市役所の職員で構成する互助会、これには全職員が参加している。つまり市長から運転手までのすべて。
ここに市が金を出す。これは職員の福利厚生のため。その金額の決め方に問題あり。この額は誰が決める?
市長でもなければ市会議員でもない。人事課員が勝手に決めた。そして、この金額は毎年適当に加算されたり減算される。何のために? それは裏金の金額の増減のためにだ。人事課員は必死に裏金ではないと言い張るが、それなら帳簿を開示せよと言うとああだのこうだのと言を左右。
職員たちから集めた金が入っているが、その理由だが、オイ、それなら市民の税金も入っているんだ。それを開示しないは不当だ。
人事課員は適正に処理されているという。それなら見せろ。見せない、見せられないは悪ダクミをしていた証拠に外ならない。昭和二十三年からの負担金総額は十九億二千万円。
これを呑んだり食ったり餞別に使った。そして余ったから、いや、もてあましたから市に返した。それも寄付だとヨ。寄付ってのは自分の金を投げる行為をさす。他人の金、それも税金を返して寄付は日本語を知らない。
騙しきれずに戻しただけだ。市民を眼が見えないと思っているんだろう。天網恢恢(てんもうかいかい・天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪い事をすれば必ず天罰が下る意)疎(そ)にしてもらさずだ。
こんな巨額な金を何処に隠していたのか。昭和五十五年十一月に本館、市役所庁舎の右の建物が建築されたとき、互助会は一億五千万円を市に寄付したので地下の職員会館部分は職員のものであると大島市議は筆者に告げたが、一億五千万円の金も、もともと不当に市から貰っていたのを返却しただけだろう。
その言い分が正しければ、地下部分の持分は互助会として登記されなければならない。しかし、そのような登記はない。さらに、地下部分の建築費を寄付したというが、当時の記録を調べると建築費は二十三億二千二百九十七万六千円。六層の建物だから、一層は四億円、互助会は一億五千万しか出してしないので、そんな理論はたわごと、寝言、うわごとは病気になっていうことだ。
二億五千万も足りないのに、よくも図々しく言えたもんだ。それも市からふんだくった金。前ページの市が負担した額を見てくれ。昭和四十九年だ。七千二百万円だ。給料は五万円程度だったろう。そんな時に巨額な負担をさせているが何に消費したのだろう。ここから負担額が急増。市民の暮らしは困窮するなか、市職員ばかり優遇、厚遇されていないか。
市と互助会はどのような契約を結んでいたのかと調べたところ、そのような契約は今までなされていなかったが、今回初めて小林市長との間で締結したとのこと。それが上のもの。
この第一条を見てくれ。ここには①職員食堂の運営とあるが、職員食堂は互助会が生協に又貸ししている。これは前号でも知らせたように、又貸しはできない契約。つまり違反。
②③はどうでもいいが、問題なのは④八戸三社大祭への参加事業とある。これが筆者が表題とした、税金を投入し三社大祭への参加だ。他の山車組は町内の住民へ頭を下げ、腰をこごめて今年も山車の制作費をお願いして歩く。ところがどうだ、互助会の山車は税金を投入する。これはけしからん。
責任者出て来い。
大阪の漫才師でこう叫ぶのがいた。人生幸朗って芸人。右写真。人生幸朗・生恵幸子は「ぼやき漫才」の第一人者として知られている。「ぼやき漫才」は一般的なしゃべくり漫才とはかなり違い、その時代に話題になっている事柄についてとんちんかんな難癖をつけるというものだ。ほかにこのジャンルを得意としたのは人生幸朗の師匠である都家文雄・静代、東文章・こま代などがおり、前者は主に社会風俗、後者は映画を題材にぼやいていた。人生幸朗・生恵幸子は世相はもちろんのこと、特に当時のヒット曲の歌詞にケチをつけるという面白さで大衆の心をがっちり掴んだ。また、このコンビが活躍していた頃、その歌が幸朗にこきおろされれば歌手として一人前という風潮があったようだ。
1982年の幸朗の他界に伴い、この「ぼやき漫才」は後継者がいなかったため急速に廃れてしまうこととなる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
役所の話もここまで来ると腹が立つどころか、メチャクチャで大阪弁なら「どもこもならん」で、可笑しくなってしまうが、これが現実。筆者が睨んでいる通りだとすると、山車に対しての市民の反感は尋常一様ではなかろう。互助会の山車参加は昭和四十七年から。
職員互助会の三社大祭参加
昭和47年 鎮西八郎為朝 強弓にて敵船を沈める 秀作
48竹取物語 かぐや姫天女昇天 優秀
49 大阪夏の陣 最優秀
50 菅原伝授手習鑑 最優秀
51 かぐや姫 優秀
52 白波五人男 秀作
53 義経八艘飛び 優秀
54 七福神 優秀
55 竹生島 優秀
56 歌舞伎十八番暫
57 歌舞伎舞踊 女車引 優秀
58 十人石橋 秀作
59 空海入唐 秀作
60 双面道成寺 最優秀
61 新歌舞伎 ヤマトタケル 最優秀
62 国姓爺合戦 優秀
63 五人娘道成寺 最優秀
平成元年 南部発祥八百年 豊年祝の舞 優秀
2 新・里見八犬伝 最優秀
3 京鹿子娘二人道成寺 優秀
4 浦島伝説 乙姫と太郎の別れの場
5 新・国姓爺合戦 秀作
6 鮫ケ浦に遊ぶ七福神 努力賞
7 琵琶湖伝説竹生島
8 竜虎相博つ(新)め組の喧嘩 秀作
9 石橋 特別賞
10 菅原伝授手習鑑 車引きの場 優秀
11 西遊記 金角・銀角との戦い 秀作
12 歌舞伎十八番のうち 不動 優秀
13 京鹿子娘道成寺
14 三貴神と君が代松竹梅 優秀
15 審査なし
16 夫婦愛おしどりの精と山内一豊… 優秀
17 八大竜王・八戸三社大祭… 最優秀
18 歴史浪漫八戸義経伝説… 最優秀
三十五回参加して賞を取れないのが四回 勝率八割八分
協定書にもあるように、五項目のうち金のかかるのは④だけ。つまり筆者の推測の如く、山車の制作費に費やしたのだ。この互助会の帳簿開示を求めているが、職員から集めた金も入っているとグズグズ。四月十日現在。悪く消費していなければ見せられるはず。
市民には山車製作の金を集めさせ、自分たちは高見の見物。金をかければ見栄えのある山車を作れるは自明の理。なにしろ税金、それも自分勝手にチョイチョイと数字をいじって吐き出させる魔法の小槌ならぬ人事課裁量。
どうしてこんな仕組みになってしまったんだろう。不思議と思わぬ神経がおかしい。金銭感覚が麻痺しているんだ。市民の血税を真摯に使う気持ちなくして公僕(こうぼく・公衆に奉仕する者の意) 公務員などの称)とはいえない。悪党、非国民の謗(そしり)、罵(ののし)りを受けよ。
市会議員はこれを知らない。知ろうとする努力もしない。何のための議員か。市民のためより自分の為しか考えていない。
市長は知ってても黙っている。それでも協定書を作ることには同意した。しかし収支報告は見たのかね。第四条に規定しているが。
役人のすることだけに、嘘は書かない。書いた以上責任はある。収支報告はするだろうが、費消した金が不正流用だから返せとは言わない。
今後注意せよ程度。一般社会では通用しない論理と倫理。どうなってる八戸市役所。総員ぐるみの犯行ではないが、歴代人事課長の頭を疑う。
今年の三社大祭に互助会の山車は参加する資格はない。各山車組に百六十万の補助、しかし互助会は貰ってない。当然だ、これ以上とれば泥棒に追い銭の言葉あり。
続
2007年5月1日火曜日
生涯言論の人、堀川善雄は八戸に文化の大輪を咲かせた
八戸の印刷文化に二人の旗手がいた。一人は昭和十二年、「月刊評論」を興した成田昌彦、もう一人が戦後、「北方春秋」を興した堀川善雄。成田は八中卒の生粋の八戸人。堀川は福島県人。相馬藩士の末裔。
戊辰戦争で奥羽列藩と共に徹底抗戦した会津藩は領地を明け渡し斗南藩として辺境の地、下北半島の開墾に向かう。同じく同盟藩、伊達藩士の多くは北海道移住し旧領を離散、薩摩藩兵との交戦を回避し恭順を示した相馬藩士四百名は帰農し明治四年廃藩置県で田畑購入費五万円の三万円を東京の古川市兵衛(古川財閥の祖)から借り入れ、残り二万は旧藩主相馬季胤が支出。明治七年三万円の借入金の内一万四千円を相馬家が更に負担。
明治三十三年に相馬藩士の家系、掘川勘三郎景虎の息として善雄が誕生。生家貧困なれど学問にて立身(りっしん・社会における自分の地歩を確立すること。一人前になること)せんと知己(ちき・自分の心をよく知っている人。親友。また単に、知人)を頼り県都福島に出る。
ここらは不明な点であるが、誰かが弁護士丹野慶太郎の所で書生を欲しがっている。あるいは、あの人は面倒見がいいので「行ってみたらどうか」と告げたのだろう。
書生に雇ってもらうのだが、そこには一つ年上の阿部義次が書生となっていた。丹野慶太郎弁護士も決して裕福どころではなく、二人は書生部屋の三畳に一つ布団で起居。俗に言う同じ釜の飯を食う仲。丹野は学者肌、弁護の外に当時の司法制度についても研究。阿部と堀川は天下国家を論じるうち、二人とも弁護士になるのもいいが、お前は大学に行き違う分野で身を立てたらどうだと、阿部が言い出す。日本は広い、勉強するなら東京だ、お前、東京に出ろ、俺が丹野先生から頂戴する書生料を仕送りする。お前は俺より頭がいい、だから必ず特待生になれる。学費が不要になるから、俺が送る金で下宿を探せ。お前が卒業するまで、俺は必ず金を送り続けるから。
その時、堀川はただただ頭を下げ続けたことだろう。夢に見る大都会東京。そこに出て勉学に励みたい。しかし銭もなく、あたら田舎で終わるのかの憤懣やるかたないものあり。されど、どうなるものでもないと、日々の生活に埋もれるものだが、一つ布団に犬こっろのようにくるまり眠る友からの申し出で、人は人によって育てられ伸ばされるもの。
かくして、阿部の好意を得て、堀川は明治三十二年早大高等学園文科に合格し、特待生として早大法学部英法科をめでたく卒業。阿部も堀川に男の約束を果たしながら大正十二年独学で司法試験に合格する快挙。
堀川は大正十五年朝日新聞本社編集局入社、各地の支局を廻る内、樺太に出て、鰻屋を経営する店主の娘と結婚。昭和十五年まで朝日新聞社に在籍。その後、中華民国に渡り東亜新報社北京本社の整理部長と外交部長を兼務。十七年、華北新聞協会常務理事を経て十九年六月から終戦まで中華民国華中政務委員会専任委員を務めた。当時の北京には邦人八万人が居住。(内、日本人六万千人、半島人一万九千、台湾人四百人)、この新聞社には戦後作家となった中薗英助(『闇のカーニバル』(第34回日本推理作家協会賞)、『北京飯店旧館にて』(第44回読売文学賞)、『鳥居龍蔵伝』(第22回大佛次郎賞)がいた。
敗戦後、日本は半島、大陸に巨額な投資をし続けた発電所、鉄道などは持ち帰ることが出来ず放置。この設備が朝鮮半島の独立後、大いに役立ったのは間違いない事実。
堀川は続々と日本人が引き揚げるのを横目に、東亞新報を中国人の手で運営できるようにと尽力。言葉は違えど同じ報道の人間、時代、世の中を鋭く見ることは必要と、編集、印刷の総てを伝授し帰国。
その時、中国人たちは堀川の手を握り、「あなただけが本当の人間だった」と涙を流して伝えた。
人間の心は必ず伝わるものだ。会社は雲散霧消し、逃げるごとくに今まで威張っていた日本人の総てが消え去ったなか、ただの一人で、生活の保障もなく、まして命すら危うい、そんな時に、誰が堀川の真似ができよう。
そして帰国、相馬と福島の間を往復しながら生きる道を模索。心の友、阿部の許(福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務)で色々相談、そして岩手新報に職を得る。この当時、海外から帰国した人々三百八十万人とも言われ、住宅事情の悪化、食糧窮乏を招いた。生きるのに皆が必死だった。
堀川がこの岩手新報社の取締役、編集局長の地位を抛って二十五年に八戸に来る。
何故、堀川が八戸に来なければならなかったか。それは、四代目の大久保弥三郎が関係している。北方春秋刊の「大久保弥三郎伝」に次の行あり。大久保は昭和四年、朝鮮を経由し鴨緑江、撫順、奉天、長春、ハルピンと無銭旅行。この時、奉天で朝日新聞の大井二郎さん(当時、朝日新聞支社長―前デーリー東北編集局長)には往復数日お世話になったが、北稜で写した写真が残っている。とある。
この大井二郎を大久保が八戸に呼び寄せた。
そのくだりは以下の通り。
デーリー東北新聞
中島石蔵さんが私にデーリー東北の話を持ち込んできた。当時二十万の資本金であった。デーリーを青森のリンゴ新聞が百万で買収するというがどんなもんかと。
私はこれから発展する八戸に日刊紙がなくてどうするか、青森で百万出資するというなら、吾等も百万出して暫く静観すべきであろうと主張し、私の意見が採用され百万に増資した。社長の人選も私に委すことにしたので、私は浅石大和氏を推薦した。編集局長に朝日の大井二郎さんを迎えたのも、林俊夫さんを迎えたのも、苦しい資金繰りも私一人でやった。当時の総務課長は中野周一君である。縁あって時事通信で鍛われた才腕を再びデーリーの重役総務局長として振るってもらうことになった。
大井二郎がデーリー東北新聞の紙面に顔を出すのは昭和二十五年二月十四日。発行者、編集印刷人大井二郎から。その前日までは中居與一郎とある。実質的に大井が昭和二十五年二月から編集長として辣腕を振るった。この時、同じ朝日新聞にいて、岩手新報の編集長を務めていた堀川を、大井がデーリー東北に誘ったのだろう。
堀川はこのデーリー東北新聞には一年しか在籍しない。八戸市役所の顧問に転じたとある。
そこで堀川は何をしたか。それは八戸の開発を総合的に考えることであった。
大久保弥三郎伝に、北奥羽経済開発協議会 八戸の発展を考えた時、そのセンターランドの開発なくしては港も活きない。二戸、九戸、鹿角と八戸が提携し行政上の隘路を打開する民間の経済協力体制を結成すべきことを私は主張した。中略 私は夏堀市長を説得し、湯瀬に於いて鹿角、岩手県北の指導者と一堂に会い北奥羽開発協議会の碁石を打った。
デーリー東北新聞の総務部長にした林俊夫氏を北奥羽の専務に推薦したのも私であった。とある。ここで林俊夫の名が出る。(東奥日報刊青森県人名大事典から・明治四十一年生まれ、北奥羽開発に尽力 鶴岡市産、デーリー東北新聞社総務局長、その後北奥羽開発協議会事務局長、昭和二十九年八戸市役所に入る 経済民生部長などを歴任、昭和三十八年から助役 辞職後、八戸市総合振興会副会長、北奥羽開発促進協議会の相談役などを務めた。)後年、林が助役時代、林が考え堀川が書き、熊谷義雄が実行すると言われた。八戸を大きく変えた三人であったと言えよう。
と、いうのも、八戸市の倒産は昭和三十年、この主な原因は馬淵川の三角州の埋め立てと学校の整備で前向きな投資。この三角州に火力発電所などが出て、新産業都市に指定され、急速に財政は再建された。
堀川、林たちは北奥羽開発協議会で、この三角州の開発を決定し邁進。その結果が八戸市の倒産を引き起こすが、奇跡の回復を見せたのだ。
時代を見据え、早めに手を打ったことが港湾整備にともなう新産業の進出だった。
一介(いっかい・わずかなもの。価値のないつまらぬもの)の漁港から工業港へと変身し、それが二百海里による漁業の不振にもかかわらず、八戸が片肺飛行を続けられるのは、ひとえに、この工業港を中心としたエネルギー運搬拠点と鉄鋼などの重産業の振興による。
林も堀川も八戸の良き時代を満喫できたのだ。そして堀川は八戸にガスが必要と熊谷とともに昭和三十一年ガス会社を興す。その実質的企画推進は堀川が担った。そしてその仕事の合間に若人を集め八戸に活字文化の華を咲かせるべく努力。堀川の周りには絶えず郷土愛に燃え、熱い瞳の青年達が各々の意見を張る。それを堀川はじっくりと聞きながら納得させ一つの方向へと導く。若者たちにとって堀川は夢の具現への鍵であった。
当時、八戸には有能な若者たちで満ちていた。東大出の工藤欣一、立教の秀才神山恵介、これらの頭脳が続々と八戸の歴史書を発刊。それが「概説八戸の歴史」五巻で、このエネルギーを迸(ほとばし)らせた基(もとい)となったのが、「北方春秋」であった。
堀川は言論人としての資質を失ってはいなかった。その「北方春秋」を十三号発刊し経済的理由で休刊し、その後を中里進氏が四年後に復刊する。
中里氏はそれを続けるも、タウン誌「アミューズ」へと方向を変更した。そして「アミューズ」は経営者を若手に代えて今日に至る。
堀川の興した活字文化は形を変えてもいまだに八戸市民の支持を得ているのだ。
堀川は昭和四十二年二月二十四日、午前十時、八戸市売市下久根の自宅で死去。福島県相馬市出身、六十七歳、葬儀は三月一日八戸市南宗寺で。喪主は長男浩平氏。昭和二十六年六月、デーリー東北新聞を退社するまで二十六年間を新聞と共に歩んできた。戦後は岩手新報、デーリー東北新聞の論説委員、編集局長を歴任、地域開発と本格的に取り組み反省期に入っていた北奥羽地域開発を軌道に乗せるために努力。このため北奥羽開発協議会の一員として総合的な開発計画の作成にあたったが、これを強力に推進するため二十七年、嘱託として八戸市庁入りし、国民経済の稲葉秀三氏らとともに、三角地帯を中心とした第一次八戸臨海工業地帯建設計画をまとめた。さらに地域開発と関連して都市ガスの必要性を強調、八戸ガス会社設立の推進者となった。三十一年七月、同ガス会社の設立とともに、嘱託として入社したが、その後も豊富な知識を生かして企画人として地域開発に貢献した。
とデーリー東北新聞の記事に訃報。
生涯心の友であった阿部、堀川を新聞人として送り出す基(もとい)となった、優しい心根の男はどのような人生を歩んだかをみよう。
阿部義次 県弁護士会長 明治三十二年三月信夫郡山口村(現、福島市)生まれ 昭和三十七年六月没、大正元年三月岡山村尋常小学校卒業後、福島市置賜町、丹野慶太郎弁護士の許に書生となり法律の勉強、大正十二年三月十九日、弁護士試験に合格。福島弁護士会に登録。以来、福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務に従事。昭和二十八年四月から三十三年三月まで福島弁護士会長、昭和三十一年四月から三十三年三月まで日弁連理事、昭和三十五年度東北弁連会長を勤め、福島県弁護士会の重鎮としてその発展のために尽力。
又、福島県地方労働委員会長、土地収用委員会長としての功績も大きく、特に只見川の電源開発や滝ダムの土地収用については日夜奔走。佐藤善一郎知事のときに福島県法律顧問。
この阿部の足跡を今井吉之弁護士が、こう記した。
先生の師である丹野慶太郎先生は晩年眼を患ったため、阿部先生は丹野先生の手をひいて裁判所通いをした。丹野先生の着物や袴の世話をしたので、和服のたたみかたは夫人より上手だった。
昭和二十七年福島簡易裁判所から窃盗事件の国選弁護を受任、刑務所(福島市南沢又)に拘留中の被告人と接見のためタクシー代往復千二百円かかったのでその内六百円を国に対して請求する訴訟を提起。しかし、「国選弁護人は裁判所の支給する旅費、日当、宿泊料及び報酬以外に、別に費用の請求をすることはできない」として棄却。しかし、最高裁まで上告。最高裁は「国選弁護人の要するであろう費用等を総て考慮して裁判所は相当に報酬額を決定すべきである」と判示。
昭和三十一年、弁護士会長のとき、福島家庭裁判所庁舎新築問題が発生、県、市、商工会議所等が中心になり国に予算計上運動をするが、らちがあかず、地裁所長から仙台高裁長官に話があって弁護士会にも動いて貰ったほうがよいということになり、長官が先生に逢われて懇請された。先生は県会議長、市会議長、商工会議所会頭らと法務省に陳情に出向いたが、大臣は閣議中で長時間待たされた。帰りの汽車の時刻も迫り、大臣と電話で話をしたいと申し出たところ、牧野良三法務大臣は、弁護士会長とだけ会うと、先生だけ大臣差し回しの車に乗り首相官邸で大臣と面会。三年連続で予算をつけると約した。大臣とは旧知の間柄。約束は果たされ庁舎は完成。
