白鳥が高圧線にひっかかり怪我をすると、東北電力八戸営業所に相談に行った。奥山さんの記事を総務課長、高橋氏に読んでいただき、こうした事故をふせぐため馬淵川の高圧線に鳥が識別できるような標識をつけることはできないだろうかと聞いた。
すると、市内の架線は八戸営業所の管轄で、それ以外の高圧線は火力発電所の近くにある八戸技術センターが管轄している。この問題をそこと協議してみますので暫く時間を貸してくださいといわれた。
後日編集部に連絡があり、
ご指摘のありました馬淵川の白鳥が休む付近の送電線に、白鳥が認識できるようなものを取り付けする対策を施す方向で計画することになりました。
ただし、工事期間は残念ながらすぐというわけではありませんが、他の工事計画や予算等の様子を見ながら対応させていただくことになりました。
良かったなあ、としみじみ思った。「はちのへ今昔」は読み手の少ない広告も取らない雑誌だが、真剣に話をすれば理解していただける。
電力会社の対応は遅いという人もいるが、東北電力マンは違う。誰一人として逃げない。そして、自分が事を解決しようとする。ここが役所と大きくちがう。
時間がかかっても必ず実行する。そして出来ないときはダメだと明言する。だから信頼を得る。
孔子が弟子から聞かれる。
国を治める方法を三つ言えと。
このたとえは小泉前首相がよく使った。
孔子は一、軍隊、二、食糧、三、信頼と答えた。
弟子は更に詰めた。
そのうち一つが欠けてもいいものは?
孔子は軍隊と答える。更に弟子はもう一つ欠けていいものは?
孔子は答えた。食糧だと。
弟子は食糧がなければ死にますぞ。
孔子はこう教えた。
人はいずれは死ぬ、だが国を治める者は、信頼なくして民を導くことはかなわぬと。
東北電力にはこの信頼がある。彼等は常にこう言い続ける。信頼を築くには長い時間を要する。しかし、信頼を失うのは一瞬だと。
だから、あの黄色い車を運転する者は絶対にタバコを吸いながら走らない。なぜならば社是に言う。人は一つのことしかできないと。
だから運転中は運転に専念するのだ。三十年も前になるだろうか、郵便局員がバイクを運転しながらタバコを吸うとデーリー東北新聞のこだま欄に投書があった。その時、電力マンたちは明言した、私たちは絶対そうした行為はしません。なぜならば社是にあるからです。
白鳥を守る人たちは安心してくれ、彼等は死んでもやる人々だ。電力を安心して使えるように日夜保守点検に眼を光らせ、人の見えないところで努力を重ねることを業とする集団だから。
この奥山さんが動物が薬殺されている、それを救おうとしている人がいますと教えてくれた。その人は舘亜貴子さんと言うと。
電話連絡でイトーヨーカドーの前で「犬猫ふれあい譲渡会」を開催するので、そこで逢いたいとのこと。時間に出向くと、何と、彼女は大学出たての頃、筆者と面談したことがある。マスコミ関係に就職しようとしたが、うまくいかない、「はちのへ今昔」はどんな所か見に来たことがあった。
それからおおよそ十年が経過。逢ったら動物愛護運動家だった訳。人間は伊達に歳はとらないものだと感心。
どんな仕事なのとパンフを貰った。
小学2年生の冬に学校帰りに道端で拾った仔犬をランドセルに入れてこっそりと持ち帰って以来、行く先々で腹ペコの放浪犬との出会いを繰り返し、学生時代には突然臨月の野良猫がアパートに迷い込んで仔猫を産み始め、一気に5匹の猫の飼い主になってしまったり、私の暮らしの中には常に犬や猫がいました。でも個人で世話できる数は限界があり、「もうこれ以上飼えない」という状況に陥るのは時間の問題です。過度の多頭飼いは飼い主の負担だけでなく、結果犬や猫たちにも不幸を招きます。それに自分が出会った犬や猫はラッキーな少数派であることを考えると胸が痛み、捨て犬・捨て猫を元から絶つ必要性を感じ続けていました。
「どうぶつライフワーク八戸」は、地元の新聞に掲載された保健所で殺処分される犬猫に関する投書をきっかけに、同じ気持ちの動物好きが一人、また一人と集まって、できることから始めよう!と平成十五年7月に発足しました。身寄りのない犬猫の里親探しと並行して、殺処分ゼロを目指して走りながら考えるという手探りの活動をしています。
動物福祉の先進地である欧米と比べて、日本の動物事情は百年も遅れていると言われることですが、青森県で一年間に子犬221頭、成犬1429頭、子猫1409頭、成猫588頭、合計3645頭の犬猫が致死処分となりました。
日本全国では年間四〇万頭以上、処分にかかる費用は三〇億円超といわれています。
犬猫の殺処分はタブー視されがちで、長年放置され続けてきたといっても過言ではなくその結果この数字が示すように、目をそむけたくなる深刻な社会問題へと悪化してしまったように思います。
保健所には、年齢、健康状態保健所に至るまでの経緯や境遇も様々な犬猫がいます。捕獲された迷子犬に限っていえば、飼い主が迎えに来て無事おうちに帰ることができるのはほんのわずかで、たった一割程度です。収容期間は最短で3日間と非常に短く、迎えがなければ、飼い主本人が直接持ち込んだ犬猫たちと共に、青森市に昨年新設されたガス処分施設へと移送されて最期を迎えます。県ではインターネットで迷い情報を公開しているものの、未だ効果が上がっていません。もちろん意図的に捨てられたケースも考えられますが、そのうち帰ってくるだろうとか、誰かに飼われているのかも、などと探そうともしない、無責任で楽天的な飼い主が多すぎるのが、腹立たしくも悲しい現状です。
殺処分を引き起こしたのは、そんな人々の意識です。動物愛護というと何か特別のことのように聞こえるかもしれませんが各自が愛情と責任を持って自分の犬や猫を生涯飼うこと、これが全てです。そして、これ以上飼えないなら増やさない、(不妊去勢手術をする)、もしいなくなったら全力で探す、そうすればこの問題は自ずと解決に向かいます。野生動物などとは違って、犬や猫は飼い主あっての命です。問題解決のカギとなるID(鑑札や電話番号等を書いた迷子札)の装着や不妊・去勢手術の普及が大きな課題です。
活動を通じて、動物の問題一つとっても社会の中のあらゆる事柄が作用しあっているのだなと実感することが多々あります。最近は県内の動物愛護団体との横のつながりができ、情報交換や協力体制ができつつありますが、今後は他分野のボランティア団体とも縦横無尽にネットしていきたいと考えています。一見すると畑違いでも、回り回って、自分が取り組んでいる活動のヒントになったり、お互いのメリットが見つかるはずです。
6%の人が変われば、世の中は大きく変わるといいます。あちこちで投げた小さな小石の波紋が一つの大きな輪になるイメージです。一人一人が自分の心が揺さぷられる何か一つのことをやり始め、そして少しずつでも続けていけば、八戸の未来は光り輝きそうな予感がする今日この頃です!
この舘さんのほかにも動物愛護支援の会八戸というのがあり、そこの責任者は中村由佳さん。バリバリのやりて。北里大学の獣医課程の学生さんグループも不妊去勢に尽力している。
譲渡は無料、活動を続けるためのサポーター募集中。電話080・3149・0486迄
2007年8月1日水曜日
八戸自動車史 3
○市営バスの発足
八戸市内の乗合自動車業も隆昌に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗合の各業者への営業権譲渡方の話し会いが持込まれた。このころ乗合業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の路線をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権 を市営バスに譲渡した。
市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
市営バスの経営には、市側からは室岡氏があた り、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備面担当者として迎えた。
市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。
編集部注釈
前ページの広告は昭和七年奥南新報のもの
八戸~剣吉間に乗合自動車があった。
八戸市は乗合自動車業を開始すると、直ぐに営業利益を上げる。
上の記事がそれ。八戸市も優秀な頭脳を抱えていたものだ。市民の利便を考えると業者を一本化する必要がある。さらに、自身で営業しようと考えるあたりが鋭い。神田重雄恐るべし。
○トラック業、タクシー業急増
市営バスの発足によって乗合自動車は一本化し、八戸市の公益事業となったが、トラックとタクシーの業者はその頃から急激に増加する傾向をみせた。
乗合馬車は姿をかくし、荷馬車の数も急激に滅少し、今や自動車にとって代られようとしていた。
トラック業では前記の目時、島谷部、栗本三氏の他に、宮沢氏、柳町氏、藤田氏、左館氏、川端氏、須藤氏、長岡氏、角金氏、北城氏、松坂氏、足立氏など、昭和十年代までに陸続として営業を始めている。
タクシー業は、それにもまさる盛況であった。相馬屋、藤金、大江、角田、橋本、ふじゃ、中屋、安全、葵、キング、東洋、ダイケイ、日の出、平和、村井(長横町)、村井(大工町)など十指にあまる業者が車を走らせた。もちろん、平和、村井(長横町)村井(大工町)、橋本、東洋などのように、短期問の営業で終ったと思われるものも ある。
相馬屋、藤金は前にもふれたが、相馬屋は鮫を、藤金は小中野を本拠としており、藤金はトラック業も兼ねていたものである。
中屋は前記清川氏(前姓庭田)が経営、六日町で営業、角田氏も鮫方面に車庫をもっていた。その他、ふじやは現在の八日町明治薬局の近隣で、葵は吉田屋から矢倉氏に経営が交替しているし、大江は現八戸タクシー社長大江氏の個人営業当時のもの、キングは三浦氏の営業、ダイケイは十六日町で営業、日の出も同じく十六日町で田名部稲蔵氏の営業したものである。東洋は世界公園の八戸引き上げの場所に阿部氏が営業していたが間もなく廃業している。また、八戸市最初の女性運転手阿部ちか枝さんは二八年型シボレーで営業していたという。この二八年型シボレーは従来の車輛から著しく改良された、現今の乗用車に大分近い構造の自動車であった。
筆は前後するが、バスの車体が現在見られるような箱型(当時は電車型とも云った)になったのは、我が国では関東大震災後、壊滅した東京の交通網をたて直すため、東京市会で決議して、フオード会社へ特注した四十四両の十一人乗りの自動車が最初である。
このバスは、いわゆる「青バス」で有名なとおり外装を青く塗りたてたものであった。
この同型は昭和初期、藤金、宮沢、橋本氏などによって八戸にも入れられたが、外装は赤く直してあったという。いうなれば八戸のバスは「赤バス」であったわけである。現在の交通法規からいって、恐らく、見ることのできぬバスの色だったわけである。
○持たざる国のなやみ
前章にみるように、着々と自動車業者の数が増し、交通政策上大きな転換が要求されはじめ、昭和六年「自動車交通事業法」が布かれたり、国営バスの台頭と路線拡大、トラック、タクシー常の.需要増大の時流も、国際間の緊迫した状勢の前にいかんともしがたいものがあった。
昭和十二年七月七日、あの日華戦争(当時は支那事変と呼んだ)の口火を切って芦溝橋事件が勃発するや、国をあげて戦時の体制を取りはじめた。この年「輸出入品等に対する臨時措置に関する法律」と「臨時資金調達法」の公布をみ、新規事業が制限され、さらに翌昭和十三年四月には「国家総動員法」が公布され、同年六月には物価統制が行われはじめた。ガソリンの自発的節約が指示され、自動車事業には早くも暗雲の片々をのぞかせた観がある。
やがて戦力増強のもとに、軍需物資の輸送が優先され、遂には物資移動の統制令が出されるに至って、トラック業を除いては漸やく営業不振のきざしをみせ出した。外車の輸入が禁じられ、国産車は軍が優先して使用するところとなり、民間における実働車両は減少する一方となった。
昭和十六年八月、かの画期的な液体然料の使用禁止をうたった「石油消費規正」が出され、ここに代用燃料車の登場となった。
この年十二月八日には、太平洋戦争に突入した。だが戦争による輸送力の増強はさらに多くの車輛を必要とした。
こうした国際関係と国内事情の逼迫が自動車事業の統合を促がす機運となり、当局の指令によって次々に事業の統合がなされてゆくことになった。
一本化されてあった八戸市営バスは、昭和十七年、八戸市内に乗り入れた十和田鉄道株式会社に南部乗合自動車、八戸乗合自動車が譲渡し、一社に統一された。ただし八戸乗合自動車の久慈~大野間は岩手県北自動車会社へ譲渡している。また、八戸地方では五戸鉄道株式会社と十和田鉄道株式会社が併置された全国でも稀れな二社共存の地域であった。
なお、この八戸乗合自動車株式会社は前記、市営バスを中心とした改組の名称ではないかと思われるが、この間の消息は未詳である。
かくして、「持たざる国の悩み」は自動車営業者にとって、正に暗黒時代を現出せしめたのである。
○トラック、タクシーの統合
時代の波は容赦なく隅々まで巻きこまずにはいない。先述のバスの統合にさきがけてまずトラック業者に対する「第一次自動車運送事業統合要綱」が発表されたのは昭和十五年九月のことであった。八戸でも、要綱に従って統合が行なわれた。
八戸市内を三地域にわけた。ひとつは目時氏、島谷部氏、柳町氏、角金氏、北城氏、それに三浦氏、南部木材(工藤氏)で有限会社八戸トラックを設置、島谷部氏の管掌場所を本拠にした。またひとつは小中野方面の藤金自動車貨物部を本拠として、藤田氏、宮沢氏、左館氏、栗本氏、須藤氏、長岡氏、川端氏等が八戸中央トラック株式会社を設置、さらにひとつは鮫魚港関係の松坂氏、足立氏に魚市場の西野氏、熊谷氏によって八戸漁港トラック株式会社が設置されたのである。
昭和十七年には「第二次統合」が指令され、八戸市内の前記三社に穂積トラックが編入され、五戸貨物自動車有限会社、三戸貨物自動車有限会社等を統合して、南部貨物自動車株式会社の新設をみたのである。社長に熊谷義雄氏が就任した。
またタクシー業者も、昭和十五年九月には八戸市内十二の業者が統合し八戸自動車株式会社を設立した。業者名は、相島屋、安全、葵、大江、キング、ふじや、中屋、ダイケイ、藤金、橋本、日の出、シユウリン?(阿部ちか枝氏営業)の十二社である。車輛の総数は二七台。社長に大江石蔵氏が就任、十八日町で、同年十二月二十四日から営業を開始した。
自動車の代燃化は、主として薪、木炭であり、他に天然ガス、石炭ガス、アセチレンガス、液化ガス(プロバン)、アルコール、メタノール、ポンゾール、あるいは石炭、コートライト等も用いられたが、八戸地方では木炭、薪の供給源に近いため、ほとんど木炭と薪を使用した。が逐年、この木炭、薪も手に入りにくくなり、自動車営業は、燃料の確保に追われる始末であった。その上に、戦争の状態悪化にともなって、民間に対する車両の割り当てが杜絶するようになると、現有車輛の傷み方もはなはだしくなり、実働車輛は目に見えて少なくなっていった。
こうした民間の自動車営業者統合の段階から、さらに荷馬車をもひっくるめた半官半民の八戸通運株式会社が、昭和十八手四月に設立され、戦局もいよいよ急を告げるようになった。
昭和二十年八月十五日、日本国民は未曽有の敗戦を喫し、新生日本を世界に誓って、連合軍の占領時代を迎える。しかし、戦争に打ちひしがれて国力の衰えた日本国民の経済力をもってしては、痛手の大きさをいかんともしがたく、終戦後の数年間は統制時代そのままの企業形態で存続させるより仕方がなかったのである。
八戸市内の乗合自動車業も隆昌に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗合の各業者への営業権譲渡方の話し会いが持込まれた。このころ乗合業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の路線をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権 を市営バスに譲渡した。
市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
市営バスの経営には、市側からは室岡氏があた り、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備面担当者として迎えた。
市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。
編集部注釈
前ページの広告は昭和七年奥南新報のもの
八戸~剣吉間に乗合自動車があった。
八戸市は乗合自動車業を開始すると、直ぐに営業利益を上げる。
上の記事がそれ。八戸市も優秀な頭脳を抱えていたものだ。市民の利便を考えると業者を一本化する必要がある。さらに、自身で営業しようと考えるあたりが鋭い。神田重雄恐るべし。
○トラック業、タクシー業急増
市営バスの発足によって乗合自動車は一本化し、八戸市の公益事業となったが、トラックとタクシーの業者はその頃から急激に増加する傾向をみせた。
乗合馬車は姿をかくし、荷馬車の数も急激に滅少し、今や自動車にとって代られようとしていた。
トラック業では前記の目時、島谷部、栗本三氏の他に、宮沢氏、柳町氏、藤田氏、左館氏、川端氏、須藤氏、長岡氏、角金氏、北城氏、松坂氏、足立氏など、昭和十年代までに陸続として営業を始めている。
タクシー業は、それにもまさる盛況であった。相馬屋、藤金、大江、角田、橋本、ふじゃ、中屋、安全、葵、キング、東洋、ダイケイ、日の出、平和、村井(長横町)、村井(大工町)など十指にあまる業者が車を走らせた。もちろん、平和、村井(長横町)村井(大工町)、橋本、東洋などのように、短期問の営業で終ったと思われるものも ある。
相馬屋、藤金は前にもふれたが、相馬屋は鮫を、藤金は小中野を本拠としており、藤金はトラック業も兼ねていたものである。
中屋は前記清川氏(前姓庭田)が経営、六日町で営業、角田氏も鮫方面に車庫をもっていた。その他、ふじやは現在の八日町明治薬局の近隣で、葵は吉田屋から矢倉氏に経営が交替しているし、大江は現八戸タクシー社長大江氏の個人営業当時のもの、キングは三浦氏の営業、ダイケイは十六日町で営業、日の出も同じく十六日町で田名部稲蔵氏の営業したものである。東洋は世界公園の八戸引き上げの場所に阿部氏が営業していたが間もなく廃業している。また、八戸市最初の女性運転手阿部ちか枝さんは二八年型シボレーで営業していたという。この二八年型シボレーは従来の車輛から著しく改良された、現今の乗用車に大分近い構造の自動車であった。
筆は前後するが、バスの車体が現在見られるような箱型(当時は電車型とも云った)になったのは、我が国では関東大震災後、壊滅した東京の交通網をたて直すため、東京市会で決議して、フオード会社へ特注した四十四両の十一人乗りの自動車が最初である。
このバスは、いわゆる「青バス」で有名なとおり外装を青く塗りたてたものであった。
この同型は昭和初期、藤金、宮沢、橋本氏などによって八戸にも入れられたが、外装は赤く直してあったという。いうなれば八戸のバスは「赤バス」であったわけである。現在の交通法規からいって、恐らく、見ることのできぬバスの色だったわけである。
○持たざる国のなやみ
前章にみるように、着々と自動車業者の数が増し、交通政策上大きな転換が要求されはじめ、昭和六年「自動車交通事業法」が布かれたり、国営バスの台頭と路線拡大、トラック、タクシー常の.需要増大の時流も、国際間の緊迫した状勢の前にいかんともしがたいものがあった。
昭和十二年七月七日、あの日華戦争(当時は支那事変と呼んだ)の口火を切って芦溝橋事件が勃発するや、国をあげて戦時の体制を取りはじめた。この年「輸出入品等に対する臨時措置に関する法律」と「臨時資金調達法」の公布をみ、新規事業が制限され、さらに翌昭和十三年四月には「国家総動員法」が公布され、同年六月には物価統制が行われはじめた。ガソリンの自発的節約が指示され、自動車事業には早くも暗雲の片々をのぞかせた観がある。
やがて戦力増強のもとに、軍需物資の輸送が優先され、遂には物資移動の統制令が出されるに至って、トラック業を除いては漸やく営業不振のきざしをみせ出した。外車の輸入が禁じられ、国産車は軍が優先して使用するところとなり、民間における実働車両は減少する一方となった。
昭和十六年八月、かの画期的な液体然料の使用禁止をうたった「石油消費規正」が出され、ここに代用燃料車の登場となった。
この年十二月八日には、太平洋戦争に突入した。だが戦争による輸送力の増強はさらに多くの車輛を必要とした。
こうした国際関係と国内事情の逼迫が自動車事業の統合を促がす機運となり、当局の指令によって次々に事業の統合がなされてゆくことになった。
一本化されてあった八戸市営バスは、昭和十七年、八戸市内に乗り入れた十和田鉄道株式会社に南部乗合自動車、八戸乗合自動車が譲渡し、一社に統一された。ただし八戸乗合自動車の久慈~大野間は岩手県北自動車会社へ譲渡している。また、八戸地方では五戸鉄道株式会社と十和田鉄道株式会社が併置された全国でも稀れな二社共存の地域であった。
なお、この八戸乗合自動車株式会社は前記、市営バスを中心とした改組の名称ではないかと思われるが、この間の消息は未詳である。
かくして、「持たざる国の悩み」は自動車営業者にとって、正に暗黒時代を現出せしめたのである。
○トラック、タクシーの統合
時代の波は容赦なく隅々まで巻きこまずにはいない。先述のバスの統合にさきがけてまずトラック業者に対する「第一次自動車運送事業統合要綱」が発表されたのは昭和十五年九月のことであった。八戸でも、要綱に従って統合が行なわれた。
八戸市内を三地域にわけた。ひとつは目時氏、島谷部氏、柳町氏、角金氏、北城氏、それに三浦氏、南部木材(工藤氏)で有限会社八戸トラックを設置、島谷部氏の管掌場所を本拠にした。またひとつは小中野方面の藤金自動車貨物部を本拠として、藤田氏、宮沢氏、左館氏、栗本氏、須藤氏、長岡氏、川端氏等が八戸中央トラック株式会社を設置、さらにひとつは鮫魚港関係の松坂氏、足立氏に魚市場の西野氏、熊谷氏によって八戸漁港トラック株式会社が設置されたのである。
昭和十七年には「第二次統合」が指令され、八戸市内の前記三社に穂積トラックが編入され、五戸貨物自動車有限会社、三戸貨物自動車有限会社等を統合して、南部貨物自動車株式会社の新設をみたのである。社長に熊谷義雄氏が就任した。
またタクシー業者も、昭和十五年九月には八戸市内十二の業者が統合し八戸自動車株式会社を設立した。業者名は、相島屋、安全、葵、大江、キング、ふじや、中屋、ダイケイ、藤金、橋本、日の出、シユウリン?(阿部ちか枝氏営業)の十二社である。車輛の総数は二七台。社長に大江石蔵氏が就任、十八日町で、同年十二月二十四日から営業を開始した。
自動車の代燃化は、主として薪、木炭であり、他に天然ガス、石炭ガス、アセチレンガス、液化ガス(プロバン)、アルコール、メタノール、ポンゾール、あるいは石炭、コートライト等も用いられたが、八戸地方では木炭、薪の供給源に近いため、ほとんど木炭と薪を使用した。が逐年、この木炭、薪も手に入りにくくなり、自動車営業は、燃料の確保に追われる始末であった。その上に、戦争の状態悪化にともなって、民間に対する車両の割り当てが杜絶するようになると、現有車輛の傷み方もはなはだしくなり、実働車輛は目に見えて少なくなっていった。
こうした民間の自動車営業者統合の段階から、さらに荷馬車をもひっくるめた半官半民の八戸通運株式会社が、昭和十八手四月に設立され、戦局もいよいよ急を告げるようになった。
昭和二十年八月十五日、日本国民は未曽有の敗戦を喫し、新生日本を世界に誓って、連合軍の占領時代を迎える。しかし、戦争に打ちひしがれて国力の衰えた日本国民の経済力をもってしては、痛手の大きさをいかんともしがたく、終戦後の数年間は統制時代そのままの企業形態で存続させるより仕方がなかったのである。
売市小が改名され、根城小学校となり、その百年史から 2
赤坂とみ
もう百才なんです。根城学区の誰よりも長生きなんですの。九十七才、九十八才と二年間。
先生方も元気でね。千四百余名の根城っ子のため渡り廊下が完成し、玄関、築山、美しい木、花、水銀灯、グリーンベルト、桜の老木も黒土を盛られて大喜び、教室のタイルを一枚づつ貼ってくれ嬉しかったですよ。サッカー大会で先生方、大きな声で応援しましてね、見事優勝しましたよ。
すばらしい子どもたちで、愈々発展していきますよ。見ていてね。
私を育ててくれた根城小
岩藤森太郎
太平洋戦争も末期昭和二十年四月、学校卒業したての新米教員が、当時の根城国民学校に赴任し、以来十四年間在職いたしました。いま、当時のアルバムや日記をみますと、その頃のことが鮮明に頭に浮かんでできます。
戦中、終戦時の慌しい世相でしたが、緑の多い静かな環境の中に、こじんまりとした暖かい家族的な雰囲気のある学校で、のびのびと、思ったことを存分にやらせてもらい誠に楽しい思い出ばかりです。
その頃は、食糧増産ということで、授業より園芸作業の方が多かったようで、白山や高館飛行場の大豆植え、校庭や裏庭のじゃがいも作り等、児童とともに肥おけを担ぎモツタをふるい汗を流しました。当時四年生八十二名の担任でしたが、競争で高等科に負けない位の収穫をあげました。また、曜日を決めて、肥料としての馬糞集めをさせられ、集めた量をちりとり○杯と収集日誌に書いて校長に報告、四年生はいつも収集量が多く校長にほめられましたが、腕白連中が競馬場の厩舎に忍び込み、馬糞を失敬していたこと。その頃のことだけで、珍談奇談一杯というところです。
昭和二十四年五月二十八日、終戦第一回の修学旅行を企画し、日帰りの盛岡旅行、今とちがって添乗員もなくすべてを教師がやったその苦労。昭和二十八年から二泊三日の函館旅行をしたときの楽しさ。
昭和二十六年、当時の川村義一校長先生の時苦労してピアノを購入していただき、翌年NHK唱歌コンクール県予選三位に入賞したこと。校歌制定、昭和二十八年の七十周年記念式典、学校火災等、十四年間の思い出の数々は紙面に書きつくせません。
私白身を育ててくれた根城小学校、根城学区に居住している者として、根城小学校の益々のご発展と、明るい未来を期待しております。
心から百周年おめでとうと申し上げます。
思い出
大久保好男
昭和二十七年二月二日、待望の新校舎落成式の日、多くのお客さまをお迎えし、みんなの顔は緊張の中にも笑みがこぼれおちそうでした。部落一丸となっての労苦が、ここに結実したのです。私達は、新校舎の玄関に泥を落すまいと気をつかい、廊下はすべらないようにと静々歩き、教室の机や椅子には、恐る恐る手をふれてみました。その感触、その感激、終生忘れることはできないでしょう。
