出席者(敬称賂)
古山 正三
(昭和8年10月~昭和19年3月)
佐々木 重男
(昭和21年3月~昭和25年3月)
正部家 誠
(昭和?年3月~昭和28年3月)
松尾 禎吉
(昭和28年3月~昭和32年3月)
鈴木 亨
(昭和32年4月~昭和33年3月)
船場 武志
(昭和26年4月~昭和32年3月)
司会
井畑 信明(現校長・33年4月~ )
八尋今昔
井畑 きょうはお忙しいところわざわざお集まりいただきましてありがとうございました。
ことしこの学校は創立九十周年を迎えまして、その記念式典を十月十二日に行なう予定でおりますが、そのほか記念事業なども計画しております。記念事業の一つに記念誌の発行がありますが、その記念誌の内容を飾る意味で私らの大先輩である先生方にお集りいただいて思い出を語っていただこうというのです。
十二年間おられた古山先生はじめ佐々木先生、正部家先生、松尾先生、鈴木先生、船場先生と、その時代のことをいろいろとお話し願いたいと思います。
「忠君愛国」から終戦へ
井畑 先生方の着任当時のようすをお伺いしたいと思いますが、古山先生はもうずいぶんと古いことなのでご記憶もうすれたと思いますが先生の着任当時の学校のようすは。
古山 (左半身の姿勢で)昭和十九年退職以来、みなさんと、久しぶりにこうしておあいし、おはなし合い出来て、まことに(力づよく)うれしいと思います。やはり、長生きすれば、何かにつけて、得をするものですなあ。わたしは、数え年七十五才になります。自分では、まだまだほんとうに若いつもりでおります。山登りなどと違って、こうしてすわったまま、お話ししていると何時間でも平気です。(ほんとうに、かくしやくたるものですねえ)
何せ私がここへ赴任したのは昭和八年、それから数えても、もうすでに三十年、ずいぶん古いことです。私は津軽の藤崎からここへ来たのですが、抜てきでも何でもありません。私は南部衆ですが、その南部衆が津軽へ行っていたもんですから、津軽から南部へつれもどしたというかっこうだったと思います。
当時の世相と言いましょうか社会状勢は、とにかく忠君愛国、滅私奉公これ一点ばりでしたから、学校教育もそういった国家社会の思想にただひたすらに向かっていったものです。
井畑 佐々木先生は戦後の変動期にここへ来られたと思いますが。
佐々木 私は昭和二十一年四月に西川栄一郎先生からバトンを引きついでここの校長に任ぜられましたが、当時は終戦直後の混乱期でした。校舎は三分の一戦災で焼かれる、物資はない、食糧難はシンコク、ほんとうに大変な時代でした。学校をとりまく周囲のようすと言えば進駐軍がやって来る。CICがすぐとなりにかまえているという状態でした。
井畑 正部家先生の時には社会状勢もだんだん落ちついて来た頃と思いますが。
正部家 私がこちらへお世話になることになったのは昭和二十五年三月です。湊小学校からまいりました。私の時には幸いにして民主教育が軌道にのりつつあった時代でしたので……。
松尾 私は昭和二十八年度から三十一年度まで四年間ここでお世話になりました。八戸小学校は、私の三十六年の教員生活の終着駅でもありました。それだけに私にとっては生涯忘れられない思い出のハチジンです。
鈴木 昭和三十二年の四月に名校長松尾先生のあとを引きつぐことになりましたが、私も何か一つがんばろうと思っていたのですが不幸にして実働八か月で病に倒れ誠に残念でした。
船場 正部家、松尾、鈴木という三大校長に私は教頭として仕えましたが、私のここでの六年間はちょうど戦後の新しい教育が漸く軌道にのり新教育の方向ヘと進みつつあった時代でした。教育方針も全人教育という方向をめざして、それに基ずいた学校経営をおしすすめていきました。
ハチジン子
井畑 先生方からみたここの学校の子どもについてお話していただきます。まあその時代時代によっても子どもの気質がちがうと思いますが、八尋の子どもたちについて。
古山 私らの時代はさっきも申しましたように、忠君愛国の精神でひたすら国家社会に尽すということが教育の目ざす道でありましたので、子ども等に対しましても非常に厳格であったものです。儀式などにはせきばらい一つしてもならんというふうに。それに何せ支那事変から大東亜戦争へと進み戦局益々さかんになっていた時ですから武道には非常に力を人れたもんです。柔道、剣道、弓道、なぎなた、すもうと、まずあらゆる武道をさかんにやったもんです。正課にしてやりました。子どもの精神をこうしたものできたえましたので自然当時の子ども等の考え方もやはり国家の目ざす方向にいやおうなしに引っぱられていったものでした。
佐々木 私の時は終戦直後の事ですから、先ず何よりも食糧難でありまして、子どもたちは誠にかわいそうなものでした。子ども等の体位は著しく低下しておりまして、ちょうど年より一つ下の体位しかしておりませんでした。実にかわいそうな子どもたちでした。
