民生委員のころ
鈴木 弥生
小春日和の暖かい或る日、町内会の役員の方々がお揃いでお見えになりました。昭和49年の頃でありました。お話は民生委員の候補者を町内から推せんするのだが、その仕事を引受けてくれないかという、おさそいでありました。
売市に移って来て9年目の頃で、ちょうど子供達も大きくなり、手がかからなくなった時でもあったので、何か習いごとでもと思っていた矢先でもありました。お話には興味をひかれました。
しかし、事務的な仕事には経験が乏しい事などを思って、果して務まるかと、不安がつきまとい、決心がつきかねておりました。けれどもお話はどんどん進められ、12月には辞令をいただくようになってしまいました。町内からは植木さんも一緒に推せんされていました。
辞令をいただいた早々に、例会の案内がありました。民生委員の例会というのが、毎月定期的に開かれ、根城地区の委員27名全員が集まり、新しい仕事の打合せ、調査の報告などが行なわれますが、先輩委員の経験談、苦心談が良い勉強になりました。
地区委員の代表を総務と言いますが、古参の田村弥五蔵先生がお引受けになって、おせわされることになりました。
研修会も度々開かれました。ここでも仕事の実務をいろいろ聞かせていただきました。先輩方の事例の発表は、仕事の実際を取扱う上に大変参考になりました。
しかし、むずかしかったのは、福祉の適用を受ける証明でありました。適用を希望する方には強い同情の気持を持ちますが、適用に近いきわどい境にあるものなどには、随分なやみました。
民生委員の仕事は、全面的に福祉の仕事でありますが、福祉団体の運営にも協力する仕事もありました。例えば日本赤十字社の仕事、或は赤い羽根募金や福祉協議会の仕事などがそれであります。
町内では、赤い羽根募金や歳末助け合い募金、日赤の社費寄付などを、町内の予算に計上して、一般からの募金をしませんでした。
その内、日赤の社費は社員個人が、奉仕の心を社費として負担するのが建前であるということから、日赤の社員を募集することになりました。
町内を戸別訪問して入会を勧誘しました。植木さんは有功章社員を多数勧誘しました。久慈さんも協力してくれました。
その結果、金色有功章社員、銀色有功章社員、金色特別社員、銀色特別社員、正社員等々に多数の方々が申込んで下さいまして好成績でありました。中でも互光産業㈱さんでは金色有功章寄付金を2年に亘って行うなどの協力ぶりでありました。この事は根城地区全体の成績を押し上げ、全市的にみても成績の上位地区になり、例会では田村総務さんも上気嫌で成績を発表されました。
何れは、赤い羽根も歳末助け合いの募金でも同じように検討する必要があるのではないかと思いました、
民生委員を3期9年間無事務めさせていただきましたが、この仕事を通じて、多くの方々の知遇をいただき、教えられ、助けられることが沢山ありました。又年1回行なわれる研修旅行では、他都市の福祉の新しい施設を見学する機会にも恵まれ、9年間は決して長い期間ではありませんでした。私の人生に、大きな剌激になったことは確であります。このことは常に感謝の気持で一杯でおります。
町内会奮戦記
鈴木 操
私が町内会に初めてつながりを待ったのは、昭和17年、30歳の時のことでした。戦争中のことで町内会は行政の末端の仕事を色々と背負っておりました。
当持私は、鳥屋部町に住んでおりました。町内会に協力してほしいというお話がありました。当時若い者は召集されて戦地に行くか、工場で生産に、或は食糧増産に励んでいる時で、遊んでいる者なぞ無いときでした。再三のお話で、結局お手伝いすることになりました。
町内会長は松原富男という方で、前に八戸銀行の頭取もされた事があり、又吹揚にナシ畑や栗の木畑を広く持っておられ、それに貸家を30戸程建て、ご自分の名前を採って松富町とつけたという、八戸でもトップクラスの資産家ということでした。
○ 戦時中の町内会
頼まれた仕事は、総務班長と経済班長という立派な名前でしたが、他に警防班長、教化班長、婦人班長、健民班長が居りました。実際は名目だけで、総務班長が一人で全部こなさなければならない本当の雑務係でした。最初からそう説明されました。
辞令をもらって、初めて手がけた仕事は、生活物資の配給でした。小豆やもち米などの食料品、足袋や手拭のような衣料品、酒やたばこなどの嗜好品、それもたっぷりくるのではなく、ほんの少々の数量でしたので、配給の順番を決めて、隣組長を通じて配給切符で配るのでした。それでも当った人には喜ばれましたが、はずれた人は何も言いませんが、顔を見るのはつらいものでした。それよりももっとつらいことは、米の供出要請や債券の割当てでした。町内には大きな地主(田んぼを持っている者)が3~4人居り、その人達には秋に小作米が入ります。その中から、1~2俵(4斗が一俵)位、市に売ってくれと要請するのでした。それを供出米と言っていました。翼賛(よくさん・力をそえて(天子などを)たすけること)壮年団と町内会が市の手先となって地主の説得に当るのでした。地主は二重取りだと怒りをぶちまけます。たしかに市中には公定価の何倍の価でヤミ米が流れていました。
