2007年11月1日木曜日

八戸選管駒場委員長県費不正使用、源泉徴収違反 3

八戸選管のいいかげんな態勢は改まることを知らない。先ず第一に選挙結果を正しく発表できない。これは吉田淳一氏の請求にともない、青森選管が票の精査をした結果判明。
しかし、八戸選管独自の票の数え直しでは判明しなかった。つまり、自浄能力に欠けているのは明白。機能しない選管では役立たずであるが、駒場委員長は任期いっぱい務める気持ちのようだ。
管理能力の無さを指摘された以上、辞職すべきが正しい。それも、県費を前号で指摘したように不正使用した。これは、職員が勝手にした行為、選管委員長も知っててやったとしても、許せる部分もある。それは県の金を私的に消費したのではないからだ。
しかしながら、票の取り扱いに間違いがあったを県から指摘された以上、責任をとって身を処すべきだ。それもしないのは源泉徴収義務違反の責任が明確化してからとでも考えているのだろうか。
さて、この稿も最終となった。最後の所得税法違反容疑について解説する。
第百八十三条  居住者に対し国内において給与所得に規定する給与等の支払をする者は、その支払の際、その給与等について所得税を徴収し、その徴収の日の属する月の翌月十日までに、これを国に納付しなければならない。
こう規定しているが、青森県内で正しく源泉徴収をしていた市は三市で七市はしていなかった。中には年末調整すらしていなかった市もあるそうだ。歯切れが悪いのは「はちのへ今昔」は一人で作成しているので、方々に確認するだけの人手がないからだ。
この源泉徴収義務違反には罰則がある。
第二百四十条  第百八十三条(給与所得に係る源泉徴収義務)の規定により徴収して納付すべき所得税を納付しなかつた者は、三年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
この規定から八戸選管は当然免れることはできない。現在、八戸税務署と八戸選管は協議中の模様だが、選管は罰金を払わなければならない。本来、地方自治体は法を守ってこそ使命を達成する。何故ならば、自分たちも地方税法を盾として、市民から税を徴収するべき立場にあるのだ。
税を課す立場の人間が、税を逋脱(ほだつ・租税をのがれること。逋税。脱税)するは極悪非道。
右手のしていることを左手は知らないような馬鹿な出来事なのだ。
どうして、こんな事になったのか。  
前ページの資料は見ずらいので説明すると、報酬が五百三十九万円、職員手当てが三千百万円支払われている。投票に関する支払いで、この金は県から来る。これを全額消費しなければならないので、色々と画策する。
投票管理者、投票立会人、開票管理者、開票立会人、事務従事者、タクシーを待機させて六十万円とか、なんでもかんでも消費しないと、辻褄が合わなくなり、金が余って困ると、他の課のロッカーなども購入したわけだ。
すると、一般人を選任した場合は源泉徴収をした、すると、職員手当てはどうなったの?
こうした疑問が出て、人事課長に問うと、年末調整をしたという。源泉徴収義務違反は懲役だぞと言うと、年末調整をしているから間違いない処理をしているなどのやりとりがあって、選挙に関わる報酬は、所得税法を超越するとの一項が公職選挙法にあるなら黙るので、税務署と協議せよ、しないなら脱税で検察庁に告発すると伝えた。
それが参院選の前日。すると、市役所は慌てたんだろう。デーリー東北新聞にこのことを洩らした。デーリーは大きく書いた。このことを長いこと狙っていた筆者は某新聞社に書かせるべく、手立てを講じていたが、その新聞の動きが鈍かった。市役所が洩らすこともありえると言ったが、動けなかったのだ。このことは八戸市ばかりでなく、オールジャパンでやられたことだと見当をつけて大新聞に書かせたかった。
結句、空振りに終わった。だが、それはそれ、八戸選管は八戸税務署から罰金を取られる。
その金額は百数十万円になりそうだと選管は言う。この罰金は市民の税金で払うのか? 交通違反の罰金は民間では経費とは認められない。
つまり、八戸市は市民の税金を罰金には充当できなかろう。
そんなことをすれば市民から突き上げがくる。自分たちがいいかげんな処理をして、その尻を市民の税金に持っていくな。こうした時、現われ出るのが互助会、ここから銭を出すな。何故なら互助会の金の半分は税金だから。
さて、市役所職員で罰金刑に処された職員の待遇はどうなるのだろうか。話は次第に混迷の度合いを深めてきた。疑問になったら、当事者を訪ねることだ。そこで市役所に出向いて、人事課に懲罰規定を訪ねてみた。具体例が色々とA4の紙5枚に書かれていたが、この例にあてはまるものは見当たらなかった。
この所得税法違反は、駒場選管委員長が言い出したものではなかろう。また、玉田事務局長がしなくていいと言ったわけでもなかろう。この事実は積年の体質なのだ。先例に倣って実施したのにちがいない。
このことを再確認してみよう。
県が八戸市に選挙費を前払いしてくる。この金は収入役が管理する出納室に振り込まれる。これを予算として消費する。担当課は無論、選管。
市民が選挙事務に従事すると源泉をひかれて支給される。つまり、選管は市民からは税金を徴収し、国庫に納入。
これを実際、納入する作業は人事課が行なう。ここらが複雑に絡んでいて、説明が難しい。前ページで図解したので参考にされたい。
ここでAの出納室、Bの選管、Cの人事課の三課に平等の責任がある。人事課は年末調整をしたからいいと思い込んでいた。Bの選管は市民から徴税しながら、職員からしない。Aの出納室は都度金を引き出されながら漫然と管理していた。
どこかがこれでいいのかと気づきさえすれば、こうした罰金を払わなくてよかったはず。また、懲罰の対象にもならない。しかしながら、こうした結果を招ずれば、誰かが責任をとらなければならない。ここが役所の役所たるところ。前任者がやったことで、私もそれに倣っただけ。
それでも、責任はとらなくてはならない。危ない危ない、役人はたらいまわしで配置が決まる。そこで暢気に次に回るまで気楽に過ごそうなんて思うとこうした罠に堕ちる。気の毒な話でもあるが、所詮、自覚が足らないだけなのだ。八戸市職員二千人、これらがボウっとして、漫然と仕事をこなす。改革や改善などを指の先ほども願わない。或る意味では江戸時代だ。もっと古く縄文時代かもしれぬ。自分が何をするかもわからず、ただ、ボウっとして、給料を得ることだけに喜びを感ずる。そうではなく、原価をかんがえ、効率を旨とするべき。今居る席でしか、そのことを考える時間はないのだ。
選管の若い者が筆者に言った。この票の判読機械を今見るんですか。来月になれば参院選があるから、そのとき倉庫から出すので、その時見たらいいでしょう。
そういうのは役人の労力惜しみの発言だ。こういう者を馬鹿野郎という。市民の為に働くのが市役所の職員。自分たちだけのために働くのは夜盗。法律も道徳もへったくれだ。こんな連中の集合体が八戸市役所なのか、そうではあるまい。しっかりした課長も数人いる。彼等には頭が下がるが、大方はこんな程度、こんな手合いだ。
 

