2009年3月10日火曜日

五戸今昔 怪傑剣士実は床屋の親父、工藤一夫さん


世の中、ダラダラ生きるは易けれど、我が道見つけ、それをトコトン追求し、その神髄であります奥義を極めることは、そりゃァ難しいなんてもんじゃァありません。
道にも色々ありまして、商売の道に色の道、華道に茶道に柔道と極めることは並大抵な努力じゃァあーりません。今回紹介いたしまするは五戸のクドウ床屋の親父さん、父の代から剣術、剣道、居合い抜きに鎖鎌と伝統を受け継ぎ、五戸を馬肉の町から天下の剣道の町へと変貌させたい、いや、させると孤軍奮闘、はりきりまくり、捲るは競輪選手の斉藤か、それとも山田か、最近山田を頭にすると皆外れる、そんなことは筆者の話で、クドウ床屋には、アンタ、何にも関係ありません。このクドウ床屋が目指すは八段、剣道の世界には厳 然たる三角ならぬ資格がありまして、千日の稽古を鍛と呼び、万日の稽古を錬と称する訳で、アンタ、万日というと毎日稽古しても二十と七年もかかるんだヨ。それらの稽古をして、これは日本剣道連盟がどこへ出しても恥ずかしくないと認定した剣士に錬士(れんし・五段以上の者から選ばれる。もと大日本武徳会で定めたものを継承)の称号、さらに上がありまして、今度は教士、頂上が範士でその上はありませーん。今、クドウ床屋は八段を目指して奮闘努力、何回受けても、なかなか合格させないそうだ。百人受けて一人入ればいいそうで、この試験のために稽古の日々。
 頭が下がるが、これ位熱心に床屋の仕事もすりゃいいだろうと思うのは筆者のヒガミかしら。
 この親父の先代は鎖鎌の名手、水鴎流って聞いたことない? 子連れ狼の拝一刀がこれ、その鎖鎌の免許皆伝が先代サ。なにしろ中村錦之助が演じて有名なTVドラマ、むちゃくちゃ強い。これが鎖鎌で、宍戸梅軒ってのもいた
ナ。クドウ床屋は八段とったら鎖鎌も継承するそうで、夢は大きい爺さん剣士。小島剛夕の絵で全 国を風靡したこともありましたゾ、橋幸夫がしとしとぴっちゃんと歌いましたナ。
これを継承するってんだから凄い話。凄いといえば、このクドウ床屋の先祖は五戸代官所の目明しの子分で下引きをしていたそうで、昔、目明しは通り者と呼ばれ、名が通る人間しか成れない。十手をもち町奉行所の仕事をこなしたもんで、与力、同心の下の下役。五戸は宿場町、宿屋に女郎屋もあり、博打場もあったそうで、その博打場に食い詰め浪人ならぬ、会津藩士が槍一本ひっつかみ、俵を三段に積んで、それを反対側、つまり背中の方にドンドン投げ飛ばす、するとアラ、不思議反対側に俵の山が同じように出来たという。江戸幕府の槍の指南番高橋泥舟がよく見せたというゾ。それを博徒の親分に見せたのが安藤市蔵。首尾よく用心棒に収まり明治の荒波をくぐり子孫繁栄商売繁盛が安藤陽三氏の先祖。
武道の道も極めると、ここまで届くゾ。生計を立てることができるんダ。クドウ床屋の先代は世話好きな人、親戚が床屋を五戸で開業していて、そこに弟子入り、そこである程度覚えて八戸六日町の床屋、板橋に入った。この店は大正十三年の創 業で主人は板橋吉蔵。ここで野球の大下常吉氏の知己を得たのがこれまた世の中を広くするんで、人との付き合いは大切にしな。
 ここで腕を上げて、今度は東京に出たと思いナ。場所は麻布の隣の白金三光町。ここは麻布、赤坂、芝、白金、六本木住まいは気が知れないと言われる高級住宅街の一つ。
 当時、東京六大学が話題の的、エンタツ、アチャコの漫才にも早慶戦てのがあったほど、その早稲田の選手から監督になったのが大下常吉氏、早速大下さんを訪ねると、おお、よく来たと大歓迎してくれて、勿論ご馳走にあずかる訳だが、毎週通ったそうだ。この大下氏を尊敬していたようで、五戸に戻り青少年のための剣道道場を建て、ここを無料開放したことを、大下氏に告げ、その返信が道場に掲額されている。心のよりどころだったんだろう。五戸に店を開くようになったのは、弟子入りした親戚のおじさんが床屋では食えないと夕張炭坑へ炭坑夫として働きに行くと言うん で急ぎ五戸に戻り、真偽をただせば、まさに夕張に行くところ、それではと、貯金した銭を全部おじさんに手渡すと、涙ながして喜んで、これで汽車賃に困らないと先代の手をしっかと握った。おじさんは昔草相撲で大関を張るほど、力がこもったんだろうナ。床屋道具一式を譲られたが、店と言っても軒先のような店。それでも先代は東京帰りの腕を持ち、いつもニコニコ笑顔を絶やさず、せっせと働く正直者。
 汗して働く姿を認め次第に増えるはお客様。弟子も一人二人と次第に増えて、ごらんのような大所帯。おじさんは繁盛させられなかったが、先代は大繁盛、おじさんは子供が十一人、その一人が大相撲の呼び出し奴、美声呼び出しと評判高いカンキチがそのひと。六歳で呼び出し世界に入ったそうだ。幼い子が辛い修行に寝小便垂れたことだろうなァ。親は夕張に行っていないんだが、ある日、店の前を行ったりきたりする十四、五の少年がいる。誰だろうと先代が見ると呼 び出しカンキチ。出世するまで帰ってくるなと言われても、故郷忘れる者はいません。夢にまで見た五戸町、秋田巡業の帰り道、一目見たさの故郷の町、見慣れた坂や森また林。そのまま帰るも良いけれど、先代の顔もみたいが出世は遠い、しかられるかな、このまま帰ろうかなと思案しながらウロウロ。
「カンコウ、入りな」の言葉を待ってましたと脱兎のごとくに店の中、ああ、よく来た、大きくなったなァと思案したのが馬鹿みたい。一族郎党が集まって心ばかりの祝宴開き、志を果たしていつの日にか、帰らん、山は青き故郷、水は清き故郷と合唱、カンキチがこれを機に五戸に顔を出すようになりました。
上の写真が先代の造った剣道道場。ここでクドウ床屋が少年剣士の道を踏み出しました。剣を取ったら日本一、二、夢は大きな少年剣士、赤胴鈴の助だ。小学校四年で初めて竹刀を持ち、五戸で教わるだけではもの足らず、南部鉄道に揺られて八 戸は十三日町の三新スポーツの裏の道場に通った。槻門さん、石亀さん、野沢県議などに稽古をつけてもらいましたヨ。中学三年で三戸郡剣道大会に出て、五位に入り初めて賞品を貰ったの。今まで誉められることが少なかったが、賞品貰ったのが嬉しくて剣道に励むんだから単細胞丸出し、でも、人間なんて多かれ少なかれ、誉められたり物貰うのが嬉しくて、はしゃぎ廻るもんだヨ。
 子供はおだてて、誉めて育てよ、の言葉があるが、実にそうしたもんだヨ。クドウ床屋を見ててもそう思う。
 五戸高校に進学したけど剣道部がない、なけりゃ作ろうと三年生を焚きつけて部を創立するところはなかなか賢い。その剣道部で青森県大会に出場し、な、なんと準優勝。これで血が頭に昇りきっていまだに降りてこないんダ。こうした人は幸せだヨ。一生夢見てボウっとして暮らせるんだもの。子供がそのまま大人になったようなもの。丁度、青森県知事みたいな もんだ。とっちゃん坊やだヨ。高校で初段、二段と順調に実力向上、修学旅行に行く金を貰って水戸の剣道道場に武者修行に行く。そこの道場主は戦前、京都にあった武道専門学校の卒業生、二段のクドウ床屋が赤子の手をひねるように簡単に投げ飛ばされ、終いには馬乗りになられて亀の子状態。自信と自慢の高い鼻はへしおられた。そこで一ヶ月ミッチリ教えられ、男の子がないので養子にこいとまで見こまれるも、私は長男、ごめんなさいと両手をついて謝った。そして青森県剣道秋期大会で準優勝。その実力が認められ日本大学が特待生で誘いましたゾ。そこで知り合った一年生、合宿所で同じ釜の飯、それを食ったのがアンタ、梅宮アンナの父、辰夫だよ。上の写真右端のチンチクリンがクドウ床屋、竹刀で頭ぶたれすぎて背が伸~びない。梅宮は前列左三番目。
 なんで梅宮が剣道部? この人は品川戸越銀座の医者の倅、甘いマスクで女が騒いでどうにもならない。高校ではハイジャンプの選手、東京都 高校生記録を持ち、百七十九㌢を飛ぶスポーツマン。水谷八重子の娘や江利チエミなんかから合宿所に電話がかかる。「クドウ床屋、うまいこと言ってヨ」、と夜遊びで門限に遅れる。大体、親が言っても言うこときかないので合宿所にブチ込まれた。
親の意見も合宿所も屁のカッパ、なにしろ高校生で松竹から映画に出ろとスカウトされるほど。クドウ床屋は目の玉ひんむいて驚いたのなんの。松竹? 水谷八重子の娘? 江利チエミ? 今まで松竹って映画は見たけど、出演する人初めてみたヨと、アア、東京は何て刺激的な所なのかと、しばし呆然、空中遊泳、日大に入れてヨカッタ~。しみじみ思ったゾ、「梅宮、門限遅れそうになったら裏の木戸開けておくがら、こっそり入ったらよかベ」クドウ床屋も悪い知恵つける。「だども、今度はオラも江利チエミに逢わせてけんだ」「お前は訛がひどいからだめ」「だども…、ならおみやげ貰ってコ」クドウ床屋は門限破りの片棒を担 ぐのでありました。そして二年生のある日、梅宮が来て、「クドウ床屋、俺は今度東映のニューフェイスに合格したから、学校はやめる。俺と一緒に合格した女は三田佳子だヨ、これからはサインの練習が忙しい」と、日大の合宿所、これは下高井戸にあったが、そこからドロン雲隠れ。
 それからの活躍は皆様御存知の通りでゴザマス。一年生の時は炊事係りを一緒にしまして、豆腐一丁買いに梅宮の親父の外車を無断で合宿所に持ち込んで、それを梅宮運転、クドウ床屋は隣で鍋持って豆腐屋に乗り付けるんだから、豆腐屋もあきれたネ。
 「外車乗り付けて学生が豆腐一丁買いに来る、世も末だ」。鍔釜でコゲ飯作って梅宮と二人で、それを握り飯にして食べたり、江利チエミがくれたウイスキーボンボンに、世の中にゃ、こったらうめえもんがあったんだと驚嘆、アララ、紙面が足らない、この続きは叉、来月。
続く。

