2009年3月31日火曜日

昭和四十年に八戸で活躍した人々

○ 水産修練所 八戸市鮫町
所長 竹花 毅
庶務課長 殿山栄輔
職員 田中隆男
   牧原清子
教習係長 直江春三
職員 田村勲 名久井久 島脇芳雄
開北丸船長 宮崎勇
機関長 木場一夫
通信長 中浜義則
一等機関士 豊島篁
一等航海士 佐々木勝男
二等航海士 亀田範男
甲板長 坂本忠三
機関員 中村良三 近藤昭 鈴木勝男
宝陽丸船長 浜崎庄太郎
機関長 横浜昌夫
一等機関士 工藤市次郎
一等航海士 下田久美
通信士 木村儀一
甲板員 野田健二 鳥島末松
○ 水産物加工研究所 鮫町
所長 荒木功
次長 掛端甲一
職員 木村惣三 金浜タマ 飯田優 山内壽一 島田俊雄
○ 金属材料試験所 沼館
所長 黒石一郎
庶務課長 中平武
職員 飛島五郎 蛯名明子
指導課長 上野格佑
職員 東 弘文
物理試験課長 高坂栄一
職員 新山公義 田口孝 荒井潔 一山義夫 奥寺得雄 
化学試験課職員 天内弘 前田哲

○ 八戸警察署 番町
署長警視正 長利勇蔵
次長警視 片寄康
刑事官警視 浜谷浅三
刑事官巡査部長阿部信一
巡査 成田養父夫 清水目長吉
職員 向谷地栄作 竹内与三郎 須藤小一郎 田村千鶴子 大館喜美 百目木みや
会計係長 近藤徳三
同主任 橋本洋三
職員 柏村洋四郎 工藤ふみ 上野せつ 
刑事課長警部 白川信一
強行犯送致看守係長警部補三崎博司
強行犯係主任巡査部長 三上実 今日出男 
巡査 北浦久男 旗屋昭平 福地一郎 中村覚 小山内功 平井葵
看守係主任巡査部長 吉谷誠一 山本幸造 乙供佐市 大岡午吉
巡査 佐藤義光 一戸貞男 梅村真 亀田道隆 溝江正 秋元繁 中村岩蔵 山谷信城 
知能犯係長警部補 勝野忠明
同主任巡査部長 小野善五郎 工藤文司 阿保幸雄
巡査 藤本隆夫 山口昭義 堀野光男
暴力犯係長警部補 三上清
同主任巡査部長 松原重次郎 木村博信
巡査 川端力 沢口正 千葉隆
鑑識係長警部補 山田善吉
同主任巡査部長 木村一四五
巡査松本真一 大田明照 
保安課長警部 樺沢誠一
同主任巡査部長 工藤敏政 日野口孝三郎
巡査川村春治 成田勝雄
防犯少年係主任巡査部長 葛西岩人
巡査鳴海長衛 米田林次郎 船橋直次 会津圭司
婦人補導員森山玲子 盛トク 松田登美 
公安課長警部 横岡欣一
警備係長警部補 大沢敬信
同主任巡査部長 中島宏 吉田弘志 小笠原健三郎
巡査大谷助 成田北士 工藤敬信 澤田秀雄 平沢清美 
外事係長警部補 丹羽信一
同主任巡査部長 狩野隆男 奥山日出男
巡査浅利信正 三浦英七 西村武志 山本博光
交通課長警部 水木四男
指導取締係長警部補 山田三治
主任巡査部長鈴木豊美 久保田保久 浜田文吉 境敏雄
巡査松田惣一郎 小沢洋右 福沢幹雄 長内洋三 丹代久男 米沢茂記 小倉信行 米谷伏 杉田充三 川村利広 高坂喜則 桜庭軍三 斎藤靖英 
事故係長警部補小寺利克
同主任巡査部長対馬富江 浦辺正吉
巡査工藤利作 永山栄一 竹井正明 榊春雄 野呂雄之助 
職員小西百代子 
外勤課長警部 佐藤誠
外勤警備実施係長警部補菊地勇
外勤係主任巡査部長工藤了一 葛西勇五郎 
巡査三上義喜 川守田新吾 奥崎久志 力石富夫 長谷川清則 蛯名正彦 成田正孝 片山勝二 川越睦雄
警備実施係主任巡査部長石岡金光
鮫派出所警部 大森永蔵
巡査部長 木村勝雄
巡査鶴ヶ谷二三 田中多平 横内修治 佐々木良司 長崎嶽
市川同警部補 荒谷末治
巡査山下克三郎 木村○輔 白坂征弘 大宮義広
小中野同 警部補三上与助
巡査喜多嶋健蔵 小山内嘉雄 富岡昭雄 吉川知芳 大柳徹 川村卓司 野呂勝義 宮下実位 鈴木晟而
寺横町同 巡査部長横内美芳
巡査小山内実 葛西省三 鳴海昭義 大沢博
湊同 巡査部長 白川竹馬
巡査新谷晴冶 吉田章弘 北村健 佐藤兼雄
吹上同 巡査部長 西田久萬一 
巡査端村修二 小野長治
尻内同 巡査部長 桜庭慶二
巡査山谷隆吉 千葉正 
塩町巡査高松光一 杉山国夫
売市同李沢修 荒谷力
白銀同須藤与一 地主篤生
沼館同市川重太郎
下長駐在所巡査須田山政義
館同 田沢助作
苫米地同 増田勇
福田同 大黒久三
大館同 工藤力蔵
道仏同 高田幸次郎 
田代同 栗山清人
階上同 桜庭正雄
島守同 下沢繁雄
豊崎同 中山征雄
種差同 工藤昇一
八太郎 福崎勇三
是川 工藤忠吉
中沢 笹 芳雄
浜市川 山口豊作
○ 小中野小学校
校長小井田幸哉
教諭 
松倉定雄 松本秀雄 田中みえ
佐藤きみ 藤田寿美 山崎雅枝 
石垣みつ 沼畑くに 石橋忠男 
山岸トシ 澤田イネ 工藤次雄
橋本照三 川口多恵子 清水操 
坂本リヌ 原蓉子 三船テル 
須藤千穂子 小笠原信子 近藤マス
松原真一 蘭地静子 泉山ワカ 
石橋うめ子 田村コト 名久井隆 
加藤昭夫 村本ツマ 横浜正徳
鈴木スミ 横浜武子 高宮伸
桜庭忠 伊藤智子 今かず
石橋堅一郎 鈴木常夫 佐藤律子
野坂弘子 杉浦孝 赤井不二夫 
阿部国志 田代共子 加藤とみ子
須藤範子 鈴木カツ子 
養護教諭 新谷宏子
助教諭 佐々木光子
講師 清水陽子
事務職員 川守田吉五郎
○ 湊小学校 
校長 岡村哲郎
教諭 関口澄見 西村キク 石橋ユキ
清水カン 石郷岡英喜 音喜多うめ
杉本いえ 左館瑞枝 対馬みとる
青井とし 小野やえ 松内ちえ
中村イト 橋本信子 大野愛子
坂本稔三 野添景事 奥瀬義信
木村勝城 小山内幸作 西塚善弥
沼館なん子 川口繁子 川畑いき
橘とし 相内かや 田口陽子
田村邦夫 村上きみ 下斗米光
大久保綾子 穂積良昌 金谷瑞枝
加藤桂子 亀岡良治 中島京子
道合政邦 蔦谷健二 成田誠二
大橋敏子 足沢郁子 
養護教諭 西塚彗子 
助教諭小林正子 佐藤正子
講師鈴木美恵子
事務職員 和田清吾