八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる2

公会堂の基金が設けられ、その財源として法師浜氏から貰い受けた八戸小唄の著作権がある。前号はデーリー東北新聞に報じられたいきさつを掲載したが、今号は法師浜氏自身が出版した書物から往時を再度、偲んでみる。
唄に夜明けたかもめの港
法師浜桜白
 発端は「八戸を語る」座談会
昭和6年2月、鮫の石田家で
 八戸小唄が生まれたのは昭和六年であるが、その制作の口火になったのは「八戸を語る」座談会であった。その座談会はその年の二月三日に東京日日新聞社の主催で鮫石田家で聞かれた。出席者は
 八戸市長神田重雄、市会議長遠山景雄、市会議員石橋要吉、水産試験場長奥津興美(熊沢楠吉代理)、磐城セメント会社湊工業所長目崎恒男、五十九銀行八戸支店長今井梅吉、元芸妓三平こと石橋とら、芸妓才三こと橋本こと、東京日日青森通信部主任菊池武雄、東日八戸専売所長・市会議員近藤元二、東日八戸通信部主任法師浜直吉
 話は新興都市としての八戸は、町を発展するには、なにをやるべきかが中心話題であった。かたい話、やわらかい話、話の中には、ちょいちょい三味線的な伴奏がはいるので笑い声が絶えなかった。座談会の記録がのこっているので、その話のところどころを抜粋してみる。
 神田 築港という話になれば、とにかくこの地方の先覚者である浦山多吉という人が明治の初年に目ろんだ計画です。今と違って旧藩時代の鮫港は海運界から広く知られておったもので、岩手は盛岡から、県内は野辺地方面、秋田などまでこの鮫で物資が呑吐(どんと・呑んだり吐いたりすること)されていたものだそうです。この地方から出るのを三戸大豆といい搾粕(しぼりかす)などは旧藩時代、藩が直接扱い、千石船で鮫から積み出し江戸へもって行って、いろいろな物資と替えてきたといいます。浦山という人は実に頭のいい人だったですネ。
 遠山 目崎さんのような人が後ろについていたら成功した人でしょう。
 目崎 しかし尻内まで鉄道をもって来たということだけでも浦山氏の力大なりといわなければなりませんネ。
 神田 鉄道が開通したのがたしか明治十七年(編集部注・神田の記憶違い・明治二十四年九月一日)の一月四日か五日だったと記憶しています。ちょうどそのとき私は青森から乗って来たので覚えております。
 今井 橋本さん(河内屋)の長根の桜は、その記念だったといいますネ。
 菊池 セメントの輸送は全部海送ですか。
 目崎 現在のところ大部分海送です。まず六割は船ですネ。
 遠山 有名な幕府時代の測量家伊能忠敬がこの地方を測量したときは鮫に泊っておったようです。
 遠山 内舟渡で地下を七間掘ったら、ホッキ(北寄)貝が出たといいます。たしかにあの辺は入り江だったことがわかります。
 石橋 そのころの小中野町と鮫町は全部遊郭でした。今のような商店街になったのは明治四十年この方です。もとは小中野から鮫にかけて遊女街と漁師の二つだけでした。
 菊池 話はちょっと変わりますが、八戸の名物というのはどんなのがありますか。
 近藤 八戸は名物だらけです。行事ではえんぶり、打毬、三社祭り、それに天然記念物うみねこの蕪島、八戸せんべい、むし菊、桐細工……。
 神田 有名な名物はここにおりますョ(三平、才三さんを指して)。
 三平 八戸の名物はせんべいの次はほんとに女ですョ。
 才三 八戸女とよくいわれますが、いったいどこがいいのでしょうネ。
 石橋 八戸女は親切で男に迷わぬというところがいい:・
 三平 いや、それはウソです。八戸女だって人間ですもの、時と場合によっては迷いもするし、ほれもしますが商売に熱心だというところが一番いいのでしょう。
 菊池 八戸で代表的な、なにか八戸節とでもいうような唄がありますか。
 才三 あります、白銀ころし、おしまこ、これは盆踊りの唄ですが、だいぶ有名です。ところが先年田辺という音楽研究家が民謡研究に来られたとき「白銀ころし」は八戸在来の唄ではなく、新潟に古くからあるもので、こっちへ渡ってから三百年くらいになる。たぶん漁師がもってきたものだろうといわれました。
 三平 白銀ころしは「白銀ころばし」というのは本当だそうですョ。花巻方面や秋田地方では八戸節といっているようですネ。
 才三 他所ではたいてい八戸節といいますが、いくら八戸節でも元は新潟節ですから……それに節回しもちょっと一般向きじゃありませんし、あまり上品でもありませんから、なにか適当なものがないかしらと思っております。旅の方が見えると、きっと八戸の唄を……と望まれますが、なにがいいやら迷います。
 菊池 八戸小唄というようなものを作って八戸市を紹介するということも必要ですネ。
 才三 それで私は考えております。八戸の宣伝にもなりますし市になった記念にもなるように誰か名のある方に願って名のある方の作曲で八戸というものがピリッと頭にしみこむような唄がほしいのです。それは計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから市長さん方のお声がかりででもやっていただくようにお願いいたします。
「民謡調で」と神田市長
むずかしかった歌い出し
 「八戸を語る」座談会で八戸の発展の基礎は、まず「八戸」という名を世に宣伝する必要があるということから八戸小唄を作ってほしいとの話があった「八戸小唄由来もの語り」はこんにちまでに、なんべんか語り、書き、放送したことか、いま小唄の話をするには、いささか気がひけるが同じことを述べなければならない。その年の八月ごろ、座談会の小唄の話を思い出し、神田重雄市長にそのことを相談したら市長もまた大いにのり気になった。いまの市政記者クラブをそのころは記者連盟といったかもしれない。各社の先輩たちにも話したら、みな賛成してくれた。ある日神田市長の部屋にみな集まったとき、市長の発言で「八戸小唄」をつくろうということになった。まず、作詩をどうするか、作曲を誰にするかなどの話から、詩は一人でなければならないという話で結局発案者のわたくしに一任するということになった。曲に対して市長は「いまはやりの新曲は長もちしない、古くても民謡調をほしい」という希望であった。そのころ、民謡の歌い手上野翁桃氏の師で仙台の民謡研究家で尺八をよくする後藤桃水という人があるとの話が出て上野氏に依頼し照会したところ、作曲を引きうけることになった。作詩は八月から九月にかけてであった。家の居間の火のないいろりばたで、蚊を追いながら唄を作った。後になって、よくひとに問われることは、この唄でいちばん苦心したのはなにかということであるが、どんな唄でも、作詩のときにいちばん考えるのは第一節、一行目の歌い出しである。つまり「唄に夜明けたかもめの港」これが出来るまでには、ちょっと時間がかかった。最初は「唄に明けたよ、かもめの港」であった。そのときは四節を作って市役所の担当菊池正太郎勧業主任にわたした。そのときはまだ作詩者の名前を考えていなかったが後になって、レコードをつくるという段階になると何かきめなければならない。そのとき座談会の才三さんの話を思い出した「誰か名のある方に願って、名のある方の作曲で……」わたくしは名のある方ではない。そこで神田市長の名はもっともふさわしいのではあるまいかと思った。市長にそのことを願ったら「フフフ」と笑った。わたくしは自分の名を伏せて神田市長の名前と並べて市政記者と書いた。そのとき、北村(益)さんから声がかかり、制作側の仲間になって「北村古心」の名も加えたこともあった。そのころ制作という名目を使わず制作の意味をひっくるめて合作という文字を用いた。作曲が出来たのは十月の下旬のころと記憶する。作曲者後藤桃水氏は踊りの振り付けの型を伝えるために吉木桃園女史を連れて八戸をたずねた。鮫の石田家の主人石田正太郎さんは、八戸小唄の制作のためなら、あらゆる協力をするということで、まず後藤氏らを石田家へ案内した。小中野、鮫の両見番から芸妓代表数人ずつ集まってもらった。作曲といっても後藤さんの持ってきた曲は、おたまじゃくしの音譜ではなく、尺八の譜であった。一同、後藤さんをとりまいて、作曲の説明をきいた。た とえば歌詩を十分に表現するために、波やかもめを心においてつくった。また振り付けも、はちのへとかもめや波を表現するようにつくったという話であった、さて唄の伝授にはいった。後藤さんは自ら手拍子をしながら「唄によあけた……」とはじめる。みんなは、節をそろえて、そのあとをつづく、節の口伝であった。「もし気にいらないところがあったら、遠慮なく注文してほしい」ということで、一ヵ所だけ、わたくしは注文をつけたら、さっそく直し、どうやら出来た。それには伴奏が必要である。芸妓連中は、すぐその場で三味線の伴奏をつくる。チリシャン、チリシャンも出来た。ここで思い出したのはスケートのことである。せっかくの八戸小唄だから名物のスケートをぜひ入れてほしいとの要望があったので、みんながけいこをしている間に、わたくしは石田家の帳場で「こ雪さらさら……」の五節をつくった。こんどは振り付けである。吉木桃園さんは紫紺のはかまをはいた先生のようなかたちで、踊ってみせた。なにか幼稚園の遊戯のような踊りだとそのとき思った。後で聞いたことだが、この振り付けは宮城県塩釜市の三桝よしさんという人の振り付けときいた。踊りは何枚かの振り付けの写真を 見ながら、吉木さんを中心に踊った。みんな本職ばかりなので、その手はもっとこの方がいいとか、足が引いた方がいいとか相談しながら踊った。まず、唄も踊りもどうやら出来た。ホッとした思いであった。けれどもわたくしは、そのとき、この曲はなにかものたりないように思われた。ところが石田さんは「ウン、これはいける」といった。これで八戸小唄は完成した。石田さんはさっそく玄関前で小唄完成記念の写真を撮った。
レコードまず千枚吹込む
「恋の影」から「月の影」へ
 鮫浦のタ景はむかしから絶景といわれた。藩制時代から八戸八景にうたわれたのはいくたびもあった。八戸小唄が生まれたころ、夕陽は八甲田山に沈むと旅舎石田家の突き出しの下に波がサラサラと押してきていた。蕪島には橋があって、その木橋をわたって島へ渡った。旧暦三月三日の島のお祭りの日などは橋だけで渡りきれず渡し舟でわたった。蕪島の群鴎は古い八景の中にもかぞえられている。いまは「うみねこ」と呼ぶほうが多くなったが、むかしはかもめのほうが多く漁師はゴメともいった。鮫の港は築港して漁港と称え、この港から大洋の漁場へ船は続々と出て行った。「唄に夜明けたかもめの港」はここからはじまる。
 八戸の夜景は飛行機から見ると、灯のきらめきの中に赤、青の電光をちりばめて、まことにきれいだが、むかしの夜は小中野の遊郭と鮫の紅灯が船乗り衆の心をかきたてたものである。日が暮れると一度湊橋を渡らなければ眠れないといわれた。湊橋は若衆にとってなつかしい橋であった。そのころは、白銀ころばしの唄とおしまこ踊りがあった。お盆の夜などは老いも若きもみな出て踊った。「鮫の蕪島まわれや一里、かもめくるくる日は暮れる」。八戸の殿さまは二万石だった。唄をつくってから、ある人は「二万石をなんとか十万石くらいにならないものか」と申しいれがあったこともある。八戸の菊の花は奥州菊という。食用菊の阿房宮をあわせて八戸は菊の郷である。そのころの長根はグラウンドもスケートリンクもみな堤であった。春はその土堤に桜がらんまんと咲き、その下にボートを浮かべた。冬は天然氷でスケート場になった。唄の最後のこ雪さらさら……の中に「恋の影」という文字をいれたら、やはりむかしはむかし、神田さんはこの「恋」という字はなんとかならないかと、ニヤニヤと笑った。そこでいまの「月の影」に変えたのである。
 八戸毎日に荒沢基という人がいて、東奥日報の峯正太郎、奥南新報の三湧別完、月刊評論の成田昌彦、東日のわたくしなどでゴシップ会という集まりがあった。昭和七年の春、作詩家野口雨情を八戸によんで当時番町にあった八戸女塾で文化講演を行ない、その夜は鮫の矯本館を宿にした。雨情はなかなか筆の人でもあった。そのとき会員はみな半折を書いてもらった。わたくしのものは「鮫の汐風荒くは吹くな、かわいお方を黒くする」である。いまも夏になると、床に掛けること をたのしみにしている。そのとき雨情を蕪島と館鼻へ案内した。雨情は縞(しま)の着流しに下駄ばきで歩いた。ちょうど八戸小唄が出来たときだったので、歩きながら八戸小唄が話題になった。第一節の歌詩を話したら雨情は「私なら、唄に明けたょ……の方がいいと思います」といったことを思い出す。
 そのおなじころのことである。東京日日新聞、大阪毎日新聞(そのころの社名は二本ならべて書いた)の奥村信太郎社長は地方視察のため八戸を訪れた。菊池青森支局長とわたくしは案内役をつとめて市内回りをした。白銀あたりを走っていたとき、どこかで八戸小唄の声が流れてきた。わたくしは唄などばかりつくっていて仕事をすっぽかしていると思われはしまいかと名前まで伏せてビクビクしているのに菊池支局長は「社長、あの唄は八戸小唄です。この唄は法師浜君が作ったのです」といった。わたくしは急に頬がほてる思いをした。社長は何を言い出すか、ちょっと心配だった。社長は吐(は)き出すように言った「ウン、雨情くそくらえか:・:・」社長はハッハッと笑った。それでわたくしは安堵(あんど)した。
 唄の発表はとりあえずその前年の暮れのあたりであったか、市会議員や報道関係者に石田家で芸妓連中が披露したように記憶する。翌七年の春、三八城公園の観桜会のとき踊り舞台で一般に公開した。記録によれば昭和七年六月仙台のNHKでラジオ放送、同年十一月に八戸小唄完成祝賀を催し市内をオンパレードして石田家で祝賀会を盛大に開いた。その記念写真がのこっている。これを見ると北村益氏をはじめ市内の顔役がずらりならび、それに小中野、鮫の両見番総ざらいの顔ぶれで玄関に大国旗を交叉(こうさ)している。唄を全国的に宣伝するには、まずレコードが必要であることはみなも考えていたのであるが、これは遂にレコード会社から、われわれもと吹き込みの申し込みがやってきた。三社くらいだったと記憶する。このことは市長が上京して東京で各レコード会社と話しあいをつけ、最初につくったのは昭和八年三月三日東京で吹きこんだ。日東レコード会社であった。これは会社持ちで一千枚をつくった。
歌謡調の節と発声で苦心
ツルさんカメさんで騒動も
 八戸小唄をNHKの仙台放送局からラジオ放送したのは昭和七年六月、東京でレコードに吹き込んだのは翌八年三月であったが、このように唄がおおやけになることになれば、歌い手も伴奏もはっきり決めなければならない。これに間に合うように石田家を会場にして小中野見番、鮫見番から代表たちに集まってもらい、ここで歌のテストをやった。わたくしは唄をつくることに一任を受けたが、事ここまでくれば、すべて完成するまでは責任を背負ったようなかっこうになり、仙台なり、東京へ歌い手たちを送り出すまで、わたくしも芸妓連も石田家へなんべんも通った。放送もレコードも小中野見番丸子、三吉、粂八、鮫見番からかの子、才三、梅太郎の六人にきまった。そのうち歌い手は小中野の粂八に決定した。
 苦労したのは歌のことだった。歌の発声と節まわしを長唄調から歌謡調に変えるために、なんべんもけいこした。
たとえばふだんに長唄や清元などばかりけいこしている声なので、節の最後の切れがくせがある。ちょうどいまの歌謡歌手の水前寺清子の歌が、どんな歌をうたっても歌の最後はエーエッと強く歌いきる。あれは長唄調である。そのように八戸小唄をけいこするときに「かもめのみなと:この「と」を長く流さずに「みーなーとーオッ」と強く歌いきるくせはなかなかぬけなかった。これを全歌詞の節、節からぬいて、最後を静かに流して消えるように終わるようにするため、けいこを続けた。こうして歌と三味線、鉦(かね)、太鼓などの伴奏をあわせてオーケーというところまで、みんなが集まった。そして、いわゆるいまいう正調の八戸小唄が出来たのである。
 わたしは昭和十三年の初夏に、転任によって函館市に移った。そのころ函館で宴会などの集まりに、しばしば八戸小唄を聞いた。ところがそのとき唄のハヤシ言葉として「ツルさんカメさん」というのを聞いた。なかなかおもしろいと思った。これはわたくしが作ったのではなく、思うに口三味線のチリシャン、チリシャンがだんだん転訛したのだろうと思っている。
