はちのへ今昔

2008年2月1日金曜日

昭和四十四年夏、青森県を沸かせた太田幸治の軌跡

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前号で我が人生に悔いなしの作者、中村節子さんが、母校三沢高の甲子園出場を書かれた。おのおの立場で三沢高を必死に応援した、あの昭和四十四年の夏はどんなものだったのか、それを可能な限りデーリー東北新聞で追ってみよう。 三沢高校甲子園準優勝の軌跡 昭和四十四年八月八日付け 全国高校野球...

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」5

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秋も深まり、毎月第四金曜日の七時から開かれる「私のありがとう」も、辺りがすっかりと暗くなり、足元に注意が必要となった。 この場を貸してくださる売市の精神障害者支援施設、ギャラリーみちのオウナーの北村さんご夫婦に感謝しながら、にぎやかに始まった。 今回参加者は富田さん、大久保さん、...

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 12

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西有寺時代第一期  穆山師は、京浜間を巡教中に、横浜市の財界の大物太田治兵衛さんに、「新らしい寺を建てたら行ってやる」という口約束をしていたのであります。ところが、太田氏は鎌倉にあった光明寺の本堂を買い求めて、中区大平町に地をトして一寺を建立し穆山師を開山として拝請したのでありま...

東奥日報に見る明治三十六年の八戸及び八戸人

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八戸町三社大祭 例年七月二十日より三日間なりしも本年は陸産物も先ず以って豊作昨今名産の鰮もぼつぼつありてやや景気回復の模様も見えたるより氏子中にても相応の賑わさんとの意気込みもありたれど何様昨年凶歉(きょうけん・農作物の出来が非常に悪いこと。はなはだしい不作。凶荒)以来の余弊(よ...
2008年1月1日火曜日

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 4

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このようにして北転船が二百海里問題でカムチャッカを閉め出される迄、昭和四十三年度から逐次すり身生産が増大。 昭和四十九年三万五千㌧ 昭和五十二年三万四千㌧ 五十三年一万㌧ 五十四年六千五百㌧ 五十五年四千㌧ 五十六年四千㌧ 五十七年二千㌧ 期間は十二月から翌年四月頃迄を最盛期に、...

赤字解消のあとにくるもの 市政展望・デーリー東北新聞記者 佐藤信三

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一億四千余万円の赤字に悩み、この解消のため八戸市はさる昭和三十一年度、地財再建法いわゆる地方財政再建促進特別措置法の適用を受けた。予算編成などに自治庁の了解を必要とすることなどから、ヒモ付き財政などといわれ、市議会でも革新派などの反対を押し切っての強硬手段だったが、結果的には、地...

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 2

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八中時代 水産とは別の道へ  私が八戸中学校に入学したのは大正十三年。実は、その前の年に八中を受験したんですが、落第してしまったのです。湊小からは私も含めて五人が受験したんですが、全員ダメでした。先生には「出来の悪い子供たちだ」と、こっぴどくしかられました。  当時は湊小から進学...
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