2009年3月30日月曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底 最終

曹洞宗の朝の勤行で唱える経がある。それを参同契(さんどうかい)といい、仏祖の教えを僅かな文言に集約したもの。参同契はは全ての現象は真理にかなっていると教える。
 その経文に尊卑用其語がある。これは尊い人卑しい人はその言葉を用いると読む。戦前天皇陛下に拝謁する士官学校生徒は頭を下げて隊列を組む。そこへ足音が近づき、ぴたりと足がとまり、一同を見回し、また足音高く歩き去る。その間生徒は身じろぎもしない。お言葉も賜れない。が、陛下に接したことだけで喜びだった。高貴な方は声も出さない。貴族も庶民のような言葉で挨拶はしない。庶民ばかりが下司な言葉を使う。侍はこうした下々をわらったものだ。駕籠かきは互いを相州とか雲州と呼び合う。オイオイ相州、なんだよ雲州のように、ところが、これは殿様を指す言葉だ。雲州は出雲の国、相州は相模の国だ。奴ら駕篭かき風情でも頭のいいのがいて、プライドがあったのヨ。自分が卑賤な仕事をしていても気位だけは高い。が、幾ら気位だけ高くても、「手前、昼はどこで食らうのかよ」「へん、そんなことが判るくれえなら、人を乗せてウロウロ街道を歩くかよ、俺たちほど、この宿場と宿場の間を知ってる奴ァいねえが、俺たちは手前の気持ちであっちへ行くこっちへもどるができねェ稼業だ。客の言うまま気ままであっちヘウロウロ、こっちへキョロキョロだ。まるで雲を見たようだから、俺たちを雲助と言いやがるゼ、妙を得ていやがる」
 下司下郎はこうした言葉使いだ。人相風体はいかにも卑しくないが、口を開けば無教養が丸出しになる手合いヨ。それだから注意せよ、尊卑はその語を用いるものだゾと誡めるのサ。それで坊主共はこれを毎日、タダ読みやがるから、その経の真髄に触れることがない。
 武士は武士、下司下郎とは違う。そのために禄を貰うのサ。禄を放り投げ、雲州と呼び合い、手前の食い扶持を手前で探す野良犬稼業とどこが違うのか、それは言葉と恥だ。恥を知るから潔い。花は桜木、人は武士、散るを惜しんで生き恥曝(さら)すなダ。
 だから武士は覚悟を決めて口を開くのヨ。わざわざ野良犬の仲間に堕ちてくるタワケがいるか。それとも権柄尽く(けんぺいずく・権力にまかせて横暴を行う)で言ったのか? それは尚悪い。悪いは確かに悪いが詰め腹を切らせることでもないからせせら笑って事は収める。収めるは予定の所へ入る語だ。勉強せよ。
 ついでに教えるがゆする、ゆすりをかけるの語はこの駕篭かきから来た。客に酒手を要求すると、客が寝たふりをする、すると寝てられないように駕籠をゆする、これから来た語だ。
 さて、議員は人を知るのを商売とする。役人は定年まで安泰を貪ろうと手前勝手を行うを生業とする。一旦緩急があれば役人ばらはうろたえて、成すすべを知らない。本来なら、下司下郎がうろたえて、ただ訳もわからず右往左往するを、大声で「静まれ、静まれ」と制し、敵の来た方角を言え、敵を見た者はおらぬかと糾し、騒ぎの本質を探るのが武士の武士たる本質。
 これを黒澤明が「七人の侍」で志村喬にさせた。志村の家系は土佐藩で鳥羽伏見の戦いに隊長として参加、明治三十八年の生まれ、いい役を配されたものだ。日本の名優の一人。
 現代の侍は役人じゃない。一旦緩急あれば馳せ参じるのは議員だ。うろたえるな、相手は一人だ。納得させればいい。と、五戸副議長はご自分の米びつを開き、その米である人を知るを使った。それが、今回の個人名を記さない結果となる。約定は守るが常だ。この魔法の杖を持つ、あるいはアラジンの魔法のランプを持つからこそ、議員の議員たる力を発揮することになる。ここが役人と議員の違いがある。役人は市民を知っている。税を取り立てる道具として。議員は市民を知っている。自分を立ててくれる有難い米びつの米として。
 だから接遇の仕方が違う。役人は横柄で馬鹿野郎と市民を罵る。下司下郎と同じなら役所から出ろ。市民は税をむしりとる対象、いわば客だ。客に横柄を食らわして、バキュウームカーの弁を逆に開かれた話を聞かせたゾ。男の意地はこうしたもんだ。
 五戸副議長の話を入れ、手打ちだ。
大館議長、山内議会事務局長、当該職員、それに五戸副議長が同席し、八戸市議会第280号書類を差し替えて終りとする。昨日のブログにも書いたように、この当該職員の名を知りたい者は総務課へ出向き、情報開示を求めれば知れる。その費用は? 無料だヨ。

