2007年7月1日日曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 1

八戸小学校の思い出 岩岡徳兵衛
八戸小学校の校舎は、いまの市庁舎前のロータリーにある大きな木のあるあたりが玄関になっていました。そこは番町通リの突き当りになっていて、玄関を入ったすぐのところに職員室、その二階に講堂がありました。講堂が明治天皇の行在所であります。行在所を講堂にしたのではなく、天皇は学校の講堂にお泊りになったものと思います。
在学中、いまの長者小学校ができました。ため、生徒たちの一部はそちらに別れていきましたが、入学したころの八小は、八戸、といっても範囲は狭いものでありましたが、八戸におけるただ一つの学校でありました。今でも八戸小学校のこと
を八尋とよんだりしますが、八尋とよんだのは、吹上に高等小学校が分離されてからの呼びかたで、私のはいったころは、尋常高等小学校でしたから八尋とはいわなかったと思います。また男女は、境はないが別々の校舎にはいっていました。校長先生は稲葉万蔵、受け持ちは類家先生といいました。類家先生は昔の漢学者であり、修身や国語を教えていました。非常におっかないやかましい先生でしたが、反面、いかにも親しみのある先生でした。ただ教えさえすればよいというのではなく、よく生徒一人一人の面倒をみてくれました。あれが本当の教育者だという気がいたします。
 私はこどものころ人並みはずれてからだが弱く、学校に行くのがやっとというほどでした。そのせいもあったでしょうが、学校の成績はあまり芳しくなく、運動会などにもでませんでした。唱歌など、いくら先生に叱られても高い声で歌えませんでした。それでも学科のうちでは算術は好きな方でした。珠算も人よりは早い方でした。
同じクラスに立教大学総長の松下さんがいて、机を並べていました。今どうしているかわかりませんが、福田一郎という中学四年から海軍兵学校にはいった秀才もおりました。作家の北村小松さん、八戸文化協会の大橋さん、岩手放送の法師浜さん、なくなった社会党の西村菊次郎さんなどもいっしょでした。同じ学級というわけではありませんが、大下常吉さんや中島石蔵さんは、同じ町内でしたから遊び仲間でした。
 ともかくこどものころのわたしは、はにかみやで、人前でものを言ったりすることもなく、何時も隅の方に引っこんでばかりいる至って目だたない方でした。小さい時の友達は、どうして岩岡が政治をやるようになったかと思っているかも知れません。こどもの時のままではいけないと自分から努力したことはたしかです。今でも人前に出ることはあまり好みません。ただそれでは市長は勤まりませんから、人との折衝は大儀がらずにやっていますが、本質は引っこみ思案の方です。
 そんなわけでこどものころのわたしには、これといって楽しい思い出はありませんが、母校が立派な学校として発展することを、心から期待しております。(八戸市長)
 
思い出 松下正寿
私は明治三十四年四月十四日生れであるから明治四十一年四月に小学校に入学するはずであった。母(亀徳しず・和歌山県生まれ、東京築地の立教女学校卒業後、父松下一郎が八戸でキリスト教伝導するため共に来八、亀徳(きとく)正栄と結婚、二児を得、長男は正臣(青山学院教授)、次男が松下家を継ぎ松下正寿、当時の分娩法を改善するべく二十八歳で助産婦資格を得、西洋産婆と呼ばれた)もそのつもりでいたし、私もそう思っていた。私は体もちいさいし、おとなしい方だったので男の子には相手にされず、女の子だけと遊んでいた。女の子たちは私を「寿ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。私もいい気になって甘えていた。突如町役場から通知があって、登校せよとのことである。明治四十年の三月であった。町役場の間違いで一年早く入学することになったのである。母は非常にあわてたが折角一年早くしてくれたのに棄権するのは惜しいというので登校することになった。
ほかの子供たちは準備ができているから大喜びで登校したが私は何となく情けなかった。年も足りなかったが発育がおくれていたとみえて何につけ意気地がなかった。受持の先生は類家先生と言って一年生の専門家として有名であった。クラスのうちでも私が特に意気地がなかったので持別に面倒をみてくれた。そのうち段々に慣れどうやら一人前の子供になったが体操をさしても駄目、宇は特に下手と来ているから決して優秀とは言えなかった。
私に比べ断然光っていたのは北村小松君であった。町長北村益氏の長男という親の七光りもあったかも知れないが、非常に優秀であった。体も丈夫だし、絵もうまかった。その上当時飛行機が発明された時であったのでよく模型飛行機を作って我々の人気を集めた。そのほか優秀だったのは八重畑君、福本晃一郎君、藤田正照君等であったが今はみな故人になっている。そのほか現八戸市長岩岡徳兵衛氏が同級であった。遊んだ記憶はあるが特別な印象は残っていない。
 何年の時か覚えていないが八戸小学校から長者小学校が分離した。長者方面の児童は自動的に転校することになったわけである。この思い出は私にとって余り楽しいものではない。私は心から別離を惜しみたかった。ところが長者小学校へ行く子供たちは「こんな古くさい建物などにいないで新築の立派なところへ行くのだ」と言って大威張りするし、八戸小学校に残留する子供は「長者へ行く奴はザイゴの奴だ」と言って馬鹿にした。派閥意識、対立感というものは子供の時からあるものらしい。私は八戸小学校に残留した者であるがこういう情勢を非常に悲しく思ったことを記憶している。
 私はしっかりしている方でなかったから友だちに迷惑をかけた。スミをこぼして隣りの友だちのスミを使わせてもらったこともある。掃除当番になっても仕事の手順がわからないのでマゴマゴして友だちに自分の仕事をすっかりしてもらったこともある。体格検査の時ほかの子供の袴をはいて帰って来たので母が方々たずねてお返ししたこともある。絵が上手にかけないので友だちに手伝ってもらったこともある。私が友だちを助けた記憶はないが、助けてもらったことは沢山ある。要するに私の八戸小学校における生活は先生や友だちに世話になったことばかりである。おかげ様で私はどうやら他人様に大したご迷惑をかけない生活をしている。有り難いことである。少しは他人様のご用もしている。面倒くさいとは思うが小学校の時他人様にご迷惑をかけだのだから当然のことであると心得ている。
(立教大学総長)
 
