八戸の印刷文化に二人の旗手がいた。一人は昭和十二年、「月刊評論」を興した成田昌彦、もう一人が戦後、「北方春秋」を興した堀川善雄。成田は八中卒の生粋の八戸人。堀川は福島県人。相馬藩士の末裔。
戊辰戦争で奥羽列藩と共に徹底抗戦した会津藩は領地を明け渡し斗南藩として辺境の地、下北半島の開墾に向かう。同じく同盟藩、伊達藩士の多くは北海道移住し旧領を離散、薩摩藩兵との交戦を回避し恭順を示した相馬藩士四百名は帰農し明治四年廃藩置県で田畑購入費五万円の三万円を東京の古川市兵衛(古川財閥の祖)から借り入れ、残り二万は旧藩主相馬季胤が支出。明治七年三万円の借入金の内一万四千円を相馬家が更に負担。
明治三十三年に相馬藩士の家系、掘川勘三郎景虎の息として善雄が誕生。生家貧困なれど学問にて立身(りっしん・社会における自分の地歩を確立すること。一人前になること)せんと知己(ちき・自分の心をよく知っている人。親友。また単に、知人)を頼り県都福島に出る。
ここらは不明な点であるが、誰かが弁護士丹野慶太郎の所で書生を欲しがっている。あるいは、あの人は面倒見がいいので「行ってみたらどうか」と告げたのだろう。
書生に雇ってもらうのだが、そこには一つ年上の阿部義次が書生となっていた。丹野慶太郎弁護士も決して裕福どころではなく、二人は書生部屋の三畳に一つ布団で起居。俗に言う同じ釜の飯を食う仲。丹野は学者肌、弁護の外に当時の司法制度についても研究。阿部と堀川は天下国家を論じるうち、二人とも弁護士になるのもいいが、お前は大学に行き違う分野で身を立てたらどうだと、阿部が言い出す。日本は広い、勉強するなら東京だ、お前、東京に出ろ、俺が丹野先生から頂戴する書生料を仕送りする。お前は俺より頭がいい、だから必ず特待生になれる。学費が不要になるから、俺が送る金で下宿を探せ。お前が卒業するまで、俺は必ず金を送り続けるから。
その時、堀川はただただ頭を下げ続けたことだろう。夢に見る大都会東京。そこに出て勉学に励みたい。しかし銭もなく、あたら田舎で終わるのかの憤懣やるかたないものあり。されど、どうなるものでもないと、日々の生活に埋もれるものだが、一つ布団に犬こっろのようにくるまり眠る友からの申し出で、人は人によって育てられ伸ばされるもの。
かくして、阿部の好意を得て、堀川は明治三十二年早大高等学園文科に合格し、特待生として早大法学部英法科をめでたく卒業。阿部も堀川に男の約束を果たしながら大正十二年独学で司法試験に合格する快挙。
堀川は大正十五年朝日新聞本社編集局入社、各地の支局を廻る内、樺太に出て、鰻屋を経営する店主の娘と結婚。昭和十五年まで朝日新聞社に在籍。その後、中華民国に渡り東亜新報社北京本社の整理部長と外交部長を兼務。十七年、華北新聞協会常務理事を経て十九年六月から終戦まで中華民国華中政務委員会専任委員を務めた。当時の北京には邦人八万人が居住。(内、日本人六万千人、半島人一万九千、台湾人四百人)、この新聞社には戦後作家となった中薗英助(『闇のカーニバル』(第34回日本推理作家協会賞)、『北京飯店旧館にて』(第44回読売文学賞)、『鳥居龍蔵伝』(第22回大佛次郎賞)がいた。
敗戦後、日本は半島、大陸に巨額な投資をし続けた発電所、鉄道などは持ち帰ることが出来ず放置。この設備が朝鮮半島の独立後、大いに役立ったのは間違いない事実。
堀川は続々と日本人が引き揚げるのを横目に、東亞新報を中国人の手で運営できるようにと尽力。言葉は違えど同じ報道の人間、時代、世の中を鋭く見ることは必要と、編集、印刷の総てを伝授し帰国。
その時、中国人たちは堀川の手を握り、「あなただけが本当の人間だった」と涙を流して伝えた。
人間の心は必ず伝わるものだ。会社は雲散霧消し、逃げるごとくに今まで威張っていた日本人の総てが消え去ったなか、ただの一人で、生活の保障もなく、まして命すら危うい、そんな時に、誰が堀川の真似ができよう。