昭和二十七年十月、衆議院選挙、佐藤善一郎候補がトップ当選。ところが選挙違反が出て、K検事は保釈許可が出ても被疑者を保釈しない。裁判所へ提出した起訴状を取り替える暴挙。主任弁護士の先生はK検事を職権濫用罪で告発。A、H先生も共同で告発すると申し出たが「検事相手の事件は火傷すると取り返しがつかなくなるから自分一人でやる」検事正が先生に謝罪し取り下げた。
昭和三十六年、今井が弁護士となり、先生の事務所を手伝うようになり間もなく、汽車往来危険罪の共同弁護をすることになった。先生は当時体調を崩しておられたので、今井が主任弁護士となった。裁判所から公判期日の打ち合わせをしたいというので、先生の予定表を持って出頭するが、公判の日程がビッシリと詰まっていて一ヶ月半以内には期日の空きがない。
主任弁護人(今井)の日程はどうかと訪ねられたが、司法研修所出たての今井は勿論、公判など一つもない。即答も出来たが、調べて連絡すると告げて先生に相談した。
すると先生は病をおして羽織、袴を身につけ裁判長と面会。そしてこう切り出した。
「被告人が弁護士を二人つけたのは、二人共同して弁護して貰いたいからである。第一回期日は先になるが、その後は集中審理に協力する」
経験のない今井は裁判所の訴訟促進をもっともだと思っていたが、先生の一言で目が覚めた。弁護士は被告人の気持ちを思いやることこそ大事だと。この事件は心神衰弱の弁護士の主張が通り、執行が猶予された。
この事件を担当した新人弁護士今井が堀川の娘、澄子さんと結婚。勿論、阿部義次の媒酌による。
そして、堀川が八戸ガス会社管理室長として永眠したとき、葬儀に参加した早稲田大学の友人たちが、堀川の末娘の進学を知って、卒業まで学資を送ることを決めた。そして末娘は早稲田大学に進学。
勿論、その学費の仕送りは実行されましたとも。
人は一人で生きるのではない。他と共に磨かれながら渡世するもの。
堀川は幸せな男だった。心の友、阿部義次、先輩の大井二郎の引き立てで八戸に来れた。そして林俊夫と巡り会い、共に八戸の発展のために尽力する。そして死しては学友たちの温情で末娘の進学を援助してもらえたのだ。
それは勿論、堀川の人間性の大きさに由来するのだろうが、往時の人々には根底に人の情けを感ずるものがあったのだろう。
貧乏苦学生、それでも青雲の志(立身出世して、高位・高官の地位に到ろうとする功名心)が誰の胸底にもあり、そしてそれに応援できる喜びを感じていたのだろう。そして、日本の為、国家のためのナショナリズム(国家、国民主義)が八戸の為となって開花する。阿部義次は福島の為となる訳だ。
現今を生きる我々は、その地域主義すらも忘れているのではなかろうか。堀川、阿部から学ぶことは大きい。
戊辰戦争で奥羽列藩と共に徹底抗戦した会津藩は領地を明け渡し斗南藩として辺境の地、下北半島の開墾に向かう。同じく同盟藩、伊達藩士の多くは北海道移住し旧領を離散、薩摩藩兵との交戦を回避し恭順を示した相馬藩士四百名は帰農し明治四年廃藩置県で田畑購入費五万円の三万円を東京の古川市兵衛(古川財閥の祖)から借り入れ、残り二万は旧藩主相馬季胤が支出。明治七年三万円の借入金の内一万四千円を相馬家が更に負担。
明治三十三年に相馬藩士の家系、掘川勘三郎景虎の息として善雄が誕生。生家貧困なれど学問にて立身(りっしん・社会における自分の地歩を確立すること。一人前になること)せんと知己(ちき・自分の心をよく知っている人。親友。また単に、知人)を頼り県都福島に出る。
ここらは不明な点であるが、誰かが弁護士丹野慶太郎の所で書生を欲しがっている。あるいは、あの人は面倒見がいいので「行ってみたらどうか」と告げたのだろう。
書生に雇ってもらうのだが、そこには一つ年上の阿部義次が書生となっていた。丹野慶太郎弁護士も決して裕福どころではなく、二人は書生部屋の三畳に一つ布団で起居。俗に言う同じ釜の飯を食う仲。丹野は学者肌、弁護の外に当時の司法制度についても研究。阿部と堀川は天下国家を論じるうち、二人とも弁護士になるのもいいが、お前は大学に行き違う分野で身を立てたらどうだと、阿部が言い出す。日本は広い、勉強するなら東京だ、お前、東京に出ろ、俺が丹野先生から頂戴する書生料を仕送りする。お前は俺より頭がいい、だから必ず特待生になれる。学費が不要になるから、俺が送る金で下宿を探せ。お前が卒業するまで、俺は必ず金を送り続けるから。
その時、堀川はただただ頭を下げ続けたことだろう。夢に見る大都会東京。そこに出て勉学に励みたい。しかし銭もなく、あたら田舎で終わるのかの憤懣やるかたないものあり。されど、どうなるものでもないと、日々の生活に埋もれるものだが、一つ布団に犬こっろのようにくるまり眠る友からの申し出で、人は人によって育てられ伸ばされるもの。
かくして、阿部の好意を得て、堀川は明治三十二年早大高等学園文科に合格し、特待生として早大法学部英法科をめでたく卒業。阿部も堀川に男の約束を果たしながら大正十二年独学で司法試験に合格する快挙。
堀川は大正十五年朝日新聞本社編集局入社、各地の支局を廻る内、樺太に出て、鰻屋を経営する店主の娘と結婚。昭和十五年まで朝日新聞社に在籍。その後、中華民国に渡り東亜新報社北京本社の整理部長と外交部長を兼務。十七年、華北新聞協会常務理事を経て十九年六月から終戦まで中華民国華中政務委員会専任委員を務めた。当時の北京には邦人八万人が居住。(内、日本人六万千人、半島人一万九千、台湾人四百人)、この新聞社には戦後作家となった中薗英助(『闇のカーニバル』(第34回日本推理作家協会賞)、『北京飯店旧館にて』(第44回読売文学賞)、『鳥居龍蔵伝』(第22回大佛次郎賞)がいた。
敗戦後、日本は半島、大陸に巨額な投資をし続けた発電所、鉄道などは持ち帰ることが出来ず放置。この設備が朝鮮半島の独立後、大いに役立ったのは間違いない事実。
堀川は続々と日本人が引き揚げるのを横目に、東亞新報を中国人の手で運営できるようにと尽力。言葉は違えど同じ報道の人間、時代、世の中を鋭く見ることは必要と、編集、印刷の総てを伝授し帰国。
その時、中国人たちは堀川の手を握り、「あなただけが本当の人間だった」と涙を流して伝えた。
人間の心は必ず伝わるものだ。会社は雲散霧消し、逃げるごとくに今まで威張っていた日本人の総てが消え去ったなか、ただの一人で、生活の保障もなく、まして命すら危うい、そんな時に、誰が堀川の真似ができよう。
そして帰国、相馬と福島の間を往復しながら生きる道を模索。心の友、阿部の許(福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務)で色々相談、そして岩手新報に職を得る。この当時、海外から帰国した人々三百八十万人とも言われ、住宅事情の悪化、食糧窮乏を招いた。生きるのに皆が必死だった。
堀川がこの岩手新報社の取締役、編集局長の地位を抛って二十五年に八戸に来る。
何故、堀川が八戸に来なければならなかったか。それは、四代目の大久保弥三郎が関係している。北方春秋刊の「大久保弥三郎伝」に次の行あり。大久保は昭和四年、朝鮮を経由し鴨緑江、撫順、奉天、長春、ハルピンと無銭旅行。この時、奉天で朝日新聞の大井二郎さん(当時、朝日新聞支社長―前デーリー東北編集局長)には往復数日お世話になったが、北稜で写した写真が残っている。とある。
この大井二郎を大久保が八戸に呼び寄せた。
そのくだりは以下の通り。
デーリー東北新聞
中島石蔵さんが私にデーリー東北の話を持ち込んできた。当時二十万の資本金であった。デーリーを青森のリンゴ新聞が百万で買収するというがどんなもんかと。
私はこれから発展する八戸に日刊紙がなくてどうするか、青森で百万出資するというなら、吾等も百万出して暫く静観すべきであろうと主張し、私の意見が採用され百万に増資した。社長の人選も私に委すことにしたので、私は浅石大和氏を推薦した。編集局長に朝日の大井二郎さんを迎えたのも、林俊夫さんを迎えたのも、苦しい資金繰りも私一人でやった。当時の総務課長は中野周一君である。縁あって時事通信で鍛われた才腕を再びデーリーの重役総務局長として振るってもらうことになった。
大井二郎がデーリー東北新聞の紙面に顔を出すのは昭和二十五年二月十四日。発行者、編集印刷人大井二郎から。その前日までは中居與一郎とある。実質的に大井が昭和二十五年二月から編集長として辣腕を振るった。この時、同じ朝日新聞にいて、岩手新報の編集長を務めていた堀川を、大井がデーリー東北に誘ったのだろう。
堀川はこのデーリー東北新聞には一年しか在籍しない。八戸市役所の顧問に転じたとある。
そこで堀川は何をしたか。それは八戸の開発を総合的に考えることであった。
大久保弥三郎伝に、北奥羽経済開発協議会 八戸の発展を考えた時、そのセンターランドの開発なくしては港も活きない。二戸、九戸、鹿角と八戸が提携し行政上の隘路を打開する民間の経済協力体制を結成すべきことを私は主張した。中略 私は夏堀市長を説得し、湯瀬に於いて鹿角、岩手県北の指導者と一堂に会い北奥羽開発協議会の碁石を打った。
デーリー東北新聞の総務部長にした林俊夫氏を北奥羽の専務に推薦したのも私であった。とある。ここで林俊夫の名が出る。(東奥日報刊青森県人名大事典から・明治四十一年生まれ、北奥羽開発に尽力 鶴岡市産、デーリー東北新聞社総務局長、その後北奥羽開発協議会事務局長、昭和二十九年八戸市役所に入る 経済民生部長などを歴任、昭和三十八年から助役 辞職後、八戸市総合振興会副会長、北奥羽開発促進協議会の相談役などを務めた。)後年、林が助役時代、林が考え堀川が書き、熊谷義雄が実行すると言われた。八戸を大きく変えた三人であったと言えよう。
と、いうのも、八戸市の倒産は昭和三十年、この主な原因は馬淵川の三角州の埋め立てと学校の整備で前向きな投資。この三角州に火力発電所などが出て、新産業都市に指定され、急速に財政は再建された。
堀川、林たちは北奥羽開発協議会で、この三角州の開発を決定し邁進。その結果が八戸市の倒産を引き起こすが、奇跡の回復を見せたのだ。
時代を見据え、早めに手を打ったことが港湾整備にともなう新産業の進出だった。
一介(いっかい・わずかなもの。価値のないつまらぬもの)の漁港から工業港へと変身し、それが二百海里による漁業の不振にもかかわらず、八戸が片肺飛行を続けられるのは、ひとえに、この工業港を中心としたエネルギー運搬拠点と鉄鋼などの重産業の振興による。
林も堀川も八戸の良き時代を満喫できたのだ。そして堀川は八戸にガスが必要と熊谷とともに昭和三十一年ガス会社を興す。その実質的企画推進は堀川が担った。そしてその仕事の合間に若人を集め八戸に活字文化の華を咲かせるべく努力。堀川の周りには絶えず郷土愛に燃え、熱い瞳の青年達が各々の意見を張る。それを堀川はじっくりと聞きながら納得させ一つの方向へと導く。若者たちにとって堀川は夢の具現への鍵であった。
当時、八戸には有能な若者たちで満ちていた。東大出の工藤欣一、立教の秀才神山恵介、これらの頭脳が続々と八戸の歴史書を発刊。それが「概説八戸の歴史」五巻で、このエネルギーを迸(ほとばし)らせた基(もとい)となったのが、「北方春秋」であった。
堀川は言論人としての資質を失ってはいなかった。その「北方春秋」を十三号発刊し経済的理由で休刊し、その後を中里進氏が四年後に復刊する。
中里氏はそれを続けるも、タウン誌「アミューズ」へと方向を変更した。そして「アミューズ」は経営者を若手に代えて今日に至る。
堀川の興した活字文化は形を変えてもいまだに八戸市民の支持を得ているのだ。
堀川は昭和四十二年二月二十四日、午前十時、八戸市売市下久根の自宅で死去。福島県相馬市出身、六十七歳、葬儀は三月一日八戸市南宗寺で。喪主は長男浩平氏。昭和二十六年六月、デーリー東北新聞を退社するまで二十六年間を新聞と共に歩んできた。戦後は岩手新報、デーリー東北新聞の論説委員、編集局長を歴任、地域開発と本格的に取り組み反省期に入っていた北奥羽地域開発を軌道に乗せるために努力。このため北奥羽開発協議会の一員として総合的な開発計画の作成にあたったが、これを強力に推進するため二十七年、嘱託として八戸市庁入りし、国民経済の稲葉秀三氏らとともに、三角地帯を中心とした第一次八戸臨海工業地帯建設計画をまとめた。さらに地域開発と関連して都市ガスの必要性を強調、八戸ガス会社設立の推進者となった。三十一年七月、同ガス会社の設立とともに、嘱託として入社したが、その後も豊富な知識を生かして企画人として地域開発に貢献した。
とデーリー東北新聞の記事に訃報。
生涯心の友であった阿部、堀川を新聞人として送り出す基(もとい)となった、優しい心根の男はどのような人生を歩んだかをみよう。
阿部義次 県弁護士会長 明治三十二年三月信夫郡山口村(現、福島市)生まれ 昭和三十七年六月没、大正元年三月岡山村尋常小学校卒業後、福島市置賜町、丹野慶太郎弁護士の許に書生となり法律の勉強、大正十二年三月十九日、弁護士試験に合格。福島弁護士会に登録。以来、福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務に従事。昭和二十八年四月から三十三年三月まで福島弁護士会長、昭和三十一年四月から三十三年三月まで日弁連理事、昭和三十五年度東北弁連会長を勤め、福島県弁護士会の重鎮としてその発展のために尽力。
又、福島県地方労働委員会長、土地収用委員会長としての功績も大きく、特に只見川の電源開発や滝ダムの土地収用については日夜奔走。佐藤善一郎知事のときに福島県法律顧問。
この阿部の足跡を今井吉之弁護士が、こう記した。
先生の師である丹野慶太郎先生は晩年眼を患ったため、阿部先生は丹野先生の手をひいて裁判所通いをした。丹野先生の着物や袴の世話をしたので、和服のたたみかたは夫人より上手だった。
昭和二十七年福島簡易裁判所から窃盗事件の国選弁護を受任、刑務所(福島市南沢又)に拘留中の被告人と接見のためタクシー代往復千二百円かかったのでその内六百円を国に対して請求する訴訟を提起。しかし、「国選弁護人は裁判所の支給する旅費、日当、宿泊料及び報酬以外に、別に費用の請求をすることはできない」として棄却。しかし、最高裁まで上告。最高裁は「国選弁護人の要するであろう費用等を総て考慮して裁判所は相当に報酬額を決定すべきである」と判示。
昭和三十一年、弁護士会長のとき、福島家庭裁判所庁舎新築問題が発生、県、市、商工会議所等が中心になり国に予算計上運動をするが、らちがあかず、地裁所長から仙台高裁長官に話があって弁護士会にも動いて貰ったほうがよいということになり、長官が先生に逢われて懇請された。先生は県会議長、市会議長、商工会議所会頭らと法務省に陳情に出向いたが、大臣は閣議中で長時間待たされた。帰りの汽車の時刻も迫り、大臣と電話で話をしたいと申し出たところ、牧野良三法務大臣は、弁護士会長とだけ会うと、先生だけ大臣差し回しの車に乗り首相官邸で大臣と面会。三年連続で予算をつけると約した。大臣とは旧知の間柄。約束は果たされ庁舎は完成。
昭和二十七年十月、衆議院選挙、佐藤善一郎候補がトップ当選。ところが選挙違反が出て、K検事は保釈許可が出ても被疑者を保釈しない。裁判所へ提出した起訴状を取り替える暴挙。主任弁護士の先生はK検事を職権濫用罪で告発。A、H先生も共同で告発すると申し出たが「検事相手の事件は火傷すると取り返しがつかなくなるから自分一人でやる」検事正が先生に謝罪し取り下げた。
昭和三十六年、今井が弁護士となり、先生の事務所を手伝うようになり間もなく、汽車往来危険罪の共同弁護をすることになった。先生は当時体調を崩しておられたので、今井が主任弁護士となった。裁判所から公判期日の打ち合わせをしたいというので、先生の予定表を持って出頭するが、公判の日程がビッシリと詰まっていて一ヶ月半以内には期日の空きがない。
主任弁護人(今井)の日程はどうかと訪ねられたが、司法研修所出たての今井は勿論、公判など一つもない。即答も出来たが、調べて連絡すると告げて先生に相談した。
すると先生は病をおして羽織、袴を身につけ裁判長と面会。そしてこう切り出した。
「被告人が弁護士を二人つけたのは、二人共同して弁護して貰いたいからである。第一回期日は先になるが、その後は集中審理に協力する」
経験のない今井は裁判所の訴訟促進をもっともだと思っていたが、先生の一言で目が覚めた。弁護士は被告人の気持ちを思いやることこそ大事だと。この事件は心神衰弱の弁護士の主張が通り、執行が猶予された。
この事件を担当した新人弁護士今井が堀川の娘、澄子さんと結婚。勿論、阿部義次の媒酌による。
そして、堀川が八戸ガス会社管理室長として永眠したとき、葬儀に参加した早稲田大学の友人たちが、堀川の末娘の進学を知って、卒業まで学資を送ることを決めた。そして末娘は早稲田大学に進学。
勿論、その学費の仕送りは実行されましたとも。
人は一人で生きるのではない。他と共に磨かれながら渡世するもの。
堀川は幸せな男だった。心の友、阿部義次、先輩の大井二郎の引き立てで八戸に来れた。そして林俊夫と巡り会い、共に八戸の発展のために尽力する。そして死しては学友たちの温情で末娘の進学を援助してもらえたのだ。
それは勿論、堀川の人間性の大きさに由来するのだろうが、往時の人々には根底に人の情けを感ずるものがあったのだろう。
貧乏苦学生、それでも青雲の志(立身出世して、高位・高官の地位に到ろうとする功名心)が誰の胸底にもあり、そしてそれに応援できる喜びを感じていたのだろう。そして、日本の為、国家のためのナショナリズム(国家、国民主義)が八戸の為となって開花する。阿部義次は福島の為となる訳だ。
現今を生きる我々は、その地域主義すらも忘れているのではなかろうか。堀川、阿部から学ぶことは大きい。
月刊評論の時代、昭和十二年の八戸2
深夜の大塚横丁を探る
酒場とカフェーはいわゆるインテリの鬱憤と見栄の捨てどころとか…
さて最近市内にやたらに跋扈(ばっこ・「跋」は踏む、「扈」は竹やな。大魚が梁やなの中に入らないでおどりこえることから) 上を無視して権勢を自由にすること。転じて一般に、勝手気ままにふるまうこと。のさばりはびこること)してきた一杯飲み屋は何をやっているか?記者は一夜大塚横丁群がり、それなりにやつているパイツ屋の夜を探ってみた。
ぞっとしながら
臭いゾ!と見破られてはあたら功をイッキに欠く恐れがあるのでスキー帽に破れオーバーそしてドタ靴を身につけて扨て出るには出たものの、何しろかかる飲み屋への見参は生まれて今が最初だ。記者のそれでなくとも弱い弱い心臓はいささか寒気に縮む思いなきにしもあらずであったが、職責の重かつ大なるに勇を鼓して出掛ける。
とにかく神経を殺してからと、ほど近い角のおでん屋で熱燗二三本たおして目的地に向かった。時刻は十一時廻ったばかりである。
春の夜霧にうるんだ街を行く…なんて書くと誠に詩的な文句であるにしても、職柄とは言え虎穴に入らずんばの悲壮な?心境を持ってノレンに御休所と染め抜いた小っぽけな飲み屋のガラス戸は手を掛けた。
中にはうす暗い電灯がションぼり低い天井からぶら下がっているだけで客らしい姿は見えない、「熱いところを一本つけてくれよ!」と奥の方へ酔いどれ声よろしく呼ぶと、「いらっしゃい」元気はいいが紙ヤスリみたいなやに艶のない声帯の返事があったと思ったら、五十がらみの薄汚い婆さんがヒョッコリ現れた。
「姐さんはいないのか」がっかりさせるにも程がある。と不満たっぷりな素振りをみせると、婆さんは複雑な表情をして、一寸用達しに出したと弁解した。
「チョ、面白くねえなあ」とつぶやきながら記者はいっぱしの御得意然としてすましこんで婆さんのつけてくれたお燗をぐい呑みして何かなきかと狼の如く待っていたが、客は無し、女っ気はなし、見切りをつけてサヨナラする。
算盤度胸?