 ツルさんカメさんで、ひところひと騒動かおこったことがある。昭和二十九年の秋のころ、あるレコード会社でツルさんカメさんという歌のレコードをつくったことがある、この歌は、曲は八戸小唄そのままで歌詞を変えたものつまり替え歌であった。そのころの八戸市長は岩岡徳兵衛さんであったが、わが方の唄を無断で横どりしたというので、市長は相手方のレコード会社を訴えると息巻いた。毎日のように新聞が騒ぐ、わたくしはそのとき毎日新聞社東京本社の地方版編集長をつとめていたころだったから、八戸小唄騒動の記事は八戸通信部から本社へ送稿してくる。ソラまた来た、きょうも八戸小唄だと原稿をわたくしのところへ持ってくる。ついに本版へまわして、全国的な騒ぎになった。レコード会社も手をあげとうとう八戸市へ謝罪するということになり、以後この歌を発表するときは事前に必ず「この歌は八戸小唄の替え歌である」ということを、ことわるという口上づきの歌になって唄騒動もケリとなった。
 このツルさんカメさんはその年の秋、東京日本劇場で発表会をひらいた。わたくしも行ってみた。けんらんとした舞台で一人は浦島太郎に扮し、金色のギラギラと光るハカマをはき、一人は女性でツルに形どったものか、竜宮の乙姫さまを形どったのか、白い衣裳にこれもギラギラの男ハカマをはいた二人の舞踊づきの歌の発表であった。約束通り舞台がはじまる前に、緞帳(どんちょう)があがると、舞台であいさつがあり、そのとき「この歌は八戸小唄の替え歌であります」とことわりがあった。この歌の歌詞はわたくしの記憶にも残っていないし、この発表があっただけで消えてしまった。
 そのころ、ラジオ放送に八戸小唄の放送があった。唄のあとに民謡研究家町田嘉章(佳声)氏の説明があり「この唄は青森県八戸の新民謡で、神田市長と後藤桃水と誰々の三人が作ったものです」といった。その誰々がわたくしの名前でなく、他人の名前であった。わたくしは思った。わたくしは名を伏せていても、郷里では、みなわたくしのものであることを知っている。けれども月が過ぎ年が経ればやはりそのようになるものだろうと思った。あくる日、わたくしは町田さんへ電話をかけた。町田さんはさっそく「あれはそのように聞いたけれども、私の間違いでそのことを訂正しました」と答えた。どのように、どこで訂正したのか、その後もわからずじまいになった。
 その後、郷里の友人デーリー東北の角田四郎さんから手紙がとどいて「八戸小唄の作者はいつまでも覆面していると、いろいろと制作名にも変化がくる、このままでは市民感情もおもしろくない、早く覆面を脱いでほしい」というのであった。それから二、三年ばかりたって、また同様の手紙をもらった。こんどは八戸小唄に関するいろいろな印刷物などがはいっていて、これを見ると、小唄はもう他人のものになっているような印象を受けた。ラジオ放送のことがあってから、いつも気にかけている折りこのことを知ったときだった。わたくしはショックをうけたのであろうか。その場で倒れた。そのころ血圧は二百十五で通院中の折りだった。一週間くらい、意識もうろうのままだった。病気は発語障害であった。さいわい三ヵ月の加療でまた勤めに出るようになった。そのことがあってから、わたくしは八戸小唄の作者のことは、やはりあいまいのままではなく覆面をぬいで、はっきり正しく残さなければならないと思った。
唄の吹込みは数十回
 千葉市で小唄芸者に会う
 どこのはやり歌も、たいていはパッとはやって、まもなく消える。ところがどういうものか、八戸小唄はパッとはやって、すぐ消えない。尻あがりにだんだん全国的なものになっていった。わたくしは新聞人として各地を転勤し続けた。行く先、行く先でこの唄を聞いた。昭和十三年以後北海道は函館と札幌には二度の勤務したので、全道ほとんどの市も町も歩いた。その都度にこの唄を聞いた。昭和十七年に盛岡へ転じたとき、わたくしの歓迎会の座でとくにはやり出した唄というので八戸小唄を聞かされた。昭和二十二年から七年間新潟に住んだが、ここではよく知られる鍋茶屋を中心とする紅灯街では、とくに八戸小唄を歌った。あるとき、そのころの知事岡田正平さんと石井総務部長が知事会議のため青森へ出張した。そのとき知事らは八戸を訪れ、鮫の石田家を宿にした。石井部長はかつて青森県庁に勤めていたことがあり、わたくしの旧知の人であったことと、岡田知事は唄も舞踊もくろうとなみの通人だったので、八戸小唄の「かもめの港」を訪れて本場の八戸小唄を聞こうという寸法であった。二人は一夜、八戸小唄にたんのうして、郷里へのみやげとして、八戸から八戸小唄のレコードを買って帰った。このおみやげをもらった新潟芸者たちは、さっそく八戸小唄のレコード試聴ということになり、わたくしも呼び出された。ところが、そのレコードをきいたら、これは東京の名も知らない歌い手が、勝手な節まわしで吹きこんだレコードなので、聞かれたものではなかった。このレコードは落第ということになったら、それをきっかけとして鍋茶屋で八戸小唄のおさらいということになり、とうとう唄の指導にひっぱり出されたこともあった。
 わたくしは東京在住中に会議のために千葉市へしばしば出張した。そこの宴会のおり「八戸小唄芸者」と名を売っている芸者がいて、その席でわたくしに紹介された。はたしてこの唄はほんものであるか、にせものなのかテストしてほしいということで、わたくしの前で、その芸者は八戸小唄を歌いだした。八戸小唄芸者の名をとっただけあって、まずまずという合格点をつけたことがある。
 東京時代昭和三十年ころ、静岡県で伊豆の観光宣伝のため、伊豆八景を選定するということがあり、その審査委員の依頼をうけ、伊豆半島をまる三日間、車で景勝地めぐりをしたことがある。そのおり、唐人お吉で知られた下田港に一泊した。その夜、町の代表たちの招きで、名だたる唐人お吉の唄と舞踊を見た。この唄と踊りはどこにもあるが、さすがに本場だけあって、唄も踊りも、うなるような垂涎(すいぜん)ものだった。この名物のおどりが終わってから若い妓がわたしの前にすわった。「なにかおもしろい唄でもおしえてください」といったら、さっそく、この妓は三味線をとりあげて歌いだした。ナンとその唄は八戸小唄であった。こんな伊豆の端の町で八戸小唄を聞くとは、うれしいよりもびっくりした。
 大阪市に日本民謡研讃会という会があって、ここの会長を乙葉純一郎という。この人は八戸小唄の大の愛好者で、昭和三十八年ころ、その作者をさがし出したとて、わたくしは書状をもらった。それ以来、文通を続けているが、この乙葉さんは民謡の弟子二十人をひき連れて、その年の八月神戸の須磨水族館アクアランドで聞かれた神戸市交通局と日本民謡研讃会の共催の「民謡の夕べ」に出演、八戸小唄の唄と踊りを披露し、つづいて八戸小唄の指導会をひらいて好評をうけたという、その夜の写真づきの神戸新聞文化センターKCCニュースを送ってくれた。この記事によれば青森県民謡八戸小唄は豪華阪だったと書いている。
 ひとびとからよく聞かれる。この唄がどうしてこんなにはやったのか、その伝播力がどこにあるのかという。それは、わたくしも知らない。おそらく地元の宣伝力もあろうし、市民のみなさまがこの唄は「わがもの」として愛する意識が大きい力になっているのではあるまいかということもつねづね思っている。ただわたくしは毎日新聞在社中に作った唄であるから、この新聞社のひとびとはみなそれを知っているので、これもまた、わが社の唄のように愛してくれた。どの県でも販売店の集まりがあれば、その宴会ではきっと八戸小唄を合唱するのが例のようになっていた。わたくしが在社中には、東北、関東の各県の販売関係者から八戸小唄を書いた色紙をしばしば所望された。ただはっきりとわかることは全国のレコード会社が競って八戸小唄のレコードを作ったということである。昭和四十一年六月、日本音楽著作権協会で調査したことによれば、国会図書館にある八戸小唄のレコードはクラウン、グラモフオン、ビクター、東芝、日本コロムビア、キングで四十数回製作している。これには最初の日東レコードなどもはいっていないし、またキングでは毎年のように三橋美智也の八戸小唄を作っていて、わたくしに送ってくれる。それをみると、この小唄のレコードの製作も数十回にものぼっているのではないかと思われる。
世に出て30年、歌詞を登録 
   35周年には協力者表彰も
 わたくしは永住の地として、骨を埋めるつもりだった東京ではあったが、病気を機としてまたふるさとへ戻ることになった。昭和三十五年七月三十一日朝、いまは八戸駅になった尻内駅に着いた。八戸小唄のふるさとという本があるが、その八戸小唄のふるさとへ二十三年ぶりに戻った。
 まず、デーリー東北社から声がかかり、八戸小唄の由来について当時の角田四郎編集局長と対談し、いっさいを打ちあけて覆面をぬいだ。そのときのデーリー東北紙は一ページをこれにあてた。わたくしは覆面をぬがなくとも多くのひとびとは知っているけれども、いままで名を伏せたかたちになっていたので、そのときはっきり名を出した。そのときの紙面は「本当の作詞者法師浜氏に聞く、八戸小唄あれこれ」 (角田本社編集局長)という見出しであった。
 八戸小唄は旅でばかり聞いているので、二十三年ぶりで郷里の本場で聞く小唄もまたなつかしいものであった。ただ本場でもいささか節にくずれのある声を聞くので、むかし、この唄をいっしょに作った見番のひとびとと会って、唄がくずれないように話し合ったこともあった。そのことがあってから昭和三十八年の春、時の八戸市の商工観光課長中居幸介さんに話して正調八戸小唄保存会をつくった。岩岡徳兵衛市長が会長で発足した。
 この唄の踊りは座敷踊りなので、屋外で流し踊りをするために、新しく行進用の踊りもつくった。この唄の制作者を正しく残すこともわたくしの責務でもあろうと考えていたことでもあり、多くの友人、知人のすすめもあって三十八年七月、社団法人日本音楽著作権協会にわたくしの作詞したいっさいの歌詞を信託契約した。その中には八戸小唄もふくまれている。そのころ、この唄の作 詞について、まだわたくしが知らなかった事実を知った。
 それは唄の作曲者を紹介した上野翁桃氏に、そのころ後藤桃水氏から送ってきたハガキの中に「八戸小唄文句二つだけにてはあまりに少なくなほ三つなり五つなり作詞下され度(略)今月中に作曲なすべく侯」という文面があり、また他のハガキには「これでは読む唄になる」という意味のものもあった。どうしたことか不思議に思った。
 わたくしは現在歌っている「唄に夜明けた……」一の歌詞をたった一編を作っただけである。二つだけの詩も作らないし、読むような詩も作らない。作詞の一任をうけたわたくしも神田市長も知らないそんな歌詞が作曲者の手もとに送られていたということは、思えばさきに角田さんがわたくしに、早く覆面をぬげといった言葉がわかるように思えた。けれどもこれはすでに流れ去った事がらで、ここに言うべきことではなかったかもしれない。
 昭和四十年はわたくしの当たり年といわれた。それは八戸市で文化部門で特別功労として表彰をうけ、また県文化賞も受けた。これらは八戸小唄など作詞が主体になっている。その年ある会合に出席したことによって、いまわしい赤痢の疑いまでうけたり、眼底出血により左眼失明という病気で臥床するなど、とんでもない年で、ひという当たり年であった。
 その翌年、日本音楽著作権協会のすすめによって八戸小唄の歌詞を文部省に登録した。もともとわたくしは名を伏せていたことなどから、登録も文部省でくわしく調査の上で四十一年四月十九日登録第八六五六号の一で、著作題号八戸小唄(歌詞)全一編、昭和六年九月三十日作詞、昭和七年四月二十九日発表でわたくしのものであることを同日官報第一一八三一号に掲載、同時にわたくしあてに通達があった。
 このことについては東京の日本音楽著作権協会資料課長宮沢博明、八戸では生証人として峯正太郎、角田四郎、瀬川義寿、若松ツル、橋本こと、佐々木ムメ、木村助一のみなさんは協力してくれた。この登録があってから見方によっては、作ってから三十年もたってから、今ごろ現われてなぜこんなことをするのかという人もあり、その理由にもいろいろと一部の人々に誤解もうけた。けれども真意がわかればそれもわかってもらえたものと思っている。
 四十一年は八戸小唄が生まれて三十五周年にあたる。そこで正調八戸小唄保存会で、この唄の制作に協力した方、また宣伝に努力した方々に敬意を表する議がおこり作曲者の紹介者で宣伝に努めた上野忠次郎(翁桃)=代理=制作協力者である若松ツル(かの子)橋本こと(才三)佐々木ムメ(梅太郎)納所ふち(三吉)=代理=岩館ます(丸子)音喜多サト(才ハ)音喜多スワ(駒助)宮崎キソ(らん子)稲本トメ(五郎)さんら十人を十一月十一日、八戸市の更上関に招き、表彰式を行ない、ときの会長中村拓道市長から表彰状と記念品を贈り、その功績をたたえた。
 その日の祝宴では来賓一同、お手のもの、八戸小唄を歌い、踊り心ゆくまで祝いあった。この席上表彰された一同を代表して才三こと橋本ことさんは「私どもはこの日のあることをどんなに待ったことか、うれしくてなりません。これからもいっしょうけんめいに、わが唄、八戸小唄を歌いつづけます」とあいさつして感激していた。
伝統を継ぐ正調保存会
流し踊りも県南に広く普及
 正調八戸小唄保存会で小唄制作に協力した功労者の表彰式を行なってから一年たった。こんどは唄の制作者の神田重雄さんも作曲者の後藤桃水さんも歌い手柳本粂八さんも協力者石田正太郎さんもみな故人になっているので、この功労の方々の慰霊の法要を営むことになり、保存会の理事である田口豊洲氏の世話で昭和四十二年十一月二十五日糠塚の南宗寺でその法要を修した。神田さんの遣族神田重矩氏、後藤さんの遺族代理上野スエさん、柳本さんの遺族子息茂さん、石田さんの遺族代理福田剛三郎さんらを中心に保存会の関係者の慰霊の焼香が続いた、茶話会では、そのころの関係者の唄の制作の思い出や故人の思い出話が尽きなかった。
 正調ということばは名のある唄の残されているところでは全国どこでも正しい歌を残すために正調保存会がある。北海道でも九州でも佐渡ケ島でも、その土地の唄を保存するために力をそそいでいる。八戸小唄もその保存のために生まれた。佐渡でも相川では相川おけさ保存会があり、両津には両津おけさ保存会がある。また八木には八木の独特なおけさがあり、その保存会がある。しかしおけさは勝太郎ぶしというおけさがあるけれども、島では誰がどんな節まわしに歌っても歌えるというのが、この唄の特徴であるといっているが、それでも本場は本場として伝統の正しい節を保存している。
 このように八戸小唄もレコードで伝えるいろ いろな節があり、いちばん多いレコードでは三橋美智也ぶしがある。三橋の唄は美声と声量とノドのよさによって自然に美智也ぶしになるだろうが、近ごろはほとんど正調の節になった。この唄の節のくずれやすいところは「唄に夜あけた」の「た」のところ、「かもめの港」の「の」のところ、「サメの岬」はの「サメの」は全部くずれやすい。たとえば「さ」をのばすのは、民謡集などにある音譜がそのように間違っているからであろう。いちばんむずかしいところは「サメの」の「の」の発声が短く、かろくとめる。それが小唄をつくったときの節である。「おけさ」のようにどんなに節まわしをしてもよいというように、八戸小唄も、どのような節まわしで、歌ってもよいと思う。ただ本場の唄はどうかといわれれば、やはり、こうだという正調のものを残しておかなければならないと思うのである。
 こんどは踊りのことであるが行進用の流し踊りをつくったのは三、四年前になる。これは保存会が小中野、鮫両見番と連合婦人会、南部芸能協会、当時大館中学校の大西先生が協力してつくったもので二度三度つくり替えて出来た。この踊りは相当普及されているが、それでもまだ踊りの最後のあたりで「手直し」を要望している向きもある。
 けれどもこの流し踊りも県南に広く行きわたって八戸市内の婦人会だけで一時に一千人が踊れるようになった。
 唄には著作権というものがある。八戸小唄をわたくしは作りっぱなしで、しかも長い間他郷暮らしをつづけ、帰郷してから著作権協会に信託したので唄の制作関係のレコード会社は使用料の関係で作詩者をはっきりする必要があった。四十一年五月、レコード会社側の代表キングレコード会社の著作権課小林敏雄、日本音楽著作権協会の資料課長宮沢溥明両氏が八戸を訪れ、その調査をはじめ、わたくしはその俎上(そじょう)に乗せられた。けれども調査の結果は作詩は法師浜桜白であるということがはっきりしたので、その調査は終わった。このことがあってわたくしは精神的に動揺もあったので、それがおちついてから、わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。八戸小唄も作ってからことしで四十一年になった。

