2007年11月1日木曜日

八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる2

公会堂の基金が設けられ、その財源として法師浜氏から貰い受けた八戸小唄の著作権がある。前号はデーリー東北新聞に報じられたいきさつを掲載したが、今号は法師浜氏自身が出版した書物から往時を再度、偲んでみる。
唄に夜明けたかもめの港
法師浜桜白
 発端は「八戸を語る」座談会
昭和6年2月、鮫の石田家で
 八戸小唄が生まれたのは昭和六年であるが、その制作の口火になったのは「八戸を語る」座談会であった。その座談会はその年の二月三日に東京日日新聞社の主催で鮫石田家で聞かれた。出席者は
 八戸市長神田重雄、市会議長遠山景雄、市会議員石橋要吉、水産試験場長奥津興美(熊沢楠吉代理)、磐城セメント会社湊工業所長目崎恒男、五十九銀行八戸支店長今井梅吉、元芸妓三平こと石橋とら、芸妓才三こと橋本こと、東京日日青森通信部主任菊池武雄、東日八戸専売所長・市会議員近藤元二、東日八戸通信部主任法師浜直吉
 話は新興都市としての八戸は、町を発展するには、なにをやるべきかが中心話題であった。かたい話、やわらかい話、話の中には、ちょいちょい三味線的な伴奏がはいるので笑い声が絶えなかった。座談会の記録がのこっているので、その話のところどころを抜粋してみる。
 神田 築港という話になれば、とにかくこの地方の先覚者である浦山多吉という人が明治の初年に目ろんだ計画です。今と違って旧藩時代の鮫港は海運界から広く知られておったもので、岩手は盛岡から、県内は野辺地方面、秋田などまでこの鮫で物資が呑吐(どんと・呑んだり吐いたりすること)されていたものだそうです。この地方から出るのを三戸大豆といい搾粕(しぼりかす)などは旧藩時代、藩が直接扱い、千石船で鮫から積み出し江戸へもって行って、いろいろな物資と替えてきたといいます。浦山という人は実に頭のいい人だったですネ。
 遠山 目崎さんのような人が後ろについていたら成功した人でしょう。
 目崎 しかし尻内まで鉄道をもって来たということだけでも浦山氏の力大なりといわなければなりませんネ。
 神田 鉄道が開通したのがたしか明治十七年(編集部注・神田の記憶違い・明治二十四年九月一日)の一月四日か五日だったと記憶しています。ちょうどそのとき私は青森から乗って来たので覚えております。
 今井 橋本さん(河内屋)の長根の桜は、その記念だったといいますネ。
 菊池 セメントの輸送は全部海送ですか。
 目崎 現在のところ大部分海送です。まず六割は船ですネ。
 遠山 有名な幕府時代の測量家伊能忠敬がこの地方を測量したときは鮫に泊っておったようです。
 遠山 内舟渡で地下を七間掘ったら、ホッキ(北寄)貝が出たといいます。たしかにあの辺は入り江だったことがわかります。
 石橋 そのころの小中野町と鮫町は全部遊郭でした。今のような商店街になったのは明治四十年この方です。もとは小中野から鮫にかけて遊女街と漁師の二つだけでした。
 菊池 話はちょっと変わりますが、八戸の名物というのはどんなのがありますか。
 近藤 八戸は名物だらけです。行事ではえんぶり、打毬、三社祭り、それに天然記念物うみねこの蕪島、八戸せんべい、むし菊、桐細工……。
 神田 有名な名物はここにおりますョ(三平、才三さんを指して)。
 三平 八戸の名物はせんべいの次はほんとに女ですョ。
 才三 八戸女とよくいわれますが、いったいどこがいいのでしょうネ。
 石橋 八戸女は親切で男に迷わぬというところがいい:・
 三平 いや、それはウソです。八戸女だって人間ですもの、時と場合によっては迷いもするし、ほれもしますが商売に熱心だというところが一番いいのでしょう。
 菊池 八戸で代表的な、なにか八戸節とでもいうような唄がありますか。
 才三 あります、白銀ころし、おしまこ、これは盆踊りの唄ですが、だいぶ有名です。ところが先年田辺という音楽研究家が民謡研究に来られたとき「白銀ころし」は八戸在来の唄ではなく、新潟に古くからあるもので、こっちへ渡ってから三百年くらいになる。たぶん漁師がもってきたものだろうといわれました。
