としつこく食い下がり、神田市長は、「学校建築の場合も決議後に契約している」と説明した。しかし「入札によって契約者を決定する学校建築と本件とは違う問題である」として、仮契約の承認を市会に求めるべきだとする同議員の自説をまげず食いさがったが、神田市長は「本案は仮契約書の承認ではなく買収の議案である」とこれをつっぱねた。
ここで浪打石丸議員が立ち「本件はすでに市会で決議され、委員を設けて交渉した結果仮契約をなすまでに至っているのだから、本市会の議決を経て、取急ぎ準備しなければならない、すみやかに可決すべきである」と発言すると異議なしの声が統いた。
しかし西村菊次郎議員は、客馬者営業者に対する具体的な救済方法について発言し、さらに「七台の自動車のうち二台は廃棄になっているのだから買収価格を二、〇〇〇乃至二、五〇〇円に減額修正すべきである」と主張。これについて神田市長は「客馬車営業者に対する件は後刻協議願いたい」とだけ答えた。
次に再び大久保(弥)議員が立ち、仮契約書の提出を要求、さらに廃棄処分の自動車を含めて七台とすることは市会を欺くことだと決めつけた。しかし神田市長は「欺くつもりならば七台のうち二台廃棄とは書かない」と逆襲し、委員と仲介者立合の許に公明に協定された点を強調した。続いて、浪打、石橋要吉、高谷金五郎、以上三議員が採決を要求した。
議決第一九号の八戸市営自動車乗車料条例認定の件を付議、西村議員は「市長は客馬車は併立できると考えているようだが」と前置きして「市営自動車料が、八戸、小中野間一〇銭とすれば、当然客馬車業者が圧迫されることになる。この点の救護策を伺いたい」と、時代の変遷によって落伍していかざるをえない業者への救援を力説、神田市長は「市営自動車の実現は、すでに二年間にわたる懸案であり、客馬車業者もそれなりに考えていると思う。しかし実際に直面してみなければその対処も困難であり、後刻充分に協議したい」と述べた。また同議員は、鮫および湊の工業地帯に通う労働者の乗車料金の問題を取上げ「往復切符を発売するなど、市長の配慮を促し、神田市長は「この場合は第八条に定めた(臨時の場合)として取扱う考えで、諸事情はあるにしろ五割以内の割引を考えている」と答弁した。
ここで時間延長が宣告されたのに続いて、木村芳美議員は「本案はすでに決定した買収案および予算に付帯するものであるから、原案に賛成する」とのべ、金沢仮議長は「本案第六条に対しての大久保(弥)議員の修正意見には賛成がなく、全議員賛成と認めて、原案通り決定する」と宣告、満場異議なくこれを認めて閉会となった。
この新聞記事を探した。
昭和五年奥南新報から
乗合自動車市営は現営業者を路頭に迷わせる
この経営は我々に一任して欲しいと
一昨日八日市役所に陳情
市の交通利便を得んがため過般の市会において乗合自動車経営を決議したことは既報の通りであるが右に関し現在経営している乗合自動車業者は斯く市営を以ってせらるるに於いては全く自分等の職業を奪われることとなりこれから路頭に迷うものであると業者間で寄り集まり協議中であったが、同業者吉田三郎兵衛、岩淵栄助、小笠原八十美、藤田金五郎、宮沢芳蔵、市川文丸の七氏は八日午後三時市役所に神田市長を訪問し該問題に関して陳情書を提出した。内容は市営をもってせらるると全く路頭に迷う。市が之を経営せんとする目的は営業者に於いても十分考慮し市民の利便を図り十分の満足を与えるべく努力し追々斯業者を一丸とした株式会社を組織する考えであるからこの際市が莫大な金額を之に投じるよりもこの経営は我々に一任して欲しい。
具体的用件として左の三項を上げた
つまり、現今では大赤字に悩んでいる市営バスを、かくなる事態が生ずるとも思わずに、市民の利便性を考えて、八戸にバス事業が必要だと、昭和六年ごろから検討。神田市長の頃。
市制は昭和四年からで、ほとんど直ぐにバス事業を開始したことになる。市民の足の確保は重要事項だった。
八戸自動車史でもわかるように、乗客の区分として、乗り合いバスと貸切自動車、つまりタクシーとに分類される。八戸市営バスは勿論乗り合い。
この乗り合いの権利を上杉修氏等から買い上げる。その辺を調べようと「八戸市議会史」を開いてみた。
すると昭和五年第五回定例会(十一月二十五日)
失業救済商港埋立と自動車経営に次の一文あり。
世界的不況が地方の八戸銀行の休業等にまで波及した。そのため八戸港を商港として埋立の計画をすることでその事業によって失業者の救済に当てようとするものである」との提案理由をのべた。
これに対して、大久保弥三郎議員は「埋立工事は拡張によるものだというが、三五万円の公債を五年間すえ置一五年償還とすれば、利子支払いがかなりのものになる、現在以上の公債は市民を苦しめるものではないか」との反対意見をのべた。これに答えて神田市長は「埋立によって漁港商港として発展する見通しである」と答えた。
これは実に面白い。というのは戦後間もなく八戸市が倒産し、財政再建団体に陥るもとがこれ。大久保弥三郎も卓見、また、神田もこれが新産都市のもとになるため、これまた間違いがなかった。
採決の結果拡立者多数で原案通り可決確立した。
これに続いて、第三六号の乗合自動車経営の件の審議に入り、神田市長は
「本案は、買収交渉と路線の認可を受ける都合上上提したので、具体的な予算等については、明年度予算会議のときに、市財政に計上しうるようであれば改めて決議を願いたい。また、それ以前に計上の目安がつけば、市是調査会等に諮るつもりである」
と提案理由を述べた。
これに対して理由書と区間賃金表とが配布されたが収支予算表が添付されていなかったため、大久保弥三郎議員は「資本関係及び現在の経営者との関係を詳細にしないのは抽象的すぎる。また、実施するとしたらその収支はどういう予定になっているのか。乗合馬車、営業自動車が利用されている現在時期尚早ではないか」との意見を提出した。神田市長は「資金関係や詳細な数字は、明年度予算に計上出来た場合、その席で御決議願いたい」と答弁した。
なお承認となった市営自動車業計画書の概要は、市内を四区として一区五銭の乗車賃とす。運転する車数は七台で購入金の二一○○○円は年賦式とする。基点を新荒町、八戸駅両所に置く。等であった。
次に出るのは昭和七年第四回定例会。
仮契約までに至った。なお本件は本契約締結ならびに準備のため急を要するとし、急施案件として、ここで遠山議長は、市長から追加提出された、急施第一二号の自動車買収に関する件の付議を宣告した。
まず神田市長は「本案については一昨年市会で協賛を得て以来、市内の乗合自動車営業者と買収の交渉を繰返してきたが、過般、このために定められた委員と協議の結果、県保安課長の斡旋によってここに提出した」と説明を述べ、市民交通の便宜を図りまた市の繁栄にも通ずることを力説した。これに対して大久保弥三郎議員は、本案は何等急施を要するものではないと反論さらに、予算を伴わない本案件は議案として不適当であるとして、撤回を要求した。神田市長は同議員に答えて「本来ならば議会招集の際に通告すべき処ながら、出張中のためそれが出来なかった。急施としたのは、仮契約から本契約に進む関係上からであり、予算の件は十月の営業開始以前に審議を願いたい」と述べた。しかし同議員は「本案については五年度の市会で、六年度には予算を計上すると言明しておきながら、六年度にも七年度にも計上されていない。二三、五〇〇円という大金をこの窮迫した市の財政からいかに捻出するかという点が不明である以上、賛成はできない」と、あくまでも予算提出を要求、さらに「乗合馬車業者の失業対策はどうなっているのか」等、とうとうと長広舌をふるって反対した。
次いで西村菊次郎議員が立ち「だいたい大久保(弥)議員と同意見である、乗合馬車から市営自動車に推移していくのは時代の流れで、むしろ当然である。しかし、この買収案を急施として提出した裏には、何んらかの事情があるのではないか。また本案について、なぜ、営業権、自動車価格等の金額をそれぞれ別個に明記していないのか。さらに、失業補償は馬車業者にこそ支払うべきであり、これを新たに追加することを提案したい」と意見を述べた。神田市長は答えて「買収については、かねてから選出されている委員が折衝した結果である。また、予算はたしかに付議すべきであったが、前述した事情の通りである買収という形ではなく、新たに権利を取るとの意見については、鉄道省の管理に属しその手続は困難であり、現在の乗合自動車業者を買収することが、県および鉄道省の一致した意向である」と述べたが、同議員はさらに、現在七人の業者が営業権を持っているが、うち一人分だけを買収して市営としてはどうかと意見を述べたが、市長は不可能であると答えた、この後、西村、大久保(弥)両議員が反対意見をなおも繰返したが、遠山議長は四日間休憩し七月四日に、再び本会議を開く旨を宣告、五時五分に散会となった。
市営自動車買収案決定
自動車買収案を審議する市会の休会明け会議は、予定通り七月四日に開会された。
議長ならび副議長欠席のため、最年長議員である近藤岩太郎議員が、金沢慶蔵議員を仮議長に指名し満場異議なくこれを認めて審議に入った。
会議に先立ち金沢仮議長は議決第一八号の昭和七年度八戸市歳入歳出追加予算と同一九号の八戸市営乗合自動車乗車料条例認定の件が市長から追加提案となっている旨、また六月二九日に急施案件として提出された急施第四号の乗合自動車買収に開する件については、日数を経ているため普通案件とすること以上を報告、さらに「第四号実は論が尽きたと思われるので」と、ただちに採決に入る旨を宣告した。
しかし大久保万吉議員は市長に対して、改めてこの場で言明頂きたいと、従来の運転手をそのまま市営自動車に採用する件について確認を求め、市長は「本人の希望があれば採用する」と答えた。
また大久保弥三郎議員は「現在七台の自動車のうち二台は廃棄されているのに、七台を買収するということはどういう事情であるのか」と市長に詰め寄り、さらに失業補償を支出する理由、その支払期日の協定の可否等を訥々と問いただし、仮契約書の提案を要求した。神田市長はこれに対して「交渉当初は七台であったためそのまま話を進めた。ついては、権利は営業権と一緒であり車体と合せて二五、〇〇〇円、失業補償費二、〇〇〇円の支払期日は七・八月とし、以上は保安課長の仲介の許に協定したものである。なお仮契約書は調印が未済であるためまだ提出できない」と答弁した。同議員は「仮契約成立以前に市会に提案するのは納得できない」としつこく食い下がり、神田市長は、「学校建築の場合も決議後に契約している」と説明した。しかし「入札によって契約者を決定する学校建築と本件とは違う問題である」として、仮契約の承認を市会に求めるべきだとする同議員の自説をまげず食いさがったが、神田市長は「本案は仮契約書の承認ではなく買収の議案である」とこれをつっぱねた。
ここで浪打石丸議員が立ち「本件はすでに市会で決議され、委員を設けて交渉した結果仮契約をなすまでに至っているのだから、本市会の議決を経て、取急ぎ準備しなければならない、すみやかに可決すべきである」と発言すると異議なしの声が統いた。
しかし西村菊次郎議員は、客馬者営業者に対する具体的な救済方法について発言し、さらに「七台の自動車のうち二台は廃棄になっているのだから買収価格を二、〇〇〇乃至二、五〇〇円に減額修正すべきである」と主張。これについて神田市長は「客馬車営業者に対する件は後刻協議願いたい」とだけ答えた。
次に再び大久保(弥)議員が立ち、仮契約書の提出を要求、さらに廃棄処分の自動車を含めて七台とすることは市会を欺くことだと決めつけた。しかし神田市長は「欺くつもりならば七台のうち二台廃棄とは書かない」と逆襲し、委員と仲介者立合の許に公明に協定された点を強調した。続いて、浪打、石橋要吉、高谷金五郎、以上三議員が採決を要求した。
議決第一九号の八戸市営自動車乗車料条例認定の件を付議、西村議員は「市長は客馬車は併立できると考えているようだが」と前置きして「市営自動車料が、八戸、小中野間一〇銭とすれば、当然客馬車業者が圧迫されることになる。この点の救護策を伺いたい」と、時代の変遷によって落伍していかざるをえない業者への救援を力説、神田市長は「市営自動車の実現は、すでに二年間にわたる懸案であり、客馬車業者もそれなりに考えていると思う。しかし実際に直面してみなければその対処も困難であり、後刻充分に協議したい」と述べた。また同議員は、鮫および湊の工業地帯に通う労働者の乗車料金の問題を取上げ「往復切符を発売するなど、市長の配慮を促し、神田市長は「この場合は第八条に定めた(臨時の場合)として取扱う考えで、諸事情はあるにしろ五割以内の割引を考えている」と答弁した。
ここで時間延長が宣告されたのに続いて、木村芳美議員は「本案はすでに決定した買収案および予算に付帯するものであるから、原案に賛成する」とのべ、金沢仮議長は「本案第六条に対しての大久保(弥)議員の修正意見には賛成がなく、全議員賛成と認めて、原案通り決定する」と宣告、満場異議なくこれを認めて閉会となった。
この新聞記事を探した。
昭和五年奥南新報から
乗合自動車市営は現営業者を路頭に迷わせる
この経営は我々に一任して欲しいと
一昨日八日市役所に陳情
市の交通利便を得んがため過般の市会において乗合自動車経営を決議したことは既報の通りであるが右に関し現在経営している乗合自動車業者は斯く市営を以ってせらるるに於いては全く自分等の職業を奪われることとなりこれから路頭に迷うものであると業者間で寄り集まり協議中であったが、同業者吉田三郎兵衛、岩淵栄助、小笠原八十美、藤田金五郎、宮沢芳蔵、市川文丸の七氏は八日午後三時市役所に神田市長を訪問し該問題に関して陳情書を提出した。内容は市営をもってせらるると全く路頭に迷う。市が之を経営せんとする目的は営業者に於いても十分考慮し市民の利便を図り十分の満足を与えるべく努力し追々斯業者を一丸とした株式会社を組織する考えであるからこの際市が莫大な金額を之に投じるよりもこの経営は我々に一任して欲しい。
具体的用件として左の三項を上げた
南部バスにも乗れるようになった市営バス乗車証とは何か
現在運転している自動車を昭和六年四月までに大型バスに改めて皆同一型とする
営業時間を午前七時より午後八時までとし二十三日町より湊橋までは十分毎に湊橋鮫間は一時間毎に運転する
賃金は二十三日町より湊橋間は金十銭、湊橋陸奥湊駅間は金五銭、三島鮫間は金五銭
職業を奪うのではない
市民の交通利便の為だ
神田市長談
乗合自動車問題に関して陳情の吉田氏外数名と会談し左の如く語った。市としてはあくまでも市民の利便を基調として計画した何も営業者の職業を奪うのではないその点を誤解のないようご考慮を希望しておいた自分としては市民が交通の利便を得れば良いのである営業者の提示した賃金等も自分の考えとは未だ多少の開きがあるこの問題は十分に調査の上決定したいと思う
為政者(いせいしゃ・政治を行う者)は時として妙なことをやらかす。市民の為になるより自分の為になることを
八戸でもそれを見た。時は昭和四十九年、秋山皐二郎氏の時代。
市営バス老人・身障者などに
無料乗車券を支給四月二十日までに申請を
市は老人等の福祉対策のひとつとして、こんど市営バスの無料乗車券を支給する制度をつくりました。
この制度は老人、身体障害者そして精神薄弱者の福祉の向上に役立てようと始めたもので、該当者数は約五千六百人を見込んでいます。
この無料乗車券の支給を受けるためには、該当のかたが受給資格認定の申請をしなければなりません。そこで次のように受付会場を決めましたので、該当のかたは、お忘れなく手続きしてください。
該当者
○老人=七十歳以上の人
○身体障害者=六歳以上で、身体障害者障害程度等級表に基づく、一級から三級までの身体障害のある人。
○精神薄弱者=六歳以上で、児童相談所または精神薄弱更正相談所の判定した知能指数が五十以下の人。
○介護人=精神薄弱者および身体障害者一級の人には「介護人つきの乗車券」を支給します。
支給条件
○八戸市に引き続き一年以上住所があること。
○施設に収容されている人や医療機関に引き続き三ヶ月以上入院している人は除かれます。
○受給者本人の昭和四十七年における所得が、百二十万四銭七百円以下であること。(受給者に扶養家族があるときは、扶養親族一人につき十四万円を加算します)
手続きで必要なもの
① 印章②身体障害者は身体障害者手帳③精神薄弱者は知能指数の判定書
乗車券の支給は
四月二十日までに申請書を出したかたには、五月一日から利用できる無料乗車券を支給します。
問い合わせは社会課へ
そして、四月二十日以降に申請したかたは、六月一日から利用できる乗車券が支給されることになっておりますので、遅くとも四月二十日までに手続きしてください。
くわしくは、社会課社会係(電話内線473番)へどうぞ。
デーリー東北新聞は次のように報道
八戸で五月から実施
八戸市は老人、身体障害者、精神薄弱者を対象に五月一日から市営バス無料乗車券を支給することを決めた。市の福祉行政の前進だとして喜ばれている。今回該当する人は、七十歳以上の老人五千九百九十五人、六歳以上で身体障害程度級表に基づく一級から三級までの人千四十人、精神薄弱者で六歳からの人(IQ五十以下)二百五十人。
同年の一月五日デーリー東北新聞
老人身障者 バス料金無料へ
豊崎に市立幼稚園
秋山八戸市長が記者会見
秋山皐二郎市長は四日、ことし初の記者会見を行い、市民生活に密着したキメ細かな行政を推進し、民生、福祉の充実を図るなど市政の基本方針を述べ「市立幼稚園を豊崎地区に、市立保育所を湊地区に設置する。老人および身障者の交通費無料化を新年度から実施する」ことなどを明らかにした。
これは単に老人と身体障害者への救済策ではない。これは赤字に悩む市営バスへの救済策であった。
同年の八月上の広報はちのへに次の文あり。
市民の足、その現状
市営バス運賃改定を申請
よりよいサービスのために
一日約七万人の利用客を運ぶ
市営バスは、市内のほぼ全域に百六十二台のバスを運行、二十二万市民の足として、一日約七万人の乗客を輸送し、通勤、通学、買物など、日常生活に欠かせないものになっております。
その半面、経営状態は、従来からの経営環境の悪化に加え、昨年以来の石油危機をきっかけとした燃料や資材の異常な値上り、職員給与の大幅な上昇などによって、著しく悪くなっております。
交通部では、このような経営悪化に対処して、ことし三月「地方公営交通事業の経営の健全化の促進に関する法律」の指定事業の承認を受け、計画に従って、国および市の財政援助をうけなから、経営の効率化を図り、健全化に努めてまいりました。
ところが、この効率化にも限度があり、増え続ける運送原価に対応した収入を得るためには、運賃改定をあわせてやっていかなければ、健全計画の見通しがたたない状態となってまいりました。それで、やむを得ず、ことし五月二十一日に、運賃改定の串請を運輸大臣に提出いたしました。
以下、市営バスの経営の実態と問題点(経営悪化の要因)をご理解いただくため、特集しました。
運送の経費増える
約八割は人件費
運送費の中で、大きなウエイトを占める人件費は、毎年の給与改定で著しく増えております。原価計算をみますと、人件費は四十八年度で運送費中、約八割を占め、ワンマンカーの導入などで職員数を減らしてきておりますが、それでも四十六年度の実績で、六億六千万円だったものか、五十年度を推定しますと二倍の十四億七千万円以上になりそうです。
その他燃料を含め部品材料バス購入費は、昨年以来五割から二倍に近い値上がりになり、運送費は大幅に増加いたしております。
マイカーの影響か 利用客は減る
企業経営の支えであったバス利用客の伸び率は、四十年ごろから横ばいで、四十年度には、二千七百十八万二千人だったものが四十七年度では、二千六百九十九万二千人の輸送
状況となり、特に、四十八年度には、二千五百七万四千人(中略)今後の増加は期待できない見通しです。(平成十七年度利用者は八百三十二万人となんと七十%減。これじゃ死に体)