正部家 その点私らの時は戦後の混乱期も漸く落ちついて来た頃でしたから、まず生活状態もそんなじゃありませんでしたね。
古山 いずれにしても戦前の子どもたちは戦時下という特別な状況の中でよく働らきましたね。よく勉強もしたし、よく労働もしました。今の子どもだちと比べたらまあ隔世の感ですよ、全く。
司会 やはり戦前と戦後では、子どもたちの考え方などもずいぶんちがって来ているんじゃないですか。
松尾 私がここへ来て子どもたちから受けた印象は、まず何となく落ちつきのない子どもたちだと思ったことです。どうしてそうだろうと思い先生方ともいろいろ考えてみました。そうしたらここは学校が対外的な方面から非常に多くの回数使われているということ、それが子ども等の生活態度に影響しているんじゃないかということだったのです。
鈴木 私もここの子どもたちを見て最初に感じたのは今、松尾先生のおっしやった事、落ちつきがないという事、ちょうど女子師範の付属の子どもに共通したところが見うけられたのです。まあ都会ふうのあかぬけした面があって、それはいいのですが、今一つ何かどっしりしたところがほしいと思いました。
松尾 そこで私はそういう事を先生方と相談して、いろいろな手をうってみました。
さいわいにして国語教育研究の指定を受けましたので国語指導の中で人の話をよく聞くという態度を指導したり、落ちついた雰囲気で読書をするという態度、そんな事をやってみたわけです。
船場 そうですね、松尾先生の言われたようにここの子どもたちには落ちついた生活態度がほしいと思いました。そのための指導はいろいろと致しました。
古山 わたしの教育のモットーは健康教育でありました。あんな時代でしたから、あらゆる武道(大きな手で一つ一つ指折りながら)柔道、剣道をはじめ、なぎなた、すもうなどみんなやりました。そして、毎日のように体力、精神力の精進をさせ、県下の先生方をおまねきして、武道教育研究発表会をしたことは、今でも、わたしの思い出深いものの一つです。当時、先生方は、子どもたちに、外へでろ、外へでろといって、戸外の運
動を大いにおすすめくださったので、わたしの長年の信条が認められて、体操優良校として、文部大臣より、表彰されて、非常に感激したことを、今、なおまざまざと思い出します。(しばし、感無量のてい)
井畑 古山先生、当時の職員の生活態度について重ねてお願いいたします。
古山 (一つ大きくうなずく様に力んで)いやぁ.それは、実に(一つ一つのことばに、力を入れて)まじめなものでした。わたしは、先生方のちこくを、ほんとうに、きびしく、いましめました。自転車で通学しておりましたが、定刻五分前に校長室にすわっており、それよりおそく入って来た先生が、「おはようございます」とあいさつしても、応答してやりませんでしたよ。(一同、身に覚えありそうに苦笑)支那事変にはいってからは、職員の朝会の時、誓いのことばを読み、校長の訓辞があって、教室ヘという順序でした。
今、考えてみれば、苦しいこともあったと思いますが、最初にも話しました通り、滅私奉公の時代ですから、さして苦しそうな顔もしてなかったほどでしたなあ……(笑い)
佐々木 今、学校要覧をみていて思い出しましたが、東北の子ども、特に八小の子どもは、口が重くて人前で堂々と話すことが、不得意でしたから、自発、協同の綱領をかかげて、日常の生活を指導しました。自協会という今の児童会のようなものを組織して、学校生活をたのしく、有意義にすごさせました。どうぞ、この精神を長く続けてください。
松尾 それは、大事にまもりましたよ。(笑い)
正部家 わたしの在職中、特に心に残ることのうち、一つ二つ述べてみましょう。まず一つは、現南郷村助役の冷水鉄之助さんのおすすめにより、子ども銀行を創立したことであります。おそらく、子ども銀行では、市内で一番はじめてではなかったでしょうか。親銀行は、青森銀行で、子どもたちに、働いたお金、自分のおこづかいを節約したお金をもちより、貯蓄させました。そして、社会科学習の一助のもと、親銀行に似た組織を作って、六年生の子どもたちにもその事務をさせました。ひとりひとりの貯蓄を修学旅行、進学の際のいろいろな費用にあてさせたので、子どもたちもよろこんで貯蓄にはげんでおりました。
その二としては、前からさけばれていた、民主教育がだんだん広まり、いろいろな研究会などが、本校を会場にして開かれ、先生方もその研修を積み、子どもたちに、その新風をふきこんだ時代でした。よく高館から、アメリカの子どもたちが、本校を参観し、又、招待されたりして、日米親善の一役をになった時でもありました。
次に校歌ですが、これも時代に即したものにしては……と先輩、職員たちから気運がもりあがり作詞は本校の卒業生で全国的に有名な作家でもある北村小松氏におねがいしました。北村氏も快くご承知くだされ、ついで、作曲を花嫁人形でこれまた、有名な杉山長谷夫氏(故人)におねがい申しあげ、お二人で作詞作曲についても、何度となく、お打ち合わせになり、本校にふさわしいものを作りあげてくださいました。今、子どもたちが事あるごとに歌います、三八城の園の云々……がそれです。