 三平 白銀ころしは「白銀ころばし」というのは本当だそうですョ。花巻方面や秋田地方では八戸節といっているようですネ。
 才三 他所ではたいてい八戸節といいますが、いくら八戸節でも元は新潟節ですから……それに節回しもちょっと一般向きじゃありませんし、あまり上品でもありませんから、なにか適当なものがないかしらと思っております。旅の方が見えると、きっと八戸の唄を……と望まれますが、なにがいいやら迷います。
 菊池 八戸小唄というようなものを作って八戸市を紹介するということも必要ですネ。
 才三 それで私は考えております。八戸の宣伝にもなりますし市になった記念にもなるように誰か名のある方に願って名のある方の作曲で八戸というものがピリッと頭にしみこむような唄がほしいのです。それは計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから市長さん方のお声がかりででもやっていただくようにお願いいたします。
「民謡調で」と神田市長
むずかしかった歌い出し
 「八戸を語る」座談会で八戸の発展の基礎は、まず「八戸」という名を世に宣伝する必要があるということから八戸小唄を作ってほしいとの話があった「八戸小唄由来もの語り」はこんにちまでに、なんべんか語り、書き、放送したことか、いま小唄の話をするには、いささか気がひけるが同じことを述べなければならない。その年の八月ごろ、座談会の小唄の話を思い出し、神田重雄市長にそのことを相談したら市長もまた大いにのり気になった。いまの市政記者クラブをそのころは記者連盟といったかもしれない。各社の先輩たちにも話したら、みな賛成してくれた。ある日神田市長の部屋にみな集まったとき、市長の発言で「八戸小唄」をつくろうということになった。まず、作詩をどうするか、作曲を誰にするかなどの話から、詩は一人でなければならないという話で結局発案者のわたくしに一任するということになった。曲に対して市長は「いまはやりの新曲は長もちしない、古くても民謡調をほしい」という希望であった。そのころ、民謡の歌い手上野翁桃氏の師で仙台の民謡研究家で尺八をよくする後藤桃水という人があるとの話が出て上野氏に依頼し照会したところ、作曲を引きうけることになった。作詩は八月から九月にかけてであった。家の居間の火のないいろりばたで、蚊を追いながら唄を作った。後になって、よくひとに問われることは、この唄でいちばん苦心したのはなにかということであるが、どんな唄でも、作詩のときにいちばん考えるのは第一節、一行目の歌い出しである。つまり「唄に夜明けたかもめの港」これが出来るまでには、ちょっと時間がかかった。最初は「唄に明けたよ、かもめの港」であった。そのときは四節を作って市役所の担当菊池正太郎勧業主任にわたした。そのときはまだ作詩者の名前を考えていなかったが後になって、レコードをつくるという段階になると何かきめなければならない。そのとき座談会の才三さんの話を思い出した「誰か名のある方に願って、名のある方の作曲で……」わたくしは名のある方ではない。そこで神田市長の名はもっともふさわしいのではあるまいかと思った。市長にそのことを願ったら「フフフ」と笑った。わたくしは自分の名を伏せて神田市長の名前と並べて市政記者と書いた。そのとき、北村(益)さんから声がかかり、制作側の仲間になって「北村古心」の名も加えたこともあった。そのころ制作という名目を使わず制作の意味をひっくるめて合作という文字を用いた。作曲が出来たのは十月の下旬のころと記憶する。作曲者後藤桃水氏は踊りの振り付けの型を伝えるために吉木桃園女史を連れて八戸をたずねた。鮫の石田家の主人石田正太郎さんは、八戸小唄の制作のためなら、あらゆる協力をするということで、まず後藤氏らを石田家へ案内した。小中野、鮫の両見番から芸妓代表数人ずつ集まってもらった。作曲といっても後藤さんの持ってきた曲は、おたまじゃくしの音譜ではなく、尺八の譜であった。一同、後藤さんをとりまいて、作曲の説明をきいた。た とえば歌詩を十分に表現するために、波やかもめを心においてつくった。