バス利用客の伸びない原因として、マイカーの増加による影響があげられます。市内の自動車台数は、三十七年に約一万一千台たったものが、四十八年には五万台を越え、なんと四倍以上の急激な増加ぶりとなっております。(現在は十四万九千台で昭和四十八年からは三倍、八戸市の世帯数が十万だから一家に一台半、つまり二台はあろうという時代)
一人一台というのも目前になりつつある現在、本当に市営バスは生き残れるのか、赤字を拡大する前に閉鎖するべきだろう。
この赤字解消策として目先は借金、それから運賃を上げる、補助を出させるの方法。
八戸市は市民の税金をこれに投入。昭和四十八年に四千五百万を投入してから平成十七年末までくれた金は百四十一億円、それでも足らずに高齢者無料バス乗車証の発行を考えた。
当初は高齢者は六千人、バス無料乗車証に出した銭は二千五百万円。ところが平成十八年には七十歳以上が三万五千人もいる。三万人も増加。
支出した銭も四億七千万円に増大。金の増加倍率は十九倍。
七十歳以上人口増加比は六倍。
インフレもあるだろうが、金の方が伸び率が大。
つまり市営バスを助けるための策がこれ。延命策というのか
先送りというのが正しいのか、歴代の為政者はこれを見て見ぬふりをしてきたツケが出た。
高齢者バス証で使った金は八十二億円
補助の百四十億円と合わせると二百二十三億円。民間企業ならとっくに倒産。
いいのかね、このまま赤字を出し続けていても。さらに南郷村合併で、市営バス路線外だけに、不公平との非難で、南部バスに交付金が出る、当初は三千万だが、利用者数を見て増額、その原資は受益者である高齢者と障害者が有料化になって負担する。二千四百円が倍になる計算。さらに南部バスへの交付金が増えれば、南郷村民のために八戸市内の高齢者の負担増では合併は正しかったのか、貧乏南郷を救済するための合併でしかなかったのか、はてさて、妙な時代だ。
八戸市民高齢者の待遇に考える
七一歳 ロボット爺
八戸市は他所より福祉対策が充実している。と喜んでいたが、それは幻だった。幻は絵に描いたモチと同じ理屈だ。そんなに遠い昔のことではなかったのだが「六五歳になったら市営バスが無料でつかえるんだって」「そりゃ楽しみだなー(我)わーもすぐだもんな」と巷での朋友との会話ではそうだった。私が六五歳になった時、役場では待ってましたとばかりに変更をした。七〇歳になった。無料ではなく、利用料二千四百円。此処までの歳では若すぎて元気だからと年齢をひきあげよう、と決めたらしい。
ついでに役場では「年間二千四百円とすると利用者の人数と利用回数と、こーしてあーしてと」机上で思惑を計画し企んだ。と私は見た。役人と名の付く輩か決めることだ。意地悪は爺になってからにしてもらいたい。なーんと、今期になったら四千八百円に値上げ?人の気持ちを逆撫でするとはこのことだ。
また、この税金投入の消費?の一端をお前も担っただろうと言われるのは癪だからもあるが私は申請をしない。バスを利用しない。
ろくに無い歩道を歩けと補導されてもあれもこれも冗談もホドホドにしてくれと言いたい。早く車にでも轢かれて死んでしまえと言われているようだ。「いやーそこまでは言わないが早く逝ってくれよ」が本音だろうか。こんな問題は全国、地方治自体によって大きく異なるが、新潟では六五歳になれば年間二万円分のバスや電車の乗車券を配布する。これなどはとても合理的、是非に見習って頂きたいものだとおもう。よたよた爺がよたよた走る危ないマイカーがそれだけ少なくなるのでいいことずくめではないか。年寄を。
話しは高齢者バス乗車券にもどるが年間四千八百円になったが交付をうけて、利用せずばもったいないと朋友の女性が市内の巡回バスに乗った。どうせ一人暮しの身である。生まれた土地だが知らぬところばかり、そんなわけで街や海岸線の数時間ほどの旅を楽しんだ。まだ日暮れの時間でないのに運転手(ドライバーと言わねばムクレルんだど)が言った「ばばぁ、いい加減に、はあ降りろじゃ」「冗談じゃないわたしゃ銭払ってるのだど」言い返したかったがこの女性はお行儀が善かった。また、運転手はそんなことを口にする権利はチートモ無い。
営業時間を午前七時より午後八時までとし二十三日町より湊橋までは十分毎に湊橋鮫間は一時間毎に運転する
賃金は二十三日町より湊橋間は金十銭、湊橋陸奥湊駅間は金五銭、三島鮫間は金五銭
職業を奪うのではない
市民の交通利便の為だ
神田市長談
乗合自動車問題に関して陳情の吉田氏外数名と会談し左の如く語った。市としてはあくまでも市民の利便を基調として計画した何も営業者の職業を奪うのではないその点を誤解のないようご考慮を希望しておいた自分としては市民が交通の利便を得れば良いのである営業者の提示した賃金等も自分の考えとは未だ多少の開きがあるこの問題は十分に調査の上決定したいと思う
為政者(いせいしゃ・政治を行う者)は時として妙なことをやらかす。市民の為になるより自分の為になることを
八戸でもそれを見た。時は昭和四十九年、秋山皐二郎氏の時代。
市営バス老人・身障者などに
無料乗車券を支給四月二十日までに申請を
市は老人等の福祉対策のひとつとして、こんど市営バスの無料乗車券を支給する制度をつくりました。
この制度は老人、身体障害者そして精神薄弱者の福祉の向上に役立てようと始めたもので、該当者数は約五千六百人を見込んでいます。
この無料乗車券の支給を受けるためには、該当のかたが受給資格認定の申請をしなければなりません。そこで次のように受付会場を決めましたので、該当のかたは、お忘れなく手続きしてください。
該当者
○老人=七十歳以上の人
○身体障害者=六歳以上で、身体障害者障害程度等級表に基づく、一級から三級までの身体障害のある人。
○精神薄弱者=六歳以上で、児童相談所または精神薄弱更正相談所の判定した知能指数が五十以下の人。
○介護人=精神薄弱者および身体障害者一級の人には「介護人つきの乗車券」を支給します。
支給条件
○八戸市に引き続き一年以上住所があること。
○施設に収容されている人や医療機関に引き続き三ヶ月以上入院している人は除かれます。
○受給者本人の昭和四十七年における所得が、百二十万四銭七百円以下であること。(受給者に扶養家族があるときは、扶養親族一人につき十四万円を加算します)
手続きで必要なもの
① 印章②身体障害者は身体障害者手帳③精神薄弱者は知能指数の判定書
乗車券の支給は
四月二十日までに申請書を出したかたには、五月一日から利用できる無料乗車券を支給します。
問い合わせは社会課へ
そして、四月二十日以降に申請したかたは、六月一日から利用できる乗車券が支給されることになっておりますので、遅くとも四月二十日までに手続きしてください。
くわしくは、社会課社会係(電話内線473番)へどうぞ。
デーリー東北新聞は次のように報道
八戸で五月から実施
八戸市は老人、身体障害者、精神薄弱者を対象に五月一日から市営バス無料乗車券を支給することを決めた。市の福祉行政の前進だとして喜ばれている。今回該当する人は、七十歳以上の老人五千九百九十五人、六歳以上で身体障害程度級表に基づく一級から三級までの人千四十人、精神薄弱者で六歳からの人(IQ五十以下)二百五十人。
同年の一月五日デーリー東北新聞
老人身障者 バス料金無料へ
豊崎に市立幼稚園
秋山八戸市長が記者会見
秋山皐二郎市長は四日、ことし初の記者会見を行い、市民生活に密着したキメ細かな行政を推進し、民生、福祉の充実を図るなど市政の基本方針を述べ「市立幼稚園を豊崎地区に、市立保育所を湊地区に設置する。老人および身障者の交通費無料化を新年度から実施する」ことなどを明らかにした。
これは単に老人と身体障害者への救済策ではない。これは赤字に悩む市営バスへの救済策であった。
同年の八月上の広報はちのへに次の文あり。
市民の足、その現状
市営バス運賃改定を申請
よりよいサービスのために
一日約七万人の利用客を運ぶ
市営バスは、市内のほぼ全域に百六十二台のバスを運行、二十二万市民の足として、一日約七万人の乗客を輸送し、通勤、通学、買物など、日常生活に欠かせないものになっております。
その半面、経営状態は、従来からの経営環境の悪化に加え、昨年以来の石油危機をきっかけとした燃料や資材の異常な値上り、職員給与の大幅な上昇などによって、著しく悪くなっております。
交通部では、このような経営悪化に対処して、ことし三月「地方公営交通事業の経営の健全化の促進に関する法律」の指定事業の承認を受け、計画に従って、国および市の財政援助をうけなから、経営の効率化を図り、健全化に努めてまいりました。
ところが、この効率化にも限度があり、増え続ける運送原価に対応した収入を得るためには、運賃改定をあわせてやっていかなければ、健全計画の見通しがたたない状態となってまいりました。それで、やむを得ず、ことし五月二十一日に、運賃改定の串請を運輸大臣に提出いたしました。
以下、市営バスの経営の実態と問題点(経営悪化の要因)をご理解いただくため、特集しました。
運送の経費増える
約八割は人件費
運送費の中で、大きなウエイトを占める人件費は、毎年の給与改定で著しく増えております。原価計算をみますと、人件費は四十八年度で運送費中、約八割を占め、ワンマンカーの導入などで職員数を減らしてきておりますが、それでも四十六年度の実績で、六億六千万円だったものか、五十年度を推定しますと二倍の十四億七千万円以上になりそうです。
その他燃料を含め部品材料バス購入費は、昨年以来五割から二倍に近い値上がりになり、運送費は大幅に増加いたしております。
マイカーの影響か 利用客は減る
企業経営の支えであったバス利用客の伸び率は、四十年ごろから横ばいで、四十年度には、二千七百十八万二千人だったものが四十七年度では、二千六百九十九万二千人の輸送
状況となり、特に、四十八年度には、二千五百七万四千人(中略)今後の増加は期待できない見通しです。(平成十七年度利用者は八百三十二万人となんと七十%減。これじゃ死に体)
バス利用客の伸びない原因として、マイカーの増加による影響があげられます。市内の自動車台数は、三十七年に約一万一千台たったものが、四十八年には五万台を越え、なんと四倍以上の急激な増加ぶりとなっております。(現在は十四万九千台で昭和四十八年からは三倍、八戸市の世帯数が十万だから一家に一台半、つまり二台はあろうという時代)
一人一台というのも目前になりつつある現在、本当に市営バスは生き残れるのか、赤字を拡大する前に閉鎖するべきだろう。
この赤字解消策として目先は借金、それから運賃を上げる、補助を出させるの方法。
八戸市は市民の税金をこれに投入。昭和四十八年に四千五百万を投入してから平成十七年末までくれた金は百四十一億円、それでも足らずに高齢者無料バス乗車証の発行を考えた。
当初は高齢者は六千人、バス無料乗車証に出した銭は二千五百万円。ところが平成十八年には七十歳以上が三万五千人もいる。三万人も増加。
支出した銭も四億七千万円に増大。金の増加倍率は十九倍。
七十歳以上人口増加比は六倍。
インフレもあるだろうが、金の方が伸び率が大。
つまり市営バスを助けるための策がこれ。延命策というのか
先送りというのが正しいのか、歴代の為政者はこれを見て見ぬふりをしてきたツケが出た。
高齢者バス証で使った金は八十二億円
補助の百四十億円と合わせると二百二十三億円。民間企業ならとっくに倒産。
いいのかね、このまま赤字を出し続けていても。さらに南郷村合併で、市営バス路線外だけに、不公平との非難で、南部バスに交付金が出る、当初は三千万だが、利用者数を見て増額、その原資は受益者である高齢者と障害者が有料化になって負担する。二千四百円が倍になる計算。さらに南部バスへの交付金が増えれば、南郷村民のために八戸市内の高齢者の負担増では合併は正しかったのか、貧乏南郷を救済するための合併でしかなかったのか、はてさて、妙な時代だ。
八戸市民高齢者の待遇に考える
七一歳 ロボット爺
八戸市は他所より福祉対策が充実している。と喜んでいたが、それは幻だった。幻は絵に描いたモチと同じ理屈だ。そんなに遠い昔のことではなかったのだが「六五歳になったら市営バスが無料でつかえるんだって」「そりゃ楽しみだなー(我)わーもすぐだもんな」と巷での朋友との会話ではそうだった。私が六五歳になった時、役場では待ってましたとばかりに変更をした。七〇歳になった。無料ではなく、利用料二千四百円。此処までの歳では若すぎて元気だからと年齢をひきあげよう、と決めたらしい。
ついでに役場では「年間二千四百円とすると利用者の人数と利用回数と、こーしてあーしてと」机上で思惑を計画し企んだ。と私は見た。役人と名の付く輩か決めることだ。意地悪は爺になってからにしてもらいたい。なーんと、今期になったら四千八百円に値上げ?人の気持ちを逆撫でするとはこのことだ。
また、この税金投入の消費?の一端をお前も担っただろうと言われるのは癪だからもあるが私は申請をしない。バスを利用しない。
ろくに無い歩道を歩けと補導されてもあれもこれも冗談もホドホドにしてくれと言いたい。早く車にでも轢かれて死んでしまえと言われているようだ。「いやーそこまでは言わないが早く逝ってくれよ」が本音だろうか。こんな問題は全国、地方治自体によって大きく異なるが、新潟では六五歳になれば年間二万円分のバスや電車の乗車券を配布する。これなどはとても合理的、是非に見習って頂きたいものだとおもう。よたよた爺がよたよた走る危ないマイカーがそれだけ少なくなるのでいいことずくめではないか。年寄を。
話しは高齢者バス乗車券にもどるが年間四千八百円になったが交付をうけて、利用せずばもったいないと朋友の女性が市内の巡回バスに乗った。どうせ一人暮しの身である。生まれた土地だが知らぬところばかり、そんなわけで街や海岸線の数時間ほどの旅を楽しんだ。まだ日暮れの時間でないのに運転手(ドライバーと言わねばムクレルんだど)が言った「ばばぁ、いい加減に、はあ降りろじゃ」「冗談じゃないわたしゃ銭払ってるのだど」言い返したかったがこの女性はお行儀が善かった。また、運転手はそんなことを口にする権利はチートモ無い。
昭和四十九年の八戸、高齢バス無料証の出た時代 1
磯の真砂と盗人は
の名文句は石川五右衛門が悪行の限りを尽くし、捕まり、そして釜茹での刑になる時の時世の句といわれているが
時代は現代ともなると。
釜茹でどころか凶悪この上なくとも死罪もまぬがれ、のうのうと生き延びる。「俺は殺す気がなかったんた」とぬかせば辯護士たちが寄って集って被告をくいものにする卑劣な所業だ。「もっとイサギのいい生き方はできぬか」と言いたい。殺したら、死罪になるは当然の報い。因果応報のことばも古くからある。釜茹での刑も復活したらどうかと思うがのう・・・・なぬ!君は反対かね?これから将来悪業を働こうとおもっているのかな?なーにその時はカニになったつもりで釜に入るのせー
頃合よく茹であがったらカニだば旨い旨いと食われて喜ばれるが人間はどうにもならぬゴミせぇな。まあ、悪いごとしねぃごったな。殺したり、火着けるなどしたら死罪せ!
昭和四九年一月一一日の
デーリー東北新聞紙から
タラバガニ二億円相当密漁
八戸の漁船、九州で捕まる
大分海上保安部は十日朝、北洋海域で密漁したタラバガニを積んで大分県臼杵湾に停泊していた青森県八戸市、熊谷漁業所有の遠洋底引き網漁船第35浜善丸(三四九トン)=出河尚船長ら二八人乗り組み=を漁業法違反の疑いでタラバガニを押収したうえ、調べている。
調べでは同船は昨年十一月に八戸を出港、底引き網漁船では捕ってはならないタラバガニ五〇トン(二億円相当)を捕獲した。同船はこれを積んだまま太平洋を回ってカジの修理という名目で、八日から臼杵湾に停泊していた。
同海保では同船のカジの傷み具合がひどくないため、密漁の発覚しにくい九州で売りさばこうとしたとみて、同船長らを調べている。
盗みで手配の少年、東京でご用
八戸署から盗みの疑いで指名手配されていた八戸市売市鴨ヶ池、無職少年(一八)は、九日午前八時ごろ警視庁池袋署員に逮捕され、同日夜八戸署に押送された。調べによると少年は、昨年十一月二十八日午前七時半から午後五時半までの間に同市城下二丁目、月館アパート内、会社員北城久雄さん(一九)の部屋に侵入、ブレザーコート一着(一万四千円相当)、同山田幸作さん(二七)の部屋からも現金二千円を盗み逃げていたもの。同署で余罪を追及している。
サンルート八戸
一七日にオープン
八戸一の高層に
ホテルサンルートのチェーンホテルであるサンルート八戸(八戸市六日町)がいよいよ一七日オープンする。
同ホテルの建設工事は岩徳ビル新館工事として事業費約三億五千万円で建設していたもので、鉄筋コンクリート地上九階(建て面積延べ三千三百平方㍍)建物の高さは三十二㍍余で八戸一の高層建築となる。
完成した新館ホテルサンルートのテナントは三十二店で合わせて五十五となる。サンルートの施設は一階ショッピング二階飲食店街となり、三階から七階までは客室で八一室が完備されている。このほか施設フロントロビー、会議室、展示室、研修室、宴会場などが設けられている。ホテルサンルートチェーンとしては既に郡山、東京、名古屋、松本、坂出、沖縄で営業しており、八戸は七番目の開業。このほか宮崎、福島、仙台にも建設されており、近日中にオープンの予定。したがって同ホテルは周遊観光基地として利用出来るほかビジネス活動の基地としても気軽に活用出来るわけで期待されている。
大ウケ 映画館、飲食店
八戸繁華街
三が日の表情
正月休みも終り、再びふだんの生活にもどろうとしているが好天に恵まれたことしの正月三が日八戸地方ではどのようなレジャーが人気をよんだのか!。
とあり連日中心商店街特に三日町を中心に群がった人の波。映画館と飲食店は超満員
どこからこんなに人が出てくるかと思わせるような混雑ぶりを見せた。車道まであふれ交通渋滞の原因になったほど。バス列車などの交通機関はどれも満員、バス路線はいずれも増便を出したくらい。
次ぎの行き先は映画がもてた。
テレビは普及し全盛たがやはり大きな画面の味は
忘れられないらしく洋画、邦画とも入りは上々。「燃えよドラゴン」「日本沈没」「私の寅さん」などが人気のマトで、特に“寅さん”の八戸松竹では大入で恵比寿顔。一方ボーリング場は斜陽化が目立った。
と写真入りで報じている。
途中割愛したが現在とくらべ「古き良き時代」を垣間見て隔世の感がある。
一月一〇日付
八戸平原開発
前途多難の世増ダム
東北農政局が南郷村で初の現地説明会
「犠牲はごめんだ」
水没地域住民が反対意見
計画だと総貯水量は二千八百万トン。それにより水没戸数は六十四戸。
平成の現在は「青葉湖」名が付けられ完成している。
一月十三日付
昨夜八戸小全焼
老朽校舎 早い火の回り
十二日夕、八戸市の中心部にある八戸小学校が全焼した。風はなかったが、校舎が古かったことなどもあって火の回りが早く全焼はまたたく間だった。同校も冬休み中だったが、来る十六日から始まる第三学期を前に,児童たちはただぼう然としていた。市教育委員会では、三学期は燐接の学校など児童を分散して授業をすることにしている。損害は約四億九千万円。原因については、きょう十三日、八戸署が現場検証をして調べることにしている。
出火原因不明、ろう電、放火でも捜査
出火場所理科準備室付近か
16日市体育館で始業式
市教育委が臨時委開く
学級数は従来通り
松本清治校長、生徒数千五百四十八人
の名文句は石川五右衛門が悪行の限りを尽くし、捕まり、そして釜茹での刑になる時の時世の句といわれているが
時代は現代ともなると。
釜茹でどころか凶悪この上なくとも死罪もまぬがれ、のうのうと生き延びる。「俺は殺す気がなかったんた」とぬかせば辯護士たちが寄って集って被告をくいものにする卑劣な所業だ。「もっとイサギのいい生き方はできぬか」と言いたい。殺したら、死罪になるは当然の報い。因果応報のことばも古くからある。釜茹での刑も復活したらどうかと思うがのう・・・・なぬ!君は反対かね?これから将来悪業を働こうとおもっているのかな?なーにその時はカニになったつもりで釜に入るのせー
頃合よく茹であがったらカニだば旨い旨いと食われて喜ばれるが人間はどうにもならぬゴミせぇな。まあ、悪いごとしねぃごったな。殺したり、火着けるなどしたら死罪せ!
