○市営バスの発足
八戸市内の乗合自動車業も隆昌に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗合の各業者への営業権譲渡方の話し会いが持込まれた。このころ乗合業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の路線をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権 を市営バスに譲渡した。
市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
市営バスの経営には、市側からは室岡氏があた り、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備面担当者として迎えた。
市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。
編集部注釈
前ページの広告は昭和七年奥南新報のもの
八戸~剣吉間に乗合自動車があった。
八戸市は乗合自動車業を開始すると、直ぐに営業利益を上げる。
上の記事がそれ。八戸市も優秀な頭脳を抱えていたものだ。市民の利便を考えると業者を一本化する必要がある。さらに、自身で営業しようと考えるあたりが鋭い。神田重雄恐るべし。
○トラック業、タクシー業急増
市営バスの発足によって乗合自動車は一本化し、八戸市の公益事業となったが、トラックとタクシーの業者はその頃から急激に増加する傾向をみせた。
乗合馬車は姿をかくし、荷馬車の数も急激に滅少し、今や自動車にとって代られようとしていた。
トラック業では前記の目時、島谷部、栗本三氏の他に、宮沢氏、柳町氏、藤田氏、左館氏、川端氏、須藤氏、長岡氏、角金氏、北城氏、松坂氏、足立氏など、昭和十年代までに陸続として営業を始めている。
タクシー業は、それにもまさる盛況であった。相馬屋、藤金、大江、角田、橋本、ふじゃ、中屋、安全、葵、キング、東洋、ダイケイ、日の出、平和、村井(長横町)、村井(大工町)など十指にあまる業者が車を走らせた。もちろん、平和、村井(長横町)村井(大工町)、橋本、東洋などのように、短期問の営業で終ったと思われるものも ある。
相馬屋、藤金は前にもふれたが、相馬屋は鮫を、藤金は小中野を本拠としており、藤金はトラック業も兼ねていたものである。
中屋は前記清川氏(前姓庭田)が経営、六日町で営業、角田氏も鮫方面に車庫をもっていた。その他、ふじやは現在の八日町明治薬局の近隣で、葵は吉田屋から矢倉氏に経営が交替しているし、大江は現八戸タクシー社長大江氏の個人営業当時のもの、キングは三浦氏の営業、ダイケイは十六日町で営業、日の出も同じく十六日町で田名部稲蔵氏の営業したものである。東洋は世界公園の八戸引き上げの場所に阿部氏が営業していたが間もなく廃業している。また、八戸市最初の女性運転手阿部ちか枝さんは二八年型シボレーで営業していたという。この二八年型シボレーは従来の車輛から著しく改良された、現今の乗用車に大分近い構造の自動車であった。
筆は前後するが、バスの車体が現在見られるような箱型(当時は電車型とも云った)になったのは、我が国では関東大震災後、壊滅した東京の交通網をたて直すため、東京市会で決議して、フオード会社へ特注した四十四両の十一人乗りの自動車が最初である。
このバスは、いわゆる「青バス」で有名なとおり外装を青く塗りたてたものであった。
この同型は昭和初期、藤金、宮沢、橋本氏などによって八戸にも入れられたが、外装は赤く直してあったという。いうなれば八戸のバスは「赤バス」であったわけである。現在の交通法規からいって、恐らく、見ることのできぬバスの色だったわけである。
○持たざる国のなやみ
前章にみるように、着々と自動車業者の数が増し、交通政策上大きな転換が要求されはじめ、昭和六年「自動車交通事業法」が布かれたり、国営バスの台頭と路線拡大、トラック、タクシー常の.需要増大の時流も、国際間の緊迫した状勢の前にいかんともしがたいものがあった。