2009年3月29日日曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底7

彼等の腹がこれなら逢う必要はないでしょう。と、五戸副議長に伝えた。
 そこを何とか頼みます。議会事務局は何を考えているのか判らないが、貴方も了解していただいたんだし、どういう理由でそうした文書を出したかを問い詰めることも大事ではありませんか。
 五戸副議長は紳士、理を説かれた。それも確かにそうだ。議会事務局の職員を苛めてもしかたがない。しかし、議長たるものが、議会事務局の書いた筋書きに載るは不都合。大体、議会事務局は僭越(せんえつ・自分の身分・地位をこえて出過ぎたことをすること。そういう態度。でしゃばり)なのだ。自分が有する権限以外のことを、いかにもそれを議会事務局が持っているかのような錯覚で、平然とそれを行う。
 坂本みちのぶ市議が経済委員長の時、委員会召集命令書を委員長の承認なく各委員に送付した。かかるように、議会事務局は議員などは無視しているのだ。議会事務局こそ議会を運営する、我々なくして何も出来ないのが実情だと、間違った解釈をしている。
 だから非を鳴らされた職員をかばう、それがあたかも議長の意向であるかのような作文をし、議長公印を押す。これは厳密に言えば有印公文書有形偽造で刑法155条に違反し、行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、一年以上十年以下の懲役に処せられる(刑法155条1項)。
 立派に刑務所にいかなければならない事案だ。しかし、今までやってきたのに、何で今更俺が、私が問われなければならないのか、こうした嘆きもあろうが、してはいけないことはならないのだ。
 会津藩はこれをならぬものはならぬと教えた。このためには切腹した少年もいた。今の役人は汚い。政治は役人が執行していると思い込んでいる。たしかに行政はそうではあるが、立法はちがう。小なりと言えども地方議会、これを軽視、無視は言語道断。
 新任の議長に、議会事務局は講習をしない。あなた様に付与された権能はこれとこれでございます。これは当然のことだが、大館議長はそれを知らず、講習も受けていなかったそうだ。
 市議会の議長に就任すると大部屋から議長室を与えられる。おれも、とうとうここまで来たかを実感させる。公用車が一台付与、ああ、とうとう自分でハンドルを握らずとも良くなった、おれも大したもんだと自惚れさせる仕掛け。さらに議長交際費が使える。ああ、別の財布ができたできた。
 こうした表面上のことで議長は舞い上がる。表面上は忠誠を装う議会事務局職員を罷免できるなどということは一言も教えない。議長なんてのは年功でなるだけの体たらく、自ら勉強などせずに、あっちでペラペラ、こっちでペチャクチャで、盛りのついた娘っ子のようにキャアキャア、とまるでミーハー。議長職にいる間、腹いっぱいタダ酒を飲もう、腹一杯食おうと権能の違う部分での乱用だ。
 もっと足元を見ろ。そして、議会が開催されない通常の事務局職員の執務態度に目を光らせるのが仕事だ。それをせずに、ゴマ摺り職員の怠慢を見過ごしてはならない。公印の管理を職員任せにするな。その状態が不正を行わせる。これは偽造文書作成、同行使の幇助になり、議長も懲役へ行く心配をしなければならない。
 さて、「はちのへ今昔」も月刊誌発行を止めた。ブログだけで情報を発信する。それにしても八戸市民も情けない。かくほど重要な情報を、銭を出して買おうの気概に欠ける。だから、真実が見えない。そのようにしたのは市民自身なのだ。地方紙には使命がある。新聞では書けない、書かない地域特有の話、これを正確に伝える。が、購読者を増やすために提灯記事を書かなければならぬ。「はちのへ今昔」のように雑誌は面白いと思った者だけが買えばいいと広告も取らない、購読の願いもしない。だから消えるのさ。
 しかし、4年間の勉強で市役所の汚い面を見てきた。今回のバカヤロウ事件だ。吉田茂の家が数日前に燃えたが、この男も燃える奴で、バカヤローと叫んで国会を解散させた。昭和28年、西村栄一議員の質問に興奮した吉田総理が「ばかやろう」と叫んで、それがきっかけで解散。八戸のバカヤローは大した事件ではないが、それでもちょっとした騒ぎになった。
 それは議会事務局の専権行為違反が判明したことだ。議長に付与された権限を議会事務局が持っていると解釈し議長の承認を得ずしたことを言う。その証拠は、3月27日の山内議会事務局長と大館議長との面談で判明した。
 五戸副議長のすすめに従い彼等と面談した。4時15分のことだ。なにとぞ理解しろと大館議長が押してくる。
もともとあんたとは逢いたくなんかなかった。あんたは大館組が、市民の税金280万を注ぎ込んだ河川を不法に埋めた浚渫費用を払えずにいたのを知っている。あんたは前はその会社の役員をしていたそうではないか、その土建屋に雪かきの仕事を回して、少しでも滞った税金を回収せよと、「はちのへ今昔」は港湾河川課を督励し、たしかに何がしかを回収してもらった。この仕事を決めるのに半年以上の時間を費やした。誉めてもらおうとしたんじゃない。気の毒な人間を助けるのが仕事だと思いしたのだ。だからと言って一円の金、弁当の一個も欲しいと言ったことがない。あんたがこれをすれば斡旋収賄で西松建設事件と同様な厄介な問題を抱え込む。
 これをしたと大館議長に直接言うのもやだと、議会事務局員に告げろと言った。局員は伝えたそうだ。が、大館議長は有難うのあの字もなかった。本人に直接会ったので問うたが返事もしない。
 刑事訴訟法の規定に自己に不利な発言はしなくていいとある。大館議長もこれを準用したのだろう。それは本件とは関係がない。大館議長は当該職員も反省しているので勘弁しろの一点張り。それなら、これ以上は話す必要がない。このままで決着をつければ、馬鹿野郎と言った者勝ちにしかならない。
 すると横から山内議会事務局長、「それなら、職員の名前を入れた文書を出せばいいですか」
 問うに落ちず語るに落ちるはこれ(話しているうちに、うっかり本当のことを言ってしまう。問うに落ちず語るに落ちると使う)。
 「山内議会事務局長、越権行為だ。それを決めるのは議長だ」いかに職員が議長を飾りとしか見ていないことか、情けないことだ。
 こうした奴ばらが八戸市役所を牛耳っている。これで当然と思われても困る。教育委員会、選挙管理委員会、監査委員会など皆そうだ。他人の銭も自分の銭も見分けがつかず、県の選挙費を不正流用した事件もあったゾ。それを摘発したのが「はちのへ今昔」だった。
 職員にいい加減な決着をすれば反省も猛省もない。職員の個人名は上げない。が、この決着文書は議会事務局第280文書を情報公開すれば出る。そこには当然、職員名は記述されている。保存期間は3年だ。馬鹿野郎と言わずともいい言葉の咎めがこれだ。 部局内でとどめずに事態を公にするには、市長への手紙という手もある。包囲網を狭めるには幾つもの手段があるが、ここで記すと直ぐ忘れる。どうしても知りたい人は連絡せよ。個人的に教える。役人は汚い。だから市民も勉強が必要だ。

