2007年10月1日月曜日

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 4

心に残る思い出
 桂木 規好
 南売市町内に住んで最早27年になります。忘れもしない、昭和49年4月14日三八教育会館で南売市町内会の総会が開催されました。
ところが役員改選で突然に私が副会長を拝命、以来51年3月まで2ケ年未熟ものでしたが皆様の暖かいご指導とご協力を頂き乍ら勤めさせて頂きました。
町内会心に残る思い出 その1
 年度変りに会長がおやめになり、次期会長候補のお願いに役員の皆さんと約10日間程、町内を廻った時の苦労したこと。
町内会心に残る思い出 その2
 町内の民生委員の方がおやめになりその後任者依頼に役員の皆さんと約一週間程町内を廻りましたがついに引受けて頂ける人がなかったことです。致し方なく役員の皆さんと相談した結果小生が推薦のハメになり、以来昭和49年11月より58年10月まで9ケ年その職を勤めさせて頂いた次第です。
民生委員心に残る思い出 その1
 日赤募金は私が民生委員になる前までは、町内会に割当が来て町内会費から納めていたのですが、日赤募金は寄付的性格上町内会費からは出さないことになり、私の時から日赤社員募集に入り日夜3、4ケ月も町内一軒一軒お願いして廻りました時には犬に吠えられ追われることもありましたが、おかげ様で皆さんのご理解とご協力を頂くことが出来ました。それ以来毎年民生委員が町内の日赤社員募集や集金などを担当することになりました。したがって町内会費からは日赤募金を出さなくてもよくなりました。良かったと思っております。
 民生委員心に残る思い出 その2
 民生委員の活動で町内を廻ったり例会に出席して勉強や情報交換をしたり、又関係ある会合に出席したり、時には養護老人ホーム、身体障害者、精薄者などの福祉施設など視察して参考にし、民生委員活動の使命のもと、日夜出来る限りの努力を続けたものでした。
民生委員心に残る思い出 その3
 まだ働ける様に見える人に地区民生委員の意見もきかず、民生委員の知らないうちに役所が生活保護決定したからと突然通知を頂いた時、民生委員の役割とは何だったのかと考えさせられ、残念に思ったいやな思いをしたこと。
  むすび 町内会の役員として4年間、民生委員としての9年間、勉強したことや一生懸命活動したことは私の貴重な体験として懐かしい思い出としていつまでも心の中に生きてゆくことと思います。 皆様に感謝申し上げますと共にご多幸をお祈りし、これからもよろしくお願いします。

記念誌によせて
  片峯 正夫
 南売市町内会三十周年おめでとうございます。その陰には、何代にもわたる会長さん始め役員の方々の御努力と、いつも温かく支えて来られた町内の方々のご理解とご協力があったことを思い、お祝い申し上げます。町内会活動でユニークな事は資源ごみ回収事業です。各町内に先駆けて市の事業に賛同して計画され、当日は回収物の整理に当たる方々のご協力と、品物を出してくださる町内の方々のご協力で成果をあげ、これまで少ない会費で町内活動がなされて来たことです。町内会についての苦情が、時々デーリー東北紙こだま欄に掲載されておりますが、町内会の基本は、地位や名誉に関係無く地域社会で生活するお隣さん同士の交わりの中で、理解と協力によってよりよい生活環境を整えて、明るく過ごすことと理解しております。
 動物はこの世を一匹で生きることが出来るそうですが、人は他の人に支えられ、人の間でこそ生きることが出来、また生かされて行く者です。家族を除いて近い他人はお隣さんです。
 しかし、ご近所の方でも中々親しくお会いする機会がありません。今年班長の番が回って来て、町内の用事で戸別にお訪ねさせて頂きましたが、お陰で最近越して来られた方とはじめてお会いしてお話も出来、嬉しく感謝でした。班長でなければ、わざわざお訪ね出来ませんし、また、顔見しりにもなれませんでした。班のある方が「町内会の行事にはなるべく参加して交わりを持ち、親しくなる事が大事だと思います」とお話しされ、区民運動会にも町内懇親会にもご参加なさいましたが、全く同感です。
