2007年11月1日木曜日

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 2

四、零からの出発
 京都に婦ってから、一ケ月程して再度八戸に来ました。大龍産業八戸営業所時代に知りあった人達、八戸市役所の福祉課長をしておられた清水丑松さん、皮革会社の魚住亀治さん、鉄工所経営の高橋さん達と相談して仕事を始める事にしました。蕪島の対岸に戦時中、海水を汲み上げ塩を煮つめていた工場が、たまたま高橋さんに払い下げられていたのを借り受け、資金は清水さんが調達する事、私は労力を提供することで清水さんの頭文字ローマ字のSをとり、○S水産加工所として発足しました。
 昭和二十三年一月でした。資金は零、魚及び加工の知識も零、一時清水さんの家の一間を借りて居たのを引払って、塩たき小屋の内に三畳一間の部屋で寝おきして自炊する事にしました。
土地は川平操さんの所有地をお借りし、塩たき小屋のそばにバラックの小屋に釜をつけ、魚粕をつくる事にしました。水は川平さんの土地のはずれにわいていたのを、おけでかついで使いました。御馳走は一週間に一個の卵でした。王城子原の訓練中、主食は高梁、おかずは演習の帰途つんだぜんまい等で生活した経験が役立ったのです。
先ず加工の手始めは、皮革会社で鮫(毛鹿鮫、吉切鮫)の皮をはぎ、肉をとった残りの頭、中骨等を代金後払いでわけて貰い、煮て肥料にする事から始めました。当時鰯等を魚粕にする場合は、煮てドで締めて水分をとったあと、むしろにひろげて干すのですが、鮫の頭や骨はドでしめられません。むしろの土にまな板を置き頭や骨をのせ、なたで切るより方法がありません。
 雨の時にはむしろをたたむのですが、蝿がつき虫がつくのです。それを拡げて干すのが大変でした。パートの人を三人たのみ手伝って貰いましたが、いやな仕事は私がしました。それでも当時は肥料が少なかったものですから、米と交換して貰えました。
次に蕪島の海水浴をする浜に時化のあと海草があがりました。それを拾い集め、乾かしてからもやし、更にうにを取ったあとのカゼ殼を集めもやし、それに鮫の肝臓を煮て油をとった後のべとを貰い受け、三つをダンゴにしてむしろで干しました。肥料の三元素があるという事で買って貰いました。少しずつ資金が出来たので、八戸魚市場から魚を買う事にしました。商号は○S、市場のかぎ取りの岩崎良助さんは○石の事をドンコロイシ、○Sの事を文化エスと呼びました。八戸弁ではエとイ、シとスの区別が発音しづらいのです。中々有名なしっかりした方でした。
資金がないので安いものを買う事にしました。 鮫という地名の通り油鮫がとれました。その生れたばかりの子をピン鮫と云っていましたが、余り利用価値がないので安く買えました。鰹節の製法を調べていましたので、鮫の節をつくる事にしました。頭と腹をかき、セイロで並べて煮てから火山(半分地中に埋め、その上にセイロを積み、下から火をもして燻製にする)にかけて乾しました。花かつをは本物の鰹を削ったものもありますが、市販用の安いのは鯖や鰯の節を削ったものです。これに鮫からつくったのを混ぜて貰うのです。日本中の削り節問屋を調べて売り歩きました。幸いよい値段で買ってくれました。
次にいかの加工を取り上げました。当時はするめに干すのが主流で、まだ冷凍工場はありません。雨が降ってくると腐って悪臭を放ちます。従っていかの値段も安かったのです。
雨が降っても干せる方法を考え、火山に屋根をかけ、いかの胴体を三つ位に切り煮ると輪になります。それをセイロに並べ火山にかけ、いかの節をつくりました。削るときれいな花になります。これを削り節工場に売りに行き、よい値段で買って貰いました。其内クレームがつきました。汁に人れますと鯖、鰯、鮫等の花はしずみますが、いかの花はぽっかり浮くと云うのです。そこでふりかけに使うか、佃煮にすればよいでしょうと云いました。それで納得して買って貰いました。