2009年3月28日土曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底6

昨、27日は面白かった。水道企業団が議会第二会議室を使用。その借り賃を支払ったかを確認するべく、水道企業団の総務課長に電話。すると、議会事務局から使用料減免の手続きをしろとそそのかされたという。
 変なことを言うなと思い議会事務局に電話、担当職員に問うと、左様な事は申しておらぬ、との由、使用料減免は庁舎管理の担当だから、そちらで聞くのがよろしかろうで、庁舎管理に電話した。
 この庁舎管理の奴らは仕事をしたがらない面々で、「はちのへ今昔」にここが悪い、あそこを修繕せよと始終どやされている。フラフラ庁舎内を給料も貰わずに歩く「はちのへ今昔」と、給料、賞与を腐るほど貰い、勤勉じゃない勤勉手当をも貰う庁舎管理職員が指摘されるまでそれに気付かないは片腹痛い(かたはらいたい・ちゃんちゃらおかしい)ぞ。
 こ奴らが役所内の自販機を勝手に八戸市職員生協に貸した。その自販機を生協は丸投げし、永沢商事と東北キャンなんとかという負け犬のような名前の所に出した。昨年の初夏だったか、八戸市役所本館の自販機の缶ジュースの半分が売り切れになった。課長を脅かして現場を確認させた。生協に売り切れだよと告げても動かなかったからだ。こんないい加減な生協に自販機置き場を貸すなとどやした。そして、四月からは入札制度になり、どこかの自販機管理屋が直接行うことになった。生協はピン跳ねをしていた。こいつらの体質が気に入らないので新年度は徹底年間として生協を互助会館から追い出す、互助会館を廃止し、市役所に戻させる運動を張り切って行うゾ。宣言しておく。
 さて、この庁舎管理は電気代はもらうことにして、会議室の使用料は減免したという。その根拠は規則にある。公共団体は無料を採用したとの言い分。それじゃあ訊くが、水道企業団の長は誰だ?
●小林真です。
八戸市長は誰だ?
●小林真です。
すると小林真が小林真に便宜を与えたのか?
●それは団体が違う。
団体が違う? 小林真が八戸市長で職員互助会長も小林真で、ここに八戸市は毎年一千万円の補助を呉れている。これを指摘したところ、互助会長をへなちょこ男の高齢者西副市長に押し付けた。まずいを認識したからだ。庁舎管理はまた、小林真にヘタを打たせる気なのか?
●私はそれを知りません。
不知だから法律違反そしてもいいということにはならない。知らずに便所以外のところで小便を垂れれば軽犯罪法違反で処罰となる。勉強しろ。まして職責に関係することだ。
●無言。
役人は都合が悪くなると途端に腹の中で唄を歌い出す。は~やく終れ、は~やく終れ、は~やく来い来いお正月で「はちのへ今昔」の耳の痛い言葉の終るのをひたすら待ち続ける。こたつにもぐって居眠りこいてる婆ァのようなのが苦言を聞く職員の姿ヨ。
 水道企業団は議員全員協議会ではない場、断水事件説明会を開催。これは市民も参加でき、断水補償をしないと言明した小林真を吊るし上げる好機だったが、この説明会の開催を公示せず、ひそかに行おうとした。結果、それが図にあたり、「はちのへ今昔」以外はだれも参加しなかった。
 その場はオールカマーで誰でもおいで、誰でも好きなだけ発言ができる。まして制限時間などない。市民が団体で鉢巻して、小林辞めろ、大久保断水補償をしろと、狭い第二会議室に入れないくらいつめかけ、二日も三日も納得するまで理事者側(これは水道企業団を指す)を追求する好機だったが、形式的に説明会も開き、市民によびかけたが、平穏無事に終了したと、絵にかいたのヨ。
 汚い手口だ。役人はこうしたことを平気でする。合法的非合法はこれを指す。市民の皆様からご意見がなかったからというのだ。参加もさせずこっそり、ひっそりとやり、議員には参加の義務があるように装う「議員全員説明会」なる看板だ。「議員全体協議会」を錯覚させる手口なのだ。汚い、まるで素足で田舎の公衆便所に入りこんだようなもの、あるいは肥え桶をひっくり返した、さらに現代的に言えば、汲み取り便所のバキュームカーの弁を逆に開いて汚物を市役所のロビーにぶちまけたような汚さだ。それを合法的にやるから汚さの極みだ。
 かつて、東京の吉原、トルコ風呂のメッカだ。ここで女のあしらいの悪さに腹を立てた奴がバキュームカーの弁を逆に開いて汚物を撒き散らし鬱憤を晴らした。やられた店はどんなに清掃をしても臭気がとれず閉店したとヨ。やった奴は刑務所に行きチョン。幕切れだ。手前の一生をフイにしても男は馬鹿にされた意趣返しをする。小者は小者なりに、大者は大者流に。
 この汚い水道企業団は新年度も追求する。さて、本論に入る、この水道企業団を八戸市役所議会事務局に呼びつけて事態の解明にかかったのを五戸副議長にみつけられ、話が終了したら寄ってくれとの伝言だ。
 水道企業団の勘違いだったと詫びがあり一応の決着が庁舎管理の間にあり五戸副議長と面談、五戸さんの話もあったが、「はちのへ今昔」は大館氏とは面談したくない。あの男は議会開催中に自分の車をスプリンクラー用給水口の前に置いた。そこは誰しも法に違反するから止めない場所、それを消防副団長の立場にありながら違反をする。故意だ。確信犯だ。これは消防法に照らせば懲役にあたる行為だ。それを「はちのへ今昔」が指摘した時、何か文句があるかと脅した男だ。個人的には尊敬も敬服もできない。五戸さんの頼みだから会うとは言ったが、「はちのへ今昔」に奴らはメールを送付してきました。あなたの折角の行為を踏みにじりました。そんな議会事務局のズルい行為は「はちのへ今昔」の顔を雑巾で撫でると等しい。一度ならず二度三度とやるのは、五戸副議長をも軽んじていますヨ。「はちのへ今昔」は嫌ですネ、大館議長と会うのは御免こうむりたい。
さて、議会事務局は何を送ってきたのか。
それにはこう記されている。八 議 第 2 8 0 号平成21年3月26日  小 川  真 様八戸市議会 議長 大 館 恒 夫  平成21年3月8日付けの電子メールによるご要望について(回答) 回答が遅くなりご迷惑をおかけいたしましたことを、お詫び申し上げます。 平成21年3月8日付けの電子メールによるご要望については、平成21年3月6日付けでお送りした文書(八議第280号)で誠意をもって回答させていただいたものと認識しており、ご要望のありました「再度の回答」につきましては、ご希望に沿うような対応はできかねますので、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。  問い合わせ先 八戸市議会事務局 庶務課
五戸副議長の折角のお話でも彼等の腹がこれなら逢う必要はないでしょう。