松尾 今、なお、わたしは、その気持を大切にしております。校長だけその気になっても決して、その精神は、いかされるものではありませんが、さいわい教頭に人を得、わたしの心をよくくんでくださって、四年目になって、いい先生方だった、めんこいこどもたちだったと心からそう思うことができたことをよろこびました。私はこの子どもたちに情操面の教育をしたいと思いまして昭和二十八年に小鳥の家を作りました。また、先生や、友だちのはなしていることがらをおちついて聞ける子どもにするために、わたし自身子どもたちに、よびかける気持ちで、朝礼の時、いろいろなむかしばなしをしました。(当時、子どもたちも、おはなしを心待ちにし、おのずから整然として待っていたのを思い出します)こういうことで、たのしい四年間をすごし、気持ちよく、終着駅をおり、第二の人生を歩んでいるところです。
井畑 では、鈴木先生、先生の時代は、新教育に向って、まい進していらっしやった頃と、おききしておりますが:・
鈴木 名校長松尾先生の後をお受けしましたのは、昭和三十二年四月でした。名将のもとに弱卒なしとか、本校の先生方の訓練が行届いて、態度の立派なのに、おどろかされました。
特に船場先生のファイト、わたしは、こんな恵まれた学校に赴任したことをよろこび、これから、何かやろうとした時に、病魔に倒れ、本当に残念でございました。
井畑 では船場先生、三代(正部家、松尾、鈴木)の校長先生方の教頭先生として、結びのことばを一つ……。
船場 このような席におよびしていただきましてほんとうにうれしく思います。三十二年十二月二日に校長(鈴木)先生が休職なさったので、全く途方にくれました。しかし、もう年も半ばをすぎている。とにかく卒業式だけは立派にしたいと、そのことだけ考えました。校長先生がお休みになったというので、学校の中がヒソッとした様な感じでしたので、おたがい心を一つにして、昭和三十二年度を通過した時は、まことに感無量でした。正部家、松尾先生、鈴木先生の六ケ年、教頭としてお仕えしましたが、当時、学校貸与簿という誠に奇妙なものがありました。その厚さが百科辞典のようでした。一日に二つ、三つぐらいの会議はざらで、玄関には、いろいろな人のはきものがならび、こちらからは、お茶のさいそく、そちらからはすいがら入れのさいそく、全く教頭とは、サービスボーイのようなものではないかと自分自身の立場をふりかえったことが度々でした。そこで、校長(松尾)先生とも相談し、子どもたちがおちつきのないのはそのためではないか。これでは何としても校舎使用を制限しなければならない。一つ命がけでへらそうと、これに取りくみました。そして、年間五百回ちかい使用をへらそう。わたしたちは、子どもの教育をしっかり守るのが本務である。というので断乎と、その初志をつらぬきました。そのため、子どもたちの学力がいくらかでも向上できたことは本望だったと思っております。
井畑 船場先生のあとを受けたのはわたしです。先生方の命がけの校舎使用制限が効を奏してか、現在では年間使用七十回程に解消されました。共進会の件も、昨年までは、校舎使用は、ご遠慮ねがっておりましたが、ことしは、新産都市の指定に伴う特別な事情でありますので、便宜をはかりました。給食は現在、完全給食で理想に近い状態であります。わたしたちは、諸先生の意志を継いで、一丸となって、子どもたちの教育のためがんばるつもりでおります。
八尋のシンボル
古山 わたしはヒマラヤシーダを八尋のシンボルにしたいと思います。わたしが赴任した翌年の昭和九年に植えたものですがね。それがもう三十年たってるんですよ。あれがあるとないとで八尋も非常にちがうと思う。種市良春さんが寄附したのですがな。百五十円のかねを持ってきて「木を植えてくれ」というんです。それでヒマラヤシーダを十七本植えた。見るたんびに大事にしなくっちゃと思うんです。入口の前にそのことを書いた石があったんですが、戦争時分にどこかへやったらしい。
正部家 わたしも趣旨には大いに賛成です。愛護したいと思っていたんですがな。わたしの時に三八城山に電線をひく工事の時、わたしにだまって切ってしまった。枝をおとしていたのを見て「けしからん」というので会社にかけあったんですが法律上は何らふれないそうですね。法律上はともかく美観をそこないましたな。
井畑 いや去年も自動車協会から文書でもってきて、大型の自動車がふれてこまるというんです。
古山 いや、あれがなければならない。種市さんに何かの機会に感謝してください。
正部家 新しい市庁舎を建てる時も何本か切られたでしょう。
古山 ぜんぶで十七木でしたから。(特に大きな声で感動をこめて。)
正部家 もったいなかったね。(感慨深く)