また振り付けも、はちのへとかもめや波を表現するようにつくったという話であった、さて唄の伝授にはいった。後藤さんは自ら手拍子をしながら「唄によあけた……」とはじめる。みんなは、節をそろえて、そのあとをつづく、節の口伝であった。「もし気にいらないところがあったら、遠慮なく注文してほしい」ということで、一ヵ所だけ、わたくしは注文をつけたら、さっそく直し、どうやら出来た。それには伴奏が必要である。芸妓連中は、すぐその場で三味線の伴奏をつくる。チリシャン、チリシャンも出来た。ここで思い出したのはスケートのことである。せっかくの八戸小唄だから名物のスケートをぜひ入れてほしいとの要望があったので、みんながけいこをしている間に、わたくしは石田家の帳場で「こ雪さらさら……」の五節をつくった。こんどは振り付けである。吉木桃園さんは紫紺のはかまをはいた先生のようなかたちで、踊ってみせた。なにか幼稚園の遊戯のような踊りだとそのとき思った。後で聞いたことだが、この振り付けは宮城県塩釜市の三桝よしさんという人の振り付けときいた。踊りは何枚かの振り付けの写真を 見ながら、吉木さんを中心に踊った。みんな本職ばかりなので、その手はもっとこの方がいいとか、足が引いた方がいいとか相談しながら踊った。まず、唄も踊りもどうやら出来た。ホッとした思いであった。けれどもわたくしは、そのとき、この曲はなにかものたりないように思われた。ところが石田さんは「ウン、これはいける」といった。これで八戸小唄は完成した。石田さんはさっそく玄関前で小唄完成記念の写真を撮った。
レコードまず千枚吹込む
「恋の影」から「月の影」へ
 鮫浦のタ景はむかしから絶景といわれた。藩制時代から八戸八景にうたわれたのはいくたびもあった。八戸小唄が生まれたころ、夕陽は八甲田山に沈むと旅舎石田家の突き出しの下に波がサラサラと押してきていた。蕪島には橋があって、その木橋をわたって島へ渡った。旧暦三月三日の島のお祭りの日などは橋だけで渡りきれず渡し舟でわたった。蕪島の群鴎は古い八景の中にもかぞえられている。いまは「うみねこ」と呼ぶほうが多くなったが、むかしはかもめのほうが多く漁師はゴメともいった。鮫の港は築港して漁港と称え、この港から大洋の漁場へ船は続々と出て行った。「唄に夜明けたかもめの港」はここからはじまる。
 八戸の夜景は飛行機から見ると、灯のきらめきの中に赤、青の電光をちりばめて、まことにきれいだが、むかしの夜は小中野の遊郭と鮫の紅灯が船乗り衆の心をかきたてたものである。日が暮れると一度湊橋を渡らなければ眠れないといわれた。湊橋は若衆にとってなつかしい橋であった。そのころは、白銀ころばしの唄とおしまこ踊りがあった。お盆の夜などは老いも若きもみな出て踊った。「鮫の蕪島まわれや一里、かもめくるくる日は暮れる」。八戸の殿さまは二万石だった。唄をつくってから、ある人は「二万石をなんとか十万石くらいにならないものか」と申しいれがあったこともある。八戸の菊の花は奥州菊という。食用菊の阿房宮をあわせて八戸は菊の郷である。そのころの長根はグラウンドもスケートリンクもみな堤であった。春はその土堤に桜がらんまんと咲き、その下にボートを浮かべた。冬は天然氷でスケート場になった。唄の最後のこ雪さらさら……の中に「恋の影」という文字をいれたら、やはりむかしはむかし、神田さんはこの「恋」という字はなんとかならないかと、ニヤニヤと笑った。そこでいまの「月の影」に変えたのである。
 八戸毎日に荒沢基という人がいて、東奥日報の峯正太郎、奥南新報の三湧別完、月刊評論の成田昌彦、東日のわたくしなどでゴシップ会という集まりがあった。昭和七年の春、作詩家野口雨情を八戸によんで当時番町にあった八戸女塾で文化講演を行ない、その夜は鮫の矯本館を宿にした。雨情はなかなか筆の人でもあった。そのとき会員はみな半折を書いてもらった。わたくしのものは「鮫の汐風荒くは吹くな、かわいお方を黒くする」である。いまも夏になると、床に掛けること をたのしみにしている。そのとき雨情を蕪島と館鼻へ案内した。雨情は縞(しま)の着流しに下駄ばきで歩いた。ちょうど八戸小唄が出来たときだったので、歩きながら八戸小唄が話題になった。第一節の歌詩を話したら雨情は「私なら、唄に明けたょ……の方がいいと思います」といったことを思い出す。