2009年3月9日月曜日

八戸及び八戸人13 この道一筋四十年、日本の宝を生み出した大川みほさん

東北の片田舎八戸に功成り名遂ぐ(こうなりなとぐ・手柄をあげ、名声も得る)秘密の場所があるとしたら聞きたい聞きたくありません? 大きな声じゃ言えないけど小さな声では聞こえません。その場所は八戸のウルスラ学院音楽科。ここは日本一への登竜門。でも知っている人は一握り、知らない人が多いからこそ登竜門なんです。
 ここで四十年教鞭をとり続けられたのが大川みほ先生、旧姓は西田みほ、青森県は下北郡川内町で誕生されました。これを義太夫風に言えば、
「父の名は要一、母はひでと申しまする」「して父母の仕事はいかに?」「あいあい、共に教師でござりまする」「すると転勤族で、そちはいかほど苦労しやったか」「小六の頃、父母は転勤し山の奥、残された兄妹は祖母の家にて下宿住まいで ござりまする」「エ、エエッ、幼い頃より苦労を味わい、辛いことであったよナ」
この少女は父親が呪文のように「音楽の教師になれ」と言い続けました。、それが見事成就となりました。青森高校に進学し弘前大で英語にしようか、それとも音楽とお悩みになる英才です。そこで父親の言葉が生きました。音楽はピアノをとりました。でも、やはり声楽と思い直して発声練習。 ピアノはそれなりに楽しいんですけど声楽は楽器を運ぶ手間がいらないだけ便利でもあります。ただ自分が楽器のため、絶対音階を擦りこむ時間はかかるんです。でも、弘大生の西田みほさんはそれを苦もなくこなしまして、仲間と音楽のツアーをして歩きました。
もっとも、この西田さんが在籍していた青森高校の生徒たちは少々ならず図々しいところがありまして、大川先生の生まれ故郷の川内町に高校生の身で音楽会を演奏に出かけるんです。好きなことして人に喜んでいただけるを体で覚えると、 その道にどっぷりはまります。
大川先生は前列右四番目、麦藁帽子を手にされておられます。通りを歩いている人は下駄ばき、古き良き時代でした。これは高校の頃のお話です。大学時代はおおがかりになりまして、県内をくまなく廻りました。先生は中学時代から音楽に親しんでいましたが、なにしろ一九四三年生まれでおられます故、川内中学の音楽部では木琴を担当していたんです。エッ? 嘘ではありません、証拠の写真が次ぎです。なにしろ先生は戦時中に誕生されましたから、そうしたこともあったんです。なにしろ戦争に負け、アメリカ兵が進駐してきて、基地の傍の質屋に壊れたと称して不正に軍隊から持ち出された楽器がピカピカ光って陳列される以外にヤマハも日本楽器も製造しません。宮田ハモニカが唯一の子供の楽器、それを口に当てているんです、曲目は何でしょう、昔のことですからNHKのラジオ歌謡曲でしょうか。
そんな少女時代もありました。昔は、東海道線の浜松駅に「ハモニカ」娘が駅弁の代わりにハモニカを売っていました。それを作ったのが浜松の河合楽器です、昭和九年からハモニカを製造し、戦争も終え人心が落ち着いてきて、楽器を演奏する余裕も出てきました、ピアノの河合はこれで大儲けです。世の中は良くしたもので、辛く厳しい時代を経てこそ、喜び輝く時を味わえるもの、平々凡々に過ごすと人生の機微(きび・容易には察せられない微妙な事情・おもむき)を知らずに年を重ねてしまいます。
人間という者は平々凡々に大過なく人生を送る者より、苦しく辛い年月を重ねた人こそ、チョットした人情にも喜びを感ずることができるようになります。だからこそ、他人の境遇境涯にも同情し、共に涙を流し、
「そして、でもね、ここでへこたれちゃダメ、あんただからこそ出来るの、私には判る、だから、もう一度ここやりなおそう、サア、元気を出して もう一度」
大川先生はこう言って門下生を励ましていませんか、あの人はそうした人です、これを仏門では観音力と言う言葉で呼び、キリスト教ではマリア様のような、と言う表現を用います。これが長い間生きていく、いえ、生かされていく上で、数少ない者に許される希な力なんです。我を忘れての言葉があります、我が身をかえりみずの言い方もあります、人の世に生きていく上で、金の苦労に人の苦労、いくつもいくらも乗り越えなければならない人生の山坂、もしお金があったら、この子にしてあげたい、大川先生は何度もこの言葉を呟くけど、金の苦労はまた別の世界、ここで教師はつまずくんです。したい、させたい、してやりたい、でも、どうしても手を差し伸べることの出来ない事もある。それでも先生は言います。
「サア、元気を出してもう一度」
そうなんです、人生に二度はありません、たった一度の人生、まるで方向の見えなくなった夕暮 れの道、なんかの拍子につまずき転んで、泣きじゃくる、黄昏時(たそがれどき)は誰でも忙しく、他人のことは見ても見ぬふり、サッサと行き過ぎるだけ、でもネ、元気を出して起きあがり、体についた泥と埃を叩いて落とし、もう一度頑張ることは出来るんです。
けれども万人にそれは許されてはいないんです。ごく限られた、自分自身が何者であるかを見定めることの出来る信念と執念のある者にしか許されてはいないんです。
大川先生の登竜門に音楽に目覚め、何人もが足を運んできます。何に一つ非のない、つまり可も不可もない恵まれた家庭の子女は、人生の蹉跌(さてつ・つまずき、失敗)を味わうことなくノンビリと過ごしてきました。だから大川先生の厳しい指導に音をあげる。せっかく登竜門にとっつきながら激流を昇りきれないのです。登竜門を解説すれば、卑弥呼が出てくる後漢書東夷伝と同じ頃、後漢書党錮伝に、こう書かれてあります。黄河中流にある急流で有名な竜門、ここを登った鯉は竜になる。これが登竜門の語源、困難ではあるけど、そこを突破しさえすれば立身出世ができる関門。富裕な子弟はこの大川みほの激流に音をあげるんです。ここを嬉々として渡る者はいません。でも、辛さに耐えて耐え抜いて渡った竜女たちが出たんです。
そのうちの幾人かをご紹介します。最初は加賀ひとみさん、この人は幼い頃からピアノを練習し、音楽の道に進むと決めていた訳ではありません。宝塚にあこがれ、バレーをしていれば宝塚に入れると漠然と夢見ている少女でした。ところが中学時代に足を痛めて、医者から体操をしないようにと指示がありました。そして高校受験、そのとき母親がウルスラの音楽科は一年間体育の授業がないからと勧めました。世の中はヒョッとしたことから人生が大きく展開していきます。そして声楽の鬼とまで呼ばれる大川先生と巡り会います。自分の信念を貫き、子弟を必ず一人前にしようと使命感に燃える大川先生の言葉は高校生には刺さるように痛いんです。加賀さんはそれに耐えながら教えられたことを体に刻み込んだのでしょう。その時は嫌だったのかも知れません。宝塚に行きたいという夢は現実の前には雲散霧消します。いいえ、この加賀さんに素質がなかったのでは決してありません。
人生は運なのです。縁がないものは運んでいただけないものなのです。そうなんです、運はみずからを運んでいくのではなく、満潮の汐がみなぎってくるように我が身が運ばれていくものなんです。
世の中、運がいいとか悪いとか、あたかも自分の意志でことが成就するようなしないような表現が曖昧に繰り返されたりするものなのですが、本当は満潮の汐のように我が身は翻弄(ほんろう・思うままにもてあそぶこと。てだまにとり、なぶりものにすること)されるだけなのです。でも、わずかなりとも自分の意志がそこに介在するような自尊心だけが運は自分の意志でどうにかなると耳元で囁きますが、なぐさめ以外の何物でもないんです。
加賀さんは九人いると伝えられる知的活動の女神ミューズに運ばれます。この神たちに見こまれるとどうあがいても逃れることなんかできないんです。次第に音楽の楽しさに目覚め、加賀さんは芸大進学を決意します。そして受験、でも失敗してしまいました。何ごとにも興味を持てず、浪人と称して東京で一人暮らしを始めます。両親の仕送りを得ながらぼんやりとしているうちに、アルバイトを開始、それはそれなりに面白く、月日の経つのも夢のうち。気づけば東京でも一、二と呼ばれる百貨店のブティックで楽しく働いていました。それはそれで楽しいのですが、何かもの足りなくて、その頃知り合う友は、皆音楽関係の人ばかり。三年も受験から経過していたんです。歌謡曲の歌手たちを集めるプロダクションの人に、思わず自分の境遇境涯を語っていました。
ミューズの神の作用なんです。すると、その人は大学進学を勧めました。ブランクがあるのに、でも、どうしたらいいかしらと、加賀さんは受話器を挙げ、大川先生に電話をしていました。あんなに厳しく、あれほど辛い時を送った大川先生に思わず知らず電話をしていたんです。
大川先生は「どうしてたの」と心配してくれました。その言葉を聞いてどんなに胸が熱くなったことでしょう。そうして受験を喜んでくれました。先生に歌を聴いていただき、三年半も音符も見ずに暮らした加賀さんが、心機一転また音楽の世界にのめりこんで行きました。今度は時間がなくてダメでも必ず合格できるワ、と大川先生は励ましてくれました。それは満月が大きく空に確かな位置 を占める、葉ずれの音もさわやかな空気の澄んだ秋のことでした。それから死にものぐるいの勉強を開始し、何と見事に芸大に合格したんです。三年半の空白は加賀さんが一年に合格した時、下級生の林満理子さんは四年生、それでも加賀さんは希望に燃えていました。ミューズの神に微笑まれた人は、どんな紆余曲折(うよきょくせつ・事情がこみいっていろいろ変化のあること)があろうとも必ず願いは成就するように出来ているんです。その後、芸大の大学院に進み、今は美貌とメゾソプラノを生かしオペラの世界の主役を努め大きな花を咲かせるようになったんです。
大川先生は人を育て伸ばす天賦の才があるんでしょう。それも、その道の一流へと導く偉大な力が…。
オペラの開始は日本歴史では秀吉の時代、刀狩りが行われたころです。世界に通用する日本の代表的女性歌手は三浦環(みうらたまき・東京生れ、東京音楽学校卒。帝国劇場歌劇部に入り、のち欧 米各地で歌劇「蝶々夫人」などに出演、国際的な声価を得ました。この三浦環もお嬢さん育ちで女学校の教師に才能を見いだされ進学を決意しました。親は婿を貰うことを条件に進学許可、滝廉太郎に師事し、明治三十六年、日本初の歌劇「オルファイス」の主役をつとめました。卒業後、離婚、再婚という試練をへて欧州へ勉学に出ます。俗に言う洋行です。ロンドンで実力を認められ、アメリカで花を開かせ、蝶々夫人の作曲家プッチーニから「世界唯一、理想的な蝶々夫人」と賞賛されました。なんと名誉なことでしょう。ここでも、女学校の教師が重要な役割を担っています。人生は人間対人間の真剣勝負の場、もし、環の女学校の先生がいなければ、世界のプリマドンナ三浦環は誕生しなかったんです。
ここに人生の不思議さを感じませんか、加賀さんが大川先生と出会うことがなかったら、バレーで足を悪くしていなければ、ウルスラ高校に進学もしていないんです。加賀さんの人生を大きく左右させたものはミューズの神以外考えられますか。
芸大に進んだ林満理子さんも素晴らしい才能に恵まれた人です。松田トシ賞を受賞し大学院に進み長野県小諸高校の教師となり、生活を一応安定させ、山口大学に招かれ教鞭をとり、今年の十 月二日、東京で開催された「第三十六回イタリア声楽コンコルソ」で金賞を射止めるも、この人の実力から言えば少々不服があるんです。やはり小渡恵利子さんと同じ大賞を手にしてもおかしくない本格派なんです。時に人間には運が作用する事があるんです。でも、この林さんは努力の人、きっと大きな賞を手にすることでしょう。根城中の合唱部出身で声に透明感のある美人です。
