赤坂とみ
もう百才なんです。根城学区の誰よりも長生きなんですの。九十七才、九十八才と二年間。
先生方も元気でね。千四百余名の根城っ子のため渡り廊下が完成し、玄関、築山、美しい木、花、水銀灯、グリーンベルト、桜の老木も黒土を盛られて大喜び、教室のタイルを一枚づつ貼ってくれ嬉しかったですよ。サッカー大会で先生方、大きな声で応援しましてね、見事優勝しましたよ。
すばらしい子どもたちで、愈々発展していきますよ。見ていてね。
私を育ててくれた根城小
岩藤森太郎
太平洋戦争も末期昭和二十年四月、学校卒業したての新米教員が、当時の根城国民学校に赴任し、以来十四年間在職いたしました。いま、当時のアルバムや日記をみますと、その頃のことが鮮明に頭に浮かんでできます。
戦中、終戦時の慌しい世相でしたが、緑の多い静かな環境の中に、こじんまりとした暖かい家族的な雰囲気のある学校で、のびのびと、思ったことを存分にやらせてもらい誠に楽しい思い出ばかりです。
その頃は、食糧増産ということで、授業より園芸作業の方が多かったようで、白山や高館飛行場の大豆植え、校庭や裏庭のじゃがいも作り等、児童とともに肥おけを担ぎモツタをふるい汗を流しました。当時四年生八十二名の担任でしたが、競争で高等科に負けない位の収穫をあげました。また、曜日を決めて、肥料としての馬糞集めをさせられ、集めた量をちりとり○杯と収集日誌に書いて校長に報告、四年生はいつも収集量が多く校長にほめられましたが、腕白連中が競馬場の厩舎に忍び込み、馬糞を失敬していたこと。その頃のことだけで、珍談奇談一杯というところです。
昭和二十四年五月二十八日、終戦第一回の修学旅行を企画し、日帰りの盛岡旅行、今とちがって添乗員もなくすべてを教師がやったその苦労。昭和二十八年から二泊三日の函館旅行をしたときの楽しさ。
昭和二十六年、当時の川村義一校長先生の時苦労してピアノを購入していただき、翌年NHK唱歌コンクール県予選三位に入賞したこと。校歌制定、昭和二十八年の七十周年記念式典、学校火災等、十四年間の思い出の数々は紙面に書きつくせません。
私白身を育ててくれた根城小学校、根城学区に居住している者として、根城小学校の益々のご発展と、明るい未来を期待しております。
心から百周年おめでとうと申し上げます。
思い出
大久保好男
昭和二十七年二月二日、待望の新校舎落成式の日、多くのお客さまをお迎えし、みんなの顔は緊張の中にも笑みがこぼれおちそうでした。部落一丸となっての労苦が、ここに結実したのです。私達は、新校舎の玄関に泥を落すまいと気をつかい、廊下はすべらないようにと静々歩き、教室の机や椅子には、恐る恐る手をふれてみました。その感触、その感激、終生忘れることはできないでしょう。
当時、先生は渡辺先生お一人で、私達は常に二十人前後はいました。先生が出張やお客さん等で多忙の時は、奥さんが習字等を指導して下さいました。秋には、私達で薪切りをして冬の準備をしましたし、本校等への行事には歩いて参加する等現在とは相当様子が達うようです。
落成記念に植えた校庭の桜を見るたびに、投じのことがなつかしく思い出されます。
感謝の思い出
大橋与一郎
根城小学校に赴任したのは、昭和二十五年だからすでに二十数年の歳月は流れた。
当時はピアノも図書室もない小規模校で、しかも農繁期休業という今では考えられないような休業日があったと記憶している。烏兎匆匆(うとそうそう・歳月があわただしく過ぎ去るたとえ)、この学区の著しい変貌を見る時全く隔世の感に打たれる。
私は末だ若かったし、また十年間もお世話になったものだから、本当に根城で鍛えられた、まさに教師としての開眼期であったといっても過言ではない。特にしあわせなことは、よき先輩、よき同僚、よき学区民に恵まれたことである。