昭和四九年一月一一日の
デーリー東北新聞紙から
タラバガニ二億円相当密漁
八戸の漁船、九州で捕まる
大分海上保安部は十日朝、北洋海域で密漁したタラバガニを積んで大分県臼杵湾に停泊していた青森県八戸市、熊谷漁業所有の遠洋底引き網漁船第35浜善丸(三四九トン)=出河尚船長ら二八人乗り組み=を漁業法違反の疑いでタラバガニを押収したうえ、調べている。
調べでは同船は昨年十一月に八戸を出港、底引き網漁船では捕ってはならないタラバガニ五〇トン(二億円相当)を捕獲した。同船はこれを積んだまま太平洋を回ってカジの修理という名目で、八日から臼杵湾に停泊していた。
同海保では同船のカジの傷み具合がひどくないため、密漁の発覚しにくい九州で売りさばこうとしたとみて、同船長らを調べている。
盗みで手配の少年、東京でご用
八戸署から盗みの疑いで指名手配されていた八戸市売市鴨ヶ池、無職少年(一八)は、九日午前八時ごろ警視庁池袋署員に逮捕され、同日夜八戸署に押送された。調べによると少年は、昨年十一月二十八日午前七時半から午後五時半までの間に同市城下二丁目、月館アパート内、会社員北城久雄さん(一九)の部屋に侵入、ブレザーコート一着(一万四千円相当)、同山田幸作さん(二七)の部屋からも現金二千円を盗み逃げていたもの。同署で余罪を追及している。
サンルート八戸
一七日にオープン
八戸一の高層に
ホテルサンルートのチェーンホテルであるサンルート八戸(八戸市六日町)がいよいよ一七日オープンする。
同ホテルの建設工事は岩徳ビル新館工事として事業費約三億五千万円で建設していたもので、鉄筋コンクリート地上九階(建て面積延べ三千三百平方㍍)建物の高さは三十二㍍余で八戸一の高層建築となる。
完成した新館ホテルサンルートのテナントは三十二店で合わせて五十五となる。サンルートの施設は一階ショッピング二階飲食店街となり、三階から七階までは客室で八一室が完備されている。このほか施設フロントロビー、会議室、展示室、研修室、宴会場などが設けられている。ホテルサンルートチェーンとしては既に郡山、東京、名古屋、松本、坂出、沖縄で営業しており、八戸は七番目の開業。このほか宮崎、福島、仙台にも建設されており、近日中にオープンの予定。したがって同ホテルは周遊観光基地として利用出来るほかビジネス活動の基地としても気軽に活用出来るわけで期待されている。
大ウケ 映画館、飲食店
八戸繁華街
三が日の表情
正月休みも終り、再びふだんの生活にもどろうとしているが好天に恵まれたことしの正月三が日八戸地方ではどのようなレジャーが人気をよんだのか!。
とあり連日中心商店街特に三日町を中心に群がった人の波。映画館と飲食店は超満員
どこからこんなに人が出てくるかと思わせるような混雑ぶりを見せた。車道まであふれ交通渋滞の原因になったほど。バス列車などの交通機関はどれも満員、バス路線はいずれも増便を出したくらい。
次ぎの行き先は映画がもてた。
テレビは普及し全盛たがやはり大きな画面の味は
忘れられないらしく洋画、邦画とも入りは上々。「燃えよドラゴン」「日本沈没」「私の寅さん」などが人気のマトで、特に“寅さん”の八戸松竹では大入で恵比寿顔。一方ボーリング場は斜陽化が目立った。
と写真入りで報じている。
途中割愛したが現在とくらべ「古き良き時代」を垣間見て隔世の感がある。
一月一〇日付
八戸平原開発
前途多難の世増ダム
東北農政局が南郷村で初の現地説明会
「犠牲はごめんだ」
水没地域住民が反対意見
計画だと総貯水量は二千八百万トン。それにより水没戸数は六十四戸。
平成の現在は「青葉湖」名が付けられ完成している。
一月十三日付
昨夜八戸小全焼
老朽校舎 早い火の回り
十二日夕、八戸市の中心部にある八戸小学校が全焼した。風はなかったが、校舎が古かったことなどもあって火の回りが早く全焼はまたたく間だった。同校も冬休み中だったが、来る十六日から始まる第三学期を前に,児童たちはただぼう然としていた。市教育委員会では、三学期は燐接の学校など児童を分散して授業をすることにしている。損害は約四億九千万円。原因については、きょう十三日、八戸署が現場検証をして調べることにしている。
出火原因不明、ろう電、放火でも捜査
出火場所理科準備室付近か
16日市体育館で始業式
市教育委が臨時委開く
学級数は従来通り
松本清治校長、生徒数千五百四十八人
小中野特集 小中野小学校百年史から 3
むかしあれこれ「学都小中野」面目躍如
出席者
佐々木直次郎
浪打定雄三河久蔵
月館宇右衛門(明治四十三年卒)
稲葉米三郎(明治四十三年卒)
佐川慶次郎(明治四十四年卒)
夏堀正三(大正二年卒)
佐々木哲夫(大正三年卒)
岩見正男(大正七年卒)
大久保弥三郎(大正九年卒)
成田謙三郎(特別参加)
小井田幸哉学校長(十九代)
司会 大久保健二
中道直通
山浦武夫
大久保 それでは時間もだいぶ経過しておりますので、これから座談会を開催いたしたいと思いますが、これに先だちまして、ちょっとご挨拶申し上げたいと思います。
小中野小学校も創立以来本年をもちまして九十周年を迎えるわけでございますがこれを記念して、いろいろの行事を行うことになり、本日の会合もその一つでございます。
本校ご卒業の大先輩の方々から思い出話や、母校についての色々のことどもを語っていただき、これを記録にとどめ、長く本校の歩みとして後々まで伝えるようにいたしたい。そうしてこれが後輩にとっての指針ともなればと、このように考えまして、本日の「小中野校を語る」座談会を催す段取りになったのでございます。
尚、本校卒業生ではございませんが成田さんには、長い間学校のことに関係しておられ、いろいろの記録をおもちの関係もありますので、お呼び申し上げたわけでございます
創立当時二十坪の体育館で五十名のすもう
大久保 では、まず最初に、本校の創立当時のことについてですがお話し合いをお願いしたいと思います。
はっきりした記録が残っておるのは明治二十年あたりからが本格的のように見受けられますが、創立に関しては明治九年というようなことになっております。ちょうど皆さんがお入りになられた当時は、浪打定雄さんは十五回卒業生ということになっておりますし、佐々木直次郎さんもその頃ですので、はっきりしないところがあると思いますが何か、創立当時のお話でもございませんでしょうか。
佐々木直 まず学校は現在の桜屋染物店の所にありました。あそこには大きな桜の木があって、わしら桜んぼがなると、その木に登って校長先生達に追われたものです。役場はその角にありましたよ。昼食は、全部家に食べに帰ったもので、浜須賀あたりから来た生徒も全部帰ったんです。下駄ばきで学校の道具を風呂敷に包んでしょって来たものです。その後、狭いというので現在のここを買うにかかったんです。ここは丁度、湊の長作さんの畠だと思います。
大久保 佐々木さんがお入りになったとき何教室あったんですか。
佐々木直 わたしは、高等二年までしか入らないんです。それで最高の方なんです。尋常は4年、そうして高等二年に入って、学校に行くと言ったら、「若い者になってから学校さ行ぐってがあ。」というわけでしたが、「いや行ぐっぺえ。どうせ、オンジだし、しかだねえ。学校さ入っておがねばだめだ」というのでまあきたわけです。
その当時、まず運動場は、今なら体育館ですが、二十坪ぐらいの板敷で、相撲とると、こねだが折れるからと、そういうようなものでした。相撲とりばかりして鐘がなったのも知らずに離さないでいて(笑声)立だされてげんこをもらったという、そういう時代であったんです。今の生徒はそれに比べると、大変恵まれていますよ。二十坪の所で四十人も五十人も相撲をとっていたんですから…。とても今の生徒に比べると天地の差ですよ。
稲葉 わたしらは、尋常四年から高等一年になって(ホホウという声あり)、そのときは高等四年があって、尋常四年で卒業して、高等一年になったら、改正になって又尋常五年になった。だから尋常科をいっぺん卒業してから又、入った・:・:。
大久保 ハハアー、そうすれば尋常科に二回入ったということに……
波打 わたしは二回卒業したわけでーー二回卒業するのもゆるくないもんです。(笑声)尋常六年と四年との境は、わたしや月舘さん達でー
月舘さんもそうでしょう。
月舘 そうです。そうです。
波打 丁度、月館さんは、わたしの一級上だから高等二年になって六年になったし、わたしは高等一年で五年になったというわけです。
大久保 佐々木さんや浪打さんあたりまでは、尋常四年の高等科は二年だったわけですか?
佐々木直 そうです。
浪打 わたしたちは高等二年終ったわけで。
大久保 高等二年、はあーそうですか。そうすると、高等四年の世代の方はおたくさんですか?
波打 終ったのはー今、残っているのは二人だ。新制大学の先生をしている人と。
佐々木 湊には、高等科がなくて小中野へ全部来たんです。
佐々木哲 そう、そう、湊はなかったんだ。
湊には水産補習学校というのがありました。
大久保 では、湊の方は高等科へ入る場合は小中野へ来たわけですね。
波打 三島力先生も、それから千葉さんも、中学校に入るためにここに来たんです。ここは、中学校に入るための模範校みたいなもので、中学校の一番がどんどんここから出たものです。中学校に入るには、高等科からで、高等二年から入ればたいした秀才で普通は高等三年から入ったんです。
大久保 改正になってからは尋常六年から中学校へ入学できたが、当時は尋常四年からは中学校へ受験できなかったわけですね。
佐々木哲 できなかったんです。
小井田 そうすると大低は高等三年から……
佐々木哲 神田五雄さんもこちらの学校へ入ったし、その同級生の大久保貞次郎さん、稲本つまさん、佐藤市会議員……
大久保 そうすれば過去の小中野は、浜通りでも上級学校進学の優秀な者が入って進んで行ったという歴史があったんですな。
夏掘 学都小中野だったんです。
浪打 白銀の生徒もここに人ったんだ。ここから、一番や二番で進学したものだ。
佐々木哲 三島先生も湊の学校に入って高等科はこちら、だから向うにも籍があるんです。
大久保 そうですか。
学友会に支えられた学都小中野
波打 もう一つ自慢になるのは、戦争当時のこと、県からの指令ですべてのグループをつぶした事があった。八戸の青年会、北辰会はつぶした人だが、小中野の学友会だけはつぶさなかった。何故かというと成績、運動ともによかったからです。
夏堀悌二郎、神田五雄、久保義一、大久保二人、万吉屋と中村栄次郎さん達はここから行ったんです。入った時はあまり引き立たなかったが入ってから殆どの人が優等生、金と銀のえり章をつける人達だった。それに剣道や野球の選手は小中野出身者でしめていた。
夏掘 柔道もそうでしたな。八戸に於ける運動は全部小中野出身者でしめていた。だからここは(湊学友会)つぶさなかった。学問でも運動でも優れていたから……
夏堀 浪打さん、解散を命じたのはどこですか。
浪打 県です。
夏掘 県の学務課だな。
山浦 解散を命じるというのは、いったいどういう意味であったのですか。
夏掘 解散を命じたのは青年会、北辰会というのは、憲政会とか、政友会とかのつまり一つの系列をもっているんだから、まあ北村さんでも、近藤さんでもね、政党的なにおいがあったからなんですね。純粋の学都の、大げさだけれども、クラブ活動の母体というものは学友会だけしかなかったんですね。
浪打 学友会というのは、ここから行った者はみな入っていたんです。ここを卒業した者が、もとの母親のふところに戻るように、ここの母校に来たものです。
夏椙 八中に入らないで、クラブ活動を一緒にやった人たちを会友といった。
波打 私達の時は、卒業生は会友だったな。月宇さん、秀雄さん、木村靄村さん達、中学校に入らなくとも一緒にやったのはこの時あたりかな。
月舘 野球に勧誘するというように……。
中沢 学友会を通じて非常に、月宇さんも木村さんも、稲葉さんも懇意なわけですね。
夏掘 クラブ活動に参加するだけのバイタリテーのある人達は、ふだん学友会に集ったものです。
大久保 湊学友会は現在も存続しておりますし、本年も燈龍流しというような行事もやったり先輩らのいろいろな歴史というものが、自ずと伝統的に伝わっているわけなんですね。
宿直室は寄合の場
夏堀 ここの小学校の先生で、小野寺福太郎さんという方が墓参にきましたが、私と大久保弥三郎君と二人で種差へご招待し、一晩泊ってもらいました。あの人が先生をしていた頃は、宿直室は、もうみんなの寄合いの場でした。まあ物を食ったり、さわいだりなんかしましてね。今だったら問題でしょうけれども、ほんとに和気あいあいとした雰囲気でね、とてもそれが忘れられなくてね。いま先の小野寺福太郎先生が来た時も、一番先に僕がわかったんですね。まあ、その頃小学校というのは、娯楽の場所も何もありませんからね。映画館だとかいうのも、新開座までいかなければ見られませんからね。小学校というのは、おもしろい所なんですね。学問の場であると同時に娯楽の場でもあり、運動の場でもあったわけなんです。だから人作りの場だったんです。
まあ、それを指導されたのが、ここにいる山浦さんのお父さんだったんですが、先生と相撲とるとかなどして、一つの運動と人間錬成の場だったんですな。ほかにありませんよ。小中野のような所は。
出席者
佐々木直次郎
浪打定雄三河久蔵
月館宇右衛門(明治四十三年卒)
稲葉米三郎(明治四十三年卒)
佐川慶次郎(明治四十四年卒)
夏堀正三(大正二年卒)
佐々木哲夫(大正三年卒)
岩見正男(大正七年卒)
大久保弥三郎(大正九年卒)
成田謙三郎(特別参加)
小井田幸哉学校長(十九代)
司会 大久保健二
中道直通
山浦武夫
大久保 それでは時間もだいぶ経過しておりますので、これから座談会を開催いたしたいと思いますが、これに先だちまして、ちょっとご挨拶申し上げたいと思います。
小中野小学校も創立以来本年をもちまして九十周年を迎えるわけでございますがこれを記念して、いろいろの行事を行うことになり、本日の会合もその一つでございます。
本校ご卒業の大先輩の方々から思い出話や、母校についての色々のことどもを語っていただき、これを記録にとどめ、長く本校の歩みとして後々まで伝えるようにいたしたい。そうしてこれが後輩にとっての指針ともなればと、このように考えまして、本日の「小中野校を語る」座談会を催す段取りになったのでございます。
尚、本校卒業生ではございませんが成田さんには、長い間学校のことに関係しておられ、いろいろの記録をおもちの関係もありますので、お呼び申し上げたわけでございます
創立当時二十坪の体育館で五十名のすもう
大久保 では、まず最初に、本校の創立当時のことについてですがお話し合いをお願いしたいと思います。
はっきりした記録が残っておるのは明治二十年あたりからが本格的のように見受けられますが、創立に関しては明治九年というようなことになっております。ちょうど皆さんがお入りになられた当時は、浪打定雄さんは十五回卒業生ということになっておりますし、佐々木直次郎さんもその頃ですので、はっきりしないところがあると思いますが何か、創立当時のお話でもございませんでしょうか。
佐々木直 まず学校は現在の桜屋染物店の所にありました。あそこには大きな桜の木があって、わしら桜んぼがなると、その木に登って校長先生達に追われたものです。役場はその角にありましたよ。昼食は、全部家に食べに帰ったもので、浜須賀あたりから来た生徒も全部帰ったんです。下駄ばきで学校の道具を風呂敷に包んでしょって来たものです。その後、狭いというので現在のここを買うにかかったんです。ここは丁度、湊の長作さんの畠だと思います。
大久保 佐々木さんがお入りになったとき何教室あったんですか。
佐々木直 わたしは、高等二年までしか入らないんです。それで最高の方なんです。尋常は4年、そうして高等二年に入って、学校に行くと言ったら、「若い者になってから学校さ行ぐってがあ。」というわけでしたが、「いや行ぐっぺえ。どうせ、オンジだし、しかだねえ。学校さ入っておがねばだめだ」というのでまあきたわけです。
その当時、まず運動場は、今なら体育館ですが、二十坪ぐらいの板敷で、相撲とると、こねだが折れるからと、そういうようなものでした。相撲とりばかりして鐘がなったのも知らずに離さないでいて(笑声)立だされてげんこをもらったという、そういう時代であったんです。今の生徒はそれに比べると、大変恵まれていますよ。二十坪の所で四十人も五十人も相撲をとっていたんですから…。とても今の生徒に比べると天地の差ですよ。
稲葉 わたしらは、尋常四年から高等一年になって(ホホウという声あり)、そのときは高等四年があって、尋常四年で卒業して、高等一年になったら、改正になって又尋常五年になった。だから尋常科をいっぺん卒業してから又、入った・:・:。
大久保 ハハアー、そうすれば尋常科に二回入ったということに……
波打 わたしは二回卒業したわけでーー二回卒業するのもゆるくないもんです。(笑声)尋常六年と四年との境は、わたしや月舘さん達でー
月舘さんもそうでしょう。
月舘 そうです。そうです。
波打 丁度、月館さんは、わたしの一級上だから高等二年になって六年になったし、わたしは高等一年で五年になったというわけです。
大久保 佐々木さんや浪打さんあたりまでは、尋常四年の高等科は二年だったわけですか?
佐々木直 そうです。
浪打 わたしたちは高等二年終ったわけで。
大久保 高等二年、はあーそうですか。そうすると、高等四年の世代の方はおたくさんですか?