手記 我が人生に悔いなし 三

中村節子
○ 退職
父が向山駅で定年を迎えた。当時は五十五歳定年である。これを予測して八戸市糠塚に土地と家を五年前に買ってあった。家は中古であったので土地の奥の方に移動させ、道路に面した側に新築するのであるが、とりあえず古い家に引越すことになったのである。
母は私に退職しなさいという。そのかわり洋裁学校に入れてやるというのである。
自衛隊に就職して二年、特別国家公務員として優遇された職場であった。
八戸でこんなに良い条件の職場はみつかるのだろうか。しかし八戸から三沢への列車通勤はとても不便であった。向山駅からの通勤でさえ、特別に貨物列車に乗せてもらっていたのである。父の計らいで尻内、下田からと四人ぐらい一緒に乗っていた。それも父が現職のときはいいが、退職後もそんなにあまえてもいられない。三沢での一人暮らしは自身がない。特別な資格を持った事務員でもない。
何か手仕事でも身につけた方が得かも。
迷った末に裁縫のきらいな私は洋裁学校を選んだ。時に私は二十歳。姉も兄も就職をして親元をはなれている。弟の小学校卒業式を待って八戸に引越をした。
○ 引越
下北から八戸までの間六回引越をした。
私は引越が好きだった。友達と別れるのはさびしいけれど、新しい友達が出来るし、今度行くところはどんな所かと期待感があり、その土地土地で新しい発見があった。
親には転向手続きや教科書の入手とか苦労があったらしい。引越がおそくなったときは教科書が入手できず、友達から借りてきた教科書を母が書き写したこともあったと聞く。
さて、鉄道員の引越は貨車を使う。
ワム(有蓋車十五㌧車)を一両又は二両になることもあった。漬物石から物干し竿のはてまでも何でもかんでも積み込むのである。
りんご箱(当時は木箱)を何個も引越のために確保しておき、父がその箱を割り当てる。
「節子は何個必要か」「二個」、その二個に自分の物(衣類は別)を自分で詰めるのである。その箱に白いチョークでせつ子、せつ子と四方に書く。非番の駅員さんが手伝いに来て箱の蓋に釘を打ち縄でしばる。このあと詰め忘れが出てくる。子供のやることだからしかたないけれど、詰め忘れが出てくるたびにまだ釘を打ってない箱に入れる。そして必ず「せつ子ぼうし」とか「せつ子カサ」「セツ子長クツ」と書くのである。最小限の荷物を残し貨車に積み込む。
引越は子供達の卒業式や終業式が終わると一斉に始まる。まず定年退職の人から官舎をあけ後任者が入る。というぐあいに次々と動きだす。貨車が先に新任地に到着する。駅のホームに駅員さんが荷物を全部おろし、官舎に納まった頃私達家族が到着する。駅のホームに駅員さんがずらり並んで出迎えてくれる。
あるとき、その出迎えの駅員さんに「せつ子さんはどの人ですか」と聞かれた。父が「このこです」と私を示すとがっかりした様子にどうしたのかなと思ったら、運んだ荷物に「せつ子」と書いた箱がやたら多かったので「せつ子さんはきっと年頃の娘さんだろう。だから荷物が多いのだ」と思い、せつ子の箱を専門に運んだ人がいたというのである。
そのせつ子は中学生だったというので大笑いをした。
最後の引越で八戸へ移動してきたときは親戚の人が手伝いに来てくれたけれど、今までのようなにぎやかさはなかった。少し寂しかった。父はもっともっと寂しかったと思う。
○ 明治薬館
父は八戸駅(現本八戸)の伯○軒再就職、弟は一中へ、私は八戸文化服装学院(現文化専門学校)へと、八戸での新生活が始まった。
生活が落ち着いた頃に家の新築工事が始まり、秋に完成した。古い家から新築へ引越。
しばらくして古い家を借りたいという話が持ち上がった。八戸ガスが社宅を建てるが、建つ前に北海道から引越て来る人がいるというのである。社宅が出来るまでの短期間であるが社宅として借りたいということであった。蛯山さん一家が引越してきた。何日かして母が蛯山さんの奥さんをバス旅行に誘った。そのバスの中で奥さんが詩 吟をやったというのである。その詩吟のすばらしさに母は感動していた。
そして詩吟を習いたいと言い出した。義兄と私と三人で奥さんにお稽古をお願いした。
蛯山さんの話によると「北海道はすごく詩吟が盛んです。私が詩吟をやろうと思ったのは月謝が安かったから。八戸に来て詩吟教室を探したら、八日町の明治薬館という薬屋さんの二階が教室だと聞いたので行ってみたの。五、六人の会員さんが居たけれどテープレコーダーを聞きながら稽古していたわ。どうやらちゃんとした先生がいないらしいの。がっかりしたから、あそこへは行かない」
私は詩吟には興味がなかったので、何気なくこの話を聞いていたが、まさか七年後に明治薬館へ行って詩吟の世界に入ろうとは夢々思わなかった。我が家での稽古は日曜日ということもあって思うように続かず、五回ぐらいもやっただろうか。その内にガス会社の社宅が出来上がり蛯山さんは沼館へ引越していった。詩吟の稽古はそれっきりとなった。
明治薬館は八戸市に初めて詩吟教室が開かれた、いわゆる八戸詩吟の発祥地なのである。明治薬館の長女の知恵子さんは明治大学在学中に詩吟を始めた。卒業後は岳智会に入会して詩吟を続けた。八戸の実家に帰り詩吟教室を開いた。これが今から四十八年前のことである。集まった会員達が詩吟に面白みを持った頃、知恵子さんは結婚して東京に住むようになった。残された会員はあきらめきれず細々と稽古を続けていた。この会員の中に明治薬館のご主人、いわゆる知恵子さんの両親がいた。そこで知恵子さんにテープだけでもとお願いした。そしてテープレコーダーでの稽古が始まった。蛯山さんが教場を訪問したのはこの時だった。八戸の会員さん達の熱心さに心を動かされた知恵子さんは、里帰りのたびに実際に指導するようになった。
私が入門した頃は、当時の先輩達が先生となって、八戸市内に五ヶ所の詩吟教室が出来るほど発展していた。
明治薬館の教場は知恵子さんのお父さん(最上泰風先生)を会長とする翠風会で、師範はお母さんの最上翠岳先生である。そして知恵子さんは東京で活躍する桜井令岳先生であった。
この続はあとで記することにする。
○ 八戸文化服装学院
昭和三十六年八戸文化服装学院に入学。現在の市庁舎前ロータリーの向こう側、消防署のとなりに交番所があるが、以前は塩会社があった。その脇を入って行くと(堀端町)文化服装学院の校舎があった。現在の常海町にある四階建ての校舎は、四十一年に新築移転したもので、八戸文化専門学校と校名が改められている。
当時は中卒が入る本科(一年制と二年制)高卒以上の専攻科、その上の研究科、和裁科もあり私は専攻科に入った。部分縫いから始まり、ブラウス・スカート・ズボン・スーツ・オーバーコートの作り方、レース編みや一般教養科目もあった。授業が進むにつれて平面の布から立体的なものが仕上がる。編み物の時も楽しかったけれど、さらに物を作る楽しみ創造の喜びを知った。裁縫ぎらいが大好きに変わった。学校帰りに三春屋で服地を見るのも楽しみだった。専攻科は一年だけだったが色々な行事があった。遠足は白銀大火で中止となった。運動会は八戸小学校(現八戸市庁舎の所)の校庭を借りてやった。自分自身がモデルとなって自分の作品を発表するコスチュームショーは市民会館(現市庁舎のあたり)でやった。
冬、昼休み時間になると焼イモ屋が学校の前に来る。女の子ばかりの学校だから良く売れた。私も買った。おいしかった。あの焼イモ屋は毎日ピーピーとならして来ていたから、きっともうかったと思う。
○ 失業保険
在学中に心配なことが一つあった。学校には学友会(生徒会)があり、その会長に私が選ばれてしまったことである。本科二年又は研究科の人が去年のことがらを知っているので、その人達から会長を選んだ方が良いと言ったのに、専攻科から選ぶのだ、協力するからと何が何でも押し付けられた形になった。運動会もコスチュームショーも学友会主催であるので、プログラム等に会長名が出る。それが困るのである。担任の先生にお願いした。「会長として私の名前が出ると困るのです。出さないで下さい。そうでなければ学友会の会長を降りたいのです」担任の先生はハッとしたように「ひょっとして失業保険もらっている?」「ハイ、それです」
私は自衛隊を依願退職したのである。依願退職、まして学校に入っているとなれば失業保険は支給されないよと言って、自衛隊では離職証明書を出してくれなかった。「手続きしてだめならあきらめますから、とにかく証明書を下さい」と再三お願いしてやっと出してもらい、職業安定所へ持って行った。当時の職安は下組町にあった。職安では首をかしげた。「こういうのに支給できるかなあ」と、とにかく洋裁学校に在学していることを知られないように、働く意思があるところを見せなければならない。根気よく職安に通った結果、日数はかかったけれど受給できることに決まった。それなのに働きもしないで学校に通っていることが知れたら、支給が打ち切られるのではないかと心配したのである。
「大丈夫よ、心配いらない」と担任の先生は言ったけれど、月に一度学校をぬけだし職安へ行き、必要な書類を提出し失業保険を現金でもらってくるまで、とても心配だった。
心配したお陰かどうか無事六ヶ月もらった。四十年以上の前のことだから、とっくに時効になっていると思う。

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」4

例会の私のありがとうは、売市、ギャラリーみちで九月二十一日に開催された。参加者は富田さん、大久保さん、晴山さんご夫婦、大橋さん、斗賀沢さん、吉成さん、斉藤さん、北山さん、それと杉森さんご夫婦。「はちのへ今昔」編集長、月館弘勝氏。
先ずは八戸の新名所になるべく、この場を提供して下さる精神障害者支援施設経営の北村さんご夫婦に感謝しながら、毎月一回、楽しい人々の交流の場とするべく、ハモニカの演奏から開始。次第に日舞、詩吟、手品などもご覧にいれる。
ハモニカの曲は嫋々として雰囲気がある。杉森さんのご主人がサンタルチアと裏町人生、この曲は昭和十二年、上原敏が歌い、作詞は島田磐也、作曲阿部武雄、暗い浮世のこの裏町を、覗く冷たいこぼれ日よ、なまじ 懸けるな薄情け、夢も侘しい夜の花、というもので一世風靡。演奏者の人生に対する思い入れがあるだけに、なかなか胸に沁みました。
継いで、編集長の風天旅行ばなし。この人は夫婦で一ヶ月も方々を旅行。風の盆から、広島、九州は鹿児島までウロウロ。その紀行を語った。
八戸から出ない人も多く、話に質問が続出。特攻隊の基地、知覧の話は涙なくては聞けない。ゼロ戦の話、パイロットの話、出撃の前に朝鮮人特攻隊員が、死んだら蛍になって皆さんの前に又現れると言って、亡くなった晩にホタルが出た話などなど、先人は苦労をされたもんだ。そんな、話のあれこれを、編集長が綴った。
風の旅   風天弘坊
長野県 上田市 別所温泉で
 ごぉーーん!寺の鐘の音で目が醒めた。
私の生涯にわたって、はじめてのことである。
しらじらと夜が明けはじめた五時に夢のなかで七つ数えたがまた深い眠りに引きこまれた。湯が効いたようだ。夢のなかの出来事か?山中では日の出は遅く、日没は早い。
旅の途中、長野県上田市に属する山中の静寂極まる温泉場に来てしまった。旅の予定も終盤になったが我が古里を出てからかれこれ一月あまり、ホームレスの生活もカマボコのようにすっかり板に付いた?ようである。
此処に来た目的は温泉に入るためではなく「無言館」という美術館が平成九年に開館されていて、そこが目的であった。それより先に建てられた本館は「信濃デッサン館」である。
この歳になっても物識らずの半端な美術愛好家だがお先真っ暗のこの社会の悪行の数々を冥土のミヤゲにと考えた末の行動とも言えるのだ。(ヤケッパチとも言うらしい)
見てやろう。聞いてやろうの旅である。
昨夜のお宿は長野の奥深いところにある別所温泉。
「おお、高級な、お宿でなんと贅沢な」と思ってはならぬ。宿はお粗末そのもの駐車場の一角、すなわち車の中に寝たのである。
南の都市の猛暑をくぐり抜け(36.5℃の日もあったが体温からすれば平熱か)此処は別世界であった。虫よけの網を張った車の窓から山の爽やかな風が吹き抜け心地いい。
無料駐車場には夜の九時を過ぎたら車もいない、人の気配もない静けさだが不気味さもなく清涼感は充分といったところだった。そこは巨大な石を積んだ城のような寺の境内の下にあった。北向観音八二五年の名刹である。ここにゆかりの慈覚大師がおられ、お入りになったといわれる由緒ある湯だそうな。大師湯と言う名である。
境内に入ると愛染カツラの大木があり、縁結びのご利益があるそうだが私ラ爺婆にはトンと関係はござんせん。
消費税の五円をあげて「腐れ縁でもどうにかなりぁんすか?」と掌を合すとバカモン!と観音さまのお声が聞こえたような気が・・。
私は出来ることなら、やってみたかった草むらのなかでの野宿、朝露にぬれての目覚めも悪くはなかったろう。漂泊の旅をした山頭火のようにである。(考えてみると文明の利器とやらの自動車とはなんと無粋なものか)
夜、此処の温泉に浸ったが、やんわりとした湯の質は疲れはてた躰にじんわりとしみた。
湯船に浸かっていたのは私と湯の主人だけであった。ひなびた温泉もこんなにも人の気配が少なくては萎びてしまうのではないかと余計な心配をしたものだ。不況の波はここまで来ているのか。
共同浴場の大師の湯は掛流し、湯船は少々小ぶりだが一五〇円也では贅沢は言えない。入口は本格的な破風造り(お寺の造り)で歴史を感じさせる立派なものだ。
ほんのりと硫黄の香がして飲用もよし。二〇〇円で五〇円もお釣りが来るのは嬉しいではないか。なにか此処の心意気が感じられた思いであった。感謝、感謝である。無料の足湯もあり道端にある飲用の源泉も無料であった。太っ腹!
立派なお宿では入湯だけで一〇〇〇円以上と表示している。宿泊は一五〇〇〇円以上である。私は貧乏人、このような処には間違っても立ち入らぬことである。
湯上りの帰り道は石畳、それがまた素晴らしい感動であった。暗い夜道に人の気配もなくトボトボと湯から駐車場まで歩いた。(一人じゃなく相方とよたよたとだが)たった五、六分ほどの道のりだったが足元の石が燦然と輝き出した。あちらこちらにキラキラとである。それが先が見えないほどのながい距離が続いていた。「わあー天空だ!」思わず口に出た。薄暗い小さな街路灯の光を反射し夜空にきらめく満天の星!となる。歩を進めるとそれがチカチカと点滅して見えるのだ「これは一体なにものだ」地べたに天空を見るなどの幻想は生来初めての経験であった。まるで夢のなか、なんと言う名の石なのか確めようがないが素晴らしいものであった。もう、生きている残りの時間で、こんな想いに浸ることはないのではないか?とふっと頭のなかをかすめたことだ。ここの温泉の効用で熟睡をした。.夢に登場したのは亡くなった親族、亡くなった幼馴染や久しく逢っていない知人達であった。(これはお寺の効用か)
技術の粋を集めたナビゲーションシステムも、使う人間が古いとこんなものか?と
迷い迷ってやっとこの地に辿りついたものだが、わが人生も同じくそんなものだった。と自分に苦笑しあきれ果てもしたが、もう、取り返しのつかぬことではある。最大の迷惑をこうむったのは他でもない相方の労災ではなかった老妻であったろうな。「許せ!」
武将のつもりであったが不精ヒゲほどか。軽いのぉー。笑
旅の最終目的は東京の二科会の展覧会、予定の旅の行程を果たせずに、この地にある「無言館」と「信濃デッサン館」の観賞となる。前館は戦没画学生の作品を集めた美術館である。ここでも目頭を熱くしてしまった。両館長は窪島誠一郎氏。作家水上 勉の子息である。
志半ばで戦争に散った若い画学生の遺作遺品の数々。とてつもなく大きい日本画の作品を見てまた涙。生きていたら、この道で大家になられておられただろうなーと思いを馳せた。建物は十字の形をしているが別に宗教的な意味は含まないそうだ。
光を落した薄暗い館内から外に出ると夏の雲がもくもくと信濃の山々から涌き出ていた。濡らした瞼にまぶしく映る。そして山も野も緑一面鮮やかで美しい。そのなかに紅く点々と花が咲いている。百日紅とも呼ばれる「サルスベリの花だ」出発の日にも我が家のサルスベリの花も咲いていた。
ここではなぜか暑い外気も心地いい。
自然とは「生きていても、死んでいても」自然なのであるがそこにはとんでもない(大きな隔たりがあり違いがある)
私はその風景を目にして「死んで花実が咲くものか」のことばを呟いていた。
あの終戦の日にも確かに我が故郷の山にもサルスベリの花が咲いていた記憶がある。
暑い夏の日も間もなく終わる。  旅は続く
 