社会科教育の偉大な前駆者松木秀生先生県下はもとより全国的にも感動の教育で名声の高い川村義一先生、崇高な教育哲学の実践者柏木定蔵先生、八戸の統計教育と鼓笛隊の草分けでもある久保栄先生をはじめ教育に情熱を傾けた数々の同僚の先生方との邂逅(かいこう・思いがけなく出あうこと。めぐりあうこと)ともいうべき出合いは、すばらしい人脈の秀峰を仰ぎ見る思いで感謝に堪えない。さらにピアノ購入、校舎増築で夜遅くまで談論風発を重ねたPTAの方々や、物心両面の援助を惜しまなかった婦人会の方々の懐しい顔が浮かび、とどまる所を知らない。
二十六年にピアノ購入運動と同時に合唱練習に取り組み、ついにNHK合唱コンクールで八戸市代表校の栄誉に輝き、当時の音楽教育に大きな波紋を投じたことが特筆される。また、三十二年に私が司会し、母と子の座談会を開き転入生との交流を図った。当時八戸に火力発電所が誘致され、競馬場跡地にそのアパートが建った。根城はそれ以来大きく変ったように思うが、九州から転入した子どもたちは教室にストーブがあることが、とても珍しかったらしい。当日は主にお互いの言葉の問題が出たが、あの人達は今どうしているかなあーと、懐しさがしきりである。
小笠原源作
薄暗い教室の片隅に木枠で鉄鍋の火鉢、小さな手を寄せ合う、内気でいじらしい子は火鉢の側に寄りつく場もなく幾度か釘を打ち直した腰掛でギシギシと音をきしませている。
つぎはぎの床板がうるしみがきでピカピカの廊下を、片足が不自由な小使さんが藁草履をつっかけ歩調に合わせて振る手提げの鐘。ガランガランが始業の合図だ。ベルチャイム、普通の教室には電気の配線すらない。特定の教室に先生が両足で踏み踏み反動をとりながら唱歌を教えるオルガン一台が施設だ。弁当持参の生徒は競って「保温庫」の特等席を確保し合う、少しの炭火のぬくもりに幾段かの棚のなるべく下段、熱源に近い位置を選ぶ。いつかは、こんがりのおこげご飯になりハンカチが焼け焦げていた。
そんな設備環境の中にあって将来は総理大臣になりたいと未来の大きな夢と希望をつづる生徒は多かった。
昭和十年尋常科一年入学。
柏木定蔵
日立市鮎川町在住
対話 ごみ拾い
A 元根城小学校長
B そ の 友 人
B「君は根城小学校の校長として在職中、どんなことをやったのかい」
A「まことに恥ずかしい次第だが、別にこれと言って」
B「それでは校長の席を汚したと言われても文句はあるまいね」
A「正に其の通りだ。面目ない」
B「でも君、何か一つ位は些少なことであったにしろ君の一点と言ってよい仕事をやったろ」
A「そう言われて思い出した。それは俺が毎日のように校庭や校舎のごみ拾いを懸命にやったことだ。その執拗さに教員達も辟易して、うちのおやじの前世はおはらい屋ではなかったろうか などと陰口を叩いたもんだ」
B「ハッハッハ。たしかに正鵠を射た批評だったね。それにしても一校の校長がごみ拾いに明け暮れしたとは、どうもいただけないな」
A「うん。でも俺にはその外のことが何一つとして出来なかったよ。済まん」
こう言い終るとAは禿頭をなぜ乍ら、何かブツブツつぶやいているので、Bがそれとなく耳を傾けたら、
A「紅塵を切断す水一渓」云々と聞きとれた。
馬の糞さらい
金子善兵衛
今では馬のくそは殆んど見かけることがなくなったが、昭和の十七、八年頃はまだ郊外の路上ではよく見かけたものであった。
「いとこと馬のくそアどこさ行ってもある」というたとえは、まだぞのまま生きた言葉であった。
高等科の農業の時間に、馬のくそさらいに出かけることになった。生徒たちの家からかり集めた何台かのリヤカーを引いて校門を出た。云うまでもないことだが、馬のくそは学校農場の肥料にするためのものだった。杉山の通りから売市の通りに出て、更に長根を廻って学校に帰ったが、予想していた程の収穫はなかった。或は村の人達がさらってしまった後を廻ったからではなかったかとも思ったりした。