白銀でスルメを干して雨に困っていた加工業者の人達が早速造り出しました。所が削り節業者からクレームがつきました。削り機の歯がかけるというのです。白銀の砂浜でつくれば風の時にいかに砂がついたのです。削る歯に砂は大敵です。それ等の事を考慮に入れないと失敗します。その内に指導してくれる人があって佃煮を造りました。当時は数軒の佃煮業者がありました。又竹輪を造る業者も数社ありました。○万さん等有力な人達でした。缶詰業者や八戸に鰹が水揚げされた時に、鰹節をつくった業者もあったと聞きましたが、戦後は下火になった様でした。
 当時目抜等の水揚げが多く、粕漬けを大量に製造する加工業者もありました。○福さん等が大手でした。其内に油鰈が大量に水揚げされました。肝臓がビタミンをつくる製薬会社に高値で売れ、魚肉は練製品業者に売れ、名古屋迄送られました。頭や残滓は煮て油が大量にとれました。卵は塩蔵して売れました。
 当時の工場では手挟でしたが、それでもフル操業しました。にわか造りの工場で加工する人も出ました。それぞれ利益の出る仕事だったと思います。私も一を二に、二を四にと手堅く倍増し、仕事も軌道に乗って来ました。製塩工場も買取りし、資金も信用保証協会の保証借入れから、保証なしで借りられる様になりました。

五、本工場の新築
 三年間程で資金も少しながらまとまり、昭和二十六年三月現在の本社の土地の一部三八六坪を六拾五万円で購入しました。そこに蕪島前の製塩工場を移転し、更に新工場をつぎ足し従業員も逐次増加、佃煮、雑節、油鰈の処理、(魚肉、魚油、魚卵等を製造)いかの塩辛、目抜等の粕漬を生産しました。
堅実な倍増計画も順調に進み、二階は男子従業員の宿舎、下は倉庫の二階建の建物も造り、住宅金融公庫の借入れで自宅を建て、一部は事務所にしました。工場も手狭になり逐次増築、更に事務所も新築しました。土地も隣接地一〇〇〇坪程借り乾燥工場に使いました。
事業も順調に進みましたので、昭和三十一年四月二日個人資産、負債を包括引継ぎ株式会社武輪商店を設立しました。資本金は五百万円でした。第一期の決算もまずまずの成績で株主配当も二割出来ました。当時水産加工業界のなやみの種は、冷凍冷蔵設備の不足でした。加工原料を冷凍保管し、魚が切れた後の原料確保が出来なかった事です。加工専業者はまだ冷凍設備を持っている業者はありませんでした。八戸魚市場等設備のある業者に冷凍を頼んでも、処理能力が不足のため思う様にはいきませんでした。それでも一年間(昭和三二年)の冷凍保管料支払額は三五〇万円に達しました。それで意を決し冷凍冷蔵庫建設にふみ切った訳です。借入金二千万円、返済各年度四百万円宛の五ケ年返済計画です。各年度支払う冷凍冷蔵経費を充当すれば返済出来る額です。

六、水産加工組合づくり
 事業も漸く軌道にのり、業界の事を考える余裕が出来、真先に考えた事は何故水産加工業界には、組合がないのだろうという事でした。個々の力では出来ない事でも、多数の人の力を合わせば出来る、組合をつくり仕事をすれば、めいめいが更によくなる筈だと思いました。夫々の人達に意見を聞いた処、組合をつくっても幹部の人達だけが組合を利用して、得をするのでメリットがないと言う事でした。それでは幹部の人は組合の為に、奉仕をする心構えでやればよいだろうという事で、当時の水産加工専業者の人達に話しかけ賛成を得て、昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合を設立、事務所を当社におき役員は無報酬、経費もかけない方針で発足しました。
 当時は未だ北海道に鰊がとれていましたので、漁船を二隻チャーターして鰊の共同買付をしました。それを組合員に分配して加工しましたが、北海道方式の身欠ではなく、一尾から二枚のフィーレにし、一夜干にして東京に出荷しました。北海道では身欠にしていましたが、一尾から腹を欠き固く干して出荷していました。日待ちをよくする為に水分を取った訳ですが、魚は鮮魚のままが一番おいしくて、水分をとり干す程にまずくなるのです。八戸の地の利を活用して、輸送時間が短くてすみますから骨をとり二枚のフィーレにし、余り乾燥せず出荷したのです。果して好評を博し高く売れました。次にいかの塩辛の製法も皆で共同研究し、これも函館の塩辛の製法を改良し、用塩量を減らしました。