そして帰国、相馬と福島の間を往復しながら生きる道を模索。心の友、阿部の許(福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務)で色々相談、そして岩手新報に職を得る。この当時、海外から帰国した人々三百八十万人とも言われ、住宅事情の悪化、食糧窮乏を招いた。生きるのに皆が必死だった。
堀川がこの岩手新報社の取締役、編集局長の地位を抛って二十五年に八戸に来る。
何故、堀川が八戸に来なければならなかったか。それは、四代目の大久保弥三郎が関係している。北方春秋刊の「大久保弥三郎伝」に次の行あり。大久保は昭和四年、朝鮮を経由し鴨緑江、撫順、奉天、長春、ハルピンと無銭旅行。この時、奉天で朝日新聞の大井二郎さん(当時、朝日新聞支社長―前デーリー東北編集局長)には往復数日お世話になったが、北稜で写した写真が残っている。とある。
この大井二郎を大久保が八戸に呼び寄せた。
そのくだりは以下の通り。
デーリー東北新聞
中島石蔵さんが私にデーリー東北の話を持ち込んできた。当時二十万の資本金であった。デーリーを青森のリンゴ新聞が百万で買収するというがどんなもんかと。
私はこれから発展する八戸に日刊紙がなくてどうするか、青森で百万出資するというなら、吾等も百万出して暫く静観すべきであろうと主張し、私の意見が採用され百万に増資した。社長の人選も私に委すことにしたので、私は浅石大和氏を推薦した。編集局長に朝日の大井二郎さんを迎えたのも、林俊夫さんを迎えたのも、苦しい資金繰りも私一人でやった。当時の総務課長は中野周一君である。縁あって時事通信で鍛われた才腕を再びデーリーの重役総務局長として振るってもらうことになった。
大井二郎がデーリー東北新聞の紙面に顔を出すのは昭和二十五年二月十四日。発行者、編集印刷人大井二郎から。その前日までは中居與一郎とある。実質的に大井が昭和二十五年二月から編集長として辣腕を振るった。この時、同じ朝日新聞にいて、岩手新報の編集長を務めていた堀川を、大井がデーリー東北に誘ったのだろう。
堀川はこのデーリー東北新聞には一年しか在籍しない。八戸市役所の顧問に転じたとある。
そこで堀川は何をしたか。それは八戸の開発を総合的に考えることであった。
大久保弥三郎伝に、北奥羽経済開発協議会 八戸の発展を考えた時、そのセンターランドの開発なくしては港も活きない。二戸、九戸、鹿角と八戸が提携し行政上の隘路を打開する民間の経済協力体制を結成すべきことを私は主張した。中略 私は夏堀市長を説得し、湯瀬に於いて鹿角、岩手県北の指導者と一堂に会い北奥羽開発協議会の碁石を打った。
デーリー東北新聞の総務部長にした林俊夫氏を北奥羽の専務に推薦したのも私であった。とある。ここで林俊夫の名が出る。(東奥日報刊青森県人名大事典から・明治四十一年生まれ、北奥羽開発に尽力 鶴岡市産、デーリー東北新聞社総務局長、その後北奥羽開発協議会事務局長、昭和二十九年八戸市役所に入る 経済民生部長などを歴任、昭和三十八年から助役 辞職後、八戸市総合振興会副会長、北奥羽開発促進協議会の相談役などを務めた。)後年、林が助役時代、林が考え堀川が書き、熊谷義雄が実行すると言われた。八戸を大きく変えた三人であったと言えよう。
と、いうのも、八戸市の倒産は昭和三十年、この主な原因は馬淵川の三角州の埋め立てと学校の整備で前向きな投資。この三角州に火力発電所などが出て、新産業都市に指定され、急速に財政は再建された。
堀川、林たちは北奥羽開発協議会で、この三角州の開発を決定し邁進。その結果が八戸市の倒産を引き起こすが、奇跡の回復を見せたのだ。
時代を見据え、早めに手を打ったことが港湾整備にともなう新産業の進出だった。