命拾いをした様に外に飛び出してホットしたものの、これからまだ二三軒のさねばならぬ事を思って慄然とした。霧雨はまだやむことなく更けた街の灯をぼかしている。
これも職柄なれば詮もなしと第二の飲み屋へ突貫する。
此処はまた狭い店の中に、カフェーのお古らしいスプリングの利かなくなったボックスがガタガタと三つ四つ並べられてある。
奥まったボックスの一隅に鳥打ち帽子のアンチャンとむっつり小太りした姐さんが並んでなべ焼きをつついている。誠にもってランマンたる風景。それが記者の威勢のいい戸のあけっぷりにビックリするかと思いの外、ランマンたる構図のまま「あらいらっしゃい」記者は初めてなのに十年の知己を迎える如き意味深な上目を使ってニット笑った。
記者も勿論百年の知己の如く「やあ…」と言いながら彼たちの隣の席へ腰をかける。周囲を見回すと安っぽい壁紙に、ショクパン、なべ焼き、ケーキ、定食、等と拙いメニューがチグハグな対照をなして貼られてある。「ほ、ほう。ショクパンとケーキ出来るのかえ?」注文を聞いて行きかけた姐さんの横顔に吹きかけると、「あらそれはご愛敬よ」「ご愛敬?」
それじゃインチキだって言うのかと皮肉ると「何ですか?」賢明なる姐さんには記者の問いが解らぬらしい。
一体飲み屋の規定になっているのか、前の店同様の偉大な徳利を運んできた。
「マア姐さん座れヨ」と傍らに座らして気分の出ないお酌をして貰いながら、向こうのアンチャンに聞こえない低声で「えんぶりに大分儲けたろう」と山をかけると、「大したこともなかったよ」と案外真面目だ。記者ももっともらしい顔をして彼女の耳に口を寄せ「おい、あの若僧帰ったら久しぶりでサービスしろよ」姐さんフフフと意味深な含み笑いする。向こうで例のアンチャン気が揉めると見えて自棄に煙草をプカプカやらかしている。
姐さんに奢った大枚十五銭のナベ焼きが記者の乱入によってフイになるのかと言う訳でもあるまいが、ともあれ内心おかしくなったり気の毒になったり…
それでもこれが四十がらみの苦み走った恐い面相のオッサンで「若僧、邪魔すると承知しねえぞ」とか何とか怒鳴られては、記者だって気味が悪くなって退却せざるを得ないんだが、相手は幸いにして悪っけのなさそうな小柄なアンチャンだ。よし喧嘩出入りになったって歩はこっちのもの…
算盤度胸で記者はボックスにふんぞりかえっていると、とたんに向こうのアンチャンたまりかねたように姐さんに声をかけた。「二階でゆっくり飲まないか」記者の傍らで煙草をふかしていた姐さんの手が横に振られた。
「どうしてダメなんだ」「とてもこの頃やかましいんだよ」記者はとぼけ顔して、そんなに厳しいのかと聞くと、この頃は日に二三度覗きに来るのヨとやりきれないという風情で姐さんうつろなる顔をなさる。
時計を見ると十一時二十分過ぎている。後四十分のタイムしかない。一寸頑張ればあと一息でハラハラする場面になるのだが、それを投げて次の突貫のために惜しくも勘定払って出る。
銘酒のため効き目あらたかなるためか、頭がズキズキ痛い。まことに記者なんどの足を入れるべき場所ではない。最後の一軒を襲うた。そこには客が二人、半纏がけの兄さん連がメートルを揚げている。三十近い姐さんがお酌の手をやめて、うろうろ門口に立っている記者に「入りなさいよ、外ばかりで浮気しないで、たまにはうちでもゆっくり飲んだらいいでせう」なかなかにして弁舌鮮やかな代物である。記者は又も十年の知己にされてしまった。空いている薄汚れたボックスに腰をかけて、偉大なる徳利の銘酒には流石記者も脅威を感じて、そばを注文する。
二人の先客は猥談を交々語って姐さんを刺激するつもりらしいが、百戦錬磨の彼女には流石に焼け石に水だ。あきらめたか二人の酔いどれも去った。さて、独壇場になったわいと時計を見るとすでに残念にも十二時二十分。これじゃ頑張るわけにもいかぬと腰をあげると「あら、もうお帰り、無情だワ」とか何とか姐さんヌカリがない。記者は恰も騙されたかの如き態度で「面白いこともないし時間にもなるから帰るぜ」と腰を上げると、「外は寒いし……
後略 結句何ということもなし、出だしだけの尻切れ原稿。戦前は朝日町、新長横町もなく、この大塚横町あたりが曖昧屋の巣窟のようだ。小中野の女郎屋にも行けぬ、銭のない連中が何か良いことないかいとウロウロしたんだろう。それを相手に鼻の下を伸ばさせたり縮めさせる手練手管の淫売が沢山いたのだろう。
世の中は金と女は仇なりどうぞ仇に廻りあいたい 太田南畝(おおたなんぽ・江戸後期の狂歌師・戯作者。幕臣。名は覃たん。別号、蜀山人・四方赤良)の世界。江戸の昔からこれだもの、人間なんてのは利口にならないもの。
市内中等学校各運動部選手卒業生と本年度選手
地方スポーツ界の華は、何を置いても先ず中等校選手の活躍に○ものおおいが、母校の名誉を担って活躍するその若人も年ごとに、母校を巣立ち実社会に飛び去る。
今年度県南中等各部選手を紹介
八戸中学
野球部
主将 林崎正雄捕手 最上正俊三塁 松尾栄右翼 坂下慶助二塁 植村嘉夫 石木田由弥一塁 中野実遊撃 工藤正義中堅 中島義好左翼 金子良一 田中平治投手 馬場幸四郎 高橋久育 卒業生 阿部久八
柔道部
卒業生 差波直三 三ケ田佐一郎 鈴木貞一 河西大弥 高橋勝人 監督 佐川圭吾
新メンバー
大将 田村徳蔵 副将 笹渡勇人 三将 福田実 吉成武久 先鋒 郷州永八 監督 加藤栄弥
剣道部
卒業生 監督三浦信一(就職)選士久保邦輔(国士舘)槻館陽三(早稲田)広沢安平(慶応)中屋敷広勝(盛鉄)浅山賢二(駒沢)小山田清澄(高船)
本年度メンバー 監督下田孝一 大将 立花左近 副将加藤一夫 中堅三浦政吉 四将近藤政吉 先鋒浪打正 補欠工藤八十寿 同金沢志郎
水泳部
卒業生 主将加藤真平 三村官左衛門 田口貢 清水徹男監督吉田良一
今年度選手 監督村井宏三郎 主将宮崎松雄 五戸重雄 村田善一 岡部一彦 武田忠雄 篠本茂夫 森清 下斗米永三郎 江口忠吉 溝口清美 島守薫
競技部
卒業生加藤鎮雄(棒高三段) 河口與五郎(槍) 三浦一郎 木村繁夫 広沢専蔵 庭田福右衛門
新メンバー 主将高島健三(短) 中村弘(槍)石倉鎌吉(中距)橋本隆一郎(長)高橋一郎(長)三浦象二(短) 神秀夫(中)荒井賢治(短)
スケート部 卒業生下斗米徹二(主将)川口與五郎
新メンバー 主将中村弘 藤田仁郎 金沢新太郎 川村弘康 田名部忠太郎 石橋富男 吉田実 沢村 福井 星
商業学校
競技部 卒業生 広田 中崎 泉山 北村 宮崎
新メンバー中居直三郎 佐々木 関野 高橋 馬場 監督関野幸治
水産学校・柔道部 卒業生大島 工藤
新メンバー 主将若狭龍次郎 副将岩岸五郎 吉田富太郎 佐藤午之助 豊島万之助 柳町松雄 高見佳兵衛 服部弘 桜野倉雄 種市八十吉 榊保蔵 笹川信 伊藤庸
続
酒場とカフェーはいわゆるインテリの鬱憤と見栄の捨てどころとか…
さて最近市内にやたらに跋扈(ばっこ・「跋」は踏む、「扈」は竹やな。大魚が梁やなの中に入らないでおどりこえることから) 上を無視して権勢を自由にすること。転じて一般に、勝手気ままにふるまうこと。のさばりはびこること)してきた一杯飲み屋は何をやっているか?記者は一夜大塚横丁群がり、それなりにやつているパイツ屋の夜を探ってみた。
ぞっとしながら
臭いゾ!と見破られてはあたら功をイッキに欠く恐れがあるのでスキー帽に破れオーバーそしてドタ靴を身につけて扨て出るには出たものの、何しろかかる飲み屋への見参は生まれて今が最初だ。記者のそれでなくとも弱い弱い心臓はいささか寒気に縮む思いなきにしもあらずであったが、職責の重かつ大なるに勇を鼓して出掛ける。
とにかく神経を殺してからと、ほど近い角のおでん屋で熱燗二三本たおして目的地に向かった。時刻は十一時廻ったばかりである。
春の夜霧にうるんだ街を行く…なんて書くと誠に詩的な文句であるにしても、職柄とは言え虎穴に入らずんばの悲壮な?心境を持ってノレンに御休所と染め抜いた小っぽけな飲み屋のガラス戸は手を掛けた。
中にはうす暗い電灯がションぼり低い天井からぶら下がっているだけで客らしい姿は見えない、「熱いところを一本つけてくれよ!」と奥の方へ酔いどれ声よろしく呼ぶと、「いらっしゃい」元気はいいが紙ヤスリみたいなやに艶のない声帯の返事があったと思ったら、五十がらみの薄汚い婆さんがヒョッコリ現れた。
「姐さんはいないのか」がっかりさせるにも程がある。と不満たっぷりな素振りをみせると、婆さんは複雑な表情をして、一寸用達しに出したと弁解した。
「チョ、面白くねえなあ」とつぶやきながら記者はいっぱしの御得意然としてすましこんで婆さんのつけてくれたお燗をぐい呑みして何かなきかと狼の如く待っていたが、客は無し、女っ気はなし、見切りをつけてサヨナラする。
算盤度胸?
命拾いをした様に外に飛び出してホットしたものの、これからまだ二三軒のさねばならぬ事を思って慄然とした。霧雨はまだやむことなく更けた街の灯をぼかしている。
これも職柄なれば詮もなしと第二の飲み屋へ突貫する。
此処はまた狭い店の中に、カフェーのお古らしいスプリングの利かなくなったボックスがガタガタと三つ四つ並べられてある。
奥まったボックスの一隅に鳥打ち帽子のアンチャンとむっつり小太りした姐さんが並んでなべ焼きをつついている。誠にもってランマンたる風景。それが記者の威勢のいい戸のあけっぷりにビックリするかと思いの外、ランマンたる構図のまま「あらいらっしゃい」記者は初めてなのに十年の知己を迎える如き意味深な上目を使ってニット笑った。
記者も勿論百年の知己の如く「やあ…」と言いながら彼たちの隣の席へ腰をかける。周囲を見回すと安っぽい壁紙に、ショクパン、なべ焼き、ケーキ、定食、等と拙いメニューがチグハグな対照をなして貼られてある。「ほ、ほう。ショクパンとケーキ出来るのかえ?」注文を聞いて行きかけた姐さんの横顔に吹きかけると、「あらそれはご愛敬よ」「ご愛敬?」
それじゃインチキだって言うのかと皮肉ると「何ですか?」賢明なる姐さんには記者の問いが解らぬらしい。
一体飲み屋の規定になっているのか、前の店同様の偉大な徳利を運んできた。
「マア姐さん座れヨ」と傍らに座らして気分の出ないお酌をして貰いながら、向こうのアンチャンに聞こえない低声で「えんぶりに大分儲けたろう」と山をかけると、「大したこともなかったよ」と案外真面目だ。記者ももっともらしい顔をして彼女の耳に口を寄せ「おい、あの若僧帰ったら久しぶりでサービスしろよ」姐さんフフフと意味深な含み笑いする。向こうで例のアンチャン気が揉めると見えて自棄に煙草をプカプカやらかしている。
姐さんに奢った大枚十五銭のナベ焼きが記者の乱入によってフイになるのかと言う訳でもあるまいが、ともあれ内心おかしくなったり気の毒になったり…
それでもこれが四十がらみの苦み走った恐い面相のオッサンで「若僧、邪魔すると承知しねえぞ」とか何とか怒鳴られては、記者だって気味が悪くなって退却せざるを得ないんだが、相手は幸いにして悪っけのなさそうな小柄なアンチャンだ。よし喧嘩出入りになったって歩はこっちのもの…
算盤度胸で記者はボックスにふんぞりかえっていると、とたんに向こうのアンチャンたまりかねたように姐さんに声をかけた。「二階でゆっくり飲まないか」記者の傍らで煙草をふかしていた姐さんの手が横に振られた。
「どうしてダメなんだ」「とてもこの頃やかましいんだよ」記者はとぼけ顔して、そんなに厳しいのかと聞くと、この頃は日に二三度覗きに来るのヨとやりきれないという風情で姐さんうつろなる顔をなさる。
時計を見ると十一時二十分過ぎている。後四十分のタイムしかない。一寸頑張ればあと一息でハラハラする場面になるのだが、それを投げて次の突貫のために惜しくも勘定払って出る。
銘酒のため効き目あらたかなるためか、頭がズキズキ痛い。まことに記者なんどの足を入れるべき場所ではない。最後の一軒を襲うた。そこには客が二人、半纏がけの兄さん連がメートルを揚げている。三十近い姐さんがお酌の手をやめて、うろうろ門口に立っている記者に「入りなさいよ、外ばかりで浮気しないで、たまにはうちでもゆっくり飲んだらいいでせう」なかなかにして弁舌鮮やかな代物である。記者は又も十年の知己にされてしまった。空いている薄汚れたボックスに腰をかけて、偉大なる徳利の銘酒には流石記者も脅威を感じて、そばを注文する。
二人の先客は猥談を交々語って姐さんを刺激するつもりらしいが、百戦錬磨の彼女には流石に焼け石に水だ。あきらめたか二人の酔いどれも去った。さて、独壇場になったわいと時計を見るとすでに残念にも十二時二十分。これじゃ頑張るわけにもいかぬと腰をあげると「あら、もうお帰り、無情だワ」とか何とか姐さんヌカリがない。記者は恰も騙されたかの如き態度で「面白いこともないし時間にもなるから帰るぜ」と腰を上げると、「外は寒いし……
後略 結句何ということもなし、出だしだけの尻切れ原稿。戦前は朝日町、新長横町もなく、この大塚横町あたりが曖昧屋の巣窟のようだ。小中野の女郎屋にも行けぬ、銭のない連中が何か良いことないかいとウロウロしたんだろう。それを相手に鼻の下を伸ばさせたり縮めさせる手練手管の淫売が沢山いたのだろう。
世の中は金と女は仇なりどうぞ仇に廻りあいたい 太田南畝(おおたなんぽ・江戸後期の狂歌師・戯作者。幕臣。名は覃たん。別号、蜀山人・四方赤良)の世界。江戸の昔からこれだもの、人間なんてのは利口にならないもの。
市内中等学校各運動部選手卒業生と本年度選手
地方スポーツ界の華は、何を置いても先ず中等校選手の活躍に○ものおおいが、母校の名誉を担って活躍するその若人も年ごとに、母校を巣立ち実社会に飛び去る。
今年度県南中等各部選手を紹介
八戸中学
野球部
主将 林崎正雄捕手 最上正俊三塁 松尾栄右翼 坂下慶助二塁 植村嘉夫 石木田由弥一塁 中野実遊撃 工藤正義中堅 中島義好左翼 金子良一 田中平治投手 馬場幸四郎 高橋久育 卒業生 阿部久八
柔道部
卒業生 差波直三 三ケ田佐一郎 鈴木貞一 河西大弥 高橋勝人 監督 佐川圭吾
新メンバー
大将 田村徳蔵 副将 笹渡勇人 三将 福田実 吉成武久 先鋒 郷州永八 監督 加藤栄弥
剣道部
卒業生 監督三浦信一(就職)選士久保邦輔(国士舘)槻館陽三(早稲田)広沢安平(慶応)中屋敷広勝(盛鉄)浅山賢二(駒沢)小山田清澄(高船)
本年度メンバー 監督下田孝一 大将 立花左近 副将加藤一夫 中堅三浦政吉 四将近藤政吉 先鋒浪打正 補欠工藤八十寿 同金沢志郎
水泳部
卒業生 主将加藤真平 三村官左衛門 田口貢 清水徹男監督吉田良一
今年度選手 監督村井宏三郎 主将宮崎松雄 五戸重雄 村田善一 岡部一彦 武田忠雄 篠本茂夫 森清 下斗米永三郎 江口忠吉 溝口清美 島守薫
競技部
卒業生加藤鎮雄(棒高三段) 河口與五郎(槍) 三浦一郎 木村繁夫 広沢専蔵 庭田福右衛門
新メンバー 主将高島健三(短) 中村弘(槍)石倉鎌吉(中距)橋本隆一郎(長)高橋一郎(長)三浦象二(短) 神秀夫(中)荒井賢治(短)
スケート部 卒業生下斗米徹二(主将)川口與五郎
新メンバー 主将中村弘 藤田仁郎 金沢新太郎 川村弘康 田名部忠太郎 石橋富男 吉田実 沢村 福井 星
商業学校
競技部 卒業生 広田 中崎 泉山 北村 宮崎
新メンバー中居直三郎 佐々木 関野 高橋 馬場 監督関野幸治
水産学校・柔道部 卒業生大島 工藤
新メンバー 主将若狭龍次郎 副将岩岸五郎 吉田富太郎 佐藤午之助 豊島万之助 柳町松雄 高見佳兵衛 服部弘 桜野倉雄 種市八十吉 榊保蔵 笹川信 伊藤庸
続
小中野特集1 小中野小学校百年史から 1
前号の田村邦夫氏の話から、吉田トミエさんを想起。この人を中心に八戸の音楽文化を探ろうと、八戸図書館で色々と調べると、小中野小学校百年史を発見。この冊子の凄いのは卒業生一覧がある。唸った。少年野球指導者、広田真澄氏の文もある。早速紹介。
思い出の野球と陸上競技
小中野体育協会長広田真澄
小年野球
八戸地方での野球処、小中野からは大石選手をはじめ沢山の名手を出して仲々盛んであった。私達は小学一・二年生頃から応援団に混って、遠く八中グランド迄歩いたもので、何時しか見よう見まねで野球知識を得、道路で布製ボールベースボールを楽んだものである。私達が六年生になった大正十二年春、青森の松木屋呉服店主催で県下少年野球大会が初めて開催されることになり、小中野からも参加する為早速学校に合宿練習。久保・稲葉・佐藤の諸先生から指導されたが、担任の関係から主として佐藤先生が担当、猛烈果敢なスパルタ教育を受けたもので、ハンブルしては怒嗚られ、悪投してはバットが飛んで来る有様、八重沢捕手は、ノックの時などバットで終始小突かれ被害甚大であったと今でも笑話になっている程である。三戸郡大会には八戸町をはじめ他の町村不参加で当時未だ村であった小中野が不戦優勝し代表となった。青森の県下大会には第一回戦で弘前大成に一勝したものの、第二回で東郡大野に惜
敗した。
翌十三年の第二回大会は、小野寺―瀬越のバッテリーで決勝に進み、青森莨町と決戦、瀬越のホームランラインを越す大ライナーを、驚いた 観衆が逃げながらダイレクトで捕らえたので、着地点が不明で紛糾したが結局ファールを宣言されて二点がフイとなり、二ー一で恨みを呑んだのである。
十四年の第三回大会は、猛練習で鍛え一層充実した選手団であって、郡代表決定選は勿論、県大会に於いても破竹の勢いをもって次ぎ次ぎに相手を撃破し、全く文字通り鎧袖一触(がいしゅういっしょく・よろいの袖でちょっと触れる程度のわずかな力で、たやすく相手を打ち負かすこと)そのもので県下の覇を握ったのである。
防犯少年野球
戦後の混鈍たる世相の中に、小中野出身の八高生等によって野球チームが編成され、心身の鍛練を企画したことは、如何にも小中野らしい風情がある。その頃青少年の非行救済策として全国野球大会が、防犯関係者によって常行されることになり、二十五年には北友チーム(北横丁新丁)が八戸代表となったが、県大会では優勝した十和田チームに敗退し、二十六年にはインデアンズが八戸市で優勝し代表となった。裸足か草履、服装は各自銘々の普段着、如何にもインデアンズにふさわしい。県大会では準決勝で弘前と対戦し、三回までに九―○と離されあと一点でコールドゲーム、誰しも負を予想したが、四回俄然投打開眼、最終七回で九―九の同点、延長八回で十五―十で苦戦ながら決勝に進み、堀越を破って県代表となり、仙台の東北大会に進んだのである。選手の気力と自信には全く敬服もので、自主練習の効果覿面(てきめん・結果・効果などがその場ですぐあらわれること)というべきである。
東北大会でも決勝で宮城代表岩沼と対戦、先取得点されたが結局三―一で優勝した。いよいよ後楽園の全国大会である。一回戦は北九州大川チームに六―一と快勝したが、二回戦で名古屋中京クラブに三―一で惜敗、翌年を期して帰八した。
二十七年は市・県・東北大会何れも予定通り優勝し、他の十五チームと共に後楽園に進んだのである。一回戦は広島を五―○、二回戦は新潟を五―○、準決勝で優勝候補の横浜と対戦し一ー○で之を倒し、新聞で散々に誉められるし、在京八戸人会では沢山の応援団を繰り出して一大声援、いよいよ決勝に臨んだが、相手は強豪、呉の三津田、速攻よろしく戦力の陣容整なわぬ間に四―○と離されたが、後半から東北人らしくねばりにねばって八回三点を入れて五―三。九回は二アウトながら満塁、一打同点か勝越しの追上げムード、観衆は大いに湧きに湧き、一球一球の声援に球場は興奮の坩堝(るつぼ)と化して、決勝戦に適しい熱戦を展開したのである。結局玉川主将の捕邪飛で万事休したが、場内からは絶讃され八戸の名を高らしめた快挙と自負している。メンバーは
二十六年・投手・佐藤充、藤本、捕手・宮本、小笠原、一・玉川庄、二・佐藤洋、三池田、遊撃・岩淵、左・八並、中・根世、右高橋正、熊谷行、高中、杉村、月館孝
二十七年
投・藤本、渡辺、捕・橋本、一・玉川恵、二・月館孝、三・池田、遊撃・風張、左・高橋正、中・鈴木理、右・佐藤洋、音喜多、柳沢正、道合博
尚監督四名、部コーチ玉川恵・川村久・鈴木清・市場駿の諸君で、現在も小中野で続いている防犯少年野球大会は、先輩の偉業を讃えながら、その精神を受けついで行なわれているのである。
陸上競技
大正十四年は、小中野小にとって野球と競技に於いて、空前の全盛を誇った年であると云っても過言でない賑いぶりであった。前述の県下少年野球の優勝をはじめ各種大会優勝のほか、陸上競技に於いても尋常科高等科共に県内最強のメンバーで、優勝に次ぐ優勝と誠に往く処遮(さえ)ぎる者なく全く破竹の勢いであった。参加した大会も郡教育会主催の三戸郡大会・八戸中・青中並びに鶴岡青年団主催の県下大会と権威ある大会に優勝、更に県森師範創立五十周年記念大会には、県内各校の俊英が多数参加したもののよく善戦し、瀬越(百・高・巾・三・円)下野(砲)リレー(瀬越・下野・熊野・内藤)のタイトルを得た尋常科と、広田(百・巾・三・砲)福岡(槍・円)、リレー(広田・中島・小野寺・石橋)の高等科と殆どタイトルを独占する形で共々優勝を飾ったのである。
此の年優勝旗・優勝杯の総数三 十六の多望に達し、優勝旗祭を催して祝ったことを思い出すのである。前述の野球指導の諸先生と競技指導の対馬先生や、スポーツと勉学の両立をモットーとした八木沢校長先生の、共に喜んでくれた笑顔が今でも懐しくて仕方がない。
柔道
八戸柔道協会々長古川誠
明治の中頃、盛岡から来た藤田と言う人が小中野町左比代に柔道場を開いた。これが当地に於ける柔道の草分けであろう。浜通りの青年が集まり隆盛を極めたが大正半ばに閉鎖したと聞いている。比道場は古流である。昭和初期岩田男也の開いた道揚がある。柔剣道合同であった。柔道の師範はいなかった。
講道館柔道は湊学友会と水産学校の洋友会によって普及されたと言われている。