当時、先生は渡辺先生お一人で、私達は常に二十人前後はいました。先生が出張やお客さん等で多忙の時は、奥さんが習字等を指導して下さいました。秋には、私達で薪切りをして冬の準備をしましたし、本校等への行事には歩いて参加する等現在とは相当様子が達うようです。
落成記念に植えた校庭の桜を見るたびに、投じのことがなつかしく思い出されます。
感謝の思い出
大橋与一郎
根城小学校に赴任したのは、昭和二十五年だからすでに二十数年の歳月は流れた。
当時はピアノも図書室もない小規模校で、しかも農繁期休業という今では考えられないような休業日があったと記憶している。烏兎匆匆(うとそうそう・歳月があわただしく過ぎ去るたとえ)、この学区の著しい変貌を見る時全く隔世の感に打たれる。
私は末だ若かったし、また十年間もお世話になったものだから、本当に根城で鍛えられた、まさに教師としての開眼期であったといっても過言ではない。特にしあわせなことは、よき先輩、よき同僚、よき学区民に恵まれたことである。
社会科教育の偉大な前駆者松木秀生先生県下はもとより全国的にも感動の教育で名声の高い川村義一先生、崇高な教育哲学の実践者柏木定蔵先生、八戸の統計教育と鼓笛隊の草分けでもある久保栄先生をはじめ教育に情熱を傾けた数々の同僚の先生方との邂逅(かいこう・思いがけなく出あうこと。めぐりあうこと)ともいうべき出合いは、すばらしい人脈の秀峰を仰ぎ見る思いで感謝に堪えない。さらにピアノ購入、校舎増築で夜遅くまで談論風発を重ねたPTAの方々や、物心両面の援助を惜しまなかった婦人会の方々の懐しい顔が浮かび、とどまる所を知らない。
二十六年にピアノ購入運動と同時に合唱練習に取り組み、ついにNHK合唱コンクールで八戸市代表校の栄誉に輝き、当時の音楽教育に大きな波紋を投じたことが特筆される。また、三十二年に私が司会し、母と子の座談会を開き転入生との交流を図った。当時八戸に火力発電所が誘致され、競馬場跡地にそのアパートが建った。根城はそれ以来大きく変ったように思うが、九州から転入した子どもたちは教室にストーブがあることが、とても珍しかったらしい。当日は主にお互いの言葉の問題が出たが、あの人達は今どうしているかなあーと、懐しさがしきりである。
小笠原源作
薄暗い教室の片隅に木枠で鉄鍋の火鉢、小さな手を寄せ合う、内気でいじらしい子は火鉢の側に寄りつく場もなく幾度か釘を打ち直した腰掛でギシギシと音をきしませている。
つぎはぎの床板がうるしみがきでピカピカの廊下を、片足が不自由な小使さんが藁草履をつっかけ歩調に合わせて振る手提げの鐘。ガランガランが始業の合図だ。ベルチャイム、普通の教室には電気の配線すらない。特定の教室に先生が両足で踏み踏み反動をとりながら唱歌を教えるオルガン一台が施設だ。弁当持参の生徒は競って「保温庫」の特等席を確保し合う、少しの炭火のぬくもりに幾段かの棚のなるべく下段、熱源に近い位置を選ぶ。いつかは、こんがりのおこげご飯になりハンカチが焼け焦げていた。
そんな設備環境の中にあって将来は総理大臣になりたいと未来の大きな夢と希望をつづる生徒は多かった。
昭和十年尋常科一年入学。
柏木定蔵
日立市鮎川町在住
対話 ごみ拾い
A 元根城小学校長
B そ の 友 人
B「君は根城小学校の校長として在職中、どんなことをやったのかい」
A「まことに恥ずかしい次第だが、別にこれと言って」
B「それでは校長の席を汚したと言われても文句はあるまいね」
A「正に其の通りだ。面目ない」
B「でも君、何か一つ位は些少なことであったにしろ君の一点と言ってよい仕事をやったろ」
A「そう言われて思い出した。それは俺が毎日のように校庭や校舎のごみ拾いを懸命にやったことだ。その執拗さに教員達も辟易して、うちのおやじの前世はおはらい屋ではなかったろうか などと陰口を叩いたもんだ」
B「ハッハッハ。たしかに正鵠を射た批評だったね。それにしても一校の校長がごみ拾いに明け暮れしたとは、どうもいただけないな」
A「うん。でも俺にはその外のことが何一つとして出来なかったよ。済まん」
こう言い終るとAは禿頭をなぜ乍ら、何かブツブツつぶやいているので、Bがそれとなく耳を傾けたら、
A「紅塵を切断す水一渓」云々と聞きとれた。
馬の糞さらい
金子善兵衛
今では馬のくそは殆んど見かけることがなくなったが、昭和の十七、八年頃はまだ郊外の路上ではよく見かけたものであった。
「いとこと馬のくそアどこさ行ってもある」というたとえは、まだぞのまま生きた言葉であった。
高等科の農業の時間に、馬のくそさらいに出かけることになった。生徒たちの家からかり集めた何台かのリヤカーを引いて校門を出た。云うまでもないことだが、馬のくそは学校農場の肥料にするためのものだった。杉山の通りから売市の通りに出て、更に長根を廻って学校に帰ったが、予想していた程の収穫はなかった。或は村の人達がさらってしまった後を廻ったからではなかったかとも思ったりした。
馬のくそさらいは生れて初めての経験だった。生徒と一しょとはいいながら、馬のくそのリヤカーの後をたって歩くのは何とななく気恥しい思いがしてならなかった。だが、だんだん歩いていて目的の馬のくそがあまり見当らないと、気恥しさよりも、もの足りなさを感じてきた。村中を歩き回っていて、道路端の農家の入り口に、馬のくそが沢山積み溜めてあるのが時々眼に止った。それも初めは気にも止めなかったが、馬のくそがあまり落ちて居なくなって来ると、それが眼を引くようになって来た。そして積み溜められている馬のくそを見るたびに、それがとても羨ましく思えてならなかった。あれの半分でもいゝからほしかったなあとさえ思うようになっていた。
校門を通って校庭にはいった時には、出かけた時の恥しさなどはもう何処かへ消え去ってしまっていて、馬のくその山だけが眼に残っていた。
思い出
川井勝美
大正十五年三月師範学校を卒業して、売市尋常小学校訓導月給四十七円也の辞令をいただいたのが教育生活への第一歩でした。長根の香月園から売市の村に入り程なく小さな神社の前に平屋建ての古びた学校がありました。校長先生以下四人の職員で複式学級のある小さい学校でした。校長住宅で自炊生活がはじまりました。隣り近所の方々は皆親切にしてくださいました。校庭が狭かったので、子供たちと思う存分走りまわることが出来ませんでしたが、砂場をつくったり、バスケット台を備えつけて遊んだものでした。根城街道に学校の敷地が決って(下亀さんの向い)青年団や処女会が中心になって畑を整地しトラックを作り運動会をやったときは、村をあげてのお祭になったことが思い出されます。六年を卒業した子供たちは高等科へ進むには八戸町の吹上高等小学校へ通学していましたが、八戸では生徒数が多くなってきたことから他町村の子供は入学出来なくなりました。舘村の高等科のある学校は明治小学校だけでしたので、村の方々は大へん心配して村へお願いし高等科併置の運動をはじめました。議員の方や学務員の方々のお骨折りによって、とうとう設置することに決りました。父兄も子供たちも大へんよろこびました。この喜びを記念して、昭和十年高等科第一回卒業生で十年会という同級会を組織し、毎月いくらかづつの積立を約束し実行しました。それが実を結び立派な校旗となって寄贈されました。子供たちの学校に対する愛情と先生方と一体になって楽しい学校生活が出来た当時の姿が脳裏に深くきざまれています。父兄の方々も教育に対する関心が高く壮年団を中心に青年団、処女会、青年訓練所も活発に活動しました。私も若者たちと一緒になって勉強し、いろいろ教えられたことを思い出しなつかしい限りです。
売市小学校在職十一年、四代の校長先生(佐々木富三、柳川保蔵、西川政三、梁瀬真)はじめ諸先生方のご指導をうけてどうやら一人前の教師として身を立てることが出来たことは、村の方々や先輩の方々のご厚情の賜と深く感謝申し上げています。創立百周年の記念式典をお祝い申し上げ、根城小学校の限りない発展を心からお祈り申し上げて筆をおく。
意欲が満ちていた学校
川守田 正
昭和四十年四月、教頭として赴任した。下斗米校長も同時に着任された。校長、教頭が変わると学校内の空気が相当に変わるものであるが、それ迄通りに運営することができた。それは、前教頭竹本完造先生の記録簿があったからである。三年間一日も洩らさず、緬密な企画と反省を記入していたので、それを参考にして運営することができたのである。これを受けて、当時の各部門の行事計画は凡て緬密なものであった。今でも、当時の水泳実施要項、交通安全指導計画、写生会計画を手元において参考にしている。
この時期は、児童増に伴う校舎増築期で古い建物は次々に新しい校舎に変わり、地域では土地造成が行われ、住宅が続々と建てられていた。これが地区民を刺激し、すべてに意欲的であった。PTAでも趣味展や研究会、クラブ活動、子ども会結成など目ざましい活動が行われたのを思い出している。
それから十年、校舎が変わり、地域の様相が近代的になった。しかし、根城の人の心は変わらない。相変らずの意欲と協力心がみなぎっている。これが根城の伝統であり、輝かしい未来の基となるであろう。
百周年を期に、根城小と根城地区が、更に発展することを祈っております。
高坂しのぶ
昭和二十六年五月、歴史と伝統の輝く母校でもある根城小学校に、初代の事務職員として勤務させていただきました。
当時の校舎は桜並木、緑の芝生、長い土手に囲まれた木造校舎とすばらしい学園で、生徒たちは、まことにのびのびと育ち、体育の時間ともなるとよく競馬場まで走っていったようです。また、笹子も根城小の分校でしたので、私と校長とあの山道を越えて視察などに出むき、時には村の人たちと雉のだしの手打ちそばをやり大鍋でつつきあったものです。
事務としての一年間は毎日外歩きで不得手な自転車での用たし、二、三度ころんで帰ったこともありました。しかし、十五、六人の職員はいつも校長も一緒の職員室でなごやかに迎えてくれました。
十三年間お世話になり、三十九年に八戸小学校に転任を命ぜられ、落成されたばかりの体育館での退任式の寂しさは今も脳裡に残っています。
二十一世紀にふさわしい校風を備えたわが母校、恩師の根城小学校の百周年を心からお祝いいたします。
母校「根城」に誇りをもって
坂本美洋
根城小学校卒業以来、十三年を経た今でも日常生活の中で思い出すのは校歌である。在学中は、学校生活の中心であり、卒業後は心のよりどころとして私の胸に生きている。歌詞は「根城小の子供達よこう進んで欲しい」と願う先生、父兄の思いをこめて作られている。在校時代は、ただ元気よく歌っていた校歌であったが、今考えてみると短い歌詞の中にこの根城小の生活環境をみごとにうたい上げている。
これらの歌詞を見ただけで、「根城」とは南部八戸藩のお城があった八戸の中心地であり、川が流れて岸辺には駒がないて、りんごの実る美しい街であることがわかる。そしてまた、卒業後は清い未来に進んで欲しい。正しい人に育って欲しい。勤労に手をしたしませて明るい郷土をつくって欲しいという願いが心を打つ。
私の場合、母校の良さは卒業してすぐには実感としてよく理解できなかったが、年月が経ち、故郷を遠く離れて暮らし、両親を想い、故郷の山河を想いうかべ、そして母校を懐しんだ。それは、楽しく生活している時よりも、苦しくつらい時であった。母校で学んでいた頃、夢をもち、未来への期待に胸をはずませていたことを想い出しくじけてはダメだ。負けてはならないと自分にいい聞かせてきた。親と、母校の有難さは遠く離れて年月を経るほど胸にせまってくるものだと感じている。
母校で忘れられないのは、今月まで御指導を賜った先生方である。学校教育の中でやはり小学校の教えが一番大切であり、人生の進む方向や価値観の基本は大かた身につくものである。今では担任の先生から叱られた事、ほめられた事を想い出し、「根城小学生だという事に誇りを待ちなさい」といわれた事は忘れられない。卒業後もその先生方とおつき会いができる事を大変幸せなことと思っている。
自分の母校を懐しみ、校歌を堂々と歌いその校歌に負けないように生きていくのが、卒業生の務めではないかと思う 私も在校生の皆さんに遅れないように、自分の社会生活の中で「根城魂」を発揮して進んでいくつもりである。
沢田芳美
天命を知る事なく何時しか六十の声を耳にする年になり、当時の小学校の様子を思いだすまま綴る。私等の学校は村の中央にあって、売市尋常小学校であった。平屋の校舎で四教室あり、中央は教員室で、右の第二教室は一二年の教室で、左側の二教室は三、四年と五、六年生で、一教室に二学級人っていた。一年生の時はノートは使わず、石板と石筆で書いて勉強した。二年生まで荒木田先生から教わった。三、四年は川井先生で五、六年は松村先生であった。当時女の生徒で赤ん坊をおんぶして登校する人もめずらしくなかった。
先生は、校長とも四人で、小使い一人、全校生徒は百数十人位であったと思う。授業始終はガランガランと小使さんの振る鐘の音で始まる。式典の時は、一二年の教室の境の戸板を外して式場に使用した。雨の日は体操はできなく実習をした。放課後天気のよい日は、川井先生と共に皆で今の校庭敷地の草取りをした時もある。
振りかえって見ると、当時私等は元気一ぱいで勉強もし、又けんかもした。感慨無量である。
感謝
中居万里子
その日は朝からみぞれだった。窓ぎわの生徒が机の蓋を窓に立てた。しかし、ものの一分とたっていなかった。外からふきこむ雨まじりの雪は六十三名の教室に吹きつけてきた。先生は仕方なく、机を廊下側につめて並ばせた。窓の下はますます孤を描いて白くなっていった。わら半紙を綴ったプリントもパサ、パサと音を立てて浮き上がる。それが二人に一冊の大切な教科書であった。それでもみんなと一緒にいると心がぬくもって来るようで、とてもうれしかった事を覚えている。
国民学校一年生で終戦を迎え、まだまわりのことは理解出来なくても、物資が極度に不足な事はその不自由さからわかっていた。「親は食べさせる事に、先生は教える事に一生懸命だったなあ。」
と、これが私達の先生と、親への感謝の念を待ったことばである。そして、今もその影を見た時、体を張って生きて行かなければならないと迫られる。
古い手帳から
中村栄太郎
古い手帳が見つかりましたので、参考までに記してみます。昭和五年~六年の間のぺージに記入されており、正確な年月日は不明ですが「春工事」と記されていますので、新年度早々の意味かと推察します。
「施設について」
豊巻大工の下請 個人 中村栄太郎
工事費 計 弐百四拾六円四拾五銭也
内 訳
校舎基礎工事 ・講堂・便所工事含む
土手(築堤工事)
門柱工事 モルタール仕上。
暗渠工 (正門入口)
工事監督には当時村会議員の
下斗米亀次郎、川口福次郎、田村三之丞、
赤坂常吉の諸氏。
工事に参加した人達
北村幸吉、市川市太郎、石橋岩太郎、大西市太郎、中村岩太郎、山村武蔵、売市金三郎。
その翌年、
「奉安殿の工事に着工」
八戸尋常高等小学校が吹揚移転に伴い、舘村村長が交渉して、売市尋常高等小学校で貰い受けることになった。
紋付羽織はかま正装し(氏名は忘れました)錠を開け、最敬礼して引き渡された。作業にとりかかり、ジャッキで揚げ、タイヤ付車輪の馬車に積み、運搬した。
正門が完成していたが、入口がせまそうなので、下亀醤油店前の入口から校庭に人った。すでに基礎工事が出来ており、その架台に乗せた。
下校時には立ち止まって必ず一礼した。
「植樹の寄附」
新組~桜の木 校内一円
売市~梅の木 主として土手のそば、奉 安殿の周辺。
橋本正次様より貰い受け、売市の人たちが移植。
中村繁蔵記
・柳川保蔵校長の時、新校舎へ移転。
・西川政三校長、落成式を催した。
・舘村青年団売市支部長 中村繁蔵
校舎移転に伴い、売市青年団員が、机・オルガン・その他備品等の移転手伝いをした。当時移転費がなかったため。
・プラタナスの植樹、売市消防団幹部有志が寄附した。
・校庭通路補修
新設校のため、雪解け、降雨にどろんこになり、その都度、長根の佐々木与吉氏が馬車で川砂等を運搬し、奉仕した。
中村栄太郎記
もう百才なんです。根城学区の誰よりも長生きなんですの。九十七才、九十八才と二年間。
先生方も元気でね。千四百余名の根城っ子のため渡り廊下が完成し、玄関、築山、美しい木、花、水銀灯、グリーンベルト、桜の老木も黒土を盛られて大喜び、教室のタイルを一枚づつ貼ってくれ嬉しかったですよ。サッカー大会で先生方、大きな声で応援しましてね、見事優勝しましたよ。
すばらしい子どもたちで、愈々発展していきますよ。見ていてね。
私を育ててくれた根城小
岩藤森太郎
太平洋戦争も末期昭和二十年四月、学校卒業したての新米教員が、当時の根城国民学校に赴任し、以来十四年間在職いたしました。いま、当時のアルバムや日記をみますと、その頃のことが鮮明に頭に浮かんでできます。
戦中、終戦時の慌しい世相でしたが、緑の多い静かな環境の中に、こじんまりとした暖かい家族的な雰囲気のある学校で、のびのびと、思ったことを存分にやらせてもらい誠に楽しい思い出ばかりです。
その頃は、食糧増産ということで、授業より園芸作業の方が多かったようで、白山や高館飛行場の大豆植え、校庭や裏庭のじゃがいも作り等、児童とともに肥おけを担ぎモツタをふるい汗を流しました。当時四年生八十二名の担任でしたが、競争で高等科に負けない位の収穫をあげました。また、曜日を決めて、肥料としての馬糞集めをさせられ、集めた量をちりとり○杯と収集日誌に書いて校長に報告、四年生はいつも収集量が多く校長にほめられましたが、腕白連中が競馬場の厩舎に忍び込み、馬糞を失敬していたこと。その頃のことだけで、珍談奇談一杯というところです。
昭和二十四年五月二十八日、終戦第一回の修学旅行を企画し、日帰りの盛岡旅行、今とちがって添乗員もなくすべてを教師がやったその苦労。昭和二十八年から二泊三日の函館旅行をしたときの楽しさ。
昭和二十六年、当時の川村義一校長先生の時苦労してピアノを購入していただき、翌年NHK唱歌コンクール県予選三位に入賞したこと。校歌制定、昭和二十八年の七十周年記念式典、学校火災等、十四年間の思い出の数々は紙面に書きつくせません。
私白身を育ててくれた根城小学校、根城学区に居住している者として、根城小学校の益々のご発展と、明るい未来を期待しております。
心から百周年おめでとうと申し上げます。
思い出
大久保好男
昭和二十七年二月二日、待望の新校舎落成式の日、多くのお客さまをお迎えし、みんなの顔は緊張の中にも笑みがこぼれおちそうでした。部落一丸となっての労苦が、ここに結実したのです。私達は、新校舎の玄関に泥を落すまいと気をつかい、廊下はすべらないようにと静々歩き、教室の机や椅子には、恐る恐る手をふれてみました。その感触、その感激、終生忘れることはできないでしょう。
当時、先生は渡辺先生お一人で、私達は常に二十人前後はいました。先生が出張やお客さん等で多忙の時は、奥さんが習字等を指導して下さいました。秋には、私達で薪切りをして冬の準備をしましたし、本校等への行事には歩いて参加する等現在とは相当様子が達うようです。
落成記念に植えた校庭の桜を見るたびに、投じのことがなつかしく思い出されます。
感謝の思い出
大橋与一郎
根城小学校に赴任したのは、昭和二十五年だからすでに二十数年の歳月は流れた。
当時はピアノも図書室もない小規模校で、しかも農繁期休業という今では考えられないような休業日があったと記憶している。烏兎匆匆(うとそうそう・歳月があわただしく過ぎ去るたとえ)、この学区の著しい変貌を見る時全く隔世の感に打たれる。
私は末だ若かったし、また十年間もお世話になったものだから、本当に根城で鍛えられた、まさに教師としての開眼期であったといっても過言ではない。特にしあわせなことは、よき先輩、よき同僚、よき学区民に恵まれたことである。
社会科教育の偉大な前駆者松木秀生先生県下はもとより全国的にも感動の教育で名声の高い川村義一先生、崇高な教育哲学の実践者柏木定蔵先生、八戸の統計教育と鼓笛隊の草分けでもある久保栄先生をはじめ教育に情熱を傾けた数々の同僚の先生方との邂逅(かいこう・思いがけなく出あうこと。めぐりあうこと)ともいうべき出合いは、すばらしい人脈の秀峰を仰ぎ見る思いで感謝に堪えない。さらにピアノ購入、校舎増築で夜遅くまで談論風発を重ねたPTAの方々や、物心両面の援助を惜しまなかった婦人会の方々の懐しい顔が浮かび、とどまる所を知らない。
二十六年にピアノ購入運動と同時に合唱練習に取り組み、ついにNHK合唱コンクールで八戸市代表校の栄誉に輝き、当時の音楽教育に大きな波紋を投じたことが特筆される。また、三十二年に私が司会し、母と子の座談会を開き転入生との交流を図った。当時八戸に火力発電所が誘致され、競馬場跡地にそのアパートが建った。根城はそれ以来大きく変ったように思うが、九州から転入した子どもたちは教室にストーブがあることが、とても珍しかったらしい。当日は主にお互いの言葉の問題が出たが、あの人達は今どうしているかなあーと、懐しさがしきりである。
小笠原源作
薄暗い教室の片隅に木枠で鉄鍋の火鉢、小さな手を寄せ合う、内気でいじらしい子は火鉢の側に寄りつく場もなく幾度か釘を打ち直した腰掛でギシギシと音をきしませている。
つぎはぎの床板がうるしみがきでピカピカの廊下を、片足が不自由な小使さんが藁草履をつっかけ歩調に合わせて振る手提げの鐘。ガランガランが始業の合図だ。ベルチャイム、普通の教室には電気の配線すらない。特定の教室に先生が両足で踏み踏み反動をとりながら唱歌を教えるオルガン一台が施設だ。弁当持参の生徒は競って「保温庫」の特等席を確保し合う、少しの炭火のぬくもりに幾段かの棚のなるべく下段、熱源に近い位置を選ぶ。いつかは、こんがりのおこげご飯になりハンカチが焼け焦げていた。
そんな設備環境の中にあって将来は総理大臣になりたいと未来の大きな夢と希望をつづる生徒は多かった。
昭和十年尋常科一年入学。
柏木定蔵
日立市鮎川町在住
対話 ごみ拾い
A 元根城小学校長
B そ の 友 人
B「君は根城小学校の校長として在職中、どんなことをやったのかい」
A「まことに恥ずかしい次第だが、別にこれと言って」
B「それでは校長の席を汚したと言われても文句はあるまいね」
A「正に其の通りだ。面目ない」
B「でも君、何か一つ位は些少なことであったにしろ君の一点と言ってよい仕事をやったろ」
A「そう言われて思い出した。それは俺が毎日のように校庭や校舎のごみ拾いを懸命にやったことだ。その執拗さに教員達も辟易して、うちのおやじの前世はおはらい屋ではなかったろうか などと陰口を叩いたもんだ」
B「ハッハッハ。たしかに正鵠を射た批評だったね。それにしても一校の校長がごみ拾いに明け暮れしたとは、どうもいただけないな」
A「うん。でも俺にはその外のことが何一つとして出来なかったよ。済まん」
こう言い終るとAは禿頭をなぜ乍ら、何かブツブツつぶやいているので、Bがそれとなく耳を傾けたら、
A「紅塵を切断す水一渓」云々と聞きとれた。
馬の糞さらい
金子善兵衛
今では馬のくそは殆んど見かけることがなくなったが、昭和の十七、八年頃はまだ郊外の路上ではよく見かけたものであった。
「いとこと馬のくそアどこさ行ってもある」というたとえは、まだぞのまま生きた言葉であった。
高等科の農業の時間に、馬のくそさらいに出かけることになった。生徒たちの家からかり集めた何台かのリヤカーを引いて校門を出た。云うまでもないことだが、馬のくそは学校農場の肥料にするためのものだった。杉山の通りから売市の通りに出て、更に長根を廻って学校に帰ったが、予想していた程の収穫はなかった。或は村の人達がさらってしまった後を廻ったからではなかったかとも思ったりした。
馬のくそさらいは生れて初めての経験だった。生徒と一しょとはいいながら、馬のくそのリヤカーの後をたって歩くのは何とななく気恥しい思いがしてならなかった。だが、だんだん歩いていて目的の馬のくそがあまり見当らないと、気恥しさよりも、もの足りなさを感じてきた。村中を歩き回っていて、道路端の農家の入り口に、馬のくそが沢山積み溜めてあるのが時々眼に止った。それも初めは気にも止めなかったが、馬のくそがあまり落ちて居なくなって来ると、それが眼を引くようになって来た。そして積み溜められている馬のくそを見るたびに、それがとても羨ましく思えてならなかった。あれの半分でもいゝからほしかったなあとさえ思うようになっていた。
校門を通って校庭にはいった時には、出かけた時の恥しさなどはもう何処かへ消え去ってしまっていて、馬のくその山だけが眼に残っていた。
思い出
川井勝美
大正十五年三月師範学校を卒業して、売市尋常小学校訓導月給四十七円也の辞令をいただいたのが教育生活への第一歩でした。長根の香月園から売市の村に入り程なく小さな神社の前に平屋建ての古びた学校がありました。校長先生以下四人の職員で複式学級のある小さい学校でした。校長住宅で自炊生活がはじまりました。隣り近所の方々は皆親切にしてくださいました。校庭が狭かったので、子供たちと思う存分走りまわることが出来ませんでしたが、砂場をつくったり、バスケット台を備えつけて遊んだものでした。根城街道に学校の敷地が決って(下亀さんの向い)青年団や処女会が中心になって畑を整地しトラックを作り運動会をやったときは、村をあげてのお祭になったことが思い出されます。六年を卒業した子供たちは高等科へ進むには八戸町の吹上高等小学校へ通学していましたが、八戸では生徒数が多くなってきたことから他町村の子供は入学出来なくなりました。舘村の高等科のある学校は明治小学校だけでしたので、村の方々は大へん心配して村へお願いし高等科併置の運動をはじめました。議員の方や学務員の方々のお骨折りによって、とうとう設置することに決りました。父兄も子供たちも大へんよろこびました。この喜びを記念して、昭和十年高等科第一回卒業生で十年会という同級会を組織し、毎月いくらかづつの積立を約束し実行しました。それが実を結び立派な校旗となって寄贈されました。子供たちの学校に対する愛情と先生方と一体になって楽しい学校生活が出来た当時の姿が脳裏に深くきざまれています。父兄の方々も教育に対する関心が高く壮年団を中心に青年団、処女会、青年訓練所も活発に活動しました。私も若者たちと一緒になって勉強し、いろいろ教えられたことを思い出しなつかしい限りです。
売市小学校在職十一年、四代の校長先生(佐々木富三、柳川保蔵、西川政三、梁瀬真)はじめ諸先生方のご指導をうけてどうやら一人前の教師として身を立てることが出来たことは、村の方々や先輩の方々のご厚情の賜と深く感謝申し上げています。創立百周年の記念式典をお祝い申し上げ、根城小学校の限りない発展を心からお祈り申し上げて筆をおく。
意欲が満ちていた学校
川守田 正