2009年3月27日金曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底5


昨、26日に水道企業団の断水事故説明会があった。十時開催、これを傍聴に出た。傍聴券を貰う必要があるかと議会事務局に記名に出た。が、不要とのこと。この第二会議室を水道企業団が庁舎管理に申し出て無料で借りた。しかし、議会事務局の人間が貼り付いてマイクの音量を調整する。人件費まで水道企業団は踏み倒した。議会事務局職員の給料は八戸市民が負担している。それを踏み倒すは不届きだ。
 さて、昨日のブログ掲載の続きを見せる。
八戸市議会議長殿
八議第273号・平成21年2月25日付けの要望への対応文書を受理。
その際、内容の確認につき山内八戸市議会事務局長ならびに、八戸市議会事務局議事課職員●●氏と面談中、●●氏が「はちのへ今昔」小川真に「役人は人形じゃない、感情があるんだ、馬鹿野郎」と発言した。
かかる行為は市役所職員としてあるべき態度ではない。
議長には議会事務局職員の人事権を有することから、議長からの誠意ある対応を書面にて「はちのへ今昔」小川真に対して送付されることを要求する。
平成21年2月26日
    八戸市類家4の15の7
      「はちのへ今昔」 小川真
これを送付したのが2月26日、その回答がこれだ。
 八議第280号
「はちのへ今昔」小川真様
八戸市議会議長大館恒夫
平素は、市議会の活動にご高配を賜り感謝申し上げます。
 さて、本件につきましては、先般報告を受け、直ちに私から当該職員に対し厳重に注意をし、幹部職員に対しても、再発防止のため、職員への指導を徹底させるよう指示したところでございます。
 貴方様に不快な思いをさせたことにつきましては、心よりお詫び申し上げますとともに、当該職員も深く反省をしておりますし、今後、このようなことが起きないよう職員を教育して参りますので、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
 この文書は議会事務局の人間が議長に断りもなく自由裁量で出した雰囲気がある。役人は議員を馬鹿にしているのだ。どの道、選挙で頭を下げ、書いた書いたと言われた言葉を真に受けて、ありがとうございますと握手をする以外に能のない奴ばら、次の選挙でも当選して議場に出てこれるとは限らない奴めらだと蔑んでいる。我々職員は馬鹿野郎と市民を罵る、あるいは職員同士で不倫、破廉恥、痴漢でも働かなければ馘首(かくしゅ・免職)にはならないと横着な考えの持ち主ばかりだ。市民を面と向かって馬鹿野郎と罵った行為は当然糾弾されるべき。
 実名を挙げるが正当な方法だが、五戸副議長との約定は約定だから秘す。しかし、職員は議長になって公用車をあてがわれただけで、喜びの頂点に立ち、自分の職責、権能(けんのう・ある事柄について権利を主張し行使できる能力)についての理解力が不足している議長に、議長が何を処理できるか、いかなる権限を有するかを議会事務局は説明しない。
 これをしないから、ヒラ議員から議長職を付与されただけで舞い上がってしまう。議会事務局が議長を選出したのか? 議員総意で選抜されたのと違うのか? 議長たるものは平素から議会事務局に顔を出し、彼等が何をするかを洞察するべきだ。職権を持って彼等の異動を命ずることが可能なのだ。
 それもせず、市長の次に偉くなったと、肩書きだけで満足するのヨ。何もせず、改革、革新など爪の垢ほども持たず、平穏無事、是好日じゃ情けなかろう。
 大館議長に見せずに第280号を出したとも思えぬが、役人の下司根性に乗ったなと思えるのは、当該職員は深く反省の文だ。議長が直接指示した文書なら、●●も反省しておりとなる筈。それを当該は大概にしな。
 「はちのへ今昔」は反論として次の文書を送った。
八議第280号
平成21年3月6日付け八戸市議会議長大館恒夫氏の「はちのへ今昔」小川 真への詫び状への不服
職員の不適切な接遇に対するお詫びについて
 平素は、市議会の活動にご高配を賜り感謝申し上げます。
 さて、本件につきましては、先般報告を受け、直ちに私から当該職員に対し厳重に注意をし、幹部職員に対しても、再発防止のため、職員への指導を徹底させるよう指示したところでございます。
 貴方様に不快な思いをさせたことにつきましては、心よりお詫び申し上げますとともに、当該職員も深く反省をしておりますし、今後、このようなことが起きないよう職員を教育して参りますので、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
 とあるが、詫び状に当該職員とは理不尽。これでは議長は人物を特定したとは思えない。かかる優柔不断な書き方ではなく。●●の人物につき、事情を聴取したところ、申し入れの通りであることを認識し、人事権を持つ議長としては●●職員に厳重に注意処分をしたなどの、処分戒告等の決定をしたことを明記するべきではないのか。
 議長たる職責を再考し職員名を明記し注意処分をしたことを書き、再度回答いただきたい。
平成21年3月8日
 「はちのへ今昔」小川 真
 続