学友会からは柔道の偉材が輩出している。夏堀悌二郎・正三兄弟、木村千太郎、夏堀道麿、工藤千代吉、大久保正、藤田久蔵、吉成武久、等等……。これらの人々のエピソードは数知れない。紙数の関係上割愛しなければならない事は遣惑である。私は学友会の末輩である。小学生の頃、学友会の柔道部に憧れた事を今でも忘れない。洋友会出身では柳谷一家の存在が大きい。柳谷明義は、大久保・藤田の諸先輩と共に一時代を画した名選手である。戦中から戦後にかけて大きな足跡を遣した柳谷勝雄はその次弟である。
戦后は、柳谷勝雄・古川誠がその中心的存在であろう。八戸柔道界の重鎮、佐藤孝志先生を招聘し昭和二十七年柔道を建設し当地の柔道の発展普及に努めた。斯界の為に大いに寄与したものと思う。
戦后に活躍した人々に、柳谷弟吉、勝美兄弟、大久保完美等がいる。道場出身者には、木村書店の木村忠雄(警視庁師範)土方博敬、町田勝巳等枚挙に暇がない。
小中小学校に柔道クラブが創設されたのは昭和三十一年、三月二十二日、板橋校長時代である。板橋校長は八戸中時代名選手であった。
役員は次の通りである。会長或は部長・板橋勇次郎師範・佐藤孝志理事・藤田久蔵、武田実、重茂得一、柳谷勝雄、橘喜助、古川誠、事務部・川村三郎、指導員・河野康之丞、阿部幹、桜庭健、高山惣一、石橋志郎 女子部・植村てる。
部員数男子約百五十名、女子約十名、小学校柔道クラブ結成は県下で最初であろう。此クラブ出身者が高校で活躍した事は承知の通りである。
星霜移り変わり道場もさびれつつある。然し有志相募り、昭和四十五年以来再び浜通りの青少年育成に意を注いでいます。現在、稽古日・月水金の三日間、指導員、大野恭衛・川口正範・横町健悦・佐藤武・達中清志であります。
小中野小百周年に当たり小中野柔道を振り返って見た。自他共栄精力善用を通じ健全な青少年の育成を心から念じる。
湊学友会の誕生
青年会と学友会
八戸市教育誌によれば、八戸青年会(北村益主宰)の発足は明治二十二年、湊学友会のそれは明治二十九年、とある。そこでいま、この両団体を乱暴に短評すれば、さしずめ「文明開化的村塾」と言ったところだろう。が、しかしこの村塾的存在が、いやしくも公的機関の記録に値いするのは、それぞれ[地域社会の文化水準を高めた]とする社会教育評価にほかなるまい。ところでこの八戸青年会が、青森県尋常中学校八戸分校(八高の祖型)と湊学友会の設立に大きく作用したと言われる。そう言えば、尋中八戸分校の草創期における青年会が、この分校に占めるウェートは、かなり大きい。すなわち分校七名の教師中、五名までが青年会員であり、新入生の過半数もまた青年会員といったぐあいなので、尋中八戸分校の構成は、さながら八戸青年会PTAである。
それかあらぬか青年会の鼻息が荒く、これを蔽(へい・つつみかくすこと。おおうこと)して遠ざけた町方が「青年会のドンドゴドン、袴コはいて草とりコ」というザレ唄を巷に流した。この、ちょっと捨て難い味の里謡は、多分にアンチ北村の響きをもつが、そんなら、この槍玉にあがった北村の人と成りは、どのようなものだったろうか。他意なく評して北村益は、一種の精神的巨人である。すなわち幾多の高僧哲人について道を求め、文武百般を目ざして「難行苦行ヲ以テ業務トシ」ながら、一方では八戸最初のピアス号自転車や今のスライドに相当する幻燈機、さらにはブラスバンドまで持ちこむという開化ぶりも示した。が、その心底は、どうやら自身の雅号たる△古心▽への回帰であり、錬成につぐ錬成をもって「コノ勤行ニ耐ユル者二非ズンバ会員タルヲ得ズ」と声をはげました。だから長男の北村小松などはグウの音も出ないほどシゴかれたし、京大柔道部の荒行
で今弁慶の勇名を洛中洛外にとどろかした甥の浅水成吉郎でさえ、こうあしらわれた。
明治三十五年二月二日
諧武員候補者浅水成吉郎
右ノ者一月二十六日不都合ノ所為ニヨリ負傷致シ侯ニツキ一日ノ欠勤ヲ以テ三日ノ欠勤二算ス
つまり北村によれば「たるんでるからケガをするのだ、このまぬけ」なのである。もっとも、これは北村の武断的一側面にすぎない
だろうが、とにかく時の中学校長をして拝跪(はいき・ひざまずいておがむこと。かしこまること)せしめたとあるから、剛気なものだ。ま、それはともあれ、前記尋中八戸分校が第二尋常中学校と改称されたこと、折からの八戸三社祭のさ中で炎上、時の県会で物議をかもした。このとき青年会が△八戸ノ発展上、中学校ヲ小中野ト大杉平ト何レニ置キテ可ナリヤ▽を討議し、票決により小中野十四票、大杉平二十票でケリがついている。
これは、小中野の立地に青年会が無関心でなかった事を示しているが、しかし青年会が学友会に決定的な影響を与えた、という事にはならない。また当時、浜通在住の青年会員としては神田重雄・石橋蔵五郎・中野菊也、それにのち小中野校の松木興身先生となった河原木興身ぐらいのものだ。そして、この中には個人として北村の知遇(ちぐう・人格や識見を認めた上での厚い待遇)をえた人があっても、全体としてどの程度に両団体のパイプ役をはたしたかも定かでない。そこで、このような考察よりは、むしろ学友会が青年会の△文▽を音楽演劇の領域にまでひろげ、またその△武▽をスポーツのレベルにまで高めた、という点に意義があろう。
港から湊ヘ
浜学友会の生れ育った土地は、浜ではなくて小中野である。それが、なぜ会名に△浜▽を冠するのかちと解せないが、これに似た例は、ほかにもある。すなわち新堀に残る湊駅、今は小中野局となっている旧湊郵便局などがそれだ。とすれば、あるいは明治二十三年の記録△小中野、昔ハ折本村ト称シテ今ノ二本杉近辺ニアリシヲ年号何レノ頃ニヤ今ノ所二移レリト。当村ハ元三小区ニシテ湊村ト言イシヲ其後、小中野村トナレリ▽に由来するかもしれない。
また小中野は平坦な土地に浜の主要機関や商店街ばかりでなく、花街や銭湯もあるという一種の文化センターであった。また、その花街や銭湯は当時警察の所管なので、そこに駐在所もあるというぐあいで、一見、タダイ(消費者)の集落をなしていた。これにひきかえ段丘からなる湊村は、ヤマド(山人)ハマド(浜人)と称されたカセギ手(生産者)の集落であった。
したがって相互の生活経済面で、競合する物がない。また両地区にまたがる浜川は物資集散の動脈となって、共通のミナトをなしている。
これが学友会に「湊」を称させた起因ではなかろうか。ところで前記の明治二十三年は、青森県に初めて地方制度実施令が公布された年でもある。この政令のねらいは多方面にわたるが、いまこれを教育行政面だけにしぼれば、末端の学区を整備する事によって「教育の地方分権をはかる」というにあった。が、この本音は、その建前とは大分ちがう。すなわち後前の学制を実施する段階で、もうこれ以上の財政負担には耐えない、という所まで逼迫していた。そこでオタメゴカシの「教育の町村自治」というゲタを地方にあずけよう、というのである。その結果が三小区の盛湊校を小中野尋常小学校(左比代)とし、また新しく湊を四小区に定め、下条の簡易小学を湊尋常小学校(むつみなと)としたのである。
そして、そこを巣立った俊英たちが、開校まもない尋中八戸分校の難関を越え、やがて湊学友会に拠って、浜のルネッサンスを展開する。
学友会の胎動
さて、ここで尋中八戸分校と、それから派生する校外団体について略述しておこう。まず、この分校は明治二十六年七月に設置され、その修業年限は三ケ年だったが、幸運にも明治二十九年に五年課程の独立校に昇格、青森県第二尋常中学校となった。つまり俗称、県立二中だ。
そしてこの二中が、当時、県南で唯ひとつの最高学府なので、人呼んで南部の帝大といった。が、実は腕をためそうにも相手がないので、まずはお山の大将だ。だから湊学友会を筆頭に上北の上南会、三戸の郷友会、五戸の北嶺会などが続出して、技をきそいあったわけである。
なお、これら諸団体中、特筆に価いするのは八戸学生団であるが、その出現はおそく大正四年、すでに各地に県立校が設置されたため、二中校外団体存続の意義は、ようやくうすれた頃であった。
さて、ここで筆を元にもどせば、湊学友会では、最初の会員を音喜多政治(富寿の父)と神田品次(ただじ・重雄の次第)の二人としている。
したがって学友会の結成時には、この二人は三年生、浪打石丸が二年生、山浦武夫(先代)が一年生である。はたしてしからば、当時この人たちに上級生会員がなかったかと言えば、実は四年級に山田誠、五年級に宗元苗 (そお・もとたね)がいたのである。そこでまず山田だが、かれはもともと神田、山浦、上田とは縁続きの会津衆である。そして当時、田名部の生家を離れ、湊下条の小林家から八戸の中学校にかよっていたのは、絶家寸前にある小林の名跡をつぐためだった。ところが山田は、なぜか「白盛社」という団体づくりに夢中である。ちなみにこの白盛社は、多分に飯盛山の白虎隊にあやかるものだが、かれはいささか図にのって三戸、五戸、三本木方面まで間口をひろげ、結局、竜頭蛇尾おわる。が、この不屈のオルガナイザー山田は、性こりもなく今度は、白盛社と同工の湊精進団というものに手を染める。されば従来この精進団をもって学友会の前身とする説は、一概にうがちすぎの論とは言えない。なお山田は、その後、東京高商(現商大)を経て米スタクトン神学校を卒業、牧師として在外活動に当ること二十数年、一時帰国したのが関東大震災の年である。そして心友・植村正久、賀川豊彦らと行動をともにするが、昭和二十五年、七十三才をもって神に召された。ついでながら学友会の外様(とざま)会員として鳴らした山田(のち小林)陸奥雄は、その甥であり養嗣子でもある。さて、次の宗元苗については、いまさら詳述するまでもなく、八戸中学第一回生であり、かつ同窓中、最初の八中校長になった人である。また、この人を身近な所で知るために、あえて美濃部洋子の父、と附記しておこう。
そして、さらに宗を偲ぶために、かれの従兄で地質学者として高名だった大関久五郎の略歴を添えよう。大関は館村売市のひと。青森師範学校を卒えて湊小学校の教師となり、ついで東京高等師範学院(現教育大)に進み、同校卒業後、千葉県立安房中学教諭。のち東京高師教授に迎えられ、ドイツのフリードリッヒ・ウイルヘルム大留学、文部省視学官となる。その間、地学における未開の分野を科学的に体系づけながら、瞠目(どうもく・驚いたり感心したりして目をみはること)すべき幾多の著述を世におくる。
大正七年、北海道講演旅行中、折からのスペイン風邪に感染、四十四才でこの世を去る。
筆を宗元苗にもどせば、それからたどる宗の前半生は、そっくりそのまま大関の前半生である。つまり大関が安房中学教諭から高師教授になったとき、宗がそのあとがまに坐るところまで、同じ路線だ。だから宗は、その敬仰(けいぎょう・うやまいたっとぶこと。)する従兄の中に、人間の理想像を見いだしていたであろう。そう言えば宗は、大杉平に回帰するころすでに旧制高校教授の資格をえていた。それが母校の校長におさまると、そこに痛恨の後半生が彼を待っていたのである。が、ここでは、もっぱら宗と学友会の出あいを探求することにする。
さて宗元苗が、母校の校長になったのは、やがて関東大震災に見舞われようという大正十二年四月。母校の創立三十周年にあたる年であった。また翌十三年は八戸大火の年であり、かつ学友会、三十周年式典の行われた年でもある。いまこの年を対比すれば、学文会の誕生は明治二十九年以前、ということになる。この点につき、さきに宗が五年生、山浦が一年生の時と書いたが、この推定もあてにはならない。
というのは、宗たち第一回入学者八十四名が、そのまま一年級を編成したわけでなく、この中の三十六名が再試験の結果、二年級を編成しているからだ。つまり宗は、五ケ年の修業年限を三年数ケ月ですませ、すでに湊小学校の先生さまになっていたわけだ。なお、この速成組三十六名は、その間きびしいフルイにかけられ、まともに卒業したのは十名にすぎない。だから宗元苗や山田誠は、郷党(きょうとう・郷里)の仰ぎ見るエリートであり、学友会の誇るべき先輩だったであろう。
群像と人脈
さて従来、小中野で石橋姓を名のる人びとは、おおむね与兵衛屋一族であろう。たとえば石橋蔵五郎、石橋道麿、松や旅館の石橋宇吉、かつての料亭「万葉」などである。また、その連枝(れんし・枝をつらね本を同じくする意) 兄弟。特に貴人にいう)である夏堀悌二郎が八戸市長、その弟正三が小田原助役、石橋宇吉が八戸市収入役とあれば、まさに学友会ならではの三役そろいぶみである。さらに前記、宗元苗は、この一族とは血脈のつなかりをもつ人だ。そして、これに類似の関係は、のちの神田市長、久保節助役、山浦武夫県議の場合にも見られる。また山浦の場合に父系において松岡正男(羽仁もと子の弟、八中二回生)とは緑辺(えんぺん・婚姻による縁続きの間柄。親族。縁故のある人)につらなり、とくに生徒学生時代の交友が密である。おそらく当年(とうねん・その頃。その時代)の山浦は、のちに松岡が日本有数の新聞人となり、またラグビーの草分けとうたわれる姿を、想っても見なかったであろう。またこれとは別に、かつての国立第百五十銀行頭取・富岡新十郎の外孫が、ほかならぬ学友会の音喜多富寿である。
なおこの富岡頭取は育英事業にも熱心で、野田正太郎らの英才を世に出したが、その最後の給費生は、宗元苗である。また富岡のもとで銀行支配人をつとめた野崎和治の実弟登太郎は、のち松岡家に入夫して、羽仁もと子、松岡正男の父となった。この幾重にも織りなす人間模様の出来不出来はさておき、ここで小中野女の才気を知るに格好な逸話を示したい。たぶんこの話は、富岡が銀行の危機をのりきるために安田善次郎に救援を求めた時のことであろう.行きつけの万葉亭で、大事な客だから「山海の珍味でもてなせ。カネに糸目はつけない」と富岡が女将に申しつけた。
そのせいかこの会談がうまく運び、さて勘定ということになった。が、その法外な請求額に、さすがの富岡も目をまるくした。なんと一家が、らくらく一ケ月は暮らせようという金額だ。そこで富岡が事の次第を女将に聞くと、且那さんがケッパレというので「タキギがわりに三味線の棹だけ焚いたので、こう高くつきあんした」と答えた、というのである。そして、このような才気が、男性にのりうつると「学友会の三太郎」のようなタイプになる。この三太郎は木村千太郎、室岡政太郎、浪打季太郎で、かれらのたどった途は、それぞれ異なるが、才気縦横という点では同型である。このうち木村については、歌人・靄村の長兄であり、かつ奇行の人として書き古されているので筆をはぶくが、室岡と浪打は自分を韜晦(とうかい・自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと)するような生活態度だっただけに、この際、略伝程度ながら書き残したい。
そこでまず室岡だが、かれは写真に見るとおり、八戸中学、旧制第二高、東大を通して三浦一雄(のも農林大臣)夏場悌二郎たちとは友人である。
まだその姓字でも判るように、小中野の室岡医院とは同族であり、八戸市庁在勤の室岡一の父でもある。さらに渋民小学校の啄木と心のふれあった稲田ひで子の従兄でもある。
それはさておき室岡は、東大法学部、九大工学部の双方を卒業したので、どの職場でも引く手あまたのはずだが、なぜか浪々(ろうろう・さまよい歩くさま。さすらうさま)孤高(ここう・ひとりかけはなれて高い境地にいること。ひとり超然としていること)の青年期を送る。が、やがて川村竹洽(青森県知事・台湾総督)の知遇をえてからは、そのフトコロ刀となって敏腕をふるった。一例をいえば関東大震災時に台湾ヒノキを移出して東京復興に寄与し、あるいは綿花の移出によって本土の綿布需要に応える等、やることがでかい。それが官を辞して帰郷すると、あえて市井の無名に甘んじ、隠士のような生涯をおわる。なお彼の弟が省三、妹が松岡きく子なので、そのつながりは、川村竹治夫人の川村女学院、松岡洋子、羽仁説子に及ぶわけである。
さて次の浪打季太郎については、現在のところ、まぽろしの人物である。が、わずかに知られている点は、若くして名古屋の特殊学校教師になったことである。この学校は、徳川政権のいわれない圧制で長く人間あつかいされなかった平人(のち新平民)の教育施設である。つまり今の同和運動の原形であり、八戸の類家堤におけるカンタロウ部落の解放、といっていいだろう。また、八戸におけるカンタロウの悲話が、大正中期まで小説または芝居に仕組まれ、子女の紅涙をさそったが、浪打の進路は、あるいはこれらの稗史(はいし・昔、中国で稗官はいかんが集めて記録した民間の物語。転じて、広く小説をいう)演劇によって方向づけられたのではなかろうか。
学友会の本領
学友会の本領とするのは、水泳と野球であった。泳法の習得は今ではプールだが、もとは海岸である。そういう地の利もあり、ことに水府流の浪打石丸を師範にいただく学友会は、水泳におけるメッカであった。もっとも、その泳法はあくまでも古式の実用流なので、湊川口から蕪島までの遠泳をハイライトとする物であった。が、この例会には、きまって旧藩主が臨席された所からみても、浜通最大の催しであった。ところが大正十二年、時の八中校長宗元苗が、後輩の高師選手をコーチに迎え、初めてクロール泳法を導入した。
この新式泳法を体得した学友会の椛沢幸一・波打浩・鈴木弘道らは、やがてその名声を東北一円にとどろかすことになる。
次に野球については、早大生時代の山浦武夫がこれを導入し、慶大野球部員・石橋道麿が習熟させたとされる。が、これよりさき、野球史にも名をとどめるょうな有名選手が、八戸中学のコーチをしているので、むしろ長く郷里にとどまり、その間の状景に接している大久保弥三郎(先代)あたりが、学友会野球の主軸をなしたように思う。なお参考までに、明治三十八年代の八中野球部選手をあげれば、註記のとおりであるが、この顔ぶれがさかんに四部試合(柔・剣‘野球・庭球)をかけもちで他校にいどんでいる。
したがって、柔道の御大が竹刀をっふりかざして惨敗したり、テニスの神さまがグローブ片手にエラーの続出、という場面もある。
ま、ここまでは笑ってすまされるが、この背後に容易ならぬ事態が待ちかまえていたのである。
武田知事の禁止令
とかく試合は、クロスゲームになればなるほど面白い物だが、それがエキサイトすると、あとは言わずもがなの乱斗になる。これを県史に求めれば「明治三十八年、時の武田千代三郎知事が、県下中等学校の対校試合を禁止したので、学校スポーッは漸次おとろえたが、各地で倶楽部を組織し、素人先輩を加えて試合を行い…」となる。この点、八戸中学も例外ではなく、ために校外団体である学友会が、思わぬ人気を博したわけである。それにしても武田知事の禁止令はちと俯におちない。というのは、すでに武田は、一地方長官としてよりは、むしろ日本体育協会の生みの親として有名なはずである。すなわち彼は、その大学予備門(旧第一高)時代の盟友(めいゆう・ちかいあった友。同志)岸清一とともに、英人教師ウィリアム・ストレンジについて英国流スポーツを習得し、さらに東大に進んでからは、有名な赤門運動会(体協)を結成し、あらゆるスポーツ団体をその傘下に糾合(きゅうごう・一つによせあつめ、まとめること)した。そして初代会長嘉納治五郎、二代会長岸清一博士のもとで、引き続き副会長をつとめる最高実力者である。それが青森県に赴任したとたんに、対校試合まかりならん、というのである。その原因は、かれの頑迷なスポーツ・アマチュアリズムにもあるが、直接には県立一中(弘前中学)と秋田県下中等学校の試合に乱斗が絶えなかったからである。そしてこの禁止令は、前記「学友会の三太郎」の時代まで続く。また時の八中野球部には、次の学友会員がレギュラー選手として活躍している。投手薄正義(すすき・まさよし、会津衆)捕手久保(のち三島)利義、セカンド夏堀悌二郎、センター神田三雄(内閣人事官)、レフト安藤安夫(種市町)、また、これにOB外様組が加わり、小中野が、一見、野球部落の観を呈したのである。
やがてこの伝統を受けついだ会員中から月館(のち尾形)留吉投手やカーブを多用したので「魔法」の異名をとった大久保一郎投手、さらには甲子園の舞台をふむ大下健一がうまれ、また捕手としては室岡杯の玄悦医師および田中泰・功兄弟、それにナラカン(奈良貫一)で鳴らした今の田中清三郎、名ショート佐藤義一・亮一兄弟が輩出する。
ここで、いきなり大正十三年の三十周年式典に飛ぶが、その前に初代会長山浦武夫の作詞になる会歌に触れておきたい。この曲の原歌は、明治三十七年第一高等学校の記念祭に歌われた征露歌であるが、「ああ玉杯」と並んで特に喧伝(けんでん・世間に言いはやし伝えること)されていたので、かつて東京に遊学した山浦は、自作の歌詞にこのメロデーをつけたのであろう。さて次に三十周年記念歌であるか、この作詞作曲にあたった奥村勝治は、相棒の音喜多富寿とカネタ湯でひと風呂あびていた。所が突然「おお、できた」と叫ぶなり、褌一本で外に飛び出した。びっくりしたのは音喜多で、早速奥村の着衣をかかえ小学校の講堂にかけつけると、オルガンを前にして「春さくら花咲く目の本のォ」と唸っていたのである。
なお、この記念行事中、岩見対山と夏堀正三、奥村らによる「出家とその弟子」の上演があり、さらに対山師の「神経衰弱」と題するパントマイムもあって満堂を魅了したわけである。また五年生大久保幾次郎は、その主宰するマンドリン楽団を指揮し、いやがうえにも式典のムードをもりあげた。ころしも新旧の思潮うずまく大正末期。さしもの学友会も時計の振子のように、あるいは左し、あるいは右したが、しかしたゆまず時を刻みつつ、昭和期にはいるわけである。
思い出の野球と陸上競技
小中野体育協会長広田真澄
小年野球