昭和四十年四月、教頭として赴任した。下斗米校長も同時に着任された。校長、教頭が変わると学校内の空気が相当に変わるものであるが、それ迄通りに運営することができた。それは、前教頭竹本完造先生の記録簿があったからである。三年間一日も洩らさず、緬密な企画と反省を記入していたので、それを参考にして運営することができたのである。これを受けて、当時の各部門の行事計画は凡て緬密なものであった。今でも、当時の水泳実施要項、交通安全指導計画、写生会計画を手元において参考にしている。
この時期は、児童増に伴う校舎増築期で古い建物は次々に新しい校舎に変わり、地域では土地造成が行われ、住宅が続々と建てられていた。これが地区民を刺激し、すべてに意欲的であった。PTAでも趣味展や研究会、クラブ活動、子ども会結成など目ざましい活動が行われたのを思い出している。
それから十年、校舎が変わり、地域の様相が近代的になった。しかし、根城の人の心は変わらない。相変らずの意欲と協力心がみなぎっている。これが根城の伝統であり、輝かしい未来の基となるであろう。
百周年を期に、根城小と根城地区が、更に発展することを祈っております。
高坂しのぶ
昭和二十六年五月、歴史と伝統の輝く母校でもある根城小学校に、初代の事務職員として勤務させていただきました。
当時の校舎は桜並木、緑の芝生、長い土手に囲まれた木造校舎とすばらしい学園で、生徒たちは、まことにのびのびと育ち、体育の時間ともなるとよく競馬場まで走っていったようです。また、笹子も根城小の分校でしたので、私と校長とあの山道を越えて視察などに出むき、時には村の人たちと雉のだしの手打ちそばをやり大鍋でつつきあったものです。
事務としての一年間は毎日外歩きで不得手な自転車での用たし、二、三度ころんで帰ったこともありました。しかし、十五、六人の職員はいつも校長も一緒の職員室でなごやかに迎えてくれました。
十三年間お世話になり、三十九年に八戸小学校に転任を命ぜられ、落成されたばかりの体育館での退任式の寂しさは今も脳裡に残っています。
二十一世紀にふさわしい校風を備えたわが母校、恩師の根城小学校の百周年を心からお祝いいたします。
母校「根城」に誇りをもって
坂本美洋
根城小学校卒業以来、十三年を経た今でも日常生活の中で思い出すのは校歌である。在学中は、学校生活の中心であり、卒業後は心のよりどころとして私の胸に生きている。歌詞は「根城小の子供達よこう進んで欲しい」と願う先生、父兄の思いをこめて作られている。在校時代は、ただ元気よく歌っていた校歌であったが、今考えてみると短い歌詞の中にこの根城小の生活環境をみごとにうたい上げている。
これらの歌詞を見ただけで、「根城」とは南部八戸藩のお城があった八戸の中心地であり、川が流れて岸辺には駒がないて、りんごの実る美しい街であることがわかる。そしてまた、卒業後は清い未来に進んで欲しい。正しい人に育って欲しい。勤労に手をしたしませて明るい郷土をつくって欲しいという願いが心を打つ。
私の場合、母校の良さは卒業してすぐには実感としてよく理解できなかったが、年月が経ち、故郷を遠く離れて暮らし、両親を想い、故郷の山河を想いうかべ、そして母校を懐しんだ。それは、楽しく生活している時よりも、苦しくつらい時であった。母校で学んでいた頃、夢をもち、未来への期待に胸をはずませていたことを想い出しくじけてはダメだ。負けてはならないと自分にいい聞かせてきた。親と、母校の有難さは遠く離れて年月を経るほど胸にせまってくるものだと感じている。
母校で忘れられないのは、今月まで御指導を賜った先生方である。学校教育の中でやはり小学校の教えが一番大切であり、人生の進む方向や価値観の基本は大かた身につくものである。今では担任の先生から叱られた事、ほめられた事を想い出し、「根城小学生だという事に誇りを待ちなさい」といわれた事は忘れられない。卒業後もその先生方とおつき会いができる事を大変幸せなことと思っている。
自分の母校を懐しみ、校歌を堂々と歌いその校歌に負けないように生きていくのが、卒業生の務めではないかと思う 私も在校生の皆さんに遅れないように、自分の社会生活の中で「根城魂」を発揮して進んでいくつもりである。
沢田芳美
天命を知る事なく何時しか六十の声を耳にする年になり、当時の小学校の様子を思いだすまま綴る。私等の学校は村の中央にあって、売市尋常小学校であった。平屋の校舎で四教室あり、中央は教員室で、右の第二教室は一二年の教室で、左側の二教室は三、四年と五、六年生で、一教室に二学級人っていた。一年生の時はノートは使わず、石板と石筆で書いて勉強した。二年生まで荒木田先生から教わった。三、四年は川井先生で五、六年は松村先生であった。当時女の生徒で赤ん坊をおんぶして登校する人もめずらしくなかった。
先生は、校長とも四人で、小使い一人、全校生徒は百数十人位であったと思う。授業始終はガランガランと小使さんの振る鐘の音で始まる。式典の時は、一二年の教室の境の戸板を外して式場に使用した。雨の日は体操はできなく実習をした。放課後天気のよい日は、川井先生と共に皆で今の校庭敷地の草取りをした時もある。
振りかえって見ると、当時私等は元気一ぱいで勉強もし、又けんかもした。感慨無量である。
感謝
中居万里子
その日は朝からみぞれだった。窓ぎわの生徒が机の蓋を窓に立てた。しかし、ものの一分とたっていなかった。外からふきこむ雨まじりの雪は六十三名の教室に吹きつけてきた。先生は仕方なく、机を廊下側につめて並ばせた。窓の下はますます孤を描いて白くなっていった。わら半紙を綴ったプリントもパサ、パサと音を立てて浮き上がる。それが二人に一冊の大切な教科書であった。それでもみんなと一緒にいると心がぬくもって来るようで、とてもうれしかった事を覚えている。
国民学校一年生で終戦を迎え、まだまわりのことは理解出来なくても、物資が極度に不足な事はその不自由さからわかっていた。「親は食べさせる事に、先生は教える事に一生懸命だったなあ。」
と、これが私達の先生と、親への感謝の念を待ったことばである。そして、今もその影を見た時、体を張って生きて行かなければならないと迫られる。
古い手帳から
中村栄太郎
古い手帳が見つかりましたので、参考までに記してみます。昭和五年~六年の間のぺージに記入されており、正確な年月日は不明ですが「春工事」と記されていますので、新年度早々の意味かと推察します。
「施設について」
豊巻大工の下請 個人 中村栄太郎
工事費 計 弐百四拾六円四拾五銭也
内 訳
校舎基礎工事 ・講堂・便所工事含む
土手(築堤工事)
門柱工事 モルタール仕上。
暗渠工 (正門入口)
工事監督には当時村会議員の
下斗米亀次郎、川口福次郎、田村三之丞、
赤坂常吉の諸氏。
工事に参加した人達
北村幸吉、市川市太郎、石橋岩太郎、大西市太郎、中村岩太郎、山村武蔵、売市金三郎。
その翌年、
「奉安殿の工事に着工」
八戸尋常高等小学校が吹揚移転に伴い、舘村村長が交渉して、売市尋常高等小学校で貰い受けることになった。
紋付羽織はかま正装し(氏名は忘れました)錠を開け、最敬礼して引き渡された。作業にとりかかり、ジャッキで揚げ、タイヤ付車輪の馬車に積み、運搬した。
正門が完成していたが、入口がせまそうなので、下亀醤油店前の入口から校庭に人った。すでに基礎工事が出来ており、その架台に乗せた。
下校時には立ち止まって必ず一礼した。
「植樹の寄附」
新組~桜の木 校内一円
売市~梅の木 主として土手のそば、奉 安殿の周辺。
橋本正次様より貰い受け、売市の人たちが移植。
中村繁蔵記
・柳川保蔵校長の時、新校舎へ移転。
・西川政三校長、落成式を催した。
・舘村青年団売市支部長 中村繁蔵
校舎移転に伴い、売市青年団員が、机・オルガン・その他備品等の移転手伝いをした。当時移転費がなかったため。
・プラタナスの植樹、売市消防団幹部有志が寄附した。
・校庭通路補修
新設校のため、雪解け、降雨にどろんこになり、その都度、長根の佐々木与吉氏が馬車で川砂等を運搬し、奉仕した。
中村栄太郎記
これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 2
南売市町内会創立30周年に当り
川口 喜助
今から五十年ほど前の風景をスケッチで綴って見たいと思います。当時は舘村売市宇売市三十八番地と四十一番地の境であるこの道を「マイミツコ」と称した前の道のことだろう。私の通学路でもあり、又遊び場所でもあった。この絵の左側の大木は高崎さんの田屋欅の大木、右側の杉と欅は川口喜四郎さん宅の大木で、左側の茅葺き屋根は当時中川さんの住いであった。この道の突き当りは幸崎さんの住いであった。
道の途中から左へ入った所にえんぶり神様があり、その祠そばにも欅の大木があった。売市に町の商家の田屋と言う屋敷が多く、どの屋敷にも樹が沢山あった。
畑には作間路があり、家の前を村人が通り抜けしても大して咎める人もなかった。今のように道路が整理されていないので、人の家の前や横を通っていた。
やがて戦争が強まり舟の材料に徴収され、切り倒された。今の人達には想像もつかないような風景があった現在のまほろば幼稚園の通りである。
.三十周年記念によせて 高崎 裕允
昭和四十五年杉山に売市幼稚園を開園、昭和五十二年にまほろば幼稚園と園名を変更し、地域の皆様のご協力を頂き、今年二十五年目を迎えた。
二クラスで始まった幼稚園も、現在七クラス二百四十名が在園している。
幼い頃、まほろば幼稚園の辺りは一面の柿畑であった。果樹に造詣が深かった祖父が明治三十八年、日露戦争で日本が大勝利をおさめて帰還途中、朝鮮半島より長崎に上陸した際に、巨大柿の特産地より苗木を買い求め、杉山の畑に百本植えたものである。柿畑の周囲には丹波栗が植えられ、畑の入口から幸崎さんまでは、欅の巨木が並んでいたが、先の大戦に船材として供出され、鮫へ運ばれた。
白山の小川は今の桜木町あたりでせき止められ、上堤と下堤に造られ、冬には村人総出で氷切りをし、八戸水利組合の氷庫に保存した。氷切作業は、村の年中行事であり部落の唯一の現金収入源であった。
柿畑の一角にえんぶり小屋があった。大正年間に、祖父が村の長老達と計り、えんぶり神様を祀り、村の鎮守の宮とした。荒谷のえんぶりは殿様より唯一帯刀を許され、今も売市えんぶりとして伝統が受け継がれている。
まほろば幼稚園では開園以来毎年2月には売市のえんぶりを鑑賞させていただいているが、最近ではエンコエンコや、鯛釣り舞に卒園生の顔も見られ、また8月の三社大祭には売市山車組に、お囃しや引子として園児や卒園生が参加している。
明治以来、周辺の移り変りを見てきた柿の木は、僅かに幸崎さんとまほろば幼稚園に残るだけとなったが、秋にはたわわに実をつける。今後も地域の益々の発展を見守り続けてほしいものだ。
.中村繁蔵さんの思い出 東野 徳夫
わが家は、南売市町内に転入し二十八年になります。私の記憶の中の中村さんは町内会長、農業委員等の要職を勤められた方と伺って居り私が会った頃は、七十才位に見受けられました。農家で屋敷が広く、周囲は槻木や杉、栗の大木で囲まれてました。
屋敷が広いので、貸し家や菜園があり、いずれも広々として近所の子供たちの、かっこうの遊び場となっていました。
家の前の畑の奥は耕作しないまま野原となっていて、ここでは昆虫採集からキャッチボールなどなんでも遊べました。中村さん夫婦は自分の土地を近所の子供たちの遊び場のままにし、元気に飛びまわる子供の姿を笑顔で見守りながら、静かに広場を見廻り、小石やガラスなどの破片を拾う姿に接し、私は感勤し、スイスの教育者のペスタロッチの物語を連想しながら感謝していました。
私の所から新組町に出る近道は、中村さんの入口の2本の槻木から貸家の前の杉並木を通り、屋敷に入ると、栗の大木が3本あり、屋敷を抜けた畑頭は、また杉並木でした。隣地との境は、八戸市の木になっている、イチイが植えてありました。その脇の小道はやがて売市旧墓地にでた。そこは旧五戸街道の入口にあたり、大橋理容所や住吉食堂のところに出る道でした。
ある日この近道を歩いて来たら、中村さんが葱畑の端に座っていて、日焼した顔に鉢巻がよく似合っていました。挨拶を交した私は、立ち止りほんのひとときでしたが、お話を伺った事があります。中村さんはすでに町内会長も辞し、毎日屋敷内を見廻ったり、菜園の仕事をしてる様子でした。
中村さんは、ご自分の父親について、とつとつと語られた。病人はよく幼い日の思い出の事を話すとか、その話の中に幼少の頃の果物やおかずのことを言い出し、何かと中村さんに要求したという、今日のように食品の保存や加工が進んでいなかった。それでも後いくばくも生きられないと思うと、食べたいと言うものは何であれ一生懸命さがして歩いたそうです。夏の柿、春の秋刀魚、冬の苺等いろいろな店を訪ね聞き回りした話でした。
私は話終わって自分の家へ向かいながら本当に優しい人だなあ、いい所に転入して来たとしみじみ思ったものです。
今は亡き中村さん、その屋敷跡地のほとんどは、杉山公園用地になっております。私は犬と毎朝散歩しながら、あの日焼けしたまん丸なお顔を思い浮かべております。
公園のあちらこちらから子供達を見守って下さっている、その優しさは接したみなさんの胸にきっと残っていると思っています。
町内会に寄せて
松沢 初枝
昭和十四年、舘村立明治尋常高等小学校に転任になり、終戦すぎの21年まで勤務しました。その当時舘村には明治小、田面木小、売市小と三校がありました。三校は青年学級、処女会など、村内の学事会で時折り交流があり、町内の方々とも顔を合わせることもありました。今にして思えば、その頃から売市地区とは何かの縁で結ばれていたような気がしてなりません。その間に舘村が八戸市に編入になり、売市小も二十二年には根城小学校と改名されました。
時は流れ、その後二十七年に根城小に転任になりました。その当時根城小は十二学級でした。地区は田畑が多く、家屋も少なく、美しい小鳥の鳴き声がよく聞かれ、緑の多い静かな町でした。
三十二年、私は町内の方のご厚意により、畑をゆずっていただき、現在の所に住居を構えることになりました。
それからすでに三十数年過ぎ去りました。前の舘村時代のことをよく覚えていて、声をかけて下さる方も多く、なつかしく心強く思われます。たくさんの方々のお世話になりながら、町内の行事にも参加させていただいて今日に至りました。
町内の方々の努力が実り、市街地は進んで区画整理も順調におこなわれ、道路も見違える程立派になりました。
着々と環境が整備され、新しい形の住宅が建ち並び、町内の著しい変貌を見る時、全く隔世の感に打たれます。
八戸発祥の地、根城史跡を有するゆかりのこの地区で生涯を暮せる仕合わせをしみじみ感じているこの頃です。この地区で住むものとして愛着一入でございます。
今、町内会創立三十周年を迎えるに当たり今後の弥栄を祈るのみです。
.南売市の想い出 松田 マサ
馬淵川の清流、町を囲む緑の山々そこにお住まいの皆様の事、私は何時も懐かしく思い出しております。
昭和十七年8月の陸軍の移動で、弘前憲兵隊付き八戸憲兵分隊長に補す、の命令を受けた主人に従って、前任地の宇都宮から八戸市に参りました。想えば三十八年に亘る第2の故郷根城地区売市での生活は亡夫も私も二人の息子達もご町内の皆様の温いお情で無事楽しく過させて頂きました。
いま走馬灯の様に週ぎ去った歳月の出来事のあれこれを想い起しております。楽しかった事、嬉しかった事、喜びの思い出を沢山残しております。然し、人生行路には、悲しみもついて廻るものです。聖戦と信じ、戦勝を信じて居た戦は敗れました。職業軍人の戦後の生活はまことに悲惨なものです。そんな中にご町内の多くの方のお励しや、御親切の数々は私達にとって、どんなにか勇気と希望が与えられた事でしょう。
息子喜重の許に身を寄せて十年余りになります。誰に憚る事のない我まま、自由な生活は身体の老化と頭のボケを早めた様です。昨日の事、今日の事も、何も彼も、遠い日の出来事は鮮明で忘れがたいもので、御地での美しい思い出は終生、いや涅槃の国へ参りましても決して忘れ得ないと存じます。ほんとうに有難うございます。
うれしいな生きて居る家族がいる、犬がいる、うれしいな生きて居る。
住み慣れし多摩路の宿よ、緑あり丘あり水良し仲良しも出来。
大正二年生れ 八十歳
東京都日野市平山3・38・2
.記念誌発刊にあたり 二沢平義雄
人生は白駒なりと云うが、私がこの地に生まれ七十六年の歳月を迎えたが、かえり見れば、私たちの幼少の頃は、売市を通称荒谷と云って、八戸市の中心街まで徒歩で十分足らずの地にありながら、春はヒバリ、夏は耳をつんざくようなセミの声、秋はふくろうの淋しそうな鳴き声がきこえ る老杉が生い茂り、各家々は戸窓が少なく家の中は昼なお暗い藁ぶき屋根、朝は夜明けと共に家を出て、夕日が山に沈んでから家路をたどる。そのような労働、生活環境は明治年代以前からのもの、そのままであった。
それが大正年代に至り、各家庭に電気が灯り昭和十六年の頃に道路はコンクリート舗装となり、その頃からどうやら人間の住むような部落になったような感じがする。
それから三十年後の頃からこの売市地区各町内に急激な変化をもたらす、それが売市地区区画整理事業に依る変化、現在の町内環境の姿である。
この環境の変化を見てここに住む方々は予期していなかった様変わりを見て白髪の多くなった方々は、昭和の初期の売市地区の姿を忘れ去る事であろう。このように考えると、冒頭の白駒の意味がうなづけるものと信じる。
白駒とは辞書に依れば、「歳月の過ぎ易すきは白い馬が壁の隙間を過ぐる如く疾きを喩う」とある。人生はうかうかしていれば壁の隙間の向こうを白い駒が通り過ぎるを見る如く、あっという間に終ってしまうの喩え、気がつかないうちに終り、又忘れてしまうものであるとの意味であろう。
この三十周年記念誌は古きを尋ね、現在を後世に残す意味からして真に意義あるものであり、これを編集して下さった方々に対し万感の謝意を表する次第である。
.敬老会に思うこと 民生委員 小林 綾子
三十周年おめでとうございます。 三十年を最初から支えて、今を築かれた方々には心から感謝申し上げます。
私は既に立派になった町内に滑り込み、居心地よくぬくぬくと過ごさせて頂いています。その中で民生委員を仰せつかり、6年を経過しました。それまでは十三班の中のことしか知らなかった私が、今では南売市町内会全体に視野が広がりました。
殊に敬老会を通して、沢山のお年寄りを知った事は、とても嬉しいことのひとつです。昨年六十五才以上のご夫婦だけの世帯と、独り暮らしの世帯の調査がありました。
私の担当地区では、老夫婦だけの世帯が6世帯、独り暮らしが5世帯でした。それらの方々の緊急連絡場所などをチェックする為だったのですが、皆さん心配の無い方ばかりなのは、心強いことでした。
マスコミの伝える内容を見ますと、都会では大変気の毒な方もおられるようですが、南売市を見る限り、七十過ぎても外へ出て働いている方もあり、その元気なのに頭が下ります。
整然と区画され、立派に舗装された道路、豪華な家々、すばらしい住環境の町内を、敬老会の招待状を持ってお訪ねしながら「豊かだなあ」と心から感じます。
町内会としては三十周年でも、古くから住んでいる方が多いのですから、どうしても老人人口は多くなります。中には大半が該当する班もあるのですが、殆どの方が元気で、豊かで、幸せというのは、これから仲間入りする私達にとって、先行き嬉しいことです。
住民のひとりとして、仲間入りさせて頂いたのですから、元気でいる間は町内のお役に立てるように努力したいと思っています。
風呂屋さん 佐藤 重男
風呂屋さん、親しみのあるそして今では懐しくさえ聞こえる言葉になった。平安時代、京都の東山あたりが発祥の地だと聞いた事があるが、多分当時はまだ庶民のものではなかったのかも知れない。江戸時代には大衆化し明治の初期までは、男女混浴の銭湯(風呂屋)が多かったと云う。近年は広い駐車場を持つ○○温泉と称する郊外型の風呂屋に変って来て、イメージも、雰囲気もかつての風呂屋さんとは全く違ったものになったように思う。
私が常備消防に入って、初めの勤務場所は鍛冶町の屯所だった。(昭和二十六年)そこには消防団員の外に家事仕事の息抜きに来る人、勤務明けの若者達、町内の隠居的な人、風来坊的な人などさまざまな人達が屯ろしていた。そして将棋、碁、花札、トランプ、マージャンと云った娯楽に興ずる人、専ら喋べる人、聞き役に徹する人、これまたさまざまだった。その中に風呂屋の主人も居た。屯所の筋向いに風呂屋さんがあり、近かったせいもあり、入浴客の少ない時を見計らって息抜きに屯所に来る。番台の話が出て「誰か番台を代ってくれる人いないかな三十分でもいいから」と番台の交替を探す話に、オレがと軽口をたたいている連中も、いざとなると誰もそんな勇気は持ちあわせていなかった。
私が売市の住人となったのは昭和二十九年の5月でした。その頃、売市の風呂屋さんと云えば高砂湯のことだった。お客さんも多く、特に夕方から夜にかけての浴室の中は、話し声や、笑い声、それに子供達の泣き声、子を叱る親達の声など庶民的な賑かさがあった。それから数年後我が家の近くに、松の湯と云う風呂屋さんが、開業し、南売市は2軒となった。近いと云う事は何かと便利で、嵐の日や、寒い晩などはその有難さを痛切に感じたものだった、風呂屋さんはその地域のコミュニケーションの場、はだかでのつき合いの場、隣人愛を醸成する所でもあった。残念なことに、松の湯も高砂湯も数年前になくなってしまった。郊外型浴場の盛況と家庭風呂の普及と云う時代の流れに押されて社会に大きな役割を果した、街の風呂屋さんも年々残り少なくなり、実に寂しい限りである
川口 喜助
今から五十年ほど前の風景をスケッチで綴って見たいと思います。当時は舘村売市宇売市三十八番地と四十一番地の境であるこの道を「マイミツコ」と称した前の道のことだろう。私の通学路でもあり、又遊び場所でもあった。この絵の左側の大木は高崎さんの田屋欅の大木、右側の杉と欅は川口喜四郎さん宅の大木で、左側の茅葺き屋根は当時中川さんの住いであった。この道の突き当りは幸崎さんの住いであった。
道の途中から左へ入った所にえんぶり神様があり、その祠そばにも欅の大木があった。売市に町の商家の田屋と言う屋敷が多く、どの屋敷にも樹が沢山あった。
畑には作間路があり、家の前を村人が通り抜けしても大して咎める人もなかった。今のように道路が整理されていないので、人の家の前や横を通っていた。
やがて戦争が強まり舟の材料に徴収され、切り倒された。今の人達には想像もつかないような風景があった現在のまほろば幼稚園の通りである。
.三十周年記念によせて 高崎 裕允
昭和四十五年杉山に売市幼稚園を開園、昭和五十二年にまほろば幼稚園と園名を変更し、地域の皆様のご協力を頂き、今年二十五年目を迎えた。
二クラスで始まった幼稚園も、現在七クラス二百四十名が在園している。
幼い頃、まほろば幼稚園の辺りは一面の柿畑であった。果樹に造詣が深かった祖父が明治三十八年、日露戦争で日本が大勝利をおさめて帰還途中、朝鮮半島より長崎に上陸した際に、巨大柿の特産地より苗木を買い求め、杉山の畑に百本植えたものである。柿畑の周囲には丹波栗が植えられ、畑の入口から幸崎さんまでは、欅の巨木が並んでいたが、先の大戦に船材として供出され、鮫へ運ばれた。
白山の小川は今の桜木町あたりでせき止められ、上堤と下堤に造られ、冬には村人総出で氷切りをし、八戸水利組合の氷庫に保存した。氷切作業は、村の年中行事であり部落の唯一の現金収入源であった。
柿畑の一角にえんぶり小屋があった。大正年間に、祖父が村の長老達と計り、えんぶり神様を祀り、村の鎮守の宮とした。荒谷のえんぶりは殿様より唯一帯刀を許され、今も売市えんぶりとして伝統が受け継がれている。
まほろば幼稚園では開園以来毎年2月には売市のえんぶりを鑑賞させていただいているが、最近ではエンコエンコや、鯛釣り舞に卒園生の顔も見られ、また8月の三社大祭には売市山車組に、お囃しや引子として園児や卒園生が参加している。
明治以来、周辺の移り変りを見てきた柿の木は、僅かに幸崎さんとまほろば幼稚園に残るだけとなったが、秋にはたわわに実をつける。今後も地域の益々の発展を見守り続けてほしいものだ。
.中村繁蔵さんの思い出 東野 徳夫
わが家は、南売市町内に転入し二十八年になります。私の記憶の中の中村さんは町内会長、農業委員等の要職を勤められた方と伺って居り私が会った頃は、七十才位に見受けられました。農家で屋敷が広く、周囲は槻木や杉、栗の大木で囲まれてました。
屋敷が広いので、貸し家や菜園があり、いずれも広々として近所の子供たちの、かっこうの遊び場となっていました。
家の前の畑の奥は耕作しないまま野原となっていて、ここでは昆虫採集からキャッチボールなどなんでも遊べました。中村さん夫婦は自分の土地を近所の子供たちの遊び場のままにし、元気に飛びまわる子供の姿を笑顔で見守りながら、静かに広場を見廻り、小石やガラスなどの破片を拾う姿に接し、私は感勤し、スイスの教育者のペスタロッチの物語を連想しながら感謝していました。
私の所から新組町に出る近道は、中村さんの入口の2本の槻木から貸家の前の杉並木を通り、屋敷に入ると、栗の大木が3本あり、屋敷を抜けた畑頭は、また杉並木でした。隣地との境は、八戸市の木になっている、イチイが植えてありました。その脇の小道はやがて売市旧墓地にでた。そこは旧五戸街道の入口にあたり、大橋理容所や住吉食堂のところに出る道でした。
ある日この近道を歩いて来たら、中村さんが葱畑の端に座っていて、日焼した顔に鉢巻がよく似合っていました。挨拶を交した私は、立ち止りほんのひとときでしたが、お話を伺った事があります。中村さんはすでに町内会長も辞し、毎日屋敷内を見廻ったり、菜園の仕事をしてる様子でした。
中村さんは、ご自分の父親について、とつとつと語られた。病人はよく幼い日の思い出の事を話すとか、その話の中に幼少の頃の果物やおかずのことを言い出し、何かと中村さんに要求したという、今日のように食品の保存や加工が進んでいなかった。それでも後いくばくも生きられないと思うと、食べたいと言うものは何であれ一生懸命さがして歩いたそうです。夏の柿、春の秋刀魚、冬の苺等いろいろな店を訪ね聞き回りした話でした。
私は話終わって自分の家へ向かいながら本当に優しい人だなあ、いい所に転入して来たとしみじみ思ったものです。
今は亡き中村さん、その屋敷跡地のほとんどは、杉山公園用地になっております。私は犬と毎朝散歩しながら、あの日焼けしたまん丸なお顔を思い浮かべております。
公園のあちらこちらから子供達を見守って下さっている、その優しさは接したみなさんの胸にきっと残っていると思っています。
町内会に寄せて
松沢 初枝
昭和十四年、舘村立明治尋常高等小学校に転任になり、終戦すぎの21年まで勤務しました。その当時舘村には明治小、田面木小、売市小と三校がありました。三校は青年学級、処女会など、村内の学事会で時折り交流があり、町内の方々とも顔を合わせることもありました。今にして思えば、その頃から売市地区とは何かの縁で結ばれていたような気がしてなりません。その間に舘村が八戸市に編入になり、売市小も二十二年には根城小学校と改名されました。
