むかしあれこれ「学都小中野」面目躍如
出席者
佐々木直次郎
浪打定雄三河久蔵
月館宇右衛門(明治四十三年卒)
稲葉米三郎(明治四十三年卒)
佐川慶次郎(明治四十四年卒)
夏堀正三(大正二年卒)
佐々木哲夫(大正三年卒)
岩見正男(大正七年卒)
大久保弥三郎(大正九年卒)
成田謙三郎(特別参加)
小井田幸哉学校長(十九代)
司会 大久保健二
中道直通
山浦武夫
大久保 それでは時間もだいぶ経過しておりますので、これから座談会を開催いたしたいと思いますが、これに先だちまして、ちょっとご挨拶申し上げたいと思います。
小中野小学校も創立以来本年をもちまして九十周年を迎えるわけでございますがこれを記念して、いろいろの行事を行うことになり、本日の会合もその一つでございます。
本校ご卒業の大先輩の方々から思い出話や、母校についての色々のことどもを語っていただき、これを記録にとどめ、長く本校の歩みとして後々まで伝えるようにいたしたい。そうしてこれが後輩にとっての指針ともなればと、このように考えまして、本日の「小中野校を語る」座談会を催す段取りになったのでございます。
尚、本校卒業生ではございませんが成田さんには、長い間学校のことに関係しておられ、いろいろの記録をおもちの関係もありますので、お呼び申し上げたわけでございます
創立当時二十坪の体育館で五十名のすもう
大久保 では、まず最初に、本校の創立当時のことについてですがお話し合いをお願いしたいと思います。
はっきりした記録が残っておるのは明治二十年あたりからが本格的のように見受けられますが、創立に関しては明治九年というようなことになっております。ちょうど皆さんがお入りになられた当時は、浪打定雄さんは十五回卒業生ということになっておりますし、佐々木直次郎さんもその頃ですので、はっきりしないところがあると思いますが何か、創立当時のお話でもございませんでしょうか。
佐々木直 まず学校は現在の桜屋染物店の所にありました。あそこには大きな桜の木があって、わしら桜んぼがなると、その木に登って校長先生達に追われたものです。役場はその角にありましたよ。昼食は、全部家に食べに帰ったもので、浜須賀あたりから来た生徒も全部帰ったんです。下駄ばきで学校の道具を風呂敷に包んでしょって来たものです。その後、狭いというので現在のここを買うにかかったんです。ここは丁度、湊の長作さんの畠だと思います。
大久保 佐々木さんがお入りになったとき何教室あったんですか。
佐々木直 わたしは、高等二年までしか入らないんです。それで最高の方なんです。尋常は4年、そうして高等二年に入って、学校に行くと言ったら、「若い者になってから学校さ行ぐってがあ。」というわけでしたが、「いや行ぐっぺえ。どうせ、オンジだし、しかだねえ。学校さ入っておがねばだめだ」というのでまあきたわけです。
その当時、まず運動場は、今なら体育館ですが、二十坪ぐらいの板敷で、相撲とると、こねだが折れるからと、そういうようなものでした。相撲とりばかりして鐘がなったのも知らずに離さないでいて(笑声)立だされてげんこをもらったという、そういう時代であったんです。今の生徒はそれに比べると、大変恵まれていますよ。二十坪の所で四十人も五十人も相撲をとっていたんですから…。とても今の生徒に比べると天地の差ですよ。
稲葉 わたしらは、尋常四年から高等一年になって(ホホウという声あり)、そのときは高等四年があって、尋常四年で卒業して、高等一年になったら、改正になって又尋常五年になった。だから尋常科をいっぺん卒業してから又、入った・:・:。
大久保 ハハアー、そうすれば尋常科に二回入ったということに……
波打 わたしは二回卒業したわけでーー二回卒業するのもゆるくないもんです。(笑声)尋常六年と四年との境は、わたしや月舘さん達でー
月舘さんもそうでしょう。
月舘 そうです。そうです。
波打 丁度、月館さんは、わたしの一級上だから高等二年になって六年になったし、わたしは高等一年で五年になったというわけです。
大久保 佐々木さんや浪打さんあたりまでは、尋常四年の高等科は二年だったわけですか?
佐々木直 そうです。
浪打 わたしたちは高等二年終ったわけで。
大久保 高等二年、はあーそうですか。そうすると、高等四年の世代の方はおたくさんですか?