さてさて、この大川先生が日本の宝を生み出したと書いたけど、いつになったら、その宝を見せるのと、気の短い人の声がきこえますけど、慌てることはありません、夜道に陽は暮れないと申します。ゆっくりとお聞きください。
その宝は倉石村出身の皆さんご承知の小渡恵利子さん。
この子には天性のものありと見通した大川先生は声を造る指導をします。ここが存外難関なんです。でも、見事に変えてきます、それも先生が理想と描く領域にまで。
声楽の鬼、大川とまで言われるほど、徹底した指導は受ける人物を大きくします。でも、それは辛さを辛さとして受け止めることのできる人だけが得ることのできる果実なんです。小渡恵利子さんの話は幾つもしなければなりません。この人は必ず世界に通用する歌手になります。三浦環をしのぐ歌手になることでしょう。この人の実力は世界レベルなんです。でも時折自分を見失って、どうしようと悩むんです。これは人間ですもの致し方のない部分なんです。この人は厳しい境遇に追い込まれました。親が事業に失敗し金銭的な悩みの中に投げ込まれたんです。本人は何の関係も ないんです、親の仕事上の事なんですから。でも子供というのは、そうした事を恥と受け止めます。金の世界は人間にだけ存在します。
大坂人は道ばたで「もうかりまっか」「ぼちぼちでっな」と言うのがしきたりのようなものですが、これも人間だからこそ、こうした会話をするものですが、犬が片足上げながら「もうかりまっか」とは言いません。なにしろ、犬の世界にお金はありません。どんなに気の利いた犬でも、毎月月給を拾ってはきません。
まして高校生の身でお金の苦労は死ぬほど辛く惨めなものです。月謝が払えない、未納者の名が掲示されるは耐えられないものですが、親権者ではない子供の身、平気の平左衛門でいればいいのですが、存外気になるもんで、学校中の人が皆知っているような気に陥ります。でもそうした苦労は本当の苦労ではないんです。人間死ぬ気になれば何でも耐えられます。小渡さんはそうしたことを若い内に体験し、克服する術を身につけたか らこそ、次々に押し寄せてきた悩みに、真剣にそしてうまくかわして行けたんです。
高校三年間は鬼の大川先生の指導が楽しく思えてくるほど、彼女は色々なことにぶつかったんです、でも歌を歌っているときこそ、これが自分、本当の自分だとの確信を得ました。
そして最初山形大学に進学し、一年後に芸大に入学しました。これにも少々事情がありました。どうしても現役入学でなければいけないという、今になって考えれば、なんだか良く理解できないような話だったんですが、小渡さんは寡黙に耐えるんです。二十歳になるやならぬ若者です、周囲の都合に振り回されてしまいます。そして更に自分を見失ってしまうものなのです。
でも彼女には天賦(てんぷ・天が授けた)の才能があり、それがたまたま殻に覆われて外に出ないだけなんです。大川先生はそれを惜しみました。でもネ、どんなに判っていてもどかしく思っても、一介(いっかい・たかだか、わずかな)の教師に 出来ることと出来ないことがあります。教師は自分の畑である音楽の指導なら、他に負けない自負(じふ・自分の仕事や才能に誇りをもつ)も矜持(きょうじ・自分の能力を信じていだく誇り)もあり、大川先生の熱心な指導ぶりは青森県のみならず中央にも轟(とどろく)くようになっていました。
そんな自他共に力量を認める大川先生でさえ、家庭が抱える悩みに首を突っ込むことはできないのです。ええ、おっしゃる通りなんです。そうした悩みは各自が解決しなければならないんです。でも、大川先生は指導こそ厳しけれど、母親が我が子の帰りを門口で待ちわびるような優しさがあり、それが大川先生を衝き動かすのです。その優しさゆえに卒業後の子女をいつまでも心の底にしまいこみ、時折どうしているやらと案ずるのです。だからこそ、加賀さんの時も、すぐ帰ってらっしゃい、いい方法を考えるからと適切で、それでいて情愛のこもった言葉がとっさに出てくるのです。
だからこそ、であるからこそ、先生の教職四十周年コンサートにも、世界のプリマドンナたらん小渡さんも、加賀さんも、林さんも、今回は時間の都合で詳しく紹介できなかったけど、遠く異国のパナマ国立大学芸術学部教授になられた中川昇子さんも参加してくださるのです。この中川さんは第三回生、家庭の都合でいったんは音楽の道からそれてしまいますが、持ち前の頑張りと不断の努力で自らの道を切り開いていかれました。それが、あろうことか、あるまいことか、日本で花が開くのではなく、中川さんの実力を外国の人が認めて、あなた以外に私たちの国の若者を導ける者は見あたらないと、固辞しつづける中川さんを説得します。相談を受けた大川先生は、「サア、元気を出して外国に骨を埋める気でおやりなさい、それほど認めていただけて、教師冥利に尽きるというものヨ」と励ましたんです。中川さんは今や押しも押されもしない国際的な指導者でありソリストなんです。
道が少々逸れてしまいました。大川先生の話はまだまだ紹介しなければならないことが沢山あります、紙面の都合で今回出演の一人一人について熱く先生は語られますけど、掲載枚数に限りがあり、ごめんなさい、掲載しなかった方たちを先生は忘れているんじゃないんです。
 そうそう、小渡さんは芸大に入り上浪明子先生に教えを請います。彼女の才能を認め上浪先生は腰の入った指導をされました。でも小渡さんは先生への謝礼が払えないんです。皆、誰でも一流を目指す音楽家は、これと目指す先生から個人指導を受けます。ちょうど武者修行のように、実力、ナンバーワンの先生に、一対一で奥義の伝授を得るんです。小渡さんは必死です。小渡さんの努力の真似は誰もできないかも知れません。授業の合間に築地の弁当屋で朝の五時から昼の一時まで働き通しました。すこしでも食費、学費を稼ぐ必要に迫られていたんです。誰も助けることの出来ない険しく胸を突く人生の坂道を小渡さんは必死で這うようにしながら登り続けます。なんで、どうしてそこまでしなければならないの? 小渡さんはこう答えたでしょう。だって、歌は私の命、私の存在そのものなんです。
 だから、バイトができずお金のない日は、小渡さんは行きたくても上浪先生の所にレッスンを受けにいけませんでした。行きたくなくて行かないは自分の意志です。お金が無くて行けないは辛いことです。
 上浪先生が大川先生に電話をかけてこられました。「大川先生、私も小渡がお金のない苦労をしているのを知っているワ、お金のことは心配しないで来るように言ってネ、あの子は私たちの宝ヨ、いいえ、あの子は必ず日本の宝になるの、私にはそれが見える。タダと言うと小渡のことだから来ないと言うワ、だから、出世払いということで大川先生、あの子に伝えてください」
 それからの上浪先生は小渡さんに自分の持てる物の全てを無料でお教えになられたんです。勿論、出世払いですもの一円も貰わずに…
なんと言うことでしょう、上浪先生は不治の病に倒れて、亡くなってしまわれたんです。
大川先生は泣きました、小渡さんはハンカチを固く握りしめて涙をこらえます。大恩を頂き、それを返す事も出来ずに黄泉の道をたどられた上浪先生に、どうして感謝の言葉を伝えればいいのか、小渡さんは葬儀の日に、大恩ある教師、上浪先生の柩に向かいアベマリアを心をこめて歌いました。お世話になったのは上浪先生ばかりじゃない、青森市で小渡さんが公演したとき、楽屋を訪ねて来た老婆が、こう言いだしました。これから貴女が着るドレスを私がプレゼントしますと。この人は衣装を造るプロでした。公演があるたび、約束通り仮縫い衣装が公演練習日に届けられ、そこに老婆が来て調整をし、それを本公演には間に合わせる神業です。いくつも造ってくださったんです。どうしておばあちゃんは小渡さんに造ってさしあげるんですかの問いに、「人生、一つくらい損得抜きで人に奉仕がしてみたかったの」屈託のない玉を転がすような笑い声が今も耳に残ります、エエ、その後、この方もほほえみを浮かべて亡くなられました。小渡さんに着きれないほどの量の衣装を残して…。
まだあります、十和田市のソロプチミストが婦人向上賞に、苦学しアルバイトを続けながらコンクール優勝を目指す小渡さんこそ、同会の日本本部表彰者に最適と推薦、これが認められ二年間奨学金が出ました。これを陰で画策されたのも大川先生でした。名前は明かせませんが、その外にも幾人もの方たちが…、青森県教育厚生会、倉石村も彼女に力を貸しました。さらに、八戸市の三八五貨物が引っ越しのTVコマーシャルに小渡さんを抜擢し安定した広告契約料を頂きました。これらは若い日々に、しなくてもいい苦労をされたご褒美にと天が小渡さんに授けたのでしょう、誰彼の別なく引き立てられ、好かれるのは小渡さんの個性以外のなにものでもありません。人生、楽は苦の種、苦は楽の種、まさにその通りじゃありませんか。
さて、いよいよ最後になりましたが、ここでウルスラ高校音楽科卒業ではありませんが、バリトンの福山出(いずる)さんを紹介して、大川先生の門下生の話を終えます。
 福山さんは工大二高卒、国立音大を卒業、テノールの錦織健と同門です。福山さんは芸大受験するもピアノで落ち、国立音大に入りました。テノールよりバリトンの声だと教授から言われ、二年半かけて声質を低音に作り替えます。プロはこうした努力を人が見ないところで必死にするものなんです。ここが並の人間と違うところです。
 この人の実家は新郷村、ええ、あのキリストの墓のある村です。なにしろ希有のほら吹きが新郷村にいたんでしょう。ゴルゴダの丘で殺されたのは弟で、兄はここまできて死んだという、あまりの誇大妄想にめまいがします。ここにバイテンという売店があります。ヤマザキのデイリーショップです。ここが福山さんの実家です。変わった名前です。つけた人の顔がみたいもの。上の写真のデカイのが福山さん、高校では柔道もされていました。今は二期会に所属しています。大川先生に、この人はどうですかと尋ねました。錦織さんより上に行けそうですかの問いに、ズバリ「福山君は錦織より実力はあります、期待できますヨ」と断言。あの、人を誉めないことで有名な大川先生が、福山さんに嘱望(しょくぼう・将来や前途にのぞみをかけること。期待すること)されているんです。私たちはこの福山君に期待しましょう。そして、大川先生の門下生たちの今後の展開を見守りましょう。幸い地元新聞のデーリー東北は大川先生の門下生たちへ熱い期待をかけてくれ、いつもそ の動静が手に取るように理解でき、ありがたいと感謝しています。声楽やオペラはどうも一般市民の関心を引きにくい芸術ではありますけど、こうして地道に多くの子女、子弟を育て続けた立派な教育者が八戸にいることを心の隅に刻んでください。そして願えることなら、これらの若者が日本を代表する声楽家となれるよう声援、応援をお願いします。小渡さんほどの大人物でもまだまだ生計は楽ではありません。他の者は押して知るべしです。長い間、声楽、音楽を通して多くの才能溢れる人々を世に輩出してくださった大川先生、ありがとうございます。そしておめでとうございます。貴女を、もしウルスラ高校が得なければ、こうした結実を見ることはありませんでした。更にウルスラ高校が大川先生を支持し、好きなように子女を教育させたことを喜びとします。この大いなる心がなければ偉大なる指導者大川みほ先生も存在しなかったからです。私たち八戸市民はこの目で、この耳でウルスラの活動をみさせていただきました。五輪の伊調姉妹を八戸市民の誇りとするような熱いものを… 本当に本当にありがとう。