編集長の旅の話は次回の「私のありがとう」でも続きます。今回の参加者はご主人に有難うと言う人が多かった。大体において女性が長生きで、亭主の方が先に逝く。そのかみさんから亭主が誉められないのは情けないけど現実。わが身に振り返っても、当然と思うが、今回の出席者連は素晴らしかった。異口同音に亭主のお陰で我有りとおっしゃった。
なかでも岩手県から夫婦で八戸に移住してきた奥さんの喋りに驚嘆。八戸でこんな軽妙な喋りが出来る人がいたんだと絶句。
リズムがある、くすぐりもある、おまけにどんでん返しも含むと、実に話芸の真髄を?んでいる。
この話が秀逸だったので披露。
亭主が小皿を手の上にひっくり返して出した。
「おい。お前、稼ぎが悪いなどと、寝言を並べるな、こうなるぞ」
「お父さん、それはどういう意味ですか」
「それも知らないのか、これはな、お皿が手の上に載っていて、これを放せばバッと落ちるんだ、お皿がバッと落ちるからオサラバだよ、つまり、俺とお前もオサラバだ」
次回のこの人の話を聞きに来てくれ。十分に聞くだけの価値あり。
そのほかに貧乏な父だったが、理美容学校に入れてくれ、そのお陰で今も美容院を営業できる、だから、父にありがとうと言いたいとの言葉もあった。親は有難いものだ。親への感謝の言葉は時折聞く。が、自身が親になって果たして、してもらったことを我が子に返すことが出来たのだろうかと自問すると、してもらいたいばかりが先で、してやる、させてもらえる喜びを忘れてはいないだろうか。
 又、してやったと恩着せがましく言っていないだろうか。前回の例会でも喋ったが、水沢の偉人、後藤新平(政治家、医師より官界に転じ逓相・内相・外相・東京市長などを歴任)が教えた、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そして報いを求めぬよう」を実践できる人は少ない。
月に一度の会ではあるが、こんなことを聞いて欲しい、見て欲しいの心根のある人は是非参加してください。参加は自由、入場料百円で弁当、飲み物つきは人のあたたかいふれあいを願う北村さんご夫婦の心。

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 4

佐々木 わたしが赴任した時、南側の校舎が戦災にあってなかったんです。それで体操場を仕切ったり、作法室、裁縫室をつぶして教室にしました。ところが便所がない。あまってたいへんだった。
 井畑 あの校舎が建ったのは佐々木先生の時でしたね。
 佐々木 はあ、そうです。わたしは校庭が狭くなるので、むこうにのばそうとして、市にPTAといっしょに再三陳情したんですが、「基礎ががんとしていたわしい。このまま使ったらよかろうというので、前のまま建てたのです。ところが建ったのはいいが昇降口と便所がない。これまた市に陳情に行ったが、予算がないというのでどうも困ってしまった。わたしが去ってから正部家先生の時、建ちましたね。
 正部家 そうです。おかげさまでわたしの時に昇降口と便所が建ちました。
  涙で送った六百名
正部家 わたしの思い出の一つに、学区の変更がありました。昭和二十七年の三月でしたが・:・:。八戸小学校児童のうち約六百名という児童を手放すという、八戸小学校長として非常に悲しい思い出があります。けれども八戸市の教育全体の上から言えば喜ばしいことかもしれません。当時六百名という約三分の一に当る愛児をむかえにいらっしやる鈴木先生に、おゆずりしなければならないのです。
 鈴木 フッフッフッフ。
 正部家 わたしとしては、手放すことは悲しかったが、しかし市の行政上のことに対しては、校長としては感情的には反対でも、事情止むを得ない。というので、まず送別会をということになりました。わたしはこんこんとして話を続けました。元、八戸は一つの学校だった。次に出来たのが長者小で、長者小に別かれて行くにも、それなりの理由があったのだ。次に出来たのが柏崎小であった。そこにも理由があった。そして今回もその通りである。市の発展にともない、とても一つの学校ではおさまらないのが分るだろう。決してここだけが、あなた方の学校ではない。長者だって、柏崎だって立派な学校になっている。吹上も、あなた方が行って、更に立派な学校にしてください。市が発展するにつれて人口が多くなり、学校も多くなるのが当然なことで、その点を理解しこころよく別れましょう。幸い吹上小学校には、鈴木校長先生を始め立派な先生方や、よいお友だちが待っていてくれます。長横町を大きな廊下と思っておたがいに行ったり来たりしましよう。
こういうことで悲しみながら喜んだふりをして笑い、お別れをして鈴木先生に無事にお届けしたのです。これが、わたしの悲しき思い出であり、八戸発展の一つの原動力となったと考えています。
 鈴木 正部家先生からお話がありましたように、ずいぶん苦しかったようです。八戸小学校から六百名いただきましたが、受け取るわたしとしましても、校長先生は勿論、先生方にも、もっと強い愛着の念があったように思っていました。第一、一学級から十五人~二十人近い児童が行くんです。すると今迄育ててきた子らの三分の一から四分の一行くんですから、学級ががらんとなるんです。あとは学級を編成しなおさなければならないのです。先生と生徒の別れのつらさ……。父兄と学校の別れのつらさ……。校長先生の苦衷。これはいろいろと問題があったのであります。初めは、半分は行かないだろう。二百名ぐらいかなという話がありまして……。これだと受け取る側としてあまりおもしろくない。(笑い)半分以上はこないかなと思いまして正部家先生にお聞きしたら、「どうかな」という話だったんですよ。ところがふたをあけたらほとんど行ったんですねえ……。
 正部家 ほとんどです。
 鈴木 これは正部家先生のご指導の。
 正部家 いやいや、親さん方と相談し、市が大きくなったんだから、これは当然なことと何回も話し合いました。父兄の方々もほんとうに残念だったんでしょうが、ご了解をいただき別れることにしました、別れはするけれど残念そのものだったのです。愛着に清涙ともに下りながら、数回の話し合いで皆さんが了解してくれたのです。
 鈴木 実はあの日、いよいよ三月二十九日でした.この日は非常に雪が降ってね……。きよう来るというので、わたしと加藤P・T・A会長さんと迎えに行くことになりました。校長室で待っていましたが・::・。校長先生のお話が長くてね……。(一同笑い)ハッハッハッ。しびれをきらして、待つこと一時間三十分。さあいよいよ行きましょうということで、ここを行きました。先生や南部会長にみ送られて、ほんとうに感無量でしたね。吹上小学校に着いたら旗を持って迎えてくれました。
 「よくきたね。ばんざい、ばんざい」とね。
 正部家 この時の情景は非常になごやかでありましたが、悲しみでいっばいだったんです。おたがいに「おら行かない。あの人も行かない」と言うことなしにしようと言いましてね。
 鈴木 わたしがとくに感心したのは、こちらからきた人たちが、実によく協力してくれたことです。こちらから来た父兄は教養が深いという感じでした。一たん別れてきたのでしょう。今度は、実に吹上によく協力してくれました。一度きまれば服従と言いましょうか協力と言いましようか。とにかくとてもよくしてくれました。
 正部家・鈴木 そうそう理解と協力がほんとうにありがたいと思いました,
  理解あるPTA
 井畑 八小PTAはたいへん教育に熱心で、協力活動も盛んなのですが、特に終戦後のPTAのご苦労や、協力活動について、お話しいただきたいと思います。まず佐々木先生から・: 
佐々木 先ほども話しましたが私のときは、終戦後の食糧難時代で、生徒の体位も、一年下まわっていたほどです。そこで学力とともに健康教育、体位向上をめざしました。アメリカから大量の脱脂粉乳がきたので、とりあえず、石炭小屋を改造して学校給食をはじめたんです。そのときに、町内から交代で給食当番が出て協力していただきました。中には、野菜などを持ってきてくれた父兄もありましてね。
 正部家 私も、八小の父兄の教育に対する理解と協力という点で一つの思い出をもっているんです。それは八戸市の発展にともなう学区改制 のため、やく六百名の生徒を吹上小学校に手離すという悲しい事態に立ったのですが、父兄の皆様方は、個人的な感情をおさえて、八戸市の教育の発展という大局にたって、なっとくしてくださり、スムーズに事が運ばれたことは、大いに感謝もし、また父兄の本当の意味での理解と協力の姿を示してくださったと思ったのです。
 鈴木 ただ今の正部家先生のお話の続きになるようですが、当時、私は吹上小学校の校長として、八小から六百名の生徒をむかえる側だったんです。私としては、生徒も父兄の方々も新しい学校に一日も早くなじんでくれるよう願い、また、なじんでくれるかという心配もしましたが、もとの八小のPTAの方々は、今度は、吹上小のPTAとして本当によく協力してくださったんです。うれしかったですね。
 井畑 次に松尾先生の頃から施設面での協力が、大きな活動になっているようですが。
 松尾 私も、PTAの方々の協力が忘れられませんね。とりわけ、施設面の充実が目立ちます。二十八年度の図書室、二十九年度の理科室、三十年度の放送施設、三十一年度の体育施設というように、さすが八小のPTAならではと思いました。また、それが無理な形でなくなされているのですね。それから母姉会の方々が毎月、図書費を集めて、本を買ってくださったことも、思い出の一つです。
 井畑 鈴木先生に引きつがれてからは……。
 鈴木 私のときも、第二次教育施設三か年計画で二百四十万円もの協力をいただいております。音楽室、理科備品、保健衛生施設など、どんどん充実していった。水飲場ができたのもこのときです。途中、私がたおれてしまって船場先生に大変、ご苦労をかけてしまいました。
 船場 本当によく協力いただいたと思います。今までは二教科に重点をおいて施設する学校が多かったのですが、全人教育の立場から、あらゆる教科の施設を並行的に計画実行し、これだけ立派なものをそろえているんですから大したもんです。
 井畑 たくさんの思い出話、本当にたのしく聞かせていただきました。まだまだお話ししていただきたいのですが、時間にもなりましたので、この辺で……。どうもありがとうございました。