八戸地方での野球処、小中野からは大石選手をはじめ沢山の名手を出して仲々盛んであった。私達は小学一・二年生頃から応援団に混って、遠く八中グランド迄歩いたもので、何時しか見よう見まねで野球知識を得、道路で布製ボールベースボールを楽んだものである。私達が六年生になった大正十二年春、青森の松木屋呉服店主催で県下少年野球大会が初めて開催されることになり、小中野からも参加する為早速学校に合宿練習。久保・稲葉・佐藤の諸先生から指導されたが、担任の関係から主として佐藤先生が担当、猛烈果敢なスパルタ教育を受けたもので、ハンブルしては怒嗚られ、悪投してはバットが飛んで来る有様、八重沢捕手は、ノックの時などバットで終始小突かれ被害甚大であったと今でも笑話になっている程である。三戸郡大会には八戸町をはじめ他の町村不参加で当時未だ村であった小中野が不戦優勝し代表となった。青森の県下大会には第一回戦で弘前大成に一勝したものの、第二回で東郡大野に惜
敗した。
翌十三年の第二回大会は、小野寺―瀬越のバッテリーで決勝に進み、青森莨町と決戦、瀬越のホームランラインを越す大ライナーを、驚いた 観衆が逃げながらダイレクトで捕らえたので、着地点が不明で紛糾したが結局ファールを宣言されて二点がフイとなり、二ー一で恨みを呑んだのである。
十四年の第三回大会は、猛練習で鍛え一層充実した選手団であって、郡代表決定選は勿論、県大会に於いても破竹の勢いをもって次ぎ次ぎに相手を撃破し、全く文字通り鎧袖一触(がいしゅういっしょく・よろいの袖でちょっと触れる程度のわずかな力で、たやすく相手を打ち負かすこと)そのもので県下の覇を握ったのである。
防犯少年野球
戦後の混鈍たる世相の中に、小中野出身の八高生等によって野球チームが編成され、心身の鍛練を企画したことは、如何にも小中野らしい風情がある。その頃青少年の非行救済策として全国野球大会が、防犯関係者によって常行されることになり、二十五年には北友チーム(北横丁新丁)が八戸代表となったが、県大会では優勝した十和田チームに敗退し、二十六年にはインデアンズが八戸市で優勝し代表となった。裸足か草履、服装は各自銘々の普段着、如何にもインデアンズにふさわしい。県大会では準決勝で弘前と対戦し、三回までに九―○と離されあと一点でコールドゲーム、誰しも負を予想したが、四回俄然投打開眼、最終七回で九―九の同点、延長八回で十五―十で苦戦ながら決勝に進み、堀越を破って県代表となり、仙台の東北大会に進んだのである。選手の気力と自信には全く敬服もので、自主練習の効果覿面(てきめん・結果・効果などがその場ですぐあらわれること)というべきである。
東北大会でも決勝で宮城代表岩沼と対戦、先取得点されたが結局三―一で優勝した。いよいよ後楽園の全国大会である。一回戦は北九州大川チームに六―一と快勝したが、二回戦で名古屋中京クラブに三―一で惜敗、翌年を期して帰八した。
二十七年は市・県・東北大会何れも予定通り優勝し、他の十五チームと共に後楽園に進んだのである。一回戦は広島を五―○、二回戦は新潟を五―○、準決勝で優勝候補の横浜と対戦し一ー○で之を倒し、新聞で散々に誉められるし、在京八戸人会では沢山の応援団を繰り出して一大声援、いよいよ決勝に臨んだが、相手は強豪、呉の三津田、速攻よろしく戦力の陣容整なわぬ間に四―○と離されたが、後半から東北人らしくねばりにねばって八回三点を入れて五―三。九回は二アウトながら満塁、一打同点か勝越しの追上げムード、観衆は大いに湧きに湧き、一球一球の声援に球場は興奮の坩堝(るつぼ)と化して、決勝戦に適しい熱戦を展開したのである。結局玉川主将の捕邪飛で万事休したが、場内からは絶讃され八戸の名を高らしめた快挙と自負している。メンバーは
二十六年・投手・佐藤充、藤本、捕手・宮本、小笠原、一・玉川庄、二・佐藤洋、三池田、遊撃・岩淵、左・八並、中・根世、右高橋正、熊谷行、高中、杉村、月館孝
二十七年
投・藤本、渡辺、捕・橋本、一・玉川恵、二・月館孝、三・池田、遊撃・風張、左・高橋正、中・鈴木理、右・佐藤洋、音喜多、柳沢正、道合博
尚監督四名、部コーチ玉川恵・川村久・鈴木清・市場駿の諸君で、現在も小中野で続いている防犯少年野球大会は、先輩の偉業を讃えながら、その精神を受けついで行なわれているのである。
陸上競技
大正十四年は、小中野小にとって野球と競技に於いて、空前の全盛を誇った年であると云っても過言でない賑いぶりであった。前述の県下少年野球の優勝をはじめ各種大会優勝のほか、陸上競技に於いても尋常科高等科共に県内最強のメンバーで、優勝に次ぐ優勝と誠に往く処遮(さえ)ぎる者なく全く破竹の勢いであった。参加した大会も郡教育会主催の三戸郡大会・八戸中・青中並びに鶴岡青年団主催の県下大会と権威ある大会に優勝、更に県森師範創立五十周年記念大会には、県内各校の俊英が多数参加したもののよく善戦し、瀬越(百・高・巾・三・円)下野(砲)リレー(瀬越・下野・熊野・内藤)のタイトルを得た尋常科と、広田(百・巾・三・砲)福岡(槍・円)、リレー(広田・中島・小野寺・石橋)の高等科と殆どタイトルを独占する形で共々優勝を飾ったのである。
此の年優勝旗・優勝杯の総数三 十六の多望に達し、優勝旗祭を催して祝ったことを思い出すのである。前述の野球指導の諸先生と競技指導の対馬先生や、スポーツと勉学の両立をモットーとした八木沢校長先生の、共に喜んでくれた笑顔が今でも懐しくて仕方がない。
柔道
八戸柔道協会々長古川誠
明治の中頃、盛岡から来た藤田と言う人が小中野町左比代に柔道場を開いた。これが当地に於ける柔道の草分けであろう。浜通りの青年が集まり隆盛を極めたが大正半ばに閉鎖したと聞いている。比道場は古流である。昭和初期岩田男也の開いた道揚がある。柔剣道合同であった。柔道の師範はいなかった。
講道館柔道は湊学友会と水産学校の洋友会によって普及されたと言われている。
学友会からは柔道の偉材が輩出している。夏堀悌二郎・正三兄弟、木村千太郎、夏堀道麿、工藤千代吉、大久保正、藤田久蔵、吉成武久、等等……。これらの人々のエピソードは数知れない。紙数の関係上割愛しなければならない事は遣惑である。私は学友会の末輩である。小学生の頃、学友会の柔道部に憧れた事を今でも忘れない。洋友会出身では柳谷一家の存在が大きい。柳谷明義は、大久保・藤田の諸先輩と共に一時代を画した名選手である。戦中から戦後にかけて大きな足跡を遣した柳谷勝雄はその次弟である。
戦后は、柳谷勝雄・古川誠がその中心的存在であろう。八戸柔道界の重鎮、佐藤孝志先生を招聘し昭和二十七年柔道を建設し当地の柔道の発展普及に努めた。斯界の為に大いに寄与したものと思う。
戦后に活躍した人々に、柳谷弟吉、勝美兄弟、大久保完美等がいる。道場出身者には、木村書店の木村忠雄(警視庁師範)土方博敬、町田勝巳等枚挙に暇がない。
小中小学校に柔道クラブが創設されたのは昭和三十一年、三月二十二日、板橋校長時代である。板橋校長は八戸中時代名選手であった。
役員は次の通りである。会長或は部長・板橋勇次郎師範・佐藤孝志理事・藤田久蔵、武田実、重茂得一、柳谷勝雄、橘喜助、古川誠、事務部・川村三郎、指導員・河野康之丞、阿部幹、桜庭健、高山惣一、石橋志郎 女子部・植村てる。
部員数男子約百五十名、女子約十名、小学校柔道クラブ結成は県下で最初であろう。此クラブ出身者が高校で活躍した事は承知の通りである。
星霜移り変わり道場もさびれつつある。然し有志相募り、昭和四十五年以来再び浜通りの青少年育成に意を注いでいます。現在、稽古日・月水金の三日間、指導員、大野恭衛・川口正範・横町健悦・佐藤武・達中清志であります。
小中野小百周年に当たり小中野柔道を振り返って見た。自他共栄精力善用を通じ健全な青少年の育成を心から念じる。
湊学友会の誕生
青年会と学友会
八戸市教育誌によれば、八戸青年会(北村益主宰)の発足は明治二十二年、湊学友会のそれは明治二十九年、とある。そこでいま、この両団体を乱暴に短評すれば、さしずめ「文明開化的村塾」と言ったところだろう。が、しかしこの村塾的存在が、いやしくも公的機関の記録に値いするのは、それぞれ[地域社会の文化水準を高めた]とする社会教育評価にほかなるまい。ところでこの八戸青年会が、青森県尋常中学校八戸分校(八高の祖型)と湊学友会の設立に大きく作用したと言われる。そう言えば、尋中八戸分校の草創期における青年会が、この分校に占めるウェートは、かなり大きい。すなわち分校七名の教師中、五名までが青年会員であり、新入生の過半数もまた青年会員といったぐあいなので、尋中八戸分校の構成は、さながら八戸青年会PTAである。
それかあらぬか青年会の鼻息が荒く、これを蔽(へい・つつみかくすこと。おおうこと)して遠ざけた町方が「青年会のドンドゴドン、袴コはいて草とりコ」というザレ唄を巷に流した。この、ちょっと捨て難い味の里謡は、多分にアンチ北村の響きをもつが、そんなら、この槍玉にあがった北村の人と成りは、どのようなものだったろうか。他意なく評して北村益は、一種の精神的巨人である。すなわち幾多の高僧哲人について道を求め、文武百般を目ざして「難行苦行ヲ以テ業務トシ」ながら、一方では八戸最初のピアス号自転車や今のスライドに相当する幻燈機、さらにはブラスバンドまで持ちこむという開化ぶりも示した。が、その心底は、どうやら自身の雅号たる△古心▽への回帰であり、錬成につぐ錬成をもって「コノ勤行ニ耐ユル者二非ズンバ会員タルヲ得ズ」と声をはげました。だから長男の北村小松などはグウの音も出ないほどシゴかれたし、京大柔道部の荒行
で今弁慶の勇名を洛中洛外にとどろかした甥の浅水成吉郎でさえ、こうあしらわれた。
明治三十五年二月二日
諧武員候補者浅水成吉郎
右ノ者一月二十六日不都合ノ所為ニヨリ負傷致シ侯ニツキ一日ノ欠勤ヲ以テ三日ノ欠勤二算ス
つまり北村によれば「たるんでるからケガをするのだ、このまぬけ」なのである。もっとも、これは北村の武断的一側面にすぎない
だろうが、とにかく時の中学校長をして拝跪(はいき・ひざまずいておがむこと。かしこまること)せしめたとあるから、剛気なものだ。ま、それはともあれ、前記尋中八戸分校が第二尋常中学校と改称されたこと、折からの八戸三社祭のさ中で炎上、時の県会で物議をかもした。このとき青年会が△八戸ノ発展上、中学校ヲ小中野ト大杉平ト何レニ置キテ可ナリヤ▽を討議し、票決により小中野十四票、大杉平二十票でケリがついている。
これは、小中野の立地に青年会が無関心でなかった事を示しているが、しかし青年会が学友会に決定的な影響を与えた、という事にはならない。また当時、浜通在住の青年会員としては神田重雄・石橋蔵五郎・中野菊也、それにのち小中野校の松木興身先生となった河原木興身ぐらいのものだ。そして、この中には個人として北村の知遇(ちぐう・人格や識見を認めた上での厚い待遇)をえた人があっても、全体としてどの程度に両団体のパイプ役をはたしたかも定かでない。そこで、このような考察よりは、むしろ学友会が青年会の△文▽を音楽演劇の領域にまでひろげ、またその△武▽をスポーツのレベルにまで高めた、という点に意義があろう。
港から湊ヘ
浜学友会の生れ育った土地は、浜ではなくて小中野である。それが、なぜ会名に△浜▽を冠するのかちと解せないが、これに似た例は、ほかにもある。すなわち新堀に残る湊駅、今は小中野局となっている旧湊郵便局などがそれだ。とすれば、あるいは明治二十三年の記録△小中野、昔ハ折本村ト称シテ今ノ二本杉近辺ニアリシヲ年号何レノ頃ニヤ今ノ所二移レリト。当村ハ元三小区ニシテ湊村ト言イシヲ其後、小中野村トナレリ▽に由来するかもしれない。
また小中野は平坦な土地に浜の主要機関や商店街ばかりでなく、花街や銭湯もあるという一種の文化センターであった。また、その花街や銭湯は当時警察の所管なので、そこに駐在所もあるというぐあいで、一見、タダイ(消費者)の集落をなしていた。これにひきかえ段丘からなる湊村は、ヤマド(山人)ハマド(浜人)と称されたカセギ手(生産者)の集落であった。
したがって相互の生活経済面で、競合する物がない。また両地区にまたがる浜川は物資集散の動脈となって、共通のミナトをなしている。
これが学友会に「湊」を称させた起因ではなかろうか。ところで前記の明治二十三年は、青森県に初めて地方制度実施令が公布された年でもある。この政令のねらいは多方面にわたるが、いまこれを教育行政面だけにしぼれば、末端の学区を整備する事によって「教育の地方分権をはかる」というにあった。が、この本音は、その建前とは大分ちがう。すなわち後前の学制を実施する段階で、もうこれ以上の財政負担には耐えない、という所まで逼迫していた。そこでオタメゴカシの「教育の町村自治」というゲタを地方にあずけよう、というのである。その結果が三小区の盛湊校を小中野尋常小学校(左比代)とし、また新しく湊を四小区に定め、下条の簡易小学を湊尋常小学校(むつみなと)としたのである。
そして、そこを巣立った俊英たちが、開校まもない尋中八戸分校の難関を越え、やがて湊学友会に拠って、浜のルネッサンスを展開する。
学友会の胎動
さて、ここで尋中八戸分校と、それから派生する校外団体について略述しておこう。まず、この分校は明治二十六年七月に設置され、その修業年限は三ケ年だったが、幸運にも明治二十九年に五年課程の独立校に昇格、青森県第二尋常中学校となった。つまり俗称、県立二中だ。
そしてこの二中が、当時、県南で唯ひとつの最高学府なので、人呼んで南部の帝大といった。が、実は腕をためそうにも相手がないので、まずはお山の大将だ。だから湊学友会を筆頭に上北の上南会、三戸の郷友会、五戸の北嶺会などが続出して、技をきそいあったわけである。
なお、これら諸団体中、特筆に価いするのは八戸学生団であるが、その出現はおそく大正四年、すでに各地に県立校が設置されたため、二中校外団体存続の意義は、ようやくうすれた頃であった。
さて、ここで筆を元にもどせば、湊学友会では、最初の会員を音喜多政治(富寿の父)と神田品次(ただじ・重雄の次第)の二人としている。
したがって学友会の結成時には、この二人は三年生、浪打石丸が二年生、山浦武夫(先代)が一年生である。はたしてしからば、当時この人たちに上級生会員がなかったかと言えば、実は四年級に山田誠、五年級に宗元苗 (そお・もとたね)がいたのである。そこでまず山田だが、かれはもともと神田、山浦、上田とは縁続きの会津衆である。そして当時、田名部の生家を離れ、湊下条の小林家から八戸の中学校にかよっていたのは、絶家寸前にある小林の名跡をつぐためだった。ところが山田は、なぜか「白盛社」という団体づくりに夢中である。ちなみにこの白盛社は、多分に飯盛山の白虎隊にあやかるものだが、かれはいささか図にのって三戸、五戸、三本木方面まで間口をひろげ、結局、竜頭蛇尾おわる。が、この不屈のオルガナイザー山田は、性こりもなく今度は、白盛社と同工の湊精進団というものに手を染める。されば従来この精進団をもって学友会の前身とする説は、一概にうがちすぎの論とは言えない。なお山田は、その後、東京高商(現商大)を経て米スタクトン神学校を卒業、牧師として在外活動に当ること二十数年、一時帰国したのが関東大震災の年である。そして心友・植村正久、賀川豊彦らと行動をともにするが、昭和二十五年、七十三才をもって神に召された。ついでながら学友会の外様(とざま)会員として鳴らした山田(のち小林)陸奥雄は、その甥であり養嗣子でもある。さて、次の宗元苗については、いまさら詳述するまでもなく、八戸中学第一回生であり、かつ同窓中、最初の八中校長になった人である。また、この人を身近な所で知るために、あえて美濃部洋子の父、と附記しておこう。
そして、さらに宗を偲ぶために、かれの従兄で地質学者として高名だった大関久五郎の略歴を添えよう。大関は館村売市のひと。青森師範学校を卒えて湊小学校の教師となり、ついで東京高等師範学院(現教育大)に進み、同校卒業後、千葉県立安房中学教諭。のち東京高師教授に迎えられ、ドイツのフリードリッヒ・ウイルヘルム大留学、文部省視学官となる。その間、地学における未開の分野を科学的に体系づけながら、瞠目(どうもく・驚いたり感心したりして目をみはること)すべき幾多の著述を世におくる。
大正七年、北海道講演旅行中、折からのスペイン風邪に感染、四十四才でこの世を去る。
筆を宗元苗にもどせば、それからたどる宗の前半生は、そっくりそのまま大関の前半生である。つまり大関が安房中学教諭から高師教授になったとき、宗がそのあとがまに坐るところまで、同じ路線だ。だから宗は、その敬仰(けいぎょう・うやまいたっとぶこと。)する従兄の中に、人間の理想像を見いだしていたであろう。そう言えば宗は、大杉平に回帰するころすでに旧制高校教授の資格をえていた。それが母校の校長におさまると、そこに痛恨の後半生が彼を待っていたのである。が、ここでは、もっぱら宗と学友会の出あいを探求することにする。
さて宗元苗が、母校の校長になったのは、やがて関東大震災に見舞われようという大正十二年四月。母校の創立三十周年にあたる年であった。また翌十三年は八戸大火の年であり、かつ学友会、三十周年式典の行われた年でもある。いまこの年を対比すれば、学文会の誕生は明治二十九年以前、ということになる。この点につき、さきに宗が五年生、山浦が一年生の時と書いたが、この推定もあてにはならない。
というのは、宗たち第一回入学者八十四名が、そのまま一年級を編成したわけでなく、この中の三十六名が再試験の結果、二年級を編成しているからだ。つまり宗は、五ケ年の修業年限を三年数ケ月ですませ、すでに湊小学校の先生さまになっていたわけだ。なお、この速成組三十六名は、その間きびしいフルイにかけられ、まともに卒業したのは十名にすぎない。だから宗元苗や山田誠は、郷党(きょうとう・郷里)の仰ぎ見るエリートであり、学友会の誇るべき先輩だったであろう。
群像と人脈
さて従来、小中野で石橋姓を名のる人びとは、おおむね与兵衛屋一族であろう。たとえば石橋蔵五郎、石橋道麿、松や旅館の石橋宇吉、かつての料亭「万葉」などである。また、その連枝(れんし・枝をつらね本を同じくする意) 兄弟。特に貴人にいう)である夏堀悌二郎が八戸市長、その弟正三が小田原助役、石橋宇吉が八戸市収入役とあれば、まさに学友会ならではの三役そろいぶみである。さらに前記、宗元苗は、この一族とは血脈のつなかりをもつ人だ。そして、これに類似の関係は、のちの神田市長、久保節助役、山浦武夫県議の場合にも見られる。また山浦の場合に父系において松岡正男(羽仁もと子の弟、八中二回生)とは緑辺(えんぺん・婚姻による縁続きの間柄。親族。縁故のある人)につらなり、とくに生徒学生時代の交友が密である。おそらく当年(とうねん・その頃。その時代)の山浦は、のちに松岡が日本有数の新聞人となり、またラグビーの草分けとうたわれる姿を、想っても見なかったであろう。またこれとは別に、かつての国立第百五十銀行頭取・富岡新十郎の外孫が、ほかならぬ学友会の音喜多富寿である。
なおこの富岡頭取は育英事業にも熱心で、野田正太郎らの英才を世に出したが、その最後の給費生は、宗元苗である。また富岡のもとで銀行支配人をつとめた野崎和治の実弟登太郎は、のち松岡家に入夫して、羽仁もと子、松岡正男の父となった。この幾重にも織りなす人間模様の出来不出来はさておき、ここで小中野女の才気を知るに格好な逸話を示したい。たぶんこの話は、富岡が銀行の危機をのりきるために安田善次郎に救援を求めた時のことであろう.行きつけの万葉亭で、大事な客だから「山海の珍味でもてなせ。カネに糸目はつけない」と富岡が女将に申しつけた。
そのせいかこの会談がうまく運び、さて勘定ということになった。が、その法外な請求額に、さすがの富岡も目をまるくした。なんと一家が、らくらく一ケ月は暮らせようという金額だ。そこで富岡が事の次第を女将に聞くと、且那さんがケッパレというので「タキギがわりに三味線の棹だけ焚いたので、こう高くつきあんした」と答えた、というのである。そして、このような才気が、男性にのりうつると「学友会の三太郎」のようなタイプになる。この三太郎は木村千太郎、室岡政太郎、浪打季太郎で、かれらのたどった途は、それぞれ異なるが、才気縦横という点では同型である。このうち木村については、歌人・靄村の長兄であり、かつ奇行の人として書き古されているので筆をはぶくが、室岡と浪打は自分を韜晦(とうかい・自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと)するような生活態度だっただけに、この際、略伝程度ながら書き残したい。
そこでまず室岡だが、かれは写真に見るとおり、八戸中学、旧制第二高、東大を通して三浦一雄(のも農林大臣)夏場悌二郎たちとは友人である。
まだその姓字でも判るように、小中野の室岡医院とは同族であり、八戸市庁在勤の室岡一の父でもある。さらに渋民小学校の啄木と心のふれあった稲田ひで子の従兄でもある。
それはさておき室岡は、東大法学部、九大工学部の双方を卒業したので、どの職場でも引く手あまたのはずだが、なぜか浪々(ろうろう・さまよい歩くさま。さすらうさま)孤高(ここう・ひとりかけはなれて高い境地にいること。ひとり超然としていること)の青年期を送る。が、やがて川村竹洽(青森県知事・台湾総督)の知遇をえてからは、そのフトコロ刀となって敏腕をふるった。一例をいえば関東大震災時に台湾ヒノキを移出して東京復興に寄与し、あるいは綿花の移出によって本土の綿布需要に応える等、やることがでかい。それが官を辞して帰郷すると、あえて市井の無名に甘んじ、隠士のような生涯をおわる。なお彼の弟が省三、妹が松岡きく子なので、そのつながりは、川村竹治夫人の川村女学院、松岡洋子、羽仁説子に及ぶわけである。
