西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
金英の選んだ道、その頃の曹洞禅風
江戸に戻った金英和尚は、これから真剣勝負のやり直しだ。修行の方針をどちらに進めたらよいか、と考えた。当時、曹洞禅に於ては、関東地方では、前橋市の龍海院に奕堂(えきどう)禅師(後に大本山総持寺独往第一世となった)が居られて、その傘下には常に百人の修行人が坐禅しておった。又、修禅寺物語で有名な伊豆の修禅寺には、仏母梅苗和尚が、劫火洞然の公案をひっさげて、常に随身八十人の門下僧に囲まれていた。更に、関西地方には、京都郊外宇活の興聖寺(道元禅師が最初に創立された禅堂)には、慧杲回天禅師が、常に百人以上の雲水を往来出入させて、道の誉が高かった。従って、当時、人気があり、一般常識として判断すると、この三師の中の誰かを選ぶのが通例であった。
しかし、金英和尚は考えた、提唱(ていしょう・禅宗で、教えの根本を提示して説法すること。提要。提綱)といえば碧巌(へきがん・臨済宗で重視される仏の教え)(集)や従容録(しょうようろく・曹洞宗において重視される仏書)よりしかやらない。況んや、一公案を得意として、それに執着するようではおかしい。道元禅師の宗門には、正法眼蔵という宗祖の暖い皮肉がある。それを参究しないのがおかしい。吉祥寺栴檀林で、愚禅様からも慧亮教投からもそして、月潭様からも、眼蔵の御提唱を御聴きしたが、月潭様の提唱は回数が少なかったが、心にのこっている。貧乏寺で誰もゆかぬそうだが、月潭様に眼蔵を参究しよう。金英和尚は坐禅三昧の結果、深く堅く決心したのである。
再出家、海蔵寺月潭老下に身を投ず
父親に死なれ、悲しみと緊張の心理状態となっていた金英和尚は、母親の血涙の訓戒を骨髄に徹せしめて江戸に戻り、恩師曹隆様及び本師泰禅様とも相談して、鳳林寺住職及び栴檀林の講師等一切の役職を辞任し、奥州第一人者の自負心も、若い新進気英の学僧という名声も一切を投げ捨てて、小田原市早川の海蔵寺住職月潭老人に身も心もまかせ切ったのであります。
月潭老人は、実にかくれた宗門近世の大宗将でありました。その教育法は、古往今来無比の峻烈苛酷を以て道誉の高かった正法眼蔵の大家でありました。金英和尚は、能く忍び、能く学び、能く行じて、十二年間精励し、月潭老人の全人格、全力量、全学識を一器の水を一器に移すが如く活取したのであります。そして、徳川中期以来の偉大な宗門の学者卍山(まんざん)~面山~万仭~本光~蔵海等の学風(これを二祖(二番目の祖師)懐弉(えじょう・。藤原氏の出身。天台や南都教学、さらには浄土教や達磨宗の禅をも学んだが、のち道元に師事、永平寺第二世。著「正法眼蔵随聞記」など)禅師伝承派という)と、これに対して、曹洞宗のカミソリ学者天柱とその門派空印~老卵等の学風(これを義雲禅師伝承派という)の両派をマスターして、綜合し、活かして、宗祖、道元禅師の真精神に直結し、真の禅風、真の正法を宣揚し、自らは近世最高の正法眼蔵の権威者とあがめられ、明治、大正、昭和の宗学と、禅風の興隆の祖となられたのであります。その十二年苦学力行の道場海蔵寺修学時代こそ金英和尚をして、穆山瑾英禅師として、今古未曾有の眼蔵大家たらしめた尊く得難い星霜でありました。これより、その縁起によって、道場の片鱗を察すると共に、瑾英和尚の修行の第二段階の勝蹟をたどって見よう。
海蔵寺とは
海蔵寺は、小田原市の早川という田園地帯にあって、現在も、瑾英和尚が坐禅した禅堂が本堂の左方にあり、本堂と禅堂の前に、木皮が赤くただれる「びらん樹」という樹が、三百年の星霜に堪えた姿を保っております。おそらく瑾英和尚はその樹影で読書したことでしょう。と昔を偲んで感無量でありました。左にその縁起を御紹介致します。
宝珠山海蔵寺縁起
応永二十一年(一四一四)、真言宗の廃跡を起して開創、天正年間、北条氏の全盛時代、その帰依を得、関八州の僧録となる。後に堀左衛門督秀政公、戸沢治部大輔盛安公の両大名中興開基となり、天和二年(一六八二)頒主稲葉美濃守正則公の篤信を受け宗風愈々揚り、雲水集り、直系の末寺三十八、孫にあたる末寺五百余に及び、安叟派の本寺と称う。
四十世月潭和尚門下には、森田悟由、畔上楳仙、西有穆山の三禅師のほか、偉僧(原垣出等)を輩出した。とありまして、関八州の僧録で、宗政を司ったことを証明しており、又古来より関左禅林と称されて人材養成の道場であります。