波打 終ったのはー今、残っているのは二人だ。新制大学の先生をしている人と。
佐々木 湊には、高等科がなくて小中野へ全部来たんです。
佐々木哲 そう、そう、湊はなかったんだ。
湊には水産補習学校というのがありました。
大久保 では、湊の方は高等科へ入る場合は小中野へ来たわけですね。
波打 三島力先生も、それから千葉さんも、中学校に入るためにここに来たんです。ここは、中学校に入るための模範校みたいなもので、中学校の一番がどんどんここから出たものです。中学校に入るには、高等科からで、高等二年から入ればたいした秀才で普通は高等三年から入ったんです。
大久保 改正になってからは尋常六年から中学校へ入学できたが、当時は尋常四年からは中学校へ受験できなかったわけですね。
佐々木哲 できなかったんです。
小井田 そうすると大低は高等三年から……
佐々木哲 神田五雄さんもこちらの学校へ入ったし、その同級生の大久保貞次郎さん、稲本つまさん、佐藤市会議員……
大久保 そうすれば過去の小中野は、浜通りでも上級学校進学の優秀な者が入って進んで行ったという歴史があったんですな。
夏掘 学都小中野だったんです。
浪打 白銀の生徒もここに人ったんだ。ここから、一番や二番で進学したものだ。
佐々木哲 三島先生も湊の学校に入って高等科はこちら、だから向うにも籍があるんです。
大久保 そうですか。
学友会に支えられた学都小中野
波打 もう一つ自慢になるのは、戦争当時のこと、県からの指令ですべてのグループをつぶした事があった。八戸の青年会、北辰会はつぶした人だが、小中野の学友会だけはつぶさなかった。何故かというと成績、運動ともによかったからです。
夏堀悌二郎、神田五雄、久保義一、大久保二人、万吉屋と中村栄次郎さん達はここから行ったんです。入った時はあまり引き立たなかったが入ってから殆どの人が優等生、金と銀のえり章をつける人達だった。それに剣道や野球の選手は小中野出身者でしめていた。
夏掘 柔道もそうでしたな。八戸に於ける運動は全部小中野出身者でしめていた。だからここは(湊学友会)つぶさなかった。学問でも運動でも優れていたから……
夏堀 浪打さん、解散を命じたのはどこですか。
浪打 県です。
夏掘 県の学務課だな。
山浦 解散を命じるというのは、いったいどういう意味であったのですか。
夏掘 解散を命じたのは青年会、北辰会というのは、憲政会とか、政友会とかのつまり一つの系列をもっているんだから、まあ北村さんでも、近藤さんでもね、政党的なにおいがあったからなんですね。純粋の学都の、大げさだけれども、クラブ活動の母体というものは学友会だけしかなかったんですね。
浪打 学友会というのは、ここから行った者はみな入っていたんです。ここを卒業した者が、もとの母親のふところに戻るように、ここの母校に来たものです。
夏椙 八中に入らないで、クラブ活動を一緒にやった人たちを会友といった。
波打 私達の時は、卒業生は会友だったな。月宇さん、秀雄さん、木村靄村さん達、中学校に入らなくとも一緒にやったのはこの時あたりかな。
月舘 野球に勧誘するというように……。
中沢 学友会を通じて非常に、月宇さんも木村さんも、稲葉さんも懇意なわけですね。
夏掘 クラブ活動に参加するだけのバイタリテーのある人達は、ふだん学友会に集ったものです。
大久保 湊学友会は現在も存続しておりますし、本年も燈龍流しというような行事もやったり先輩らのいろいろな歴史というものが、自ずと伝統的に伝わっているわけなんですね。
宿直室は寄合の場
夏堀 ここの小学校の先生で、小野寺福太郎さんという方が墓参にきましたが、私と大久保弥三郎君と二人で種差へご招待し、一晩泊ってもらいました。あの人が先生をしていた頃は、宿直室は、もうみんなの寄合いの場でした。まあ物を食ったり、さわいだりなんかしましてね。今だったら問題でしょうけれども、ほんとに和気あいあいとした雰囲気でね、とてもそれが忘れられなくてね。いま先の小野寺福太郎先生が来た時も、一番先に僕がわかったんですね。まあ、その頃小学校というのは、娯楽の場所も何もありませんからね。映画館だとかいうのも、新開座までいかなければ見られませんからね。小学校というのは、おもしろい所なんですね。学問の場であると同時に娯楽の場でもあり、運動の場でもあったわけなんです。だから人作りの場だったんです。
まあ、それを指導されたのが、ここにいる山浦さんのお父さんだったんですが、先生と相撲とるとかなどして、一つの運動と人間錬成の場だったんですな。ほかにありませんよ。小中野のような所は。
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 5
西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
金英の選んだ道、その頃の曹洞禅風
江戸に戻った金英和尚は、これから真剣勝負のやり直しだ。修行の方針をどちらに進めたらよいか、と考えた。当時、曹洞禅に於ては、関東地方では、前橋市の龍海院に奕堂(えきどう)禅師(後に大本山総持寺独往第一世となった)が居られて、その傘下には常に百人の修行人が坐禅しておった。又、修禅寺物語で有名な伊豆の修禅寺には、仏母梅苗和尚が、劫火洞然の公案をひっさげて、常に随身八十人の門下僧に囲まれていた。更に、関西地方には、京都郊外宇活の興聖寺(道元禅師が最初に創立された禅堂)には、慧杲回天禅師が、常に百人以上の雲水を往来出入させて、道の誉が高かった。従って、当時、人気があり、一般常識として判断すると、この三師の中の誰かを選ぶのが通例であった。
しかし、金英和尚は考えた、提唱(ていしょう・禅宗で、教えの根本を提示して説法すること。提要。提綱)といえば碧巌(へきがん・臨済宗で重視される仏の教え)(集)や従容録(しょうようろく・曹洞宗において重視される仏書)よりしかやらない。況んや、一公案を得意として、それに執着するようではおかしい。道元禅師の宗門には、正法眼蔵という宗祖の暖い皮肉がある。それを参究しないのがおかしい。吉祥寺栴檀林で、愚禅様からも慧亮教投からもそして、月潭様からも、眼蔵の御提唱を御聴きしたが、月潭様の提唱は回数が少なかったが、心にのこっている。貧乏寺で誰もゆかぬそうだが、月潭様に眼蔵を参究しよう。金英和尚は坐禅三昧の結果、深く堅く決心したのである。
再出家、海蔵寺月潭老下に身を投ず
父親に死なれ、悲しみと緊張の心理状態となっていた金英和尚は、母親の血涙の訓戒を骨髄に徹せしめて江戸に戻り、恩師曹隆様及び本師泰禅様とも相談して、鳳林寺住職及び栴檀林の講師等一切の役職を辞任し、奥州第一人者の自負心も、若い新進気英の学僧という名声も一切を投げ捨てて、小田原市早川の海蔵寺住職月潭老人に身も心もまかせ切ったのであります。
月潭老人は、実にかくれた宗門近世の大宗将でありました。その教育法は、古往今来無比の峻烈苛酷を以て道誉の高かった正法眼蔵の大家でありました。金英和尚は、能く忍び、能く学び、能く行じて、十二年間精励し、月潭老人の全人格、全力量、全学識を一器の水を一器に移すが如く活取したのであります。そして、徳川中期以来の偉大な宗門の学者卍山(まんざん)~面山~万仭~本光~蔵海等の学風(これを二祖(二番目の祖師)懐弉(えじょう・。藤原氏の出身。天台や南都教学、さらには浄土教や達磨宗の禅をも学んだが、のち道元に師事、永平寺第二世。著「正法眼蔵随聞記」など)禅師伝承派という)と、これに対して、曹洞宗のカミソリ学者天柱とその門派空印~老卵等の学風(これを義雲禅師伝承派という)の両派をマスターして、綜合し、活かして、宗祖、道元禅師の真精神に直結し、真の禅風、真の正法を宣揚し、自らは近世最高の正法眼蔵の権威者とあがめられ、明治、大正、昭和の宗学と、禅風の興隆の祖となられたのであります。その十二年苦学力行の道場海蔵寺修学時代こそ金英和尚をして、穆山瑾英禅師として、今古未曾有の眼蔵大家たらしめた尊く得難い星霜でありました。これより、その縁起によって、道場の片鱗を察すると共に、瑾英和尚の修行の第二段階の勝蹟をたどって見よう。
海蔵寺とは
海蔵寺は、小田原市の早川という田園地帯にあって、現在も、瑾英和尚が坐禅した禅堂が本堂の左方にあり、本堂と禅堂の前に、木皮が赤くただれる「びらん樹」という樹が、三百年の星霜に堪えた姿を保っております。おそらく瑾英和尚はその樹影で読書したことでしょう。と昔を偲んで感無量でありました。左にその縁起を御紹介致します。
宝珠山海蔵寺縁起
応永二十一年(一四一四)、真言宗の廃跡を起して開創、天正年間、北条氏の全盛時代、その帰依を得、関八州の僧録となる。後に堀左衛門督秀政公、戸沢治部大輔盛安公の両大名中興開基となり、天和二年(一六八二)頒主稲葉美濃守正則公の篤信を受け宗風愈々揚り、雲水集り、直系の末寺三十八、孫にあたる末寺五百余に及び、安叟派の本寺と称う。
四十世月潭和尚門下には、森田悟由、畔上楳仙、西有穆山の三禅師のほか、偉僧(原垣出等)を輩出した。とありまして、関八州の僧録で、宗政を司ったことを証明しており、又古来より関左禅林と称されて人材養成の道場であります。
この道場に於て、当代第一の正法眼蔵の大家、月潭老人の門下に於て、出藍の誉をほしいままにしたのが、西有穆山その人であります。これより、この海蔵寺修行時代のエピソード等数種をあげて穆山和尚の面目を偲びたいと思います。その前に月潭老人の風格について一言致します。
月潭老人の風格
月潭老人は、道号を金竜といいます。不思議にも、金英和尚の授業師金竜様と竜が同じであります。かくれた、そして実力第一の眼蔵家でありました。関三ケ寺といって、徳川時代まで、大本山永平寺の貫首の候補者になっている寺が三ツありました。
その第一は、千葉県市川市国府台の総寧寺で、その配下の寺は、大本山総持寺末寺のみでも千二百十三ケ寺であり、第二は、埼玉県入間郡越生町の竜穏寺で、配下の寺数は、大本山総持寺系の末寺三千七十三ケ寺、大本山永平寺系の末寺八百七十四ケ寺であり、第三は、栃木県下都賀郡大平町の大中寺で、その配下の寺教は大本山総持寺系の末寺三千七百七十七ケ寺である。この三ケ寺の住職の中から、年功、徳望の順序によって、大本山永平寺の貫首に晋住したのであります。徳川時代までは、それだけ、この三ケ寺は権威のあった寺であります。従って末寺の有名な住職が訪問しても、この三ケ寺の住職は容易に送迎の礼を取ることがなかったのであります。けれども、月潭老人が訪問する時はこの三ケ寺の住職は、自ら必ず玄関まで、おくりむかえされたのであります。それだけ当時の宗教界に重きをなし、尊敬されていた大徳であります。
八百屋お七の恋物語で有名な駒込の吉祥寺の栴檀林に於て、林長教授が、正法眼蔵を提唱しようとしたら、二度とも門前から火事が出たので、門前の人達は正法眼蔵の提唱の看板が出ると身ぶるいして、こわがったそうです。ところが、月潭老人を御請待して正法眼蔵の提唱を願ったところ火事は勿論のこと、何等の障害もなく盛会の裏に終了したのであります。
月潭老人の偉大な人格に打たれて、悪魔が退散したわけであります。
この月潭老人は、九州熊本の出身で、生家は日蓮宗の檀家であります。お母様が八十歳になられて、月潭さんに会ってから死にたいという便りをよこしましたので、月潭さんが故郷に帰られて、御見舞申し上げると、母上は大変よろこばれて、菩提寺の和尚さんも御招きして、御馳走することになりました。
ところが、菩提寺の和尚さんは、大変不気嫌で、人ってくるなり、いきなり
「月潭、お前不屈な奴だ」と、罵倒しました。老人は、穏やかな顔で、静かに
「何故でございますか」
と問うと、和尚さんが
「なぜ、禅天魔になった。妙法様の貴いことを知らぬのか」
と、攻撃して来た。月潭さんは
「妙法様は、どこが貴いのでございますか」
と尋ねると、和尚さんが
「一天四海皆帰妙法ということを知らぬか」
と怒鳴って来た。
月潭、静かに火鉢にさしてあった火箸をとりあげて、ぬっと和尚の鼻先に突き出して、
「お拝しなさい」というと、 和尚
「それ、それだから禅天魔というのだ。火箸を礼拝する者がどこにある」と、いい切らぬうちに
「一天四海皆帰妙法、 どこに火箸がある」
と、つめよると、和尚は真っ青になり、奮然として、座をけって起ち、あらあらしく帰ってしまった。
八十歳の母親は、ニコニコして、これを見ていたが月潭よ、いい供養したね、と親子水入らずで御馳走を食べなごやかな一日を楽しんだのであります。その間、月潭さんは、顔色一つかえなかったそうであります。
月潭老人は常に、かくの如く随処に生きた説法をする法人剣の師家(学問を究める坊主)であった。一天四海の万物が皆妙法に帰するならば火箸も妙法そのものである。況んや八十の老婆が親切心を以て、菩提寺の和尚さんに供養しようと御招待したのに、その息子の月潭さんに非礼な態度を取り、問答ならよいが、罵倒し侮辱するという態度は、妙法の妙も、法華経の法も知らぬ論語読みの論語知らずどころか、半可通の哀れな僧侶である。現代の宗教界にも、これに酷似した非似宗教、偽宗教家のあることを私達は警戒せねばなりません。無我を説き、平等を教えた仏教に於て、宗我を主張し、他を非難攻撃して融和も平和も破壊し、不平等の融和せざる末法の悪世を自らの手で現出しているのは、真の法華経信者でもなく、法華の行者でもない。汝右の頬を打たば左の頬を出せ、汝の敵を愛せと教えたイエスキリストの精神を身を以て実行しているクリスチャンが果しているのか。市民の祭典である八戸三社大祭の行列に「神社には真の神が居ない」と、プラカードを立てて行列と同行して、市民を馬鹿にし、神聖なる祭典に平気で泥をぬっているキリスト教伝道者の宗教心というものが正義か狂気かを疑うものである。
金英の選んだ道、その頃の曹洞禅風
江戸に戻った金英和尚は、これから真剣勝負のやり直しだ。修行の方針をどちらに進めたらよいか、と考えた。当時、曹洞禅に於ては、関東地方では、前橋市の龍海院に奕堂(えきどう)禅師(後に大本山総持寺独往第一世となった)が居られて、その傘下には常に百人の修行人が坐禅しておった。又、修禅寺物語で有名な伊豆の修禅寺には、仏母梅苗和尚が、劫火洞然の公案をひっさげて、常に随身八十人の門下僧に囲まれていた。更に、関西地方には、京都郊外宇活の興聖寺(道元禅師が最初に創立された禅堂)には、慧杲回天禅師が、常に百人以上の雲水を往来出入させて、道の誉が高かった。従って、当時、人気があり、一般常識として判断すると、この三師の中の誰かを選ぶのが通例であった。
しかし、金英和尚は考えた、提唱(ていしょう・禅宗で、教えの根本を提示して説法すること。提要。提綱)といえば碧巌(へきがん・臨済宗で重視される仏の教え)(集)や従容録(しょうようろく・曹洞宗において重視される仏書)よりしかやらない。況んや、一公案を得意として、それに執着するようではおかしい。道元禅師の宗門には、正法眼蔵という宗祖の暖い皮肉がある。それを参究しないのがおかしい。吉祥寺栴檀林で、愚禅様からも慧亮教投からもそして、月潭様からも、眼蔵の御提唱を御聴きしたが、月潭様の提唱は回数が少なかったが、心にのこっている。貧乏寺で誰もゆかぬそうだが、月潭様に眼蔵を参究しよう。金英和尚は坐禅三昧の結果、深く堅く決心したのである。
再出家、海蔵寺月潭老下に身を投ず
父親に死なれ、悲しみと緊張の心理状態となっていた金英和尚は、母親の血涙の訓戒を骨髄に徹せしめて江戸に戻り、恩師曹隆様及び本師泰禅様とも相談して、鳳林寺住職及び栴檀林の講師等一切の役職を辞任し、奥州第一人者の自負心も、若い新進気英の学僧という名声も一切を投げ捨てて、小田原市早川の海蔵寺住職月潭老人に身も心もまかせ切ったのであります。
月潭老人は、実にかくれた宗門近世の大宗将でありました。その教育法は、古往今来無比の峻烈苛酷を以て道誉の高かった正法眼蔵の大家でありました。金英和尚は、能く忍び、能く学び、能く行じて、十二年間精励し、月潭老人の全人格、全力量、全学識を一器の水を一器に移すが如く活取したのであります。そして、徳川中期以来の偉大な宗門の学者卍山(まんざん)~面山~万仭~本光~蔵海等の学風(これを二祖(二番目の祖師)懐弉(えじょう・。藤原氏の出身。天台や南都教学、さらには浄土教や達磨宗の禅をも学んだが、のち道元に師事、永平寺第二世。著「正法眼蔵随聞記」など)禅師伝承派という)と、これに対して、曹洞宗のカミソリ学者天柱とその門派空印~老卵等の学風(これを義雲禅師伝承派という)の両派をマスターして、綜合し、活かして、宗祖、道元禅師の真精神に直結し、真の禅風、真の正法を宣揚し、自らは近世最高の正法眼蔵の権威者とあがめられ、明治、大正、昭和の宗学と、禅風の興隆の祖となられたのであります。その十二年苦学力行の道場海蔵寺修学時代こそ金英和尚をして、穆山瑾英禅師として、今古未曾有の眼蔵大家たらしめた尊く得難い星霜でありました。これより、その縁起によって、道場の片鱗を察すると共に、瑾英和尚の修行の第二段階の勝蹟をたどって見よう。
海蔵寺とは
海蔵寺は、小田原市の早川という田園地帯にあって、現在も、瑾英和尚が坐禅した禅堂が本堂の左方にあり、本堂と禅堂の前に、木皮が赤くただれる「びらん樹」という樹が、三百年の星霜に堪えた姿を保っております。おそらく瑾英和尚はその樹影で読書したことでしょう。と昔を偲んで感無量でありました。左にその縁起を御紹介致します。
宝珠山海蔵寺縁起
応永二十一年(一四一四)、真言宗の廃跡を起して開創、天正年間、北条氏の全盛時代、その帰依を得、関八州の僧録となる。後に堀左衛門督秀政公、戸沢治部大輔盛安公の両大名中興開基となり、天和二年(一六八二)頒主稲葉美濃守正則公の篤信を受け宗風愈々揚り、雲水集り、直系の末寺三十八、孫にあたる末寺五百余に及び、安叟派の本寺と称う。
四十世月潭和尚門下には、森田悟由、畔上楳仙、西有穆山の三禅師のほか、偉僧(原垣出等)を輩出した。とありまして、関八州の僧録で、宗政を司ったことを証明しており、又古来より関左禅林と称されて人材養成の道場であります。
この道場に於て、当代第一の正法眼蔵の大家、月潭老人の門下に於て、出藍の誉をほしいままにしたのが、西有穆山その人であります。これより、この海蔵寺修行時代のエピソード等数種をあげて穆山和尚の面目を偲びたいと思います。その前に月潭老人の風格について一言致します。
月潭老人の風格
月潭老人は、道号を金竜といいます。不思議にも、金英和尚の授業師金竜様と竜が同じであります。かくれた、そして実力第一の眼蔵家でありました。関三ケ寺といって、徳川時代まで、大本山永平寺の貫首の候補者になっている寺が三ツありました。
その第一は、千葉県市川市国府台の総寧寺で、その配下の寺は、大本山総持寺末寺のみでも千二百十三ケ寺であり、第二は、埼玉県入間郡越生町の竜穏寺で、配下の寺数は、大本山総持寺系の末寺三千七十三ケ寺、大本山永平寺系の末寺八百七十四ケ寺であり、第三は、栃木県下都賀郡大平町の大中寺で、その配下の寺教は大本山総持寺系の末寺三千七百七十七ケ寺である。この三ケ寺の住職の中から、年功、徳望の順序によって、大本山永平寺の貫首に晋住したのであります。徳川時代までは、それだけ、この三ケ寺は権威のあった寺であります。従って末寺の有名な住職が訪問しても、この三ケ寺の住職は容易に送迎の礼を取ることがなかったのであります。けれども、月潭老人が訪問する時はこの三ケ寺の住職は、自ら必ず玄関まで、おくりむかえされたのであります。それだけ当時の宗教界に重きをなし、尊敬されていた大徳であります。
八百屋お七の恋物語で有名な駒込の吉祥寺の栴檀林に於て、林長教授が、正法眼蔵を提唱しようとしたら、二度とも門前から火事が出たので、門前の人達は正法眼蔵の提唱の看板が出ると身ぶるいして、こわがったそうです。ところが、月潭老人を御請待して正法眼蔵の提唱を願ったところ火事は勿論のこと、何等の障害もなく盛会の裏に終了したのであります。