さて次の浪打季太郎については、現在のところ、まぽろしの人物である。が、わずかに知られている点は、若くして名古屋の特殊学校教師になったことである。この学校は、徳川政権のいわれない圧制で長く人間あつかいされなかった平人(のち新平民)の教育施設である。つまり今の同和運動の原形であり、八戸の類家堤におけるカンタロウ部落の解放、といっていいだろう。また、八戸におけるカンタロウの悲話が、大正中期まで小説または芝居に仕組まれ、子女の紅涙をさそったが、浪打の進路は、あるいはこれらの稗史(はいし・昔、中国で稗官はいかんが集めて記録した民間の物語。転じて、広く小説をいう)演劇によって方向づけられたのではなかろうか。
学友会の本領
学友会の本領とするのは、水泳と野球であった。泳法の習得は今ではプールだが、もとは海岸である。そういう地の利もあり、ことに水府流の浪打石丸を師範にいただく学友会は、水泳におけるメッカであった。もっとも、その泳法はあくまでも古式の実用流なので、湊川口から蕪島までの遠泳をハイライトとする物であった。が、この例会には、きまって旧藩主が臨席された所からみても、浜通最大の催しであった。ところが大正十二年、時の八中校長宗元苗が、後輩の高師選手をコーチに迎え、初めてクロール泳法を導入した。
この新式泳法を体得した学友会の椛沢幸一・波打浩・鈴木弘道らは、やがてその名声を東北一円にとどろかすことになる。
次に野球については、早大生時代の山浦武夫がこれを導入し、慶大野球部員・石橋道麿が習熟させたとされる。が、これよりさき、野球史にも名をとどめるょうな有名選手が、八戸中学のコーチをしているので、むしろ長く郷里にとどまり、その間の状景に接している大久保弥三郎(先代)あたりが、学友会野球の主軸をなしたように思う。なお参考までに、明治三十八年代の八中野球部選手をあげれば、註記のとおりであるが、この顔ぶれがさかんに四部試合(柔・剣‘野球・庭球)をかけもちで他校にいどんでいる。
したがって、柔道の御大が竹刀をっふりかざして惨敗したり、テニスの神さまがグローブ片手にエラーの続出、という場面もある。
ま、ここまでは笑ってすまされるが、この背後に容易ならぬ事態が待ちかまえていたのである。
武田知事の禁止令
とかく試合は、クロスゲームになればなるほど面白い物だが、それがエキサイトすると、あとは言わずもがなの乱斗になる。これを県史に求めれば「明治三十八年、時の武田千代三郎知事が、県下中等学校の対校試合を禁止したので、学校スポーッは漸次おとろえたが、各地で倶楽部を組織し、素人先輩を加えて試合を行い…」となる。この点、八戸中学も例外ではなく、ために校外団体である学友会が、思わぬ人気を博したわけである。それにしても武田知事の禁止令はちと俯におちない。というのは、すでに武田は、一地方長官としてよりは、むしろ日本体育協会の生みの親として有名なはずである。すなわち彼は、その大学予備門(旧第一高)時代の盟友(めいゆう・ちかいあった友。同志)岸清一とともに、英人教師ウィリアム・ストレンジについて英国流スポーツを習得し、さらに東大に進んでからは、有名な赤門運動会(体協)を結成し、あらゆるスポーツ団体をその傘下に糾合(きゅうごう・一つによせあつめ、まとめること)した。そして初代会長嘉納治五郎、二代会長岸清一博士のもとで、引き続き副会長をつとめる最高実力者である。それが青森県に赴任したとたんに、対校試合まかりならん、というのである。その原因は、かれの頑迷なスポーツ・アマチュアリズムにもあるが、直接には県立一中(弘前中学)と秋田県下中等学校の試合に乱斗が絶えなかったからである。そしてこの禁止令は、前記「学友会の三太郎」の時代まで続く。また時の八中野球部には、次の学友会員がレギュラー選手として活躍している。投手薄正義(すすき・まさよし、会津衆)捕手久保(のち三島)利義、セカンド夏堀悌二郎、センター神田三雄(内閣人事官)、レフト安藤安夫(種市町)、また、これにOB外様組が加わり、小中野が、一見、野球部落の観を呈したのである。
やがてこの伝統を受けついだ会員中から月館(のち尾形)留吉投手やカーブを多用したので「魔法」の異名をとった大久保一郎投手、さらには甲子園の舞台をふむ大下健一がうまれ、また捕手としては室岡杯の玄悦医師および田中泰・功兄弟、それにナラカン(奈良貫一)で鳴らした今の田中清三郎、名ショート佐藤義一・亮一兄弟が輩出する。
ここで、いきなり大正十三年の三十周年式典に飛ぶが、その前に初代会長山浦武夫の作詞になる会歌に触れておきたい。この曲の原歌は、明治三十七年第一高等学校の記念祭に歌われた征露歌であるが、「ああ玉杯」と並んで特に喧伝(けんでん・世間に言いはやし伝えること)されていたので、かつて東京に遊学した山浦は、自作の歌詞にこのメロデーをつけたのであろう。さて次に三十周年記念歌であるか、この作詞作曲にあたった奥村勝治は、相棒の音喜多富寿とカネタ湯でひと風呂あびていた。所が突然「おお、できた」と叫ぶなり、褌一本で外に飛び出した。びっくりしたのは音喜多で、早速奥村の着衣をかかえ小学校の講堂にかけつけると、オルガンを前にして「春さくら花咲く目の本のォ」と唸っていたのである。
なお、この記念行事中、岩見対山と夏堀正三、奥村らによる「出家とその弟子」の上演があり、さらに対山師の「神経衰弱」と題するパントマイムもあって満堂を魅了したわけである。また五年生大久保幾次郎は、その主宰するマンドリン楽団を指揮し、いやがうえにも式典のムードをもりあげた。ころしも新旧の思潮うずまく大正末期。さしもの学友会も時計の振子のように、あるいは左し、あるいは右したが、しかしたゆまず時を刻みつつ、昭和期にはいるわけである。
東奥日報に見る明治二十九年の八戸及び八戸人2
津波惨話片々
母と子 岩手県北九戸郡門前にて潰れ家の下より頻りに救いを呼ぶ声あり堀り起こして見るに一婦人腰まで泥に入り六歳ばかりの女児を背にし三歳ばかりの男児を抱きおり背上の女児はすでに絆切(ことき)れてありたるが婦人も亦今しも救いの人の来たりしを見るより心の弛みにや息絶え残るは三歳ばかりの男児のみ
一場の悲哀劇 大槌町大砂賀といえる所の貸座敷の主人佐々木末吉長男一三(十五)長女さえ(十七)次女かね(六)の外娼妓六名あり一三近所に行き遊びおる間に津波起こり家内皆二階に籠もり神仏を念じつつ流れたり家はグルリグルリと回転して流れ行く中に松助といえる漁師その老婆を負うて流され来たり二階の軒に取り付きし途端老婆は怒濤に取り去られアワヤと見る間に松助の妻は二歳なる子を負うて流され来たり同じく二階の軒に取り付くや否や子はヒーと泣き声して怒濤の中に奪わる夫婦再会の奇縁の中にも母と子を同時に失える悲しさ殆ど狂気の如くなるを末吉は己も危うき激浪中の二階にて介抱しおる中長女さえは弟一三の身を案じ私は如何でも助かりませぬが弟を助けたいとて泣いた妹のさえはそんなら兄さんが死んだのか私は死にたくないよこれから悪戯をしませんから助けてください親父だんと縋りつき娼妓等も相抱きて泣く中浪はいよいよ怒りミリミリと音して裂け始めたれば一同念仏を唱える者あり助けを求める者あり阿鼻叫喚の間に天幸なる哉陸に打ち上げられ不思議の命を助かりさて一三は愈々死せしならんと亦もや泣きたる所へ走り来たりしは一三にて僕は山に逃げたから大丈夫と一同目出度く巡り会いし只々芝居の筋の如く悲喜こもごも至るも無理ならず
田老村被害甚大 東閉伊郡中被害最も甚大は田老村にして激浪の高きこと十余丈に達し潮流勢い最も強大にして沿岸にありたる二抱え以上ある松樹大凡百本余僅かに樹根を存するのみ又風帆船の海岸波打ち際を上る二町余の山腹に打ち上げられたるあり以て其の惨状の一般を知る此の如くなれば村役場尋常小学校員等皆死亡し巡査駐在所流失し駐在巡査一二名家族と共に死亡せり重茂村重茂駐在所所在地の如くはあたかも平原と化し只村長の屋根の端に押しつけられあるのみ船舶は一隻も不残流亡或いは破壊し巡査駐在所巡査一名家族と共に死亡せり船越村も亦被害少なからず村役場尋常小学校巡査駐在所皆流失し駐在巡査重傷を負い妻子残らず死亡せり山田町警察分署は大破に及び海波の為千余人を失い災後失火の為またまた四十余人一片の煙と化したるあり実に酸鼻に耐えざるなり而して其の概数は左の如し
人口二八三二八 死亡六七○四 負傷一三七○
戸数五三○八 流失家屋一八○二
破壊家屋三三五
八戸護身会の義捐 同会は八戸町大字窪町に在り主として柔剣道を講習し体育の発達を希図(きと・くわだてはかること。くわだて。もくろみ。計画)し一朝有事の時に際して国恩の万分一を報せんと所謂護国護身を目的とし昨年四月創設せられしものなるが爾来日なお浅きにもかかわらず会長鈴木好吉氏の励精なると教授藤田順次郎氏の熱心なるを以て目下八戸町及び小中野湊白銀鮫港等の青年無慮数十名の会員を有し日夜技術錬磨に余念なき由なるが今回本社において大津波遭難救助金を募集の挙あるや同会員奮いて義捐を為し今回救助義捐金八戸取り扱い所青霞堂の手を経て金十五円を寄贈せられたり
三戸水害続報
去る十八日午後一時より降り出したる大雨は実に盆を覆すが如く去る二十一日朝までは片時も止まず為実に馬淵川及び熊原川は氾濫平常より増水すること殆ど一丈五尺余沿岸の田畑悉く浸水す三戸町の中央にある黄金橋の如くは橋上に浸水せるも幸いに三戸役場員警官消防夫最寄り町民が非常の尽力により土俵を積みたるため橋台石垣を壊墜せるのみにて僅かに落橋に至らず三戸町部内において流失したる橋梁は五カ所浸水家屋は十一戸浸水田畑は二十余町流失田畑は十町歩余なり馬淵川に架設せる住谷橋と言えるは停車場に通じおるものなるが○流のために全く通行を断て…以下読めず
八戸の水害
去る十九日以来の大雨にて三戸郡八戸町両側の堰も為に溢水し大字鍛冶町は浸水家屋三戸あり一時は非常警戒を為したるほどなりと
馬淵川は去る二十一日に至りていよいよ水量を増し八戸尻内間の汽車運転を中止せり同川に架設せる大橋も今一尺ばかりにて橋上に達せんとし鉄道線路なる鉄橋も三尺程にて浸水の勢いあり為に鉄道工夫ら橋上に詰め合い流失し来るものの取り除きに着手したる程なりしと同川沿岸の田畑はいずれもこれが為に水冠りとなり低地は殆ど一丈五尺位も浸水したる由二十一日午後五時頃より漸く二十二日に至りて汽車の運転旧に復せり右の如く気候不順なるが為陽気を迎えるとか称して八戸の有志発起となり去る二十一日晩より大道に篝火を焚いたる由
五戸の水害
去る十八日夜十二時頃より翌十九日午前七時頃迄は大雨盆を覆すが如くに降りて市中は川をなし為に沢町高橋幸次郎家宅の如きは非常の害を被りまさに家屋も浸水の上に流失せん程なりしに五戸公立消防組の尽力にて大事に至らず
五戸川は大洪水となりて平水より大凡六尺程を増水し木材の流失夥しく堤防の崩壊等より出水は十九日午前五時頃より始まり正午頃までの間最も甚だかりし為に水陸田の浸害を受ける大凡六十町歩余。
五戸公立消防組は村長の命を受け五戸橋保護中流失木材長四間以上のもの橋杭に横たわり是の為に水切り杭の危険言うばかりなく消防手四五人にて取り退きに尽力せるも容易にうごかざる内上流に稼ぎいたる消防手三浦興志これを聞きて駈け来たり忽ち激流に飛び入り何の苦もなく取り流し為に橋梁の無難なるを得たるは同人の功や大なりと言うべし第一回の洪水一たびは終わりて人民未だ安堵に付かざる内又もや十九日午後十時より二十日午後三時頃迄にかけて降り出したる大雨は更に再び五戸川の川水を促して前日より増水したること二尺余川原町(二百戸計)は一同浸害を受けんこと慮り老幼男女は何れも立ち退きたれども村内浸害を蒙りたるもの僅かに十七八戸に止まり人畜には別に死傷等なかりしは不幸中の幸いとも言うべきか、水陸田の浸害を受くる前日より二十町歩余を増せり消防夫は前日に引き続き五戸川を保護せり同夜五戸川岸に山崩れありて一通りならぬ騒ぎをなせり村長は尚一層の警戒を加えて消防夫と共に徹夜をなせり殊に天満下筒口堰の大破を生じ水田砂石を運び去るるを慮りて川内村役場に能夫(わざふ)を差遣するなどの大混雑ありき浸害地は目下取り調べ中なり
藤田善五郎氏は消防夫一同に炊き出しを与えたり毎度ながら氏の義挙称すべし
青森県技師川村巌氏は大雨を冒して破損の道路橋梁を取り調べの為巡回一寸の暇なきが如し人は氏の熱心を称す
下田停車場道の修繕は漸く終わりたるに今又降雨の為大破を生じたり五戸の商業界は該道の修繕と関するや大而して今又此の大破を来す嘆すべし
九月一日小中野村の洪水
一昨夜来の降雨にて本日午前四時頃より新井田川増水小中野村(湊貸座敷所在地)一円に浸水し一同八戸町に避難せり目下騒動中なり、午前五時三十分より一層水量を増し湊川は一丈余の増水にて湊橋流れるやとの心配あり浦町は七尺余新町は三尺新地は五尺位の浸水の為に二階又は屋根へ家具を持ち運び混雑一方ならず浸水家屋四百戸計り午前八時三十分頃より漸く減水に傾きたれども浦町は未だ船筏にて用事を便じ八戸町より消防組一同を招致せられたり
嘯害(つなみのがい)善後の計と百石村
つなみの害の始末もほぼ片づき今後は漁民に於いても生計の方法を講ずるため当局者が漁民救済のことも一日を急ぐ次第なれば其の筋にていよいよ地方の慈善者の寄贈に係わる義捐金の内を以て漁業者の業をなさしめんが為に詳細なる調査をなし今回上北郡書記小林寿郎氏は百石村に出張して漁業家のおもだちたる村井倉松昆伝之丞外数名に就き先ず漁村曳子等に対する救急漁業の方法を諮問したるに村長佐瀬渉氏を初め村井氏等の意見は此の漁業の改良と拡張を計り且つ漁業家救済の最良法として巾着網を製造するの至当なるを認めよって更に漁業の被害者を二川目及び一川目の両所に集めて尚協議をこらさしめたるに一川目、二川目の二漁場とも巾着網を製することに決したるよし然るにこの巾着網たるやいずれも二千円余の大金を要するを以て主立った網主等更に出金して之に加入し一漁場共有の如くする都合なりと尤も被害村の深沢川口は救助の金額も少なく巾着網を作るは実に容易の事にあらざるを以て五戸一船の方法によるより外あらざるべしとの意見に決定せるも是は甚だ漁場に適せざるもの成る由にて依って更に資本家を加え是非巾着網になされたきものなりと村井氏等には専ら奔走中なるよし斯く百石村においてはすでに決定したるを以て小林郡書記は一昨日を以て三沢村に向かい出張したりという同村の計は如何になるべきや
この歳津波・洪水・地震と大災難
続
母と子 岩手県北九戸郡門前にて潰れ家の下より頻りに救いを呼ぶ声あり堀り起こして見るに一婦人腰まで泥に入り六歳ばかりの女児を背にし三歳ばかりの男児を抱きおり背上の女児はすでに絆切(ことき)れてありたるが婦人も亦今しも救いの人の来たりしを見るより心の弛みにや息絶え残るは三歳ばかりの男児のみ
一場の悲哀劇 大槌町大砂賀といえる所の貸座敷の主人佐々木末吉長男一三(十五)長女さえ(十七)次女かね(六)の外娼妓六名あり一三近所に行き遊びおる間に津波起こり家内皆二階に籠もり神仏を念じつつ流れたり家はグルリグルリと回転して流れ行く中に松助といえる漁師その老婆を負うて流され来たり二階の軒に取り付きし途端老婆は怒濤に取り去られアワヤと見る間に松助の妻は二歳なる子を負うて流され来たり同じく二階の軒に取り付くや否や子はヒーと泣き声して怒濤の中に奪わる夫婦再会の奇縁の中にも母と子を同時に失える悲しさ殆ど狂気の如くなるを末吉は己も危うき激浪中の二階にて介抱しおる中長女さえは弟一三の身を案じ私は如何でも助かりませぬが弟を助けたいとて泣いた妹のさえはそんなら兄さんが死んだのか私は死にたくないよこれから悪戯をしませんから助けてください親父だんと縋りつき娼妓等も相抱きて泣く中浪はいよいよ怒りミリミリと音して裂け始めたれば一同念仏を唱える者あり助けを求める者あり阿鼻叫喚の間に天幸なる哉陸に打ち上げられ不思議の命を助かりさて一三は愈々死せしならんと亦もや泣きたる所へ走り来たりしは一三にて僕は山に逃げたから大丈夫と一同目出度く巡り会いし只々芝居の筋の如く悲喜こもごも至るも無理ならず
田老村被害甚大 東閉伊郡中被害最も甚大は田老村にして激浪の高きこと十余丈に達し潮流勢い最も強大にして沿岸にありたる二抱え以上ある松樹大凡百本余僅かに樹根を存するのみ又風帆船の海岸波打ち際を上る二町余の山腹に打ち上げられたるあり以て其の惨状の一般を知る此の如くなれば村役場尋常小学校員等皆死亡し巡査駐在所流失し駐在巡査一二名家族と共に死亡せり重茂村重茂駐在所所在地の如くはあたかも平原と化し只村長の屋根の端に押しつけられあるのみ船舶は一隻も不残流亡或いは破壊し巡査駐在所巡査一名家族と共に死亡せり船越村も亦被害少なからず村役場尋常小学校巡査駐在所皆流失し駐在巡査重傷を負い妻子残らず死亡せり山田町警察分署は大破に及び海波の為千余人を失い災後失火の為またまた四十余人一片の煙と化したるあり実に酸鼻に耐えざるなり而して其の概数は左の如し
人口二八三二八 死亡六七○四 負傷一三七○
戸数五三○八 流失家屋一八○二
破壊家屋三三五
八戸護身会の義捐 同会は八戸町大字窪町に在り主として柔剣道を講習し体育の発達を希図(きと・くわだてはかること。くわだて。もくろみ。計画)し一朝有事の時に際して国恩の万分一を報せんと所謂護国護身を目的とし昨年四月創設せられしものなるが爾来日なお浅きにもかかわらず会長鈴木好吉氏の励精なると教授藤田順次郎氏の熱心なるを以て目下八戸町及び小中野湊白銀鮫港等の青年無慮数十名の会員を有し日夜技術錬磨に余念なき由なるが今回本社において大津波遭難救助金を募集の挙あるや同会員奮いて義捐を為し今回救助義捐金八戸取り扱い所青霞堂の手を経て金十五円を寄贈せられたり
三戸水害続報
去る十八日午後一時より降り出したる大雨は実に盆を覆すが如く去る二十一日朝までは片時も止まず為実に馬淵川及び熊原川は氾濫平常より増水すること殆ど一丈五尺余沿岸の田畑悉く浸水す三戸町の中央にある黄金橋の如くは橋上に浸水せるも幸いに三戸役場員警官消防夫最寄り町民が非常の尽力により土俵を積みたるため橋台石垣を壊墜せるのみにて僅かに落橋に至らず三戸町部内において流失したる橋梁は五カ所浸水家屋は十一戸浸水田畑は二十余町流失田畑は十町歩余なり馬淵川に架設せる住谷橋と言えるは停車場に通じおるものなるが○流のために全く通行を断て…以下読めず
八戸の水害
去る十九日以来の大雨にて三戸郡八戸町両側の堰も為に溢水し大字鍛冶町は浸水家屋三戸あり一時は非常警戒を為したるほどなりと
馬淵川は去る二十一日に至りていよいよ水量を増し八戸尻内間の汽車運転を中止せり同川に架設せる大橋も今一尺ばかりにて橋上に達せんとし鉄道線路なる鉄橋も三尺程にて浸水の勢いあり為に鉄道工夫ら橋上に詰め合い流失し来るものの取り除きに着手したる程なりしと同川沿岸の田畑はいずれもこれが為に水冠りとなり低地は殆ど一丈五尺位も浸水したる由二十一日午後五時頃より漸く二十二日に至りて汽車の運転旧に復せり右の如く気候不順なるが為陽気を迎えるとか称して八戸の有志発起となり去る二十一日晩より大道に篝火を焚いたる由
五戸の水害
去る十八日夜十二時頃より翌十九日午前七時頃迄は大雨盆を覆すが如くに降りて市中は川をなし為に沢町高橋幸次郎家宅の如きは非常の害を被りまさに家屋も浸水の上に流失せん程なりしに五戸公立消防組の尽力にて大事に至らず
五戸川は大洪水となりて平水より大凡六尺程を増水し木材の流失夥しく堤防の崩壊等より出水は十九日午前五時頃より始まり正午頃までの間最も甚だかりし為に水陸田の浸害を受ける大凡六十町歩余。
五戸公立消防組は村長の命を受け五戸橋保護中流失木材長四間以上のもの橋杭に横たわり是の為に水切り杭の危険言うばかりなく消防手四五人にて取り退きに尽力せるも容易にうごかざる内上流に稼ぎいたる消防手三浦興志これを聞きて駈け来たり忽ち激流に飛び入り何の苦もなく取り流し為に橋梁の無難なるを得たるは同人の功や大なりと言うべし第一回の洪水一たびは終わりて人民未だ安堵に付かざる内又もや十九日午後十時より二十日午後三時頃迄にかけて降り出したる大雨は更に再び五戸川の川水を促して前日より増水したること二尺余川原町(二百戸計)は一同浸害を受けんこと慮り老幼男女は何れも立ち退きたれども村内浸害を蒙りたるもの僅かに十七八戸に止まり人畜には別に死傷等なかりしは不幸中の幸いとも言うべきか、水陸田の浸害を受くる前日より二十町歩余を増せり消防夫は前日に引き続き五戸川を保護せり同夜五戸川岸に山崩れありて一通りならぬ騒ぎをなせり村長は尚一層の警戒を加えて消防夫と共に徹夜をなせり殊に天満下筒口堰の大破を生じ水田砂石を運び去るるを慮りて川内村役場に能夫(わざふ)を差遣するなどの大混雑ありき浸害地は目下取り調べ中なり
藤田善五郎氏は消防夫一同に炊き出しを与えたり毎度ながら氏の義挙称すべし
青森県技師川村巌氏は大雨を冒して破損の道路橋梁を取り調べの為巡回一寸の暇なきが如し人は氏の熱心を称す
下田停車場道の修繕は漸く終わりたるに今又降雨の為大破を生じたり五戸の商業界は該道の修繕と関するや大而して今又此の大破を来す嘆すべし
九月一日小中野村の洪水
一昨夜来の降雨にて本日午前四時頃より新井田川増水小中野村(湊貸座敷所在地)一円に浸水し一同八戸町に避難せり目下騒動中なり、午前五時三十分より一層水量を増し湊川は一丈余の増水にて湊橋流れるやとの心配あり浦町は七尺余新町は三尺新地は五尺位の浸水の為に二階又は屋根へ家具を持ち運び混雑一方ならず浸水家屋四百戸計り午前八時三十分頃より漸く減水に傾きたれども浦町は未だ船筏にて用事を便じ八戸町より消防組一同を招致せられたり
嘯害(つなみのがい)善後の計と百石村