時は流れ、その後二十七年に根城小に転任になりました。その当時根城小は十二学級でした。地区は田畑が多く、家屋も少なく、美しい小鳥の鳴き声がよく聞かれ、緑の多い静かな町でした。
三十二年、私は町内の方のご厚意により、畑をゆずっていただき、現在の所に住居を構えることになりました。
それからすでに三十数年過ぎ去りました。前の舘村時代のことをよく覚えていて、声をかけて下さる方も多く、なつかしく心強く思われます。たくさんの方々のお世話になりながら、町内の行事にも参加させていただいて今日に至りました。
町内の方々の努力が実り、市街地は進んで区画整理も順調におこなわれ、道路も見違える程立派になりました。
着々と環境が整備され、新しい形の住宅が建ち並び、町内の著しい変貌を見る時、全く隔世の感に打たれます。
八戸発祥の地、根城史跡を有するゆかりのこの地区で生涯を暮せる仕合わせをしみじみ感じているこの頃です。この地区で住むものとして愛着一入でございます。
今、町内会創立三十周年を迎えるに当たり今後の弥栄を祈るのみです。
.南売市の想い出 松田 マサ
馬淵川の清流、町を囲む緑の山々そこにお住まいの皆様の事、私は何時も懐かしく思い出しております。
昭和十七年8月の陸軍の移動で、弘前憲兵隊付き八戸憲兵分隊長に補す、の命令を受けた主人に従って、前任地の宇都宮から八戸市に参りました。想えば三十八年に亘る第2の故郷根城地区売市での生活は亡夫も私も二人の息子達もご町内の皆様の温いお情で無事楽しく過させて頂きました。
いま走馬灯の様に週ぎ去った歳月の出来事のあれこれを想い起しております。楽しかった事、嬉しかった事、喜びの思い出を沢山残しております。然し、人生行路には、悲しみもついて廻るものです。聖戦と信じ、戦勝を信じて居た戦は敗れました。職業軍人の戦後の生活はまことに悲惨なものです。そんな中にご町内の多くの方のお励しや、御親切の数々は私達にとって、どんなにか勇気と希望が与えられた事でしょう。
息子喜重の許に身を寄せて十年余りになります。誰に憚る事のない我まま、自由な生活は身体の老化と頭のボケを早めた様です。昨日の事、今日の事も、何も彼も、遠い日の出来事は鮮明で忘れがたいもので、御地での美しい思い出は終生、いや涅槃の国へ参りましても決して忘れ得ないと存じます。ほんとうに有難うございます。
うれしいな生きて居る家族がいる、犬がいる、うれしいな生きて居る。
住み慣れし多摩路の宿よ、緑あり丘あり水良し仲良しも出来。
大正二年生れ 八十歳
東京都日野市平山3・38・2
.記念誌発刊にあたり 二沢平義雄
人生は白駒なりと云うが、私がこの地に生まれ七十六年の歳月を迎えたが、かえり見れば、私たちの幼少の頃は、売市を通称荒谷と云って、八戸市の中心街まで徒歩で十分足らずの地にありながら、春はヒバリ、夏は耳をつんざくようなセミの声、秋はふくろうの淋しそうな鳴き声がきこえ る老杉が生い茂り、各家々は戸窓が少なく家の中は昼なお暗い藁ぶき屋根、朝は夜明けと共に家を出て、夕日が山に沈んでから家路をたどる。そのような労働、生活環境は明治年代以前からのもの、そのままであった。
それが大正年代に至り、各家庭に電気が灯り昭和十六年の頃に道路はコンクリート舗装となり、その頃からどうやら人間の住むような部落になったような感じがする。
それから三十年後の頃からこの売市地区各町内に急激な変化をもたらす、それが売市地区区画整理事業に依る変化、現在の町内環境の姿である。
この環境の変化を見てここに住む方々は予期していなかった様変わりを見て白髪の多くなった方々は、昭和の初期の売市地区の姿を忘れ去る事であろう。このように考えると、冒頭の白駒の意味がうなづけるものと信じる。
白駒とは辞書に依れば、「歳月の過ぎ易すきは白い馬が壁の隙間を過ぐる如く疾きを喩う」とある。人生はうかうかしていれば壁の隙間の向こうを白い駒が通り過ぎるを見る如く、あっという間に終ってしまうの喩え、気がつかないうちに終り、又忘れてしまうものであるとの意味であろう。
この三十周年記念誌は古きを尋ね、現在を後世に残す意味からして真に意義あるものであり、これを編集して下さった方々に対し万感の謝意を表する次第である。
.敬老会に思うこと 民生委員 小林 綾子
三十周年おめでとうございます。 三十年を最初から支えて、今を築かれた方々には心から感謝申し上げます。
私は既に立派になった町内に滑り込み、居心地よくぬくぬくと過ごさせて頂いています。その中で民生委員を仰せつかり、6年を経過しました。それまでは十三班の中のことしか知らなかった私が、今では南売市町内会全体に視野が広がりました。
殊に敬老会を通して、沢山のお年寄りを知った事は、とても嬉しいことのひとつです。昨年六十五才以上のご夫婦だけの世帯と、独り暮らしの世帯の調査がありました。
私の担当地区では、老夫婦だけの世帯が6世帯、独り暮らしが5世帯でした。それらの方々の緊急連絡場所などをチェックする為だったのですが、皆さん心配の無い方ばかりなのは、心強いことでした。
マスコミの伝える内容を見ますと、都会では大変気の毒な方もおられるようですが、南売市を見る限り、七十過ぎても外へ出て働いている方もあり、その元気なのに頭が下ります。
整然と区画され、立派に舗装された道路、豪華な家々、すばらしい住環境の町内を、敬老会の招待状を持ってお訪ねしながら「豊かだなあ」と心から感じます。
町内会としては三十周年でも、古くから住んでいる方が多いのですから、どうしても老人人口は多くなります。中には大半が該当する班もあるのですが、殆どの方が元気で、豊かで、幸せというのは、これから仲間入りする私達にとって、先行き嬉しいことです。
住民のひとりとして、仲間入りさせて頂いたのですから、元気でいる間は町内のお役に立てるように努力したいと思っています。
風呂屋さん 佐藤 重男
風呂屋さん、親しみのあるそして今では懐しくさえ聞こえる言葉になった。平安時代、京都の東山あたりが発祥の地だと聞いた事があるが、多分当時はまだ庶民のものではなかったのかも知れない。江戸時代には大衆化し明治の初期までは、男女混浴の銭湯(風呂屋)が多かったと云う。近年は広い駐車場を持つ○○温泉と称する郊外型の風呂屋に変って来て、イメージも、雰囲気もかつての風呂屋さんとは全く違ったものになったように思う。
私が常備消防に入って、初めの勤務場所は鍛冶町の屯所だった。(昭和二十六年)そこには消防団員の外に家事仕事の息抜きに来る人、勤務明けの若者達、町内の隠居的な人、風来坊的な人などさまざまな人達が屯ろしていた。そして将棋、碁、花札、トランプ、マージャンと云った娯楽に興ずる人、専ら喋べる人、聞き役に徹する人、これまたさまざまだった。その中に風呂屋の主人も居た。屯所の筋向いに風呂屋さんがあり、近かったせいもあり、入浴客の少ない時を見計らって息抜きに屯所に来る。番台の話が出て「誰か番台を代ってくれる人いないかな三十分でもいいから」と番台の交替を探す話に、オレがと軽口をたたいている連中も、いざとなると誰もそんな勇気は持ちあわせていなかった。
私が売市の住人となったのは昭和二十九年の5月でした。その頃、売市の風呂屋さんと云えば高砂湯のことだった。お客さんも多く、特に夕方から夜にかけての浴室の中は、話し声や、笑い声、それに子供達の泣き声、子を叱る親達の声など庶民的な賑かさがあった。それから数年後我が家の近くに、松の湯と云う風呂屋さんが、開業し、南売市は2軒となった。近いと云う事は何かと便利で、嵐の日や、寒い晩などはその有難さを痛切に感じたものだった、風呂屋さんはその地域のコミュニケーションの場、はだかでのつき合いの場、隣人愛を醸成する所でもあった。残念なことに、松の湯も高砂湯も数年前になくなってしまった。郊外型浴場の盛況と家庭風呂の普及と云う時代の流れに押されて社会に大きな役割を果した、街の風呂屋さんも年々残り少なくなり、実に寂しい限りである
長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」 2
売市のギャラリーみちで第二回の「私のありがとう」が6月22日第四金曜日に開催された。
参加者は根城の黒川弥生さん、高舘の木村由記子さん、尻内の松倉由紀江さん、新井田の佐々木秀子さん、尻内の三浦和江さん、長苗代の田茂広子さん、梅村一江さん、櫛引の佐藤隆さん、売市の大西昭子さん、上野ナヨさん、北山栄子さん、南部町の菅谷美月さん、中村澄子さん、白銀の清水政夫さん、南郷区の三浦テルさん、真紀さんたち。
北山さんから味噌汁の差し入れもあり和やかに百円で弁当と飲み物が出た。
これはギャラリーみちの経営者北村道子さんの気持ち。この店は北村夫妻が精神障害者の施設を営み、その利用者が社会復帰する場として設けられた。損得抜きで地域の人々に精神障害者とのふれあいの場になればと考えておられる。この場に は健常者、障害者が製作した小物、あるいは収穫した野菜などが陳列され、販売することができる。三日町に「町のえき」があるが、ここはその売市番と言えるか。
まず、前回の続きで風天の寅さんのタンカの世界、やけのやんぱち日焼けのなすび、わたしや入れ歯で歯がたたないなどの、奇天烈なことばを並べるのが、日本の話芸、講談、落語、浪曲のほかにある第四の民衆芸能、そのテキヤ諸君が育てたタンカの世界にあるロクマ(易者)の喋りが十二支占い、これを筆者が演じた。前回の続きで午年からはじめた。
痛快無比の芸で子年から亥年まで通しでしゃべると二時間芸。これを適当に切って喋るわけだが、八戸在住の人はまず見たことがない。日本でこれが喋れる人も少ないが、昨今は素人がこれに気づいて東京都が発行する大道芸許可証を持ち奮闘中。
日本の話芸普及を目指す筆者が講談も披露。五分 で「本能寺の変」を演じた。ギャラリーみちはこうした何でもありの空間、あれがダメでこれがいいではなく、何でもいい、どれもいいと人間のよさを認める所。
さて、今回の「私のありがとう」は興味深かった。皆さんからいろいろな話を聞かせていただくと、NHKの人気アナ、高橋圭三が「私の秘密」という昭和三十年から昭和四十二年まで放映された番組の冒頭で、名セリフ「事実は小説より奇なりと申しまして…」と言ったが、このギャラリーみちの「私のありがとう」も同様、来場の皆さんの話は実に不思議なことが盛りだくさん。
その内容を解説する前に、TV草創期の番組、「私の秘密」を少々解説、この番組の出演者は渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者が、珍しい体験、秘密を持った登場人物を探り出す。これで高橋圭三が茶の間の人気者になったが、この高橋は岩手県花巻出身、高千穂商科大を卒業し昭和四十二年、NHKに入社、東北なまりを治すために、トイレで必死に標準アクセントを練習、「どうも、どうも、高橋圭三です」と現れる語り口。ニュースやスポーツ中心のNHKの堅いイメージをかえた。軽妙な語り口でテレビ草創期のスターとなった。
この後、どうもどうも、ハイ、どうもと言う言葉に替わった。中国人はこの日本語を聞くと笑う。理由は、どうもは中国語では毛がおおい、ハイは女性の陰部を表す、つまり女のあそこは毛が多いと言うんだから笑うわけ。
さて、「私のありがとう」で貴重な言葉を聞いた。それは、自分が何者であるかがわからない、結婚もした、まだ、わからないが、ある日あるとき、実家で母親と暮らすようになり、ああ、これが私の求めたものだったと気づいたという。だから母にありがとうと言いたい。これには唸った。というのは、日本に仏教が伝来したのは538年とも552年ともいうが、釈迦が唱えた教えにそれがあった。
釈迦はキリストより五百年も前に出現し、キリストのように多くの奇跡は示さないが、たとえを多く語られた。比喩の方が多くの人に理解されるからだ。
法華七諭の一つに衣裏繋珠(えりはんじゅ)の譬えがある。それは、ある貧乏人が、親友の家を訪れご馳走になり、酒によって眠った。親友に急用ができ旅に出なければならい。
寝ている友を起こすのも気の毒に思い、貧乏をしている人のため、はかり知れない値打ちの宝珠を着物の襟に縫い付けて出かけた。
目覚めた貧乏人は親友がいないので立ち去った。そして、相変わらず貧乏暮らしの放浪生活。衣食に大変な苦労、少しでも収入があれば満足という状態。
月日が経ち、また親友と出会う。親友は哀れな姿を見て「何ということだ、君が安楽に暮らせるようにと、君の着物の襟に高価な宝珠を縫い付けておいた。さあ、この宝珠を売りなんでも必要なも のを買いなさい。何不足のない生活ができる」と告げた。その人は、最も身近なところにある宝に気づけなかった自分に気づいたのであった。
どうだ、カールブッセの詩のもある。山の彼方の空遠く、幸い住むと人の言うで、探しても見当たらない、返って来て聞くと更に遠くだと答えるが、これは幸いは足元にこそあるの逆説。
こういう話もある。アメリカ開拓時代、伝道師が来た。このように川が二つある場所の合流点あたりにダイアモンドが採れる。それは高価なものだと教えられる。その言葉にとりつかれて、男はダイアモンド探しにでかけた。三年も経って、何一つみつからず、憔悴しきって自分の小屋に帰って開墾に精を出す。
するとまた、その伝道師が来た。そして、風でドアがバタバタするのを止める石を見て、「とうとう探しましたね、ダイアモンドを、これが、そのダイアモンドです」と指差した。その石は探しに出る三年前、小屋の前に落ちていた石だった。
どうだ、これも含蓄があるぞ。
また、九州生まれの女性が豊橋に就職し、喫茶店で八戸の男性と知り合い結婚、そして八戸に在住する。遠い九州から八戸に住むなど、誰がかんがえただろう。
高橋圭三ではないが、まさに事実は小説より奇なりだ。ご主人を亡くした人、自身も患いを抱える人、いろいろな人がギャラリーみちに集まり、自分のことをもっと語っていただきたい。
歳をとると昔のことがいろいろ思い出されるようになるもの、それを孫を捕まえて喋ると三回聞いたなどと抜かされる。
豊富な経験、貴重な体験を誰かに喋りたいもの。そうした場にギャラリーみちがなることを希望する。そのお手伝いをしているのが筆者。難しいことを言うより、日本の伝統話芸の面白さを味わっていただき、なごやかな雰囲気のなかで、皆様の経験を聞かせていただく、そして、その中から心に残るありがとうを記録したい。
参加者は根城の黒川弥生さん、高舘の木村由記子さん、尻内の松倉由紀江さん、新井田の佐々木秀子さん、尻内の三浦和江さん、長苗代の田茂広子さん、梅村一江さん、櫛引の佐藤隆さん、売市の大西昭子さん、上野ナヨさん、北山栄子さん、南部町の菅谷美月さん、中村澄子さん、白銀の清水政夫さん、南郷区の三浦テルさん、真紀さんたち。
北山さんから味噌汁の差し入れもあり和やかに百円で弁当と飲み物が出た。
これはギャラリーみちの経営者北村道子さんの気持ち。この店は北村夫妻が精神障害者の施設を営み、その利用者が社会復帰する場として設けられた。損得抜きで地域の人々に精神障害者とのふれあいの場になればと考えておられる。この場に は健常者、障害者が製作した小物、あるいは収穫した野菜などが陳列され、販売することができる。三日町に「町のえき」があるが、ここはその売市番と言えるか。
まず、前回の続きで風天の寅さんのタンカの世界、やけのやんぱち日焼けのなすび、わたしや入れ歯で歯がたたないなどの、奇天烈なことばを並べるのが、日本の話芸、講談、落語、浪曲のほかにある第四の民衆芸能、そのテキヤ諸君が育てたタンカの世界にあるロクマ(易者)の喋りが十二支占い、これを筆者が演じた。前回の続きで午年からはじめた。
痛快無比の芸で子年から亥年まで通しでしゃべると二時間芸。これを適当に切って喋るわけだが、八戸在住の人はまず見たことがない。日本でこれが喋れる人も少ないが、昨今は素人がこれに気づいて東京都が発行する大道芸許可証を持ち奮闘中。
日本の話芸普及を目指す筆者が講談も披露。五分 で「本能寺の変」を演じた。ギャラリーみちはこうした何でもありの空間、あれがダメでこれがいいではなく、何でもいい、どれもいいと人間のよさを認める所。
さて、今回の「私のありがとう」は興味深かった。皆さんからいろいろな話を聞かせていただくと、NHKの人気アナ、高橋圭三が「私の秘密」という昭和三十年から昭和四十二年まで放映された番組の冒頭で、名セリフ「事実は小説より奇なりと申しまして…」と言ったが、このギャラリーみちの「私のありがとう」も同様、来場の皆さんの話は実に不思議なことが盛りだくさん。
その内容を解説する前に、TV草創期の番組、「私の秘密」を少々解説、この番組の出演者は渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者が、珍しい体験、秘密を持った登場人物を探り出す。これで高橋圭三が茶の間の人気者になったが、この高橋は岩手県花巻出身、高千穂商科大を卒業し昭和四十二年、NHKに入社、東北なまりを治すために、トイレで必死に標準アクセントを練習、「どうも、どうも、高橋圭三です」と現れる語り口。ニュースやスポーツ中心のNHKの堅いイメージをかえた。軽妙な語り口でテレビ草創期のスターとなった。
この後、どうもどうも、ハイ、どうもと言う言葉に替わった。中国人はこの日本語を聞くと笑う。理由は、どうもは中国語では毛がおおい、ハイは女性の陰部を表す、つまり女のあそこは毛が多いと言うんだから笑うわけ。
さて、「私のありがとう」で貴重な言葉を聞いた。それは、自分が何者であるかがわからない、結婚もした、まだ、わからないが、ある日あるとき、実家で母親と暮らすようになり、ああ、これが私の求めたものだったと気づいたという。だから母にありがとうと言いたい。これには唸った。というのは、日本に仏教が伝来したのは538年とも552年ともいうが、釈迦が唱えた教えにそれがあった。
釈迦はキリストより五百年も前に出現し、キリストのように多くの奇跡は示さないが、たとえを多く語られた。比喩の方が多くの人に理解されるからだ。
法華七諭の一つに衣裏繋珠(えりはんじゅ)の譬えがある。それは、ある貧乏人が、親友の家を訪れご馳走になり、酒によって眠った。親友に急用ができ旅に出なければならい。
寝ている友を起こすのも気の毒に思い、貧乏をしている人のため、はかり知れない値打ちの宝珠を着物の襟に縫い付けて出かけた。
目覚めた貧乏人は親友がいないので立ち去った。そして、相変わらず貧乏暮らしの放浪生活。衣食に大変な苦労、少しでも収入があれば満足という状態。
月日が経ち、また親友と出会う。親友は哀れな姿を見て「何ということだ、君が安楽に暮らせるようにと、君の着物の襟に高価な宝珠を縫い付けておいた。さあ、この宝珠を売りなんでも必要なも のを買いなさい。何不足のない生活ができる」と告げた。その人は、最も身近なところにある宝に気づけなかった自分に気づいたのであった。
どうだ、カールブッセの詩のもある。山の彼方の空遠く、幸い住むと人の言うで、探しても見当たらない、返って来て聞くと更に遠くだと答えるが、これは幸いは足元にこそあるの逆説。
こういう話もある。アメリカ開拓時代、伝道師が来た。このように川が二つある場所の合流点あたりにダイアモンドが採れる。それは高価なものだと教えられる。その言葉にとりつかれて、男はダイアモンド探しにでかけた。三年も経って、何一つみつからず、憔悴しきって自分の小屋に帰って開墾に精を出す。
するとまた、その伝道師が来た。そして、風でドアがバタバタするのを止める石を見て、「とうとう探しましたね、ダイアモンドを、これが、そのダイアモンドです」と指差した。その石は探しに出る三年前、小屋の前に落ちていた石だった。
どうだ、これも含蓄があるぞ。
また、九州生まれの女性が豊橋に就職し、喫茶店で八戸の男性と知り合い結婚、そして八戸に在住する。遠い九州から八戸に住むなど、誰がかんがえただろう。
高橋圭三ではないが、まさに事実は小説より奇なりだ。ご主人を亡くした人、自身も患いを抱える人、いろいろな人がギャラリーみちに集まり、自分のことをもっと語っていただきたい。
歳をとると昔のことがいろいろ思い出されるようになるもの、それを孫を捕まえて喋ると三回聞いたなどと抜かされる。
豊富な経験、貴重な体験を誰かに喋りたいもの。そうした場にギャラリーみちがなることを希望する。そのお手伝いをしているのが筆者。難しいことを言うより、日本の伝統話芸の面白さを味わっていただき、なごやかな雰囲気のなかで、皆様の経験を聞かせていただく、そして、その中から心に残るありがとうを記録したい。
小中野小学校百年史から 4
浪打 私が小さい時でまだ小学校へ入る前だったんですが、祖父に頼まれて学校に来たんですが大きな大黒柱があったんです。その学校を覚えている人は、誰もいませんね。わたしが入ったのはその学校が無くなってからです。
私の時は、ハナ、ハト、ハタ、カガウマの時からなんで、その前はずい分めんどうだったんです。尋常六年になって分数を知らなかったんです。それでも尋常六年から上がる時は、三等のビリだったんです。その時、遊びに来た人が、わたしに 二分の一と五分の一とどっちが大きい」と聞いた時に、わたしはすぐ、五分の一が大きい」とこういったんでしょうハハハ……そこで、分数を教えてもらったんです。
それからはじめて学校が好きになったんです。だからわずかの所、ちょっとした所なんです。
校歌校章の由来は定かではないが
大久保 それではいろいろ昔の思い出をお話していただきましたので、常日頃知りたいと思っていたことですが、校章の由来と校長室に掲げてある西有穆山先生の書いた「義徳校」との関係などは、おわかりにならないかどうか。岩見先生いかがですか。
岩見 いいえ、まだ僕は若いんですから古いことは知りません。
月宇 校章は、山崎校長さんがいた時に、孝行の孝の字があるでしょう。あれはまあ、孝行というのは一番その当時の大切ななんでしたから、それで初めて校長先生が朝会のときに、みんなに話してくれたんです。
大久保 大低小中野の記章というのは、今も中学校の記章でも、消防団の記章でも小中野の「小」という記章でしょう。それでも、校章だけは、桜の中に孝をかいたものになっているんですが、校長先生も三十九年に養徳校の問題にからんで記録していたようでしたが、丁度今お話があったように、孝行するということが大事だということ、そういうものを学校の目標というか人格完成の根本義であるということから、起案したかどうかということ、それに、これを作った方は誰であるのか、おわかりになりませんか。
月宇 先生のどなたかでしょうな。校旗ができて、私の時分に説明してくれたのを、ちゃんと記憶しているんですが。
三河 山崎校長先生だったと思います。その時に説明したのは佐々木公央先生、あの先生が説明したったと思います。
小井田 何という先生ですか?・
佐々木哲 佐々本公央です。
小井田 校旗の説明をしたんですか?
月宇 説明したのは誰だかわからないが山崎先生の時だった。
山浦 沿革誌によると三十九年の五月に校章と校旗が制定されたようですが。
小井田 山崎校長の時代ですね。
佐々木哲 わたしの頃、「孝は徳の本なり」と書いた額がございましたので、和田という村長さんは、何の式の場合でも必ずそれを話し、「孝は徳の本なり」と言い、校長先生よりも村長さんが一生懸命だったんです。それで、そのお話がでると、やったやった、またはじまったといったもんです。(笑声)
稲葉 「水は方円の器に従い、人は善悪の友による」といって、またすぐはじまったと言ったもんです。(笑声)
小井田 その「孝は徳の本なり」という額。この前先生からお聞きした時、養徳校の額でないかと聞いたら、そうかも知れないとおっしゃったんだが、そうでなかった。「孝は徳の本なり」の額がありましたか? 訓話には「孝は徳の本なり」がでても、「養徳校」というあの額をつかって「徳」「養徳の徳」ですね。徳の本は孝なりでもって話されたのではないかという話もあるし、いろいろうけたまわっている。もう一つの別の額があったんじゃないかというそのところは:・:・。
大久保 額がございましたか?
佐々木哲 私はあったと思うけれども、
小井田 養徳校の額じゃないのですね。
佐々木哲 昔のことだから、はっきりしません。
小井田 学校はその後焼けていない筈ですね。あの丁度さっきの話、山崎校長の時に校旗ができた、校章ができていますね。その前あの額の書かれたのは、校長室にある額、あれは、山崎校長のはじめなんです。明治三十四年穆山禅師が「直心浄国禅師」の禅師号をいただいて、あの紫の衣をいただいた時ですね。その年に八戸に帰って、そして書かれたのが、あの額だと思います。
それがうちの学校の為に書いています。その養徳の徳を養う、これは教育の第一義だといったような考えでやったのではないでしょうか。そこで、「孝は徳の本なり」徳の本は孝だということで、そういうことからきたんだろうということで、いろいろ先生方とも話しておったんです。ほかの方からも、式の時に「孝は徳の本なり」をやったという話をお聞きして、いろいろ聞いてみたわけですが、それを言われた校長はどなただったんです。先生の時はやっぱり山崎校長ですか?
夏掘 和田校長です。
小井田 佐々木公夫という先生は、その時ここの学校で教員をしておったんですか。
月宇 いいえ、そうじゃないんです。
佐々木哲 ここの卒業生でうちの母の弟なんです。
浪打 名前を変えているんです。とにかく模範的な先生でした。
小井田 この方が図案に関係しているか。小中野の卒業生なんですな。
佐々木 名前は金之丞といったんです。
大久保 それから校歌のことについてお伺いしたいわけですが、作曲者はご承知の通り上野学園長の石橋蔵五郎先生、作詩は小向隆三作ということになっているんですが?・この方はどういう方かおわかりになりませんか。
小井田 小向隆三?
稲葉 記録だか何だかわかりませんけれど、私達が二年のころ諏訪の別当さまの弟に中館という人があって、その人が校長先生に紹介して作詞したというように私達は聞いていたし、私はそう思っていたんです。その人は中舘から養子に行って名前が変ったんではないでしょうか。
小井田 中舘文生さんの弟さんですか?おじですか?
稲葉 おじです。
大久保 ………
小井田 先生だと聞いていたところがそういう先生は出てこない。
大久保 校旗の古いのは学校にありますか。
小井田 ない。その校旗の写真は大正四年頃の写真に一度出ています。学校にある写真に……あの紫のメリンスみたいなのに白で染め抜いたのでしょう。皆 ああ、そうです。
小井田 そうすれば、校歌の小向隆三という名前ででているんだから、この人をたずねるとすれば、どういう人から聞けばよいんでしょうな、覚えていそうな人に・:
岩見 去年白銀小学校の九十周年のお祝いがあった時に姉さんがでておられました。中舘文生の姉さんですね。
大久保 どこにおられますか?
