2007年7月1日日曜日

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう私のありがとう 1

第一回私のありがとう
売市のギャラリーみちで第一回私のありがとう聞き取り会を開催。
出席者は女性九名に男性四名
生きてることは苦労の連続、いいことの方が少ないもの、だから、たまに嬉しいことがあると食事をしてお祝いをする。いいことにはなかなか会えない、釈迦もいう人生は四苦八苦だと。四苦とは生・老・病・死のことだ。生きるのがまず苦労、おまんまにありつかないと生きていけないな。そのため人に使われて汗を流して渡世しようとするな。人に好かれないと仕事もこないから、いつもニコニコしてみせる。私はアナターの敵じゃあーりません。妙な表記をしているのは、ここはアメリカ人が言ってると思え。アメリカには様々な    人種がいるから、会った人間にニヤニヤして見せる、私はあなたに危害を加えませんと。
日本人は島国だから、やたらに男がニヤニヤするなと教える。媚びるのは女の特性だ。ついでに教えるが八苦は愛別離苦(あいべつりく・親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく・求めるものの得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・体で感ずるから悩み苦しむ、生きてるうちはこれから離れられない)を指す。これをあわせて四苦八苦というな。
筆者などもその煩悩の最中に居る居る。六十過ぎてもまだ、モタモタしておるぞ。若い人が悩むのも当然だ。
さて、今回のありがとうは、先ず出町さん。この人のご主人は五輪選手、おお、スピードスケートの出町選手かと記憶されている人も多いと思うが、この人は若くして亡くなった。奥さんと二人の子供を残して。子供は六歳と三歳。奥さんは八戸生まれではないため、どうしていいかが判らない。親戚も親も兄弟もいない一人ポッチ。また、この出町選手はいい男だったんだ。
競技者としても指導者としても将来を嘱望された人物。出町嘉明、でまちよしあき・昭和十八年八幡生まれ、光星高校から日大に進学。昭和三十七年、八戸で開催された全国高校選手権で五千メートルで優勝、気さくで磊落、大試合でも物怖じしない性格が開花したのは昭和四十三年のインスブルックでのユニバシアード、世界の強豪と戦い堂々三位、日章旗を掲げた。フランス、グルノーブルで開催された五輪にも出場するも、最も得意の一万メートルがふるわず引退。同時代に北海道出身、明治大学卒の五千メートル世界記録の鈴木恵一選手がいた。
出町選手は埼玉コカコーラに籍を置いていた。が八戸に戻り後進の指導、昭和五十一年の盛岡国体では監督、このとき青森県高校男子が団体スピードスケートで優勝。五十三年軽井沢で開催の国体にも監督として出場予定だったが、肝硬変で急死、そして奥さんの苦労が開始された。
亡くなった直後は何も手がつかない、子供たちがお腹がすいたと言っても、パン買って食べてとお金を渡しては泣いた。これでもう涙が涸れたと思うほど泣いても、翌日になるとまた涙がでる。
そんな中、親身になって相談にのってくれたのがスケート仲間、元気を出して、残された子供たちをしっかり育てなければダメ、それにはあなたが強い気持ちをもたなければいけないと、寄ると触るとで、皆が励ます。
そんな声に励まされたのか、泣くだけ泣いて心が落ち着いたのか薦めにしたがって八戸市役所に勤務。そんななか、NHKの連続ドラマ、マー姉ちゃん(まーねえちゃん)を見た。昭和五十四年四月から九月まで放送された、漫画家・長谷川町子の自伝「サザエさんうちあけ話」で、主人公マリ子は、長谷川町子の姉・鞠子である。サザエさん誕生までの歩みと、そのこぼれ話を中心に熊谷真実の主演で描いた。(妹のマチ子役の田中裕子より年下であった)配役・磯野マリ子:熊谷真実 、磯野マチ子を田中裕子、恩師の漫画家田河水泡を愛川欽也、母親役に藤田弓子と豪華キャスト。
そのドラマの中の言葉が生涯の支えとなる。
それは、「明日のことを思いわずらうことなかれ、今日一日に感謝しよう」というもの。ただぼんやりとテレビを見ていれば気づかない言葉が奥さんの胸をえぐった。
それから晴れ晴れとした気持ちを持つことが出来るようになり、役所勤めも苦にならなくなる。子供たちも次第に成長、結婚し孫も見ることができた。役所を無事勤め上げ、今は昔の役所仲間と楽しい趣味の世界に時間をついやす。
今が一番楽しいと話す奥さんの屈託のない笑顔に乾杯。毎日が楽しい人こそ人生の勝者なのだから。そして、弱くめげそうな自分を自分自身が励まし生き続けることができたから、自分自身にありがとうだと言われる。その通りだ、自分がなければ全てなし、いつでも今が勝負の人生さ。
さてつぎは室岡さん。ご主人はNTT勤務、ご自身は日舞をされる。日舞にも様々な流派があるが、室岡さんの所属するのは藤間流、この流派の祖師は、藤間勘兵衞、武州入間郡川越在藤間村の出生で、能の狂言師。宝永元年(1704)に江戸へ出て、日本橋二丁目に住み踊りの師匠となり、歌舞伎の振付師に取立てられた。尾上菊五郎、松本幸四郎などに伝わり現在は六世藤間勘兵衞、四代目の尾上松緑。日舞の中でも由緒正しい系統。