波打 終ったのはー今、残っているのは二人だ。新制大学の先生をしている人と。
佐々木 湊には、高等科がなくて小中野へ全部来たんです。
佐々木哲 そう、そう、湊はなかったんだ。
湊には水産補習学校というのがありました。
大久保 では、湊の方は高等科へ入る場合は小中野へ来たわけですね。
波打 三島力先生も、それから千葉さんも、中学校に入るためにここに来たんです。ここは、中学校に入るための模範校みたいなもので、中学校の一番がどんどんここから出たものです。中学校に入るには、高等科からで、高等二年から入ればたいした秀才で普通は高等三年から入ったんです。
大久保 改正になってからは尋常六年から中学校へ入学できたが、当時は尋常四年からは中学校へ受験できなかったわけですね。
佐々木哲 できなかったんです。
小井田 そうすると大低は高等三年から……
佐々木哲 神田五雄さんもこちらの学校へ入ったし、その同級生の大久保貞次郎さん、稲本つまさん、佐藤市会議員……
大久保 そうすれば過去の小中野は、浜通りでも上級学校進学の優秀な者が入って進んで行ったという歴史があったんですな。
夏掘 学都小中野だったんです。
浪打 白銀の生徒もここに人ったんだ。ここから、一番や二番で進学したものだ。
佐々木哲 三島先生も湊の学校に入って高等科はこちら、だから向うにも籍があるんです。
大久保 そうですか。
学友会に支えられた学都小中野
波打 もう一つ自慢になるのは、戦争当時のこと、県からの指令ですべてのグループをつぶした事があった。八戸の青年会、北辰会はつぶした人だが、小中野の学友会だけはつぶさなかった。何故かというと成績、運動ともによかったからです。
夏堀悌二郎、神田五雄、久保義一、大久保二人、万吉屋と中村栄次郎さん達はここから行ったんです。入った時はあまり引き立たなかったが入ってから殆どの人が優等生、金と銀のえり章をつける人達だった。それに剣道や野球の選手は小中野出身者でしめていた。
夏掘 柔道もそうでしたな。八戸に於ける運動は全部小中野出身者でしめていた。だからここは(湊学友会)つぶさなかった。学問でも運動でも優れていたから……
夏堀 浪打さん、解散を命じたのはどこですか。
浪打 県です。
夏掘 県の学務課だな。
山浦 解散を命じるというのは、いったいどういう意味であったのですか。
夏掘 解散を命じたのは青年会、北辰会というのは、憲政会とか、政友会とかのつまり一つの系列をもっているんだから、まあ北村さんでも、近藤さんでもね、政党的なにおいがあったからなんですね。純粋の学都の、大げさだけれども、クラブ活動の母体というものは学友会だけしかなかったんですね。
浪打 学友会というのは、ここから行った者はみな入っていたんです。ここを卒業した者が、もとの母親のふところに戻るように、ここの母校に来たものです。
夏椙 八中に入らないで、クラブ活動を一緒にやった人たちを会友といった。
波打 私達の時は、卒業生は会友だったな。月宇さん、秀雄さん、木村靄村さん達、中学校に入らなくとも一緒にやったのはこの時あたりかな。
月舘 野球に勧誘するというように……。
中沢 学友会を通じて非常に、月宇さんも木村さんも、稲葉さんも懇意なわけですね。
夏掘 クラブ活動に参加するだけのバイタリテーのある人達は、ふだん学友会に集ったものです。
大久保 湊学友会は現在も存続しておりますし、本年も燈龍流しというような行事もやったり先輩らのいろいろな歴史というものが、自ずと伝統的に伝わっているわけなんですね。
宿直室は寄合の場
夏堀 ここの小学校の先生で、小野寺福太郎さんという方が墓参にきましたが、私と大久保弥三郎君と二人で種差へご招待し、一晩泊ってもらいました。あの人が先生をしていた頃は、宿直室は、もうみんなの寄合いの場でした。まあ物を食ったり、さわいだりなんかしましてね。今だったら問題でしょうけれども、ほんとに和気あいあいとした雰囲気でね、とてもそれが忘れられなくてね。いま先の小野寺福太郎先生が来た時も、一番先に僕がわかったんですね。まあ、その頃小学校というのは、娯楽の場所も何もありませんからね。映画館だとかいうのも、新開座までいかなければ見られませんからね。小学校というのは、おもしろい所なんですね。学問の場であると同時に娯楽の場でもあり、運動の場でもあったわけなんです。だから人作りの場だったんです。
まあ、それを指導されたのが、ここにいる山浦さんのお父さんだったんですが、先生と相撲とるとかなどして、一つの運動と人間錬成の場だったんですな。ほかにありませんよ。小中野のような所は。