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 5

民生委員のころ
      鈴木 弥生
 小春日和の暖かい或る日、町内会の役員の方々がお揃いでお見えになりました。昭和49年の頃でありました。お話は民生委員の候補者を町内から推せんするのだが、その仕事を引受けてくれないかという、おさそいでありました。
 売市に移って来て9年目の頃で、ちょうど子供達も大きくなり、手がかからなくなった時でもあったので、何か習いごとでもと思っていた矢先でもありました。お話には興味をひかれました。
 しかし、事務的な仕事には経験が乏しい事などを思って、果して務まるかと、不安がつきまとい、決心がつきかねておりました。けれどもお話はどんどん進められ、12月には辞令をいただくようになってしまいました。町内からは植木さんも一緒に推せんされていました。
 辞令をいただいた早々に、例会の案内がありました。民生委員の例会というのが、毎月定期的に開かれ、根城地区の委員27名全員が集まり、新しい仕事の打合せ、調査の報告などが行なわれますが、先輩委員の経験談、苦心談が良い勉強になりました。
 地区委員の代表を総務と言いますが、古参の田村弥五蔵先生がお引受けになって、おせわされることになりました。
 研修会も度々開かれました。ここでも仕事の実務をいろいろ聞かせていただきました。先輩方の事例の発表は、仕事の実際を取扱う上に大変参考になりました。
 しかし、むずかしかったのは、福祉の適用を受ける証明でありました。適用を希望する方には強い同情の気持を持ちますが、適用に近いきわどい境にあるものなどには、随分なやみました。
 民生委員の仕事は、全面的に福祉の仕事でありますが、福祉団体の運営にも協力する仕事もありました。例えば日本赤十字社の仕事、或は赤い羽根募金や福祉協議会の仕事などがそれであります。
 町内では、赤い羽根募金や歳末助け合い募金、日赤の社費寄付などを、町内の予算に計上して、一般からの募金をしませんでした。
 その内、日赤の社費は社員個人が、奉仕の心を社費として負担するのが建前であるということから、日赤の社員を募集することになりました。
 町内を戸別訪問して入会を勧誘しました。植木さんは有功章社員を多数勧誘しました。久慈さんも協力してくれました。
 その結果、金色有功章社員、銀色有功章社員、金色特別社員、銀色特別社員、正社員等々に多数の方々が申込んで下さいまして好成績でありました。中でも互光産業㈱さんでは金色有功章寄付金を2年に亘って行うなどの協力ぶりでありました。この事は根城地区全体の成績を押し上げ、全市的にみても成績の上位地区になり、例会では田村総務さんも上気嫌で成績を発表されました。
 何れは、赤い羽根も歳末助け合いの募金でも同じように検討する必要があるのではないかと思いました、
 民生委員を3期9年間無事務めさせていただきましたが、この仕事を通じて、多くの方々の知遇をいただき、教えられ、助けられることが沢山ありました。又年1回行なわれる研修旅行では、他都市の福祉の新しい施設を見学する機会にも恵まれ、9年間は決して長い期間ではありませんでした。私の人生に、大きな剌激になったことは確であります。このことは常に感謝の気持で一杯でおります。
町内会奮戦記
      鈴木  操
 私が町内会に初めてつながりを待ったのは、昭和17年、30歳の時のことでした。戦争中のことで町内会は行政の末端の仕事を色々と背負っておりました。
 当持私は、鳥屋部町に住んでおりました。町内会に協力してほしいというお話がありました。当時若い者は召集されて戦地に行くか、工場で生産に、或は食糧増産に励んでいる時で、遊んでいる者なぞ無いときでした。再三のお話で、結局お手伝いすることになりました。
 町内会長は松原富男という方で、前に八戸銀行の頭取もされた事があり、又吹揚にナシ畑や栗の木畑を広く持っておられ、それに貸家を30戸程建て、ご自分の名前を採って松富町とつけたという、八戸でもトップクラスの資産家ということでした。
 ○ 戦時中の町内会
 頼まれた仕事は、総務班長と経済班長という立派な名前でしたが、他に警防班長、教化班長、婦人班長、健民班長が居りました。実際は名目だけで、総務班長が一人で全部こなさなければならない本当の雑務係でした。最初からそう説明されました。
 辞令をもらって、初めて手がけた仕事は、生活物資の配給でした。小豆やもち米などの食料品、足袋や手拭のような衣料品、酒やたばこなどの嗜好品、それもたっぷりくるのではなく、ほんの少々の数量でしたので、配給の順番を決めて、隣組長を通じて配給切符で配るのでした。それでも当った人には喜ばれましたが、はずれた人は何も言いませんが、顔を見るのはつらいものでした。それよりももっとつらいことは、米の供出要請や債券の割当てでした。町内には大きな地主(田んぼを持っている者)が3~4人居り、その人達には秋に小作米が入ります。その中から、1~2俵(4斗が一俵)位、市に売ってくれと要請するのでした。それを供出米と言っていました。翼賛(よくさん・力をそえて(天子などを)たすけること)壮年団と町内会が市の手先となって地主の説得に当るのでした。地主は二重取りだと怒りをぶちまけます。たしかに市中には公定価の何倍の価でヤミ米が流れていました。
 市の説明では、供出米を病人などに特配して、すこしでもひもじさを救いたいという…納得のゆく説明でした。
 叉そのような収入の多い人は、町内会に割当てられる戦時債券(戦時に、国家が軍事費調達のために発行する公債。軍事公債)なども、沢山買ってもらわなければならない相手です。債券は1枚10円から20円位でした。随分各方面に押し付けました。今でも、その時の末消化のため引受けた債券が2~30枚手許にありますが、子供のおもちゃにもなりません。当時は3千円も出せば、まず住める一戸建の住宅が建てられたものです。
 ○ 戦争末期の町内会
 戦争が苛烈になるにつれて、物資の配給はだんだんすくなくなってきました。反面出征兵士の見送りや、防空演習、金属の回収、慰問袋を差出す割当などが多くなり、町内から持って行かれるものが多くなりました。
 昭和18年になってからは、高館の飛行場の整備や、是川村の上り街道近辺の陣地構築に、人夫代りに勤労奉仕という名目で、働く人の割当てがあるようになりました。言葉を代えて言えば、人夫の手配でした。勿論これらの仕事は奉仕であって賃金が支払われるわけではありません。ふだん労働をした事のない人も、セメントや木材をリヤカーやソリで運搬したり、穴掘りなどの仕事をしました。
 勿論毎日の奉仕ではなく、月のうち1~2回の出勤だったので、続いたものと思います。
 ○ 町内会の仕事にお別れ
 私の町内会の仕事は2ヵ年間という、短かい期間で終りました。昭和19年に月刊評論社という雑誌社に勤めることになったためであります 2ヵ年間ではありましたが、随分動き回りました。仕事には追い廻されましたが、思うように、自由にやらせてもらったので、面白味もありました。松原会長は「問題が起きたら、私が処理するから、どんどんやって下さい」と言って、命令をしたことはなく、親分肌の人でした。
 仕事をやめてからの感じですが、供出させられた人、債券を押し付けられた人達は、さぞ不愉快な思いをしたことであるうと、反省の念しきりであります。
 聖戦遂行という美名に、一点の疑いも持たぬ不敏(ふびん・才知・才能に乏しいこと。多く自分について、へりくだって言う時に用いる)のなせる業でした。
 昭和22年のポツダム政令15号によれば、私の町内会での行動は、公職追放に問われるものであったであろうと、政令を何度も何度も読み返しました。
 ○ 多くの知人を得る
 町内会は、市の大政翼賛会(第2次近衛内閣の下で新体制運動の結果結成された国民統制組織。各政党は解党、また産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合、部落会・町内会・隣組を末端組織とした)、或は翼賛壮年団と関連がありましたので、それらの団休の幹部とお近づきとなり、おかげで私の人脈は豊かになりました。
 市の翼賛会の事務局長の永田正太郎(後の佐々木正太郎デーリー東北社長)三戸郡翼賛会事務局長の峯正太郎、同総務の成田昌彦、熊谷義雄、橋本八右衛門、広田豊柳、大久保弥三郎、(田口豊洲団長はその前からお近づきいただいてました)等の方々が私の名簿に記されております。私の貴重な財産であり、払の人生に大きな影響を及ぼした方々であります。
 ○ 鳥屋部町から南売市へ
 私が鳥屋部町から南売市に移って来だのは、昭和41年早々のことでありました。家は南売市のバス停から100米ほど西の方に入った大変静かな畑の中にありました。家の前は柿の木畑で、初夏の柿の葉の美しさを、この時初めて知りました。
 又初夏の候には近くの高い木の天辺で鳴く「カッコー」の明るい声は、大げさに言えば、この世の天国という感の深いものでした。
 勤め先の商工会議所の仕事に没頭していた昭和44年の春の頃、南売市の町内会からお呼びがあり、又お手伝い(監事)することになりました。それ以来平成4年の春までの23年間おつきあいさせていただき、居心地が良く、つい長居してしまいました。
 その間、いつ頃か忘れましたが、朝の新聞を広げて一番先に目の行くところは、投書欄になっておりました。そこには、時々町内会に関することが投稿されており、貴重な意見があり、要望があり、又時には批判や手きびしい非難が書かれており、教えられるところが沢山ありました。世間の眼はするどいものだと思い知らされました。
 ○ 町内会とともに
 町内会の運営は信頼性、堅実性、永続性が基本だと言われています。
 そこに住んでいる者は、地域団体である町内会とは、何らかの形で、かかわりを持っていて、のがれられないものです。従って町内会は住民が町内会から圧迫やわずらわしさを感じないよう、親しさと安上りの団体であることを目標に運営すべきであると心がけてきました。
 しかし、あまりそれにのみこだわりますと、どうしても事業は「地味」になりがちです。今考えてみれば、時には一点豪華主義も取入れて会員の心に楽しみと喜びを持たせるべきであったと、いささか反省しております。

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 2

四、零からの出発
 京都に婦ってから、一ケ月程して再度八戸に来ました。大龍産業八戸営業所時代に知りあった人達、八戸市役所の福祉課長をしておられた清水丑松さん、皮革会社の魚住亀治さん、鉄工所経営の高橋さん達と相談して仕事を始める事にしました。蕪島の対岸に戦時中、海水を汲み上げ塩を煮つめていた工場が、たまたま高橋さんに払い下げられていたのを借り受け、資金は清水さんが調達する事、私は労力を提供することで清水さんの頭文字ローマ字のSをとり、○S水産加工所として発足しました。
 昭和二十三年一月でした。資金は零、魚及び加工の知識も零、一時清水さんの家の一間を借りて居たのを引払って、塩たき小屋の内に三畳一間の部屋で寝おきして自炊する事にしました。
土地は川平操さんの所有地をお借りし、塩たき小屋のそばにバラックの小屋に釜をつけ、魚粕をつくる事にしました。水は川平さんの土地のはずれにわいていたのを、おけでかついで使いました。御馳走は一週間に一個の卵でした。王城子原の訓練中、主食は高梁、おかずは演習の帰途つんだぜんまい等で生活した経験が役立ったのです。
先ず加工の手始めは、皮革会社で鮫(毛鹿鮫、吉切鮫)の皮をはぎ、肉をとった残りの頭、中骨等を代金後払いでわけて貰い、煮て肥料にする事から始めました。当時鰯等を魚粕にする場合は、煮てドで締めて水分をとったあと、むしろにひろげて干すのですが、鮫の頭や骨はドでしめられません。むしろの土にまな板を置き頭や骨をのせ、なたで切るより方法がありません。
 雨の時にはむしろをたたむのですが、蝿がつき虫がつくのです。それを拡げて干すのが大変でした。パートの人を三人たのみ手伝って貰いましたが、いやな仕事は私がしました。それでも当時は肥料が少なかったものですから、米と交換して貰えました。
次に蕪島の海水浴をする浜に時化のあと海草があがりました。それを拾い集め、乾かしてからもやし、更にうにを取ったあとのカゼ殼を集めもやし、それに鮫の肝臓を煮て油をとった後のべとを貰い受け、三つをダンゴにしてむしろで干しました。肥料の三元素があるという事で買って貰いました。少しずつ資金が出来たので、八戸魚市場から魚を買う事にしました。商号は○S、市場のかぎ取りの岩崎良助さんは○石の事をドンコロイシ、○Sの事を文化エスと呼びました。八戸弁ではエとイ、シとスの区別が発音しづらいのです。中々有名なしっかりした方でした。
資金がないので安いものを買う事にしました。 鮫という地名の通り油鮫がとれました。その生れたばかりの子をピン鮫と云っていましたが、余り利用価値がないので安く買えました。鰹節の製法を調べていましたので、鮫の節をつくる事にしました。頭と腹をかき、セイロで並べて煮てから火山(半分地中に埋め、その上にセイロを積み、下から火をもして燻製にする)にかけて乾しました。花かつをは本物の鰹を削ったものもありますが、市販用の安いのは鯖や鰯の節を削ったものです。これに鮫からつくったのを混ぜて貰うのです。日本中の削り節問屋を調べて売り歩きました。幸いよい値段で買ってくれました。
次にいかの加工を取り上げました。当時はするめに干すのが主流で、まだ冷凍工場はありません。雨が降ってくると腐って悪臭を放ちます。従っていかの値段も安かったのです。
雨が降っても干せる方法を考え、火山に屋根をかけ、いかの胴体を三つ位に切り煮ると輪になります。それをセイロに並べ火山にかけ、いかの節をつくりました。削るときれいな花になります。これを削り節工場に売りに行き、よい値段で買って貰いました。其内クレームがつきました。汁に人れますと鯖、鰯、鮫等の花はしずみますが、いかの花はぽっかり浮くと云うのです。そこでふりかけに使うか、佃煮にすればよいでしょうと云いました。それで納得して買って貰いました。
白銀でスルメを干して雨に困っていた加工業者の人達が早速造り出しました。所が削り節業者からクレームがつきました。削り機の歯がかけるというのです。白銀の砂浜でつくれば風の時にいかに砂がついたのです。削る歯に砂は大敵です。それ等の事を考慮に入れないと失敗します。その内に指導してくれる人があって佃煮を造りました。当時は数軒の佃煮業者がありました。又竹輪を造る業者も数社ありました。○万さん等有力な人達でした。缶詰業者や八戸に鰹が水揚げされた時に、鰹節をつくった業者もあったと聞きましたが、戦後は下火になった様でした。
 当時目抜等の水揚げが多く、粕漬けを大量に製造する加工業者もありました。○福さん等が大手でした。其内に油鰈が大量に水揚げされました。肝臓がビタミンをつくる製薬会社に高値で売れ、魚肉は練製品業者に売れ、名古屋迄送られました。頭や残滓は煮て油が大量にとれました。卵は塩蔵して売れました。
 当時の工場では手挟でしたが、それでもフル操業しました。にわか造りの工場で加工する人も出ました。それぞれ利益の出る仕事だったと思います。私も一を二に、二を四にと手堅く倍増し、仕事も軌道に乗って来ました。製塩工場も買取りし、資金も信用保証協会の保証借入れから、保証なしで借りられる様になりました。

五、本工場の新築
 三年間程で資金も少しながらまとまり、昭和二十六年三月現在の本社の土地の一部三八六坪を六拾五万円で購入しました。そこに蕪島前の製塩工場を移転し、更に新工場をつぎ足し従業員も逐次増加、佃煮、雑節、油鰈の処理、(魚肉、魚油、魚卵等を製造)いかの塩辛、目抜等の粕漬を生産しました。
堅実な倍増計画も順調に進み、二階は男子従業員の宿舎、下は倉庫の二階建の建物も造り、住宅金融公庫の借入れで自宅を建て、一部は事務所にしました。工場も手狭になり逐次増築、更に事務所も新築しました。土地も隣接地一〇〇〇坪程借り乾燥工場に使いました。
事業も順調に進みましたので、昭和三十一年四月二日個人資産、負債を包括引継ぎ株式会社武輪商店を設立しました。資本金は五百万円でした。第一期の決算もまずまずの成績で株主配当も二割出来ました。当時水産加工業界のなやみの種は、冷凍冷蔵設備の不足でした。加工原料を冷凍保管し、魚が切れた後の原料確保が出来なかった事です。加工専業者はまだ冷凍設備を持っている業者はありませんでした。八戸魚市場等設備のある業者に冷凍を頼んでも、処理能力が不足のため思う様にはいきませんでした。それでも一年間(昭和三二年)の冷凍保管料支払額は三五〇万円に達しました。それで意を決し冷凍冷蔵庫建設にふみ切った訳です。借入金二千万円、返済各年度四百万円宛の五ケ年返済計画です。各年度支払う冷凍冷蔵経費を充当すれば返済出来る額です。