一介(いっかい・わずかなもの。価値のないつまらぬもの)の漁港から工業港へと変身し、それが二百海里による漁業の不振にもかかわらず、八戸が片肺飛行を続けられるのは、ひとえに、この工業港を中心としたエネルギー運搬拠点と鉄鋼などの重産業の振興による。
林も堀川も八戸の良き時代を満喫できたのだ。そして堀川は八戸にガスが必要と熊谷とともに昭和三十一年ガス会社を興す。その実質的企画推進は堀川が担った。そしてその仕事の合間に若人を集め八戸に活字文化の華を咲かせるべく努力。堀川の周りには絶えず郷土愛に燃え、熱い瞳の青年達が各々の意見を張る。それを堀川はじっくりと聞きながら納得させ一つの方向へと導く。若者たちにとって堀川は夢の具現への鍵であった。
当時、八戸には有能な若者たちで満ちていた。東大出の工藤欣一、立教の秀才神山恵介、これらの頭脳が続々と八戸の歴史書を発刊。それが「概説八戸の歴史」五巻で、このエネルギーを迸(ほとばし)らせた基(もとい)となったのが、「北方春秋」であった。
堀川は言論人としての資質を失ってはいなかった。その「北方春秋」を十三号発刊し経済的理由で休刊し、その後を中里進氏が四年後に復刊する。
中里氏はそれを続けるも、タウン誌「アミューズ」へと方向を変更した。そして「アミューズ」は経営者を若手に代えて今日に至る。
堀川の興した活字文化は形を変えてもいまだに八戸市民の支持を得ているのだ。
堀川は昭和四十二年二月二十四日、午前十時、八戸市売市下久根の自宅で死去。福島県相馬市出身、六十七歳、葬儀は三月一日八戸市南宗寺で。喪主は長男浩平氏。昭和二十六年六月、デーリー東北新聞を退社するまで二十六年間を新聞と共に歩んできた。戦後は岩手新報、デーリー東北新聞の論説委員、編集局長を歴任、地域開発と本格的に取り組み反省期に入っていた北奥羽地域開発を軌道に乗せるために努力。このため北奥羽開発協議会の一員として総合的な開発計画の作成にあたったが、これを強力に推進するため二十七年、嘱託として八戸市庁入りし、国民経済の稲葉秀三氏らとともに、三角地帯を中心とした第一次八戸臨海工業地帯建設計画をまとめた。さらに地域開発と関連して都市ガスの必要性を強調、八戸ガス会社設立の推進者となった。三十一年七月、同ガス会社の設立とともに、嘱託として入社したが、その後も豊富な知識を生かして企画人として地域開発に貢献した。
とデーリー東北新聞の記事に訃報。
生涯心の友であった阿部、堀川を新聞人として送り出す基(もとい)となった、優しい心根の男はどのような人生を歩んだかをみよう。
阿部義次 県弁護士会長 明治三十二年三月信夫郡山口村(現、福島市)生まれ 昭和三十七年六月没、大正元年三月岡山村尋常小学校卒業後、福島市置賜町、丹野慶太郎弁護士の許に書生となり法律の勉強、大正十二年三月十九日、弁護士試験に合格。福島弁護士会に登録。以来、福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務に従事。昭和二十八年四月から三十三年三月まで福島弁護士会長、昭和三十一年四月から三十三年三月まで日弁連理事、昭和三十五年度東北弁連会長を勤め、福島県弁護士会の重鎮としてその発展のために尽力。
又、福島県地方労働委員会長、土地収用委員会長としての功績も大きく、特に只見川の電源開発や滝ダムの土地収用については日夜奔走。佐藤善一郎知事のときに福島県法律顧問。
この阿部の足跡を今井吉之弁護士が、こう記した。
先生の師である丹野慶太郎先生は晩年眼を患ったため、阿部先生は丹野先生の手をひいて裁判所通いをした。丹野先生の着物や袴の世話をしたので、和服のたたみかたは夫人より上手だった。