馬のくそさらいは生れて初めての経験だった。生徒と一しょとはいいながら、馬のくそのリヤカーの後をたって歩くのは何とななく気恥しい思いがしてならなかった。だが、だんだん歩いていて目的の馬のくそがあまり見当らないと、気恥しさよりも、もの足りなさを感じてきた。村中を歩き回っていて、道路端の農家の入り口に、馬のくそが沢山積み溜めてあるのが時々眼に止った。それも初めは気にも止めなかったが、馬のくそがあまり落ちて居なくなって来ると、それが眼を引くようになって来た。そして積み溜められている馬のくそを見るたびに、それがとても羨ましく思えてならなかった。あれの半分でもいゝからほしかったなあとさえ思うようになっていた。
校門を通って校庭にはいった時には、出かけた時の恥しさなどはもう何処かへ消え去ってしまっていて、馬のくその山だけが眼に残っていた。
思い出
川井勝美
大正十五年三月師範学校を卒業して、売市尋常小学校訓導月給四十七円也の辞令をいただいたのが教育生活への第一歩でした。長根の香月園から売市の村に入り程なく小さな神社の前に平屋建ての古びた学校がありました。校長先生以下四人の職員で複式学級のある小さい学校でした。校長住宅で自炊生活がはじまりました。隣り近所の方々は皆親切にしてくださいました。校庭が狭かったので、子供たちと思う存分走りまわることが出来ませんでしたが、砂場をつくったり、バスケット台を備えつけて遊んだものでした。根城街道に学校の敷地が決って(下亀さんの向い)青年団や処女会が中心になって畑を整地しトラックを作り運動会をやったときは、村をあげてのお祭になったことが思い出されます。六年を卒業した子供たちは高等科へ進むには八戸町の吹上高等小学校へ通学していましたが、八戸では生徒数が多くなってきたことから他町村の子供は入学出来なくなりました。舘村の高等科のある学校は明治小学校だけでしたので、村の方々は大へん心配して村へお願いし高等科併置の運動をはじめました。議員の方や学務員の方々のお骨折りによって、とうとう設置することに決りました。父兄も子供たちも大へんよろこびました。この喜びを記念して、昭和十年高等科第一回卒業生で十年会という同級会を組織し、毎月いくらかづつの積立を約束し実行しました。それが実を結び立派な校旗となって寄贈されました。子供たちの学校に対する愛情と先生方と一体になって楽しい学校生活が出来た当時の姿が脳裏に深くきざまれています。父兄の方々も教育に対する関心が高く壮年団を中心に青年団、処女会、青年訓練所も活発に活動しました。私も若者たちと一緒になって勉強し、いろいろ教えられたことを思い出しなつかしい限りです。
売市小学校在職十一年、四代の校長先生(佐々木富三、柳川保蔵、西川政三、梁瀬真)はじめ諸先生方のご指導をうけてどうやら一人前の教師として身を立てることが出来たことは、村の方々や先輩の方々のご厚情の賜と深く感謝申し上げています。創立百周年の記念式典をお祝い申し上げ、根城小学校の限りない発展を心からお祈り申し上げて筆をおく。
意欲が満ちていた学校
川守田 正
昭和四十年四月、教頭として赴任した。下斗米校長も同時に着任された。校長、教頭が変わると学校内の空気が相当に変わるものであるが、それ迄通りに運営することができた。それは、前教頭竹本完造先生の記録簿があったからである。三年間一日も洩らさず、緬密な企画と反省を記入していたので、それを参考にして運営することができたのである。これを受けて、当時の各部門の行事計画は凡て緬密なものであった。今でも、当時の水泳実施要項、交通安全指導計画、写生会計画を手元において参考にしている。