六、水産加工組合づくり
 事業も漸く軌道にのり、業界の事を考える余裕が出来、真先に考えた事は何故水産加工業界には、組合がないのだろうという事でした。個々の力では出来ない事でも、多数の人の力を合わせば出来る、組合をつくり仕事をすれば、めいめいが更によくなる筈だと思いました。夫々の人達に意見を聞いた処、組合をつくっても幹部の人達だけが組合を利用して、得をするのでメリットがないと言う事でした。それでは幹部の人は組合の為に、奉仕をする心構えでやればよいだろうという事で、当時の水産加工専業者の人達に話しかけ賛成を得て、昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合を設立、事務所を当社におき役員は無報酬、経費もかけない方針で発足しました。
 当時は未だ北海道に鰊がとれていましたので、漁船を二隻チャーターして鰊の共同買付をしました。それを組合員に分配して加工しましたが、北海道方式の身欠ではなく、一尾から二枚のフィーレにし、一夜干にして東京に出荷しました。北海道では身欠にしていましたが、一尾から腹を欠き固く干して出荷していました。日待ちをよくする為に水分を取った訳ですが、魚は鮮魚のままが一番おいしくて、水分をとり干す程にまずくなるのです。八戸の地の利を活用して、輸送時間が短くてすみますから骨をとり二枚のフィーレにし、余り乾燥せず出荷したのです。果して好評を博し高く売れました。次にいかの塩辛の製法も皆で共同研究し、これも函館の塩辛の製法を改良し、用塩量を減らしました。
容器の共同購入、機械も村上機械(現在の南部クボタ)と共同開発、量産化をはかりました。夫々の努力で販売先を開拓、当社でも最盛期には一日に貨車積三車を出荷しました,いかさきの省力化を考え、廻りに楕円形のコンベヤーで函入りのいかを供給、中にさき手が五十名入り、さいた身、足、内臓を夫々のコンベヤーで回収する装置も作りました。年に一度、組合員一同が北海道をはじめ各地を視察、視野を広めました。組合をつくりよかったと思いました。いかも次第に多く取れ出しました。当時は冷凍設備も少なく、七十%以上鮮魚出荷をしていました。それも貨車輸送が主力で、入車数も中々追いつかず氷をかけ市場に積止めが増えました。
 遂に水揚げしたいかが売れず、値段も極端に下落し、私も一函二円で三千函入札したのが当り、尚二千函残り全部引取ってくれとの事で、一函三円に仕切直して五千函買った事があり、今でも覚えて居ります。それからが大変で毎日増し氷をし、一日千函宛、塩辛といか節に製造し、五日間かかり処理しましたが、氷代と鮮度低下を考えると無茶な事をしたものだと反省させられました。それから余分の魚は買うものではないと、随分勉強になりましたが、今でも時々余分の魚を買い後始末に苦労しています。
 次に三次加工して、付加価値をつける事を考えました。八戸はいかの水揚げ日本一といわれ、大量に水揚げされますので、大量処理をする為、兎角一次加工を主にして来ましたが、付加価値をつける為には、三次加工をしなければなりません。当時は珍味加工と言っても、調味したいかを一枚宛鉄板で合わせ焼く程度でしたが、主として消費地でスルメからサキいかが作られていました。乾したスルメの皮をむき、耳足をとったものを調味して焼き、機械でさいて居た訳ですが、固くて老人や子供は中々食べづらいものでした。いかの産地でわざわざスルメに干してから、サキいかを作るのは如何なものかと考え、鮮いかのつぼ抜きを六十度の温度で、ボイルすれば皮がむけるのを利用し、鮮いかから皮をむき調味し、乾燥機で干し、ロースター(上、下の鉄板を回転させ併せて、上下より熱し焼く装置)で焼き、サク方法で作って見ました。消費地に送った所、やわらかくて万人向けだと好評を得ました。採算もよく、珍味組合(昭和三十九年四月発足)の組合員に製法採算点等説明し、皆で作ろうと提案しました。組合員の一人が、皆に教えてはもうからなくなるから教えるなという意見がありましたが、現在のスルメからのサキいかは、全部新しいサキいか(ソフトサキ)になるから販路は全国に拡がるし、皆でつくればそれだけ宣伝になるから心配はないと説得し始めました。所がやはり量産したいという考えがあり、半製品のまま出荷する組合員が続出、ダルマ(耳足をとり調味、乾燥機で干したもの)のまま出荷する様になりました。
当社は白サキ、後に皮つきの製品もつくり、黄金サキとして最盛期には新潟へ貨車積する位になりました。ダルマ出荷は大畑や函館迄出荷する様になり、遂に予想した通り全国中スルメのサキいかは姿を消しました。
 サキイカ製法に関して思い出の一つは、昭和四十一年八月十四日三笠宮、同妃殿下が御子さま同道でサキイカ工場見学に見えられた事です。珍しそうで熱心に、見学された事を思い出します。
 一方鮮魚出荷に、水揚高の七十%迄依存していた八戸の水産業界も、冷凍冷蔵の設備が増大し中央大手日冷も、大型冷蔵工場を新設する事になりました。当時の岩岡八戸市長から地元以外からの大手業者の設備投資の可否を聞かれた事を覚えていますが、その時に私は「水は低い所に流れるが、魚は高い所に集まります。大手の方にどしどし設備を作って貰い、技術も導入し業界こぞって付加価値をつける事に励めば、八戸の水産業界の前途は洋々たるものがあります。但し、その為には水揚場を増設し県外船の誘致を受入れる様にして下さい」と言った事を思い出します。鮫の第一魚市場から湊の第二魚市場、後には館鼻の第三魚市場と市場設備が拡充され、増大する水揚が処理された訳です。冷凍冷蔵設備も日本有数の収容力を備え、年間加工の原料を蓄える事が出来ました。

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 9

 首をかけて檀家室賀氏を救う
 明治元年(一八六八年)穆山師四十八歳となる。幕使、勝海舟時代の激流を察知し、智能く、西郷隆盛の豪勇を制して江戸城を無血で開城し新時代の夜明けとなる。
 穆山師、宗参寺の住職となり七ケ年の星霜を重ね、檀徒の信頼上下を通じて絶対となる。
 ここに、幕末明治の激動の余波を受けて、あわや首をはねられんとした事件が起きた。
徳川家三百年の恩顧を受けた保守的純情派の一部が遂に上野の森にたてこもり、新政府に一矢を報いんとして立ちあがった。これが彰義隊の乱である。既に前年慶応三年に徳川慶喜が朝廷に政権を返上申し上げ、今年、更に勝海舟が戦わずして江戸城を官軍の総将、西郷隆盛に渡した後であるから、物の数でなく且つ問題にならずに無駄な犠牲を出すにすぎなかった。この彰義隊に参加した宗参寺の檀徒、室賀甲斐守は追われて宗参寺に逃げこんで来た。檀徒に信頼されている穆山師、とっさに本堂の須弥壇にかくまった。追う官軍、およそ二百余人が宗参寺を包囲、七名が寺内に侵入し室賀の引渡しを要求した。
官軍「室賀は間違いなく、この寺に逃げこんだ。それを見て知らせた者がある渡してもらおう」
穆山「いや、室賀は居らぬ」
官軍「おらぬ筈はない。家捜しをするがよいか?」穆山「家捜しするとな、僧侶たる私の言うことを信ぜず、家捜しして居らぬ時は何とする。全員   腹かき切ってわびをするか」
官軍「生意気な坊主だ。室賀の代りにお前の首をはねてやろう、室賀を出すか、お前の首を   出すのか」
橋田「よかろう。居らぬものを渡すわけにはいかぬから、私の首を渡そう」
官軍「よし、それでは」と刀を抜いた。
穆山「持て、待て、私はな、生来酒が好きでな、冥土の土産に酒を飲ましてくれ」
官軍「よかろう。」
穆山台所より一升徳利を持参し、官軍代表七人の前に坐禅をくんで、チビリチビリ飲み出した。これを見ていた一人が舌なめずり。穆山、すかさず、
「貴公も一杯どうだ」
と杯を差し出す。思わず手を出して杯を取る。穆山、すかさず、さっとなみなみとついでやる。官軍うまそうに飲みほす。貴公も、ともう一人の隊長らしき者にも飲ませる。ここで穆山しめたと思い
穆山「貴公達、拙僧の首は差しあげるから、話しを聞いてくれ。」
官軍「よかろう。」
椎田「諸君が朝廷に御奉公する義心も、室賀が徳川家の家臣として長らく恩顧を受けた徳川に殉ぜんとするのも、忠義、義心に於て変りはない。貴公等の目指しているこれからの新日本建設は逃げる者は追わず、弱き者は前けてやった赤穂四十七士の義士の精神によらざれば出来ない難事業であるぞ。その精神の提唱者山鹿素行先生がそこに眠ってござる。まあ、私のいう真意が分ったら、何時でも首を持ってゆくがよい」と泰然自若として死線上の説明をなし終えた。
官軍達「この和尚、どえらい和尚だ。後日何かの役に立つだろう。」といって立ち去った。
 この事件が縁となって西郷隆盛が西有穆山を知る事となり、しばしば会見している。こうした事もあって、文明評論家の哲学者田中忠雄氏は、明治の三傑として、明治天皇、西郷隆盛、西有穆山の三人をあげている。
    
故郷八戸に対する慈悲報恩行始まる
 明治二年(一八六九)穆山師四十九歳となる。故郷八戸糠塚の光竜寺に西国三十三ケ所霊場の代替巡礼観音として、この年寄進した三十三観音像が現在も光竜寺本堂前の観音堂に整然と安置されてあります。穆山師は親孝行に於て有名であると共に非常に観音信仰に篤い方でその証拠が開山の寺、八戸市光竜寺様にも遺されていることは有難いことであります。穆山師は眼蔵の大家であり、坐禅の権威者であったから、近寄れない、いかめしい冷厳一徹の人と思われ、又、やかまし屋という印象が強いのですが決してそうした片輪者ではありません。人情に厚く、義理に強い、弟子愛、故郷愛がみちた方であったことは、これから述べる鳳仙寺時代、可睡斎時代の勝跡に出て参ります。

鳳仙寺時代
殺されても袈裟は捨てぬ
 穆山師は明治五年(一八七二)より同十年(一八七七)まで約六年間、群馬県桐生市梅田町の鳳仙寺に住職している。この時代は、穆山師に取って特異な時代である。
 人間は政治の中央に居れば、自分の力量以上に評価されポストも与えられ出世するものでありますが、穆山師は、東京の中心にある宗参寺を去り、群馬県の田舎町、桐生の鳳仙寺第二十五代目の住職として都落ちしたのである。都落ちした穆山師は、世の常識的軌道に乗らずに、逆に中央の要職に引っぱり込まれています。これも穆山師の偉大さを証する一つと思います。
 慶応四年三月十三日、新政府によって発布された「神仏分離令」(仏教教団の組織の中に含まれていた神事、神祭を分離し独立させ、神職の宗教的並びに社会的位置を高める為に発布した悪法令)が爆発の発火点となり、廃仏毀釈の気運を全国的に広める暴政を取るに至った。これは、水戸学や、平田篤胤の学風をうけた国粋主義者及びその影響下にあった政治家の行き過ぎであった。彼等は国民の心の糧となっている仏教を異端視し、邪教視して、神道の国粋性、(それは合理性でも合倫理性でも、合普偏性でも、合国際性でもなかった)を高揚し、仏教組織を行政の強権を以って圧迫し、仏堂を破壊し、仏像、仏具、経典を焼き払い、僧侶に「祝詞」をあげることを強要し、或は還俗を勧告し、大寺院の山門の前に鳥居を立てて神社なりと称して強奪する等現代の中国政府の文化革命や、統一新ベトナム政府の保守系僧侶の洗脳政策の人道的で、妥当な宗教政策とは比較にならぬ野蛮的暴力的狂乱政策を敢行したのが明治政府の廃仏毀釈の実体でありました。その悪性が大正時代となって、自由民権思想によって、影をひそめていたが昭和の初頭より再び、その極悪性を継承した日本の軍部及び右翼の政治家達が遂に日本を滅亡の大戦争に追いやり、「貸家(占領米軍駐留)と唐様に書く三代目。」(明治、大正、昭和)の憂き目に遭わせるに至ったのであります。
 穆山師は、こうした狂言的暴力行政の源泉である、神道国教主義者と能く戦い、能く説服して、仏教の破滅を防ぎ、自由主義、国際協調主義、博愛平和主義の新仏教、正法確立の先駆者として活躍したのが桐生の鳳仙寺時代であります。
 明治五年三月十四日、政府は、教部省を設置して、宗教政策を強化したのでありますが穆山師は、この年、牛込の宗参寺住職を辞し桐生の鳳仙寺(別格地寺院)に転住せられ、政治的大活躍をせられるのであります。穆山師のこの動きを正当に判断する為に、明治政府の宗教政策の内容を知る必要があります。教部省を新設した政府ぱ、その所管の事務を、
一、社寺廃立及ビ祠官僧徒等級格式等ノ事。
一、教義ニ関スル著書出版免許ノ事。   
一、教徒ヲ集合シ教義ヲ講説シ及ビ講社ヲ結ビ候者免許ノ事。
一、教義上ノ訴訟ヲ判決スル事。
の四条を定め、これを各宗派の事務局に通達し、且つ、従来の仏教の十三宗五十余派を勝手に七派に滅少し、その官製七派に官長一名を置くことにした。即ち天台宗は三派を合同、真言宗は十一派を合同、日蓮宗は七派を合同、真宗は九派、時宗は一派で合計で七派に強制統合して、有無を言わせずに仏教各宗派を弾圧したのであります。
 従って禅三宗十六派では合同で一人の管長しか持てなかったのであります。即ち禅宗管長という名の下に、明治五年十月三日より同六年三月三十一日までは、臨済宗の天竜寺住職滴水宜牧師に、曹洞宗、黄壁宗をも管理指導させ、又明治六年四月一日より同七年二月十九日までは、曹洞宗永平寺貫首久我環渓師に臨済宗も黄壁宗も支配させているのであります。こうしたことは到底長続きするものではありません。各宗派の不満、不平、攻撃にあって、一年四ケ月の短命制度で終っております。
 政府は、明治六年五月に神仏合併大教院を開設して、神職と僧侶を教導職となし、三条の教則を説くことを本務として体裁を飾ったが、それは、仏教と僧侶という名のみを残して仏教の精神を皆無にしたものを機械的に政府の御用精神を国民に伝達する機械人間にすぎなかったのである。その布教の目標を見て唖然とします。それは、仏教各宗の宗旨を説くことを禁止し、僧侶否全宗教者が時の為政者の誤れる政策を吹奏するテープレコーダーになれということです。
   三条の教則
一、教神愛国の旨を体すべき事。
一、天地人道を明にすべき事。
一、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむる事。
の三条でありますがこれを当時の国民道徳の範囲で説いて、日本の国体の尊貴を知らしめ敬神愛国の精神を高揚するよう協力してほしいというなら理解出来るが、仏教伝道を生命としている僧侶に対して絶対仏教を解くなというのだから承服出来ない。
 低級な政府の伝達講演をやって居れば無難であるが、少し高尚な比喩なり、学説を仏典の中から引用しても問題とされ、県令(県知事)より教部省へ上申され、教育職を免職すると強迫したのであるから気骨のある者は黙っておれず、衝突することしばしばであり、各分野から猛烈な反対運動が起り、遂に教部省は僅か五ケ年の短命で明治十年に廃止の憂目をみるに至ったのであります。
 こうした時代の激動変化期にわが穆山師の不惜身命の活動が生まれたのであります。今、その主なるものを二、三あげますと、穆山師は、明治六年五十三歳の三月に教部省の召喚に応じて上京し、いろいろ話し合いの結果、教導職中講義に就任し、継いで大講義に昇進しております。
 これは、外部で遠吠えしているよりも内部に入って直接阻止するなり、改革した方が賢明であり、早道であると思考したからであります。
 穆山師は、明治六年一月には、禅三派(普通、禅三派というが、曹洞宗、臨済宗、黄壁宗の三宗を呼ぶ時は禅三宗というべきだ)より選ばれて、大教院議員となり、政府の非道な廃仏毀釈の暴力政策に徹底的に抗戦し、その誤まれるを是正せしめた。
 特に僧侶の法服、即ち袈裟をかけ、法衣を着ることを禁止して、一般人と同様の着物を着用せよと議決した大教院の院議をやり直しさせ従来通りでよしとしたのは、穆山師の活躍によるとされている。穆山師は「他はどうあれ、私は殺されても袈裟をかけ、法衣を着る。」といって頑張ったのであります。
 明治六年三月には、大学八大区末派寺院説諭教法調査に任ぜられ、又神仏道各派管長の依嘱を受け、宗教調査の大任を托せられた。同四月に、権少数正に補任され、両大本山代理を命ぜられ政府の宗教政策に対する曹洞宗の代表者として活躍した。
 又、「護法用心集」を発刊して政府の廃仏毀釈の非道を批判し、正法の護持と僧侶の大反省を求めて大警鐘を鳴らした。
 又、同年九月には北海道巡教を拝し、同十一月大本山大会議議員となり、宗門行政の大綱を統置したのであります。
 穆山師は、明治十年四月、静岡県の可睡斎に転住するまで、鳳仙寺住職として、又政府の大教院の教導職として出でては廃仏毀釈の暴政に抗戦し、入りては仏教界の進路を明示し、又仏教信徒の教化開拓にと輝ける大活躍をしたのであります。
 北海道巡教と札幌市中央寺創立も亦、この時代の壮挙であります。
 観音菩薩の御冥護
 明治六年(一八七三)五十三歳となる。この年十一月、教導職第三位中教正に任ぜられ、曹洞宗管長代現として翌七年八月に北海道開拓の為、渡道することになった。
 穆山師は渡道に際して、師の帰依者である横浜の広島屋に一泊して旅装を調えたのであります。翌日、いざ出発と乗船の時刻を聞いたところ、船は既に一時間前に出帆したとの報告、穆山師、怒髪天を衡くの形相で、
 「今度の渡道は私用でない、公用だ。宿屋根性を起して二泊もさせようと考えたであろう。不届き千万、無礼者」
 穆山師の声は生来大きいのに、口宣策励(言葉にだして励ます)の叱声は広島屋の主人をふるえあがらせた。
広島屋「申し訳ありません。老師様の御宿りが有難いので、のぼせてしまいまして……。」と額を畳につけて、平あやまりにあやまって、老師の御海容(かいよう・寛大の心を以て、人の罪過をゆるすこと)を願ったのであります。
 翌日、乗船出帆し、金華山沖にさしかかると「昨日横浜を出帆した船が暴風雨の為に、木っ葉みじんとなり、船客全員海底の藻くずとなってしまった」と聞きました。
 穆山師は、行季の中に入れて来た観世音菩薩の尊像に向い、「御慈悲を賜わり、御冥護(みょうご・神仏が知らず知らずのうちに守ってくれること)と深く感謝申し上げると共に合掌して遭難者精霊の御冥福を祈ったのであります。               
 広島屋の、のぼせが変じて観世音菩薩となったのであります。
  札幌中央寺建立
     (札幌市南条西二丁目の一)
 海上無事に北海道に上陸した穆山師は、北海道開拓使庁判官松本十郎に会見を申し込んだのであります。判官はクリスチャンで大の仏教嫌いであったから、「まだ宗教家が入るには早い」といって、玄関払いしようとした。穆山師は、「ハ、そうですか」と引きさがるような不見識ものではない。「旱いか、旱くないか、意見を交換してきめたらどうだ」と強く会見を交渉し、遂に松本十郎判官と十日間の長きにわたって、問答激論を闘わし、政治、経済、教育、開拓、宗教等の百般にわたる意見の交換で、悉く判官の敗れるところとなり、判官は穆山師の人格と学識と熱烈な開拓精神に心服して、遂に無二の信者となり、判官自ら寺院設置の敷地壱万坪を選定給与して、小教院(大教院、中教院、小教院は明治政府の機関)を建立せしめ、北海道の精神開拓の根拠とさせたのであります。
 当時の札幌の周辺は人心未だ安定せず、また諸藩の武士や、旧幕臣や、北陸よりの移住者が多く、それらは曹洞宗の信者が多かった為この小教院に集合する者、日毎に多くなり、中教院に昇格した。後の札幌の中央寺がこれであります。穆山師随身の門下僧小松万宗師が主管となり、明治十年組織を改めて寺院となし、十一年から三ケ年に亘り本堂その他を建設して、明治十五年に中央寺と公称したのであります。而して、鉄道布設と墓地の移転が行なわれた為、明治二十一年転地を企画し、同二十三年十二月十七日許可を得同二十五年九月現在地に移転したのであります。
 そして、敷地が壱千六百二十坪に縮少されてしまいましたが本堂と庫院に加えて最近立派な位牌堂が建立されたのであります。今では文字通り宗門の名刹であります。
 穆山師は、自ら開基となり、親交厚かった当時の大本山永平寺貫首久我環渓禅師を拝請して開山となし、大本山永平寺様の直未寺院としたのであります。環渓禅師はこうした穆山師の思議に厚く、開拓の功績と眼蔵研究の功労に対して、明治十四年九月二十八日付を以って、宗祖道元禅師の御霊骨三顆贈与の最大の表彰を以って報いたのであります。
 穆山師は、明治初頭の大激動期に於て、仏教界内外に対して、自信に満ちた護法顕正の大活躍をせられたので、道誉益々あがり、遂に明治十年四月、東海の名刹可睡斎に懇請され、その住職となり、拾万石の「御前様」の待遇を受けることになったのであります。