市の説明では、供出米を病人などに特配して、すこしでもひもじさを救いたいという…納得のゆく説明でした。
叉そのような収入の多い人は、町内会に割当てられる戦時債券(戦時に、国家が軍事費調達のために発行する公債。軍事公債)なども、沢山買ってもらわなければならない相手です。債券は1枚10円から20円位でした。随分各方面に押し付けました。今でも、その時の末消化のため引受けた債券が2~30枚手許にありますが、子供のおもちゃにもなりません。当時は3千円も出せば、まず住める一戸建の住宅が建てられたものです。
○ 戦争末期の町内会
戦争が苛烈になるにつれて、物資の配給はだんだんすくなくなってきました。反面出征兵士の見送りや、防空演習、金属の回収、慰問袋を差出す割当などが多くなり、町内から持って行かれるものが多くなりました。
昭和18年になってからは、高館の飛行場の整備や、是川村の上り街道近辺の陣地構築に、人夫代りに勤労奉仕という名目で、働く人の割当てがあるようになりました。言葉を代えて言えば、人夫の手配でした。勿論これらの仕事は奉仕であって賃金が支払われるわけではありません。ふだん労働をした事のない人も、セメントや木材をリヤカーやソリで運搬したり、穴掘りなどの仕事をしました。
勿論毎日の奉仕ではなく、月のうち1~2回の出勤だったので、続いたものと思います。
○ 町内会の仕事にお別れ
私の町内会の仕事は2ヵ年間という、短かい期間で終りました。昭和19年に月刊評論社という雑誌社に勤めることになったためであります 2ヵ年間ではありましたが、随分動き回りました。仕事には追い廻されましたが、思うように、自由にやらせてもらったので、面白味もありました。松原会長は「問題が起きたら、私が処理するから、どんどんやって下さい」と言って、命令をしたことはなく、親分肌の人でした。
仕事をやめてからの感じですが、供出させられた人、債券を押し付けられた人達は、さぞ不愉快な思いをしたことであるうと、反省の念しきりであります。
聖戦遂行という美名に、一点の疑いも持たぬ不敏(ふびん・才知・才能に乏しいこと。多く自分について、へりくだって言う時に用いる)のなせる業でした。
昭和22年のポツダム政令15号によれば、私の町内会での行動は、公職追放に問われるものであったであろうと、政令を何度も何度も読み返しました。
○ 多くの知人を得る
町内会は、市の大政翼賛会(第2次近衛内閣の下で新体制運動の結果結成された国民統制組織。各政党は解党、また産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合、部落会・町内会・隣組を末端組織とした)、或は翼賛壮年団と関連がありましたので、それらの団休の幹部とお近づきとなり、おかげで私の人脈は豊かになりました。
市の翼賛会の事務局長の永田正太郎(後の佐々木正太郎デーリー東北社長)三戸郡翼賛会事務局長の峯正太郎、同総務の成田昌彦、熊谷義雄、橋本八右衛門、広田豊柳、大久保弥三郎、(田口豊洲団長はその前からお近づきいただいてました)等の方々が私の名簿に記されております。私の貴重な財産であり、払の人生に大きな影響を及ぼした方々であります。
○ 鳥屋部町から南売市へ
私が鳥屋部町から南売市に移って来だのは、昭和41年早々のことでありました。家は南売市のバス停から100米ほど西の方に入った大変静かな畑の中にありました。家の前は柿の木畑で、初夏の柿の葉の美しさを、この時初めて知りました。
又初夏の候には近くの高い木の天辺で鳴く「カッコー」の明るい声は、大げさに言えば、この世の天国という感の深いものでした。
勤め先の商工会議所の仕事に没頭していた昭和44年の春の頃、南売市の町内会からお呼びがあり、又お手伝い(監事)することになりました。それ以来平成4年の春までの23年間おつきあいさせていただき、居心地が良く、つい長居してしまいました。
その間、いつ頃か忘れましたが、朝の新聞を広げて一番先に目の行くところは、投書欄になっておりました。そこには、時々町内会に関することが投稿されており、貴重な意見があり、要望があり、又時には批判や手きびしい非難が書かれており、教えられるところが沢山ありました。世間の眼はするどいものだと思い知らされました。
○ 町内会とともに
町内会の運営は信頼性、堅実性、永続性が基本だと言われています。
そこに住んでいる者は、地域団体である町内会とは、何らかの形で、かかわりを持っていて、のがれられないものです。従って町内会は住民が町内会から圧迫やわずらわしさを感じないよう、親しさと安上りの団体であることを目標に運営すべきであると心がけてきました。
しかし、あまりそれにのみこだわりますと、どうしても事業は「地味」になりがちです。今考えてみれば、時には一点豪華主義も取入れて会員の心に楽しみと喜びを持たせるべきであったと、いささか反省しております。