容器の共同購入、機械も村上機械(現在の南部クボタ)と共同開発、量産化をはかりました。夫々の努力で販売先を開拓、当社でも最盛期には一日に貨車積三車を出荷しました,いかさきの省力化を考え、廻りに楕円形のコンベヤーで函入りのいかを供給、中にさき手が五十名入り、さいた身、足、内臓を夫々のコンベヤーで回収する装置も作りました。年に一度、組合員一同が北海道をはじめ各地を視察、視野を広めました。組合をつくりよかったと思いました。いかも次第に多く取れ出しました。当時は冷凍設備も少なく、七十%以上鮮魚出荷をしていました。それも貨車輸送が主力で、入車数も中々追いつかず氷をかけ市場に積止めが増えました。
 遂に水揚げしたいかが売れず、値段も極端に下落し、私も一函二円で三千函入札したのが当り、尚二千函残り全部引取ってくれとの事で、一函三円に仕切直して五千函買った事があり、今でも覚えて居ります。それからが大変で毎日増し氷をし、一日千函宛、塩辛といか節に製造し、五日間かかり処理しましたが、氷代と鮮度低下を考えると無茶な事をしたものだと反省させられました。それから余分の魚は買うものではないと、随分勉強になりましたが、今でも時々余分の魚を買い後始末に苦労しています。
 次に三次加工して、付加価値をつける事を考えました。八戸はいかの水揚げ日本一といわれ、大量に水揚げされますので、大量処理をする為、兎角一次加工を主にして来ましたが、付加価値をつける為には、三次加工をしなければなりません。当時は珍味加工と言っても、調味したいかを一枚宛鉄板で合わせ焼く程度でしたが、主として消費地でスルメからサキいかが作られていました。乾したスルメの皮をむき、耳足をとったものを調味して焼き、機械でさいて居た訳ですが、固くて老人や子供は中々食べづらいものでした。いかの産地でわざわざスルメに干してから、サキいかを作るのは如何なものかと考え、鮮いかのつぼ抜きを六十度の温度で、ボイルすれば皮がむけるのを利用し、鮮いかから皮をむき調味し、乾燥機で干し、ロースター(上、下の鉄板を回転させ併せて、上下より熱し焼く装置)で焼き、サク方法で作って見ました。消費地に送った所、やわらかくて万人向けだと好評を得ました。採算もよく、珍味組合(昭和三十九年四月発足)の組合員に製法採算点等説明し、皆で作ろうと提案しました。組合員の一人が、皆に教えてはもうからなくなるから教えるなという意見がありましたが、現在のスルメからのサキいかは、全部新しいサキいか(ソフトサキ)になるから販路は全国に拡がるし、皆でつくればそれだけ宣伝になるから心配はないと説得し始めました。所がやはり量産したいという考えがあり、半製品のまま出荷する組合員が続出、ダルマ(耳足をとり調味、乾燥機で干したもの)のまま出荷する様になりました。
当社は白サキ、後に皮つきの製品もつくり、黄金サキとして最盛期には新潟へ貨車積する位になりました。ダルマ出荷は大畑や函館迄出荷する様になり、遂に予想した通り全国中スルメのサキいかは姿を消しました。
 サキイカ製法に関して思い出の一つは、昭和四十一年八月十四日三笠宮、同妃殿下が御子さま同道でサキイカ工場見学に見えられた事です。珍しそうで熱心に、見学された事を思い出します。
 一方鮮魚出荷に、水揚高の七十%迄依存していた八戸の水産業界も、冷凍冷蔵の設備が増大し中央大手日冷も、大型冷蔵工場を新設する事になりました。当時の岩岡八戸市長から地元以外からの大手業者の設備投資の可否を聞かれた事を覚えていますが、その時に私は「水は低い所に流れるが、魚は高い所に集まります。大手の方にどしどし設備を作って貰い、技術も導入し業界こぞって付加価値をつける事に励めば、八戸の水産業界の前途は洋々たるものがあります。但し、その為には水揚場を増設し県外船の誘致を受入れる様にして下さい」と言った事を思い出します。鮫の第一魚市場から湊の第二魚市場、後には館鼻の第三魚市場と市場設備が拡充され、増大する水揚が処理された訳です。冷凍冷蔵設備も日本有数の収容力を備え、年間加工の原料を蓄える事が出来ました。