2009年3月26日木曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底4

サムライジャパンが帰国。世界の野球の頂点に立った。高校野球と異なりトーナメント制ではないため敗者復活で摑んだ栄冠だった。朝鮮人にマウンドに韓国旗を立てられた屈辱は歯噛みをした。勝者に許される行為ではあったが、ああしたことはするもんじゃない。これに対して全員が敵愾心(てきがいしん・相手に対する憤りや憎しみから発する、強い闘争心)を抱いた。それがバネになり宿敵韓国を打ち破った。が、日本人はマウンドに日の丸を立てることはしなかった。
 これは野球の世界、平和な時代でも自分を侮辱されれば、敵愾心をメラメラと燃やす。まして、侵略してきた日本、国を占有された人民はどれほど敵愾心を燃やしたことだろう。我々日本人は朝鮮人・中国人にしたことを忘れてはいけない。我々だけが良ければ、助かればいいでは人の道に反する。
 野球などスポーツでは強い者が勝つ。当然のことだ。それを金を使って勝とうと画策すれば、これは言語道断。しかし、こうしたことが現実問題としてある。だから、競輪の選手は開催日が迫ると合宿し、外部との交渉、折衝を閉ざされる。競馬は馬が走るが馬は隔離しない。人間の言葉を解しないからだ。ところがモンゴル人が競馬を見ると一番になる馬を当てる。馬の顔でわかるそうだ。
 さて、人間は目に考えていることが出る。「はちのへ今昔」は四年間毎日のように八戸市役所に出かけた。誰から役所の仕事を教えられた訳ではないが、決算書から数字を見て、それを情報開示をかけて調べた。いくらか判ったつもりになった。
 各課の対応が面白かった。松浦という秘書課長は激怒して「もう、小川とは口をきかないと」口走った。どうぞ、ご自由にだ。この男は今、市民病院の事務局長だ。こんなのが居る以上、病院は改善されない。松浦氏は「口をきかない」と明言し、「はちのへ今昔」が他の職員に質問すると、割ってクチバシを入れた。市長交際費の着服を調べた時だ。「松浦さん、アンタは口をきかないといったのではないのか」卑しく笑って、「へへ、そうですが、撤回します」根性があるのかと疑問に思った。その後、一度だけ顔を会わせたが嫌な奴だ。
 男は口走った以上、恥を知るべきだ。それがどんな咎めを招こうとも、一度、男が言った言葉は口に戻すことができない。
 八戸市職員は人を馬鹿にする。役所のことを知っているのは我々だ。議員はロクに勉強もしない。だから、何でも教えてもらいに来る。確かに議員の中には尻尾を振るのもいる。だが、議員は課の動きをしらずとも、人を知っている。議員にとって人を知るは米びつに米が詰まった状態をさす。
 職員は自分の失態を笑ってごまかす、つまり松浦氏のように。川井のように「はちのへ今昔」の姿を見るとひたすら走って逃げる。どのような方法も自由に取れる。それは勝手次第だ。が、それも自分が役所の椅子に座っておられたときだけだ。定年退職すれば、どれもこれも同じ土俵だ。肩書きを外せば同じ人間ヨ。
 さて、なんでこんなことを記しているか、それは職員ができないことを議員はするヨ。諸君等が侮っている議員が立派に米びつを利用することを教えたくて書いている。
 本論に入ろう。第一、議会事務局が議場での写真撮影を許可したのは市政クラブだけ。フォーカスに許可を与えていないと建前をいう。田舎議会を講談社が追いかけるは三浦哲郎が芥川賞を獲った以来、こんな椿事には議会事務局は特別許可を出すのが至当。それを突っ張って、出していないと言い張るからこじれる。特別許可を出したなら「はちのへ今昔」にも特別に出せと捻られるのが嫌さに突っ張った。
 第二は委員会での写真撮影・録取を議会運営委員会に諮ったことだ。この議会運営委員会が全ての委員会に先立つのか、上位に属するのかと、これも当然の質問をして、諸君等議会事務局は間違った結論を意図的に導いたと、その根拠である法律・条令の提示を求めたが、もとより、議会運営委員会は同列の存在。これに対しての明快な説明はできない。このことを第一を触れ、第二を詰問と繰り返した。議会事務局長と係りの職員と「はちのへ今昔」の三人で会話中だ。
 職員は威圧、恐喝するような目で「はちのへ今昔」を睨みつける。「オッ、いよいよ言うな」と身構えた。突然、「役人にも感情があるんだ。バカヤロウ」と怒鳴った。手の上に乗った。水道企業団に三浦という職員がいる。この男か、この職員のどちらが先に言うかなと楽しみにしていたら、この職員が口をきった。
 「言うだろうと思って待っていたヨ」「はちのへ今昔」は無頼漢だ。誰を頼みともしない、自分の稼ぎは自分で算段する。誰からも頭を抑えられないために、雑誌を持って役所の中を頭を低くして歩かない。横柄が服を着て歩いてる。議員と違って万人に笑顔を振りまかない。人から押して貰う必要がないからだ。だから無頼漢なわけだ。その無頼漢にまで、なんで役人が降りなければならないのか? 明日からは自分でゴミ箱を漁る真似をするのか。
 一時の感情に任せてそんな暴言を吐くことで気休めになるのか? 確かに「はちのへ今昔」は馬鹿野郎だ。そんなことは指摘してくださらなくとも十分に理解している。だが、「はちのへ今昔」のような馬鹿野郎が一人ぐらい居なければ、役所はだらけきっていないのか?
人に嫌がられても真実は一つ、それを探して歩いている。ことさら誉められようとも思っていないが、馬鹿野郎は「はちのへ今昔」にとって誉め言葉なのサ。ここまで腹を据えて世の中を見ているヨ。佐々木聡の野郎に刑事告訴をされ、民事もやられ、今年に入って裁判所と警察をウロウロしている。これも、自己顕示欲の強い奴に粘着されただけだ。ある議員を助けようの狭義心がそれを招いただけだ。我を捨ててかかっている。銭。金の前に頭は下げない。これが「はちのへ今昔」の精神だ。
 さて、この議会事務局の対応だ。当然、人事権を持つ議長が、ことを処理する以外に途はない。議長に手紙を送った。それがこれだ。
八戸市議会議長殿
八議第273号・平成21年2月25日付けの要望への対応文書を受理。
その際、内容の確認につき山内八戸市議会事務局長ならびに、八戸市議会事務局議事課職員●●氏と面談中、●●氏が「はちのへ今昔」小川真に「役人は人形じゃない、感情があるんだ、馬鹿野郎」と発言した。
かかる行為は市役所職員としてあるべき態度ではない。
議長には議会事務局職員の人事権を有することから、議長からの誠意ある対応を書面にて「はちのへ今昔」小川真に対して送付されることを要求する。
平成21年2月26日
    八戸市類家4の15の7
      「はちのへ今昔」 小川真
 この手紙を大館議長は無視した。「はちのへ今昔」は伏字を実名で暴露すると昨日、最後通告をした。すると、副議長の五戸市議が連絡をしてきた。彼等議員の米びつを開いたのだ。
 議長は議会事務局職員を見殺しにするつもりなのだ。が、五戸市議は頭を下げて、職員を助けろと懇願した。できないことだ。、「判った、が、議長からの説明がない以上、本件は覆りますよ」と念を押した。それで、今日の、このブログには伏字が載った。
 続