佐々木宜 商業高校の前に家を建てています。
小井田 今名前は何んておっしやるんです?佐々木直 岡田ミネといいます。
小井田 その方から聞けば、もし改姓したとすればわかりますね。
佐々木直 諏訪の先生といえばわかります
父兄会の設立、きっかけは野球への寄付が問題
大久保 それでは、現在は父母と教師の会、以前は父兄会ということであったんですが、この父兄会の設立はどのようになって、また、いつごろ設立されたものだったんでしょうか。おわかりになりませんか。
佐川 記録には明治四十年で。
稲葉 八木沢先生ですか
佐々木哲 山崎先生です。
大久保 初代の会長さんは、どなただったんですか?
小井田 それも四十年ならば山崎校長ですね。山崎校長はどこの出身ですか?
佐々木哲 八戸の方です。八戸の士族さんの・:
大久保 ああそうですか、記録によると明治四十年父兄会の創立というふうにのっているのですが、初代の会長はどなたがおやりになったのでしょうか?
山浦 今はなくなられた室岡米蔵先生でなかったでしょうか。会長についての記録に何かありますか。どうであったでしょう。’
稲葉 父兄会はやったことがあります。大正になってからかな。
三河 その頃会長さんになられたとすれば、室岡さんか、山浦さん、それから白井さんかな・::・?その方たちぐらいのものと思いますが・:・:。
大久保 八十周年の記録を見ますと、歴代の父兄会長は、室岡栄蔵、白井幸作、木村忠蔵、大久保幾次郎、中村浅五郎、工藤平作、和田金之助、藤田金五郎、吉田誠、岩岡とみえ、中村豊吉、佐藤誠一……。
三河 八木沢先生のとき父兄会をやったとすれば、ここの小学校で野球をやった時、野球をやる道具を準備するために金がかかるので、父兄会を作ってその方々から月に五銭ぐらいずつ寄付をしてもらったらどうかということになったのがはじまりと記憶しているが:・・:。
夏掘 あの時、三河先生は野球部の部長でしたね。
小井田 それは何年ごろですか。
三河 大正十二、三年ごろです。
佐々木哲 卒業式の何かのご褒びに大久保さん、山浦さんという方々が特別寄付をして呉れたんです。父兄会長賞などでなく有志の寄付でした。
佐々木直 私は、野球を知らなかったんだが、学校で野球をやるというので行ってみたら、中村先生が、袴をはいてだまってみていたんだが、何かまずいことがあったらしく、今のはアンパンインが悪いと言ったんです。「アンパンイン」というのがあると言うことで大笑いしたんです。
大久保 その時、やっぱりミットなどがあったのですか。
佐々木直 野球のはじまりだったので、そのへんはどうでしたか。
稲葉 小中野の新丁に少年会を作って、野球の道具を買ったのは、私達の一年の頃です。月館直次郎さんたちが先にたって、五厘ずつ貯金して布のものを明治三十七・八年頃に使ったんです。佐々木直次郎さん達が十二円五十銭位集めて全部用意したんです。
大久保 明治の頃には対抗試合がやられたんですか。
波打 一番先に長者小学校でやりましたよ。
三河 小中野小学校で一番最初に三本木小学校とやりました。二回目は五戸小学校とやったんです。
大久保 明治四十一年という記録があります。三本木小学校と小中野小学校の校庭で野球競技をしたと、こう出ていますが、この時の服装はどうだったんですか?
稲葉 袴をはいてやった時もあり、ズボンがなく、股引にシャツの時代でした。
波打 長者小でやった対抗試合には、キャチャーがミット、一塁手もミット、投手はグローブを持つたか持たなかったかはっきりしないが、あとは全部空手であったんです。この時の試合は捕手が代理のため負けたんです。
大久保 そうすれば明治三十年代に素手で、もう野球をやったんですね。
稲葉 その頃は、野球ではなく、「ベースボール」と言ったんです。
大久保 大したもんでないですか。
稲葉 みんな英語を使ったもんです。ハハハハ:・。
夏掘 ボールは一、二、三号とあり、零号は普通の選手が使い、無号というのもあった。これは石を布で包み糸をまいたものだった。二、三回使えばグニヤグニヤとなったんです。
浪打 小中野の大弥さんが捕手で、山浦さんが投手でした。九州までその名が聞こえたんです。
夏掘 野球は本当に小中野が名門でしたね。うちの兄の頃などは、八中で九人のうち四人まで小中野出身でしめていたんです。柔道でも剣道でも野球でも、大将は必ず小中野でなければならなかった。そのため当時小中野の真似をして、八戸に学生団が誕生したが、これは小中野のイミテーションですね。学問でもそうでした。優等生というのは殆んど小中野で、銀は級長、金は優等生でしたが、必らず小中野の人達は何人かつけていたものだ。普通は文弱派と言われた佐藤亮一君など野球の名手だった。
大久保 丁度われわれの時代は、八木沢校長先生の時に在校していたが、その伜は運動に一番主力をそそいだというか、やらせたものですね。あのあたりは一番、その前後は隆盛でなかったのではないでしょうか。
同窓会これもピアノ寄付で復活
山浦 処女会をか、青年団とかは、大正八年にできています。
稲葉 処女会の初代の会長は富岡栄三さんの奥さんでした。
月宇 小中野小年会というのもあったが、その記録にはありませんか。
大久保 ありません。
月宇 青森に宮様がおいでになった時、唯お出迎えもでぎないので、小中野少年赤十字団という名をつけたったと思う。ガリ版で雑誌なども作った。
大久保 在学生でやったのですか。
月宇 そうです。
私の時は、ハナ、ハト、ハタ、カガウマの時からなんで、その前はずい分めんどうだったんです。尋常六年になって分数を知らなかったんです。それでも尋常六年から上がる時は、三等のビリだったんです。その時、遊びに来た人が、わたしに 二分の一と五分の一とどっちが大きい」と聞いた時に、わたしはすぐ、五分の一が大きい」とこういったんでしょうハハハ……そこで、分数を教えてもらったんです。
それからはじめて学校が好きになったんです。だからわずかの所、ちょっとした所なんです。
校歌校章の由来は定かではないが
大久保 それではいろいろ昔の思い出をお話していただきましたので、常日頃知りたいと思っていたことですが、校章の由来と校長室に掲げてある西有穆山先生の書いた「義徳校」との関係などは、おわかりにならないかどうか。岩見先生いかがですか。
岩見 いいえ、まだ僕は若いんですから古いことは知りません。
月宇 校章は、山崎校長さんがいた時に、孝行の孝の字があるでしょう。あれはまあ、孝行というのは一番その当時の大切ななんでしたから、それで初めて校長先生が朝会のときに、みんなに話してくれたんです。
大久保 大低小中野の記章というのは、今も中学校の記章でも、消防団の記章でも小中野の「小」という記章でしょう。それでも、校章だけは、桜の中に孝をかいたものになっているんですが、校長先生も三十九年に養徳校の問題にからんで記録していたようでしたが、丁度今お話があったように、孝行するということが大事だということ、そういうものを学校の目標というか人格完成の根本義であるということから、起案したかどうかということ、それに、これを作った方は誰であるのか、おわかりになりませんか。
月宇 先生のどなたかでしょうな。校旗ができて、私の時分に説明してくれたのを、ちゃんと記憶しているんですが。
三河 山崎校長先生だったと思います。その時に説明したのは佐々木公央先生、あの先生が説明したったと思います。
小井田 何という先生ですか?・
佐々木哲 佐々本公央です。
小井田 校旗の説明をしたんですか?
月宇 説明したのは誰だかわからないが山崎先生の時だった。
山浦 沿革誌によると三十九年の五月に校章と校旗が制定されたようですが。
小井田 山崎校長の時代ですね。
佐々木哲 わたしの頃、「孝は徳の本なり」と書いた額がございましたので、和田という村長さんは、何の式の場合でも必ずそれを話し、「孝は徳の本なり」と言い、校長先生よりも村長さんが一生懸命だったんです。それで、そのお話がでると、やったやった、またはじまったといったもんです。(笑声)
稲葉 「水は方円の器に従い、人は善悪の友による」といって、またすぐはじまったと言ったもんです。(笑声)
小井田 その「孝は徳の本なり」という額。この前先生からお聞きした時、養徳校の額でないかと聞いたら、そうかも知れないとおっしゃったんだが、そうでなかった。「孝は徳の本なり」の額がありましたか? 訓話には「孝は徳の本なり」がでても、「養徳校」というあの額をつかって「徳」「養徳の徳」ですね。徳の本は孝なりでもって話されたのではないかという話もあるし、いろいろうけたまわっている。もう一つの別の額があったんじゃないかというそのところは:・:・。
大久保 額がございましたか?
佐々木哲 私はあったと思うけれども、
小井田 養徳校の額じゃないのですね。
佐々木哲 昔のことだから、はっきりしません。
小井田 学校はその後焼けていない筈ですね。あの丁度さっきの話、山崎校長の時に校旗ができた、校章ができていますね。その前あの額の書かれたのは、校長室にある額、あれは、山崎校長のはじめなんです。明治三十四年穆山禅師が「直心浄国禅師」の禅師号をいただいて、あの紫の衣をいただいた時ですね。その年に八戸に帰って、そして書かれたのが、あの額だと思います。
それがうちの学校の為に書いています。その養徳の徳を養う、これは教育の第一義だといったような考えでやったのではないでしょうか。そこで、「孝は徳の本なり」徳の本は孝だということで、そういうことからきたんだろうということで、いろいろ先生方とも話しておったんです。ほかの方からも、式の時に「孝は徳の本なり」をやったという話をお聞きして、いろいろ聞いてみたわけですが、それを言われた校長はどなただったんです。先生の時はやっぱり山崎校長ですか?
夏掘 和田校長です。
小井田 佐々木公夫という先生は、その時ここの学校で教員をしておったんですか。
月宇 いいえ、そうじゃないんです。
佐々木哲 ここの卒業生でうちの母の弟なんです。
浪打 名前を変えているんです。とにかく模範的な先生でした。
小井田 この方が図案に関係しているか。小中野の卒業生なんですな。
佐々木 名前は金之丞といったんです。
大久保 それから校歌のことについてお伺いしたいわけですが、作曲者はご承知の通り上野学園長の石橋蔵五郎先生、作詩は小向隆三作ということになっているんですが?・この方はどういう方かおわかりになりませんか。
小井田 小向隆三?
稲葉 記録だか何だかわかりませんけれど、私達が二年のころ諏訪の別当さまの弟に中館という人があって、その人が校長先生に紹介して作詞したというように私達は聞いていたし、私はそう思っていたんです。その人は中舘から養子に行って名前が変ったんではないでしょうか。
小井田 中舘文生さんの弟さんですか?おじですか?
稲葉 おじです。
大久保 ………
小井田 先生だと聞いていたところがそういう先生は出てこない。
大久保 校旗の古いのは学校にありますか。
小井田 ない。その校旗の写真は大正四年頃の写真に一度出ています。学校にある写真に……あの紫のメリンスみたいなのに白で染め抜いたのでしょう。皆 ああ、そうです。
小井田 そうすれば、校歌の小向隆三という名前ででているんだから、この人をたずねるとすれば、どういう人から聞けばよいんでしょうな、覚えていそうな人に・:
岩見 去年白銀小学校の九十周年のお祝いがあった時に姉さんがでておられました。中舘文生の姉さんですね。
大久保 どこにおられますか?
佐々木宜 商業高校の前に家を建てています。
小井田 今名前は何んておっしやるんです?佐々木直 岡田ミネといいます。
小井田 その方から聞けば、もし改姓したとすればわかりますね。
佐々木直 諏訪の先生といえばわかります
父兄会の設立、きっかけは野球への寄付が問題
大久保 それでは、現在は父母と教師の会、以前は父兄会ということであったんですが、この父兄会の設立はどのようになって、また、いつごろ設立されたものだったんでしょうか。おわかりになりませんか。
佐川 記録には明治四十年で。
稲葉 八木沢先生ですか
佐々木哲 山崎先生です。
大久保 初代の会長さんは、どなただったんですか?
小井田 それも四十年ならば山崎校長ですね。山崎校長はどこの出身ですか?
佐々木哲 八戸の方です。八戸の士族さんの・:
大久保 ああそうですか、記録によると明治四十年父兄会の創立というふうにのっているのですが、初代の会長はどなたがおやりになったのでしょうか?
山浦 今はなくなられた室岡米蔵先生でなかったでしょうか。会長についての記録に何かありますか。どうであったでしょう。’
稲葉 父兄会はやったことがあります。大正になってからかな。
三河 その頃会長さんになられたとすれば、室岡さんか、山浦さん、それから白井さんかな・::・?その方たちぐらいのものと思いますが・:・:。
大久保 八十周年の記録を見ますと、歴代の父兄会長は、室岡栄蔵、白井幸作、木村忠蔵、大久保幾次郎、中村浅五郎、工藤平作、和田金之助、藤田金五郎、吉田誠、岩岡とみえ、中村豊吉、佐藤誠一……。
三河 八木沢先生のとき父兄会をやったとすれば、ここの小学校で野球をやった時、野球をやる道具を準備するために金がかかるので、父兄会を作ってその方々から月に五銭ぐらいずつ寄付をしてもらったらどうかということになったのがはじまりと記憶しているが:・・:。
夏掘 あの時、三河先生は野球部の部長でしたね。
小井田 それは何年ごろですか。
三河 大正十二、三年ごろです。
佐々木哲 卒業式の何かのご褒びに大久保さん、山浦さんという方々が特別寄付をして呉れたんです。父兄会長賞などでなく有志の寄付でした。
佐々木直 私は、野球を知らなかったんだが、学校で野球をやるというので行ってみたら、中村先生が、袴をはいてだまってみていたんだが、何かまずいことがあったらしく、今のはアンパンインが悪いと言ったんです。「アンパンイン」というのがあると言うことで大笑いしたんです。
大久保 その時、やっぱりミットなどがあったのですか。
佐々木直 野球のはじまりだったので、そのへんはどうでしたか。
稲葉 小中野の新丁に少年会を作って、野球の道具を買ったのは、私達の一年の頃です。月館直次郎さんたちが先にたって、五厘ずつ貯金して布のものを明治三十七・八年頃に使ったんです。佐々木直次郎さん達が十二円五十銭位集めて全部用意したんです。
大久保 明治の頃には対抗試合がやられたんですか。
波打 一番先に長者小学校でやりましたよ。
三河 小中野小学校で一番最初に三本木小学校とやりました。二回目は五戸小学校とやったんです。
大久保 明治四十一年という記録があります。三本木小学校と小中野小学校の校庭で野球競技をしたと、こう出ていますが、この時の服装はどうだったんですか?
稲葉 袴をはいてやった時もあり、ズボンがなく、股引にシャツの時代でした。
波打 長者小でやった対抗試合には、キャチャーがミット、一塁手もミット、投手はグローブを持つたか持たなかったかはっきりしないが、あとは全部空手であったんです。この時の試合は捕手が代理のため負けたんです。
大久保 そうすれば明治三十年代に素手で、もう野球をやったんですね。
稲葉 その頃は、野球ではなく、「ベースボール」と言ったんです。
大久保 大したもんでないですか。
稲葉 みんな英語を使ったもんです。ハハハハ:・。
夏掘 ボールは一、二、三号とあり、零号は普通の選手が使い、無号というのもあった。これは石を布で包み糸をまいたものだった。二、三回使えばグニヤグニヤとなったんです。
浪打 小中野の大弥さんが捕手で、山浦さんが投手でした。九州までその名が聞こえたんです。
夏掘 野球は本当に小中野が名門でしたね。うちの兄の頃などは、八中で九人のうち四人まで小中野出身でしめていたんです。柔道でも剣道でも野球でも、大将は必ず小中野でなければならなかった。そのため当時小中野の真似をして、八戸に学生団が誕生したが、これは小中野のイミテーションですね。学問でもそうでした。優等生というのは殆んど小中野で、銀は級長、金は優等生でしたが、必らず小中野の人達は何人かつけていたものだ。普通は文弱派と言われた佐藤亮一君など野球の名手だった。
大久保 丁度われわれの時代は、八木沢校長先生の時に在校していたが、その伜は運動に一番主力をそそいだというか、やらせたものですね。あのあたりは一番、その前後は隆盛でなかったのではないでしょうか。
同窓会これもピアノ寄付で復活
山浦 処女会をか、青年団とかは、大正八年にできています。
稲葉 処女会の初代の会長は富岡栄三さんの奥さんでした。
月宇 小中野小年会というのもあったが、その記録にはありませんか。
大久保 ありません。
月宇 青森に宮様がおいでになった時、唯お出迎えもでぎないので、小中野少年赤十字団という名をつけたったと思う。ガリ版で雑誌なども作った。
大久保 在学生でやったのですか。
月宇 そうです。
昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 2
小学校の思い出 小佐田武紀
なにしろ、もうかれこれ五〇年余りも古い昔のことなので、大方記憶もうすれてしまったが、私が青森から当時の八戸尋常小学校に転校したのは、確か、大正二年小学校二年の二学期のことだったと思う。校長は、小柄な梁瀬栄先生、担任は小向健児先生、隣りの組の担任は西川栄一郎先生、隣接校の八戸高等小学校長は稲葉万蔵先生(御子息で当時私より二、三級上の方が今東京でどこかの小学校長をしている)だった。同級生は四十人位だったと思う。その頃級長とか副級長とか、組長という制度があって、成績順できまり、右肩だったか、左肩だったかに紐で編んだ桜の花びらをかたどった様なものをつけることに成っていた。当時の同級生といえば、郡長の孫だった船越博(今丹羽家に養子となる)町長の息子だった北村廉、油屋の橋本弘(今の和吉さん)寺井五郎(当時は久保姓を名のっていた)中里弘、角谷信治、寺下岩蔵、高橋利吉、生田久四郎、青井、大橋、松浦、類家、大村、岩村、途中から転校してこられた松本清、田名部の諸君。それに戦死された橋本徳五郎、病没された、鈴木乙治、江口源吉、佐野川弘二、黒沢岩吉、沼館の諸君のことが思い浮んでくる。工藤辰四郎さんは、当時工藤英太郎といって隣りの西川先生の級だったし、阿部雅之介さんは一綾上だった。四年に成って担任が、師範の一部新卒の川守田先生に代った。兵隊靴に似た茶色の靴をはいた細面の川守田先生は、なにか新鮮なものを感じさせた記憶がある。五年足らずの小学校の生活だったが、その頃おぼろげながら一つの反抗心をいだいていたことがある。それは、級長とか、副級長とか、組長とかいう順位が、成績の良否もさることながら、家庭の財産とか、親父の社会的地位とかに相当左右されているのではないか(もちろん例外もあるが)ということをこども心にも意識し、非常な反発を感じてたことである。それが、六年になったとき、当時着任した郡長の長男めが隣りの組に転校してきたら、いきなり、級長(?)か組長(?)にさせられたのを見て、大いに義憤を感ずると共に、よし、私も大きくなったら郡長になってやろうと思ったことがあった。今では懐しい思い出の一つである。
汚い校舎だった。放課後交代で当番が掃除をし、すむと担任の先生の所に行って報告をし、先生の検査を得た後で下校するのだった。土ボコリが二センチも三センチもつもっていて、ちっとやそっとではきれいになるものではなかった。風でも強い日は、廊下は黄塵万丈だったような気がする。職掌柄、近頃全国各地の学校を視察するが、いつも自分の小学校の頃を思い浮べて、その立派なのに隔世の感をいだくのが常である。
また当時豆本がはやり、ジゴマとか、忍術とかが、はやっていたので、よく教室の窓から、忍術のまねをしてとびおりる生徒が多かったことを覚えている。
冬になると大きな四角な火鉢に火を起して暖をとるのだが、習字の時になると、墨汁が、寒さのために、すっているかたっぱしから凍るので、硯を火鉢にかざし乍ら、すみをすり、ほとぼりのさめない中に大急ぎでかいたのを覚えている。
教室では、ずっと船越博君と並んでいた。彼とは、中学も一緒、そして、私は途中で腎臓炎に成り、県立病院に一年近く入院し、退院した年に弘前高等学校に入学したのだが、はいってみると私の丁度前の席に船越君がおったのでびっくりしたものだった。私のために、わざわざ入学を待ってくれたのかと冗談をいったものだったが。それから、東大も一緒、こうして彼とは小学から大学まで、ずっと一緒に成った。これはまことに珍らしいことと思っている。
八戸を去って四十有余年、しかしなんといっても、小学校時代はなつかしい。時折今でも、その頃の数少い写真をひっぱり出しては、旧友をなつかしみ、思い出にふけることが多い。そんなとき、よくひょっこり、寺下岩蔵君が訪ねてくる。彼は東京にでてくると必ず訪ねてくる。私は、ずっと教官畑で今日まで終始したし、彼は社会人として今日まで終始した。彼と東京では、いつも一緒に歓談するのをきまりとしているが、彼の今日までの苦労、人生経験よりにしみ出る体験談は、私にとっても大いに稗益(ひえき・おぎない益すること。たすけとなること。役に立つこと)する所が多い。今では、彼の上京が楽しみの一つである。
最後に母校の発展と、旧友の健康と、不幸にして早逝された方々のご冥福を祈って擱筆(かくひつ・筆をおくこと。文章を書き終えること)する。(文部省視学官)
なつかしい三つの音 法師浜直吉
小学校を出てから五十年になる。いまでも私の耳底にのこっているなつかしい三つの音がある。
それは、まず学校のガラン、ガランの休みのカネと、パンパパンと鳴らしたテギ(拍子木)のことである。こんにちではどこの学校でも、やさしいオルゴールの音楽が流れているが、むかしの学校の始業と休みの知らせは、このテギとカネであった。カネといっても、手のついた鈴で、一時間の勉強が終れば小使さんは、そのカネを振りながら廊下を回る。むかしも今もおなじであろうが、休みを告げる音は心を開放する喜びの音である。子供たちは敏感で小使さんが廊下を回るまでもなく、小使室から出かける第一音がガランの「ガ」がひびくとそれを聞きとって、みんなの顔が思わずニッコリとなったものである。休み時間の十五分は、降らない日は外に出る。雨の日は雨天体操場へ(こんにちは体育館というが、そのころは体操バといった)必ず出たもので、教室に残っていると叱かられたものである。いまでは休み時間は便所へ行ってきて、次の勉強の準備をする時間だから外ででんぶぐる(跳びまわって遊ぶ)ことはやめろといわれるが、そのころはそのようになっていても、やはりでんぶぐる時間になっていた。そんなことで休むカネの音はほんとうに子供にとっては喜びの音であった。一方始業のテギは逆に心をひきしめる、いねば鞭のような緊張の音であった。授業がはじまってから三十分になると半テギといって一つずつパーン………パーンと鳴らし歩く、これはおなじ緊張音でも「もう少しだ」というわけで、やや、やわらかな音にひびく、いつの時代もおなじで勉強はいやなもの、遊ぶことはうれしいものである。
さて、もう一つの音は役場の時報の鐘の音である。なんといっても、おひるの食事はたのしいものであった。役場の鐘の時報は偶数を鳴らしていたので正午の鐘は十二鳴子、こんにちのように給食などはなく、お弁当をもってくる人と家へ行ってくる人とがあり、私は朔日町だったので、家に戻る組であった。正午のガラン、ガランが鳴ると、下駄箱の履物をとるのももどかしく草履をつっかけてとび出す。役場の前を通るときは、たいていは役場の小使さんが鐘楼で鐘をついていた。つく人はカネをつくとき鐘木を動かしながら調子をとってグンと引いてからゴーンとつく、それを見ていると鳴るのは、ソラ今だ、今だと思いながら鳴る瞬間の判断が当ると面白い。毎日のことながらヘンテツもないこんなことを見ながら通った。鐘が終ると急に空腹を感じて走る。履きものは草履だからマラソンの日が多かった。こんにちのように靴ははかなかったし、きものだったから下駄と草履だった、ぞうりも麻裏のような上等なものはマレで私のような貧乏ものはワラの冷飯ぞうりが外の常用であった。一銭のぞうりを買えば半月くらいも保てたのか一と月くらいも履けたのか記憶ははっきりしない。思うと同じようなぞうりが学校の下駄箱にたくさん並んでいても、よくも自分のものと他人のものとの区別はちゃんとわかっていたのは不思議のようなものである。このカネは朝の八時は登校のカネ、午後二時と四時は放課のカネ、一日中こうして聞くとはなしに役場のカネはわれわれを守ってくれた親しみの音であり、たのしみの音であった。思えば六年間は長い年月であった。明治から大正にかわり、四年制となり、男女別々の学校が合併になったし、長者校への分離もあった。いくつかの大きい変革があって大正二年の春、母校を巣立ったのであるが、今も私の机上に手垢に古びた一冊の辞書「言海」がある。この五十年間、机上に親しみ通したこの辞書は母校を忘れることの出来ない記念品である。われわれの時代に郡役所があって、地方きってのお偉がたである郡長があった。卒業のときには一校一冊、これを郡長賞として贈られることになっていた。どんな風の吹きまわしであったのか、その賞はボンクラの私がこの光栄に浴することになったのだが当時父も母も他に移住して私は叔父の家に預けられていた。卒業の日に、この分厚い言海を抱いて、畳も天井も煤けた誰も居ない室に戻り、たった一人でこの言海をひらいて遠い父母を思い出していたことをいまも覚えている。(岩手放送勤務)
歴史の回顧 校長 井畑信明