踊りは楽しい、体を動かすし、頭脳にも良い作用をする、ぜひ皆さんにもお勧めすると、なかなか爽やかな奥さん。保険の仕事についているそうで、話は上手だし笑顔が素敵、こうした奥さんをおもちのご主人はさぞ幸せだろうと思い、奥さんは「ご主人にありがとう」と言わないのと聞いたら、なんと、有難うというのは私の主人の方で、ご飯を作ってくれて有難う、おいしかったありがとうと日々感謝の言葉を得ているそうだ。
これを聞いて考えたな。あまり女房にありがとうというと、聞き慣れるのか、増長するな、誰が?女房だよ。どうも世の中は女の方が図々しいようにできているな。
亭主は元気で留守がいいだって? フン、定年になりゃ行くところもねえや。毎日家でごろごろしてやるのも薬だ。
少しは亭主のありがたみを知れだぞ。
さて、ギャラリーみちのある売市は根城小学校の学区、その百年史から売市の歴史を見てみよう。
明治九年に売市小学校として誕生、明治二十年に売市尋常小学校となり、沼館分校を有し、大正七年に笹子分教室を設けたとある。この笹子分教室の史料があるので掲載。
売市(荒谷)小学校のこと
 今、五十才以上の方ならば記憶に残っていると思われます。
 ひとまね、コマネ、荒谷の狐、カマスさはいって、ドンカラリン
 子供等のいわゆる童謡というのでしょう。古くは、売市と呼ばないで荒谷と称んだようです。
 今の新組の十字路から大橋方面に分岐してちょっと上り坂になっている辺りは深い沢で、大木が繁り昼でも淋しいところだったそうです。しもてが通称長恨堤とよぶ湿地なので、当時を偲んでも狐狸の住みそうな感になります。
 現在の通称新組のことを、三軒家とも呼んで、三軒しか住家がなく此処に八戸藩が、徒士町の外に、上組町、新組町などに徒士、即ち藩士を置くために間口八間、奥行二十三間の屋敷を与えたので新組とも呼んだのでしょう。新組町は八戸市街地から三戸方面に至り、右手は大字売市、左手は大字沢里で公簿には、新組、新組町というのがありません。通称呼名の新組町十字路から左へ上り坂になっております。うしろの左角が、大字沢里字沢里下一番地で、此処から八戸市街地寄りへ、二番地、三番地となり、二番地が現在の八戸警察官の派出所のうしろ、三番地がつい昨年まで、桜木町と呼ばれ、今は根城一丁目と改められ一筆十八町歩でいわゆる新組堤と呼んだところです。沢里下には三番地で終わり以下の地番がありませんでした。
 この沢里下二番地に明治五年学制発布されてから四年目の明治九年荒谷小学校が創立されたと伝承されております。創立されるまでは、長根の天満宮社地に隣接していた奥州南部糠部郡三十三観音第十一番、横枕観音堂に、寺小屋式で学業がはじめられたとのことなどが伝承され、このためかどうかはわからないが、現在は、横枕正観世音は、八戸市長者山西面の南宗寺に祀られている。この横枕観音堂舎のあった下手あたり一帯は観音下という字名があるだけであります。
 荒谷小学校が明治二十八年十一月に売市の中央、天満様の社地の一角に移転というか、新築されて売市小学校と校名がつけられて、沼館と笹子の分教場を持つ本校となったのです。
 新組堤と称ばれた(現在の桜木町住宅地帯)は八戸藩の三番堀で満々と水をたたえて長根堤とともに春から秋まで水田用水として城下、沼舘、小中野地区の一部まで、かんがい用水として重要な溜でした。冬期間になると、新組堤に天然の氷を凍らせ採氷して新荒町の上り坂になる下手に水音を建て貯蔵、八戸港からの水産物冷凍用に使用したのでした。冬期間の白山おろしの寒風に結氷した氷は、厚さが尺五寸位もあって、当時は北海道錬場に出稼する以外に生業のほかの収入がなかった時代、相当の経済を助けたのです。
 これらの採氷権は、売市壮年団が主体で、野沢扇治氏(現、野沢県議厳父)が永年団長の職にありました。
このような地場生産天然氷も、時世の進展と衛生思想の向上とともに保氷が禁止された頃は売市小学校が、根城字塚に移転になる頃でした。
 私立笹子教育所 大久保金太郎
大久保兼松家(私の実家)に笹子教育所が開設されたのが明治四十二年、私の入学が四十五年で卒業は大正七年でした。いろいろ事情があったのでしょう、卒業時教育所は、大久保与十郎氏宅(現与一氏宅)に移転していました。その年の六月一日に売市尋常小学校笹子分教場が、現在の笹子生活館のある所に創立されたのでした。
私たち一年から六年までを厳しく指導して下さいました。羽織はかまに威儀を正した先生、ポッポ(着物)にワラゾウリの私たち。粗末な勉強道具、赤ん坊を背負う者、妹を連れてくる者等いろいろでした。しかし、私たちはこの教育の火をたやすまいと必死でした。
 現在の分校を、そして子供たちを見るにつけ、万感胸にこみあげてくるものを覚えるのは、けだし、私だけのことでしようか。
売市国民学校笹子分教場 大久保茂
私は、昭和二十年四月に売市国民学校笹子分教場に入学しましたが、昭和二十二年に校名改称があり、昭和二十五年の卒業の時には、根城小学校笹子分校となっていました。
学校は、部落の中心、通称「カド水」にありました。マサ屋根の古びた校舎で、教室が一つに職員室兼用の教員住宅がありました。現在の笹子生活館近くに分教場があったわけです。
 先生は入学時は栃内純一郎先生お一人、卒業時は渡辺鎮先生お一人が指導して下さいました。児童は、常に二十名前後と記憶しています。終戦を間にはさんだ、恵まれない時代でしたので、粗末な服装、勉強道具、遊具等しかありませんでしたし、代用食には閉口したものです。授業時間中の空襲警報で防空壕に走りました。手製のバット、ボール等で、野球をしたこと等、いろいろありましたが、今はただ、楽しい思い出となっています。