 そのおなじころのことである。東京日日新聞、大阪毎日新聞(そのころの社名は二本ならべて書いた)の奥村信太郎社長は地方視察のため八戸を訪れた。菊池青森支局長とわたくしは案内役をつとめて市内回りをした。白銀あたりを走っていたとき、どこかで八戸小唄の声が流れてきた。わたくしは唄などばかりつくっていて仕事をすっぽかしていると思われはしまいかと名前まで伏せてビクビクしているのに菊池支局長は「社長、あの唄は八戸小唄です。この唄は法師浜君が作ったのです」といった。わたくしは急に頬がほてる思いをした。社長は何を言い出すか、ちょっと心配だった。社長は吐(は)き出すように言った「ウン、雨情くそくらえか:・:・」社長はハッハッと笑った。それでわたくしは安堵(あんど)した。
 唄の発表はとりあえずその前年の暮れのあたりであったか、市会議員や報道関係者に石田家で芸妓連中が披露したように記憶する。翌七年の春、三八城公園の観桜会のとき踊り舞台で一般に公開した。記録によれば昭和七年六月仙台のNHKでラジオ放送、同年十一月に八戸小唄完成祝賀を催し市内をオンパレードして石田家で祝賀会を盛大に開いた。その記念写真がのこっている。これを見ると北村益氏をはじめ市内の顔役がずらりならび、それに小中野、鮫の両見番総ざらいの顔ぶれで玄関に大国旗を交叉(こうさ)している。唄を全国的に宣伝するには、まずレコードが必要であることはみなも考えていたのであるが、これは遂にレコード会社から、われわれもと吹き込みの申し込みがやってきた。三社くらいだったと記憶する。このことは市長が上京して東京で各レコード会社と話しあいをつけ、最初につくったのは昭和八年三月三日東京で吹きこんだ。日東レコード会社であった。これは会社持ちで一千枚をつくった。
歌謡調の節と発声で苦心
ツルさんカメさんで騒動も
 八戸小唄をNHKの仙台放送局からラジオ放送したのは昭和七年六月、東京でレコードに吹き込んだのは翌八年三月であったが、このように唄がおおやけになることになれば、歌い手も伴奏もはっきり決めなければならない。これに間に合うように石田家を会場にして小中野見番、鮫見番から代表たちに集まってもらい、ここで歌のテストをやった。わたくしは唄をつくることに一任を受けたが、事ここまでくれば、すべて完成するまでは責任を背負ったようなかっこうになり、仙台なり、東京へ歌い手たちを送り出すまで、わたくしも芸妓連も石田家へなんべんも通った。放送もレコードも小中野見番丸子、三吉、粂八、鮫見番からかの子、才三、梅太郎の六人にきまった。そのうち歌い手は小中野の粂八に決定した。
 苦労したのは歌のことだった。歌の発声と節まわしを長唄調から歌謡調に変えるために、なんべんもけいこした。
たとえばふだんに長唄や清元などばかりけいこしている声なので、節の最後の切れがくせがある。ちょうどいまの歌謡歌手の水前寺清子の歌が、どんな歌をうたっても歌の最後はエーエッと強く歌いきる。あれは長唄調である。そのように八戸小唄をけいこするときに「かもめのみなと:この「と」を長く流さずに「みーなーとーオッ」と強く歌いきるくせはなかなかぬけなかった。これを全歌詞の節、節からぬいて、最後を静かに流して消えるように終わるようにするため、けいこを続けた。こうして歌と三味線、鉦(かね)、太鼓などの伴奏をあわせてオーケーというところまで、みんなが集まった。そして、いわゆるいまいう正調の八戸小唄が出来たのである。
 わたしは昭和十三年の初夏に、転任によって函館市に移った。そのころ函館で宴会などの集まりに、しばしば八戸小唄を聞いた。ところがそのとき唄のハヤシ言葉として「ツルさんカメさん」というのを聞いた。なかなかおもしろいと思った。これはわたくしが作ったのではなく、思うに口三味線のチリシャン、チリシャンがだんだん転訛したのだろうと思っている。