2009年3月8日日曜日

八戸及び八戸人12 水産都市八戸を見続けた男、島守巌氏

昭和三十四年のデーリー東北新聞に二十歳代の経営者が連載され、その中の島守さんは大した男だと感心、鮮魚の仲買商をされていた。その人がその後どうしたかを知りたくて探すと、鮫のダイマル水産の会長をしておられた。
八戸屈指の水産会社にまで昇りつめられた島守巌さんの働きぶりを振り返りながら、水産都市八戸の流れを振り返ってみよう。参考資料は漁連三十年史。
日本が戦争に負けました。優秀な八戸の漁船は徴用され、日本各地のみならず外国までもでかけ、魚雷や爆弾で沈没した船もあったんです。漁船の乗り組み員も戦争にとられて、浜は女子供や老人ばかりで、四万四千トンの水揚げがあった八戸港は灯が消えたようなありさま。
 沖合に魚がいても船がない、漁師もいないという状態、それでも飯は食わなきゃならな い、魚は経済統制で配給制、いやあ、食べる苦労から始まったんです。役所も内地の人、さらに外地から引き揚げてきた人たちを食わせるために、規制を緩和しましたとも。木造船を二つに切って、大きな板をつないで大型に船を造りかえたんです。
 無茶な? ええ、無茶を承知でやったんですよ。そんな船に乗り込んだ漁師は怖かったと言っていましたとも。いつ船がバラバラになるかわからないんですから。
そんな無茶が通って、八戸の漁獲量も昭和二十四年には戦前なみに戻りました。
イカの町八戸の言葉がありますが、このイカ釣り漁業は戦後爆発的に栄えたんです。それには理由があったんです。漁網や漁具には大きな資金が必要になりますけど、巻き網や流し網となれば何キロという距離の大がかりなものですが、何、イカは釣るわけですから簡単な道具があればいい、なにしろ戦争に負けて働く場所のない人が山ほどいるんです。現在は働きたくない若者が山ほどいます、あれは嫌だ、これはいいとえり好みしてるうちに年をとって、若者じゃない馬鹿者になるのも妙な話ですが、必ず年寄りになりますなア、好むと好まざるに関わらず。ハイ。
 イカが沸いて出るほどにいたんです。海の中はどうなっていたか、つまりいかばかりかと言うと、 イカばかりイカばかりで、あいつらは魚類でも人間なみに目が発達している、網ですくうと網の中で共食いして、玉に疵ならぬイカに疵、釣り針でとるイカは活き活きしてて身も厚い。なにしろ、釣り針と糸だけ買って、知己を頼りに方々捜して、イカ船になんとか乗り組む、すると船頭がイカがうようよしてる所に船を泊める。ジャンジャンかかるんだ、イカが。そのとれたイカを船頭と五分分けだ。
 つまり、今の乗り合い釣り船みたいなもの。イカは目がいいから、面白い釣り針をみると、マアいいか食って見ようとなる、魚の餌ならぬ人間の餌と針持って船に乗る、船賃の代わりに獲れたイカを半分置いてくる訳。こうした釣り子たちがウヨウヨしたな。これらのイカをほまちイカと呼んだ。これらは市場を通さずに売買されたんで、漁価が統一されずに混乱。
 戦前は白銀浜でイワシの巻き網が盛ん。ところが、戦後はイワシがいなくてワシが困ったと漁師言い。八戸のイワシ船は福島、茨城まで出かけてイワシを追うも良い年はマレ。
 八戸は底引きが好調。イカと合わせると八戸の水揚げの八割を占めた。イカもほどほどに獲れればいいが、獲れすぎると値段が下がる豊漁貧乏。イカはただでやるから箱を返してくれという、実に奇妙な話もあった。箱が三十五円、イカが十五円、これじゃ箱返してもうなずける。時代が下がってイカ釣り船に強烈なライトをたくさん付けて発電器で光らせる、目がいいから海上にキャバレーができた、それ見に行けって、イカの野郎が急いで海面に浮上、それを浅利研究所が作成したイカ釣り機でどんどん釣り上げる、イヤア八戸前沖もいい時代がありました。船も大型化しました。
底引きは北海道太平洋海域で入会調整問題が発生しまして、昭和二十四年に青森・岩手・宮城・福島・新潟の船百五十隻が操業を認められました。この時期北洋漁業へ進出しました。昭和二十七年青森県に四隻が割り当てられ、三隻を八戸から出しました。赤字でしたが二十八年は八戸から六隻が出ました。二十九年は大洋冷凍母船のサイパン丸、独航船十四隻のうち八戸は七隻が操業、うまく行きましたが昭和三十二年に大洋冷凍母船は日魯漁業に吸収されました。企業が大型化していった時代でした。
昭和二十七年には県外船がサバ一本釣り、サンマ棒受け網、マグロ突きん棒などで九百三十六隻、その後、八戸沖にサバ釣り漁業が形成されたことで昭和三十二年には八千六百九隻もきました。新井田川に船がビッシリと並び、その船を渡って向こう岸まで行けたんです。
昭和二十三年には水産業協同組合法が施行、二十四年には漁業法が整備され、組合には加入・脱退の自由が保証され、自主運営に参加できるようになりました。二十四年から六年にかけて八戸を中心として二十二の組合ができました。
県外船がきても係留する場がない、漁港の整備が必要になります。またイカが獲れすぎて貧乏になる、これを解消するにはどうしたらいいか。これらを討議するために業界も動きました。昭和二十七年の八戸漁業振興協議会がそれです。
八戸市漁業協同組合高谷金五郎、八戸市白銀組合関下松太郎、鮫浦組合宮崎市太郎、青森県鰹遠洋組合中島石蔵、八戸底引き組合中島石蔵、青森県旋網組合秋山皐二郎、八戸市柔魚釣組合大坂由太郎、湊小型組合秋山吉三郎、八戸目抜延縄組合熊谷義雄、八戸刺し網組合柳谷第吉、八戸沿岸発動機組合安達末松、八戸南浜組合二部菊松、八戸小型組合河村正太郎、これに次の組合が参加して、(写真島守岩松さん)昭和三十二年に二十二組合となった。八戸鯖流し網組合、八戸近海組合、八戸鯖一本釣り組合、市川組合、八戸さけます延縄組合、小舟渡組合、榊組合、大蛇組合、荒谷組合、追越組合です。
創立時の役員構成は会長熊谷義雄、副会長秋山皐二郎、副会長高橋勝三郎、理事高谷、中島、大坂、関下、宮崎、柳谷、大下文平、久保保三、町田米次郎、月舘幸太郎、吉田利八郎、秋山吉三郎、倉本象二、夏堀正作、高橋五郎、二部、河村、尾崎市之助、監事佐川真一、五戸勘次郎、岩間日出夫の諸氏。
 懐かしい顔ぶれです。健在なのは高谷さんかな、私の会社の名前、ダイマルは父の姉、つまり伯母にあたる人が、大丸の名を付けた会社は皆、繁盛している。これは縁起の良い名前だからとすすめたそうです。それでダイマルなんです。
 私の父は福地村の近くの出身で、夏堀源三郎さんと親しくしておりました。この人のもとで番頭をしてました。夏堀さんは積極的に水産と取り組まれ、この人なしに八戸の水産は語れません。幼い頃からの苦労人です。豪農の家に生まれたんですが、十三歳の年に家運が傾き、八戸中学を中退されました。漁業界に飛び込み、頭のいい方です、たちまちに頭角を現し、漁業はもとより海産物、回船問 屋を手がけられますが、機船底引き、マグロの流し網、イカ釣り、めぬけ延べ縄(写真がめぬけ)経営を軌道に乗せ、昭和四年湊川魚市場を組織しました。これは昭和七年八戸魚市場ができ、この中に統合されました。八年には市営の魚市場を開設し、その委託販売を社長の夏堀さん、専務の熊谷義雄さんのコンビで業績を向上させます。