昭和十二年七月七日、あの日華戦争(当時は支那事変と呼んだ)の口火を切って芦溝橋事件が勃発するや、国をあげて戦時の体制を取りはじめた。この年「輸出入品等に対する臨時措置に関する法律」と「臨時資金調達法」の公布をみ、新規事業が制限され、さらに翌昭和十三年四月には「国家総動員法」が公布され、同年六月には物価統制が行われはじめた。ガソリンの自発的節約が指示され、自動車事業には早くも暗雲の片々をのぞかせた観がある。
やがて戦力増強のもとに、軍需物資の輸送が優先され、遂には物資移動の統制令が出されるに至って、トラック業を除いては漸やく営業不振のきざしをみせ出した。外車の輸入が禁じられ、国産車は軍が優先して使用するところとなり、民間における実働車両は減少する一方となった。
昭和十六年八月、かの画期的な液体然料の使用禁止をうたった「石油消費規正」が出され、ここに代用燃料車の登場となった。
この年十二月八日には、太平洋戦争に突入した。だが戦争による輸送力の増強はさらに多くの車輛を必要とした。
こうした国際関係と国内事情の逼迫が自動車事業の統合を促がす機運となり、当局の指令によって次々に事業の統合がなされてゆくことになった。
一本化されてあった八戸市営バスは、昭和十七年、八戸市内に乗り入れた十和田鉄道株式会社に南部乗合自動車、八戸乗合自動車が譲渡し、一社に統一された。ただし八戸乗合自動車の久慈~大野間は岩手県北自動車会社へ譲渡している。また、八戸地方では五戸鉄道株式会社と十和田鉄道株式会社が併置された全国でも稀れな二社共存の地域であった。
なお、この八戸乗合自動車株式会社は前記、市営バスを中心とした改組の名称ではないかと思われるが、この間の消息は未詳である。
かくして、「持たざる国の悩み」は自動車営業者にとって、正に暗黒時代を現出せしめたのである。
○トラック、タクシーの統合
時代の波は容赦なく隅々まで巻きこまずにはいない。先述のバスの統合にさきがけてまずトラック業者に対する「第一次自動車運送事業統合要綱」が発表されたのは昭和十五年九月のことであった。八戸でも、要綱に従って統合が行なわれた。
八戸市内を三地域にわけた。ひとつは目時氏、島谷部氏、柳町氏、角金氏、北城氏、それに三浦氏、南部木材(工藤氏)で有限会社八戸トラックを設置、島谷部氏の管掌場所を本拠にした。またひとつは小中野方面の藤金自動車貨物部を本拠として、藤田氏、宮沢氏、左館氏、栗本氏、須藤氏、長岡氏、川端氏等が八戸中央トラック株式会社を設置、さらにひとつは鮫魚港関係の松坂氏、足立氏に魚市場の西野氏、熊谷氏によって八戸漁港トラック株式会社が設置されたのである。
昭和十七年には「第二次統合」が指令され、八戸市内の前記三社に穂積トラックが編入され、五戸貨物自動車有限会社、三戸貨物自動車有限会社等を統合して、南部貨物自動車株式会社の新設をみたのである。社長に熊谷義雄氏が就任した。
またタクシー業者も、昭和十五年九月には八戸市内十二の業者が統合し八戸自動車株式会社を設立した。業者名は、相島屋、安全、葵、大江、キング、ふじや、中屋、ダイケイ、藤金、橋本、日の出、シユウリン?(阿部ちか枝氏営業)の十二社である。車輛の総数は二七台。社長に大江石蔵氏が就任、十八日町で、同年十二月二十四日から営業を開始した。
自動車の代燃化は、主として薪、木炭であり、他に天然ガス、石炭ガス、アセチレンガス、液化ガス(プロバン)、アルコール、メタノール、ポンゾール、あるいは石炭、コートライト等も用いられたが、八戸地方では木炭、薪の供給源に近いため、ほとんど木炭と薪を使用した。が逐年、この木炭、薪も手に入りにくくなり、自動車営業は、燃料の確保に追われる始末であった。その上に、戦争の状態悪化にともなって、民間に対する車両の割り当てが杜絶するようになると、現有車輛の傷み方もはなはだしくなり、実働車輛は目に見えて少なくなっていった。
こうした民間の自動車営業者統合の段階から、さらに荷馬車をもひっくるめた半官半民の八戸通運株式会社が、昭和十八手四月に設立され、戦局もいよいよ急を告げるようになった。
昭和二十年八月十五日、日本国民は未曽有の敗戦を喫し、新生日本を世界に誓って、連合軍の占領時代を迎える。しかし、戦争に打ちひしがれて国力の衰えた日本国民の経済力をもってしては、痛手の大きさをいかんともしがたく、終戦後の数年間は統制時代そのままの企業形態で存続させるより仕方がなかったのである。