 ツルさんカメさんで、ひところひと騒動かおこったことがある。昭和二十九年の秋のころ、あるレコード会社でツルさんカメさんという歌のレコードをつくったことがある、この歌は、曲は八戸小唄そのままで歌詞を変えたものつまり替え歌であった。そのころの八戸市長は岩岡徳兵衛さんであったが、わが方の唄を無断で横どりしたというので、市長は相手方のレコード会社を訴えると息巻いた。毎日のように新聞が騒ぐ、わたくしはそのとき毎日新聞社東京本社の地方版編集長をつとめていたころだったから、八戸小唄騒動の記事は八戸通信部から本社へ送稿してくる。ソラまた来た、きょうも八戸小唄だと原稿をわたくしのところへ持ってくる。ついに本版へまわして、全国的な騒ぎになった。レコード会社も手をあげとうとう八戸市へ謝罪するということになり、以後この歌を発表するときは事前に必ず「この歌は八戸小唄の替え歌である」ということを、ことわるという口上づきの歌になって唄騒動もケリとなった。
 このツルさんカメさんはその年の秋、東京日本劇場で発表会をひらいた。わたくしも行ってみた。けんらんとした舞台で一人は浦島太郎に扮し、金色のギラギラと光るハカマをはき、一人は女性でツルに形どったものか、竜宮の乙姫さまを形どったのか、白い衣裳にこれもギラギラの男ハカマをはいた二人の舞踊づきの歌の発表であった。約束通り舞台がはじまる前に、緞帳(どんちょう)があがると、舞台であいさつがあり、そのとき「この歌は八戸小唄の替え歌であります」とことわりがあった。この歌の歌詞はわたくしの記憶にも残っていないし、この発表があっただけで消えてしまった。
 そのころ、ラジオ放送に八戸小唄の放送があった。唄のあとに民謡研究家町田嘉章(佳声)氏の説明があり「この唄は青森県八戸の新民謡で、神田市長と後藤桃水と誰々の三人が作ったものです」といった。その誰々がわたくしの名前でなく、他人の名前であった。わたくしは思った。わたくしは名を伏せていても、郷里では、みなわたくしのものであることを知っている。けれども月が過ぎ年が経ればやはりそのようになるものだろうと思った。あくる日、わたくしは町田さんへ電話をかけた。町田さんはさっそく「あれはそのように聞いたけれども、私の間違いでそのことを訂正しました」と答えた。どのように、どこで訂正したのか、その後もわからずじまいになった。
 その後、郷里の友人デーリー東北の角田四郎さんから手紙がとどいて「八戸小唄の作者はいつまでも覆面していると、いろいろと制作名にも変化がくる、このままでは市民感情もおもしろくない、早く覆面を脱いでほしい」というのであった。それから二、三年ばかりたって、また同様の手紙をもらった。こんどは八戸小唄に関するいろいろな印刷物などがはいっていて、これを見ると、小唄はもう他人のものになっているような印象を受けた。ラジオ放送のことがあってから、いつも気にかけている折りこのことを知ったときだった。わたくしはショックをうけたのであろうか。その場で倒れた。そのころ血圧は二百十五で通院中の折りだった。一週間くらい、意識もうろうのままだった。病気は発語障害であった。さいわい三ヵ月の加療でまた勤めに出るようになった。そのことがあってから、わたくしは八戸小唄の作者のことは、やはりあいまいのままではなく覆面をぬいで、はっきり正しく残さなければならないと思った。
唄の吹込みは数十回
 千葉市で小唄芸者に会う
 どこのはやり歌も、たいていはパッとはやって、まもなく消える。ところがどういうものか、八戸小唄はパッとはやって、すぐ消えない。尻あがりにだんだん全国的なものになっていった。わたくしは新聞人として各地を転勤し続けた。行く先、行く先でこの唄を聞いた。昭和十三年以後北海道は函館と札幌には二度の勤務したので、全道ほとんどの市も町も歩いた。その都度にこの唄を聞いた。昭和十七年に盛岡へ転じたとき、わたくしの歓迎会の座でとくにはやり出した唄というので八戸小唄を聞かされた。昭和二十二年から七年間新潟に住んだが、ここではよく知られる鍋茶屋を中心とする紅灯街では、とくに八戸小唄を歌った。あるとき、そのころの知事岡田正平さんと石井総務部長が知事会議のため青森へ出張した。そのとき知事らは八戸を訪れ、鮫の石田家を宿にした。石井部長はかつて青森県庁に勤めていたことがあり、わたくしの旧知の人であったことと、岡田知事は唄も舞踊もくろうとなみの通人だったので、八戸小唄の「かもめの港」を訪れて本場の八戸小唄を聞こうという寸法であった。