 なにしろ湊川魚市場を軌道に乗せた人ですから手腕は抜群でしたネ、父はこの夏堀商店に十二歳から奉公しました。そして昭和十二年に独立して、ダイマルを興しました。四国や九州からの船が八戸に魚を下ろします。父は夏堀商店の番頭でしたから、それら県外の人とも付き合いがありましたけど、そういう人とは取引せず、たまたま八戸に初めて入港し、どこの問屋とも取引のない船頭の荷をさばきました。勿論夏堀商店に遠慮したわけです。取引できなかった人もその事情を知り、主家に弓をひかない位だから信頼できると、自分の友人を紹介してくれ、かえって人気が出たほどです。何が幸いするかはわかりません。でも父は誠実と信頼こそ発展の道とよく言っていました。夏堀さんは昭和二十一年には衆議院議員になり、八戸を留守にすることが多く、役員の不正経理問題が昭和三十六年に発覚し引責辞任、翌年七十四歳で亡くなりました。前にも申し上げましたけど、大洋冷凍母船を経営されていました。北洋、南洋と幅広く船を出した八戸一の実業家でした。南洋マグロをキャッチャー式母船で漁獲する方法は夏堀さんが創始されました。
 漁業で歴史の古いのは湊の五戸岩次郎さんの文久二年、明治十年が浜須賀の秋山熊五郎さん、明治十二年が湊柳町の神田商店神田俊雄さん、二十二年が鮫の岩五商店、岩岡義剛さん、二十五年が白銀の長谷川藤次郎商店、四十年が高橋商店、高橋善蔵さん、大正に入りますと、三年が鮫の宮市商店宮崎市太郎さん、同じく三年に南横町夏堀商店、夏堀源三郎さん、十年が下條の武尾商店武尾憲三郎さん、十二年が湊本町倉本商店倉本象二さん、十五年が小中野新町中石商店中島石蔵さん、昭和元年が下條の吉田商店吉田利八郎さん、二年が鮫の平岡春松さん、八年が小中野北横町の角栄漁業角栄次郎さんなどでしょうか。
 デーリー東北が昭和三十六年に郷土の人物地図という好企画を立て、各界の人物を紹介しました。この年は八戸の魚関係の人々にとって激震が走った珍しい年でした。大工が放火し、白銀が丸焼けになった白銀大火、そして魚市場の内紛で夏堀さんが辞職されました。白銀地区は魚加工の人々が多く、干場がたくさんありましたが、仕事ができず困った状況が長く続きました。
 そんな中、デーリー東北がシリーズで紹介しました。記事を抜粋してみます。
 八戸は全国有数のトロール漁業の盛んな港だ。業界ナンバーワンの実力者として知られるのは吉田利八郎氏(五九)。この道三十年、いまではトロール、メヌケ刺し網、マグロ延縄、巻き網な ど十七隻・一千六百五十㌧の漁船を持ち、全国でもベストテンにランクされる文字通りの実力者でそのたたき上げた漁業者としてのカンと実力は貴重。さる八月には北日本最大の二百四十㌧鉄鋼マグロ延縄船第八十正進丸を一億円で建造するなどスケールは大きい。
 手堅い経営の中島石蔵氏(六四)は浜の指導者 的立場にあり、これまでもニシン積みとりなどで経営感覚のさえを見せ、トロール船第三海晃丸、北洋サケ・マス独航船海晃丸、太平洋サケ・マス船第十三海晃、積みとり船第十明石丸の四隻を的確に動かしてスキがない三つの冷蔵庫を持ち、合わせて製氷日産十㌧、冷蔵能力一千二百㌧という港きっての冷蔵庫経営を続けている。カン詰めハム、ソーセージなどの畜産加工品販売も扱う幅の広さもある。
 名門角万商店代表者の高橋五郎氏(五二)は東京生まれで水産講習所出身のインテリ漁業者。昭和十年に先代に見こまれて八戸にやってきて二 十六年、トロール船第三十二海鳳、第三新栄の両船をフルに動かすほか冷凍冷蔵工場も持ちスジを通した経営ぶりがこの人の身上。先代からこの商店で教育を受け優秀業界人に成長した人は多い。
 柳谷一家の長男、柳谷明義氏(五○)は頭の切れるトロール船主で、業界でも一家言の持ち主、明快な口調のトロール経営論激しい業界の中で 三十年間努力してきた内容がある。トロール船第二十、第十五正寿丸、イカ釣り船第一正寿丸の船主。
弟の勝雄氏(三八)はトロール船第十二北王丸、サバ釣り船第十三北王丸の船主で市営魚市場の大口仲買人の許可を持つ。
 柳谷明義氏の本家筋に当たる第四代柳谷第吉氏(三七)は八戸と北海道稚内でトロール業を営む実力者だ。先代は昭和三十三年鉄鋼船第二十一 久栄丸を室蘭で建造。その合理的経営の教育を受けたこの人も叉、筋金入りだ。現在はこのトロール船第二十一久栄丸、第五久栄、それにメヌケ刺し網船の第十三久栄丸で北海道沖トロール、そして稚内を基地としてカラフト周辺まで船足を伸ばしスケールの大きい操業を続ける。
河村平吉氏(五一)も忘れてならない業界人。 トロール船第十開洋丸、北洋サケ・マス独航船第十五開洋丸を持ち大洋漁業天洋丸船団の南方カツオ・マグロ漁へ十五開洋丸を出している。この船団は新潟、秋田、宮城、山形、八戸と優秀船五十隻をかり集めているが、同氏はこの出漁船団の理事を務める。
このところめきめき頭角を現してきた杉本大福氏(四七)はトロール船第十五みなと、北洋サ ケ・マス独航船第二十みなと丸、メヌケ刺し網第十一みなと、イカ釣り第二、第二十一みなと丸の五隻を持つ。大漁業の北洋サケ・マス独航船からイカ釣り船まで幅広い経営ぶりで、その新感覚による多角経営は定評のあるところ、次代の八戸トロール業界を背負って立つホープ的存在で、根っからの漁業者としての雰囲気が親しまれている。
トロール業界若手第一人者の尾崎鉄也氏(二九)はまったくの魚男だ。捕鯨船を除いたイカ、サバ、イワシは勿論、マグロ、トロールとすべての船に乗りまくり、若者らしいエネルギッシュな 行動の人、トロール船第二十、第二稲荷丸を率い弱冠二十五歳で業界にデビューした独立独歩の男だ。そして三十四年には百八十㌧の大型トロール船第二十五稲荷丸を建造するという離れ技をやってのけた。狭い日本の海だけでは物足りないと、三十三年九月には自費で単身世界漁業視察の旅に出て中南米を廻ってきた。
港のリーダー秋山魚市場社長、八戸地区漁連会長秋山皐二郎氏(五一)はミナト八戸を背負って 立つ中心人物。さる八月十日の八戸魚市場臨時株主総会で同市場社長に選任された。かねて唱え続けてきた漁業者中心の市場運営を実現し、株式会社ながら内容をオール漁連色に染め上げた手腕は理論家肌のこの人らしい。中型トロール船第三十五成田丸を持ち実力は八戸漁港のリーダーにふさわしい。
古いのれん島守氏
遠洋カツオ・マグロ延縄船団第三松福丸船主の 島守岩松氏(五六)は、八戸漁港育ての親の夏堀源三郎前八戸魚市場社長と同郷に近い八戸市烏沢の出身。十二歳で夏堀商店に入り、以来四十五年間魚一本に生き抜いてきた。夏堀、中石、町田の三商店に次ぐのれんの古さを誇る鮮魚問屋である。八戸市営魚市場鮮魚仲買の実力者でもあり、自慢の第三松福丸はミッドウエイから赤道直下までスケールの大きい操業ぶりで、県遠洋カツオ・マグロ延縄漁協組モデル船の一つに数えられている。
昭和三十六年は八戸は沸いていました。魚が獲れて獲れて仕方がないほど。海の幸が獲れなくなるなんて誰も考えていなかったんです。
続く