つなみの害の始末もほぼ片づき今後は漁民に於いても生計の方法を講ずるため当局者が漁民救済のことも一日を急ぐ次第なれば其の筋にていよいよ地方の慈善者の寄贈に係わる義捐金の内を以て漁業者の業をなさしめんが為に詳細なる調査をなし今回上北郡書記小林寿郎氏は百石村に出張して漁業家のおもだちたる村井倉松昆伝之丞外数名に就き先ず漁村曳子等に対する救急漁業の方法を諮問したるに村長佐瀬渉氏を初め村井氏等の意見は此の漁業の改良と拡張を計り且つ漁業家救済の最良法として巾着網を製造するの至当なるを認めよって更に漁業の被害者を二川目及び一川目の両所に集めて尚協議をこらさしめたるに一川目、二川目の二漁場とも巾着網を製することに決したるよし然るにこの巾着網たるやいずれも二千円余の大金を要するを以て主立った網主等更に出金して之に加入し一漁場共有の如くする都合なりと尤も被害村の深沢川口は救助の金額も少なく巾着網を作るは実に容易の事にあらざるを以て五戸一船の方法によるより外あらざるべしとの意見に決定せるも是は甚だ漁場に適せざるもの成る由にて依って更に資本家を加え是非巾着網になされたきものなりと村井氏等には専ら奔走中なるよし斯く百石村においてはすでに決定したるを以て小林郡書記は一昨日を以て三沢村に向かい出張したりという同村の計は如何になるべきや
この歳津波・洪水・地震と大災難
続
新企画 そばやの二階
第一回座談会
そばの老舗 おきな (八戸市馬場町)で創業百周年記念イベントとして「八戸のあれこれを語る会」が四月十日午後二時から開催された。第一回と言うことで盛り上るようにと考えていたが後援となるはずの「月刊 はちのへ今昔」発行者の小川 真氏は此の日、想定もしていなかった緊急入院となった。私には代役はとてもつとまらないものであった。
昭和十二年の地元紙 奥南新聞の記事を見ていただき、それをきっかけにした座談会をとのことでしたが参加者はご出身地が地元でない方が多く、これはこれでまた此の地の古き時代を説明などで、表題のような「座談会」となった。参加者のなかにはもっと多くの情報を得られるものとおもっての方もあり期待はずれだったようですが、発足の第一回ということもあり顔合わせ会のような形に終わりました。
座長と進行は主催の おきな のご主人の加藤万次郎氏。この方は、改めて紹介をするまでもなく本誌でたびたび登場して頂いている有名人であり、市内では知らぬ方はおられぬことである。
参加者は総勢十四人。
長い座卓を車座のように配列した二階の純和風の瀟洒な部屋で、初回ということで、もりそば、茶菓子付、を五百円。おきなさんの太っ腹の大判振舞。しかも本誌四月号自腹で配布の大出血サービスとなりました。
次回からは写真もそして充実した内容をお届けできるようにしたいと考えております。
参加者を紹介しましょう。
主催 蕎麦処 おきな 主人 加藤 万次郎
後援「月刊 はちのへ今昔」発行人小川 真
代理 月舘弘勝
○ 圃田 三千也 氏(はたけだ・みちや)ご夫妻
☆自衛隊を退職後、市内一番町にご住居。
現在、(社)青森県隊友会三八地区協議会 理事長
ご自慢はご仲人で一二〇組のカップルの祝言を挙げさせた。
○ 加藤 氏娘さんのお友達ご夫妻
☆
○ 娘さんのご亭主
○ 豊川 広光 氏(とよかわ・ひろみつ)
☆市内長苗代で エムワンネクタイという会社代表
また、財団法人 民主音楽協会八戸連絡所を主宰されている。
コンサートなどの企画制作も広く手がけ好評。
○ 篠原 光宏 氏(しのはら・みつひろ)
☆満州生まれ ご自宅は市内多賀台
(NPO法人)特定非営利活動法人
「森・川・海の環境保全ネット八戸」理事長
前号で詳細に紹介された経緯がある。顔が表紙にそして活躍ぶりが記事に詳細に掲載された。
○ 岩谷 みのる 氏
○ 男性 一名氏名不明
○ 加藤 万次郎 氏(かとう・まんじろう)
○ 野田 健一 氏(のだ・けんいち)
☆本誌前号でも詳細に紹介したが現在八十うん歳、小中野生まれのモサで現在でも敵なし。若かりし頃の武勇伝の数々は胸のすくものだ。温和な性格で信仰深い。八戸市消防本署で定年、近年交通事故に遇い聴覚傷害となる。大きな声で話さなければ会話がすこし不自由。人柄はすこぶる温和。
○ 横田 栄一 氏(よこた・えいいち)
☆総合情報誌 八戸文化通信社 代表
生粋の秀才。長年の情報誌を発刊し続けているのに只脱帽するばかりである。御歳は?お尋ねするのを忘れた。現役バリバリで歳はこの方には関係ないようだ。羨ましい限り。
産経新聞の記者を歴任しデーリー東北新聞社を退職後八戸
長者三丁目に通信社を設立現在継続活動中。
そばの老舗 おきな (八戸市馬場町)で創業百周年記念イベントとして「八戸のあれこれを語る会」が四月十日午後二時から開催された。第一回と言うことで盛り上るようにと考えていたが後援となるはずの「月刊 はちのへ今昔」発行者の小川 真氏は此の日、想定もしていなかった緊急入院となった。私には代役はとてもつとまらないものであった。
昭和十二年の地元紙 奥南新聞の記事を見ていただき、それをきっかけにした座談会をとのことでしたが参加者はご出身地が地元でない方が多く、これはこれでまた此の地の古き時代を説明などで、表題のような「座談会」となった。参加者のなかにはもっと多くの情報を得られるものとおもっての方もあり期待はずれだったようですが、発足の第一回ということもあり顔合わせ会のような形に終わりました。
座長と進行は主催の おきな のご主人の加藤万次郎氏。この方は、改めて紹介をするまでもなく本誌でたびたび登場して頂いている有名人であり、市内では知らぬ方はおられぬことである。
参加者は総勢十四人。
長い座卓を車座のように配列した二階の純和風の瀟洒な部屋で、初回ということで、もりそば、茶菓子付、を五百円。おきなさんの太っ腹の大判振舞。しかも本誌四月号自腹で配布の大出血サービスとなりました。
次回からは写真もそして充実した内容をお届けできるようにしたいと考えております。
参加者を紹介しましょう。
主催 蕎麦処 おきな 主人 加藤 万次郎
後援「月刊 はちのへ今昔」発行人小川 真
代理 月舘弘勝
○ 圃田 三千也 氏(はたけだ・みちや)ご夫妻
☆自衛隊を退職後、市内一番町にご住居。
現在、(社)青森県隊友会三八地区協議会 理事長
ご自慢はご仲人で一二〇組のカップルの祝言を挙げさせた。
○ 加藤 氏娘さんのお友達ご夫妻
☆
○ 娘さんのご亭主
○ 豊川 広光 氏(とよかわ・ひろみつ)
☆市内長苗代で エムワンネクタイという会社代表
また、財団法人 民主音楽協会八戸連絡所を主宰されている。
コンサートなどの企画制作も広く手がけ好評。
○ 篠原 光宏 氏(しのはら・みつひろ)
☆満州生まれ ご自宅は市内多賀台
(NPO法人)特定非営利活動法人
「森・川・海の環境保全ネット八戸」理事長
前号で詳細に紹介された経緯がある。顔が表紙にそして活躍ぶりが記事に詳細に掲載された。
○ 岩谷 みのる 氏
○ 男性 一名氏名不明
○ 加藤 万次郎 氏(かとう・まんじろう)
○ 野田 健一 氏(のだ・けんいち)
☆本誌前号でも詳細に紹介したが現在八十うん歳、小中野生まれのモサで現在でも敵なし。若かりし頃の武勇伝の数々は胸のすくものだ。温和な性格で信仰深い。八戸市消防本署で定年、近年交通事故に遇い聴覚傷害となる。大きな声で話さなければ会話がすこし不自由。人柄はすこぶる温和。
○ 横田 栄一 氏(よこた・えいいち)
☆総合情報誌 八戸文化通信社 代表
生粋の秀才。長年の情報誌を発刊し続けているのに只脱帽するばかりである。御歳は?お尋ねするのを忘れた。現役バリバリで歳はこの方には関係ないようだ。羨ましい限り。
産経新聞の記者を歴任しデーリー東北新聞社を退職後八戸
長者三丁目に通信社を設立現在継続活動中。
障害者自立支援法の時代、本当に障害者の為になるのか1
受益者負担一割。これで本当に障害者にとって暮らしやすい日本になれるのだろうか。八戸市の障害者福祉課で資料を頂戴。これが八戸市の障害者の実状
七十一歳・女性・愛護
寝たきりのため外への外出がもし可能であれば、季節のいい時期に車での外出でもできれば‥・。人手が少ないので難しいでしょうね。
七十二歳・女性・愛護
支援費制度により日々の小遣いが自由に使えなくなったので困る。それが一番困っている。
七十三歳・男性・身体
授産施設を利用しているが、障害者自立支援法が施行されてから一気に2万8千円位の利用料がかかり、家計にも大きな負担となっている(本当に大変)。本人を籍から独立させれば負担が軽くなるとか変わりないとかいろいろ聞くが、役所においても一人ひとりにきめ細かな指導や納得のいく説明をお願いしたかったと思う。施設の方でも説明はしていただいたが、施設に有利な説明だったように思う。所得の高い方は負担に思わないかも知れないが、親も高齢になり、所得のない我が家には本当に大変。知的障害でもこういう人は病気がちで医療費も大きな負担に感じている。
74・女性・愛護
平成18年4月から障害者自立支投法が施行され、それまでなかった施設利用負担金というものが障害者に課せられることになった。これまでと同じく施設にお世話になるためには種々の書類を書かなければならなくなり、障害を持った子のために親である私が亡くなってから少しでも生活の足しになるようにと貯えておいた貯金ほんの少額だが正直に書いた。そのせいだろうか。4月から10月まで22000円納めることになった。11月からはさらに高くなるそうだ。この額は私達親子にとって大変大きな負担になっている。だからといって施設へ行くのを辞めさせて家へ置くのもかわいそう。私は65歳、子は37歳の2人家族。夫は5年前に急死し、これまでも生活費を切りつめ、無駄をなくして頑張ってきたつもりだ。子が施設から工賃としていただいてくる額は3500円ほど。今まで市から乗車証をいただいていたのが平成17年4月からは途中まで南部バスに乗らなければならなくなり、それも半額は自分で払うことになった。これらの出費は最初に書いた。ほんの少し預金しておいたのを使わなければならなくなった。健常者であれば何の問題もなく生活できることばかりだ。障害を持った人たちがほんの少しの温かい手と優しい心遣いを求めるのは甘えがあるのかも知れないが、八戸には「高齢者や障害者にやさしい町づくりを」というスローガンがあったように思う。親が1年また1年と老いていき、いつか障害を持ったわが子が一人になったらどうして暮らしていくだろうと思うと心配で眠れない夜が続くことがある。どうぞ高齢者や障害者が安心して暮らせる町づくりをぜひお願いします。
75・男性・身体
無駄金遣いは控えてほしい。年金を上げてほしい。施設の介護職員を増やしてほしい。
76・男性・身体
右腕しか機能しない者です。中心街に行っても車いすで移動するのが困難な場所があるので、中心街の歩道と車道の段差を何とかしてくださるようお願いします。(このことは道路維持課に、この文言を確認してもらい当該道路を捜索中)
77・男性・身体
私の子どもは重度で自立を考えるととてもたくさんの方に手を貸していただかないと生活していけない。親の思いは家庭的に見守ってもらいなから、本人が安心して過ごしていける場があればと思う。親亡き後、下宿でもグループホームでもその子に合わせた生活ができるよう希望する。
78・男性・身体
今は大部分の所がバリアフリーにはなってきているが、まだ改善されてない所があるので、早く車いすで気にせず歩けるような町にしてほしい。
79・女性・愛護
施設に入所している。「風呂、トイレ、おむつ交換時は特に女性にお順いしたい」とのことだった。女性の介護者に!
80・男性・身体
労災事故で遷延性意識障害、両上下肢機能の全廃で療後園に入所している。職員の人達は一生懸命に差別なく接してくれてありがたい。でもたまには首をかしげたくなることもあるが、そういうことは我慢している。私事で申し駅ないが、世間一般では普通の病気の障害者になった人と労災障害者と区別しているみたいで悲しい。植物状態で死を待つだけの夫の姿を見ていると悔しくて悔しくてやりきれない。労働基準監督署に家族会はないかと聞くとプライバシーのため教えられないとのこと。毎日誰にも本音で話をすることもなく、ただ明るく振る舞って悶々としている。障害福祉計画もありがたい。お金に関することも大事だと思うが、私たちのような家族もいるということも分かってもらいたい。
世間で騒いでいる家族がいろいろな面に疲れて手を掛けることも人ごとではなく分かるような気がする。
女性・7歳~17歳・愛護
現在障害者施設に入所している。大変良くしてもらって嬉しく思っている。しかし近頃、「障害者自立支援法」とか「医療給付制度の変更」「障害ランクの支援方法」など少しずつ変化しているように聞いている。できたらこれまでの制度が変わる時に役所の方から説明会など開き、内容を知っていただきたいと思う。(この質問事項内容も理解できない箇所もあった。もっと平易に分かるようお願いします。)
男性・7歳未満・身体
歩道と車道の段差をなくしてもらいたい。車いすで外出できないから歩道もでこぼこで車いすだと転ぶおそれがある。障害者は(車いす)、もっともっと外出すれば変わると思う。
女性・7歳~17歳・愛護
デイナイトを利用しているが、一日が非常に長すぎて疲れる。年齢のせいもあるが、運動しなさい、運動しなさいと言われる。
男性・7歳未満・身体
障害者に職業訓練をして一般企業の仕事に就労させてほしい。
男性・7歳未満・身体
モーター付きの車いすがほしい。
男性・7歳未満・身体
親は子どもより早くいなくなる。残された子どもには一人で生活する力はない。将来はどんなことになるのか不安ばかり。今ある施設等は定員いっぱいで自分の子ども達が入れる施設はない。子ども達の将来は不安ばかり。
男性・7歳未満・身体
行政が意欲的に障害者福祉を考えて頂けてありがたい。
男性・7歳未満・身体
我々障害者にとってはきぴしい社会になって先が不安だ。個々の障害程度に添って福祉サービスをしてほしい。
女性・7歳~17歳・愛護
デイケアサーピスを利用するに当たり、ロコミで聞いて通うようになった。どういう施設があるか分からず、今はホームページ等で調べることができるが、もっと分かりやすく紹介してみんなが利用できるようにしてほしい。
男性・7歳未満・身体
親の都合が悪い時、ショートステイをさせたいのだが、本人が自閉症でこだわりがあり、集団の場所を嫌がるので、人数が少なく本人が納得できる場所があればと願っている。現在親の自由がなく疲れ果てている。
女性・男性・7歳~17歳・愛護
サービス内容についての意見は住みなれた町で不自由なく暮らしたいというようなサービスを受けたい。
提案:私は演劇、特にドラマや映画が大好き。障害者関係、特に知的障害者関係のものは必ず観る。そういう作品のオーディションも受けてみたい。観るだけじゃなく演じる方もやってみたい。八戸でもオーディションをやってくれたらうれしい。
その他:私は中学が終わってから知的障害が分かったので私の生い立ちについて取材してもらいたい。よろしくお願いします!
男性・7歳未満・身体
私たちが安心して生活できる社会にしてほしい!負担を掛けないでほしい。
続
七十一歳・女性・愛護
寝たきりのため外への外出がもし可能であれば、季節のいい時期に車での外出でもできれば‥・。人手が少ないので難しいでしょうね。
七十二歳・女性・愛護
支援費制度により日々の小遣いが自由に使えなくなったので困る。それが一番困っている。
七十三歳・男性・身体
授産施設を利用しているが、障害者自立支援法が施行されてから一気に2万8千円位の利用料がかかり、家計にも大きな負担となっている(本当に大変)。本人を籍から独立させれば負担が軽くなるとか変わりないとかいろいろ聞くが、役所においても一人ひとりにきめ細かな指導や納得のいく説明をお願いしたかったと思う。施設の方でも説明はしていただいたが、施設に有利な説明だったように思う。所得の高い方は負担に思わないかも知れないが、親も高齢になり、所得のない我が家には本当に大変。知的障害でもこういう人は病気がちで医療費も大きな負担に感じている。
74・女性・愛護
平成18年4月から障害者自立支投法が施行され、それまでなかった施設利用負担金というものが障害者に課せられることになった。これまでと同じく施設にお世話になるためには種々の書類を書かなければならなくなり、障害を持った子のために親である私が亡くなってから少しでも生活の足しになるようにと貯えておいた貯金ほんの少額だが正直に書いた。そのせいだろうか。4月から10月まで22000円納めることになった。11月からはさらに高くなるそうだ。この額は私達親子にとって大変大きな負担になっている。だからといって施設へ行くのを辞めさせて家へ置くのもかわいそう。私は65歳、子は37歳の2人家族。夫は5年前に急死し、これまでも生活費を切りつめ、無駄をなくして頑張ってきたつもりだ。子が施設から工賃としていただいてくる額は3500円ほど。今まで市から乗車証をいただいていたのが平成17年4月からは途中まで南部バスに乗らなければならなくなり、それも半額は自分で払うことになった。これらの出費は最初に書いた。ほんの少し預金しておいたのを使わなければならなくなった。健常者であれば何の問題もなく生活できることばかりだ。障害を持った人たちがほんの少しの温かい手と優しい心遣いを求めるのは甘えがあるのかも知れないが、八戸には「高齢者や障害者にやさしい町づくりを」というスローガンがあったように思う。親が1年また1年と老いていき、いつか障害を持ったわが子が一人になったらどうして暮らしていくだろうと思うと心配で眠れない夜が続くことがある。どうぞ高齢者や障害者が安心して暮らせる町づくりをぜひお願いします。
75・男性・身体
無駄金遣いは控えてほしい。年金を上げてほしい。施設の介護職員を増やしてほしい。
76・男性・身体
右腕しか機能しない者です。中心街に行っても車いすで移動するのが困難な場所があるので、中心街の歩道と車道の段差を何とかしてくださるようお願いします。(このことは道路維持課に、この文言を確認してもらい当該道路を捜索中)
77・男性・身体
私の子どもは重度で自立を考えるととてもたくさんの方に手を貸していただかないと生活していけない。親の思いは家庭的に見守ってもらいなから、本人が安心して過ごしていける場があればと思う。親亡き後、下宿でもグループホームでもその子に合わせた生活ができるよう希望する。
78・男性・身体
今は大部分の所がバリアフリーにはなってきているが、まだ改善されてない所があるので、早く車いすで気にせず歩けるような町にしてほしい。
79・女性・愛護
施設に入所している。「風呂、トイレ、おむつ交換時は特に女性にお順いしたい」とのことだった。女性の介護者に!
80・男性・身体
労災事故で遷延性意識障害、両上下肢機能の全廃で療後園に入所している。職員の人達は一生懸命に差別なく接してくれてありがたい。でもたまには首をかしげたくなることもあるが、そういうことは我慢している。私事で申し駅ないが、世間一般では普通の病気の障害者になった人と労災障害者と区別しているみたいで悲しい。植物状態で死を待つだけの夫の姿を見ていると悔しくて悔しくてやりきれない。労働基準監督署に家族会はないかと聞くとプライバシーのため教えられないとのこと。毎日誰にも本音で話をすることもなく、ただ明るく振る舞って悶々としている。障害福祉計画もありがたい。お金に関することも大事だと思うが、私たちのような家族もいるということも分かってもらいたい。
世間で騒いでいる家族がいろいろな面に疲れて手を掛けることも人ごとではなく分かるような気がする。
女性・7歳~17歳・愛護
現在障害者施設に入所している。大変良くしてもらって嬉しく思っている。しかし近頃、「障害者自立支援法」とか「医療給付制度の変更」「障害ランクの支援方法」など少しずつ変化しているように聞いている。できたらこれまでの制度が変わる時に役所の方から説明会など開き、内容を知っていただきたいと思う。(この質問事項内容も理解できない箇所もあった。もっと平易に分かるようお願いします。)
男性・7歳未満・身体
歩道と車道の段差をなくしてもらいたい。車いすで外出できないから歩道もでこぼこで車いすだと転ぶおそれがある。障害者は(車いす)、もっともっと外出すれば変わると思う。
女性・7歳~17歳・愛護
デイナイトを利用しているが、一日が非常に長すぎて疲れる。年齢のせいもあるが、運動しなさい、運動しなさいと言われる。
男性・7歳未満・身体
障害者に職業訓練をして一般企業の仕事に就労させてほしい。
男性・7歳未満・身体
モーター付きの車いすがほしい。
男性・7歳未満・身体
親は子どもより早くいなくなる。残された子どもには一人で生活する力はない。将来はどんなことになるのか不安ばかり。今ある施設等は定員いっぱいで自分の子ども達が入れる施設はない。子ども達の将来は不安ばかり。
男性・7歳未満・身体
行政が意欲的に障害者福祉を考えて頂けてありがたい。
男性・7歳未満・身体
我々障害者にとってはきぴしい社会になって先が不安だ。個々の障害程度に添って福祉サービスをしてほしい。
女性・7歳~17歳・愛護
デイケアサーピスを利用するに当たり、ロコミで聞いて通うようになった。どういう施設があるか分からず、今はホームページ等で調べることができるが、もっと分かりやすく紹介してみんなが利用できるようにしてほしい。
男性・7歳未満・身体
親の都合が悪い時、ショートステイをさせたいのだが、本人が自閉症でこだわりがあり、集団の場所を嫌がるので、人数が少なく本人が納得できる場所があればと願っている。現在親の自由がなく疲れ果てている。
女性・男性・7歳~17歳・愛護
サービス内容についての意見は住みなれた町で不自由なく暮らしたいというようなサービスを受けたい。
提案:私は演劇、特にドラマや映画が大好き。障害者関係、特に知的障害者関係のものは必ず観る。そういう作品のオーディションも受けてみたい。観るだけじゃなく演じる方もやってみたい。八戸でもオーディションをやってくれたらうれしい。
その他:私は中学が終わってから知的障害が分かったので私の生い立ちについて取材してもらいたい。よろしくお願いします!