二人は一夜、八戸小唄にたんのうして、郷里へのみやげとして、八戸から八戸小唄のレコードを買って帰った。このおみやげをもらった新潟芸者たちは、さっそく八戸小唄のレコード試聴ということになり、わたくしも呼び出された。ところが、そのレコードをきいたら、これは東京の名も知らない歌い手が、勝手な節まわしで吹きこんだレコードなので、聞かれたものではなかった。このレコードは落第ということになったら、それをきっかけとして鍋茶屋で八戸小唄のおさらいということになり、とうとう唄の指導にひっぱり出されたこともあった。
 わたくしは東京在住中に会議のために千葉市へしばしば出張した。そこの宴会のおり「八戸小唄芸者」と名を売っている芸者がいて、その席でわたくしに紹介された。はたしてこの唄はほんものであるか、にせものなのかテストしてほしいということで、わたくしの前で、その芸者は八戸小唄を歌いだした。八戸小唄芸者の名をとっただけあって、まずまずという合格点をつけたことがある。
 東京時代昭和三十年ころ、静岡県で伊豆の観光宣伝のため、伊豆八景を選定するということがあり、その審査委員の依頼をうけ、伊豆半島をまる三日間、車で景勝地めぐりをしたことがある。そのおり、唐人お吉で知られた下田港に一泊した。その夜、町の代表たちの招きで、名だたる唐人お吉の唄と舞踊を見た。この唄と踊りはどこにもあるが、さすがに本場だけあって、唄も踊りも、うなるような垂涎(すいぜん)ものだった。この名物のおどりが終わってから若い妓がわたしの前にすわった。「なにかおもしろい唄でもおしえてください」といったら、さっそく、この妓は三味線をとりあげて歌いだした。ナンとその唄は八戸小唄であった。こんな伊豆の端の町で八戸小唄を聞くとは、うれしいよりもびっくりした。
 大阪市に日本民謡研讃会という会があって、ここの会長を乙葉純一郎という。この人は八戸小唄の大の愛好者で、昭和三十八年ころ、その作者をさがし出したとて、わたくしは書状をもらった。それ以来、文通を続けているが、この乙葉さんは民謡の弟子二十人をひき連れて、その年の八月神戸の須磨水族館アクアランドで聞かれた神戸市交通局と日本民謡研讃会の共催の「民謡の夕べ」に出演、八戸小唄の唄と踊りを披露し、つづいて八戸小唄の指導会をひらいて好評をうけたという、その夜の写真づきの神戸新聞文化センターKCCニュースを送ってくれた。この記事によれば青森県民謡八戸小唄は豪華阪だったと書いている。
 ひとびとからよく聞かれる。この唄がどうしてこんなにはやったのか、その伝播力がどこにあるのかという。それは、わたくしも知らない。おそらく地元の宣伝力もあろうし、市民のみなさまがこの唄は「わがもの」として愛する意識が大きい力になっているのではあるまいかということもつねづね思っている。ただわたくしは毎日新聞在社中に作った唄であるから、この新聞社のひとびとはみなそれを知っているので、これもまた、わが社の唄のように愛してくれた。どの県でも販売店の集まりがあれば、その宴会ではきっと八戸小唄を合唱するのが例のようになっていた。わたくしが在社中には、東北、関東の各県の販売関係者から八戸小唄を書いた色紙をしばしば所望された。ただはっきりとわかることは全国のレコード会社が競って八戸小唄のレコードを作ったということである。昭和四十一年六月、日本音楽著作権協会で調査したことによれば、国会図書館にある八戸小唄のレコードはクラウン、グラモフオン、ビクター、東芝、日本コロムビア、キングで四十数回製作している。これには最初の日東レコードなどもはいっていないし、またキングでは毎年のように三橋美智也の八戸小唄を作っていて、わたくしに送ってくれる。それをみると、この小唄のレコードの製作も数十回にものぼっているのではないかと思われる。
世に出て30年、歌詞を登録 
   35周年には協力者表彰も
 わたくしは永住の地として、骨を埋めるつもりだった東京ではあったが、病気を機としてまたふるさとへ戻ることになった。昭和三十五年七月三十一日朝、いまは八戸駅になった尻内駅に着いた。八戸小唄のふるさとという本があるが、その八戸小唄のふるさとへ二十三年ぶりに戻った。