2009年3月7日土曜日

昭和33年の八戸

行政
一億四千万円という膨大な赤字のため、三十一年四月の市議会で論議の末、ついに同年五月、地方財政再建促進特例措置法の適用を議決してから二年、八戸市の財政はようやく好転、三十二年度は五千四百万円の余剰金が出る見込みとなった。もちろんこれは地財法適用恩恵による地方交付税大幅増額が第一の原因で、いわば他力本願によ るものだが、このほか、税の自然増収、一般経費の節約も大きかった。この結果、市理事者は当初七ヵ年の予定だった再建償還期間を二ヵ年短縮し、三十五年度までには残りの債権債(一億八百万円)を償還したい意向で、市財政の将来はようやく明るいメドがついてきた。
 三三年年度当初予算は六億七千万円だったが六月定例議会で五千万円が追加更正され総額では七億三千万円となった。これは三二年度実行予算に比べて七千万円減、内訳は市税が五十三%、国庫支出金十六%、地方交付税十六%の割合。歳出は社会及び労働施設の一億六千万円が一番大きいが、前年度に比べると三百万円の減、また公債費の占める割合は十二%。財政事情は好転してきたといえ、一般ならびに特別会計を合わせ起債その他の合計五億三千万円に上る借金、その償還とさらに市政充実にふり向けねばならぬため、ここ二、三年、再建団体の枠内での緊縮財政の形が続くものとみられる。

