はちのへ今昔

2008年4月1日火曜日

看板条例を厳格に実施し違法無法看板に罰金を課せ

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八戸市内に多くの看板が立っている。これらは野放図に立てられる訳ではない。規制がかかっているのだ。それは県条例。立てる場所が全く制限される場所もある。八戸では蕪島から種差まで、それでも自分の店の看板は面積制限があるが立てられる。 この条例はかなり面倒で、自分の経営する店でも、面積に...

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 終

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総持寺は創立当初より開祖瑩山禅師の学徳によって、時の政府の多大な援助を受け、又その門弟に五哲乃至二十五哲等の大人物が輩出した為に曹洞宗宗団の成立と、その多大な発展をとげしめている。この事実は何人も認めざるを得ない。  又永平寺は道元禅師の御意志により、山奥に不染汚の行を旨とした関...

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 6

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前号で昭和四十年代の武輪水産の置かれた位置を見たが、助子の赤字を出したあたりは、八戸の水産界は好景気の渦中にあった。 ところが、武輪水産は助子の着色の亜硝酸は体に悪いと使用を中止。問屋がこれに難色を示し、在庫の山となる。資金繰りが悪化し、金策に奔走中に労働組合が出来る騒ぎ。 踏ん...

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 7

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八小の杉と語る          福 井   清          (昭和十一年三月卒業生) ロータリーに、幾百年の風雪に耐えて毅然と立っている古木(高野槙と言う杉の一種)がある。私はこの杉を八小の杉と名づけたい。と言うのは、明治大帝もお泊りになったと言う往時、最もモダンなあのス...

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」6

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平成熟年も秋山皐二郎さんを始めとして、色んな人が死んだ。死なない人間一人もない。一年をふりかえると、あんなことこんなことと様々あるもんだ。そんな中、半年をこのギャラリー道で「私のありがとう」を開催させていただき誠に面白い経験をさせていただいた。  大体、テレビを見て一日を暮らし、...

手記 我が人生に悔いなし 七

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中村節子 ○ 吟詠寿司店 昭和四十八年、八日町の明治薬館は閉店となった。その理由については私は知らない。跡地には長崎屋のビルが建った。  最上先生達は十八日町に仮住まいとなった。教場は八戸駅(現本八戸駅)通りの千秋寿司店と決まった。千秋寿司店は、翠風会会員の大橋さんと小形さ...

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 4

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学生時代 悩み抜き一年間浪人  八中を卒業したのは昭和四年三月。叔父・秀之肋は、私が家へ帰ってくるものだと思って、羽織、はかまをそろえて待っていました。私は、なんとしても上の学校へ行きたいと考えていましたから、母と母の長兄の関川五郎蔵さんに口添えしてもらって秀之肋叔父に頼みました...
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