男性・7歳未満・身体
私たちが安心して生活できる社会にしてほしい!負担を掛けないでほしい。
続
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 3
にしあり・ぼくざん 文政四年八戸湊、笹本豆腐屋の倅、曹洞宗僧侶となり明治期の廃仏毀釈に仏教護持の立場で政府と対立。明治三十四年八十一歳、火災で焼失した能登の総持寺を鶴見に移転する基を作り、永平寺管長をも務め明治四十一年(一九一○)没。三年後が没後百年。これを機に西有穆山の姿を現代に蘇らせ、南部人の魂を見せたい。殊に母親なを(八戸町西村源六の妹)の存在なくして偉大なる穆山は存在しない。というのも、慢心し故郷の僧侶になろうと帰郷するも、母の力強い諭しで再び江戸へ出て日本一の僧侶となった。
さて、前回に引き続き、吉田隆悦老著の本より、
断食、潔斎の祈願
さて金英上座は、こうした歴史に輝やく名刹の法光寺に師匠様のお供をして上り、山の新生活に入った。この山の生活は、気候の上からも、又食糧の上から見ても真に悪条件であった。昔は禅寺の食べ物は、何処のお寺でも、粥(かゆ)飯(めし)粥(かゆ)といって、朝は御粥に塩と漬け物だけ、昼は御飯に味噌汁と漬け物だけ、夜はお粥に漬け物とたまに御飯だけという粗食でありました。これで、栄養失調にならないのが不思議であると惑じます。特に法光寺のような修業寺では、お客さんが来てもその分米を増さないで、水だけ加えて、皆で食べるのでありました。粗食に加えて、八戸の長流寺から引越して来た疲労も加わり、師匠の金竜和尚様が病気となってたおれた。師匠思いの金英が一生懸命に看病したけれどもはかばかしくない。病床に臥した師匠様が日夜に衰えるのをみて、金英は観音様に御助けして戴くより外に方法がないと、決心し、
「私のご飯を御師匠様の血として下さい」
と断食、庫裏(くり・寺の台所。庫院)のわきにある井戸に行き、水をかぶって潔斎、
「どうぞ観音様、私の身にかえて御師匠様の御病気を治して下さい」と、三、七、二十一日間、断食潔斎(けっさい・神事・法会などの前に、酒や肉食などをつつしみ、沐浴・もくよくをするなどして心身をきよめること)の祈願をこめた。
すると、不思議なことに、御師匠様の病気は日々に快復、御師匠様は自力で起きあがれるようになり、弟子の金英が、井戸水をかぶって潔斎する姿を見て、思わず掌を合せ、
「金英、有難う、私はお前のお陰で治るぞ」と、弟子を拝む。金竜和尚様の病気は、次第に薄皮をはぐように回復。
粟(あわ)のつらさ
御師匠様の病気も治り、金英は毎日勉強、修行、又檀家の法事も勤めたが法光時には、先任住職の弟子がそのまま居て金竜和尚様の弟子となった者がいた。これを譲り弟子と呼ぶが、金英より年上のため、兄弟子ということになる。
ところが、この兄弟子は檀家の後家さんと仲よしになり相当親密でありました。所が修行寺でもあり、又、出家の身でもあるから、毎日のように後家さんの所に行けない。ある日、金英がその後家さんの家に御経を読みに行きました。御経も終り、ご馳走を出し、御酒も持ってきた後家さんが、金英に御馳走する酒を、自分で茶碗についでガブガブと飲んだ。金英にもサアーめしあがれ、サアー飲みなさい、と茶碗に酒をついでくれる。
「なんでそんなにお飲みになるんですか」と、きくと、後家さん「逢わぬつらさで、やけで飲む」と答えた。
金英が経を読みにこないで、兄弟子に来て貰いたかったとの意味。
「金英さん、お前さんは、何故ガブガブ飲むんですか」と逆襲したので、
「粟のつらさでやけで飲む」と切り返した。法光寺は、それほど、粟粥の祖食だった。
江戸へ密行を策す
天保七年(一八三六)、金英十六歳となり、法光寺に読む本も御経もないくらい勉強してしまった。もうこの南部の地では勉強にならない。何とかして、江戸で勉強したいと思っていたところ、八戸の檀家に法事があり、金英がお勤めをすることになった。この機会に八戸港より船に乗り込み江戸に出ようと、法事もそこそこに、江戸向の帆前船に乗りこんだ。ところが、今まで静かであった空模様が、急変して風が吹き、あらし模様となる。船長や、船員があやしんで、誰か何か悪いものを持ちこんだに違いないと、荷物をさがし始め、金英の荷物から御血脈(おけちみゃく・師から弟子に与える相承の系図)を取り出して、「これだ、この御血脈を、竜が敢ろうとしてあばれ出した」ということになり、金英が、「そうじゃない。御血脈を持っている私がいれば、暴風が静まる。波浪がなくなる」と頑張ったが、船員達の迷信を破る事が出来ず、とうとう下船を命ぜられ、無念やるかたなし。法事が終わっても寺に戻らないことから、実家と法光寺から追手がかかり、つれもどされる。法光寺に戻った金英は、悶々の中にも病気がちの師匠に孝養を尽しながら時期の到来を待った。そして、師匠金竜師の御遷化(せんげ・高僧の死去)まで法光寺にいた。金英十九歳。
仙台松音寺和尚の門下となる
天保十年(一八三九)八月九日、病弱であった師金竜様が遷化され、兄弟子が後任となった。この兄弟子は檀家の後家さんと仲良くなった「逢わぬつらさの兄弟子」で尊敬するより軽蔑すべき人柄。その弟子となる気持は微塵も起らず、師匠の葬儀万端を済ませ、湊の生家に帰り、御両親に自分の気持を詳細に伝え、修行の旅に出たいと申し出た。
かねて、そういう噂を聞いていた母、なをは「そういう地獄の道案内するような僧とは一日も早く手を切り、学問修行の本場に出立しなさい」と激励。金英は、母の激励の言葉に支えられ、法類近親に見送られ、覚悟を新たにし、意気揚々として上り街道に向った。そして、東北の森の都、仙台市新寺小路の松音寺住職悦音和尚の門下に身を投じた。
松音寺は、仙台市北山の輪王寺と、南鍛冶町の昌伝庵と共に、六十二万石伊達候の城下の準菩提寺の格式高い修行寺。
悦音和尚は、金英の風貌と挙措(きょそ・立ち居ふるまい)を見て、心を惹かれ迎え入れた。悦音和尚の所蔵する漢籍、仏教書の閲覧の自由、更に、仙台城下の書籍研究に最大の助力を与えた。金英は、寝食を忘れ研究し続け一年間で仙台領内に読むべき書籍なく、又坐禅修行の指導を受ける人物も見当らなかった。悦音和尚は金英の傑物を見込み、自分の弟子となり松音寺の継承を熱望した。余りの親切と熱意に動かされ、金英は「まだ未熟のため、江戸での修行後に願います」と約束。
仙台は金英に実のある場所だった。仏法を修行する者としての愛を悦音和尚より受け漢籍、仏典研究三昧に入ることが出来、更に、天保の大飢饉に遭遇し心魂の鍛錬が出来た。というのも、大飢饉の惨状は八戸に於ても甚だしく、新井田の対泉院境内にある飢饉の石碑には、「人肉を食う」と刻まれたのを見ても異状で非情。仙台でも、その被害甚だしく、死骸が道路に充ち、これを踏み越え、飛び越えて読経に歩いた。死んだと思っていたのが読経中にうめき声を挙げたり、ギョロっと目玉をむいたりと、肝を冷やすことしばしば。金英は、これではいかぬ、と死骸の集められた墳墓に坐禅し死骸と相向って魂胆をねると共に、人生のはかなさ、命のもろさを目のあたりにして、身心見極め度胸が定まった。
天下の名門、栴檀林に身を投ず
天保十二年(一八四一)金英二十一歳。恩師松音寺悦音和尚に、学資と選別を戴き、学問最高の府、江戸に向け出発。
江戸に着いた金英は、芝、愛宕下(あたごした・品川区浜松町近く)の叔父を訪ね志を話すと、叔父は三百文を出し、綿入一着を調えて祝儀してくれた。金英はこの綿入一枚を大切に着て三年間寒暑を凌ぐ。
金英は叔父とも相談し、かねてより調査していた宗乗(しゅうじょう・自宗の宗義および教典)専門の学問道場である駒込の吉祥寺(きちじょうじ・東京都文京区にある曹洞宗の寺。近世、禅学の中心道場)栴檀学林(せんだんがくりん・仏教をまなぶ大学)を訪問し、無事に入学を許された。入学してからの金英の生活は、文字通り苦学力行(りっこう・努力して行う)。今の学生のアルバイトとは本質的に違う。学資たるや、仙台の悦音和尚様から選別として戴いた一分(一両の四分の一で今の八万円位)だけ。
金英は毎日托鉢(たくはつ・修行僧が各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。乞食・こつじき。行乞とも言う)して学資をかせぐが本を買う金は得られない。それで下谷池之端、雁金屋という本屋で立読みして勉強。次第に腰を下ろし、多くの書を読破、要所要所をぬき書きする。最初は、いやな顔していた本屋の番頭さんも金英の熱意にうごかされ、又、店頭で一人にだけ読ませておくわけにもいかぬから、古本でも新本でも栴檀林に持ち帰って読むことを許してくれた。
漢学者菊地竹庵先生に入門
金英、天保十三年(1八四二)二十二歳。
如何に金英が秀才でも、又努力しても、専門の学門は独学では能率が上がらないばかりか独断になる危険性を伴なう。特に漢学は仏教学の基礎をなすもの、良い先生をさがしていると、栴檀林の門前に漢学の看板を立てた学者が居た。名を菊地竹庵と言い、幕府立(官立)の昌平校(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校。(元禄3)将軍綱吉が湯島昌平坂に移した。1797年(寛政9)幕府直轄の学問所となり、主に旗本・御家人の子弟を教育した。昌平坂学問所。江戸学問所)を卒業、松本藩(長野県)の儒学指南を勤めた学者。徳川時代の江戸の学問所(今の大学)といえば、墓府立の昌平校と吉祥寺の栴檀林が当時の両横綱。そして、昌平校を卒業した者が、栴檀林の学僧と問答し、学僧に勝った者が、儒学者としての金看板を、掲げる資格を得るということになっていた。菊地先生も、この金看板の資格を得る為に吉祥寺門前に、居を構え学僧に問答をかけて来た。そして、問答に勝って既に金看板組の儒者となっていたが、先生は窮屈ぎらいで宮立公立の学問所に勤めることを謙って、夏はふんどし一本の素っぱだかで、四書(ししょ・「礼記」中の大学・中庸の二編と、論語・孟子の総称)五経(ごきょう・易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)の五種が五経)を講義するという自由な世界を求める人物。金英は、この特異な漢学実力者、菊地先生に入門。
ある夏の盛り、竹庵先生はふんどし一本の素っ裸で聖典の講義を始めようとすると、門弟の金英は、綿入を着て汗をポタリポタリと流している。竹庵先生「オイ、どうして綿入を着ているんだ」、金英「これしかないんです」
竹庵「そうか、頭を使え。その綿入を二つにしろ、そうすりゃ表と裏で二枚になる」
金英の学問修行は文字通り、汗と血の結晶。
宗参寺曹隆様との出合い
さて当時の栴檀林経営の吉祥寺住職は、愚禅和尚、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう・曹洞宗開祖道元が仏法の真髄を和文で説いた書。永平正法眼蔵)の研究者。又、栴檀林の教授は慧亮、この人は、曹洞宗々学の正統派を継いだ萬仭道垣(ばんじんどうたん)系統の宗学者。金英は、この二人から栴檀林時代に正法眼蔵を学んだ。この二人と出会えたのは幸運。金英は生涯を通じ正法眼蔵を研究し、第一人者となる基となったから。
加うるに金英の宗教家としての運命を決定づけたのが、新宿区牛込弁天町の宗参寺住職泰巌曹隆様との出会い。
牛込の宗参寺は、軍学者の山鹿素行の菩提寺で、駒込吉祥寺の末寺(分家寺)。その宗参寺の住職である曹隆様が、本寺吉祥寺様に御年始の御挨拶に参ると金英がお茶を持って接待。その態度、所作が大変立派で風貌もよい。
曹隆「お前さん、何処からおいでかな」ときくと、
金英「南部から参りました」
曹隆「そうか、私も南部の出だ、南部はどこかな」
金英「ハイ、湊村でございます」
曹隆「そうか、私は松館の出だ。同じ小南部だな。しっかりやりなさい」
と観切に励ます。これが縁となり、金英は曹隆様に特別の御法愛を受け、後々曹隆様の孫弟子となって、出世街道に乗る。
続
さて、前回に引き続き、吉田隆悦老著の本より、
断食、潔斎の祈願
さて金英上座は、こうした歴史に輝やく名刹の法光寺に師匠様のお供をして上り、山の新生活に入った。この山の生活は、気候の上からも、又食糧の上から見ても真に悪条件であった。昔は禅寺の食べ物は、何処のお寺でも、粥(かゆ)飯(めし)粥(かゆ)といって、朝は御粥に塩と漬け物だけ、昼は御飯に味噌汁と漬け物だけ、夜はお粥に漬け物とたまに御飯だけという粗食でありました。これで、栄養失調にならないのが不思議であると惑じます。特に法光寺のような修業寺では、お客さんが来てもその分米を増さないで、水だけ加えて、皆で食べるのでありました。粗食に加えて、八戸の長流寺から引越して来た疲労も加わり、師匠の金竜和尚様が病気となってたおれた。師匠思いの金英が一生懸命に看病したけれどもはかばかしくない。病床に臥した師匠様が日夜に衰えるのをみて、金英は観音様に御助けして戴くより外に方法がないと、決心し、
「私のご飯を御師匠様の血として下さい」
と断食、庫裏(くり・寺の台所。庫院)のわきにある井戸に行き、水をかぶって潔斎、
「どうぞ観音様、私の身にかえて御師匠様の御病気を治して下さい」と、三、七、二十一日間、断食潔斎(けっさい・神事・法会などの前に、酒や肉食などをつつしみ、沐浴・もくよくをするなどして心身をきよめること)の祈願をこめた。
すると、不思議なことに、御師匠様の病気は日々に快復、御師匠様は自力で起きあがれるようになり、弟子の金英が、井戸水をかぶって潔斎する姿を見て、思わず掌を合せ、
「金英、有難う、私はお前のお陰で治るぞ」と、弟子を拝む。金竜和尚様の病気は、次第に薄皮をはぐように回復。
粟(あわ)のつらさ
御師匠様の病気も治り、金英は毎日勉強、修行、又檀家の法事も勤めたが法光時には、先任住職の弟子がそのまま居て金竜和尚様の弟子となった者がいた。これを譲り弟子と呼ぶが、金英より年上のため、兄弟子ということになる。
ところが、この兄弟子は檀家の後家さんと仲よしになり相当親密でありました。所が修行寺でもあり、又、出家の身でもあるから、毎日のように後家さんの所に行けない。ある日、金英がその後家さんの家に御経を読みに行きました。御経も終り、ご馳走を出し、御酒も持ってきた後家さんが、金英に御馳走する酒を、自分で茶碗についでガブガブと飲んだ。金英にもサアーめしあがれ、サアー飲みなさい、と茶碗に酒をついでくれる。
「なんでそんなにお飲みになるんですか」と、きくと、後家さん「逢わぬつらさで、やけで飲む」と答えた。
金英が経を読みにこないで、兄弟子に来て貰いたかったとの意味。
「金英さん、お前さんは、何故ガブガブ飲むんですか」と逆襲したので、
「粟のつらさでやけで飲む」と切り返した。法光寺は、それほど、粟粥の祖食だった。
江戸へ密行を策す
天保七年(一八三六)、金英十六歳となり、法光寺に読む本も御経もないくらい勉強してしまった。もうこの南部の地では勉強にならない。何とかして、江戸で勉強したいと思っていたところ、八戸の檀家に法事があり、金英がお勤めをすることになった。この機会に八戸港より船に乗り込み江戸に出ようと、法事もそこそこに、江戸向の帆前船に乗りこんだ。ところが、今まで静かであった空模様が、急変して風が吹き、あらし模様となる。船長や、船員があやしんで、誰か何か悪いものを持ちこんだに違いないと、荷物をさがし始め、金英の荷物から御血脈(おけちみゃく・師から弟子に与える相承の系図)を取り出して、「これだ、この御血脈を、竜が敢ろうとしてあばれ出した」ということになり、金英が、「そうじゃない。御血脈を持っている私がいれば、暴風が静まる。波浪がなくなる」と頑張ったが、船員達の迷信を破る事が出来ず、とうとう下船を命ぜられ、無念やるかたなし。法事が終わっても寺に戻らないことから、実家と法光寺から追手がかかり、つれもどされる。法光寺に戻った金英は、悶々の中にも病気がちの師匠に孝養を尽しながら時期の到来を待った。そして、師匠金竜師の御遷化(せんげ・高僧の死去)まで法光寺にいた。金英十九歳。
仙台松音寺和尚の門下となる
天保十年(一八三九)八月九日、病弱であった師金竜様が遷化され、兄弟子が後任となった。この兄弟子は檀家の後家さんと仲良くなった「逢わぬつらさの兄弟子」で尊敬するより軽蔑すべき人柄。その弟子となる気持は微塵も起らず、師匠の葬儀万端を済ませ、湊の生家に帰り、御両親に自分の気持を詳細に伝え、修行の旅に出たいと申し出た。
かねて、そういう噂を聞いていた母、なをは「そういう地獄の道案内するような僧とは一日も早く手を切り、学問修行の本場に出立しなさい」と激励。金英は、母の激励の言葉に支えられ、法類近親に見送られ、覚悟を新たにし、意気揚々として上り街道に向った。そして、東北の森の都、仙台市新寺小路の松音寺住職悦音和尚の門下に身を投じた。
松音寺は、仙台市北山の輪王寺と、南鍛冶町の昌伝庵と共に、六十二万石伊達候の城下の準菩提寺の格式高い修行寺。
悦音和尚は、金英の風貌と挙措(きょそ・立ち居ふるまい)を見て、心を惹かれ迎え入れた。悦音和尚の所蔵する漢籍、仏教書の閲覧の自由、更に、仙台城下の書籍研究に最大の助力を与えた。金英は、寝食を忘れ研究し続け一年間で仙台領内に読むべき書籍なく、又坐禅修行の指導を受ける人物も見当らなかった。悦音和尚は金英の傑物を見込み、自分の弟子となり松音寺の継承を熱望した。余りの親切と熱意に動かされ、金英は「まだ未熟のため、江戸での修行後に願います」と約束。
仙台は金英に実のある場所だった。仏法を修行する者としての愛を悦音和尚より受け漢籍、仏典研究三昧に入ることが出来、更に、天保の大飢饉に遭遇し心魂の鍛錬が出来た。というのも、大飢饉の惨状は八戸に於ても甚だしく、新井田の対泉院境内にある飢饉の石碑には、「人肉を食う」と刻まれたのを見ても異状で非情。仙台でも、その被害甚だしく、死骸が道路に充ち、これを踏み越え、飛び越えて読経に歩いた。死んだと思っていたのが読経中にうめき声を挙げたり、ギョロっと目玉をむいたりと、肝を冷やすことしばしば。金英は、これではいかぬ、と死骸の集められた墳墓に坐禅し死骸と相向って魂胆をねると共に、人生のはかなさ、命のもろさを目のあたりにして、身心見極め度胸が定まった。
天下の名門、栴檀林に身を投ず
天保十二年(一八四一)金英二十一歳。恩師松音寺悦音和尚に、学資と選別を戴き、学問最高の府、江戸に向け出発。
江戸に着いた金英は、芝、愛宕下(あたごした・品川区浜松町近く)の叔父を訪ね志を話すと、叔父は三百文を出し、綿入一着を調えて祝儀してくれた。金英はこの綿入一枚を大切に着て三年間寒暑を凌ぐ。
金英は叔父とも相談し、かねてより調査していた宗乗(しゅうじょう・自宗の宗義および教典)専門の学問道場である駒込の吉祥寺(きちじょうじ・東京都文京区にある曹洞宗の寺。近世、禅学の中心道場)栴檀学林(せんだんがくりん・仏教をまなぶ大学)を訪問し、無事に入学を許された。入学してからの金英の生活は、文字通り苦学力行(りっこう・努力して行う)。今の学生のアルバイトとは本質的に違う。学資たるや、仙台の悦音和尚様から選別として戴いた一分(一両の四分の一で今の八万円位)だけ。
金英は毎日托鉢(たくはつ・修行僧が各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。乞食・こつじき。行乞とも言う)して学資をかせぐが本を買う金は得られない。それで下谷池之端、雁金屋という本屋で立読みして勉強。次第に腰を下ろし、多くの書を読破、要所要所をぬき書きする。最初は、いやな顔していた本屋の番頭さんも金英の熱意にうごかされ、又、店頭で一人にだけ読ませておくわけにもいかぬから、古本でも新本でも栴檀林に持ち帰って読むことを許してくれた。
漢学者菊地竹庵先生に入門
金英、天保十三年(1八四二)二十二歳。
如何に金英が秀才でも、又努力しても、専門の学門は独学では能率が上がらないばかりか独断になる危険性を伴なう。特に漢学は仏教学の基礎をなすもの、良い先生をさがしていると、栴檀林の門前に漢学の看板を立てた学者が居た。名を菊地竹庵と言い、幕府立(官立)の昌平校(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校。(元禄3)将軍綱吉が湯島昌平坂に移した。1797年(寛政9)幕府直轄の学問所となり、主に旗本・御家人の子弟を教育した。昌平坂学問所。江戸学問所)を卒業、松本藩(長野県)の儒学指南を勤めた学者。徳川時代の江戸の学問所(今の大学)といえば、墓府立の昌平校と吉祥寺の栴檀林が当時の両横綱。そして、昌平校を卒業した者が、栴檀林の学僧と問答し、学僧に勝った者が、儒学者としての金看板を、掲げる資格を得るということになっていた。菊地先生も、この金看板の資格を得る為に吉祥寺門前に、居を構え学僧に問答をかけて来た。そして、問答に勝って既に金看板組の儒者となっていたが、先生は窮屈ぎらいで宮立公立の学問所に勤めることを謙って、夏はふんどし一本の素っぱだかで、四書(ししょ・「礼記」中の大学・中庸の二編と、論語・孟子の総称)五経(ごきょう・易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)の五種が五経)を講義するという自由な世界を求める人物。金英は、この特異な漢学実力者、菊地先生に入門。
ある夏の盛り、竹庵先生はふんどし一本の素っ裸で聖典の講義を始めようとすると、門弟の金英は、綿入を着て汗をポタリポタリと流している。竹庵先生「オイ、どうして綿入を着ているんだ」、金英「これしかないんです」
竹庵「そうか、頭を使え。その綿入を二つにしろ、そうすりゃ表と裏で二枚になる」
金英の学問修行は文字通り、汗と血の結晶。
宗参寺曹隆様との出合い
さて当時の栴檀林経営の吉祥寺住職は、愚禅和尚、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう・曹洞宗開祖道元が仏法の真髄を和文で説いた書。永平正法眼蔵)の研究者。又、栴檀林の教授は慧亮、この人は、曹洞宗々学の正統派を継いだ萬仭道垣(ばんじんどうたん)系統の宗学者。金英は、この二人から栴檀林時代に正法眼蔵を学んだ。この二人と出会えたのは幸運。金英は生涯を通じ正法眼蔵を研究し、第一人者となる基となったから。
加うるに金英の宗教家としての運命を決定づけたのが、新宿区牛込弁天町の宗参寺住職泰巌曹隆様との出会い。
牛込の宗参寺は、軍学者の山鹿素行の菩提寺で、駒込吉祥寺の末寺(分家寺)。その宗参寺の住職である曹隆様が、本寺吉祥寺様に御年始の御挨拶に参ると金英がお茶を持って接待。その態度、所作が大変立派で風貌もよい。
曹隆「お前さん、何処からおいでかな」ときくと、
金英「南部から参りました」
曹隆「そうか、私も南部の出だ、南部はどこかな」
金英「ハイ、湊村でございます」
曹隆「そうか、私は松館の出だ。同じ小南部だな。しっかりやりなさい」
と観切に励ます。これが縁となり、金英は曹隆様に特別の御法愛を受け、後々曹隆様の孫弟子となって、出世街道に乗る。
続
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