機構改革 三二年度二月設立された民間有力者からなる総合振興会とタイアップして市の産業振興を強力に推し進めるため同年七月、企画室が新設された。部内の助役、交通、水道両部長なら びに庶務、土木港湾、農林、商工、水産各課長が委員となった。室長は林商工課長の兼務、また同市の都市計画は三一年一月認可を受けたがこの仕事を推進するため、従来の土木港湾課から都市計画課が分離独立し、庶務秘書係りが一月一日付けで昇格、秘書室として新設され、全部で二部一一課三室となった。
合併問題 三二年三月、県の合併勧告を受けて以来くすぶりつづけていた大館村(八六二世帯、六千六人)の合併問題は三三年三月に至ってようやく村側が合併に踏み切り、市側に意思表示をした 結果、同年九月十日を期して合併が実現する運びとなった。またかねて五戸町に分布を希望していた豊崎町豊間内部落(二三四世帯、一六五七名)は関係市町の円満な話し合いがつき、同年六月一日から分布、五戸町に編入となった。
第二工業地帯造成と港湾建設 三角地帯の北側にある八太郎沼及び北沼付近一帯約一五○万坪を第二工業地帯として造成、大工場の誘致にあてるものだが、東北砂鉄鋼業八戸精錬所が製銑、製鋼一貫工場を建てるため敷地一五万坪を市に要請したことが契機となったもので、市では八太郎 地区の地主九六名の離作について十月頃から交渉を進め、三三年五月末に至りようやく全地主の用地買収を完了。
市民会館と故神田市長銅像 三二年八月三十日、千六百万円の工事費で着工した市民会館が三三年四月末、第一期工事が完成。木造モルタル約二三○坪の大ホールで収容人員は最高千五百名、引き続き第二期工事(木造モルタル二階建て三四五坪、会議室、郷土品展示室、食堂など)が同じく一六○○万円で行われる。
港湾計画生みの親の故神田市長の銅像除幕式が 三三年四月、市内湊町上ノ山の館鼻公園で行われた。八戸市出身の彫刻家名久井十九三氏の手による。
小中野魚市場新築と館鼻開削街路の着工 水揚げ量の年々の増加にともない従来の鮫魚市場だけでは処理できず工費一億三千万円で鉄筋一部三階、のべ建て坪三四六三坪の新魚市場を新井田河畔の小中野場尻に二ヵ年計画で建てる。
三二年大火で焼失した尻内駅前を区画整理、組合を設立し、約六○米の整理。
八戸沖のイカ大量貧乏解消として、地元業者は県知事の許可制を要請していたが、十一月期間を三五年三月末までとして水産省から認可、三三年一月県イカ釣り漁業臨時調整規則として交付、同年の夏イカ漁期から全面実施。この結果許可対象船は三一、三二年度の操業実績を持つ者に限定。許可申請船は四五○隻に達し、八戸漁業のガンとい われるイカ釣子の身分確立なども遅遅として進んでいない。
不振な三八漁協組の育成と生産者の団結で経営 合理化と安定を計るため、三二年七月八戸漁業連合会(会長秋山皐二郎)が十七単協参加によって 誕生。
三三年度以降の市の主な事業 市庁舎の新築(二ヵ年で建築費一億八千万円)衛生センター(汚物処理、し尿処理施設)、第二期上水道、(給水人口十五―二十万人)。
三十五年度から全市国保が施行される予定で、これに先立ち県厚生連三八城病院を譲り受けて私立病院とする計画も三三年度に終わるが三四年度には白銀三島上に労災病院も予定。定例市議会で敬老年金(八十歳以上、年額二千四百円)の支給条例も決定。

2009年3月6日金曜日

BeFmの脆さの原因

聞こえないラジオのビーエフエムは経営努力不足もさることながら、根源的原因を解消しないから十年経過しても市民の役に立たない。
 そもそも地域限定のFm波はNHKが最近Fm誕生四十周年と叫ぶように、ようよう壮年期に入った。見通し距離しか飛ばないという特性を持つ電波に全国規模の伝播力を期待できない。狭隘な地域情報発信が根源。そこで、これを市町村単位で免許することになった。丁度十年前だ。
 なんで、このビーエフエムが誕生したかを、昨日面談した市役所職員、防災課の二十代と思しきは知らなかった。もっとも二十五とすれば十年前は中学生だ。知らないのも当然のような気がするが、総体に市役所職員は不勉強。議会事務局に勤めながら、議会史すらも知らないのがいた。配置転換時に勉強させないのかネ。勉強・指導なしにワイワイ群れているのじゃ下北の猿とどこが違う。あやつらは動物園から捨てられた猿。市役所職員は給料を貰うと立場が違う。
 このビーエフエムの誕生は、青年会議所の構成員だった、米屋の倅と車屋の倅が、携帯電話のはしりに手を出した。大体、八戸人は流行り物に手を出す傾向あり。そして、すぐに飽きる。
 この地域携帯電話会社設立に悪感情を抱いた仲間に入らなかったか、入れてもらえなかったかは判らぬが、こいつらが八戸特有の足ひっぱり。儲けるのはきゃつらばかり、自分たちには声もかからなかったとか、洟もひかけてもらえなかったと大騒ぎ。挙句、あんなものを使うなと連合軍で拒否。五戸の入り口に巨大なアンテナを建て、小屋も準備し投資をしたのはいいが、利用者が少ないのに、競争相手が登場、それがドコモなどの携帯電話会社、東北電力なども参入し競争は激化。
 そこに中里市長が就職を依頼された会話が盗聴された。これはビーエフエムの前身の携帯電話を利用していたことによる。慌てて中里市長はその利用をやめた。そしてお定まりの凋落。
 「はちのへ今昔」が地域Fmラジオ認可をすすめているときに郵政省から地元商工会議所の協力を得ろとの指示があり、相談をしたところ、自分たちでやったわけだ。車屋の塚原氏に広域でやるべきだと「はちのへ今昔」がいうが、郵政省から五戸入り口の小屋と電波塔を他の携帯電話会社に買い取らせる相談が出来ていて、広域でやるには電波の発信場所を失っていた。
 Fm波は見通し距離のため、電波塔は高ければ高いほどいい。ところが売却したため足がかりがない。階上岳に電波塔を建てるには権利がモゴモゴと出来ない条件ばかりを並べた。挙句、八戸市役所に摺り寄って、市役所の上にアンテナを建てた。
 あせってやるから足元固めが出来ずにヨロヨロ。電波は十分に飛ばないから小中野でも聞こえない所が出た。改良改善などする気もなく、広告広告と銭のことばかり十年言い暮らしてくるがどもこもならぬ。ドコモにやられてどもこもならぬ奴らは、市役所に泣きついた。それがビーエフエムの放送局の入り口をバス待合室にする件。これは新幹線対策で感心センやり口。これが打ち切られて、こんどは哀訴で広報調整課に泣きつき、広報番組を増やすから補助をくれで、五百万をふんだくった。
そして、これを「はちのへ今昔」にブチ抜かれた。こんな補助は無意味だという論法のなかで、広域断水事件。これは人災。
 ここで広域緊急情報の発信が問われた。地域Fm放送がそれを担うはずだったが、初手からそれを拒否し、あせりにあせって携帯電話事業の赤字解消に走ったビーエフエムの咎めが出た。
 広報調整課も電界強度の確認もせず諾々とこれを容れた。そしてこれが既得権となり毎年踏襲される愚かさ。ビーエフエムはこれを好機と捉え、階上岳にある民放のアンテナの下を間借りし電波を出すことを考えるべき。貧乏人だけに自前のアンテナは立つまい。立たなきゃ立った奴の力を借りるのサ。
 そんなことにも頭が廻らず銭の苦労でアップアップじゃ溺死も間近い。その前に広域に電波を出す工夫をしろ。そして巻き直しで、広域から参加料を得るのサ。そうすれば防災を軸としたラジオの意味が見える。Fmラジオ登場し四十年。防災無線ばかりが情報提供じゃない。暮らしに直結する情報のなかの一部に緊急情報がある。楽しい話、嬉しい話題満載のラジオが生活に潤いを出す。それを忘れて銭、銭とばかり叫ぶビーエフエムの経営者は交代するか、広域を管轄する第三セクターなどに身売りするのがよかろう。本来なら「はちのへ今昔」に無償で渡すが良いが、こちとらも少々くたびれた爺になったので願い下げだ。
 今回の断水で緊急情報の有り様が問われた。おいらせ町のように防衛省をだまして一台5万円もする受令機をそなえるところもあるが、普段はダンマリを決める防災無線機に電気を通す意味があるのか。ここいらも考えるところだが、時代は変わり人々の生活様式にも変化。八戸市役所が把握する外国人居留者への情報伝達について、国際交流課のアリサ・ジャネット・トビンさんに訊いた。
 明快な日本語を駆使する彼女はドナルド・キーン氏にも似て流暢な日本語を話される。キーン氏は米海軍日本語学校で日本語を修得し情報士官として太平洋戦争では通訳として活躍するが、氏の本来の仕事は日本文学の研究、近松から芭蕉、そして現代文学までも博識を駆使し判り易い英語に直し世界へ日本文学のよさを紹介。その功労で文化勲章を昨年受章された。世界のキーン氏だ。そのキーン氏のように言葉を選びながら語るアリサ女史は明晰な八戸居留外国人への情報伝達方法を説かれた。
 言語的には中国語・朝鮮語・英語とある。英語を利用する人の携帯電話、パソコン所持率は高いが、中国語利用者は研修生として来ているため頻度は高くないかもしれない。つまり、携帯電話、パソコンによらない伝達網の構築が必要になるだろう。
 地域ラジオ局での外国語放送の時間を持つことは大事だ。女史の出身地は人口4万5千人だが、スペイン語の放送時間がある。シアトルは人口60万、ここには多くの言語放送がなされているそうだ。ほっとするメールも必要には思うが。携帯電話所持者の数が未把握、多くの言語に翻訳する機能がどの程度かなど更に確認する作業があるように思えると語られた。島国根性の日本人の「はちのへ今昔」、流暢に操られる日本語に驚嘆するも、英語圏の中には素晴らしい才能を持つ人がいるのだと再確認。それもキーン氏には敵国日本を知悉するべきの義務感があったが、平和の時代に生まれたアリサ女史の教養の深さに感心。後生畏おそる可し(こうせいおそるべし・後進の者は努力次第で将来どんな大人物になるかわからないからおそるべきである)を痛感し、このような若い衆の居る世界は頼もしいと悟った。
 ビーエフエムのスポンサーの広報調整課はビーエフエムに物言いをせよ。外国語放送の時間を設けよと。