昭和二十七年福島簡易裁判所から窃盗事件の国選弁護を受任、刑務所(福島市南沢又)に拘留中の被告人と接見のためタクシー代往復千二百円かかったのでその内六百円を国に対して請求する訴訟を提起。しかし、「国選弁護人は裁判所の支給する旅費、日当、宿泊料及び報酬以外に、別に費用の請求をすることはできない」として棄却。しかし、最高裁まで上告。最高裁は「国選弁護人の要するであろう費用等を総て考慮して裁判所は相当に報酬額を決定すべきである」と判示。
昭和三十一年、弁護士会長のとき、福島家庭裁判所庁舎新築問題が発生、県、市、商工会議所等が中心になり国に予算計上運動をするが、らちがあかず、地裁所長から仙台高裁長官に話があって弁護士会にも動いて貰ったほうがよいということになり、長官が先生に逢われて懇請された。先生は県会議長、市会議長、商工会議所会頭らと法務省に陳情に出向いたが、大臣は閣議中で長時間待たされた。帰りの汽車の時刻も迫り、大臣と電話で話をしたいと申し出たところ、牧野良三法務大臣は、弁護士会長とだけ会うと、先生だけ大臣差し回しの車に乗り首相官邸で大臣と面会。三年連続で予算をつけると約した。大臣とは旧知の間柄。約束は果たされ庁舎は完成。
昭和二十七年十月、衆議院選挙、佐藤善一郎候補がトップ当選。ところが選挙違反が出て、K検事は保釈許可が出ても被疑者を保釈しない。裁判所へ提出した起訴状を取り替える暴挙。主任弁護士の先生はK検事を職権濫用罪で告発。A、H先生も共同で告発すると申し出たが「検事相手の事件は火傷すると取り返しがつかなくなるから自分一人でやる」検事正が先生に謝罪し取り下げた。
昭和三十六年、今井が弁護士となり、先生の事務所を手伝うようになり間もなく、汽車往来危険罪の共同弁護をすることになった。先生は当時体調を崩しておられたので、今井が主任弁護士となった。裁判所から公判期日の打ち合わせをしたいというので、先生の予定表を持って出頭するが、公判の日程がビッシリと詰まっていて一ヶ月半以内には期日の空きがない。
主任弁護人(今井)の日程はどうかと訪ねられたが、司法研修所出たての今井は勿論、公判など一つもない。即答も出来たが、調べて連絡すると告げて先生に相談した。
すると先生は病をおして羽織、袴を身につけ裁判長と面会。そしてこう切り出した。
「被告人が弁護士を二人つけたのは、二人共同して弁護して貰いたいからである。第一回期日は先になるが、その後は集中審理に協力する」
経験のない今井は裁判所の訴訟促進をもっともだと思っていたが、先生の一言で目が覚めた。弁護士は被告人の気持ちを思いやることこそ大事だと。この事件は心神衰弱の弁護士の主張が通り、執行が猶予された。
この事件を担当した新人弁護士今井が堀川の娘、澄子さんと結婚。勿論、阿部義次の媒酌による。
そして、堀川が八戸ガス会社管理室長として永眠したとき、葬儀に参加した早稲田大学の友人たちが、堀川の末娘の進学を知って、卒業まで学資を送ることを決めた。そして末娘は早稲田大学に進学。
勿論、その学費の仕送りは実行されましたとも。
人は一人で生きるのではない。他と共に磨かれながら渡世するもの。
堀川は幸せな男だった。心の友、阿部義次、先輩の大井二郎の引き立てで八戸に来れた。そして林俊夫と巡り会い、共に八戸の発展のために尽力する。そして死しては学友たちの温情で末娘の進学を援助してもらえたのだ。
それは勿論、堀川の人間性の大きさに由来するのだろうが、往時の人々には根底に人の情けを感ずるものがあったのだろう。
貧乏苦学生、それでも青雲の志(立身出世して、高位・高官の地位に到ろうとする功名心)が誰の胸底にもあり、そしてそれに応援できる喜びを感じていたのだろう。そして、日本の為、国家のためのナショナリズム(国家、国民主義)が八戸の為となって開花する。阿部義次は福島の為となる訳だ。
現今を生きる我々は、その地域主義すらも忘れているのではなかろうか。堀川、阿部から学ぶことは大きい。