月潭老人の偉大な人格に打たれて、悪魔が退散したわけであります。
この月潭老人は、九州熊本の出身で、生家は日蓮宗の檀家であります。お母様が八十歳になられて、月潭さんに会ってから死にたいという便りをよこしましたので、月潭さんが故郷に帰られて、御見舞申し上げると、母上は大変よろこばれて、菩提寺の和尚さんも御招きして、御馳走することになりました。
ところが、菩提寺の和尚さんは、大変不気嫌で、人ってくるなり、いきなり
「月潭、お前不屈な奴だ」と、罵倒しました。老人は、穏やかな顔で、静かに
「何故でございますか」
と問うと、和尚さんが
「なぜ、禅天魔になった。妙法様の貴いことを知らぬのか」
と、攻撃して来た。月潭さんは
「妙法様は、どこが貴いのでございますか」
と尋ねると、和尚さんが
「一天四海皆帰妙法ということを知らぬか」
と怒鳴って来た。
月潭、静かに火鉢にさしてあった火箸をとりあげて、ぬっと和尚の鼻先に突き出して、
「お拝しなさい」というと、 和尚
「それ、それだから禅天魔というのだ。火箸を礼拝する者がどこにある」と、いい切らぬうちに
「一天四海皆帰妙法、 どこに火箸がある」
と、つめよると、和尚は真っ青になり、奮然として、座をけって起ち、あらあらしく帰ってしまった。
八十歳の母親は、ニコニコして、これを見ていたが月潭よ、いい供養したね、と親子水入らずで御馳走を食べなごやかな一日を楽しんだのであります。その間、月潭さんは、顔色一つかえなかったそうであります。
月潭老人は常に、かくの如く随処に生きた説法をする法人剣の師家(学問を究める坊主)であった。一天四海の万物が皆妙法に帰するならば火箸も妙法そのものである。況んや八十の老婆が親切心を以て、菩提寺の和尚さんに供養しようと御招待したのに、その息子の月潭さんに非礼な態度を取り、問答ならよいが、罵倒し侮辱するという態度は、妙法の妙も、法華経の法も知らぬ論語読みの論語知らずどころか、半可通の哀れな僧侶である。現代の宗教界にも、これに酷似した非似宗教、偽宗教家のあることを私達は警戒せねばなりません。無我を説き、平等を教えた仏教に於て、宗我を主張し、他を非難攻撃して融和も平和も破壊し、不平等の融和せざる末法の悪世を自らの手で現出しているのは、真の法華経信者でもなく、法華の行者でもない。汝右の頬を打たば左の頬を出せ、汝の敵を愛せと教えたイエスキリストの精神を身を以て実行しているクリスチャンが果しているのか。市民の祭典である八戸三社大祭の行列に「神社には真の神が居ない」と、プラカードを立てて行列と同行して、市民を馬鹿にし、神聖なる祭典に平気で泥をぬっているキリスト教伝道者の宗教心というものが正義か狂気かを疑うものである。
昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 1
八戸小学校の思い出 岩岡徳兵衛
八戸小学校の校舎は、いまの市庁舎前のロータリーにある大きな木のあるあたりが玄関になっていました。そこは番町通リの突き当りになっていて、玄関を入ったすぐのところに職員室、その二階に講堂がありました。講堂が明治天皇の行在所であります。行在所を講堂にしたのではなく、天皇は学校の講堂にお泊りになったものと思います。
在学中、いまの長者小学校ができました。ため、生徒たちの一部はそちらに別れていきましたが、入学したころの八小は、八戸、といっても範囲は狭いものでありましたが、八戸におけるただ一つの学校でありました。今でも八戸小学校のこと
を八尋とよんだりしますが、八尋とよんだのは、吹上に高等小学校が分離されてからの呼びかたで、私のはいったころは、尋常高等小学校でしたから八尋とはいわなかったと思います。また男女は、境はないが別々の校舎にはいっていました。校長先生は稲葉万蔵、受け持ちは類家先生といいました。類家先生は昔の漢学者であり、修身や国語を教えていました。非常におっかないやかましい先生でしたが、反面、いかにも親しみのある先生でした。ただ教えさえすればよいというのではなく、よく生徒一人一人の面倒をみてくれました。あれが本当の教育者だという気がいたします。
私はこどものころ人並みはずれてからだが弱く、学校に行くのがやっとというほどでした。そのせいもあったでしょうが、学校の成績はあまり芳しくなく、運動会などにもでませんでした。唱歌など、いくら先生に叱られても高い声で歌えませんでした。それでも学科のうちでは算術は好きな方でした。珠算も人よりは早い方でした。
同じクラスに立教大学総長の松下さんがいて、机を並べていました。今どうしているかわかりませんが、福田一郎という中学四年から海軍兵学校にはいった秀才もおりました。作家の北村小松さん、八戸文化協会の大橋さん、岩手放送の法師浜さん、なくなった社会党の西村菊次郎さんなどもいっしょでした。同じ学級というわけではありませんが、大下常吉さんや中島石蔵さんは、同じ町内でしたから遊び仲間でした。
ともかくこどものころのわたしは、はにかみやで、人前でものを言ったりすることもなく、何時も隅の方に引っこんでばかりいる至って目だたない方でした。小さい時の友達は、どうして岩岡が政治をやるようになったかと思っているかも知れません。こどもの時のままではいけないと自分から努力したことはたしかです。今でも人前に出ることはあまり好みません。ただそれでは市長は勤まりませんから、人との折衝は大儀がらずにやっていますが、本質は引っこみ思案の方です。
そんなわけでこどものころのわたしには、これといって楽しい思い出はありませんが、母校が立派な学校として発展することを、心から期待しております。(八戸市長)
思い出 松下正寿
私は明治三十四年四月十四日生れであるから明治四十一年四月に小学校に入学するはずであった。母(亀徳しず・和歌山県生まれ、東京築地の立教女学校卒業後、父松下一郎が八戸でキリスト教伝導するため共に来八、亀徳(きとく)正栄と結婚、二児を得、長男は正臣(青山学院教授)、次男が松下家を継ぎ松下正寿、当時の分娩法を改善するべく二十八歳で助産婦資格を得、西洋産婆と呼ばれた)もそのつもりでいたし、私もそう思っていた。私は体もちいさいし、おとなしい方だったので男の子には相手にされず、女の子だけと遊んでいた。女の子たちは私を「寿ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。私もいい気になって甘えていた。突如町役場から通知があって、登校せよとのことである。明治四十年の三月であった。町役場の間違いで一年早く入学することになったのである。母は非常にあわてたが折角一年早くしてくれたのに棄権するのは惜しいというので登校することになった。
ほかの子供たちは準備ができているから大喜びで登校したが私は何となく情けなかった。年も足りなかったが発育がおくれていたとみえて何につけ意気地がなかった。受持の先生は類家先生と言って一年生の専門家として有名であった。クラスのうちでも私が特に意気地がなかったので持別に面倒をみてくれた。そのうち段々に慣れどうやら一人前の子供になったが体操をさしても駄目、宇は特に下手と来ているから決して優秀とは言えなかった。
私に比べ断然光っていたのは北村小松君であった。町長北村益氏の長男という親の七光りもあったかも知れないが、非常に優秀であった。体も丈夫だし、絵もうまかった。その上当時飛行機が発明された時であったのでよく模型飛行機を作って我々の人気を集めた。そのほか優秀だったのは八重畑君、福本晃一郎君、藤田正照君等であったが今はみな故人になっている。そのほか現八戸市長岩岡徳兵衛氏が同級であった。遊んだ記憶はあるが特別な印象は残っていない。
何年の時か覚えていないが八戸小学校から長者小学校が分離した。長者方面の児童は自動的に転校することになったわけである。この思い出は私にとって余り楽しいものではない。私は心から別離を惜しみたかった。ところが長者小学校へ行く子供たちは「こんな古くさい建物などにいないで新築の立派なところへ行くのだ」と言って大威張りするし、八戸小学校に残留する子供は「長者へ行く奴はザイゴの奴だ」と言って馬鹿にした。派閥意識、対立感というものは子供の時からあるものらしい。私は八戸小学校に残留した者であるがこういう情勢を非常に悲しく思ったことを記憶している。
私はしっかりしている方でなかったから友だちに迷惑をかけた。スミをこぼして隣りの友だちのスミを使わせてもらったこともある。掃除当番になっても仕事の手順がわからないのでマゴマゴして友だちに自分の仕事をすっかりしてもらったこともある。体格検査の時ほかの子供の袴をはいて帰って来たので母が方々たずねてお返ししたこともある。絵が上手にかけないので友だちに手伝ってもらったこともある。私が友だちを助けた記憶はないが、助けてもらったことは沢山ある。要するに私の八戸小学校における生活は先生や友だちに世話になったことばかりである。おかげ様で私はどうやら他人様に大したご迷惑をかけない生活をしている。有り難いことである。少しは他人様のご用もしている。面倒くさいとは思うが小学校の時他人様にご迷惑をかけだのだから当然のことであると心得ている。
(立教大学総長)
ああ、半世紀 北村小松
突然八戸にいる従妹から「これを見たらなつかしいでしょう。」とデーリー東北に大橋英郎さんが書かれた「私の級友⑥」の切りぬきを送って来たので、私は、なつかしいもなつかしかったがそれ以上にびっくりしました。
というのは、私たち八戸小学校の級友がいつ、こういう写真をとったのだろうということがどうしても思い出せないし、私は、この写真をもっていないからです。だから松下正寿さん、岩岡徳兵衛市長さん、西村菊次郎さん、法師浜直吉さん、私……と説明がついているので、「アレ、なるほど、これが俺か。」と思ったほどで、ほかの方々は誰なのか一々当てられないのです。
小学校の時のこういう写真も中学校の時の級友達との写真も一つもないのは家が大火の時焼けてしまったせいかも分りません。
なるほど考えて見れば私が八戸小学校に入学してから半世紀はたっているのです。
それに今の教頭先生が屋敷が隣り合わせになっていて大きな造り醤油蔵が並んでいた阿部さんで、そのお宅に毎晩のように「勉強だ」といって遊びに行っていた頃、まだ小さかったそのお宅の千代吉先生だとは!これは全く私には寝耳に水のようなことでした。
阿部先生に模型飛行機の作り方など伝授し、夜になってからは今の柏崎小学校が出来る前の空き地でローソクをつけて飛ばすなどという悪いことまでけしかけた私なのです。
昔のことをふりかえって見ると、まるで今の八戸では考えられない事が思い出として残るのです。
私の家があった長横町など電燈がまだともらない前は夜になるとまっくらになり、からすうりのなか身をえぐりぬいたちょうちんをつけて歩いたり、暗くなるとこうもりが飛ぶので古ゾーリを放り上げると、それについて地上すれすれまで急降下して来るのを面白がったりした。といってみたところで、ただ今の長横町のたたずまいからは、とてもそんなことは半世紀前に八戸小学校にいた人でなければ想像も出来ないでしょう。
あの頃、嬉しかったのは開校記念日にだったでしょうか。つるこまんじゆうというお菓子を学校から貰う事でしたし、奇妙に印象に残っているのは、十一月三日に各クラスの窓のところにかざる額を各クラスで秘密の中に競作をした事です。色々なデザインのものがあったと思いますが、その日は、つまり我々の年代の天長節というものであって明治天皇がお生れになった日だったという事です。何と明治は遠くなりにけるかなです。病院から退院した後の身なので頭の回転も悪くロクな文章の書けない事をおわびいたします。
今となっては私には自分が出た学校の校歌の作詞をさせて頂いた事が何よりの光栄に思われます。そしてあの作曲をした友人故杉山長谷夫氏(御存知ない方があるかも知れませんが例の「キンラン、ドンスノ オビシメナガラ、ハナヨメゴリョウハ ナゼナクノダロ:」等々名曲の作曲者です。)が重病を(ガンでした。)押して私がさいそくに行くと、「これでいいかな、こっちがいいかい」とピアノに向ってあの校歌の曲をひいて見ながら、なお自分でもなっとく出来るようにやって呉れた苦悩の横顔があった事も御知らせしておきたいと思います。
八戸小学校が皆様の手で益々発展いたしますよう遠くから祈っております。(作家)
北村小松(ぎたむら・こまつ) 明治三六~昭和三九(一九〇三~一九六四)益の長男。慶応大学文学部の学生時代から創作活動をして文壇に認められ八戸出身の友人、中村誠一の紹介で女優花柳はるみを知り、松竹キネマに関係することとなったが多趣味、多才の人であった。大正八年慶大英文科に入学した日、東京日日新聞児童映画脚本募集に応募して三等に人選した。翌年小山内薫の門下となり松竹キネマ研究所に入った。卒業論文「ユージン・オニール研究」。卒業後、松竹蒲田撮影所脚本部に入社して戯曲脚本の創作活動を行なう。昭和三年、戯曲集「猿からもらった柿の種」(原始社)を刊行して作家としての地位を確立し、昭和六年、本邦最初のトーキー映画「マダムと女房」のシナリオを書く。「東日」や「読売」に連載小説を掲載。昭和一三年松竹映画を退社、戦争に文士として従軍、戦時中「燃ゆる大空」(昭和一七年講談社刊)で一世を風びし、ほかに従軍体験から「基地」などを書く。戦後パージになり、のち作家活動に復帰して文士劇などで活躍した。作家活動と相まって、広い趣味と多才ぶりを発揮、自家用ナンバー第一号の取得、社交ダンス界の通、模型飛行機界の先達、さらには宇宙もの、航空ものの開拓者であった。楽天的な性格から、「小松チャン」と愛称され、つき合いも広かった。(東奥日報青森県人名大事典から)
八戸小学校の校舎は、いまの市庁舎前のロータリーにある大きな木のあるあたりが玄関になっていました。そこは番町通リの突き当りになっていて、玄関を入ったすぐのところに職員室、その二階に講堂がありました。講堂が明治天皇の行在所であります。行在所を講堂にしたのではなく、天皇は学校の講堂にお泊りになったものと思います。
在学中、いまの長者小学校ができました。ため、生徒たちの一部はそちらに別れていきましたが、入学したころの八小は、八戸、といっても範囲は狭いものでありましたが、八戸におけるただ一つの学校でありました。今でも八戸小学校のこと
を八尋とよんだりしますが、八尋とよんだのは、吹上に高等小学校が分離されてからの呼びかたで、私のはいったころは、尋常高等小学校でしたから八尋とはいわなかったと思います。また男女は、境はないが別々の校舎にはいっていました。校長先生は稲葉万蔵、受け持ちは類家先生といいました。類家先生は昔の漢学者であり、修身や国語を教えていました。非常におっかないやかましい先生でしたが、反面、いかにも親しみのある先生でした。ただ教えさえすればよいというのではなく、よく生徒一人一人の面倒をみてくれました。あれが本当の教育者だという気がいたします。
私はこどものころ人並みはずれてからだが弱く、学校に行くのがやっとというほどでした。そのせいもあったでしょうが、学校の成績はあまり芳しくなく、運動会などにもでませんでした。唱歌など、いくら先生に叱られても高い声で歌えませんでした。それでも学科のうちでは算術は好きな方でした。珠算も人よりは早い方でした。
同じクラスに立教大学総長の松下さんがいて、机を並べていました。今どうしているかわかりませんが、福田一郎という中学四年から海軍兵学校にはいった秀才もおりました。作家の北村小松さん、八戸文化協会の大橋さん、岩手放送の法師浜さん、なくなった社会党の西村菊次郎さんなどもいっしょでした。同じ学級というわけではありませんが、大下常吉さんや中島石蔵さんは、同じ町内でしたから遊び仲間でした。
ともかくこどものころのわたしは、はにかみやで、人前でものを言ったりすることもなく、何時も隅の方に引っこんでばかりいる至って目だたない方でした。小さい時の友達は、どうして岩岡が政治をやるようになったかと思っているかも知れません。こどもの時のままではいけないと自分から努力したことはたしかです。今でも人前に出ることはあまり好みません。ただそれでは市長は勤まりませんから、人との折衝は大儀がらずにやっていますが、本質は引っこみ思案の方です。
そんなわけでこどものころのわたしには、これといって楽しい思い出はありませんが、母校が立派な学校として発展することを、心から期待しております。(八戸市長)
思い出 松下正寿
私は明治三十四年四月十四日生れであるから明治四十一年四月に小学校に入学するはずであった。母(亀徳しず・和歌山県生まれ、東京築地の立教女学校卒業後、父松下一郎が八戸でキリスト教伝導するため共に来八、亀徳(きとく)正栄と結婚、二児を得、長男は正臣(青山学院教授)、次男が松下家を継ぎ松下正寿、当時の分娩法を改善するべく二十八歳で助産婦資格を得、西洋産婆と呼ばれた)もそのつもりでいたし、私もそう思っていた。私は体もちいさいし、おとなしい方だったので男の子には相手にされず、女の子だけと遊んでいた。女の子たちは私を「寿ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。私もいい気になって甘えていた。突如町役場から通知があって、登校せよとのことである。明治四十年の三月であった。町役場の間違いで一年早く入学することになったのである。母は非常にあわてたが折角一年早くしてくれたのに棄権するのは惜しいというので登校することになった。
ほかの子供たちは準備ができているから大喜びで登校したが私は何となく情けなかった。年も足りなかったが発育がおくれていたとみえて何につけ意気地がなかった。受持の先生は類家先生と言って一年生の専門家として有名であった。クラスのうちでも私が特に意気地がなかったので持別に面倒をみてくれた。そのうち段々に慣れどうやら一人前の子供になったが体操をさしても駄目、宇は特に下手と来ているから決して優秀とは言えなかった。
私に比べ断然光っていたのは北村小松君であった。町長北村益氏の長男という親の七光りもあったかも知れないが、非常に優秀であった。体も丈夫だし、絵もうまかった。その上当時飛行機が発明された時であったのでよく模型飛行機を作って我々の人気を集めた。そのほか優秀だったのは八重畑君、福本晃一郎君、藤田正照君等であったが今はみな故人になっている。そのほか現八戸市長岩岡徳兵衛氏が同級であった。遊んだ記憶はあるが特別な印象は残っていない。
何年の時か覚えていないが八戸小学校から長者小学校が分離した。長者方面の児童は自動的に転校することになったわけである。この思い出は私にとって余り楽しいものではない。私は心から別離を惜しみたかった。ところが長者小学校へ行く子供たちは「こんな古くさい建物などにいないで新築の立派なところへ行くのだ」と言って大威張りするし、八戸小学校に残留する子供は「長者へ行く奴はザイゴの奴だ」と言って馬鹿にした。派閥意識、対立感というものは子供の時からあるものらしい。私は八戸小学校に残留した者であるがこういう情勢を非常に悲しく思ったことを記憶している。
私はしっかりしている方でなかったから友だちに迷惑をかけた。スミをこぼして隣りの友だちのスミを使わせてもらったこともある。掃除当番になっても仕事の手順がわからないのでマゴマゴして友だちに自分の仕事をすっかりしてもらったこともある。体格検査の時ほかの子供の袴をはいて帰って来たので母が方々たずねてお返ししたこともある。絵が上手にかけないので友だちに手伝ってもらったこともある。私が友だちを助けた記憶はないが、助けてもらったことは沢山ある。要するに私の八戸小学校における生活は先生や友だちに世話になったことばかりである。おかげ様で私はどうやら他人様に大したご迷惑をかけない生活をしている。有り難いことである。少しは他人様のご用もしている。面倒くさいとは思うが小学校の時他人様にご迷惑をかけだのだから当然のことであると心得ている。