東奥日報に見る明治三十四年の八戸及び八戸人

階上銀行楼上に開き年一割の配当を決しそれより臨時総会に移り取締役一名欠補選挙を行いたるに大久保平蔵氏当選せり今同行の報告に係ある昨年下半期営業の景況は左の如し
学生蓄金所謂郵便切手貯金励行あるを以って往々小口貯金は振り替え預けを為すあり其の人員に於いて前期より比較的増加せざるの異状を発せり殊に壱再の勧業債券募集に際し幾分かその景況を蒙りたるの感ありしも概して勧債貯蓄の美風発達せる結果にや当座預金は日を追うて増殖し今や本店にて一万六千余円に達し代理店中三戸にて壱千余円七戸は三千余円三本木は開設の日浅きと赤痢流行に遭遇し甚だしき支障を受けたるも五百余円の額を得たり普通銀行に於いても月を累ねて諸般の事務進暢しつつあるは全く世信を厚うせしによるならん而して優に前例に倣い一割以上の積立金と配当金を挙げるに至れり
五十九銀行支店の祝宴
第五十九銀行にては青森銀行と合併し且つ青森支店改築工事も竣工せしを以って来る二十七日午後一時より同支店に於いて祝賀の式を挙行し終わりて午後四時より金森楼に於いて宴会を催す由
八戸だより
既に通信ありたることとなるべく重複の嫌い可有之候得共見るまま聞くまま申し上げ候先ずは教育品展覧会に候是は本月十三日より十六日まで開きし次第にて三戸郡教育会の事業として本年は八戸郡会是が選にあたり八戸尋常高等小学校を会場に充てたるを以って出品の誘導寄付金の募集内外の装飾陳列配置監督に至るまで専ら八戸小学校の教員諸氏労をとられ候由門を入りて右方に地理模型を造り宛然三戸郡の地形に象り名久井岳階上岳鮫蕪島市街村落より岬角灯台隋道電信より山川湖水森林田畑に至るまで悉く数坪の中に具備せしめ左方は御慶事記念の為植えたる竹林を利用し孟宗雪中の筍堀りを作り前には大灯篭大額面外国旗数百の球燈を掲げ外部の装飾のため一層景気を添えたる様見事に出来候校内を十一区に別ち第一区教授器械乃ち八戸小学中学校理化学機械及び博物標本地図統計表の類頗る有益のものを認め申候第二区は古器室にて旧藩主南部公の出品武具文房具画幅類にして朱沈金机梨地蒔絵の書棚の牡丹に探幽の官公など世に得難き宝物のみ又八戸青年会の物も陳列。(中略)
次に八戸お祭りさわぎ 八戸警察署より禁止の命令に接したるより消防組一同激昂し総辞職を決議し夫々調印済みになりたるを遠山町長仲裁の労をとり結果思いとどまる事になりたれども届け書は未だ其の手元にありとの事、市中の混雑群集は申し分なく殊に当時は農家も閑暇季節方々遠近在よりの入り込みたるもの非常に多く市中の夜宮は軒提灯は勿論種々の飾りつけ等有之長者山にては神楽打球の催しあり旧藩主南部子の来八中なるを幸い招待して一層賑やかその他神明社内相応の賑わい盆踊りにて徹夜せしもの多く警察署の見込みにては例祭(即ち市中を行列して神輿その他山車挽き廻る)を禁止すれば他国よりいり込みなく宮祭りにて氏子ばかりの参拝にとまると思いたるに予想外多数人の入り込みたるには一驚し例祭を禁止したる功能少しもみえず賑わいは警察において宮祭例祭との区別なく例祭禁止については市中の風説種々あり中にも消防連はやぶれかぶれに神輿をかつぎ警察に一泡ふかせんとの説を聞き警察は大にあわてて各消防小頭に巡査を派し其の景況を探らしめ一方には宮総代人を呼び出し説諭しに一同は寝耳に水と更にそれらの計画なき事なればその旨答えたるに警察もやや安心したるげに尤も石黒署長不在にて次席野呂警部の意見なるべくも警察はよほどあてにならず
八戸肥料製造会社開業式
農業の生産力を増加せしむるは適当なる肥料によらざるべからず近時海外輸入肥料の数量驚くべく増加したるは即ちこれがためなり而して農業経済上肥料は其の成分の良好なると共に其の価格の廉なるを要す是れ今回同地有志者の興したる所為なり何となれば同社の肥料は牛馬骨及び魚骨その他の廃物を利用したるにして原料は極めて廉にして且つ豊富なれば同社の創設は県下有志の賛同を得予定の資本額を増加すべきまでに好況を呈したるも製造の時期に切迫したるを以って先ず最初の予定額を以って組織することとなり工場を舘村に設け諸般の設備既に全く完成せるを以って去る四日午後二時より湊の北越亭において開業式を挙行せり今其の光景を略記せんに式場は緑門を作り国旗を交叉し楼上めぐらせる幔幕を以ってし尚屋上より数条の縄を張りて数多の彩旗を翻し場外の光景人をしてこの日の盛況を予想しむ式場は楼上をもってこれに当て正面には演壇を築き一方には幔幕を張りて舞台を設け余興の準備をなし定刻よりは来賓続々として場に満ちぬ県庁よりは岡書記官、中村技師、清水、中村二県属、松野技師らを初めとし各銀行会社長、県議会議員、郡会議員その他の有志百余名午後二時社長石橋萬治氏は式辞朗読
明治三十四年三月四日
石橋萬治、岡書記官の発声にて明治天皇万歳を三唱し式を終え舞台には三番叟及び多数の手踊りあり後略
明治三十四年七月二十七日付け
自転車の旅行
八戸の橋本八右衛門氏は昨朝七時自転車にて八戸出発野辺地一泊昨朝七時同地出発浅虫に立ち寄り入浴の上昨日午前十時当地着昨日弘前一泊其れより能代秋田山形仙台を経て来月一日八戸へ帰着する予定という
八戸の浮浪の徒の頭領なる福田祐英を初めとして三戸郡湊村大字浜通川村留吉(四一)同七太郎(四四)三重県伊賀郡美の波多村字東田原福田誠造(四十)の四名は恐喝にて八戸より青森へ一昨日廻される
八月十一日
一昨夜来の地震
南部地方 八戸、十日午前三時三十七分激震家屋破壊せり微震強震共前後七回あり
汽車不通尻内沼崎間は線路の破損少なからず橋梁落ち為に汽車は不通となれり又沼崎野辺地間所々に小破損を生じたる為に昨日は尻内野辺地間は汽車の運転を停止おれり
鉄道被害
尻内駅 機関車は大破壊し屋根落ち修繕の見込みなし機関車二台破損せり石炭庫も大破損したれども修繕の上再び使用するの見込みありと社宅の破壊最も甚だしく中にも合宿所は棟梁等落ちたれども死傷なし
八戸町の被害
八戸町に於ける被害の概況は前号に記せしが尚各戸の壁及び戸障子は多少の破損を来さざるはなく瓦屋根は概ね破損せり而して被害の箇所は当時亀裂と思いし所は破損を増し、今回の損害は主に土蔵に多きを以って左官人夫の欠乏夥しなお警察署にても硝子洋灯門灯に破損あり月館末太郎方住家倒壊の際は末太郎母及び妻の両名は潰家の下に圧せられたるを警察署員直ちに駆けつけ之を救助したる為無事なるを得たりと
八戸地方 八戸にては男一名女二名は打撲傷を負いしも何れも軽症なり家屋破壊は五棟にして外火災に罹りし工場(煉瓦製造場)一棟、破損家屋は三十九棟にて同じく土蔵は二三八棟の多きに達したり
八戸における大隈氏
東京専門学校の大隈英麿氏一行は過日野辺地より八戸に立ち寄られしが八戸に於いても第二中学校に於いて講話会を開き終わりて懇親会を開く計画にて夫々準備中のところ折悪しく震災のため中学校も破損して混雑を来たし且つ市中一般に損害多しと言う騒ぎなれば大隈氏も遠慮して氏の方より講話及び懇親会を断りたり只若松旅店にて発起人たりし人々及び主立ちたる人々来訪者に一席の談話をなして帰京せりと当日その席にありしは階上銀行頭取大久保平蔵、同取締役関野市十郎、泉山銀行頭取泉山吉兵衛、商業銀行取締役横沢新太郎、富豪橋本八右衛門、北村益、奈須川代議士、遠山町長、浅水郡会議長、重野第二中学校長、高野八戸高等小学校長、白井郡参事会員、各村長、町会議員、出発の際には南部家令諸氏も停車場まで見送りたる由
八戸の大祭と汽車
八戸にては例年の通り来る九月二日より三日間三社大祭執行の筈なるが昨年は流行病のため同祭りは中止となりしのみならず本年は世界一般に不景気の声喧しきも八戸地方の浜方は鰮の大漁にて漁民の景気一方ならず水陸とも豊作なれば是までの不景気を回復し商業を振るい起こすべき目的にて同町及び近村は非常の発奮にて例外の大祭行い大いに市中を賑わす筈なるが参観者の便利を計り来る九月一日より四日まで四日間青森より八戸盛岡より八戸までの両駅間における汽車賃割引のことを日鉄会社へ請願せりと
八戸郷友会
在青森八戸郷友会秋期第二回茶話会を来る六日午前九時より当市浜町山崎旅店にて開会するよしなるが委員長は浦山助太郎、委員は岩泉亀松、八重畑勝蔵、永田隆三、菊池寿輿、野田秀二の諸氏なりと在青森現在会員は四十二名