この時期は、児童増に伴う校舎増築期で古い建物は次々に新しい校舎に変わり、地域では土地造成が行われ、住宅が続々と建てられていた。これが地区民を刺激し、すべてに意欲的であった。PTAでも趣味展や研究会、クラブ活動、子ども会結成など目ざましい活動が行われたのを思い出している。
それから十年、校舎が変わり、地域の様相が近代的になった。しかし、根城の人の心は変わらない。相変らずの意欲と協力心がみなぎっている。これが根城の伝統であり、輝かしい未来の基となるであろう。
百周年を期に、根城小と根城地区が、更に発展することを祈っております。
高坂しのぶ
昭和二十六年五月、歴史と伝統の輝く母校でもある根城小学校に、初代の事務職員として勤務させていただきました。
当時の校舎は桜並木、緑の芝生、長い土手に囲まれた木造校舎とすばらしい学園で、生徒たちは、まことにのびのびと育ち、体育の時間ともなるとよく競馬場まで走っていったようです。また、笹子も根城小の分校でしたので、私と校長とあの山道を越えて視察などに出むき、時には村の人たちと雉のだしの手打ちそばをやり大鍋でつつきあったものです。
事務としての一年間は毎日外歩きで不得手な自転車での用たし、二、三度ころんで帰ったこともありました。しかし、十五、六人の職員はいつも校長も一緒の職員室でなごやかに迎えてくれました。
十三年間お世話になり、三十九年に八戸小学校に転任を命ぜられ、落成されたばかりの体育館での退任式の寂しさは今も脳裡に残っています。
二十一世紀にふさわしい校風を備えたわが母校、恩師の根城小学校の百周年を心からお祝いいたします。
母校「根城」に誇りをもって
坂本美洋
根城小学校卒業以来、十三年を経た今でも日常生活の中で思い出すのは校歌である。在学中は、学校生活の中心であり、卒業後は心のよりどころとして私の胸に生きている。歌詞は「根城小の子供達よこう進んで欲しい」と願う先生、父兄の思いをこめて作られている。在校時代は、ただ元気よく歌っていた校歌であったが、今考えてみると短い歌詞の中にこの根城小の生活環境をみごとにうたい上げている。
これらの歌詞を見ただけで、「根城」とは南部八戸藩のお城があった八戸の中心地であり、川が流れて岸辺には駒がないて、りんごの実る美しい街であることがわかる。そしてまた、卒業後は清い未来に進んで欲しい。正しい人に育って欲しい。勤労に手をしたしませて明るい郷土をつくって欲しいという願いが心を打つ。
私の場合、母校の良さは卒業してすぐには実感としてよく理解できなかったが、年月が経ち、故郷を遠く離れて暮らし、両親を想い、故郷の山河を想いうかべ、そして母校を懐しんだ。それは、楽しく生活している時よりも、苦しくつらい時であった。母校で学んでいた頃、夢をもち、未来への期待に胸をはずませていたことを想い出しくじけてはダメだ。負けてはならないと自分にいい聞かせてきた。親と、母校の有難さは遠く離れて年月を経るほど胸にせまってくるものだと感じている。
母校で忘れられないのは、今月まで御指導を賜った先生方である。学校教育の中でやはり小学校の教えが一番大切であり、人生の進む方向や価値観の基本は大かた身につくものである。今では担任の先生から叱られた事、ほめられた事を想い出し、「根城小学生だという事に誇りを待ちなさい」といわれた事は忘れられない。卒業後もその先生方とおつき会いができる事を大変幸せなことと思っている。
自分の母校を懐しみ、校歌を堂々と歌いその校歌に負けないように生きていくのが、卒業生の務めではないかと思う 私も在校生の皆さんに遅れないように、自分の社会生活の中で「根城魂」を発揮して進んでいくつもりである。
沢田芳美