日本にはじめて学制がしかれたのは明治五年、本校が名実共に学校として誕生したのは明治六年で、日本の学枚教育史と共に育ってきた。創立当時は八戸小学といい、堀端町に本校があり、三つの分校をもっていた。それ以前には特別階層のため藩学や塾があったようだ。この八戸小学は国民教育として、全町民に文化のあかつきを告げる暇々の雄々しい鐘声であった。これから星霜実に九十年、思えばそれは長い歴史であり、途中幾多の変遷があった道程でもあった。九十年のあけくれ先生も兄童もひたむきに歩きつづけてここに幾多の人材をはぐくみ育て、歴史と伝統が一つの校風をうちたて今日に至った。この意義ある年にあたって、ありし日の過去を回想し、先輩のみなさんに敬意を表し次代への再出発点としたい。顧うに本校は明治六年四月に授業が開始され、毎月十六日が休みだったのを日曜をもって休日とするなど生活体制を整え、開校式を行ったのは九月六日のことだった。それからこの日を以て創立記念日として今日に至っている。児童数は三一〇名で授業料は三等に区分され一戸一人の児童のところは二銭、二人は三銭、三人は四銭とされた。明治十四年になって洋風の一大校舎が新築された。やがてこの年の八月には明治天皇の奥羽ご巡幸があり本校が行在所となり講堂が玉座にあてられ学校の名誉この上なかった。その建物は旧市立図書舘として最近まで保存されたことはお判りのことゝ思う。明治十九年に小学校令が公布され、四月に八戸小学を八戸尋常小学校と改めた。明治二十一年には当時の文相森有礼氏がお出でになって講演したこともある。明治二十三年に教育勅語が公布になり本校にもその謄本が下賜され、教育の基本方針が確立され昭和二十年の終戦まで教育の大本として尊重された。明治二十五年八月に八戸尋常小学校と高等小学校を併せて八戸尋常高等小学校と称した。明治三十三年に小学校令が改正になって授業料が廃止された。又明治四十年義務教育年限が改正された。これまで尋常科四年だけ義務で高等科四年は義務でなかった。この年尋常科は六年に延長され義務制になった。高等科は二年乃至三年として自由と改めた。明治四十三年に高等科を分離して八戸尋常小学校と元の校名に改めた。やがて大正時代になりはじめて大正十一年八月、有志の寄贈によってピアノが設備された。そして智育、徳育、体育の人間形成の方針が樹立された。
大正十三年五月十六日には八戸町大火により、児童の罹災九百三十三名に及び校舎を一時罹災者の避難の場所にした。この年七月に、校地を変更して県農事試験場たった現在の敷地を校地とした。昭和四年四月に新校舎即ち現在の校舎が竣工し、落成の式典を盛大にあげた。昭和十一年十二月柏崎小学校が新築され、学区を変更した。昭和十六年四月に国民学校合が制定になり八戸国民学校と改称した。そして所謂錬成教育の時代に入った。この間に集団学童疎開も行われた。昭和二十年八月九日敏艦載機の投下した焼夷弾により南校舎十教室を焼失した。昭和二十二年新憲法と教育基本法、学校教育法が新たに公布になり、教育方針と方法が一変した。そして校名を八戸小学校と改めた。一方今迄の父兄会が発展的解散をし、新たに父母と教師の会(PTA)が組織され新教育の基礎が出来た。やがて昭和二十三年に焼失した十教室も竣工し旧に復した。
昭和二十七年学区の改正によって六〇〇名の児童が吹上小学校に転籍になった。この年現在の校歌が改定され全校児童が愛唱するようになった。施設、設備も新教育の方向に添うて整備し始められた。昭和二十八年に八十周年を記念し、先輩功労者の慰霊祭を行い、沿革誌を整理し、学習環境の設備をした。爾来十年新教育の基本的指導要領に則り当局の理解と学区民の絶大な協力によって、施設、設備を充実し、近代教育の効率を期しつゝここに九十周年の式典を迎えることになった。
この九十年の歳月に万を数える卒業生と町民の協力によって築き上げられた本校の伝統は一つの校風を樹立した。この伝統は私どもに対する無言の啓示である。私どもは伝統に座することは易いがこれを時代に即応して次代に引きつぐことはむずかしいことであると思う。私たちは日に日に新たな心をもって精進をつづけ伝統の継承者であり、伝達者にならねばならない。名門の名に酔ってはいけない。然しこれを粗末にしてはならない。お互い自重して今後の八戸小学校を築き上げることを誓いたいものである。
伝統をさらに
八戸小学校創立九十周年記念事業協賛会長八戸小学校父母と教師の会会長 村山竹司
長い歴史と伝統をもった八戸小学校創立九十周年式典を十月十二日に挙げることができる意味において、誠に意義があると思います。
九十年の歴史の中から、名門校として、いくたの人材が輩出して、現在多方面にそれぞれの立場で活躍されておられるのも、歴史と伝統のもつ強みであり、喜ばしいことであると信しております。
過日、元校長先生から集まっていただいて開催した、「八戸小学校の思い出を語る座談会」でも、退職された先生方が、現在なお、学校に対する深い愛着をお持ちになられており、その当時、どんなに情熱を傾けて学校経営に当たられたかが推察されました。
また、開校当時の標識の石が、いくたびか校舎が移転した現在、玄関前の築山に自然の石として、風雪にたえ、九十年の長さと、そのもつ意義の深さを知って感慨無量でありました。一つの石の静かなたたずまいや、置かれた位置の確かさ。
そのような静かで堅実な伝統が、八戸小学校をして声望を高からしめたものであり、さらに、次代に受け継がれていくものと確信しております。
PTAが主となって、記念事業協賛会を組織し、学区内および会員の皆様のご尽力、ご協力によって学校にテレビ受像機を贈って、教育の近代化を進め、さらに深めることにより、進展する社会に対処でき、しかも、二十世紀後半の担い手である創造性豊かな児童の育成に専念していただくことは、大いに意義があるものと思っております。伝統を受け、さらに伝統をつくり上げていくことこそわたしたちの願いであります。
PTAが発足して、十七年になりますが、今日、九十周年記念行事をなし得ることも、会員の皆様のご支特のたまものであり、これまで育て上げてくださった先輩の皆様にも厚くお礼申し上げたいと存じます。
なにしろ、もうかれこれ五〇年余りも古い昔のことなので、大方記憶もうすれてしまったが、私が青森から当時の八戸尋常小学校に転校したのは、確か、大正二年小学校二年の二学期のことだったと思う。校長は、小柄な梁瀬栄先生、担任は小向健児先生、隣りの組の担任は西川栄一郎先生、隣接校の八戸高等小学校長は稲葉万蔵先生(御子息で当時私より二、三級上の方が今東京でどこかの小学校長をしている)だった。同級生は四十人位だったと思う。その頃級長とか副級長とか、組長という制度があって、成績順できまり、右肩だったか、左肩だったかに紐で編んだ桜の花びらをかたどった様なものをつけることに成っていた。当時の同級生といえば、郡長の孫だった船越博(今丹羽家に養子となる)町長の息子だった北村廉、油屋の橋本弘(今の和吉さん)寺井五郎(当時は久保姓を名のっていた)中里弘、角谷信治、寺下岩蔵、高橋利吉、生田久四郎、青井、大橋、松浦、類家、大村、岩村、途中から転校してこられた松本清、田名部の諸君。それに戦死された橋本徳五郎、病没された、鈴木乙治、江口源吉、佐野川弘二、黒沢岩吉、沼館の諸君のことが思い浮んでくる。工藤辰四郎さんは、当時工藤英太郎といって隣りの西川先生の級だったし、阿部雅之介さんは一綾上だった。四年に成って担任が、師範の一部新卒の川守田先生に代った。兵隊靴に似た茶色の靴をはいた細面の川守田先生は、なにか新鮮なものを感じさせた記憶がある。五年足らずの小学校の生活だったが、その頃おぼろげながら一つの反抗心をいだいていたことがある。それは、級長とか、副級長とか、組長とかいう順位が、成績の良否もさることながら、家庭の財産とか、親父の社会的地位とかに相当左右されているのではないか(もちろん例外もあるが)ということをこども心にも意識し、非常な反発を感じてたことである。それが、六年になったとき、当時着任した郡長の長男めが隣りの組に転校してきたら、いきなり、級長(?)か組長(?)にさせられたのを見て、大いに義憤を感ずると共に、よし、私も大きくなったら郡長になってやろうと思ったことがあった。今では懐しい思い出の一つである。
汚い校舎だった。放課後交代で当番が掃除をし、すむと担任の先生の所に行って報告をし、先生の検査を得た後で下校するのだった。土ボコリが二センチも三センチもつもっていて、ちっとやそっとではきれいになるものではなかった。風でも強い日は、廊下は黄塵万丈だったような気がする。職掌柄、近頃全国各地の学校を視察するが、いつも自分の小学校の頃を思い浮べて、その立派なのに隔世の感をいだくのが常である。
また当時豆本がはやり、ジゴマとか、忍術とかが、はやっていたので、よく教室の窓から、忍術のまねをしてとびおりる生徒が多かったことを覚えている。
冬になると大きな四角な火鉢に火を起して暖をとるのだが、習字の時になると、墨汁が、寒さのために、すっているかたっぱしから凍るので、硯を火鉢にかざし乍ら、すみをすり、ほとぼりのさめない中に大急ぎでかいたのを覚えている。
教室では、ずっと船越博君と並んでいた。彼とは、中学も一緒、そして、私は途中で腎臓炎に成り、県立病院に一年近く入院し、退院した年に弘前高等学校に入学したのだが、はいってみると私の丁度前の席に船越君がおったのでびっくりしたものだった。私のために、わざわざ入学を待ってくれたのかと冗談をいったものだったが。それから、東大も一緒、こうして彼とは小学から大学まで、ずっと一緒に成った。これはまことに珍らしいことと思っている。
八戸を去って四十有余年、しかしなんといっても、小学校時代はなつかしい。時折今でも、その頃の数少い写真をひっぱり出しては、旧友をなつかしみ、思い出にふけることが多い。そんなとき、よくひょっこり、寺下岩蔵君が訪ねてくる。彼は東京にでてくると必ず訪ねてくる。私は、ずっと教官畑で今日まで終始したし、彼は社会人として今日まで終始した。彼と東京では、いつも一緒に歓談するのをきまりとしているが、彼の今日までの苦労、人生経験よりにしみ出る体験談は、私にとっても大いに稗益(ひえき・おぎない益すること。たすけとなること。役に立つこと)する所が多い。今では、彼の上京が楽しみの一つである。
最後に母校の発展と、旧友の健康と、不幸にして早逝された方々のご冥福を祈って擱筆(かくひつ・筆をおくこと。文章を書き終えること)する。(文部省視学官)
なつかしい三つの音 法師浜直吉
小学校を出てから五十年になる。いまでも私の耳底にのこっているなつかしい三つの音がある。
それは、まず学校のガラン、ガランの休みのカネと、パンパパンと鳴らしたテギ(拍子木)のことである。こんにちではどこの学校でも、やさしいオルゴールの音楽が流れているが、むかしの学校の始業と休みの知らせは、このテギとカネであった。カネといっても、手のついた鈴で、一時間の勉強が終れば小使さんは、そのカネを振りながら廊下を回る。むかしも今もおなじであろうが、休みを告げる音は心を開放する喜びの音である。子供たちは敏感で小使さんが廊下を回るまでもなく、小使室から出かける第一音がガランの「ガ」がひびくとそれを聞きとって、みんなの顔が思わずニッコリとなったものである。休み時間の十五分は、降らない日は外に出る。雨の日は雨天体操場へ(こんにちは体育館というが、そのころは体操バといった)必ず出たもので、教室に残っていると叱かられたものである。いまでは休み時間は便所へ行ってきて、次の勉強の準備をする時間だから外ででんぶぐる(跳びまわって遊ぶ)ことはやめろといわれるが、そのころはそのようになっていても、やはりでんぶぐる時間になっていた。そんなことで休むカネの音はほんとうに子供にとっては喜びの音であった。一方始業のテギは逆に心をひきしめる、いねば鞭のような緊張の音であった。授業がはじまってから三十分になると半テギといって一つずつパーン………パーンと鳴らし歩く、これはおなじ緊張音でも「もう少しだ」というわけで、やや、やわらかな音にひびく、いつの時代もおなじで勉強はいやなもの、遊ぶことはうれしいものである。
さて、もう一つの音は役場の時報の鐘の音である。なんといっても、おひるの食事はたのしいものであった。役場の鐘の時報は偶数を鳴らしていたので正午の鐘は十二鳴子、こんにちのように給食などはなく、お弁当をもってくる人と家へ行ってくる人とがあり、私は朔日町だったので、家に戻る組であった。正午のガラン、ガランが鳴ると、下駄箱の履物をとるのももどかしく草履をつっかけてとび出す。役場の前を通るときは、たいていは役場の小使さんが鐘楼で鐘をついていた。つく人はカネをつくとき鐘木を動かしながら調子をとってグンと引いてからゴーンとつく、それを見ていると鳴るのは、ソラ今だ、今だと思いながら鳴る瞬間の判断が当ると面白い。毎日のことながらヘンテツもないこんなことを見ながら通った。鐘が終ると急に空腹を感じて走る。履きものは草履だからマラソンの日が多かった。こんにちのように靴ははかなかったし、きものだったから下駄と草履だった、ぞうりも麻裏のような上等なものはマレで私のような貧乏ものはワラの冷飯ぞうりが外の常用であった。一銭のぞうりを買えば半月くらいも保てたのか一と月くらいも履けたのか記憶ははっきりしない。思うと同じようなぞうりが学校の下駄箱にたくさん並んでいても、よくも自分のものと他人のものとの区別はちゃんとわかっていたのは不思議のようなものである。このカネは朝の八時は登校のカネ、午後二時と四時は放課のカネ、一日中こうして聞くとはなしに役場のカネはわれわれを守ってくれた親しみの音であり、たのしみの音であった。思えば六年間は長い年月であった。明治から大正にかわり、四年制となり、男女別々の学校が合併になったし、長者校への分離もあった。いくつかの大きい変革があって大正二年の春、母校を巣立ったのであるが、今も私の机上に手垢に古びた一冊の辞書「言海」がある。この五十年間、机上に親しみ通したこの辞書は母校を忘れることの出来ない記念品である。われわれの時代に郡役所があって、地方きってのお偉がたである郡長があった。卒業のときには一校一冊、これを郡長賞として贈られることになっていた。どんな風の吹きまわしであったのか、その賞はボンクラの私がこの光栄に浴することになったのだが当時父も母も他に移住して私は叔父の家に預けられていた。卒業の日に、この分厚い言海を抱いて、畳も天井も煤けた誰も居ない室に戻り、たった一人でこの言海をひらいて遠い父母を思い出していたことをいまも覚えている。(岩手放送勤務)
歴史の回顧 校長 井畑信明
日本にはじめて学制がしかれたのは明治五年、本校が名実共に学校として誕生したのは明治六年で、日本の学枚教育史と共に育ってきた。創立当時は八戸小学といい、堀端町に本校があり、三つの分校をもっていた。それ以前には特別階層のため藩学や塾があったようだ。この八戸小学は国民教育として、全町民に文化のあかつきを告げる暇々の雄々しい鐘声であった。これから星霜実に九十年、思えばそれは長い歴史であり、途中幾多の変遷があった道程でもあった。九十年のあけくれ先生も兄童もひたむきに歩きつづけてここに幾多の人材をはぐくみ育て、歴史と伝統が一つの校風をうちたて今日に至った。この意義ある年にあたって、ありし日の過去を回想し、先輩のみなさんに敬意を表し次代への再出発点としたい。顧うに本校は明治六年四月に授業が開始され、毎月十六日が休みだったのを日曜をもって休日とするなど生活体制を整え、開校式を行ったのは九月六日のことだった。それからこの日を以て創立記念日として今日に至っている。児童数は三一〇名で授業料は三等に区分され一戸一人の児童のところは二銭、二人は三銭、三人は四銭とされた。明治十四年になって洋風の一大校舎が新築された。やがてこの年の八月には明治天皇の奥羽ご巡幸があり本校が行在所となり講堂が玉座にあてられ学校の名誉この上なかった。その建物は旧市立図書舘として最近まで保存されたことはお判りのことゝ思う。明治十九年に小学校令が公布され、四月に八戸小学を八戸尋常小学校と改めた。明治二十一年には当時の文相森有礼氏がお出でになって講演したこともある。明治二十三年に教育勅語が公布になり本校にもその謄本が下賜され、教育の基本方針が確立され昭和二十年の終戦まで教育の大本として尊重された。明治二十五年八月に八戸尋常小学校と高等小学校を併せて八戸尋常高等小学校と称した。明治三十三年に小学校令が改正になって授業料が廃止された。又明治四十年義務教育年限が改正された。これまで尋常科四年だけ義務で高等科四年は義務でなかった。この年尋常科は六年に延長され義務制になった。高等科は二年乃至三年として自由と改めた。明治四十三年に高等科を分離して八戸尋常小学校と元の校名に改めた。やがて大正時代になりはじめて大正十一年八月、有志の寄贈によってピアノが設備された。そして智育、徳育、体育の人間形成の方針が樹立された。
大正十三年五月十六日には八戸町大火により、児童の罹災九百三十三名に及び校舎を一時罹災者の避難の場所にした。この年七月に、校地を変更して県農事試験場たった現在の敷地を校地とした。昭和四年四月に新校舎即ち現在の校舎が竣工し、落成の式典を盛大にあげた。昭和十一年十二月柏崎小学校が新築され、学区を変更した。昭和十六年四月に国民学校合が制定になり八戸国民学校と改称した。そして所謂錬成教育の時代に入った。この間に集団学童疎開も行われた。昭和二十年八月九日敏艦載機の投下した焼夷弾により南校舎十教室を焼失した。昭和二十二年新憲法と教育基本法、学校教育法が新たに公布になり、教育方針と方法が一変した。そして校名を八戸小学校と改めた。一方今迄の父兄会が発展的解散をし、新たに父母と教師の会(PTA)が組織され新教育の基礎が出来た。やがて昭和二十三年に焼失した十教室も竣工し旧に復した。
昭和二十七年学区の改正によって六〇〇名の児童が吹上小学校に転籍になった。この年現在の校歌が改定され全校児童が愛唱するようになった。施設、設備も新教育の方向に添うて整備し始められた。昭和二十八年に八十周年を記念し、先輩功労者の慰霊祭を行い、沿革誌を整理し、学習環境の設備をした。爾来十年新教育の基本的指導要領に則り当局の理解と学区民の絶大な協力によって、施設、設備を充実し、近代教育の効率を期しつゝここに九十周年の式典を迎えることになった。
この九十年の歳月に万を数える卒業生と町民の協力によって築き上げられた本校の伝統は一つの校風を樹立した。この伝統は私どもに対する無言の啓示である。私どもは伝統に座することは易いがこれを時代に即応して次代に引きつぐことはむずかしいことであると思う。私たちは日に日に新たな心をもって精進をつづけ伝統の継承者であり、伝達者にならねばならない。名門の名に酔ってはいけない。然しこれを粗末にしてはならない。お互い自重して今後の八戸小学校を築き上げることを誓いたいものである。
伝統をさらに
八戸小学校創立九十周年記念事業協賛会長八戸小学校父母と教師の会会長 村山竹司
長い歴史と伝統をもった八戸小学校創立九十周年式典を十月十二日に挙げることができる意味において、誠に意義があると思います。
九十年の歴史の中から、名門校として、いくたの人材が輩出して、現在多方面にそれぞれの立場で活躍されておられるのも、歴史と伝統のもつ強みであり、喜ばしいことであると信しております。
過日、元校長先生から集まっていただいて開催した、「八戸小学校の思い出を語る座談会」でも、退職された先生方が、現在なお、学校に対する深い愛着をお持ちになられており、その当時、どんなに情熱を傾けて学校経営に当たられたかが推察されました。
また、開校当時の標識の石が、いくたびか校舎が移転した現在、玄関前の築山に自然の石として、風雪にたえ、九十年の長さと、そのもつ意義の深さを知って感慨無量でありました。一つの石の静かなたたずまいや、置かれた位置の確かさ。
そのような静かで堅実な伝統が、八戸小学校をして声望を高からしめたものであり、さらに、次代に受け継がれていくものと確信しております。
PTAが主となって、記念事業協賛会を組織し、学区内および会員の皆様のご尽力、ご協力によって学校にテレビ受像機を贈って、教育の近代化を進め、さらに深めることにより、進展する社会に対処でき、しかも、二十世紀後半の担い手である創造性豊かな児童の育成に専念していただくことは、大いに意義があるものと思っております。伝統を受け、さらに伝統をつくり上げていくことこそわたしたちの願いであります。
PTAが発足して、十七年になりますが、今日、九十周年記念行事をなし得ることも、会員の皆様のご支特のたまものであり、これまで育て上げてくださった先輩の皆様にも厚くお礼申し上げたいと存じます。
山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 6
西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
三十三、師家に講本を差図するとは不屈な奴
禅宗の修行寺に於ては、入門希望者が来た時に、最初は庭詰といって、庭先で問答して、入門希望者の求道心の深浅の程度をテストする。その意志が強固であり、正しくあり、真剣であると認められた者を旦過寮といって仮に入門を許可して、試験する室に通す。そこで坐禅させ、又作法など指導しながら人物考査をする。そこで合格した者が入門となり、掛塔式といって、入門式と各自が坐禅し、勉学し、修行し、食事し、就寝する単という畳一枚の空門を与えられる式を厳粛に行なって、一人前の修行者の取扱をされるのであります。更に経典、祖録等の講義を聴くのにも、その人の力量によって、師家(教授)様の眼識によって、順序が定められるのであります。
金英和尚が月潭老人に入門した時の力量は今の大学なら修士課程を終えて、講師を勤めうる段階であったと思います。駒込の栴檀林在学中に竹庵先生から四書五経を学び、一般宗教学は慧亮教授から学び、正法眼識を愚禅師から学んだのであるから相当の自信がありました。求道心に燃える金英和尚が、入門後間もなく「御老師様は正法眼蔵の権威者と聞いて参りました。どうぞ、眼蔵の御提唱を御願い致します」と申しあげると、
月潭「自分の力も知らずに、師家に講本の指図するとは不届きな奴だ。宗乗を提唱するには順序があるぞ。その位のことも知らぬ無礼者、出てゆけ」と、はげしく叱られた。ハッと気づいた金英和尚「お許し下さい、失礼しました」と平あやまりにあやまって、ようやく許されたのであります。
その後、余乗といって、一般の仏教経典の講義から宗乗といって、学道用心集とか祖録等の提唱を聞いている中に、相当の力量がある事が認められて、特に円覚経の請義を丁寧にして下さり、眼蔵提唱の準備を進められたのであった。昔の師家様は親切であると思います。更に金英の二字は雅訓の作法上まずいと仰ってて月潭老人自ら?英と改めて下さったのであります。月潭老人は、きびしい反面に、このように親切な心くばりのやさしさもありました。
穆山和尚は、この年の六月十日に、どうしても、仙台に行かねばならぬ用件が出来たのであります。その時、月潭老人は、門下の者に円覚経の講義中でありましたが、わざわざ穆山和尚の為に餞別の掲(詩)を作って下さいました。それは
穆山和上天暑中仙台に游ぶを送る。と題して、
往昔文殊三越の居
飲光槌を挙して親疎を絶す
仙白道ふこと勿れ干余里と
円覚場中都て一蘆
右月潭拝草
己酉六月初十日
有難いではありませんか、門弟に対して、「拝草」を書き、文殊様々飲先様を引き合せて、仏性のない、信心の薄いといわれる仙台に千余里の道程を踏破してゆく弟子に励ましの親疎を飛び越えた親しい愛情をかけて送って下さる御師家様の円覚(えんがく・円満な悟り。一切衆生しゆじようの中にある悟りの本性(本覚)をいう)の御心境は。
三十四、穆山と担山
嘉永三年(一九五〇)穆山和尚三十歳となりました。栴檀林に修学していた穆山和尚が、鳳林寺の住職や栴檀林の諸役を辞任して入門したという事を聞いた原担山がやって来て、月潭門下の人となりました。二人とも豪傑肌で意気投合していたが、或日二人が所用で出掛けて大井川を越える事になった。川岸に来ると一人の妙齢な女性が居て行先が同じであったので穆山がヒョイとおぶって川を越えてやった。ところが向う岸から一緒に歩いている担山が如何にも不服そうな顔をしていた。穆山が担山にどうしたんだと聞いたら、担山がかっとして
「なんだ修行中の者が女など背負って」と攻撃してきた。
穆山即座に「ナンダ君は未だ女な抱いているのか、僕は川岸で捨ててきて何もないよ」とやり返したのである。
二人とも負けず嫌いであったが、穆山は後世大本川総持寺独住第三世の貫首となり片や担山は総理大臣黒田清隆に応援されて、小田原市大雄山最乗寺の住職御前様となり、又帝国大学の印度哲学科の創立者として迎えられ、今日の東大印度哲学の隆盛の基礎を築いたのであります。
この担山師には次の如き逸話がある。
担山和尚は明治政府が廃仏毀釈をやっておもしろくないので一時還俗して、浅草の雷門に陣取って、貧乏徳利を股にはさんでチビリチビリやりながら占い師をやっていた。そこにひげから鼻が出たような頁黒い奴がやって来て、見てくれというから、しばらくひげ面を見ていたが、
「お前のような奴は見る必要がない」と突ぱねた。ひげ面「どうして」というから、
担山「自分にきけ」と急所を突いた。
それから半月たって、内務省から担山和尚に出て来いという公文書が舞いこんだ。担山が出頭してみると、浅草で人相を見てやったひげ面がいる。黒田清隆大臣である。その外各大臣がずらりと並んでいて担山に仏教の話をせよという。
担山和尚は傍若無人にあごのひげをひねりながら「達磨にはひげがある。担山にもひげがある。達磨は酒を飲まない。担山は酒を飲む」とやってのけた。これが機緑となって、原担山和尚は小田原市の名刹大雄山最乗寺の住職となって活躍したのであります。
明治三傑の大西郷も大久保利道も共に、大本山永平寺の六十世臥雲禅師について参禅し、無我の思想を学んだのであります。大久保内務郷の如きは暇さえあれば、省内で仏教の無我論を吹聴したということである。この大久保内務郷が或る日曜日に小石川の茗荷谷に居った原担山を訪問して、大いに仏教の無我論を礼讃してやまなかった。担山和尚は、にやにや笑っていたが、いきなり鼻血の出るほど強く大久保利道の鼻をねぢったのである。内務郷は真赤になって怒り
「この坊生けしからんことをする」と怒鳴った。担山和尚相変らずにやりにやりと笑いながら
「無我なら腹を立てんでもよいな」
といって平気でおった。
この豪傑担山和尚は月潭老人の門下生として三ケ月しか居らなかったが、この力量を得たからたいしたものである。穆山和尚は月潭門下として十二年間精励して、その真髄を全得したのだから、その力量は計り知れぬわけである。
