
「はちのへ今昔」がやればいいの言葉も聞く。お前は何もせず他人を非難するとも言われるが、新聞は報道しても手を下さない。それと同じだ。当事者と傍観者は立場がちがう。まして、「はちのへ今昔」のインターネットは購読料も貰わない。また、役所の職員のように給与を貰う人間とは立場が違うのだ。
さて、八戸市内の65歳以上の独居老人は三千七百人。今回の断水でその存在は忘れられていた。このリストは健康福祉政策課が作成。これを防災室と消防本部に手渡すが、誰もその存在に気付かない。
三日に健康福祉政策課がモタモタと市役所に出勤し、慌てて町内会を通じ給水を希望する独居老人

折角、リストが出来ているにも関わらず配達できない仕組みでは絵に描いた餅と等しい。また、消防、防災に誰が指示を出すかの仕組みも明確ではない。健康政策課には機動力もない。町内会とても同じだ。ここは消防団の機動力を存分に使う仕組みを考えることなのだ。
給水可能な消火栓を開き、消防団がそれを10㍑入りのビニール袋で配達する。消防団は分団別に高齢者、障害者のリストを渡し、消防車を走らせ迅速に対応する手立てをこうずるべき。日頃、その人々の家に車両を走らせ訓練確認をすることだ。天災にもこれが生かせる。役所は書類を作成するのは得手だが、その生かし方を知らない。何の役にも立たない机上の空論では仕事のための仕事をしていると謗(そし)られてもしかたあるまい。その水を運ぶビニール袋は八戸市役所には62枚しかない。水道企業団は常時3万枚を持つという。市役所は最低枚数の五千程度は保存するべき。仕事をしたくないのが市役所職員の本性ではある。働かない理由をいろいろ述べ立てるなかに、それは個人情報に触れますからと得意気に言うが天変地異は超法規だということを知らない訳もあるまい。
大阪船場に適塾を開いた蘭学者緒方洪庵はこう子弟に教えた。「医者というものは人を救うために人の世で生きているもので、自分のために生きているのではない」
この医者を市役所職員と置き換えてみろ。自分の立場が明確に判ろう。今から百五十年も前の人だが、人の道の真髄を極めた人。五十四歳で亡くなった。