2007年8月1日水曜日

小中野小学校百年史から 4

浪打 私が小さい時でまだ小学校へ入る前だったんですが、祖父に頼まれて学校に来たんですが大きな大黒柱があったんです。その学校を覚えている人は、誰もいませんね。わたしが入ったのはその学校が無くなってからです。
 私の時は、ハナ、ハト、ハタ、カガウマの時からなんで、その前はずい分めんどうだったんです。尋常六年になって分数を知らなかったんです。それでも尋常六年から上がる時は、三等のビリだったんです。その時、遊びに来た人が、わたしに 二分の一と五分の一とどっちが大きい」と聞いた時に、わたしはすぐ、五分の一が大きい」とこういったんでしょうハハハ……そこで、分数を教えてもらったんです。
 それからはじめて学校が好きになったんです。だからわずかの所、ちょっとした所なんです。
  校歌校章の由来は定かではないが
大久保 それではいろいろ昔の思い出をお話していただきましたので、常日頃知りたいと思っていたことですが、校章の由来と校長室に掲げてある西有穆山先生の書いた「義徳校」との関係などは、おわかりにならないかどうか。岩見先生いかがですか。
岩見 いいえ、まだ僕は若いんですから古いことは知りません。
月宇 校章は、山崎校長さんがいた時に、孝行の孝の字があるでしょう。あれはまあ、孝行というのは一番その当時の大切ななんでしたから、それで初めて校長先生が朝会のときに、みんなに話してくれたんです。
大久保 大低小中野の記章というのは、今も中学校の記章でも、消防団の記章でも小中野の「小」という記章でしょう。それでも、校章だけは、桜の中に孝をかいたものになっているんですが、校長先生も三十九年に養徳校の問題にからんで記録していたようでしたが、丁度今お話があったように、孝行するということが大事だということ、そういうものを学校の目標というか人格完成の根本義であるということから、起案したかどうかということ、それに、これを作った方は誰であるのか、おわかりになりませんか。
月宇 先生のどなたかでしょうな。校旗ができて、私の時分に説明してくれたのを、ちゃんと記憶しているんですが。
三河 山崎校長先生だったと思います。その時に説明したのは佐々木公央先生、あの先生が説明したったと思います。
小井田 何という先生ですか?・
佐々木哲 佐々本公央です。
小井田 校旗の説明をしたんですか?
月宇 説明したのは誰だかわからないが山崎先生の時だった。
山浦 沿革誌によると三十九年の五月に校章と校旗が制定されたようですが。
小井田 山崎校長の時代ですね。
佐々木哲 わたしの頃、「孝は徳の本なり」と書いた額がございましたので、和田という村長さんは、何の式の場合でも必ずそれを話し、「孝は徳の本なり」と言い、校長先生よりも村長さんが一生懸命だったんです。それで、そのお話がでると、やったやった、またはじまったといったもんです。(笑声)
稲葉 「水は方円の器に従い、人は善悪の友による」といって、またすぐはじまったと言ったもんです。(笑声)
小井田 その「孝は徳の本なり」という額。この前先生からお聞きした時、養徳校の額でないかと聞いたら、そうかも知れないとおっしゃったんだが、そうでなかった。「孝は徳の本なり」の額がありましたか? 訓話には「孝は徳の本なり」がでても、「養徳校」というあの額をつかって「徳」「養徳の徳」ですね。徳の本は孝なりでもって話されたのではないかという話もあるし、いろいろうけたまわっている。もう一つの別の額があったんじゃないかというそのところは:・:・。
大久保 額がございましたか?