三十五、後輩達に漢籍祖録を講義した
嘉永四年(一八五一年)三十一歳
穆山和尚は既に栴檀林時代に竹庵先生から四書五経を学び、愚禅老師から限蔵及び碧巌録等の祖録を学び、月潭老人より円覚経及び御経祖録等の提唱を受けて、典座(てんぞ・(ゾは唐音) 禅寺で、食事などの事をつかさどる役僧)の職に就いた頃(三十一歳)は月潭老人も認める一家の宗乗家となっていた。それで、直接月潭老人の提唱に葉歯が立たぬ修学僧も多く居たから、それ等修学僧の為に典座寮に講座を設けて、四書五経の素読をしてやり、典座教訓、参同契、宝鏡三昧、学道用心集など、その外簡易な宗乗を講釈して後輩達の実力をつけてやったのであります。
暗夜の中で命ぜられた本を引き出す
嘉永五年(一八五二)三十二歳
月潭老人は大変な蔵書家で、二本立の本箱を三十箱も持たれ書庫にならべていた。穆山和尚はこの書庫の管理をまかされていた。
月潭「穆山眼蔵註解書第何巻を持って来い」と命ぜられると、暗夜手さぐりで間違いなく、即刻持参出来るようになった。最初は「命ずると同時の催促」の老人の家風であるから、明りをつけ、目録を見、本箱をしらべている中に、「なにをしておるか、早く持ってこい、この間抜め」と怒鳴られたのでありますが、何千冊という書物は書棚の大きさと共に、穆山和尚の脳裏にきちんと整理されていたのであります。
三十六、注文と催促が同時
嘉永六年(一八五三)三十三歳
月潭老人は来客があり用談が済むと典座和尚を呼び、「何か御馳走を頼む」と命じ、穆山典座が典座寮に帰ると、すぐ追いかけて行者(あんじゃ・小間使)にお膳を取りによこす、その時、速刻御膳を持たせてやらぬと御気嫌が悪い。そして御気嫌が治る迄、講義も提唱も中止となる。注文と催促とが同時である。又来客がこの老人の気性を知るようになって、典座寮を困らせない為に、老人がまあまあというのを無理に帰ったら、又大変、講義も提唱も中止でどうすることも出来ない。普通の心掛けでは老人の御気嫌を損ぜぬように出来ない。
穆山和尚は門の中に足音が間えると、障子を細目にあけて、あのお客には御膳を出さねばならぬと判断すると、即刻部下を集めて、お前はお米をとげ、お前は海苔をやけ、お前はやっこ豆腐をつくれ、お前はお燗の支度をしろといいつけて、それぞれ準備を完了して、老人の呼び出しを持つ、予期通り行者が呼びに来る。何くわぬ顔して老人のお話しを聞く、典座寮に引き返すと同時に行者が御膳を取りにくる、一品をつけて御膳を即刻持たせてやる。そして次から次へと準備の料理を運ばせる。月潭老人は大喜満悦で講義にも提唱にも一段と力が入るという工合でした。この典座の役を七ケ年間つとめあげたのが、穆山禅師であります。曹洞宗宗祖道元禅師は「典座教訓」という著述をなされ、料理人としての心得を「人間最上の聖なるつとめ」として親切丁寧に訓戒されております。真実人間の生命否聖人の聖体を保養し、その生命を活かす聖業が典座(料理部長)の任務であります。そして、俊豪月潭老人の活機論と俊英穆山和尚の求道の大願心とが来客用の料理板上に於て交錯転展して停止するところを知らなかったのであります。
三十七、便所掃除して陰徳を積む
安政一年(一八五四)三十四歳
金沢加賀百万石の大乗寺に於て、開山五百年大遠忌が行われた。この大乗寺は、徹通義介禅師の開山した寺で、穆山和尚より十代前の先祖月舟宗胡禅師が中興となっています。
こうした名刹の開山忌には多くの善知識が全国からお集まりになるので、そうした知識にお目にかかりたいと思って、一週間の大法要に参加したのであります。そして深夜人の寝しずまったのち、二百人の会衆がよごした便所をひそかに掃除して陰徳を積んだのであります。便所掃除ということは修行が相当進んだ人でなければ出来ないとされております。修行で染汚(せんお・けがれること。また、けがすこと)といってよごれている。きたないという心が起るようでは未だ未熟であるこれに対して不染汚というのはよごさない。よごれていないという意味でありますが、よごさない、よごす、きたない、きれいだという不染汚、染汚の二見が相対するようでは未熟であります。きたないと感じ、いやな臭いだと自覚を迷わせる便所を夜ひそかに自分が善い事をしているのだという考えを持たずに、徳行を重ねるのが陰徳であります。
穆山和尚は禅師となられてからも「お前はまだ便所掃除は出来ないよ」と相当修行の進んだお弟子さんに申されたそうであります。穆山和尚は二百人もの善知識が染汚された便所を聖人の行として不染汚の行を積まれたのであります。
三十八、三島市郊外如来寺を復興す
安政二年(一八五五)三十五歳
静岡県三島市郊外長泉町中上狩に如来寺と云う寺があります。この寺は穆山和尚が住職する以前は平僧地という一ケ寺の資格の無い寺でした。穆山和尚はこれを修理改築して、法地という一ケ寺の位を取り、恩師月潭老人を開山と請勧し、自分は中興二世となっております。私は昭和四十六年八月に如来寺を訪門して、穆山和尚の人間離れした威神力に打たれました。昔から「箱根八里は馬で越す」とか、「箱根の山は天下の嶮」というように、武具に身をかためて馬で通っても身の毛がよだつ場所がたくさんある箱根の嶮路を網代笠一つで毎日往復したというからその求道心と教支育児の激烈さに驚く。
私が正確に計らせたところ、如来寺から海蔵寺までは十里あります。この十里の嶮路を往復して、如来寺では自分を慕い集まって来た修行僧の為に、経典や祖録を講義し、海蔵寺では月潭老人の正法眼蔵を活きたまま捉えるために、心血を注いだ穆山和尚の勇姿を、箱根の山中に立って偲んだ時、私の目から涙が無性に流れてどうすることも出来なかった。そして天下第一の正師に一度でも会いたかったという慕情の激流が静かな葦の湖の水面に向って、はげしく走っていった。
如来寺八世黒田真禅師夫人の語るには「禅師様在住の時には檀家は二十戸しかなかった。現在は百五十戸になりました。禅師様のご苦労を偲ぶと涙が出てきます」と目頭を熱くしていました。
今の如末寺は三門、本堂、庫裡、観音堂など立派に建立されて、禅師の徳を讃えています。
三十三、師家に講本を差図するとは不屈な奴
禅宗の修行寺に於ては、入門希望者が来た時に、最初は庭詰といって、庭先で問答して、入門希望者の求道心の深浅の程度をテストする。その意志が強固であり、正しくあり、真剣であると認められた者を旦過寮といって仮に入門を許可して、試験する室に通す。そこで坐禅させ、又作法など指導しながら人物考査をする。そこで合格した者が入門となり、掛塔式といって、入門式と各自が坐禅し、勉学し、修行し、食事し、就寝する単という畳一枚の空門を与えられる式を厳粛に行なって、一人前の修行者の取扱をされるのであります。更に経典、祖録等の講義を聴くのにも、その人の力量によって、師家(教授)様の眼識によって、順序が定められるのであります。
金英和尚が月潭老人に入門した時の力量は今の大学なら修士課程を終えて、講師を勤めうる段階であったと思います。駒込の栴檀林在学中に竹庵先生から四書五経を学び、一般宗教学は慧亮教授から学び、正法眼識を愚禅師から学んだのであるから相当の自信がありました。求道心に燃える金英和尚が、入門後間もなく「御老師様は正法眼蔵の権威者と聞いて参りました。どうぞ、眼蔵の御提唱を御願い致します」と申しあげると、
月潭「自分の力も知らずに、師家に講本の指図するとは不届きな奴だ。宗乗を提唱するには順序があるぞ。その位のことも知らぬ無礼者、出てゆけ」と、はげしく叱られた。ハッと気づいた金英和尚「お許し下さい、失礼しました」と平あやまりにあやまって、ようやく許されたのであります。
その後、余乗といって、一般の仏教経典の講義から宗乗といって、学道用心集とか祖録等の提唱を聞いている中に、相当の力量がある事が認められて、特に円覚経の請義を丁寧にして下さり、眼蔵提唱の準備を進められたのであった。昔の師家様は親切であると思います。更に金英の二字は雅訓の作法上まずいと仰ってて月潭老人自ら?英と改めて下さったのであります。月潭老人は、きびしい反面に、このように親切な心くばりのやさしさもありました。
穆山和尚は、この年の六月十日に、どうしても、仙台に行かねばならぬ用件が出来たのであります。その時、月潭老人は、門下の者に円覚経の講義中でありましたが、わざわざ穆山和尚の為に餞別の掲(詩)を作って下さいました。それは
穆山和上天暑中仙台に游ぶを送る。と題して、
往昔文殊三越の居
飲光槌を挙して親疎を絶す
仙白道ふこと勿れ干余里と
円覚場中都て一蘆
右月潭拝草
己酉六月初十日
有難いではありませんか、門弟に対して、「拝草」を書き、文殊様々飲先様を引き合せて、仏性のない、信心の薄いといわれる仙台に千余里の道程を踏破してゆく弟子に励ましの親疎を飛び越えた親しい愛情をかけて送って下さる御師家様の円覚(えんがく・円満な悟り。一切衆生しゆじようの中にある悟りの本性(本覚)をいう)の御心境は。
三十四、穆山と担山
嘉永三年(一九五〇)穆山和尚三十歳となりました。栴檀林に修学していた穆山和尚が、鳳林寺の住職や栴檀林の諸役を辞任して入門したという事を聞いた原担山がやって来て、月潭門下の人となりました。二人とも豪傑肌で意気投合していたが、或日二人が所用で出掛けて大井川を越える事になった。川岸に来ると一人の妙齢な女性が居て行先が同じであったので穆山がヒョイとおぶって川を越えてやった。ところが向う岸から一緒に歩いている担山が如何にも不服そうな顔をしていた。穆山が担山にどうしたんだと聞いたら、担山がかっとして
「なんだ修行中の者が女など背負って」と攻撃してきた。
穆山即座に「ナンダ君は未だ女な抱いているのか、僕は川岸で捨ててきて何もないよ」とやり返したのである。
二人とも負けず嫌いであったが、穆山は後世大本川総持寺独住第三世の貫首となり片や担山は総理大臣黒田清隆に応援されて、小田原市大雄山最乗寺の住職御前様となり、又帝国大学の印度哲学科の創立者として迎えられ、今日の東大印度哲学の隆盛の基礎を築いたのであります。
この担山師には次の如き逸話がある。
担山和尚は明治政府が廃仏毀釈をやっておもしろくないので一時還俗して、浅草の雷門に陣取って、貧乏徳利を股にはさんでチビリチビリやりながら占い師をやっていた。そこにひげから鼻が出たような頁黒い奴がやって来て、見てくれというから、しばらくひげ面を見ていたが、
「お前のような奴は見る必要がない」と突ぱねた。ひげ面「どうして」というから、
担山「自分にきけ」と急所を突いた。
それから半月たって、内務省から担山和尚に出て来いという公文書が舞いこんだ。担山が出頭してみると、浅草で人相を見てやったひげ面がいる。黒田清隆大臣である。その外各大臣がずらりと並んでいて担山に仏教の話をせよという。
担山和尚は傍若無人にあごのひげをひねりながら「達磨にはひげがある。担山にもひげがある。達磨は酒を飲まない。担山は酒を飲む」とやってのけた。これが機緑となって、原担山和尚は小田原市の名刹大雄山最乗寺の住職となって活躍したのであります。
明治三傑の大西郷も大久保利道も共に、大本山永平寺の六十世臥雲禅師について参禅し、無我の思想を学んだのであります。大久保内務郷の如きは暇さえあれば、省内で仏教の無我論を吹聴したということである。この大久保内務郷が或る日曜日に小石川の茗荷谷に居った原担山を訪問して、大いに仏教の無我論を礼讃してやまなかった。担山和尚は、にやにや笑っていたが、いきなり鼻血の出るほど強く大久保利道の鼻をねぢったのである。内務郷は真赤になって怒り
「この坊生けしからんことをする」と怒鳴った。担山和尚相変らずにやりにやりと笑いながら
「無我なら腹を立てんでもよいな」
といって平気でおった。
この豪傑担山和尚は月潭老人の門下生として三ケ月しか居らなかったが、この力量を得たからたいしたものである。穆山和尚は月潭門下として十二年間精励して、その真髄を全得したのだから、その力量は計り知れぬわけである。
三十五、後輩達に漢籍祖録を講義した
嘉永四年(一八五一年)三十一歳
穆山和尚は既に栴檀林時代に竹庵先生から四書五経を学び、愚禅老師から限蔵及び碧巌録等の祖録を学び、月潭老人より円覚経及び御経祖録等の提唱を受けて、典座(てんぞ・(ゾは唐音) 禅寺で、食事などの事をつかさどる役僧)の職に就いた頃(三十一歳)は月潭老人も認める一家の宗乗家となっていた。それで、直接月潭老人の提唱に葉歯が立たぬ修学僧も多く居たから、それ等修学僧の為に典座寮に講座を設けて、四書五経の素読をしてやり、典座教訓、参同契、宝鏡三昧、学道用心集など、その外簡易な宗乗を講釈して後輩達の実力をつけてやったのであります。
暗夜の中で命ぜられた本を引き出す
嘉永五年(一八五二)三十二歳
月潭老人は大変な蔵書家で、二本立の本箱を三十箱も持たれ書庫にならべていた。穆山和尚はこの書庫の管理をまかされていた。
月潭「穆山眼蔵註解書第何巻を持って来い」と命ぜられると、暗夜手さぐりで間違いなく、即刻持参出来るようになった。最初は「命ずると同時の催促」の老人の家風であるから、明りをつけ、目録を見、本箱をしらべている中に、「なにをしておるか、早く持ってこい、この間抜め」と怒鳴られたのでありますが、何千冊という書物は書棚の大きさと共に、穆山和尚の脳裏にきちんと整理されていたのであります。
三十六、注文と催促が同時
嘉永六年(一八五三)三十三歳
月潭老人は来客があり用談が済むと典座和尚を呼び、「何か御馳走を頼む」と命じ、穆山典座が典座寮に帰ると、すぐ追いかけて行者(あんじゃ・小間使)にお膳を取りによこす、その時、速刻御膳を持たせてやらぬと御気嫌が悪い。そして御気嫌が治る迄、講義も提唱も中止となる。注文と催促とが同時である。又来客がこの老人の気性を知るようになって、典座寮を困らせない為に、老人がまあまあというのを無理に帰ったら、又大変、講義も提唱も中止でどうすることも出来ない。普通の心掛けでは老人の御気嫌を損ぜぬように出来ない。
穆山和尚は門の中に足音が間えると、障子を細目にあけて、あのお客には御膳を出さねばならぬと判断すると、即刻部下を集めて、お前はお米をとげ、お前は海苔をやけ、お前はやっこ豆腐をつくれ、お前はお燗の支度をしろといいつけて、それぞれ準備を完了して、老人の呼び出しを持つ、予期通り行者が呼びに来る。何くわぬ顔して老人のお話しを聞く、典座寮に引き返すと同時に行者が御膳を取りにくる、一品をつけて御膳を即刻持たせてやる。そして次から次へと準備の料理を運ばせる。月潭老人は大喜満悦で講義にも提唱にも一段と力が入るという工合でした。この典座の役を七ケ年間つとめあげたのが、穆山禅師であります。曹洞宗宗祖道元禅師は「典座教訓」という著述をなされ、料理人としての心得を「人間最上の聖なるつとめ」として親切丁寧に訓戒されております。真実人間の生命否聖人の聖体を保養し、その生命を活かす聖業が典座(料理部長)の任務であります。そして、俊豪月潭老人の活機論と俊英穆山和尚の求道の大願心とが来客用の料理板上に於て交錯転展して停止するところを知らなかったのであります。
三十七、便所掃除して陰徳を積む
安政一年(一八五四)三十四歳
金沢加賀百万石の大乗寺に於て、開山五百年大遠忌が行われた。この大乗寺は、徹通義介禅師の開山した寺で、穆山和尚より十代前の先祖月舟宗胡禅師が中興となっています。
こうした名刹の開山忌には多くの善知識が全国からお集まりになるので、そうした知識にお目にかかりたいと思って、一週間の大法要に参加したのであります。そして深夜人の寝しずまったのち、二百人の会衆がよごした便所をひそかに掃除して陰徳を積んだのであります。便所掃除ということは修行が相当進んだ人でなければ出来ないとされております。修行で染汚(せんお・けがれること。また、けがすこと)といってよごれている。きたないという心が起るようでは未だ未熟であるこれに対して不染汚というのはよごさない。よごれていないという意味でありますが、よごさない、よごす、きたない、きれいだという不染汚、染汚の二見が相対するようでは未熟であります。きたないと感じ、いやな臭いだと自覚を迷わせる便所を夜ひそかに自分が善い事をしているのだという考えを持たずに、徳行を重ねるのが陰徳であります。
穆山和尚は禅師となられてからも「お前はまだ便所掃除は出来ないよ」と相当修行の進んだお弟子さんに申されたそうであります。穆山和尚は二百人もの善知識が染汚された便所を聖人の行として不染汚の行を積まれたのであります。
三十八、三島市郊外如来寺を復興す
安政二年(一八五五)三十五歳
静岡県三島市郊外長泉町中上狩に如来寺と云う寺があります。この寺は穆山和尚が住職する以前は平僧地という一ケ寺の資格の無い寺でした。穆山和尚はこれを修理改築して、法地という一ケ寺の位を取り、恩師月潭老人を開山と請勧し、自分は中興二世となっております。私は昭和四十六年八月に如来寺を訪門して、穆山和尚の人間離れした威神力に打たれました。昔から「箱根八里は馬で越す」とか、「箱根の山は天下の嶮」というように、武具に身をかためて馬で通っても身の毛がよだつ場所がたくさんある箱根の嶮路を網代笠一つで毎日往復したというからその求道心と教支育児の激烈さに驚く。
私が正確に計らせたところ、如来寺から海蔵寺までは十里あります。この十里の嶮路を往復して、如来寺では自分を慕い集まって来た修行僧の為に、経典や祖録を講義し、海蔵寺では月潭老人の正法眼蔵を活きたまま捉えるために、心血を注いだ穆山和尚の勇姿を、箱根の山中に立って偲んだ時、私の目から涙が無性に流れてどうすることも出来なかった。そして天下第一の正師に一度でも会いたかったという慕情の激流が静かな葦の湖の水面に向って、はげしく走っていった。
如来寺八世黒田真禅師夫人の語るには「禅師様在住の時には檀家は二十戸しかなかった。現在は百五十戸になりました。禅師様のご苦労を偲ぶと涙が出てきます」と目頭を熱くしていました。
今の如末寺は三門、本堂、庫裡、観音堂など立派に建立されて、禅師の徳を讃えています。
東奥日報にみる明治三十二年の八戸及び八戸人
演劇 市川歌升、大村大三郎の新旧合併演劇は本月十二日より二十六日町神明構内にて興行
八戸通信 六月八日付
運動会 八戸高等尋常小学校にては同校構内に於いて本日運動会を開けりこの日朝来微風晴天にして高く万国旗と運動会の旗を翻し表門には国旗を交差し戦利品を陳列数回の運動を行い賞品を授与せられぬ生徒の父兄及び参観人は山のごとく飲食物を売る商人も見受けられぬ
養蚕業 漸く発達し来らんとせし八戸町の養蚕業は米四事件の余波横浜における生糸の価格大いに低落すべしとの予想より本年は一頓挫を来たし掃立の数量は昨年より減ずること二割なる由されば桑葉の時価一眠頃迄は一貫目十五銭なりしに目下漸く下落し本日の相場一貫目八銭にして品潤沢なれば尚下落の傾向を有するものの如く蚕児は二眠三日後位の由因みに記す八戸実業補習学校の養蚕は頗る好況なりと
種痘 八戸町に於いては昨年二月より本年二月までに出生したる小児へ種痘せしむべきことを巡査をして毎戸に達せしめ怠るものは取締規則に依って処分すべしとて種痘を励行しおれり
八戸の非増税運動 八戸土曜会派にてはこの際一日も運動を忽にすべからずとて既に委員を上京せしめしが八戸公民会派の多数を占める八戸町にては臨時議会の延会をまって之を断行することとなり土曜会派の交渉を躊躇し居りし所果然議会は延会となりしを以って八戸町長遠山景三氏は直ちに八戸町の地主に請願書に調印を求めけるが尚上京委員の事につき一昨日町役場に地主を○し協議する筈なり
八戸通信
○ 鮪漁 三戸郡小湊村に於いて本月四日鮪の大漁あり為に八戸魚市場は前日来の価格頓に挫け一円に付き四貫目という大暴落を来せり但し本日は吹風降雨の為不漁なれば或いは一変動を来すならんか
○ 鰯漁 八戸の経済に重大な関係を有する鰯漁は本年如何なる景況なるべきや古老は正月二十三日夜の月によりその一年間の漁不漁を卜するに殆ど的中する而して本年はいかにと聞くに必ず大漁ならんとのことなれば漁民をはじめいずれも喜びおれり本月下旬より夏漁始まるべしとのこと
○ 麦 八戸付近における本年の麦作は平作よりも劣るならん所によりては目下五六寸のものあり是れ五月中旬連日降雨なく大風吹き荒びて根を枯らせし故なりとぞ尤も近日数度の降雨にてやや生気を回復せしものの如し
○ 縁日 八戸町を隔たる三里余なる三戸郡階上村の寺下観音は本月五日縁日なるを以って昨日来曇天にて殊に早朝より降雨ありしに拘わらず八戸町は申すに及ばず近郷近在より参詣するもの甚だ多く為に参詣を見込みて開店せし太物店一、小間物店四、飲食店菓子店十四五ありしが何れも十分の収益ありしなるべし
○ 大さらい 小中野新遊郭柳本楼において来る八日正午より浦町、新地の芸妓酌妓連二十余名の常磐津大浚を催す由なれば酔連には今より美音を聞くを楽しみ居るとか
八戸町短信
○ 八戸貯蓄銀行 本日より貯金利子を引き上げ年六分と改正したり
○ 法学卒業 福士協助氏には日本法律学校三ヵ年の過程を卒業しこの程卒業証書を授与せられたり
○ 階上銀行員 高島、平賀の諸氏は東京なる銀行事務講習会へ一同入会し特に同会と気脈を通じ毎日曜日を期し講話会を催し熱心に講習中なり
日本鉄道会社と運送業者
新たに保証金を徴す
日本鉄道会社に於いては今回各駅に於ける運送業者に対し新たに保証金をださしめ之を会社直轄の運送業者とみなすことになり其の保証金は東京は千円地方五百円宛てを納めしむる予定にして之を四十余駅に割り当てれば其の額莫大なりと而して其の決定せるは実に客臘(かくろう・去年の十二月)のことなり
従来は各運送会社は特政の上相当の保証金を納付し各地各駅の代理店、出張店等は単独にては別に保証金を要せざりしか今回比制を設けたるにより各地の運送店にては直轄にならんとせばこの保証金を納めざるべからずして地方の小駅に於ける各運送業者は非常の困難を感ずるならん
今会社は何が為にこの政略をとりしかを聞くに業者大なる魂胆ありて存するなりもし会社にして保証金の制を定めんか各業者は正金を以ってこれを納せるの不利益にして多くは会社の株券を以って之を納付せん何となれば株券にて納むれば株に対する配当は自家之を受けるの利益あればなりたとえば新たに買い求むるも尚株券を以って納付するに至らん而して会社の希望亦実に前に存するなりと言う会社は何故に何故に株券の納付を希望するかこれは魂胆の大魂胆のある所なりもし各運送業者にして株券を買い求めて之を納付することならんか市場における鉄道株は大いに好況を呈するに至らん好況を呈すれば従いて価格の騰貴を見るに至らん是会社のこの政界を探りし所以なり然らば会社は何ゆえに鉄道株の騰貴を欲するかと言うにこは目下政界の一大問題なる鉄道国有論の愈々実行せらるる暁政府が買収価格の標準を高からしめ高価を以って買収せらるるの利益を得んとするに外ならず今回各運送業者に対して保証金制を実行するに至れる真意もそこに存するなり
末謙一行来県の始末 八戸にて人糞を投げらる
さてもこのたび山縣内閣を援けて農民殺戮税を通過せしめたる増租党の遊説者伊藤大勲位侯爵の女婿文学博士前の逓信大臣男爵末松謙澄を初めとし一味の徒党宮城の住人菅原の伝、同じく山縣の住人前の青森県警部部長変節代議士小倉の信近その他名もなき雑兵奥野市次郎、斯波與七郎なんどの面々顔厚くも我東北の野に向かって其の汚れ果てたる顔を晒さんと京地をば出発しぬ
由来東北は正義の士に富むたとえ藩閥政府に降参したればとて何条彼等の蹂躙を許さん況や黄金を、官職を況や、即ち彼等一行の到る所悉く冷遇を受けたることは事実蔽うべからざるにも拘わらず只御用紙を利用して其の盛況を装はしむるに過ぎず然れども是藩閥政府を援けて多数の国民を虐待する私党に向けて天の当然に下したる制裁なるを奈何せん
彼等は公然増租党遊説員の資格を以って新聞紙は之を伝え彼等亦意味を以って遊説するにも拘わらず増租党の甚だ人気悪しきを知るを以って卑劣にも狼の頬冠(ほおかぶり)主義を以って他を瞞せんとす彼等の未だ京地を発せざるや実業家として名ある而かも今回増租党の中堅たりし渋沢栄一と言えるは私交あるの故を以って当地の渡辺佐助氏に宛て左の如き一書を送り越しぬ
拝啓益々御清安奉賀候然れば男爵末松謙澄君義各地経済事情視察方々来一月五日頃出発貴地方へ漫遊致し候に付可相成各地方有力家諸君と談論致度との希望を以って予め小生より御照会致し呉候様依頼有之候間貴地到着の上は御差繰御面談被下度候同男は小生とは私交上年来御懇意に致居候間柄に付特に申上候義に御座候右可得貴意如比に御座候敬具
渋沢栄一
十二月 渡辺佐助殿
渡辺氏は余りに政治の表面に現れざる人なることは衆の知る所然るに私交ある渋沢より右のごとき書面を得たるのみならず経済事情視察と号するを以って深く顧念する所なく渋沢に対する交誼上誤って増租党の遊説員末謙一行を歓迎せんと愈々一昨日一行の比の地に来るの日を卜し招待せんとて市中の主立ちに通して賛成を求めぬ
これより先末松一行のこの地に来らんとするを聞くや県下非増租派の激昂一方ならず藩閥の党徒をして足をこの地に入れしおるは地方の不名誉なりとし十日の夜をもって政談演説会を開くことに決し尚其の前日を以って有志あい携えて渡辺氏を訪い増租党の遊説員を歓迎することの不利益なるところを説きて反省を請いしに諸君の事情は之を諒せり然るべく取り計らうべしとの事を答えられたり
拝啓先刻は失礼仕候
然るに末謙招待云々については下店においては心内に何も政党もなし目的なし只別紙渋沢栄一紹介に基づき真の商業家ばかり賛成募候処二十七八名有之候得共別に実業上の懇話に止まるの精神なれども君等御説の如く上部は実業にて内心党勢拡張等の末謙氏等の事実ならば当家にても君等の反対を受けてもぜひ末謙を招待せねばならぬ義理もなき故当方はただいまより八戸出張親敷末謙氏と面会の上来青を謝断するなり御了承ありたし外に万万申し上げたきこと之有り候も時間は五時五十分につき略筆せり
いずれ遅くも午後九時の汽車にて帰宅候その後御光来被下候はば幸甚なり右申上度一書残置候也かくて慶助氏は八戸に赴きたるに同日午後十時にいたり渡辺家より八戸なる慶助氏に宛てて左の電報を発せり
益々不穏是非御出なら懇親会止むるより外なし模様