2009年3月5日木曜日

八戸弁と片町の朝市 ましゅまろ貴史

時計の針はまだまだ五時をまわったばかりでした。お花見も過ぎたというのに、時には肌寒さも伝わる今朝、ゆうべ遅かった割に日差しが妙に心地よいのです。
ふと思い立ち、鍛冶町、片町の朝市へと足を向けました。ひとりじゃ嫌なので悪妻を無理やり誘いました。
数年ぶりで訪ねたそこには、まだ昔ながらの八戸がありました。
ちょうど陣形を整え終えたおばちゃんたちが、早々にお客さんをさばき始めています。長者のお山の方角から、カラスたちの鳴き声も聞こえてきます。
ふ~ん、おまえたちも起きてきたんだ。結構、早起きなんだね。
この界隈に約百人くらいの人たちが、朝の元気な挨拶を交わしながらひしめいています。と、狭い八戸ですよね、どっかでみたことのある人たちとすれ違いまました。親しそうに挨拶してくれたおじさんがいます。ごめんなさい、思い出せませんけど「あっ、どうも」と知ってたふりしてアタマを下げました。最近、こんなこと多くなったな。
「お客さま」というよりは「お客さん」といった方がぴったり。母親と一緒に買い物にきた娘さんまでが、たった今起きてきたばかりよって言わんばかりの素顔なのです。「私、お昼はランチよ」なんて気取っているOLのようには到底見えません。こんな気楽さが早朝の朝市にはあるんですね。
今日は休日。急ぐ必要はまったくありません。ポケットに手を突っ込んで、
ボ~ッとしながらヒトやモノを観察しておりました。
売り手がいて商品があります。ディスプレィとかプレゼンテーションにはおおよそ縁がなさそう。でもここでは夜も寝ずに自分で創ったもの、収穫したもの、そして仕入れてきたものなどを売り捌きながら、もう何十年も家を支えてきたお母さん、いいえかっちゃがいて、孫に小遣いをあげるのを楽しみにするおじいちゃんがいます。みぃんなみんな、真剣にものを商っていることには変わりないのです。
遠慮のいらない八戸弁が飛び交い、伝統の朝市は安さだけで続いていないことを、ほおかぶりした鼻の頭の汗が教えています。
「おらよ、こったらごどすて、ふごつこぎながら動げるうぢに片町さねまってるんだじゃ」と、無精ひげで前歯のかけた籠売りのじいさんがいました。顔はそうとは見えないのに、実演の籠編みの手はとても手早く器用です。
「いずだり来ても、はぁねぇんだ。今しがたまでズバッとあったんども、いづのまにが、ゲソッとなぐなってしまったじゃ」と意気まく花売りの少女ならぬかっちゃん。
「あんだぁ、足病めるってへってらんども、どごだりさ行がねで○○さん(お医者さん)で診てもらうんだ。あそごはいいってみんなでしゃべってるすけ」とお互いの健康を気遣うおばっちゃ同士。
そうです、片町には素朴な笑顔と活気の良い掛け声がありました。
市場はいつの時代もコミュニケーションの場でもあるんですね。
甘党の僕には好物の本物のよもぎ餅も売ってましたね。次々とバットが空になってゆくほどの繁盛です。分かりますか、二尺(約66センチ)ほどのスペースのお餅に、4~5人のお客さんが群がっている様を。もちろん、対面での販売です。
「おかあちゃん、そのよもぎ餅、おらの権利にしてけんだ」と思わず最後の二個に向ってくちからこぼれ出ました。
「ほれ、兄さん(うれしいなぁ!)こればサービスするすけ」と揚げたてのコロッケ。歩きながらほおばる行儀の悪さもここではつい許してもらえそうな片町です。
どっちが入り口でどっちが出口か知らないけれど、鍛冶町側からの入り口にやたらに笑い声の大きいお兄さんが焼くせんべい屋があります。この朝も厚めで生焼け風のおせんべい:てんぽを前掛けで手を拭きふき一生懸命焼いていました。このヒト実は知り合いです。彼って典型的な八戸弁の標準語を使います。
 ここまで徹底している彼は偉い。逆にがらにもなく気取ったふりをしたがる僕には、とてもここまでは真似できません。気持ちだけはつい昨日、東京から帰ってきたんだよと言いたいんだけど、化けの皮はいつも簡単にはげてしまいます。
真っ黒い生イカを売ってた日焼け気味のおばちゃんでした。
「どうもありがっと。それだば刺身にいいよ。またおよりあんせ」
ふ~ん、またおよりあんせだって? 母が元気だった頃、時々使ってたな。なんとなく懐かしさが込み上げてきました。
そしてあれって思ったのです。これって八戸弁でも敬語だよなって・・・。
最近では港八戸をピーアールするポスターなんかに使われていることば「おんでやんせ」これも同じように敬語ですよね。
およりあんせもおんでやんせも丁寧語。日本各地に方言は多いけど、今まで方言の中に敬語が使い分けられていたと感じたことはありませんでした。
もしかしたらどこでも同じような使われ方をしているかも知れないけど、なんとなく八戸で生まれ育った者には、ほんのチョッピリでも誇らしさが込こみあてきたのです。これっておかしいですか?

2009年3月4日水曜日

断水で判った八戸だけが遅れた防災連絡体制


おいらせ町は防衛省の金をふんだんに使い全戸に受信機を整備。これが一番徹底している。市民、町民の財産生命を守るのが行政の仕事。
 これに腐心をしたのがおいらせ町。同様に南部、階上、三戸が整備。五戸、六戸は備えがおろそか。八戸に至ってはまるでやる気がない。八戸の防災は津波だけだと思っている。海岸部にわずか39を設置。その三台が壊れたまま。
 時代は変化し徘徊老人が増加。これらの発見にはタクシー無線が有効。一月も八戸から三戸まで徘徊した老人あり。たまたま暖かな夜のため凍死は免れたが、重大な事故になりそうだった。これらの人々の保護、救済にも重要な役を担うのが防災無線。しかし、これも設置したら良しではない。活用方法が問題。夜中に発生する事件、事故に行政マンが眠い目をこすりながら出るのか? これらは民間放送局、つまり、地域FM放送に任せるべき。アナウンスが不慣れな人よりプロに喋らすべき。 地域は地域で守る。これが協働の町づくりの根本。小林市長も言うだけでなく、具体的な策を見せるべき。ゆうばっかりじゃウドン屋の釜だ。何? 中身は湯うばかりだヨ