佐々木哲 私はあったと思うけれども、
小井田 養徳校の額じゃないのですね。
佐々木哲 昔のことだから、はっきりしません。
小井田 学校はその後焼けていない筈ですね。あの丁度さっきの話、山崎校長の時に校旗ができた、校章ができていますね。その前あの額の書かれたのは、校長室にある額、あれは、山崎校長のはじめなんです。明治三十四年穆山禅師が「直心浄国禅師」の禅師号をいただいて、あの紫の衣をいただいた時ですね。その年に八戸に帰って、そして書かれたのが、あの額だと思います。
 それがうちの学校の為に書いています。その養徳の徳を養う、これは教育の第一義だといったような考えでやったのではないでしょうか。そこで、「孝は徳の本なり」徳の本は孝だということで、そういうことからきたんだろうということで、いろいろ先生方とも話しておったんです。ほかの方からも、式の時に「孝は徳の本なり」をやったという話をお聞きして、いろいろ聞いてみたわけですが、それを言われた校長はどなただったんです。先生の時はやっぱり山崎校長ですか?
夏掘 和田校長です。
小井田 佐々木公夫という先生は、その時ここの学校で教員をしておったんですか。
月宇 いいえ、そうじゃないんです。
佐々木哲 ここの卒業生でうちの母の弟なんです。
浪打 名前を変えているんです。とにかく模範的な先生でした。
小井田 この方が図案に関係しているか。小中野の卒業生なんですな。
佐々木 名前は金之丞といったんです。
大久保 それから校歌のことについてお伺いしたいわけですが、作曲者はご承知の通り上野学園長の石橋蔵五郎先生、作詩は小向隆三作ということになっているんですが?・この方はどういう方かおわかりになりませんか。
小井田 小向隆三?
稲葉 記録だか何だかわかりませんけれど、私達が二年のころ諏訪の別当さまの弟に中館という人があって、その人が校長先生に紹介して作詞したというように私達は聞いていたし、私はそう思っていたんです。その人は中舘から養子に行って名前が変ったんではないでしょうか。
小井田 中舘文生さんの弟さんですか?おじですか?
稲葉 おじです。
大久保 ………
小井田 先生だと聞いていたところがそういう先生は出てこない。
大久保 校旗の古いのは学校にありますか。
小井田 ない。その校旗の写真は大正四年頃の写真に一度出ています。学校にある写真に……あの紫のメリンスみたいなのに白で染め抜いたのでしょう。皆 ああ、そうです。
小井田 そうすれば、校歌の小向隆三という名前ででているんだから、この人をたずねるとすれば、どういう人から聞けばよいんでしょうな、覚えていそうな人に・:
岩見 去年白銀小学校の九十周年のお祝いがあった時に姉さんがでておられました。中舘文生の姉さんですね。
大久保 どこにおられますか?
佐々木宜 商業高校の前に家を建てています。
小井田 今名前は何んておっしやるんです?佐々木直 岡田ミネといいます。
小井田 その方から聞けば、もし改姓したとすればわかりますね。
佐々木直 諏訪の先生といえばわかります
父兄会の設立、きっかけは野球への寄付が問題
大久保 それでは、現在は父母と教師の会、以前は父兄会ということであったんですが、この父兄会の設立はどのようになって、また、いつごろ設立されたものだったんでしょうか。おわかりになりませんか。
佐川 記録には明治四十年で。
稲葉 八木沢先生ですか
佐々木哲 山崎先生です。
大久保 初代の会長さんは、どなただったんですか?
小井田 それも四十年ならば山崎校長ですね。山崎校長はどこの出身ですか?
佐々木哲 八戸の方です。八戸の士族さんの・:
大久保 ああそうですか、記録によると明治四十年父兄会の創立というふうにのっているのですが、初代の会長はどなたがおやりになったのでしょうか?