この道場に於て、当代第一の正法眼蔵の大家、月潭老人の門下に於て、出藍の誉をほしいままにしたのが、西有穆山その人であります。これより、この海蔵寺修行時代のエピソード等数種をあげて穆山和尚の面目を偲びたいと思います。その前に月潭老人の風格について一言致します。
月潭老人の風格
月潭老人は、道号を金竜といいます。不思議にも、金英和尚の授業師金竜様と竜が同じであります。かくれた、そして実力第一の眼蔵家でありました。関三ケ寺といって、徳川時代まで、大本山永平寺の貫首の候補者になっている寺が三ツありました。
その第一は、千葉県市川市国府台の総寧寺で、その配下の寺は、大本山総持寺末寺のみでも千二百十三ケ寺であり、第二は、埼玉県入間郡越生町の竜穏寺で、配下の寺数は、大本山総持寺系の末寺三千七十三ケ寺、大本山永平寺系の末寺八百七十四ケ寺であり、第三は、栃木県下都賀郡大平町の大中寺で、その配下の寺教は大本山総持寺系の末寺三千七百七十七ケ寺である。この三ケ寺の住職の中から、年功、徳望の順序によって、大本山永平寺の貫首に晋住したのであります。徳川時代までは、それだけ、この三ケ寺は権威のあった寺であります。従って末寺の有名な住職が訪問しても、この三ケ寺の住職は容易に送迎の礼を取ることがなかったのであります。けれども、月潭老人が訪問する時はこの三ケ寺の住職は、自ら必ず玄関まで、おくりむかえされたのであります。それだけ当時の宗教界に重きをなし、尊敬されていた大徳であります。
八百屋お七の恋物語で有名な駒込の吉祥寺の栴檀林に於て、林長教授が、正法眼蔵を提唱しようとしたら、二度とも門前から火事が出たので、門前の人達は正法眼蔵の提唱の看板が出ると身ぶるいして、こわがったそうです。ところが、月潭老人を御請待して正法眼蔵の提唱を願ったところ火事は勿論のこと、何等の障害もなく盛会の裏に終了したのであります。
月潭老人の偉大な人格に打たれて、悪魔が退散したわけであります。
この月潭老人は、九州熊本の出身で、生家は日蓮宗の檀家であります。お母様が八十歳になられて、月潭さんに会ってから死にたいという便りをよこしましたので、月潭さんが故郷に帰られて、御見舞申し上げると、母上は大変よろこばれて、菩提寺の和尚さんも御招きして、御馳走することになりました。
ところが、菩提寺の和尚さんは、大変不気嫌で、人ってくるなり、いきなり
「月潭、お前不屈な奴だ」と、罵倒しました。老人は、穏やかな顔で、静かに
「何故でございますか」
と問うと、和尚さんが
「なぜ、禅天魔になった。妙法様の貴いことを知らぬのか」
と、攻撃して来た。月潭さんは
「妙法様は、どこが貴いのでございますか」
と尋ねると、和尚さんが
「一天四海皆帰妙法ということを知らぬか」
と怒鳴って来た。
月潭、静かに火鉢にさしてあった火箸をとりあげて、ぬっと和尚の鼻先に突き出して、
「お拝しなさい」というと、 和尚
「それ、それだから禅天魔というのだ。火箸を礼拝する者がどこにある」と、いい切らぬうちに
「一天四海皆帰妙法、 どこに火箸がある」
と、つめよると、和尚は真っ青になり、奮然として、座をけって起ち、あらあらしく帰ってしまった。
八十歳の母親は、ニコニコして、これを見ていたが月潭よ、いい供養したね、と親子水入らずで御馳走を食べなごやかな一日を楽しんだのであります。その間、月潭さんは、顔色一つかえなかったそうであります。
月潭老人は常に、かくの如く随処に生きた説法をする法人剣の師家(学問を究める坊主)であった。一天四海の万物が皆妙法に帰するならば火箸も妙法そのものである。況んや八十の老婆が親切心を以て、菩提寺の和尚さんに供養しようと御招待したのに、その息子の月潭さんに非礼な態度を取り、問答ならよいが、罵倒し侮辱するという態度は、妙法の妙も、法華経の法も知らぬ論語読みの論語知らずどころか、半可通の哀れな僧侶である。現代の宗教界にも、これに酷似した非似宗教、偽宗教家のあることを私達は警戒せねばなりません。無我を説き、平等を教えた仏教に於て、宗我を主張し、他を非難攻撃して融和も平和も破壊し、不平等の融和せざる末法の悪世を自らの手で現出しているのは、真の法華経信者でもなく、法華の行者でもない。汝右の頬を打たば左の頬を出せ、汝の敵を愛せと教えたイエスキリストの精神を身を以て実行しているクリスチャンが果しているのか。市民の祭典である八戸三社大祭の行列に「神社には真の神が居ない」と、プラカードを立てて行列と同行して、市民を馬鹿にし、神聖なる祭典に平気で泥をぬっているキリスト教伝道者の宗教心というものが正義か狂気かを疑うものである。