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底4

サムライジャパンが帰国。世界の野球の頂点に立った。高校野球と異なりトーナメント制ではないため敗者復活で摑んだ栄冠だった。朝鮮人にマウンドに韓国旗を立てられた屈辱は歯噛みをした。勝者に許される行為ではあったが、ああしたことはするもんじゃない。これに対して全員が敵愾心(てきがいしん・相手に対する憤りや憎しみから発する、強い闘争心)を抱いた。それがバネになり宿敵韓国を打ち破った。が、日本人はマウンドに日の丸を立てることはしなかった。
 これは野球の世界、平和な時代でも自分を侮辱されれば、敵愾心をメラメラと燃やす。まして、侵略してきた日本、国を占有された人民はどれほど敵愾心を燃やしたことだろう。我々日本人は朝鮮人・中国人にしたことを忘れてはいけない。我々だけが良ければ、助かればいいでは人の道に反する。
 野球などスポーツでは強い者が勝つ。当然のことだ。それを金を使って勝とうと画策すれば、これは言語道断。しかし、こうしたことが現実問題としてある。だから、競輪の選手は開催日が迫ると合宿し、外部との交渉、折衝を閉ざされる。競馬は馬が走るが馬は隔離しない。人間の言葉を解しないからだ。ところがモンゴル人が競馬を見ると一番になる馬を当てる。馬の顔でわかるそうだ。
 さて、人間は目に考えていることが出る。「はちのへ今昔」は四年間毎日のように八戸市役所に出かけた。誰から役所の仕事を教えられた訳ではないが、決算書から数字を見て、それを情報開示をかけて調べた。いくらか判ったつもりになった。
 各課の対応が面白かった。松浦という秘書課長は激怒して「もう、小川とは口をきかないと」口走った。どうぞ、ご自由にだ。この男は今、市民病院の事務局長だ。こんなのが居る以上、病院は改善されない。松浦氏は「口をきかない」と明言し、「はちのへ今昔」が他の職員に質問すると、割ってクチバシを入れた。市長交際費の着服を調べた時だ。「松浦さん、アンタは口をきかないといったのではないのか」卑しく笑って、「へへ、そうですが、撤回します」根性があるのかと疑問に思った。その後、一度だけ顔を会わせたが嫌な奴だ。
 男は口走った以上、恥を知るべきだ。それがどんな咎めを招こうとも、一度、男が言った言葉は口に戻すことができない。
 八戸市職員は人を馬鹿にする。役所のことを知っているのは我々だ。議員はロクに勉強もしない。だから、何でも教えてもらいに来る。確かに議員の中には尻尾を振るのもいる。だが、議員は課の動きをしらずとも、人を知っている。議員にとって人を知るは米びつに米が詰まった状態をさす。
 職員は自分の失態を笑ってごまかす、つまり松浦氏のように。川井のように「はちのへ今昔」の姿を見るとひたすら走って逃げる。どのような方法も自由に取れる。それは勝手次第だ。が、それも自分が役所の椅子に座っておられたときだけだ。定年退職すれば、どれもこれも同じ土俵だ。肩書きを外せば同じ人間ヨ。
 さて、なんでこんなことを記しているか、それは職員ができないことを議員はするヨ。諸君等が侮っている議員が立派に米びつを利用することを教えたくて書いている。
 本論に入ろう。第一、議会事務局が議場での写真撮影を許可したのは市政クラブだけ。フォーカスに許可を与えていないと建前をいう。田舎議会を講談社が追いかけるは三浦哲郎が芥川賞を獲った以来、こんな椿事には議会事務局は特別許可を出すのが至当。それを突っ張って、出していないと言い張るからこじれる。特別許可を出したなら「はちのへ今昔」にも特別に出せと捻られるのが嫌さに突っ張った。
 第二は委員会での写真撮影・録取を議会運営委員会に諮ったことだ。この議会運営委員会が全ての委員会に先立つのか、上位に属するのかと、これも当然の質問をして、諸君等議会事務局は間違った結論を意図的に導いたと、その根拠である法律・条令の提示を求めたが、もとより、議会運営委員会は同列の存在。これに対しての明快な説明はできない。このことを第一を触れ、第二を詰問と繰り返した。議会事務局長と係りの職員と「はちのへ今昔」の三人で会話中だ。
 職員は威圧、恐喝するような目で「はちのへ今昔」を睨みつける。「オッ、いよいよ言うな」と身構えた。突然、「役人にも感情があるんだ。バカヤロウ」と怒鳴った。手の上に乗った。水道企業団に三浦という職員がいる。この男か、この職員のどちらが先に言うかなと楽しみにしていたら、この職員が口をきった。
 「言うだろうと思って待っていたヨ」「はちのへ今昔」は無頼漢だ。誰を頼みともしない、自分の稼ぎは自分で算段する。誰からも頭を抑えられないために、雑誌を持って役所の中を頭を低くして歩かない。横柄が服を着て歩いてる。議員と違って万人に笑顔を振りまかない。人から押して貰う必要がないからだ。だから無頼漢なわけだ。その無頼漢にまで、なんで役人が降りなければならないのか? 明日からは自分でゴミ箱を漁る真似をするのか。
 一時の感情に任せてそんな暴言を吐くことで気休めになるのか? 確かに「はちのへ今昔」は馬鹿野郎だ。そんなことは指摘してくださらなくとも十分に理解している。だが、「はちのへ今昔」のような馬鹿野郎が一人ぐらい居なければ、役所はだらけきっていないのか?
人に嫌がられても真実は一つ、それを探して歩いている。ことさら誉められようとも思っていないが、馬鹿野郎は「はちのへ今昔」にとって誉め言葉なのサ。ここまで腹を据えて世の中を見ているヨ。佐々木聡の野郎に刑事告訴をされ、民事もやられ、今年に入って裁判所と警察をウロウロしている。これも、自己顕示欲の強い奴に粘着されただけだ。ある議員を助けようの狭義心がそれを招いただけだ。我を捨ててかかっている。銭。金の前に頭は下げない。これが「はちのへ今昔」の精神だ。
 さて、この議会事務局の対応だ。当然、人事権を持つ議長が、ことを処理する以外に途はない。議長に手紙を送った。それがこれだ。
八戸市議会議長殿
八議第273号・平成21年2月25日付けの要望への対応文書を受理。
その際、内容の確認につき山内八戸市議会事務局長ならびに、八戸市議会事務局議事課職員●●氏と面談中、●●氏が「はちのへ今昔」小川真に「役人は人形じゃない、感情があるんだ、馬鹿野郎」と発言した。
かかる行為は市役所職員としてあるべき態度ではない。
議長には議会事務局職員の人事権を有することから、議長からの誠意ある対応を書面にて「はちのへ今昔」小川真に対して送付されることを要求する。
平成21年2月26日
    八戸市類家4の15の7
      「はちのへ今昔」 小川真
 この手紙を大館議長は無視した。「はちのへ今昔」は伏字を実名で暴露すると昨日、最後通告をした。すると、副議長の五戸市議が連絡をしてきた。彼等議員の米びつを開いたのだ。
 議長は議会事務局職員を見殺しにするつもりなのだ。が、五戸市議は頭を下げて、職員を助けろと懇願した。できないことだ。、「判った、が、議長からの説明がない以上、本件は覆りますよ」と念を押した。それで、今日の、このブログには伏字が載った。
 続