(立教大学総長)
ああ、半世紀 北村小松
突然八戸にいる従妹から「これを見たらなつかしいでしょう。」とデーリー東北に大橋英郎さんが書かれた「私の級友⑥」の切りぬきを送って来たので、私は、なつかしいもなつかしかったがそれ以上にびっくりしました。
というのは、私たち八戸小学校の級友がいつ、こういう写真をとったのだろうということがどうしても思い出せないし、私は、この写真をもっていないからです。だから松下正寿さん、岩岡徳兵衛市長さん、西村菊次郎さん、法師浜直吉さん、私……と説明がついているので、「アレ、なるほど、これが俺か。」と思ったほどで、ほかの方々は誰なのか一々当てられないのです。
小学校の時のこういう写真も中学校の時の級友達との写真も一つもないのは家が大火の時焼けてしまったせいかも分りません。
なるほど考えて見れば私が八戸小学校に入学してから半世紀はたっているのです。
それに今の教頭先生が屋敷が隣り合わせになっていて大きな造り醤油蔵が並んでいた阿部さんで、そのお宅に毎晩のように「勉強だ」といって遊びに行っていた頃、まだ小さかったそのお宅の千代吉先生だとは!これは全く私には寝耳に水のようなことでした。
阿部先生に模型飛行機の作り方など伝授し、夜になってからは今の柏崎小学校が出来る前の空き地でローソクをつけて飛ばすなどという悪いことまでけしかけた私なのです。
昔のことをふりかえって見ると、まるで今の八戸では考えられない事が思い出として残るのです。
私の家があった長横町など電燈がまだともらない前は夜になるとまっくらになり、からすうりのなか身をえぐりぬいたちょうちんをつけて歩いたり、暗くなるとこうもりが飛ぶので古ゾーリを放り上げると、それについて地上すれすれまで急降下して来るのを面白がったりした。といってみたところで、ただ今の長横町のたたずまいからは、とてもそんなことは半世紀前に八戸小学校にいた人でなければ想像も出来ないでしょう。
あの頃、嬉しかったのは開校記念日にだったでしょうか。つるこまんじゆうというお菓子を学校から貰う事でしたし、奇妙に印象に残っているのは、十一月三日に各クラスの窓のところにかざる額を各クラスで秘密の中に競作をした事です。色々なデザインのものがあったと思いますが、その日は、つまり我々の年代の天長節というものであって明治天皇がお生れになった日だったという事です。何と明治は遠くなりにけるかなです。病院から退院した後の身なので頭の回転も悪くロクな文章の書けない事をおわびいたします。
今となっては私には自分が出た学校の校歌の作詞をさせて頂いた事が何よりの光栄に思われます。そしてあの作曲をした友人故杉山長谷夫氏(御存知ない方があるかも知れませんが例の「キンラン、ドンスノ オビシメナガラ、ハナヨメゴリョウハ ナゼナクノダロ:」等々名曲の作曲者です。)が重病を(ガンでした。)押して私がさいそくに行くと、「これでいいかな、こっちがいいかい」とピアノに向ってあの校歌の曲をひいて見ながら、なお自分でもなっとく出来るようにやって呉れた苦悩の横顔があった事も御知らせしておきたいと思います。
八戸小学校が皆様の手で益々発展いたしますよう遠くから祈っております。(作家)
北村小松(ぎたむら・こまつ) 明治三六~昭和三九(一九〇三~一九六四)益の長男。慶応大学文学部の学生時代から創作活動をして文壇に認められ八戸出身の友人、中村誠一の紹介で女優花柳はるみを知り、松竹キネマに関係することとなったが多趣味、多才の人であった。大正八年慶大英文科に入学した日、東京日日新聞児童映画脚本募集に応募して三等に人選した。翌年小山内薫の門下となり松竹キネマ研究所に入った。卒業論文「ユージン・オニール研究」。卒業後、松竹蒲田撮影所脚本部に入社して戯曲脚本の創作活動を行なう。昭和三年、戯曲集「猿からもらった柿の種」(原始社)を刊行して作家としての地位を確立し、昭和六年、本邦最初のトーキー映画「マダムと女房」のシナリオを書く。「東日」や「読売」に連載小説を掲載。昭和一三年松竹映画を退社、戦争に文士として従軍、戦時中「燃ゆる大空」(昭和一七年講談社刊)で一世を風びし、ほかに従軍体験から「基地」などを書く。戦後パージになり、のち作家活動に復帰して文士劇などで活躍した。作家活動と相まって、広い趣味と多才ぶりを発揮、自家用ナンバー第一号の取得、社交ダンス界の通、模型飛行機界の先達、さらには宇宙もの、航空ものの開拓者であった。楽天的な性格から、「小松チャン」と愛称され、つき合いも広かった。(東奥日報青森県人名大事典から)
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう私のありがとう 1
第一回私のありがとう
売市のギャラリーみちで第一回私のありがとう聞き取り会を開催。
出席者は女性九名に男性四名
生きてることは苦労の連続、いいことの方が少ないもの、だから、たまに嬉しいことがあると食事をしてお祝いをする。いいことにはなかなか会えない、釈迦もいう人生は四苦八苦だと。四苦とは生・老・病・死のことだ。生きるのがまず苦労、おまんまにありつかないと生きていけないな。そのため人に使われて汗を流して渡世しようとするな。人に好かれないと仕事もこないから、いつもニコニコしてみせる。私はアナターの敵じゃあーりません。妙な表記をしているのは、ここはアメリカ人が言ってると思え。アメリカには様々な 人種がいるから、会った人間にニヤニヤして見せる、私はあなたに危害を加えませんと。
日本人は島国だから、やたらに男がニヤニヤするなと教える。媚びるのは女の特性だ。ついでに教えるが八苦は愛別離苦(あいべつりく・親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく・求めるものの得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・体で感ずるから悩み苦しむ、生きてるうちはこれから離れられない)を指す。これをあわせて四苦八苦というな。
筆者などもその煩悩の最中に居る居る。六十過ぎてもまだ、モタモタしておるぞ。若い人が悩むのも当然だ。
さて、今回のありがとうは、先ず出町さん。この人のご主人は五輪選手、おお、スピードスケートの出町選手かと記憶されている人も多いと思うが、この人は若くして亡くなった。奥さんと二人の子供を残して。子供は六歳と三歳。奥さんは八戸生まれではないため、どうしていいかが判らない。親戚も親も兄弟もいない一人ポッチ。また、この出町選手はいい男だったんだ。
競技者としても指導者としても将来を嘱望された人物。出町嘉明、でまちよしあき・昭和十八年八幡生まれ、光星高校から日大に進学。昭和三十七年、八戸で開催された全国高校選手権で五千メートルで優勝、気さくで磊落、大試合でも物怖じしない性格が開花したのは昭和四十三年のインスブルックでのユニバシアード、世界の強豪と戦い堂々三位、日章旗を掲げた。フランス、グルノーブルで開催された五輪にも出場するも、最も得意の一万メートルがふるわず引退。同時代に北海道出身、明治大学卒の五千メートル世界記録の鈴木恵一選手がいた。
出町選手は埼玉コカコーラに籍を置いていた。が八戸に戻り後進の指導、昭和五十一年の盛岡国体では監督、このとき青森県高校男子が団体スピードスケートで優勝。五十三年軽井沢で開催の国体にも監督として出場予定だったが、肝硬変で急死、そして奥さんの苦労が開始された。
亡くなった直後は何も手がつかない、子供たちがお腹がすいたと言っても、パン買って食べてとお金を渡しては泣いた。これでもう涙が涸れたと思うほど泣いても、翌日になるとまた涙がでる。
そんな中、親身になって相談にのってくれたのがスケート仲間、元気を出して、残された子供たちをしっかり育てなければダメ、それにはあなたが強い気持ちをもたなければいけないと、寄ると触るとで、皆が励ます。
そんな声に励まされたのか、泣くだけ泣いて心が落ち着いたのか薦めにしたがって八戸市役所に勤務。そんななか、NHKの連続ドラマ、マー姉ちゃん(まーねえちゃん)を見た。昭和五十四年四月から九月まで放送された、漫画家・長谷川町子の自伝「サザエさんうちあけ話」で、主人公マリ子は、長谷川町子の姉・鞠子である。サザエさん誕生までの歩みと、そのこぼれ話を中心に熊谷真実の主演で描いた。(妹のマチ子役の田中裕子より年下であった)配役・磯野マリ子:熊谷真実 、磯野マチ子を田中裕子、恩師の漫画家田河水泡を愛川欽也、母親役に藤田弓子と豪華キャスト。
そのドラマの中の言葉が生涯の支えとなる。
それは、「明日のことを思いわずらうことなかれ、今日一日に感謝しよう」というもの。ただぼんやりとテレビを見ていれば気づかない言葉が奥さんの胸をえぐった。
それから晴れ晴れとした気持ちを持つことが出来るようになり、役所勤めも苦にならなくなる。子供たちも次第に成長、結婚し孫も見ることができた。役所を無事勤め上げ、今は昔の役所仲間と楽しい趣味の世界に時間をついやす。
今が一番楽しいと話す奥さんの屈託のない笑顔に乾杯。毎日が楽しい人こそ人生の勝者なのだから。そして、弱くめげそうな自分を自分自身が励まし生き続けることができたから、自分自身にありがとうだと言われる。その通りだ、自分がなければ全てなし、いつでも今が勝負の人生さ。
さてつぎは室岡さん。ご主人はNTT勤務、ご自身は日舞をされる。日舞にも様々な流派があるが、室岡さんの所属するのは藤間流、この流派の祖師は、藤間勘兵衞、武州入間郡川越在藤間村の出生で、能の狂言師。宝永元年(1704)に江戸へ出て、日本橋二丁目に住み踊りの師匠となり、歌舞伎の振付師に取立てられた。尾上菊五郎、松本幸四郎などに伝わり現在は六世藤間勘兵衞、四代目の尾上松緑。日舞の中でも由緒正しい系統。
踊りは楽しい、体を動かすし、頭脳にも良い作用をする、ぜひ皆さんにもお勧めすると、なかなか爽やかな奥さん。保険の仕事についているそうで、話は上手だし笑顔が素敵、こうした奥さんをおもちのご主人はさぞ幸せだろうと思い、奥さんは「ご主人にありがとう」と言わないのと聞いたら、なんと、有難うというのは私の主人の方で、ご飯を作ってくれて有難う、おいしかったありがとうと日々感謝の言葉を得ているそうだ。
これを聞いて考えたな。あまり女房にありがとうというと、聞き慣れるのか、増長するな、誰が?女房だよ。どうも世の中は女の方が図々しいようにできているな。
亭主は元気で留守がいいだって? フン、定年になりゃ行くところもねえや。毎日家でごろごろしてやるのも薬だ。
少しは亭主のありがたみを知れだぞ。
さて、ギャラリーみちのある売市は根城小学校の学区、その百年史から売市の歴史を見てみよう。
明治九年に売市小学校として誕生、明治二十年に売市尋常小学校となり、沼館分校を有し、大正七年に笹子分教室を設けたとある。この笹子分教室の史料があるので掲載。
売市(荒谷)小学校のこと
今、五十才以上の方ならば記憶に残っていると思われます。
ひとまね、コマネ、荒谷の狐、カマスさはいって、ドンカラリン
子供等のいわゆる童謡というのでしょう。古くは、売市と呼ばないで荒谷と称んだようです。
今の新組の十字路から大橋方面に分岐してちょっと上り坂になっている辺りは深い沢で、大木が繁り昼でも淋しいところだったそうです。しもてが通称長恨堤とよぶ湿地なので、当時を偲んでも狐狸の住みそうな感になります。
現在の通称新組のことを、三軒家とも呼んで、三軒しか住家がなく此処に八戸藩が、徒士町の外に、上組町、新組町などに徒士、即ち藩士を置くために間口八間、奥行二十三間の屋敷を与えたので新組とも呼んだのでしょう。新組町は八戸市街地から三戸方面に至り、右手は大字売市、左手は大字沢里で公簿には、新組、新組町というのがありません。通称呼名の新組町十字路から左へ上り坂になっております。うしろの左角が、大字沢里字沢里下一番地で、此処から八戸市街地寄りへ、二番地、三番地となり、二番地が現在の八戸警察官の派出所のうしろ、三番地がつい昨年まで、桜木町と呼ばれ、今は根城一丁目と改められ一筆十八町歩でいわゆる新組堤と呼んだところです。沢里下には三番地で終わり以下の地番がありませんでした。
この沢里下二番地に明治五年学制発布されてから四年目の明治九年荒谷小学校が創立されたと伝承されております。創立されるまでは、長根の天満宮社地に隣接していた奥州南部糠部郡三十三観音第十一番、横枕観音堂に、寺小屋式で学業がはじめられたとのことなどが伝承され、このためかどうかはわからないが、現在は、横枕正観世音は、八戸市長者山西面の南宗寺に祀られている。この横枕観音堂舎のあった下手あたり一帯は観音下という字名があるだけであります。
荒谷小学校が明治二十八年十一月に売市の中央、天満様の社地の一角に移転というか、新築されて売市小学校と校名がつけられて、沼館と笹子の分教場を持つ本校となったのです。
新組堤と称ばれた(現在の桜木町住宅地帯)は八戸藩の三番堀で満々と水をたたえて長根堤とともに春から秋まで水田用水として城下、沼舘、小中野地区の一部まで、かんがい用水として重要な溜でした。冬期間になると、新組堤に天然の氷を凍らせ採氷して新荒町の上り坂になる下手に水音を建て貯蔵、八戸港からの水産物冷凍用に使用したのでした。冬期間の白山おろしの寒風に結氷した氷は、厚さが尺五寸位もあって、当時は北海道錬場に出稼する以外に生業のほかの収入がなかった時代、相当の経済を助けたのです。
これらの採氷権は、売市壮年団が主体で、野沢扇治氏(現、野沢県議厳父)が永年団長の職にありました。
このような地場生産天然氷も、時世の進展と衛生思想の向上とともに保氷が禁止された頃は売市小学校が、根城字塚に移転になる頃でした。
私立笹子教育所 大久保金太郎
大久保兼松家(私の実家)に笹子教育所が開設されたのが明治四十二年、私の入学が四十五年で卒業は大正七年でした。いろいろ事情があったのでしょう、卒業時教育所は、大久保与十郎氏宅(現与一氏宅)に移転していました。その年の六月一日に売市尋常小学校笹子分教場が、現在の笹子生活館のある所に創立されたのでした。
私たち一年から六年までを厳しく指導して下さいました。羽織はかまに威儀を正した先生、ポッポ(着物)にワラゾウリの私たち。粗末な勉強道具、赤ん坊を背負う者、妹を連れてくる者等いろいろでした。しかし、私たちはこの教育の火をたやすまいと必死でした。
現在の分校を、そして子供たちを見るにつけ、万感胸にこみあげてくるものを覚えるのは、けだし、私だけのことでしようか。
売市国民学校笹子分教場 大久保茂
私は、昭和二十年四月に売市国民学校笹子分教場に入学しましたが、昭和二十二年に校名改称があり、昭和二十五年の卒業の時には、根城小学校笹子分校となっていました。
学校は、部落の中心、通称「カド水」にありました。マサ屋根の古びた校舎で、教室が一つに職員室兼用の教員住宅がありました。現在の笹子生活館近くに分教場があったわけです。
先生は入学時は栃内純一郎先生お一人、卒業時は渡辺鎮先生お一人が指導して下さいました。児童は、常に二十名前後と記憶しています。終戦を間にはさんだ、恵まれない時代でしたので、粗末な服装、勉強道具、遊具等しかありませんでしたし、代用食には閉口したものです。授業時間中の空襲警報で防空壕に走りました。手製のバット、ボール等で、野球をしたこと等、いろいろありましたが、今はただ、楽しい思い出となっています。
売市のギャラリーみちで第一回私のありがとう聞き取り会を開催。
出席者は女性九名に男性四名
生きてることは苦労の連続、いいことの方が少ないもの、だから、たまに嬉しいことがあると食事をしてお祝いをする。いいことにはなかなか会えない、釈迦もいう人生は四苦八苦だと。四苦とは生・老・病・死のことだ。生きるのがまず苦労、おまんまにありつかないと生きていけないな。そのため人に使われて汗を流して渡世しようとするな。人に好かれないと仕事もこないから、いつもニコニコしてみせる。私はアナターの敵じゃあーりません。妙な表記をしているのは、ここはアメリカ人が言ってると思え。アメリカには様々な 人種がいるから、会った人間にニヤニヤして見せる、私はあなたに危害を加えませんと。
日本人は島国だから、やたらに男がニヤニヤするなと教える。媚びるのは女の特性だ。ついでに教えるが八苦は愛別離苦(あいべつりく・親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく・求めるものの得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・体で感ずるから悩み苦しむ、生きてるうちはこれから離れられない)を指す。これをあわせて四苦八苦というな。
筆者などもその煩悩の最中に居る居る。六十過ぎてもまだ、モタモタしておるぞ。若い人が悩むのも当然だ。
さて、今回のありがとうは、先ず出町さん。この人のご主人は五輪選手、おお、スピードスケートの出町選手かと記憶されている人も多いと思うが、この人は若くして亡くなった。奥さんと二人の子供を残して。子供は六歳と三歳。奥さんは八戸生まれではないため、どうしていいかが判らない。親戚も親も兄弟もいない一人ポッチ。また、この出町選手はいい男だったんだ。
競技者としても指導者としても将来を嘱望された人物。出町嘉明、でまちよしあき・昭和十八年八幡生まれ、光星高校から日大に進学。昭和三十七年、八戸で開催された全国高校選手権で五千メートルで優勝、気さくで磊落、大試合でも物怖じしない性格が開花したのは昭和四十三年のインスブルックでのユニバシアード、世界の強豪と戦い堂々三位、日章旗を掲げた。フランス、グルノーブルで開催された五輪にも出場するも、最も得意の一万メートルがふるわず引退。同時代に北海道出身、明治大学卒の五千メートル世界記録の鈴木恵一選手がいた。
出町選手は埼玉コカコーラに籍を置いていた。が八戸に戻り後進の指導、昭和五十一年の盛岡国体では監督、このとき青森県高校男子が団体スピードスケートで優勝。五十三年軽井沢で開催の国体にも監督として出場予定だったが、肝硬変で急死、そして奥さんの苦労が開始された。
亡くなった直後は何も手がつかない、子供たちがお腹がすいたと言っても、パン買って食べてとお金を渡しては泣いた。これでもう涙が涸れたと思うほど泣いても、翌日になるとまた涙がでる。
そんな中、親身になって相談にのってくれたのがスケート仲間、元気を出して、残された子供たちをしっかり育てなければダメ、それにはあなたが強い気持ちをもたなければいけないと、寄ると触るとで、皆が励ます。
そんな声に励まされたのか、泣くだけ泣いて心が落ち着いたのか薦めにしたがって八戸市役所に勤務。そんななか、NHKの連続ドラマ、マー姉ちゃん(まーねえちゃん)を見た。昭和五十四年四月から九月まで放送された、漫画家・長谷川町子の自伝「サザエさんうちあけ話」で、主人公マリ子は、長谷川町子の姉・鞠子である。サザエさん誕生までの歩みと、そのこぼれ話を中心に熊谷真実の主演で描いた。(妹のマチ子役の田中裕子より年下であった)配役・磯野マリ子:熊谷真実 、磯野マチ子を田中裕子、恩師の漫画家田河水泡を愛川欽也、母親役に藤田弓子と豪華キャスト。
そのドラマの中の言葉が生涯の支えとなる。
それは、「明日のことを思いわずらうことなかれ、今日一日に感謝しよう」というもの。ただぼんやりとテレビを見ていれば気づかない言葉が奥さんの胸をえぐった。
それから晴れ晴れとした気持ちを持つことが出来るようになり、役所勤めも苦にならなくなる。子供たちも次第に成長、結婚し孫も見ることができた。役所を無事勤め上げ、今は昔の役所仲間と楽しい趣味の世界に時間をついやす。