天命を知る事なく何時しか六十の声を耳にする年になり、当時の小学校の様子を思いだすまま綴る。私等の学校は村の中央にあって、売市尋常小学校であった。平屋の校舎で四教室あり、中央は教員室で、右の第二教室は一二年の教室で、左側の二教室は三、四年と五、六年生で、一教室に二学級人っていた。一年生の時はノートは使わず、石板と石筆で書いて勉強した。二年生まで荒木田先生から教わった。三、四年は川井先生で五、六年は松村先生であった。当時女の生徒で赤ん坊をおんぶして登校する人もめずらしくなかった。
先生は、校長とも四人で、小使い一人、全校生徒は百数十人位であったと思う。授業始終はガランガランと小使さんの振る鐘の音で始まる。式典の時は、一二年の教室の境の戸板を外して式場に使用した。雨の日は体操はできなく実習をした。放課後天気のよい日は、川井先生と共に皆で今の校庭敷地の草取りをした時もある。
振りかえって見ると、当時私等は元気一ぱいで勉強もし、又けんかもした。感慨無量である。
感謝
中居万里子
その日は朝からみぞれだった。窓ぎわの生徒が机の蓋を窓に立てた。しかし、ものの一分とたっていなかった。外からふきこむ雨まじりの雪は六十三名の教室に吹きつけてきた。先生は仕方なく、机を廊下側につめて並ばせた。窓の下はますます孤を描いて白くなっていった。わら半紙を綴ったプリントもパサ、パサと音を立てて浮き上がる。それが二人に一冊の大切な教科書であった。それでもみんなと一緒にいると心がぬくもって来るようで、とてもうれしかった事を覚えている。
国民学校一年生で終戦を迎え、まだまわりのことは理解出来なくても、物資が極度に不足な事はその不自由さからわかっていた。「親は食べさせる事に、先生は教える事に一生懸命だったなあ。」
と、これが私達の先生と、親への感謝の念を待ったことばである。そして、今もその影を見た時、体を張って生きて行かなければならないと迫られる。
古い手帳から
中村栄太郎
古い手帳が見つかりましたので、参考までに記してみます。昭和五年~六年の間のぺージに記入されており、正確な年月日は不明ですが「春工事」と記されていますので、新年度早々の意味かと推察します。
「施設について」
豊巻大工の下請 個人 中村栄太郎
工事費 計 弐百四拾六円四拾五銭也
内 訳
校舎基礎工事 ・講堂・便所工事含む
土手(築堤工事)
門柱工事 モルタール仕上。
暗渠工 (正門入口)
工事監督には当時村会議員の
下斗米亀次郎、川口福次郎、田村三之丞、
赤坂常吉の諸氏。
工事に参加した人達
北村幸吉、市川市太郎、石橋岩太郎、大西市太郎、中村岩太郎、山村武蔵、売市金三郎。
その翌年、
「奉安殿の工事に着工」
八戸尋常高等小学校が吹揚移転に伴い、舘村村長が交渉して、売市尋常高等小学校で貰い受けることになった。
紋付羽織はかま正装し(氏名は忘れました)錠を開け、最敬礼して引き渡された。作業にとりかかり、ジャッキで揚げ、タイヤ付車輪の馬車に積み、運搬した。
正門が完成していたが、入口がせまそうなので、下亀醤油店前の入口から校庭に人った。すでに基礎工事が出来ており、その架台に乗せた。
下校時には立ち止まって必ず一礼した。
「植樹の寄附」
新組~桜の木 校内一円
売市~梅の木 主として土手のそば、奉 安殿の周辺。
橋本正次様より貰い受け、売市の人たちが移植。
中村繁蔵記
・柳川保蔵校長の時、新校舎へ移転。
・西川政三校長、落成式を催した。
・舘村青年団売市支部長 中村繁蔵
校舎移転に伴い、売市青年団員が、机・オルガン・その他備品等の移転手伝いをした。当時移転費がなかったため。
・プラタナスの植樹、売市消防団幹部有志が寄附した。
・校庭通路補修
新設校のため、雪解け、降雨にどろんこになり、その都度、長根の佐々木与吉氏が馬車で川砂等を運搬し、奉仕した。
中村栄太郎記