十一時到着にて八戸の慶助氏より左の返電あり
委細話した午後演説会済み次第相談返事する積もり右のため今晩泊まる
慶助氏は末謙一行と会し相談を遂げたる末左の電報を当地なる渡辺家に送りぬ
明日の会止めろ明日一番にて帰る
ここに於いて一度は催すべく賛成者を募りたる末謙の歓迎会は中止する事となりたるなり渡辺佐助氏の名義にて賛成者に向かって左の如き紙面を発せり
拝啓陳者男爵末松文学博士御来県に付御招待の義御案内に及び候処御賛成被下候段御厚意奉謝上候然れば同男爵より別紙電報の通り懇親会謝絶相成明日の会相止め候間御承知相成度比段御礼旁御挨拶申上候也
斯くして末謙一行は広き青森於いて一人も迎えるものなきなり以って増租党の遊説員はいかに冷遇せらるるやの一斑を推すべし而かも彼等の強情なる青森はいかに我等に反抗すべきを見んとて愈々一昨日を以って当地に入れり嗚呼彼等の強情藩閥内閣の蛮勇よりも甚だしきを見よ
末謙人糞を投げらる
増租党遊説員遊郭に招待せらる
増租党の遊説員は八戸に於いて散々の冷遇を受け同地方にては同党のためには会場さえ貸すものなく謝絶又義絶一行の到着せる当日尚会場なし之がためにはせっかくの招待会も将にオジャンとなる有様なるより工面に余りて混迷しやけん見苦しくも更に遊郭なる小中野村の貸し座敷万葉亭に会場を設けるに至りとは一行の面目この上やある蓋し政党の遊説員の招待会貸し座敷に開かれるは実に之を以って嚆矢と為すべく流石は末謙の君伊藤艶侯の婿君だけありて定めし満足に思いたるならんと同地の評判なり
以下略
八戸町の市況と漁夫雇い人
八戸町にては金融逼迫相変わらずして米価はやや気強くなれり例年当時は北海道出稼ぎ人夫の雇い入れのため市中一般に景気付くは例なるに本年は給料安くして且つ人員も十分雇い入れざる模様なるため至りて沈静なり毎年南部地方よりの出稼ぎ人夫は一万人位なるに本年は七がけくらいの由にして給料は各平均七円
馬車と腕車の競争
弘前市の車夫が客より不当の賃金を貪り居るを防がんとて起これる市内馬車会社は追々と賃金を引き下げて市内中如何に遠路の所にても五銭にて乗り廻らんと触れ込みたるより人力車組合にても大元気を出して市内中五銭と値切り停車場前の如き非常の大競争にて尚頻りに値下げをなすの模様なれば乗客にては大喜び去る十二三日より昼夜を問わず五銭の値切りいまだ競争は数日間継続せらるべしという
願栄寺の損害高二万余円に及ぶ
このほど焼失したる三戸郡八戸願栄寺のことについては既に記す所ありしが尚聞く所に依れば同寺はかつて焼失せることあり目今は仮本堂なりしも今回は庫裏仏像経巻は勿論百年伝来の宝物家具家財等に至るまで悉皆烏有に帰したることとて其の損害高は実に二万円の多きに達したりと言うこの程の陸奥日報に同寺の損害二千円云々と記載したるも右は誤報にて現に檀家なる同地の浦山政吉氏には熱心なる信者にして是まで同寺に寄付せる高のみにても二千円の及びたるが今回の焼失に就いても殊の外憂慮しこのほどの如きは七十歳の高齢なるにも拘わらずわざわざ小湊の某寺に赴きかねて同寺に保存致し置きたる仏像を借り受け崇敬し居るとは熱心の信者と言うべし
長谷川藤次郎氏の篤志
三戸郡湊村長谷川藤次郎氏は人の知る如く揚繰網の率先者なるがこの度東北漁業組合の陸奥湾内における漁民遭難者の不幸をば同業者のこととて深く之を憐れみ爾来熱心店員を八戸、小中野、湊、鮫地方に奔走せしめ結果金五十円を得たればわざわざ店員を出張せしめ該金は本部事務所に届け出たりと数十里隔てたる地方に於いて思わざるの慈善に接するとは遭難者まさに神を慰し遺族者亦厚意に感泣せん
揚げ繰り網の調査
石川県水産巡回教師石川県水産講習技師庵原文一氏は三戸郡長谷川藤次郎氏の上げ繰り網の調査のため昨日来青県庁に出頭直ちに同地へ赴きたり
放火騒ぎ 八戸町にては五六日前より毎晩の如く諸方に放火するものあり幸いにいずれも早く認めて大事に至らざるも其の筋にてはそれぞれ取り調べ中なりと右に付各町にても俄かに火の用心の相談などありて穏やかならざる模様なりと
誤って銃傷を負わしむ 去る二十八日のことなりき八戸町大字三日町旅人宿杉本利七方の雇い人なる山田徳次郎(十八年)は同日午前八時五十三分の列車にて出発したる客あり依って其の客室を掃除せん為裏二階室に至りしに同宿滞在中(当時不在)なる客高橋清兵衛所持の六連発込みピストルの床の間に置かれたるを認め物めずらしげに之を取り出してもてあそびながら同じ雇い人三戸郡田子村士族嘉右衛門の孫上郷剛(十一年)を呼びピストルを示し弾丸の込めあるに気づかざればこれは斯くものなりと引き金を引きたるにバット音のせしを奇とし二度引きしに轟然一発前にありて余念もなく之を観居れる剛の咽喉に命中したるより何かはもって堪るべき、剛はその場に倒れて一時気絶したれば徳次郎は大いに驚き直ちに剛を抱きて医師種市良一氏方に駆けつけ治療を乞いたるところ創傷は一箇所にして咽頭の下胸骨上部中央に位し気管に達するところ縦三ミリ横八ミリなるを以って医師逸見鶴亀を助手として手術を施したるも弾丸の所在を発見することあたわず負傷者は精神たしかなるも重症のため生命おぼつかなき由危険至極というべし少年の分として銃を弄するはいましむべきことなり所有者に於いても平素危険なき様十分に注意しおくべきなり
八戸町の正月元旦
八戸町における陰暦正月元旦売り出しの競争は本年は中々に甚だしく景物は一番より三番まで糸織り或いは毛布鏡餅等を進呈し午前三時開店の広告を市内近在に散布したるに時間より前各正札店の店頭に押しかける者甚だ多くさながら火事場の雑踏の如く店前には各々大旗及び高張玉灯を掲げるなど恰も祭礼の有様にて市中の賑わい申し訳なかりし中に甲文呉服店にては午前三時開店の所開店前に来集せし人々のあまりに多かりしため二時ごろに開店せしが三時に至りてあばれ客入り込みて時間前に開店せしを罵りたるものありしと
八戸の魚類販売禁止の紛議
八戸は由来平穏の地なるに頃者は種々の問題起こりて人民を騒がしつつあるは実に悲しむべきこととして亦当局者の宜しく注意すべきものならんか殊に八戸警察署が魚類営業にたいし販売禁止を命ずるに至りこれが為に営業者の紛議を醸し其の不法を上官に訴え一方には之を法廷にまで争わんとするの珍事を惹起するに至れるはそもそも誰の責めぞや先ず之が顛末を聞くに八戸町六日町といえば一名之を肴町と称し昔時より魚類販売の場所として今日まで継続し来れる場所なり而して従来の慣行上表通りの官地をもって魚類販売場に充ておれるに今春街路取締規則励行の結果としてひとまず官地の販売を取り払う命令は時の警察署長圷氏より降りたりしかれども之が為に少なからぬ不便を感することなれば営業者一同には再び従来の通り許可を与えられるる特別の詮議を乞うこととなり居りし内圷氏は非職となりて今の署長石黒氏其の後任なりしが石黒氏の赴任を聞きて総代等警察署に出頭し石黒氏に面会して右の事情を具申したり是四月十日のことなりしが当時石黒氏はよく其の事情を聞き尚願書にして差し出すべしとのことなりしを以って翌日願書を差し出したるに同氏は赴任怱々のことにてよく地方の事情を承知せざれば何れ取り調べの上何分なる指令を与うべしと言うにありき然るにその後日にちも経過する内或る狡児等この機乗ずべしとなし遂に隣町の朔日町を以て六日町に代わらしめんとして種々運動の結果としてこの程石黒氏をして朔日町に対して魚類販売所を官地内に設く許可を与えせしめ同時に六日町の請願を却下して以て古来の肴町を打破し従来の営業者の不便を感じせしむるの方針を取りたるはまだしもの事なるが此れが為六日町の営業者が大いに驚きしも止むを得ず涙を飲んで従来の販売所の代わりに己が家屋をさらしめ私有地内に於いて営業しおるものにさえ故障をつけ遂に去る十九日限り六日町の営業者一同に向かって営業停止を命ずるに至りたり聞く是れ或る者等が謀り一攫千金を得ながために六日町の営業を悉く朔日町に移し朔日町にあらざれば魚類の営業をなすことあたわざる様たくみたるものにして其の望み通りに出来たるより一味のものは手を打って計略の図に当たりしを喜びつつあるに引き換え六日町の営業者こそ憐れむべき境遇に沈淪(ちんりん・おちぶれはてること。零落)しつつあることなれば非常に激昂し相手の手続きを踏みその筋の許可を得て営業しあるものか警察署の為にみだりに営業停止せらるるべきいわれなしとして断じて警察の命に応ぜず是警察が人民の自由を妨げ営業を害するものなりとて六日町の営業者総代は県庁に出頭して陳情することとなり且つ警察署がいよいよ営業停止に応ぜざる廉を以って営業者を処分する時は飽くまでも是非を法廷に争う覚悟にて正式裁判を仰ぐこととなり居る由なり然るに六日町は従来の肴町にて至りて便利も良く何の不都合もなき之に反し朔日町は百姓町にて馬小屋も魚類販売所もゴタマゼといわるるほどの所にて衛生上よりも寧ろよろしからず万事不自由なる所にも拘わらずここに至りしとなれば世間にては石黒氏の所為を疑うものあるも無理からぬことにて其の間には種々の魂胆もある由なれどもこれは論外として先ず斯くの如く人民を騒がし居る以上は当局者に於いても速やかに処分をつけざるべからず
八戸通信 六月八日付
運動会 八戸高等尋常小学校にては同校構内に於いて本日運動会を開けりこの日朝来微風晴天にして高く万国旗と運動会の旗を翻し表門には国旗を交差し戦利品を陳列数回の運動を行い賞品を授与せられぬ生徒の父兄及び参観人は山のごとく飲食物を売る商人も見受けられぬ
養蚕業 漸く発達し来らんとせし八戸町の養蚕業は米四事件の余波横浜における生糸の価格大いに低落すべしとの予想より本年は一頓挫を来たし掃立の数量は昨年より減ずること二割なる由されば桑葉の時価一眠頃迄は一貫目十五銭なりしに目下漸く下落し本日の相場一貫目八銭にして品潤沢なれば尚下落の傾向を有するものの如く蚕児は二眠三日後位の由因みに記す八戸実業補習学校の養蚕は頗る好況なりと
種痘 八戸町に於いては昨年二月より本年二月までに出生したる小児へ種痘せしむべきことを巡査をして毎戸に達せしめ怠るものは取締規則に依って処分すべしとて種痘を励行しおれり
八戸の非増税運動 八戸土曜会派にてはこの際一日も運動を忽にすべからずとて既に委員を上京せしめしが八戸公民会派の多数を占める八戸町にては臨時議会の延会をまって之を断行することとなり土曜会派の交渉を躊躇し居りし所果然議会は延会となりしを以って八戸町長遠山景三氏は直ちに八戸町の地主に請願書に調印を求めけるが尚上京委員の事につき一昨日町役場に地主を○し協議する筈なり
八戸通信
○ 鮪漁 三戸郡小湊村に於いて本月四日鮪の大漁あり為に八戸魚市場は前日来の価格頓に挫け一円に付き四貫目という大暴落を来せり但し本日は吹風降雨の為不漁なれば或いは一変動を来すならんか
○ 鰯漁 八戸の経済に重大な関係を有する鰯漁は本年如何なる景況なるべきや古老は正月二十三日夜の月によりその一年間の漁不漁を卜するに殆ど的中する而して本年はいかにと聞くに必ず大漁ならんとのことなれば漁民をはじめいずれも喜びおれり本月下旬より夏漁始まるべしとのこと
○ 麦 八戸付近における本年の麦作は平作よりも劣るならん所によりては目下五六寸のものあり是れ五月中旬連日降雨なく大風吹き荒びて根を枯らせし故なりとぞ尤も近日数度の降雨にてやや生気を回復せしものの如し
○ 縁日 八戸町を隔たる三里余なる三戸郡階上村の寺下観音は本月五日縁日なるを以って昨日来曇天にて殊に早朝より降雨ありしに拘わらず八戸町は申すに及ばず近郷近在より参詣するもの甚だ多く為に参詣を見込みて開店せし太物店一、小間物店四、飲食店菓子店十四五ありしが何れも十分の収益ありしなるべし
○ 大さらい 小中野新遊郭柳本楼において来る八日正午より浦町、新地の芸妓酌妓連二十余名の常磐津大浚を催す由なれば酔連には今より美音を聞くを楽しみ居るとか
八戸町短信
○ 八戸貯蓄銀行 本日より貯金利子を引き上げ年六分と改正したり
○ 法学卒業 福士協助氏には日本法律学校三ヵ年の過程を卒業しこの程卒業証書を授与せられたり
○ 階上銀行員 高島、平賀の諸氏は東京なる銀行事務講習会へ一同入会し特に同会と気脈を通じ毎日曜日を期し講話会を催し熱心に講習中なり
日本鉄道会社と運送業者
新たに保証金を徴す
日本鉄道会社に於いては今回各駅に於ける運送業者に対し新たに保証金をださしめ之を会社直轄の運送業者とみなすことになり其の保証金は東京は千円地方五百円宛てを納めしむる予定にして之を四十余駅に割り当てれば其の額莫大なりと而して其の決定せるは実に客臘(かくろう・去年の十二月)のことなり
従来は各運送会社は特政の上相当の保証金を納付し各地各駅の代理店、出張店等は単独にては別に保証金を要せざりしか今回比制を設けたるにより各地の運送店にては直轄にならんとせばこの保証金を納めざるべからずして地方の小駅に於ける各運送業者は非常の困難を感ずるならん
今会社は何が為にこの政略をとりしかを聞くに業者大なる魂胆ありて存するなりもし会社にして保証金の制を定めんか各業者は正金を以ってこれを納せるの不利益にして多くは会社の株券を以って之を納付せん何となれば株券にて納むれば株に対する配当は自家之を受けるの利益あればなりたとえば新たに買い求むるも尚株券を以って納付するに至らん而して会社の希望亦実に前に存するなりと言う会社は何故に何故に株券の納付を希望するかこれは魂胆の大魂胆のある所なりもし各運送業者にして株券を買い求めて之を納付することならんか市場における鉄道株は大いに好況を呈するに至らん好況を呈すれば従いて価格の騰貴を見るに至らん是会社のこの政界を探りし所以なり然らば会社は何ゆえに鉄道株の騰貴を欲するかと言うにこは目下政界の一大問題なる鉄道国有論の愈々実行せらるる暁政府が買収価格の標準を高からしめ高価を以って買収せらるるの利益を得んとするに外ならず今回各運送業者に対して保証金制を実行するに至れる真意もそこに存するなり
末謙一行来県の始末 八戸にて人糞を投げらる
さてもこのたび山縣内閣を援けて農民殺戮税を通過せしめたる増租党の遊説者伊藤大勲位侯爵の女婿文学博士前の逓信大臣男爵末松謙澄を初めとし一味の徒党宮城の住人菅原の伝、同じく山縣の住人前の青森県警部部長変節代議士小倉の信近その他名もなき雑兵奥野市次郎、斯波與七郎なんどの面々顔厚くも我東北の野に向かって其の汚れ果てたる顔を晒さんと京地をば出発しぬ
由来東北は正義の士に富むたとえ藩閥政府に降参したればとて何条彼等の蹂躙を許さん況や黄金を、官職を況や、即ち彼等一行の到る所悉く冷遇を受けたることは事実蔽うべからざるにも拘わらず只御用紙を利用して其の盛況を装はしむるに過ぎず然れども是藩閥政府を援けて多数の国民を虐待する私党に向けて天の当然に下したる制裁なるを奈何せん
彼等は公然増租党遊説員の資格を以って新聞紙は之を伝え彼等亦意味を以って遊説するにも拘わらず増租党の甚だ人気悪しきを知るを以って卑劣にも狼の頬冠(ほおかぶり)主義を以って他を瞞せんとす彼等の未だ京地を発せざるや実業家として名ある而かも今回増租党の中堅たりし渋沢栄一と言えるは私交あるの故を以って当地の渡辺佐助氏に宛て左の如き一書を送り越しぬ
拝啓益々御清安奉賀候然れば男爵末松謙澄君義各地経済事情視察方々来一月五日頃出発貴地方へ漫遊致し候に付可相成各地方有力家諸君と談論致度との希望を以って予め小生より御照会致し呉候様依頼有之候間貴地到着の上は御差繰御面談被下度候同男は小生とは私交上年来御懇意に致居候間柄に付特に申上候義に御座候右可得貴意如比に御座候敬具
渋沢栄一
十二月 渡辺佐助殿
渡辺氏は余りに政治の表面に現れざる人なることは衆の知る所然るに私交ある渋沢より右のごとき書面を得たるのみならず経済事情視察と号するを以って深く顧念する所なく渋沢に対する交誼上誤って増租党の遊説員末謙一行を歓迎せんと愈々一昨日一行の比の地に来るの日を卜し招待せんとて市中の主立ちに通して賛成を求めぬ
これより先末松一行のこの地に来らんとするを聞くや県下非増租派の激昂一方ならず藩閥の党徒をして足をこの地に入れしおるは地方の不名誉なりとし十日の夜をもって政談演説会を開くことに決し尚其の前日を以って有志あい携えて渡辺氏を訪い増租党の遊説員を歓迎することの不利益なるところを説きて反省を請いしに諸君の事情は之を諒せり然るべく取り計らうべしとの事を答えられたり
拝啓先刻は失礼仕候
然るに末謙招待云々については下店においては心内に何も政党もなし目的なし只別紙渋沢栄一紹介に基づき真の商業家ばかり賛成募候処二十七八名有之候得共別に実業上の懇話に止まるの精神なれども君等御説の如く上部は実業にて内心党勢拡張等の末謙氏等の事実ならば当家にても君等の反対を受けてもぜひ末謙を招待せねばならぬ義理もなき故当方はただいまより八戸出張親敷末謙氏と面会の上来青を謝断するなり御了承ありたし外に万万申し上げたきこと之有り候も時間は五時五十分につき略筆せり
いずれ遅くも午後九時の汽車にて帰宅候その後御光来被下候はば幸甚なり右申上度一書残置候也かくて慶助氏は八戸に赴きたるに同日午後十時にいたり渡辺家より八戸なる慶助氏に宛てて左の電報を発せり
益々不穏是非御出なら懇親会止むるより外なし模様
十一時到着にて八戸の慶助氏より左の返電あり
委細話した午後演説会済み次第相談返事する積もり右のため今晩泊まる
慶助氏は末謙一行と会し相談を遂げたる末左の電報を当地なる渡辺家に送りぬ
明日の会止めろ明日一番にて帰る
ここに於いて一度は催すべく賛成者を募りたる末謙の歓迎会は中止する事となりたるなり渡辺佐助氏の名義にて賛成者に向かって左の如き紙面を発せり
拝啓陳者男爵末松文学博士御来県に付御招待の義御案内に及び候処御賛成被下候段御厚意奉謝上候然れば同男爵より別紙電報の通り懇親会謝絶相成明日の会相止め候間御承知相成度比段御礼旁御挨拶申上候也
斯くして末謙一行は広き青森於いて一人も迎えるものなきなり以って増租党の遊説員はいかに冷遇せらるるやの一斑を推すべし而かも彼等の強情なる青森はいかに我等に反抗すべきを見んとて愈々一昨日を以って当地に入れり嗚呼彼等の強情藩閥内閣の蛮勇よりも甚だしきを見よ
末謙人糞を投げらる
増租党遊説員遊郭に招待せらる
増租党の遊説員は八戸に於いて散々の冷遇を受け同地方にては同党のためには会場さえ貸すものなく謝絶又義絶一行の到着せる当日尚会場なし之がためにはせっかくの招待会も将にオジャンとなる有様なるより工面に余りて混迷しやけん見苦しくも更に遊郭なる小中野村の貸し座敷万葉亭に会場を設けるに至りとは一行の面目この上やある蓋し政党の遊説員の招待会貸し座敷に開かれるは実に之を以って嚆矢と為すべく流石は末謙の君伊藤艶侯の婿君だけありて定めし満足に思いたるならんと同地の評判なり
以下略
八戸町の市況と漁夫雇い人
八戸町にては金融逼迫相変わらずして米価はやや気強くなれり例年当時は北海道出稼ぎ人夫の雇い入れのため市中一般に景気付くは例なるに本年は給料安くして且つ人員も十分雇い入れざる模様なるため至りて沈静なり毎年南部地方よりの出稼ぎ人夫は一万人位なるに本年は七がけくらいの由にして給料は各平均七円
馬車と腕車の競争
弘前市の車夫が客より不当の賃金を貪り居るを防がんとて起これる市内馬車会社は追々と賃金を引き下げて市内中如何に遠路の所にても五銭にて乗り廻らんと触れ込みたるより人力車組合にても大元気を出して市内中五銭と値切り停車場前の如き非常の大競争にて尚頻りに値下げをなすの模様なれば乗客にては大喜び去る十二三日より昼夜を問わず五銭の値切りいまだ競争は数日間継続せらるべしという
願栄寺の損害高二万余円に及ぶ
このほど焼失したる三戸郡八戸願栄寺のことについては既に記す所ありしが尚聞く所に依れば同寺はかつて焼失せることあり目今は仮本堂なりしも今回は庫裏仏像経巻は勿論百年伝来の宝物家具家財等に至るまで悉皆烏有に帰したることとて其の損害高は実に二万円の多きに達したりと言うこの程の陸奥日報に同寺の損害二千円云々と記載したるも右は誤報にて現に檀家なる同地の浦山政吉氏には熱心なる信者にして是まで同寺に寄付せる高のみにても二千円の及びたるが今回の焼失に就いても殊の外憂慮しこのほどの如きは七十歳の高齢なるにも拘わらずわざわざ小湊の某寺に赴きかねて同寺に保存致し置きたる仏像を借り受け崇敬し居るとは熱心の信者と言うべし
長谷川藤次郎氏の篤志
三戸郡湊村長谷川藤次郎氏は人の知る如く揚繰網の率先者なるがこの度東北漁業組合の陸奥湾内における漁民遭難者の不幸をば同業者のこととて深く之を憐れみ爾来熱心店員を八戸、小中野、湊、鮫地方に奔走せしめ結果金五十円を得たればわざわざ店員を出張せしめ該金は本部事務所に届け出たりと数十里隔てたる地方に於いて思わざるの慈善に接するとは遭難者まさに神を慰し遺族者亦厚意に感泣せん
揚げ繰り網の調査
石川県水産巡回教師石川県水産講習技師庵原文一氏は三戸郡長谷川藤次郎氏の上げ繰り網の調査のため昨日来青県庁に出頭直ちに同地へ赴きたり
放火騒ぎ 八戸町にては五六日前より毎晩の如く諸方に放火するものあり幸いにいずれも早く認めて大事に至らざるも其の筋にてはそれぞれ取り調べ中なりと右に付各町にても俄かに火の用心の相談などありて穏やかならざる模様なりと
誤って銃傷を負わしむ 去る二十八日のことなりき八戸町大字三日町旅人宿杉本利七方の雇い人なる山田徳次郎(十八年)は同日午前八時五十三分の列車にて出発したる客あり依って其の客室を掃除せん為裏二階室に至りしに同宿滞在中(当時不在)なる客高橋清兵衛所持の六連発込みピストルの床の間に置かれたるを認め物めずらしげに之を取り出してもてあそびながら同じ雇い人三戸郡田子村士族嘉右衛門の孫上郷剛(十一年)を呼びピストルを示し弾丸の込めあるに気づかざればこれは斯くものなりと引き金を引きたるにバット音のせしを奇とし二度引きしに轟然一発前にありて余念もなく之を観居れる剛の咽喉に命中したるより何かはもって堪るべき、剛はその場に倒れて一時気絶したれば徳次郎は大いに驚き直ちに剛を抱きて医師種市良一氏方に駆けつけ治療を乞いたるところ創傷は一箇所にして咽頭の下胸骨上部中央に位し気管に達するところ縦三ミリ横八ミリなるを以って医師逸見鶴亀を助手として手術を施したるも弾丸の所在を発見することあたわず負傷者は精神たしかなるも重症のため生命おぼつかなき由危険至極というべし少年の分として銃を弄するはいましむべきことなり所有者に於いても平素危険なき様十分に注意しおくべきなり
八戸町の正月元旦
八戸町における陰暦正月元旦売り出しの競争は本年は中々に甚だしく景物は一番より三番まで糸織り或いは毛布鏡餅等を進呈し午前三時開店の広告を市内近在に散布したるに時間より前各正札店の店頭に押しかける者甚だ多くさながら火事場の雑踏の如く店前には各々大旗及び高張玉灯を掲げるなど恰も祭礼の有様にて市中の賑わい申し訳なかりし中に甲文呉服店にては午前三時開店の所開店前に来集せし人々のあまりに多かりしため二時ごろに開店せしが三時に至りてあばれ客入り込みて時間前に開店せしを罵りたるものありしと
八戸の魚類販売禁止の紛議
八戸は由来平穏の地なるに頃者は種々の問題起こりて人民を騒がしつつあるは実に悲しむべきこととして亦当局者の宜しく注意すべきものならんか殊に八戸警察署が魚類営業にたいし販売禁止を命ずるに至りこれが為に営業者の紛議を醸し其の不法を上官に訴え一方には之を法廷にまで争わんとするの珍事を惹起するに至れるはそもそも誰の責めぞや先ず之が顛末を聞くに八戸町六日町といえば一名之を肴町と称し昔時より魚類販売の場所として今日まで継続し来れる場所なり而して従来の慣行上表通りの官地をもって魚類販売場に充ておれるに今春街路取締規則励行の結果としてひとまず官地の販売を取り払う命令は時の警察署長圷氏より降りたりしかれども之が為に少なからぬ不便を感することなれば営業者一同には再び従来の通り許可を与えられるる特別の詮議を乞うこととなり居りし内圷氏は非職となりて今の署長石黒氏其の後任なりしが石黒氏の赴任を聞きて総代等警察署に出頭し石黒氏に面会して右の事情を具申したり是四月十日のことなりしが当時石黒氏はよく其の事情を聞き尚願書にして差し出すべしとのことなりしを以って翌日願書を差し出したるに同氏は赴任怱々のことにてよく地方の事情を承知せざれば何れ取り調べの上何分なる指令を与うべしと言うにありき然るにその後日にちも経過する内或る狡児等この機乗ずべしとなし遂に隣町の朔日町を以て六日町に代わらしめんとして種々運動の結果としてこの程石黒氏をして朔日町に対して魚類販売所を官地内に設く許可を与えせしめ同時に六日町の請願を却下して以て古来の肴町を打破し従来の営業者の不便を感じせしむるの方針を取りたるはまだしもの事なるが此れが為六日町の営業者が大いに驚きしも止むを得ず涙を飲んで従来の販売所の代わりに己が家屋をさらしめ私有地内に於いて営業しおるものにさえ故障をつけ遂に去る十九日限り六日町の営業者一同に向かって営業停止を命ずるに至りたり聞く是れ或る者等が謀り一攫千金を得ながために六日町の営業を悉く朔日町に移し朔日町にあらざれば魚類の営業をなすことあたわざる様たくみたるものにして其の望み通りに出来たるより一味のものは手を打って計略の図に当たりしを喜びつつあるに引き換え六日町の営業者こそ憐れむべき境遇に沈淪(ちんりん・おちぶれはてること。零落)しつつあることなれば非常に激昂し相手の手続きを踏みその筋の許可を得て営業しあるものか警察署の為にみだりに営業停止せらるるべきいわれなしとして断じて警察の命に応ぜず是警察が人民の自由を妨げ営業を害するものなりとて六日町の営業者総代は県庁に出頭して陳情することとなり且つ警察署がいよいよ営業停止に応ぜざる廉を以って営業者を処分する時は飽くまでも是非を法廷に争う覚悟にて正式裁判を仰ぐこととなり居る由なり然るに六日町は従来の肴町にて至りて便利も良く何の不都合もなき之に反し朔日町は百姓町にて馬小屋も魚類販売所もゴタマゼといわるるほどの所にて衛生上よりも寧ろよろしからず万事不自由なる所にも拘わらずここに至りしとなれば世間にては石黒氏の所為を疑うものあるも無理からぬことにて其の間には種々の魂胆もある由なれどもこれは論外として先ず斯くの如く人民を騒がし居る以上は当局者に於いても速やかに処分をつけざるべからず
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