今が一番楽しいと話す奥さんの屈託のない笑顔に乾杯。毎日が楽しい人こそ人生の勝者なのだから。そして、弱くめげそうな自分を自分自身が励まし生き続けることができたから、自分自身にありがとうだと言われる。その通りだ、自分がなければ全てなし、いつでも今が勝負の人生さ。
さてつぎは室岡さん。ご主人はNTT勤務、ご自身は日舞をされる。日舞にも様々な流派があるが、室岡さんの所属するのは藤間流、この流派の祖師は、藤間勘兵衞、武州入間郡川越在藤間村の出生で、能の狂言師。宝永元年(1704)に江戸へ出て、日本橋二丁目に住み踊りの師匠となり、歌舞伎の振付師に取立てられた。尾上菊五郎、松本幸四郎などに伝わり現在は六世藤間勘兵衞、四代目の尾上松緑。日舞の中でも由緒正しい系統。
踊りは楽しい、体を動かすし、頭脳にも良い作用をする、ぜひ皆さんにもお勧めすると、なかなか爽やかな奥さん。保険の仕事についているそうで、話は上手だし笑顔が素敵、こうした奥さんをおもちのご主人はさぞ幸せだろうと思い、奥さんは「ご主人にありがとう」と言わないのと聞いたら、なんと、有難うというのは私の主人の方で、ご飯を作ってくれて有難う、おいしかったありがとうと日々感謝の言葉を得ているそうだ。
これを聞いて考えたな。あまり女房にありがとうというと、聞き慣れるのか、増長するな、誰が?女房だよ。どうも世の中は女の方が図々しいようにできているな。
亭主は元気で留守がいいだって? フン、定年になりゃ行くところもねえや。毎日家でごろごろしてやるのも薬だ。
少しは亭主のありがたみを知れだぞ。
さて、ギャラリーみちのある売市は根城小学校の学区、その百年史から売市の歴史を見てみよう。
明治九年に売市小学校として誕生、明治二十年に売市尋常小学校となり、沼館分校を有し、大正七年に笹子分教室を設けたとある。この笹子分教室の史料があるので掲載。
売市(荒谷)小学校のこと
今、五十才以上の方ならば記憶に残っていると思われます。
ひとまね、コマネ、荒谷の狐、カマスさはいって、ドンカラリン
子供等のいわゆる童謡というのでしょう。古くは、売市と呼ばないで荒谷と称んだようです。
今の新組の十字路から大橋方面に分岐してちょっと上り坂になっている辺りは深い沢で、大木が繁り昼でも淋しいところだったそうです。しもてが通称長恨堤とよぶ湿地なので、当時を偲んでも狐狸の住みそうな感になります。
現在の通称新組のことを、三軒家とも呼んで、三軒しか住家がなく此処に八戸藩が、徒士町の外に、上組町、新組町などに徒士、即ち藩士を置くために間口八間、奥行二十三間の屋敷を与えたので新組とも呼んだのでしょう。新組町は八戸市街地から三戸方面に至り、右手は大字売市、左手は大字沢里で公簿には、新組、新組町というのがありません。通称呼名の新組町十字路から左へ上り坂になっております。うしろの左角が、大字沢里字沢里下一番地で、此処から八戸市街地寄りへ、二番地、三番地となり、二番地が現在の八戸警察官の派出所のうしろ、三番地がつい昨年まで、桜木町と呼ばれ、今は根城一丁目と改められ一筆十八町歩でいわゆる新組堤と呼んだところです。沢里下には三番地で終わり以下の地番がありませんでした。
この沢里下二番地に明治五年学制発布されてから四年目の明治九年荒谷小学校が創立されたと伝承されております。創立されるまでは、長根の天満宮社地に隣接していた奥州南部糠部郡三十三観音第十一番、横枕観音堂に、寺小屋式で学業がはじめられたとのことなどが伝承され、このためかどうかはわからないが、現在は、横枕正観世音は、八戸市長者山西面の南宗寺に祀られている。この横枕観音堂舎のあった下手あたり一帯は観音下という字名があるだけであります。
荒谷小学校が明治二十八年十一月に売市の中央、天満様の社地の一角に移転というか、新築されて売市小学校と校名がつけられて、沼館と笹子の分教場を持つ本校となったのです。
新組堤と称ばれた(現在の桜木町住宅地帯)は八戸藩の三番堀で満々と水をたたえて長根堤とともに春から秋まで水田用水として城下、沼舘、小中野地区の一部まで、かんがい用水として重要な溜でした。冬期間になると、新組堤に天然の氷を凍らせ採氷して新荒町の上り坂になる下手に水音を建て貯蔵、八戸港からの水産物冷凍用に使用したのでした。冬期間の白山おろしの寒風に結氷した氷は、厚さが尺五寸位もあって、当時は北海道錬場に出稼する以外に生業のほかの収入がなかった時代、相当の経済を助けたのです。
これらの採氷権は、売市壮年団が主体で、野沢扇治氏(現、野沢県議厳父)が永年団長の職にありました。
このような地場生産天然氷も、時世の進展と衛生思想の向上とともに保氷が禁止された頃は売市小学校が、根城字塚に移転になる頃でした。
私立笹子教育所 大久保金太郎
大久保兼松家(私の実家)に笹子教育所が開設されたのが明治四十二年、私の入学が四十五年で卒業は大正七年でした。いろいろ事情があったのでしょう、卒業時教育所は、大久保与十郎氏宅(現与一氏宅)に移転していました。その年の六月一日に売市尋常小学校笹子分教場が、現在の笹子生活館のある所に創立されたのでした。
私たち一年から六年までを厳しく指導して下さいました。羽織はかまに威儀を正した先生、ポッポ(着物)にワラゾウリの私たち。粗末な勉強道具、赤ん坊を背負う者、妹を連れてくる者等いろいろでした。しかし、私たちはこの教育の火をたやすまいと必死でした。
現在の分校を、そして子供たちを見るにつけ、万感胸にこみあげてくるものを覚えるのは、けだし、私だけのことでしようか。
売市国民学校笹子分教場 大久保茂
私は、昭和二十年四月に売市国民学校笹子分教場に入学しましたが、昭和二十二年に校名改称があり、昭和二十五年の卒業の時には、根城小学校笹子分校となっていました。
学校は、部落の中心、通称「カド水」にありました。マサ屋根の古びた校舎で、教室が一つに職員室兼用の教員住宅がありました。現在の笹子生活館近くに分教場があったわけです。
先生は入学時は栃内純一郎先生お一人、卒業時は渡辺鎮先生お一人が指導して下さいました。児童は、常に二十名前後と記憶しています。終戦を間にはさんだ、恵まれない時代でしたので、粗末な服装、勉強道具、遊具等しかありませんでしたし、代用食には閉口したものです。授業時間中の空襲警報で防空壕に走りました。手製のバット、ボール等で、野球をしたこと等、いろいろありましたが、今はただ、楽しい思い出となっています。
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 1
国に国史、市に市史、企業に社史があるように町内にも歴史あり、それが町史。これを作ったのが南売市、他にも作った町内があるかと八戸図書館で調べたが糠塚にあるだけ。貴重な文献である。
こうした地域に根付いた史料は大事なもの。
その地域でしか知ることのできない事実が幾つもあるからだ。
これらの事柄を中心にして南売市町内会誌を見てみよう。
この貴重な本の存在を教えてくらたのが、西売市の「ギャラリーみち」での「第一回私のありがとう」聞き取り会に出席された北山栄子さん。
この人は絵心を持ち継続し個展を開く市井の画家。こうした文化活動を地道に続ける多くの人がいる。人口二十五万都市、八戸もなかなかなもの、内懐が深い。
さて、「はちのへ今昔」が最も興味のある記事、
その町にどんな人がいたかから紹介。
思い出の記 .明治の頃から大正の始め
山田 国太郎
○7~8才のころ
私は明治33年生れです。父、大太郎は師範学校を出て、教員でした。三戸郡舘村大字売市字売市21番地、山田銀蔵、孫、平民、国太郎、父大 太郎長男と届けてありました。
その頃、一家に一人1票選挙権が与えられ、それも男子でなければなりませんでした。私の家では祖父が戸主でしたので、すべてこの様に記されておりました。
元の家は、細長い屋敷の奥にありましたが、その元家を取り壊して、道路側に征服で300円で建てた(当時、茅葺が多かった)と聞いております。祖父母と姉はここで暮らしていましたが、私は 親と赴任先の島守におりました。八戸に来たのは7才の春でした。牛の背中に乗せられて上り街道を下って来たのを80余年経っても鮮明に覚えています。
小学校は、売市尋常小学校でした。お天満様(天満宮)の向いにあり、平家で教室が二つと玄関を入れば左が教員室、その奥が当直室でした。
7才で入学するのは当り前でしたが、9才位で入学する者もおりました。当時は余り厳しくなかった様です。
服装は筒袖に前掛を当てた、袴をはく子は売市には他に居りませんでした。ただ一人私だけ紋付を着ておりました。それは、母が大人の紋付きを切りつめて呉れた一つ紋でした。
生徒数は全部で30人前後だったと思います。
入学式と云っても親が来たり来なかったりのようでした。学科は書き方(習字)、修身(道徳)、読本(国語)、算術(算数)でした。運動会と云っても大げさなものでなく、30間位(60)米の広場をはだしで走っただけでした。はせ比べとか、よせつんどと言い合っていました。その頃は尋常科は4年制でした。男の子は褌など当てていなかったので、先生が前掛を代りに結んで、スッペさみ取りして呉れました。
O10~12才のころ
父は病弱でした それで、水目沢にあった田畑を売り、生活費としているようでした。その頃母が袴を作って呉れました。それは御年始に、父の代りに、常海町の某と云う先生の所や山ノ下の池田様といった士族方のお宅に行く為のものでした。勿論お顔を拝見する訳でもなく父の代りに名刺を置くだけでした。
その頃父は、鶏卵の商いをしたり、教員あがりだと云う事もあり、館村の村会議員に推せんされたり、後に村長の役を仰せ付かる事になったようで、家には常に村の人達が集って居ました。
O14~15才のころ
その頃の民家は現在の中村安江さんの所から 始って、大橋まで戸数71~72戸位でした。
私の家の上隣りは本家の山田弥三郎の屋敷が あり、間口30間ありました。その上の小道を入 るとカラタチの木があり、その奥が南部様で、左に曲ると野沢様で、二階建の家がありました。
その向こうに岡田さんの屋敷がありました。ま た大通には福田さんの土地、それを過ぎると根伝さん(川口さんの向いあたり)、その近くに川口初蔵さんがいました。長松の入り口(角コ)まで三春屋さんの田屋で、道路端にはオンコの木が植えてありました。
一方私の家の向いから庚申塚のある所まで、岡田さんと云う人の上地で四00坪を四00円で三萬さんに売り、大久保山へ移ったと聞いていま す。三萬さんは、セイロ(穀物用倉庫)を建て、 その管理をする為に、今文壇で活躍なさってい る哲郎さんの父親さんが時折り見えておりまし た。人口にヒバの木を植えていました。その枝を 取り、根つけし成長したのが今私の屋敷に育っ ているしだれヒバの木です。庚申塚の道から西 側に田茂さんの土地、つぎが高崎さんの柿畑で した。その西奥の方は福田さんの土地で、同級 生の中村繁蔵さんの生れた,家がありました。そ のあたりは杉の林が多く、遊びに適さなかった ので、もっぱら表の通りだけでした。それも道 路の両側から木の枝が折り重なって、夏でも薄暗いトンネルのようでした。
○16~17才のころ(大正に入った頃)
米は1俵4円でした。若い者達は角コ(大橋鉄男)のT字路の道端に置かれた3~4個の大きな石(35貫匁~27貫匁、重さの事は木村秋氏の説)があり、その石を肩まで持ち上げる若い者達の力競べが盛んで、夕方になると、T字路に集って来ました。今の重量揚げのようなことをして遊んでいたことをなつかしく思い出します。
.売市附祭のこと
野沢 剛
八戸三社大祭、平成4年に売市附祭最優秀賞受賞、念願の最高の賞であり、子供たちの目も一段と輝き、掛け声も元気一杯、天候にも恵まれ、売市附祭にとって、今年は特別に忘れる事の出来ない素晴らしいお祭りとなりました。
売市附祭の三社大祭初参加は、昭和33年のことであり、南高市町内会が岡田実氏を初代会長として発足し、戦後の大混乱も漸く落着きを取り戻し、再建の足どり払いよいよスビードを早めつつある時であり、八戸でも日曹製鋼(現太平洋金属33年)火力発電所(33年)東新鋼業(35年)等の進出があり、又根城区画整理事業の施行区域、事業計画が決定(34年)され、進出した企業のアパート、社宅等がこの地域に建設される等、敗戦後の暗いイメージから明るい将来に向けての躍動が感じられる時期でした。
新組町の附祭が一足早く(31年)参加したと云うこともあり、売市もと云う気持ちが若い人達にあったのだと思いますが、年明け早々に中村利雄(中村酒店先代)、宮沢三次郎(宮沢現委員長の父)、西村清一(西村燃料店先代)の3氏が発起人となって呼びかけがあり、鳥屋部町の村井さんの御指導を頂いて勧進帖の山車が出来上り、初参加となったのでした。お祭りとは見るものだとばかり思って居ました私に、附祭参加の相談があった時は本当に面食ったものでした。全くの無からの出発で、山車の台車、大小の太鼓、人形等、殆んどが二十六日町附祭組からの借物と云う状態で、新調したのは引綱だけであったと思います。旗、腰巻、浴衣等については、山田、岩沢両呉服さん始め多くの方々の御協力で、どうにか恰好がついたのでした。
こうした事から一度に準備できないので毎年人形を揃えたり、大太鼓(36年)、小太鼓、台車等順次に新調しなければならず、肝心の山車に充分な製作費が掛けられず苦労したものです。
初めは珍らしさもあって多数の子供達も参加しましたが、他所の山車より売市の山車が見劣りすると云う事から、年々参加者が少くなり、それを防ぐ為にバス旅行を計画し呼びかけた事も忘れられない事の一つです。参加当初の頃を考えるとよくここまでやって来たものだとつくづく思います。
着工以来15年、売市区画整理もようやく最終段階となり、町内の様相もすっかり変ってしまいました。町内会発足当時の地域のことを想いますと、感無量のものがあります。町内の発展と共に歩んで来た売市附祭も昭和60年以来5年連続努力賞、昨年は優秀賞35年目の今年は最優秀賞に輝やく事が出来ました。この事は平成元年以来御指導を頂いて来た、夏坂和良さんの御力による所、大でありますが、それにもまして委員長を中心に若い方々の、やろうと云う結集した団結の力があっての事であり、これを契機に、今後より一層頑張って八戸三社大祭を大いに盛り上げ、より多くの人々を喜ばせてほしいものです。
昭和33年初参加の顔ぶれ
発起人 中村利雄・西村清一・宮沢三次郎
山車製作指導者 村井四良
相談役 邨谷忠吉・幸崎幸市郎
会計 北村市太郎 会計監査 中村福次郎
山車製作者 月舘藤吉・元沢馬吉
歴代委員長
初代 野洋 剛 昭和33年~昭和46年
2代 西村清一 昭和47年~昭和53年
3代 中村会松 昭和54年~昭和56年
4代 市川儀郎 昭和57年~昭和59年
5代 川口徳治 昭和60年~昭和62年
6代 中村明人 昭和63年~平成3年 -,
7代 宮沢文夫 平成4年~
こうした地域に根付いた史料は大事なもの。
その地域でしか知ることのできない事実が幾つもあるからだ。
これらの事柄を中心にして南売市町内会誌を見てみよう。
この貴重な本の存在を教えてくらたのが、西売市の「ギャラリーみち」での「第一回私のありがとう」聞き取り会に出席された北山栄子さん。
この人は絵心を持ち継続し個展を開く市井の画家。こうした文化活動を地道に続ける多くの人がいる。人口二十五万都市、八戸もなかなかなもの、内懐が深い。
さて、「はちのへ今昔」が最も興味のある記事、
その町にどんな人がいたかから紹介。
思い出の記 .明治の頃から大正の始め
山田 国太郎
○7~8才のころ
私は明治33年生れです。父、大太郎は師範学校を出て、教員でした。三戸郡舘村大字売市字売市21番地、山田銀蔵、孫、平民、国太郎、父大 太郎長男と届けてありました。
その頃、一家に一人1票選挙権が与えられ、それも男子でなければなりませんでした。私の家では祖父が戸主でしたので、すべてこの様に記されておりました。
元の家は、細長い屋敷の奥にありましたが、その元家を取り壊して、道路側に征服で300円で建てた(当時、茅葺が多かった)と聞いております。祖父母と姉はここで暮らしていましたが、私は 親と赴任先の島守におりました。八戸に来たのは7才の春でした。牛の背中に乗せられて上り街道を下って来たのを80余年経っても鮮明に覚えています。
小学校は、売市尋常小学校でした。お天満様(天満宮)の向いにあり、平家で教室が二つと玄関を入れば左が教員室、その奥が当直室でした。
7才で入学するのは当り前でしたが、9才位で入学する者もおりました。当時は余り厳しくなかった様です。
服装は筒袖に前掛を当てた、袴をはく子は売市には他に居りませんでした。ただ一人私だけ紋付を着ておりました。それは、母が大人の紋付きを切りつめて呉れた一つ紋でした。
生徒数は全部で30人前後だったと思います。
入学式と云っても親が来たり来なかったりのようでした。学科は書き方(習字)、修身(道徳)、読本(国語)、算術(算数)でした。運動会と云っても大げさなものでなく、30間位(60)米の広場をはだしで走っただけでした。はせ比べとか、よせつんどと言い合っていました。その頃は尋常科は4年制でした。男の子は褌など当てていなかったので、先生が前掛を代りに結んで、スッペさみ取りして呉れました。
O10~12才のころ
父は病弱でした それで、水目沢にあった田畑を売り、生活費としているようでした。その頃母が袴を作って呉れました。それは御年始に、父の代りに、常海町の某と云う先生の所や山ノ下の池田様といった士族方のお宅に行く為のものでした。勿論お顔を拝見する訳でもなく父の代りに名刺を置くだけでした。
その頃父は、鶏卵の商いをしたり、教員あがりだと云う事もあり、館村の村会議員に推せんされたり、後に村長の役を仰せ付かる事になったようで、家には常に村の人達が集って居ました。
O14~15才のころ
その頃の民家は現在の中村安江さんの所から 始って、大橋まで戸数71~72戸位でした。
私の家の上隣りは本家の山田弥三郎の屋敷が あり、間口30間ありました。その上の小道を入 るとカラタチの木があり、その奥が南部様で、左に曲ると野沢様で、二階建の家がありました。
その向こうに岡田さんの屋敷がありました。ま た大通には福田さんの土地、それを過ぎると根伝さん(川口さんの向いあたり)、その近くに川口初蔵さんがいました。長松の入り口(角コ)まで三春屋さんの田屋で、道路端にはオンコの木が植えてありました。
一方私の家の向いから庚申塚のある所まで、岡田さんと云う人の上地で四00坪を四00円で三萬さんに売り、大久保山へ移ったと聞いていま す。三萬さんは、セイロ(穀物用倉庫)を建て、 その管理をする為に、今文壇で活躍なさってい る哲郎さんの父親さんが時折り見えておりまし た。人口にヒバの木を植えていました。その枝を 取り、根つけし成長したのが今私の屋敷に育っ ているしだれヒバの木です。庚申塚の道から西 側に田茂さんの土地、つぎが高崎さんの柿畑で した。その西奥の方は福田さんの土地で、同級 生の中村繁蔵さんの生れた,家がありました。そ のあたりは杉の林が多く、遊びに適さなかった ので、もっぱら表の通りだけでした。それも道 路の両側から木の枝が折り重なって、夏でも薄暗いトンネルのようでした。
○16~17才のころ(大正に入った頃)
米は1俵4円でした。若い者達は角コ(大橋鉄男)のT字路の道端に置かれた3~4個の大きな石(35貫匁~27貫匁、重さの事は木村秋氏の説)があり、その石を肩まで持ち上げる若い者達の力競べが盛んで、夕方になると、T字路に集って来ました。今の重量揚げのようなことをして遊んでいたことをなつかしく思い出します。
.売市附祭のこと
野沢 剛