 まず、デーリー東北社から声がかかり、八戸小唄の由来について当時の角田四郎編集局長と対談し、いっさいを打ちあけて覆面をぬいだ。そのときのデーリー東北紙は一ページをこれにあてた。わたくしは覆面をぬがなくとも多くのひとびとは知っているけれども、いままで名を伏せたかたちになっていたので、そのときはっきり名を出した。そのときの紙面は「本当の作詞者法師浜氏に聞く、八戸小唄あれこれ」 (角田本社編集局長)という見出しであった。
 八戸小唄は旅でばかり聞いているので、二十三年ぶりで郷里の本場で聞く小唄もまたなつかしいものであった。ただ本場でもいささか節にくずれのある声を聞くので、むかし、この唄をいっしょに作った見番のひとびとと会って、唄がくずれないように話し合ったこともあった。そのことがあってから昭和三十八年の春、時の八戸市の商工観光課長中居幸介さんに話して正調八戸小唄保存会をつくった。岩岡徳兵衛市長が会長で発足した。
 この唄の踊りは座敷踊りなので、屋外で流し踊りをするために、新しく行進用の踊りもつくった。この唄の制作者を正しく残すこともわたくしの責務でもあろうと考えていたことでもあり、多くの友人、知人のすすめもあって三十八年七月、社団法人日本音楽著作権協会にわたくしの作詞したいっさいの歌詞を信託契約した。その中には八戸小唄もふくまれている。そのころ、この唄の作 詞について、まだわたくしが知らなかった事実を知った。
 それは唄の作曲者を紹介した上野翁桃氏に、そのころ後藤桃水氏から送ってきたハガキの中に「八戸小唄文句二つだけにてはあまりに少なくなほ三つなり五つなり作詞下され度(略)今月中に作曲なすべく侯」という文面があり、また他のハガキには「これでは読む唄になる」という意味のものもあった。どうしたことか不思議に思った。
 わたくしは現在歌っている「唄に夜明けた……」一の歌詞をたった一編を作っただけである。二つだけの詩も作らないし、読むような詩も作らない。作詞の一任をうけたわたくしも神田市長も知らないそんな歌詞が作曲者の手もとに送られていたということは、思えばさきに角田さんがわたくしに、早く覆面をぬげといった言葉がわかるように思えた。けれどもこれはすでに流れ去った事がらで、ここに言うべきことではなかったかもしれない。
 昭和四十年はわたくしの当たり年といわれた。それは八戸市で文化部門で特別功労として表彰をうけ、また県文化賞も受けた。これらは八戸小唄など作詞が主体になっている。その年ある会合に出席したことによって、いまわしい赤痢の疑いまでうけたり、眼底出血により左眼失明という病気で臥床するなど、とんでもない年で、ひという当たり年であった。
 その翌年、日本音楽著作権協会のすすめによって八戸小唄の歌詞を文部省に登録した。もともとわたくしは名を伏せていたことなどから、登録も文部省でくわしく調査の上で四十一年四月十九日登録第八六五六号の一で、著作題号八戸小唄(歌詞)全一編、昭和六年九月三十日作詞、昭和七年四月二十九日発表でわたくしのものであることを同日官報第一一八三一号に掲載、同時にわたくしあてに通達があった。
 このことについては東京の日本音楽著作権協会資料課長宮沢博明、八戸では生証人として峯正太郎、角田四郎、瀬川義寿、若松ツル、橋本こと、佐々木ムメ、木村助一のみなさんは協力してくれた。この登録があってから見方によっては、作ってから三十年もたってから、今ごろ現われてなぜこんなことをするのかという人もあり、その理由にもいろいろと一部の人々に誤解もうけた。けれども真意がわかればそれもわかってもらえたものと思っている。
 四十一年は八戸小唄が生まれて三十五周年にあたる。そこで正調八戸小唄保存会で、この唄の制作に協力した方、また宣伝に努力した方々に敬意を表する議がおこり作曲者の紹介者で宣伝に努めた上野忠次郎(翁桃)=代理=制作協力者である若松ツル(かの子)橋本こと(才三)佐々木ムメ(梅太郎)納所ふち(三吉)=代理=岩館ます(丸子)音喜多サト(才ハ)音喜多スワ(駒助)宮崎キソ(らん子)稲本トメ(五郎)さんら十人を十一月十一日、八戸市の更上関に招き、表彰式を行ない、ときの会長中村拓道市長から表彰状と記念品を贈り、その功績をたたえた。