山浦 今はなくなられた室岡米蔵先生でなかったでしょうか。会長についての記録に何かありますか。どうであったでしょう。’
稲葉 父兄会はやったことがあります。大正になってからかな。
三河 その頃会長さんになられたとすれば、室岡さんか、山浦さん、それから白井さんかな・::・?その方たちぐらいのものと思いますが・:・:。
大久保 八十周年の記録を見ますと、歴代の父兄会長は、室岡栄蔵、白井幸作、木村忠蔵、大久保幾次郎、中村浅五郎、工藤平作、和田金之助、藤田金五郎、吉田誠、岩岡とみえ、中村豊吉、佐藤誠一……。
三河 八木沢先生のとき父兄会をやったとすれば、ここの小学校で野球をやった時、野球をやる道具を準備するために金がかかるので、父兄会を作ってその方々から月に五銭ぐらいずつ寄付をしてもらったらどうかということになったのがはじまりと記憶しているが:・・:。
夏掘 あの時、三河先生は野球部の部長でしたね。
小井田 それは何年ごろですか。
三河 大正十二、三年ごろです。
佐々木哲 卒業式の何かのご褒びに大久保さん、山浦さんという方々が特別寄付をして呉れたんです。父兄会長賞などでなく有志の寄付でした。
佐々木直 私は、野球を知らなかったんだが、学校で野球をやるというので行ってみたら、中村先生が、袴をはいてだまってみていたんだが、何かまずいことがあったらしく、今のはアンパンインが悪いと言ったんです。「アンパンイン」というのがあると言うことで大笑いしたんです。
大久保 その時、やっぱりミットなどがあったのですか。
佐々木直 野球のはじまりだったので、そのへんはどうでしたか。
稲葉 小中野の新丁に少年会を作って、野球の道具を買ったのは、私達の一年の頃です。月館直次郎さんたちが先にたって、五厘ずつ貯金して布のものを明治三十七・八年頃に使ったんです。佐々木直次郎さん達が十二円五十銭位集めて全部用意したんです。
大久保 明治の頃には対抗試合がやられたんですか。
波打 一番先に長者小学校でやりましたよ。
三河 小中野小学校で一番最初に三本木小学校とやりました。二回目は五戸小学校とやったんです。
大久保 明治四十一年という記録があります。三本木小学校と小中野小学校の校庭で野球競技をしたと、こう出ていますが、この時の服装はどうだったんですか?
稲葉 袴をはいてやった時もあり、ズボンがなく、股引にシャツの時代でした。
波打 長者小でやった対抗試合には、キャチャーがミット、一塁手もミット、投手はグローブを持つたか持たなかったかはっきりしないが、あとは全部空手であったんです。この時の試合は捕手が代理のため負けたんです。
大久保 そうすれば明治三十年代に素手で、もう野球をやったんですね。
稲葉 その頃は、野球ではなく、「ベースボール」と言ったんです。
大久保 大したもんでないですか。
稲葉 みんな英語を使ったもんです。ハハハハ:・。
夏掘 ボールは一、二、三号とあり、零号は普通の選手が使い、無号というのもあった。これは石を布で包み糸をまいたものだった。二、三回使えばグニヤグニヤとなったんです。
浪打 小中野の大弥さんが捕手で、山浦さんが投手でした。九州までその名が聞こえたんです。
夏掘 野球は本当に小中野が名門でしたね。うちの兄の頃などは、八中で九人のうち四人まで小中野出身でしめていたんです。柔道でも剣道でも野球でも、大将は必ず小中野でなければならなかった。そのため当時小中野の真似をして、八戸に学生団が誕生したが、これは小中野のイミテーションですね。学問でもそうでした。優等生というのは殆んど小中野で、銀は級長、金は優等生でしたが、必らず小中野の人達は何人かつけていたものだ。普通は文弱派と言われた佐藤亮一君など野球の名手だった。
大久保 丁度われわれの時代は、八木沢校長先生の時に在校していたが、その伜は運動に一番主力をそそいだというか、やらせたものですね。あのあたりは一番、その前後は隆盛でなかったのではないでしょうか。
  同窓会これもピアノ寄付で復活
山浦 処女会をか、青年団とかは、大正八年にできています。
稲葉 処女会の初代の会長は富岡栄三さんの奥さんでした。
月宇 小中野小年会というのもあったが、その記録にはありませんか。
大久保 ありません。
月宇 青森に宮様がおいでになった時、唯お出迎えもでぎないので、小中野少年赤十字団という名をつけたったと思う。ガリ版で雑誌なども作った。
大久保 在学生でやったのですか。
月宇 そうです。