八戸三社大祭、平成4年に売市附祭最優秀賞受賞、念願の最高の賞であり、子供たちの目も一段と輝き、掛け声も元気一杯、天候にも恵まれ、売市附祭にとって、今年は特別に忘れる事の出来ない素晴らしいお祭りとなりました。
売市附祭の三社大祭初参加は、昭和33年のことであり、南高市町内会が岡田実氏を初代会長として発足し、戦後の大混乱も漸く落着きを取り戻し、再建の足どり払いよいよスビードを早めつつある時であり、八戸でも日曹製鋼(現太平洋金属33年)火力発電所(33年)東新鋼業(35年)等の進出があり、又根城区画整理事業の施行区域、事業計画が決定(34年)され、進出した企業のアパート、社宅等がこの地域に建設される等、敗戦後の暗いイメージから明るい将来に向けての躍動が感じられる時期でした。
新組町の附祭が一足早く(31年)参加したと云うこともあり、売市もと云う気持ちが若い人達にあったのだと思いますが、年明け早々に中村利雄(中村酒店先代)、宮沢三次郎(宮沢現委員長の父)、西村清一(西村燃料店先代)の3氏が発起人となって呼びかけがあり、鳥屋部町の村井さんの御指導を頂いて勧進帖の山車が出来上り、初参加となったのでした。お祭りとは見るものだとばかり思って居ました私に、附祭参加の相談があった時は本当に面食ったものでした。全くの無からの出発で、山車の台車、大小の太鼓、人形等、殆んどが二十六日町附祭組からの借物と云う状態で、新調したのは引綱だけであったと思います。旗、腰巻、浴衣等については、山田、岩沢両呉服さん始め多くの方々の御協力で、どうにか恰好がついたのでした。
こうした事から一度に準備できないので毎年人形を揃えたり、大太鼓(36年)、小太鼓、台車等順次に新調しなければならず、肝心の山車に充分な製作費が掛けられず苦労したものです。
初めは珍らしさもあって多数の子供達も参加しましたが、他所の山車より売市の山車が見劣りすると云う事から、年々参加者が少くなり、それを防ぐ為にバス旅行を計画し呼びかけた事も忘れられない事の一つです。参加当初の頃を考えるとよくここまでやって来たものだとつくづく思います。
着工以来15年、売市区画整理もようやく最終段階となり、町内の様相もすっかり変ってしまいました。町内会発足当時の地域のことを想いますと、感無量のものがあります。町内の発展と共に歩んで来た売市附祭も昭和60年以来5年連続努力賞、昨年は優秀賞35年目の今年は最優秀賞に輝やく事が出来ました。この事は平成元年以来御指導を頂いて来た、夏坂和良さんの御力による所、大でありますが、それにもまして委員長を中心に若い方々の、やろうと云う結集した団結の力があっての事であり、これを契機に、今後より一層頑張って八戸三社大祭を大いに盛り上げ、より多くの人々を喜ばせてほしいものです。
昭和33年初参加の顔ぶれ
発起人 中村利雄・西村清一・宮沢三次郎
山車製作指導者 村井四良
相談役 邨谷忠吉・幸崎幸市郎
会計 北村市太郎 会計監査 中村福次郎
山車製作者 月舘藤吉・元沢馬吉
歴代委員長
初代 野洋 剛 昭和33年~昭和46年
2代 西村清一 昭和47年~昭和53年
3代 中村会松 昭和54年~昭和56年
4代 市川儀郎 昭和57年~昭和59年
5代 川口徳治 昭和60年~昭和62年
6代 中村明人 昭和63年~平成3年 -,
7代 宮沢文夫 平成4年~
東奥日報に見る明治三十一年の八戸及び八戸人
逃亡兵士の逮捕
岩手県八幡村生まれ第八師団歩兵第三十一連隊第三中隊陸軍歩兵二等卒田中佐次郎(二十三)は去る十一日紀元節休暇にて午前八時頃外出の際逃亡し当地栄町一番戸旅人宿工藤元方へ潜伏し居りたるを昨日朝熊憲兵上等兵の為に認められ取調べたるに逃亡したるのみならず官給の外套一枚を博労町大阪金助方に質入したることをも自白せしに付逮捕せられたるが右は本日仙台陸軍軍法会議に護送する由
銃盗兵士の処分
本県平民にして花○港守備隊付二等卒福島太郎というもの混成第一旅団軍法会議において左の如き処分を受けたる由実に本県軍人の面汚しと言うべし
土人に売却し酒食の費用を得んとし(第一)明治三十年十一月十七日夜所属大隊の兵器庫の錠前を壊し倉庫内へ忍び入り官の村田単発銃を窃取せり(第二)は花○港に於いて中隊転送荷物監視衛兵勤務中同三十一年一月六日夜衛兵宿舎用天幕内にありたる同隊二等卒遠藤福蔵へ官給の価格五円以上に相当する村田単発銃を一丁を窃取せり
第一の窃盗罪により重禁固二月六日に第二の罪により重禁固二年三ヶ月に処し第一の刑を執行す
八戸貯蓄銀行第一期通常総会
十三日午後二時より階上銀行楼上において開き創業費及びその他の費用悉皆消却無配当に決議せりとなお八戸地方の昨今は降雪更になく道路砂塵を飛ばし殆ど三四月頃の気候にして寒暖計は日中五十度内外なりと
八戸の実弟殺し事件
去る二十日の紙上に記載せし彼の実兄安太郎の為に殺害されたる三戸郡湊村大字浜通り小島岩次郎(三十四)なるものの死体に関し一昨日予審判事江頭範貞氏は書記溝江三千雄氏を従え医師逸見良作奥秋確の両氏と共に出張し湊村駐在巡査及び同村長等立会いの上発掘して解剖をなせりと
巡査雪中に凍死す
八戸警察署在勤巡査部長一戸佑三郎氏は去る四日午前七時三戸郡是川島守の両方面の選挙取締方々巡視として出張のところ六日に至るも何等の報告もなく又帰署せざるより同署にては更に巡査を出張せしめ其の行方を捜索せしめたるに是川村駐在所へは四日の午前九時巡視あるも島守村駐在所へは巡視なきにより爾来署員を出張せし又人夫を雇い諸所を探索せしめたるに去る九日に至り漸く是川村を隔てたる南方一里の山間字地獄沢と称する沢間に凍死しあるを発見せり右は是川村駐在所を出て島守村を指して一里余りなる餓坂と称する所に至りしに折柄吹雪の為本道を失い字花山と称する山道に足跡あるを認め其の山道に入ること三町にして足跡なきに至りしを以って当方を指し山中積雪を踏み該山より十間余の地獄沢へ陥り沢合跋渉中極寒の為遂に凍死を遂げたるならんと
本社社員暴行にあう
我社員太田左馬吉氏は今回の総選挙に付き政況視察として南部地方に赴き居りしが昨八戸に於いて反対派の壮丁氏を路に要して暴行を加えんとしたるも氏の抵抗にあい遂に連れ去りし為氏の身上は無事なりしと
変死
上北郡六ヶ所村大字泊の古川久冶、種市福松、吉岡岩次郎、山田伝兵衛、中村岩吉等は三月一日カレイ網並びに米買い入れのため八戸町に赴き去る十二日帰漕の際尾鮫沖合いにて大風激浪に遭い乗船破損の為久冶、福松、岩太郎の三名は溺死をとげたりと
奈須川代議士の当選祝宴
去る三日午後三時より八戸町大字堀端町接待方に於いて開催せしに来会者は南部三郡の有権者有志者無慮二百名に近く場内立錐の地を余さず非常の盛況を極めたる由にて奈須川代議士及び徳差鉄三郎、本社の花田節、浦山助太郎氏等の演説及び出町甫氏の祝辞ありしと言う
八戸酔遊記抜粋
やがて汽車は尻内に着しぬ之より八戸支線に乗り換えざるべからず時間を検すれば発車前尚も四十分即ち一行午餐を停車場内の待合室に喫す汽車は暫時にして八戸に着すこの日降り積もれる春雪○街を装いて景殊に佳なり只道路泥濘行歩甚だ難なりしは一行の大いに苦しむところ恰も二時をすぐ一行即ち相謀りて会場に赴きぬ
祝宴会
場は堀端町接待氏の宅なり堀端町は所謂士族屋敷の在る所広壮なる大門高く日章旗を交差し左右に「増進自由」と大書せる角灯を掲げ来往の人をして先ずこの日の祝宴会場なるを予想せしむ
会場に至れば奈須川代議士を初めその他の有志予輩が遠来の労を謝し先ず導きて席を与え歓待至らざるはなし見渡せばこの日会する南部三郡の主なる有力者二百余名流石に広き接待氏の邸も為に立錐の余地も残さぬほど
やがて席の定まるや奈須川氏は場の中央に設けたる演壇に向かいて先ず来会者の労を謝しそれより現内閣の財政計画を当を失して治跡の見るべきものなく徒に国民を増税の上に苦しめんとするは不可なり我が党は絶対的に反対するものにあらざるも増税の前尚為すべき事業ありとて行政整理、政費節減の断行せざるべからずを論じ更に論鋒を違て現内閣の外交方針を難じ極東における近時を詳述して現内閣は殆ど無外交なりと断じたる時の如きは満場の拍手暫し鳴りもやまざりき氏は尚も論点を転じて将来取るべき方針を述べ再び起これる拍手に送られ静かに壇を下る
中略
之より宴に移れり酒間を斡旋する者は八戸及び湊の大小妓二十余名南部独特の金山踊り数名の舞妓と三四の来会者との連合にて演ぜらる予はかつて「ふたば」君がわが社の創刊十年記念会の祝宴に於いてこれをしたるを以って僅かにその状を知れりしかも今や専門の芸妓によって演ぜらるるを見て更にその面白さの倍加するものあり名妓「かよ」の紹介歳まさに十五歳敢えて閉花羞月の美ありと言わずこの日一曲の舞踊を演じぬ又服装を度々変え筒袖から長袖にと白粉は斑点となり演芸を休まず繰り返す、衆皆その労を言えば「奈須川さんのお祝いでございますもの」といいこれより「かよ」を「我が党」と呼びたり
海岸に沿うて漫歩鮫港に向かう青森の海岸は波浪の岸を洗うの外この趣味を感ぜずその海岸を見飽きたる予は南部に来てこの海岸を見るに及んで実にその多趣多味なるを賞せずんばあらず殊に鮫港に至る沿岸一方は小高き山に沿い他の一方は岩礁露出波浪これを打ちて白波を挙げ幾多の漁船はるかに油の如き海面を点綴(てんてい・あちこちにほどよく散らばってまとまりをなしている)すこの山この海風景実に絶景なり(中略)鮫港は一小漁村人馬の往来繁なるにあらず鮫港に於いて最も不釣合いなものを発見せりそは石田旅店なり其の構造必ずしも広壮なりというにあらずしかも海岸に面するや眼眸悉くこれ緑波其の波浪の激して岸を打つや白波躍りて柱礎を洗わんばかりなり爽快言わんかたなし況や其の室の清潔にして些かの塵埃にも止めざるに於いてや予は未だ多く其の如きの旅店を見ずなり盛夏の候に至れば隣県の人の所用ありて八戸に行くもの多く八戸に宿さずこの石田に投ず況や八戸支線の落成して湊に通ずるに於いておや(中略)帰途前夜宿泊せし湊に休憩し麦酒数本を傾け金沢君は所用で辞し三人は車を命じて八戸に帰り若松旅店に投じぬ後略
八戸織機製作所
八戸番町石原梯山氏は客年京阪地方漫遊の際ふと伊勢津市に立ち寄り松田繁次郎氏の発明専売特許に係る一日四反織りの機械を一見し其の至便なるを嘆賞し我が地方に必適の事業なることを知り帰来苦心経営の末先ず其の第一台を取り寄せ且つ教師を聘し妹子に伝習せしめたるに三十余日にして其の奥義を極めたるを以って当春以来八戸町有志家伊東喜平、田名部保寿、工藤七太郎、岡本次郎の諸氏と謀り織機製作事務所を石原氏の自宅に創立し同氏出京の上東京市外十四県分権所有東洋機械製作所主辻頼母氏と交渉し三戸上北南部の分権を予約する所ありしが今回又又上京愈々製作販売の権利を譲り受け特約確定したるを以って右製作所を八戸十六日町工藤七太郎氏の宅に設け又販売所を同十八日町伊藤喜平氏宅へ設け目下頻りに製作中にてすでに二十余台の注文ある由右織機は弘前市に於いて従来製造し来るものに大改良を加えたるものにして昨今宮城県一台入りこみたる外東北地方に未だ其の類なしとのことにて価格は本紙広告欄にある如く一台三十円なりという福島県以北は石原氏を以って嚆矢とす 後略
八戸だより
運動会 八戸高等尋常小学校にては去る八日大運動会を催したるが翌九日も引き続き男女生徒の諸種の競技ありしが天気も前日に劣らぬ快晴にて中々の盛況なりき
八戸美人花くらべ 夢々山人とか言う人題号の如き書を編せんとて材料を蒐集中のよしなるか右は八戸町に於ける二十歳以下の婦人にして容貌秀麗、和洋裁、香茶、活花、養蚕、製糸、機織、その他一般婦人の心得べき学問、礼式等に熟練せし婦人の履歴を記するものにして来る二十五日出版の予定
岩手県八幡村生まれ第八師団歩兵第三十一連隊第三中隊陸軍歩兵二等卒田中佐次郎(二十三)は去る十一日紀元節休暇にて午前八時頃外出の際逃亡し当地栄町一番戸旅人宿工藤元方へ潜伏し居りたるを昨日朝熊憲兵上等兵の為に認められ取調べたるに逃亡したるのみならず官給の外套一枚を博労町大阪金助方に質入したることをも自白せしに付逮捕せられたるが右は本日仙台陸軍軍法会議に護送する由
銃盗兵士の処分
本県平民にして花○港守備隊付二等卒福島太郎というもの混成第一旅団軍法会議において左の如き処分を受けたる由実に本県軍人の面汚しと言うべし
土人に売却し酒食の費用を得んとし(第一)明治三十年十一月十七日夜所属大隊の兵器庫の錠前を壊し倉庫内へ忍び入り官の村田単発銃を窃取せり(第二)は花○港に於いて中隊転送荷物監視衛兵勤務中同三十一年一月六日夜衛兵宿舎用天幕内にありたる同隊二等卒遠藤福蔵へ官給の価格五円以上に相当する村田単発銃を一丁を窃取せり
第一の窃盗罪により重禁固二月六日に第二の罪により重禁固二年三ヶ月に処し第一の刑を執行す
八戸貯蓄銀行第一期通常総会
十三日午後二時より階上銀行楼上において開き創業費及びその他の費用悉皆消却無配当に決議せりとなお八戸地方の昨今は降雪更になく道路砂塵を飛ばし殆ど三四月頃の気候にして寒暖計は日中五十度内外なりと
八戸の実弟殺し事件
去る二十日の紙上に記載せし彼の実兄安太郎の為に殺害されたる三戸郡湊村大字浜通り小島岩次郎(三十四)なるものの死体に関し一昨日予審判事江頭範貞氏は書記溝江三千雄氏を従え医師逸見良作奥秋確の両氏と共に出張し湊村駐在巡査及び同村長等立会いの上発掘して解剖をなせりと
巡査雪中に凍死す
八戸警察署在勤巡査部長一戸佑三郎氏は去る四日午前七時三戸郡是川島守の両方面の選挙取締方々巡視として出張のところ六日に至るも何等の報告もなく又帰署せざるより同署にては更に巡査を出張せしめ其の行方を捜索せしめたるに是川村駐在所へは四日の午前九時巡視あるも島守村駐在所へは巡視なきにより爾来署員を出張せし又人夫を雇い諸所を探索せしめたるに去る九日に至り漸く是川村を隔てたる南方一里の山間字地獄沢と称する沢間に凍死しあるを発見せり右は是川村駐在所を出て島守村を指して一里余りなる餓坂と称する所に至りしに折柄吹雪の為本道を失い字花山と称する山道に足跡あるを認め其の山道に入ること三町にして足跡なきに至りしを以って当方を指し山中積雪を踏み該山より十間余の地獄沢へ陥り沢合跋渉中極寒の為遂に凍死を遂げたるならんと
本社社員暴行にあう
我社員太田左馬吉氏は今回の総選挙に付き政況視察として南部地方に赴き居りしが昨八戸に於いて反対派の壮丁氏を路に要して暴行を加えんとしたるも氏の抵抗にあい遂に連れ去りし為氏の身上は無事なりしと
変死
上北郡六ヶ所村大字泊の古川久冶、種市福松、吉岡岩次郎、山田伝兵衛、中村岩吉等は三月一日カレイ網並びに米買い入れのため八戸町に赴き去る十二日帰漕の際尾鮫沖合いにて大風激浪に遭い乗船破損の為久冶、福松、岩太郎の三名は溺死をとげたりと
奈須川代議士の当選祝宴
去る三日午後三時より八戸町大字堀端町接待方に於いて開催せしに来会者は南部三郡の有権者有志者無慮二百名に近く場内立錐の地を余さず非常の盛況を極めたる由にて奈須川代議士及び徳差鉄三郎、本社の花田節、浦山助太郎氏等の演説及び出町甫氏の祝辞ありしと言う
八戸酔遊記抜粋
やがて汽車は尻内に着しぬ之より八戸支線に乗り換えざるべからず時間を検すれば発車前尚も四十分即ち一行午餐を停車場内の待合室に喫す汽車は暫時にして八戸に着すこの日降り積もれる春雪○街を装いて景殊に佳なり只道路泥濘行歩甚だ難なりしは一行の大いに苦しむところ恰も二時をすぐ一行即ち相謀りて会場に赴きぬ
祝宴会
場は堀端町接待氏の宅なり堀端町は所謂士族屋敷の在る所広壮なる大門高く日章旗を交差し左右に「増進自由」と大書せる角灯を掲げ来往の人をして先ずこの日の祝宴会場なるを予想せしむ
会場に至れば奈須川代議士を初めその他の有志予輩が遠来の労を謝し先ず導きて席を与え歓待至らざるはなし見渡せばこの日会する南部三郡の主なる有力者二百余名流石に広き接待氏の邸も為に立錐の余地も残さぬほど
やがて席の定まるや奈須川氏は場の中央に設けたる演壇に向かいて先ず来会者の労を謝しそれより現内閣の財政計画を当を失して治跡の見るべきものなく徒に国民を増税の上に苦しめんとするは不可なり我が党は絶対的に反対するものにあらざるも増税の前尚為すべき事業ありとて行政整理、政費節減の断行せざるべからずを論じ更に論鋒を違て現内閣の外交方針を難じ極東における近時を詳述して現内閣は殆ど無外交なりと断じたる時の如きは満場の拍手暫し鳴りもやまざりき氏は尚も論点を転じて将来取るべき方針を述べ再び起これる拍手に送られ静かに壇を下る
中略
之より宴に移れり酒間を斡旋する者は八戸及び湊の大小妓二十余名南部独特の金山踊り数名の舞妓と三四の来会者との連合にて演ぜらる予はかつて「ふたば」君がわが社の創刊十年記念会の祝宴に於いてこれをしたるを以って僅かにその状を知れりしかも今や専門の芸妓によって演ぜらるるを見て更にその面白さの倍加するものあり名妓「かよ」の紹介歳まさに十五歳敢えて閉花羞月の美ありと言わずこの日一曲の舞踊を演じぬ又服装を度々変え筒袖から長袖にと白粉は斑点となり演芸を休まず繰り返す、衆皆その労を言えば「奈須川さんのお祝いでございますもの」といいこれより「かよ」を「我が党」と呼びたり
海岸に沿うて漫歩鮫港に向かう青森の海岸は波浪の岸を洗うの外この趣味を感ぜずその海岸を見飽きたる予は南部に来てこの海岸を見るに及んで実にその多趣多味なるを賞せずんばあらず殊に鮫港に至る沿岸一方は小高き山に沿い他の一方は岩礁露出波浪これを打ちて白波を挙げ幾多の漁船はるかに油の如き海面を点綴(てんてい・あちこちにほどよく散らばってまとまりをなしている)すこの山この海風景実に絶景なり(中略)鮫港は一小漁村人馬の往来繁なるにあらず鮫港に於いて最も不釣合いなものを発見せりそは石田旅店なり其の構造必ずしも広壮なりというにあらずしかも海岸に面するや眼眸悉くこれ緑波其の波浪の激して岸を打つや白波躍りて柱礎を洗わんばかりなり爽快言わんかたなし況や其の室の清潔にして些かの塵埃にも止めざるに於いてや予は未だ多く其の如きの旅店を見ずなり盛夏の候に至れば隣県の人の所用ありて八戸に行くもの多く八戸に宿さずこの石田に投ず況や八戸支線の落成して湊に通ずるに於いておや(中略)帰途前夜宿泊せし湊に休憩し麦酒数本を傾け金沢君は所用で辞し三人は車を命じて八戸に帰り若松旅店に投じぬ後略
八戸織機製作所
八戸番町石原梯山氏は客年京阪地方漫遊の際ふと伊勢津市に立ち寄り松田繁次郎氏の発明専売特許に係る一日四反織りの機械を一見し其の至便なるを嘆賞し我が地方に必適の事業なることを知り帰来苦心経営の末先ず其の第一台を取り寄せ且つ教師を聘し妹子に伝習せしめたるに三十余日にして其の奥義を極めたるを以って当春以来八戸町有志家伊東喜平、田名部保寿、工藤七太郎、岡本次郎の諸氏と謀り織機製作事務所を石原氏の自宅に創立し同氏出京の上東京市外十四県分権所有東洋機械製作所主辻頼母氏と交渉し三戸上北南部の分権を予約する所ありしが今回又又上京愈々製作販売の権利を譲り受け特約確定したるを以って右製作所を八戸十六日町工藤七太郎氏の宅に設け又販売所を同十八日町伊藤喜平氏宅へ設け目下頻りに製作中にてすでに二十余台の注文ある由右織機は弘前市に於いて従来製造し来るものに大改良を加えたるものにして昨今宮城県一台入りこみたる外東北地方に未だ其の類なしとのことにて価格は本紙広告欄にある如く一台三十円なりという福島県以北は石原氏を以って嚆矢とす 後略
八戸だより
運動会 八戸高等尋常小学校にては去る八日大運動会を催したるが翌九日も引き続き男女生徒の諸種の競技ありしが天気も前日に劣らぬ快晴にて中々の盛況なりき
八戸美人花くらべ 夢々山人とか言う人題号の如き書を編せんとて材料を蒐集中のよしなるか右は八戸町に於ける二十歳以下の婦人にして容貌秀麗、和洋裁、香茶、活花、養蚕、製糸、機織、その他一般婦人の心得べき学問、礼式等に熟練せし婦人の履歴を記するものにして来る二十五日出版の予定
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