中村節子
○ 退職
父が向山駅で定年を迎えた。当時は五十五歳定年である。これを予測して八戸市糠塚に土地と家を五年前に買ってあった。家は中古であったので土地の奥の方に移動させ、道路に面した側に新築するのであるが、とりあえず古い家に引越すことになったのである。
母は私に退職しなさいという。そのかわり洋裁学校に入れてやるというのである。
自衛隊に就職して二年、特別国家公務員として優遇された職場であった。
八戸でこんなに良い条件の職場はみつかるのだろうか。しかし八戸から三沢への列車通勤はとても不便であった。向山駅からの通勤でさえ、特別に貨物列車に乗せてもらっていたのである。父の計らいで尻内、下田からと四人ぐらい一緒に乗っていた。それも父が現職のときはいいが、退職後もそんなにあまえてもいられない。三沢での一人暮らしは自身がない。特別な資格を持った事務員でもない。
何か手仕事でも身につけた方が得かも。
迷った末に裁縫のきらいな私は洋裁学校を選んだ。時に私は二十歳。姉も兄も就職をして親元をはなれている。弟の小学校卒業式を待って八戸に引越をした。
○ 引越
下北から八戸までの間六回引越をした。
私は引越が好きだった。友達と別れるのはさびしいけれど、新しい友達が出来るし、今度行くところはどんな所かと期待感があり、その土地土地で新しい発見があった。
親には転向手続きや教科書の入手とか苦労があったらしい。引越がおそくなったときは教科書が入手できず、友達から借りてきた教科書を母が書き写したこともあったと聞く。
さて、鉄道員の引越は貨車を使う。
ワム(有蓋車十五㌧車)を一両又は二両になることもあった。漬物石から物干し竿のはてまでも何でもかんでも積み込むのである。
りんご箱(当時は木箱)を何個も引越のために確保しておき、父がその箱を割り当てる。
「節子は何個必要か」「二個」、その二個に自分の物(衣類は別)を自分で詰めるのである。その箱に白いチョークでせつ子、せつ子と四方に書く。非番の駅員さんが手伝いに来て箱の蓋に釘を打ち縄でしばる。このあと詰め忘れが出てくる。子供のやることだからしかたないけれど、詰め忘れが出てくるたびにまだ釘を打ってない箱に入れる。そして必ず「せつ子ぼうし」とか「せつ子カサ」「セツ子長クツ」と書くのである。最小限の荷物を残し貨車に積み込む。
引越は子供達の卒業式や終業式が終わると一斉に始まる。まず定年退職の人から官舎をあけ後任者が入る。というぐあいに次々と動きだす。貨車が先に新任地に到着する。駅のホームに駅員さんが荷物を全部おろし、官舎に納まった頃私達家族が到着する。駅のホームに駅員さんがずらり並んで出迎えてくれる。
あるとき、その出迎えの駅員さんに「せつ子さんはどの人ですか」と聞かれた。父が「このこです」と私を示すとがっかりした様子にどうしたのかなと思ったら、運んだ荷物に「せつ子」と書いた箱がやたら多かったので「せつ子さんはきっと年頃の娘さんだろう。だから荷物が多いのだ」と思い、せつ子の箱を専門に運んだ人がいたというのである。
そのせつ子は中学生だったというので大笑いをした。
最後の引越で八戸へ移動してきたときは親戚の人が手伝いに来てくれたけれど、今までのようなにぎやかさはなかった。少し寂しかった。父はもっともっと寂しかったと思う。
○ 明治薬館
父は八戸駅(現本八戸)の伯○軒再就職、弟は一中へ、私は八戸文化服装学院(現文化専門学校)へと、八戸での新生活が始まった。
生活が落ち着いた頃に家の新築工事が始まり、秋に完成した。古い家から新築へ引越。
しばらくして古い家を借りたいという話が持ち上がった。八戸ガスが社宅を建てるが、建つ前に北海道から引越て来る人がいるというのである。社宅が出来るまでの短期間であるが社宅として借りたいということであった。蛯山さん一家が引越してきた。何日かして母が蛯山さんの奥さんをバス旅行に誘った。そのバスの中で奥さんが詩 吟をやったというのである。その詩吟のすばらしさに母は感動していた。
そして詩吟を習いたいと言い出した。義兄と私と三人で奥さんにお稽古をお願いした。
蛯山さんの話によると「北海道はすごく詩吟が盛んです。私が詩吟をやろうと思ったのは月謝が安かったから。八戸に来て詩吟教室を探したら、八日町の明治薬館という薬屋さんの二階が教室だと聞いたので行ってみたの。五、六人の会員さんが居たけれどテープレコーダーを聞きながら稽古していたわ。どうやらちゃんとした先生がいないらしいの。がっかりしたから、あそこへは行かない」