 三十年前の南売市は、国道を除き畑地や空き地の中のやっと車が通れる数本の道路に添って住宅が疎らに建ち、近年まで夏になれば背の高い草やとうもろこし等が人目を遮り、その蔭から人が急に出て来て驚かされた事もありました。
 約二十年来区画整理の移転工事で落ち着かない日々でしたが、今では町並みが整い住宅が並び、街灯も整備されて素晴らしい生活環境に変貌しました。新しい住民の方々もお迎えし、これからは落ち着いた生活の中で新しい交わりを持ちつつ、活発な町内会活動炉なされることを期待いたします。

南売市在住30年
大久保勝次
 ○転入の頃
 終戦直後昭和20年9月1日、郷里の疎開先から家族と共に売市字下久根15番地の市営住宅に入居し、南売市の住人になりました。知人の世話で入居しましたが随分遠い場所に落着いたものだと思ったのは実感でした。住宅は背中あわせの二軒長屋で8畳、6畳、3畳間と台所、風呂場、井戸は、屋根付き2軒で使用する。それに物置小屋、周りには板塀に囲まれ格子戸のついた門その上宅地内が広く、菜園花壇に適しておりました。市住宅課のお話によれば、昭和16年、軍の要請により、民有地を借り上げ、将校用軍関係者の官舎として建築、終戦により市営住宅に転用したと記憶しております。入居した時は隣近所に多数軍人の家族がおりました。私の住宅の家賃は月額21円で当時、市内各所にあった市営住宅の家賃は、3円から5円であったので高い家賃だったようですが、住宅の条件が良かったので21円の家賃は妥当だったようです。
 ○市営住宅払下げのこと
 昭和30年頃だったと思いますが、故岩岡市長さんの時、市の方針として、戦前建築した住宅を払い下げることになりました。急遽会合を開き組合をつくり書類を作成して、居住者に払下げて下さるよう陳情しました。結果は約半数が居住者に払い下げになりましたが、私の通りにある住宅は、地主の承諾が得られず、購入する事が出来ませんでした。
 ○町内会長として
 私は勤務先を退職した頃、前町内会長の中村繁蔵さん、近所の野沢宗芳さん、行政委員で町内会の事務局長の久慈さん達が拙宅を訪問され町内会長就任を要請されました。突然のお話で考えても見なかった事でもありお断り致しましたが、長年お世話になった町内でもあり、御恩返しのつもりでお引受けした次第です。その時、南売市町内会の世帯数は587世帯、34班編成運営されておりました。町内会長とはこんなに多忙なものかと身をもって体験致しました。これまでの町内会長をつとめられた方々の御苦労が偲ばれました。
 町内会は勿論の事、各種団体の会合行事に出席する回数の多いのに精神的な疲労が強く感じられました。又それにも増して事務局長の久慈さんには会の運営行事の立案、会議の進行、他団体との連絡等、行政員の要職にあって精力的に活躍され敬服致しました。
 南売市在住の皆々様の御健勝と町内の益々の御発展をお祈り申しあげます。
.南売市に住んで20年になります
 婦人部長 杉本 鈴子
 昭和48年8月に八日町から南売市に転居して、はや20年になりました。その間父母をあの世に送り、区画整理がありで、何かと心せわしい日々を送りました。今は町内婦人部員と仲よく楽しいふれあいの集いをもっております。
 婦人部は、春と秋の料理講習会、日帰りのふれあいの旅、一年の終わりには歌や踊りをしながらの楽しみ会などをもち、又町内の廃品回収にも協力しながら、部員同志の心の交流を深めるようつとめたり、婦人部員の中には民謡、カラオケ、詩吟、おいしい漬物の得意な人達がおり、年毎に親密度も増す楽しい会であります。
 このような集いがもてますのも、町内会長さんはじめ、町内の皆様の温かい思いやりとやさしさに支えられているお陰だと、心から感謝し、うれしく思っております。
南売市の魅力
体育部長 田中博逸
私30才で東京より古里に帰り以来17年間、とりわけスポーツが好きでしたので、町内の体育部員として、又、連町の体育部員として参加させていただきました。日曜日返上で夫婦での活動をする理事の方には頭の下がる思いでした。
 元旦マラソン、うみねこマラソン、区民運動会、連町の各種競技会、市総合と年間スケジュールを皆さんと一緒に頑張って成功させる様努力の日々です。問題も沢山あります、くじけずに頑張りたいと思います。