ああ、半世紀  北村小松
突然八戸にいる従妹から「これを見たらなつかしいでしょう。」とデーリー東北に大橋英郎さんが書かれた「私の級友⑥」の切りぬきを送って来たので、私は、なつかしいもなつかしかったがそれ以上にびっくりしました。
 というのは、私たち八戸小学校の級友がいつ、こういう写真をとったのだろうということがどうしても思い出せないし、私は、この写真をもっていないからです。だから松下正寿さん、岩岡徳兵衛市長さん、西村菊次郎さん、法師浜直吉さん、私……と説明がついているので、「アレ、なるほど、これが俺か。」と思ったほどで、ほかの方々は誰なのか一々当てられないのです。
 小学校の時のこういう写真も中学校の時の級友達との写真も一つもないのは家が大火の時焼けてしまったせいかも分りません。
 なるほど考えて見れば私が八戸小学校に入学してから半世紀はたっているのです。
 それに今の教頭先生が屋敷が隣り合わせになっていて大きな造り醤油蔵が並んでいた阿部さんで、そのお宅に毎晩のように「勉強だ」といって遊びに行っていた頃、まだ小さかったそのお宅の千代吉先生だとは!これは全く私には寝耳に水のようなことでした。
阿部先生に模型飛行機の作り方など伝授し、夜になってからは今の柏崎小学校が出来る前の空き地でローソクをつけて飛ばすなどという悪いことまでけしかけた私なのです。
昔のことをふりかえって見ると、まるで今の八戸では考えられない事が思い出として残るのです。
私の家があった長横町など電燈がまだともらない前は夜になるとまっくらになり、からすうりのなか身をえぐりぬいたちょうちんをつけて歩いたり、暗くなるとこうもりが飛ぶので古ゾーリを放り上げると、それについて地上すれすれまで急降下して来るのを面白がったりした。といってみたところで、ただ今の長横町のたたずまいからは、とてもそんなことは半世紀前に八戸小学校にいた人でなければ想像も出来ないでしょう。
あの頃、嬉しかったのは開校記念日にだったでしょうか。つるこまんじゆうというお菓子を学校から貰う事でしたし、奇妙に印象に残っているのは、十一月三日に各クラスの窓のところにかざる額を各クラスで秘密の中に競作をした事です。色々なデザインのものがあったと思いますが、その日は、つまり我々の年代の天長節というものであって明治天皇がお生れになった日だったという事です。何と明治は遠くなりにけるかなです。病院から退院した後の身なので頭の回転も悪くロクな文章の書けない事をおわびいたします。
 今となっては私には自分が出た学校の校歌の作詞をさせて頂いた事が何よりの光栄に思われます。そしてあの作曲をした友人故杉山長谷夫氏(御存知ない方があるかも知れませんが例の「キンラン、ドンスノ オビシメナガラ、ハナヨメゴリョウハ ナゼナクノダロ:」等々名曲の作曲者です。)が重病を(ガンでした。)押して私がさいそくに行くと、「これでいいかな、こっちがいいかい」とピアノに向ってあの校歌の曲をひいて見ながら、なお自分でもなっとく出来るようにやって呉れた苦悩の横顔があった事も御知らせしておきたいと思います。
 八戸小学校が皆様の手で益々発展いたしますよう遠くから祈っております。(作家)
 北村小松(ぎたむら・こまつ) 明治三六~昭和三九(一九〇三~一九六四)益の長男。慶応大学文学部の学生時代から創作活動をして文壇に認められ八戸出身の友人、中村誠一の紹介で女優花柳はるみを知り、松竹キネマに関係することとなったが多趣味、多才の人であった。大正八年慶大英文科に入学した日、東京日日新聞児童映画脚本募集に応募して三等に人選した。翌年小山内薫の門下となり松竹キネマ研究所に入った。卒業論文「ユージン・オニール研究」。卒業後、松竹蒲田撮影所脚本部に入社して戯曲脚本の創作活動を行なう。昭和三年、戯曲集「猿からもらった柿の種」(原始社)を刊行して作家としての地位を確立し、昭和六年、本邦最初のトーキー映画「マダムと女房」のシナリオを書く。「東日」や「読売」に連載小説を掲載。昭和一三年松竹映画を退社、戦争に文士として従軍、戦時中「燃ゆる大空」(昭和一七年講談社刊)で一世を風びし、ほかに従軍体験から「基地」などを書く。戦後パージになり、のち作家活動に復帰して文士劇などで活躍した。作家活動と相まって、広い趣味と多才ぶりを発揮、自家用ナンバー第一号の取得、社交ダンス界の通、模型飛行機界の先達、さらには宇宙もの、航空ものの開拓者であった。楽天的な性格から、「小松チャン」と愛称され、つき合いも広かった。(東奥日報青森県人名大事典から)