私は詩吟には興味がなかったので、何気なくこの話を聞いていたが、まさか七年後に明治薬館へ行って詩吟の世界に入ろうとは夢々思わなかった。我が家での稽古は日曜日ということもあって思うように続かず、五回ぐらいもやっただろうか。その内にガス会社の社宅が出来上がり蛯山さんは沼館へ引越していった。詩吟の稽古はそれっきりとなった。
明治薬館は八戸市に初めて詩吟教室が開かれた、いわゆる八戸詩吟の発祥地なのである。明治薬館の長女の知恵子さんは明治大学在学中に詩吟を始めた。卒業後は岳智会に入会して詩吟を続けた。八戸の実家に帰り詩吟教室を開いた。これが今から四十八年前のことである。集まった会員達が詩吟に面白みを持った頃、知恵子さんは結婚して東京に住むようになった。残された会員はあきらめきれず細々と稽古を続けていた。この会員の中に明治薬館のご主人、いわゆる知恵子さんの両親がいた。そこで知恵子さんにテープだけでもとお願いした。そしてテープレコーダーでの稽古が始まった。蛯山さんが教場を訪問したのはこの時だった。八戸の会員さん達の熱心さに心を動かされた知恵子さんは、里帰りのたびに実際に指導するようになった。
私が入門した頃は、当時の先輩達が先生となって、八戸市内に五ヶ所の詩吟教室が出来るほど発展していた。
明治薬館の教場は知恵子さんのお父さん(最上泰風先生)を会長とする翠風会で、師範はお母さんの最上翠岳先生である。そして知恵子さんは東京で活躍する桜井令岳先生であった。
この続はあとで記することにする。
○ 八戸文化服装学院
昭和三十六年八戸文化服装学院に入学。現在の市庁舎前ロータリーの向こう側、消防署のとなりに交番所があるが、以前は塩会社があった。その脇を入って行くと(堀端町)文化服装学院の校舎があった。現在の常海町にある四階建ての校舎は、四十一年に新築移転したもので、八戸文化専門学校と校名が改められている。
当時は中卒が入る本科(一年制と二年制)高卒以上の専攻科、その上の研究科、和裁科もあり私は専攻科に入った。部分縫いから始まり、ブラウス・スカート・ズボン・スーツ・オーバーコートの作り方、レース編みや一般教養科目もあった。授業が進むにつれて平面の布から立体的なものが仕上がる。編み物の時も楽しかったけれど、さらに物を作る楽しみ創造の喜びを知った。裁縫ぎらいが大好きに変わった。学校帰りに三春屋で服地を見るのも楽しみだった。専攻科は一年だけだったが色々な行事があった。遠足は白銀大火で中止となった。運動会は八戸小学校(現八戸市庁舎の所)の校庭を借りてやった。自分自身がモデルとなって自分の作品を発表するコスチュームショーは市民会館(現市庁舎のあたり)でやった。
冬、昼休み時間になると焼イモ屋が学校の前に来る。女の子ばかりの学校だから良く売れた。私も買った。おいしかった。あの焼イモ屋は毎日ピーピーとならして来ていたから、きっともうかったと思う。
○ 失業保険
在学中に心配なことが一つあった。学校には学友会(生徒会)があり、その会長に私が選ばれてしまったことである。本科二年又は研究科の人が去年のことがらを知っているので、その人達から会長を選んだ方が良いと言ったのに、専攻科から選ぶのだ、協力するからと何が何でも押し付けられた形になった。運動会もコスチュームショーも学友会主催であるので、プログラム等に会長名が出る。それが困るのである。担任の先生にお願いした。「会長として私の名前が出ると困るのです。出さないで下さい。そうでなければ学友会の会長を降りたいのです」担任の先生はハッとしたように「ひょっとして失業保険もらっている?」「ハイ、それです」
私は自衛隊を依願退職したのである。依願退職、まして学校に入っているとなれば失業保険は支給されないよと言って、自衛隊では離職証明書を出してくれなかった。「手続きしてだめならあきらめますから、とにかく証明書を下さい」と再三お願いしてやっと出してもらい、職業安定所へ持って行った。当時の職安は下組町にあった。職安では首をかしげた。「こういうのに支給できるかなあ」と、とにかく洋裁学校に在学していることを知られないように、働く意思があるところを見せなければならない。根気よく職安に通った結果、日数はかかったけれど受給できることに決まった。それなのに働きもしないで学校に通っていることが知れたら、支給が打ち切られるのではないかと心配したのである。
「大丈夫よ、心配いらない」と担任の先生は言ったけれど、月に一度学校をぬけだし職安へ行き、必要な書類を提出し失業保険を現金でもらってくるまで、とても心配だった。
心配したお陰かどうか無事六ヶ月もらった。四十年以上の前のことだから、とっくに時効になっていると思う。