 町内の資源ゴミ回収活動、表彰されたことをほこりに続けたいと思います。又売市山車組に参加して以来、今年初めて最優秀賞をいただきました。
 用地の確保、近在への山車貸し出し料の契約、小屋の設定、山車づくりの若者の参加人数の確保、沢山の問題をクリアーしつつ、受賞をいただいた時は感動の一言でした。
 皆が手をとり合って一つの目標に向かえばすばらしい結果が生まれることを学びました。売市のえんぶり組の親方の一人として先人の残した民族の遺産を守りたく活動しています。
 とりとめもなく書きならべましたけど、町内の皆さんと仲よく、手を取り合って、子供達の住みよい町内、伝統の芸能を守り豊かな町内にする様、これからも私個人も今以上に頑張り、より人間として成長していくつもりです。
町内会の移り変わり
  川口助四郎
 八戸市の市制発足より遅れること十年、館村の八戸市合併は昭和十五年一月一日のことでありました。合併を機に、それまでの区長制度を改め、新たに町内会を設けることになりました。なにぶん戦前のことですので、名称は変わっても、活動の内容はさほど変化はなかったと記憶しています。
 「売市町内会」が発足して一年、どうも、売市地区を一町内とするには余りに広すぎるのではないかということになり、翌十六年、「南売市」「西売市」「長根」の三つに分割することになりました。時局柄、上部組織からの情報伝達が円滑にいくようにとの配慮があったのかも知れません。
 町内の命名に関しては、西村徳次郎さんの発案であったとうかがっておりますが、誰からの反対もなく、全会一致で決定したようでした。
 南売市町内会発足当時より会長を仰せつかってきた私の父、大次郎が任期途中で病没したのは昭和二十年三月のことでありました。その頃、私は出征中であり、復員したのは二十一年六月でしたので、その当時の様子などは余り詳しくは存じあげないのですが、当時憲兵隊長をなさっていた松田久五郎さんに会長を引き継いでいただいたようです。
 終戦後、世の中がすっかり変わって、いわゆる民主主義に基づいた新しい町内会の発足をということで、私が第一回目の会長に推挙していただいたのは、確か昭和二十五年のことだったと思います。お恥しい話ですが、新しい町内会といっても、何も新しいことをしなかったからでしょう、だんだん町内会そのものが衰退していきました。これではいけないということで、三十五年、再度町内会を組織しなおし、初代の会長は岡田実さん、二代目に松田久五郎さんにお願いいたしました。現在の町内会隆盛の基礎はこのあたりに築かれたものです。松田さんの後、再び私に声がかかった時、私のすることはもう何もございませんでした。ですから、安心して引き受けたわけでございます。
雑感  交通安全部長 後村美代治
 昭和45年に南売市に住居を構えて以来、実に22年余の歳月が週ぎました。
 ご存知の通り、当地区の区画整理事業も完成に近く、街並みも整い、市内では最も住宅地としてふさわしいとの評判が高まっております。
 往事を振り返り、この変容を見ると隔世の感があるが、あの頃の長閑で緑豊かであった風情が懐かしく思われる今日です。それは田舎育ちのせいなのかも知れません。 ところで私達が住む地域と町内の方々の事を知り、交流を深める近道は、やはり町内会の活動に参加することが一番と考え、まず体育部に入れて頂きました。当時は区民運動会の外、当町内会単独での運動会を企画する等の部活動も大変活発であった。体育部は、10年程前に若い方々に後事を託し、交通安全部に移り、現在に至って居ります。交通安全部では区画整理の進行に伴って、順次カーブミラー、道路標識の設置を進めるなど、当町内からの交通事故防止に努めております。しかしながらこの様に道路事情がよくなる反面、交通事故発生率が高まることが懸念されるところですが、当町内独自での交通安全キャンペーンを行うことは、その費用と人的な面からも難かしい状況であり、勢い根城地区全体での運動に終始していることは否めないが、少くとも当町内から交通事故が起きないよう微力ながら運動を続けて行きますので、今後ともご理解とご協力をお願いしたい。