 その日の祝宴では来賓一同、お手のもの、八戸小唄を歌い、踊り心ゆくまで祝いあった。この席上表彰された一同を代表して才三こと橋本ことさんは「私どもはこの日のあることをどんなに待ったことか、うれしくてなりません。これからもいっしょうけんめいに、わが唄、八戸小唄を歌いつづけます」とあいさつして感激していた。
伝統を継ぐ正調保存会
流し踊りも県南に広く普及
 正調八戸小唄保存会で小唄制作に協力した功労者の表彰式を行なってから一年たった。こんどは唄の制作者の神田重雄さんも作曲者の後藤桃水さんも歌い手柳本粂八さんも協力者石田正太郎さんもみな故人になっているので、この功労の方々の慰霊の法要を営むことになり、保存会の理事である田口豊洲氏の世話で昭和四十二年十一月二十五日糠塚の南宗寺でその法要を修した。神田さんの遣族神田重矩氏、後藤さんの遺族代理上野スエさん、柳本さんの遺族子息茂さん、石田さんの遺族代理福田剛三郎さんらを中心に保存会の関係者の慰霊の焼香が続いた、茶話会では、そのころの関係者の唄の制作の思い出や故人の思い出話が尽きなかった。
 正調ということばは名のある唄の残されているところでは全国どこでも正しい歌を残すために正調保存会がある。北海道でも九州でも佐渡ケ島でも、その土地の唄を保存するために力をそそいでいる。八戸小唄もその保存のために生まれた。佐渡でも相川では相川おけさ保存会があり、両津には両津おけさ保存会がある。また八木には八木の独特なおけさがあり、その保存会がある。しかしおけさは勝太郎ぶしというおけさがあるけれども、島では誰がどんな節まわしに歌っても歌えるというのが、この唄の特徴であるといっているが、それでも本場は本場として伝統の正しい節を保存している。
 このように八戸小唄もレコードで伝えるいろ いろな節があり、いちばん多いレコードでは三橋美智也ぶしがある。三橋の唄は美声と声量とノドのよさによって自然に美智也ぶしになるだろうが、近ごろはほとんど正調の節になった。この唄の節のくずれやすいところは「唄に夜あけた」の「た」のところ、「かもめの港」の「の」のところ、「サメの岬」はの「サメの」は全部くずれやすい。たとえば「さ」をのばすのは、民謡集などにある音譜がそのように間違っているからであろう。いちばんむずかしいところは「サメの」の「の」の発声が短く、かろくとめる。それが小唄をつくったときの節である。「おけさ」のようにどんなに節まわしをしてもよいというように、八戸小唄も、どのような節まわしで、歌ってもよいと思う。ただ本場の唄はどうかといわれれば、やはり、こうだという正調のものを残しておかなければならないと思うのである。
 こんどは踊りのことであるが行進用の流し踊りをつくったのは三、四年前になる。これは保存会が小中野、鮫両見番と連合婦人会、南部芸能協会、当時大館中学校の大西先生が協力してつくったもので二度三度つくり替えて出来た。この踊りは相当普及されているが、それでもまだ踊りの最後のあたりで「手直し」を要望している向きもある。
 けれどもこの流し踊りも県南に広く行きわたって八戸市内の婦人会だけで一時に一千人が踊れるようになった。
 唄には著作権というものがある。八戸小唄をわたくしは作りっぱなしで、しかも長い間他郷暮らしをつづけ、帰郷してから著作権協会に信託したので唄の制作関係のレコード会社は使用料の関係で作詩者をはっきりする必要があった。四十一年五月、レコード会社側の代表キングレコード会社の著作権課小林敏雄、日本音楽著作権協会の資料課長宮沢溥明両氏が八戸を訪れ、その調査をはじめ、わたくしはその俎上(そじょう)に乗せられた。けれども調査の結果は作詩は法師浜桜白であるということがはっきりしたので、その調査は終わった。このことがあってわたくしは精神的に動揺もあったので、それがおちついてから、わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。八戸小唄も作ってからことしで四十一年になった。