2009年3月25日水曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底3

フォーカスは市政クラブ会員ではない。それがどうして議場内で写真撮影をしたのか。議会事務局は許可をしたのかと問うた。事務局職員は許可していないと突っ張る。どうして撮影された写真が雑誌に掲載されたのか。
● わかりません。
事務局が入場と撮影の許可をしたのではないのか?
● していません。
どうして掲載になったのか
● わかりません
知らぬ存ぜぬで突っ張る。こうした対応もないではない。議会事務局が知らないところでなされたと言う訳だ。それが一度ならず二度また三度と繰り返されたことは何と釈明するのか。これまた知らぬ存ぜぬでは議会守護の立場はどうなるのか。
大体、役人てのは自分に火の粉が飛んでこなければ知らぬ存ぜぬだ。これも保身の術としては悪くない手立てだ。しかし、自分の本分忘れていませんか、どうして写真が載ったのか判りませんはワカラナイ。八戸弁でワカラナイは出来ないという意味だ。議会事務職員はワカラナイ奴だ。
さて、大館議長の回答がこれだ。
要望への対応について
 平成21年2月16日に貴殿から要望のありました下記の事項について、対応を決定しましたのでお知らせします。
要望事項
 1 議場及び会議室での写真撮影及び録音の許可
 2 1が不可能な場合には、議会事務局員による撮影及び録音した物の自由使用
対応
要望事項の1及び2は、いずれも不許可と決定しました。
担当 八戸市議会事務局 議事課秋山
   TEL 0178-43-9161
   FAX 0178-47-0744
 この文書は大館議長が決定したのか?
● これは大館議長が議会運営委員会に諮った。
議会運営委員会は常任委員会の上に位置するのか?
● 上ということではない。
常任委員会にはそれぞれ委員長がいる。意思決定はそれぞれに属するが、議会運営委員会はそれを超越した組織なのか?
●そうではない。だが、こうしたことは議会運営委員会が決めることになっている。
それは条例か?
● 条例ではない。
規則か?
●規則でもない。
すると気分で決めるのか
●そうではない。慣例に従っている。
日本は野蛮な未開国ではない。習慣法などは存在しない。検察が政治資金規正法にのっとり逮捕をした。しかし、政治資金規正法で本当に裁判で勝てるのか? 藤川優里市議の件で何度も同法を読んだが、そのような逮捕は不当でしかない。日本は法治国家だ。法令・政令・省令・条例に記載されていないことで国民は規制されない。規則や心得違いは役人だけしか縛られない。国民は法令にしか拘束されないのだ。
 かくほど左様に、議会事務局が議会運営委員会にこの写真撮影、録音許可を諮問させたのは間違いなのだ。何故なら、議会を運営するのが議会運営委員会。各常任委員会は別組織で、議場で行われる議会ではない。委員会なのだ。委員会のことは各委員会が決定する。それを議会運営委員会に諮問する、あるいはさせるは場違い。大間のマグロと言いながら対岸で獲ったのを詐称するようなもの。
 権限のないところに諮問して、その回答がこれだというは、それは間違っている。

2009年3月24日火曜日

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底2

市議会の本会議は表舞台。実は全てのことは裏で決まる。裏舞台が各常任委員会。ここで了承された事項が表舞台で一括審議され承認されるだけ。だから本会議だけを見てても何が何だかわからない。
議長が朗読する。「●項から△までを一括審議いたします、賛成の方の起立を求めます」ではなんたるこった。それが次々に進行。だから、本会議など有線テレビで見ても要領を得ない。
 委員会にテレビは入らない。ここで写真を撮る必要が出る。新聞記者が数名入る委員会もある。これは市政記者クラブの連中。どうして、こうした人選がされたかも議会事務局は知らない。そうなっているからだという。この市政記者クラブに入らない、地方記者クラブというのがある。日刊新聞ではない面々。人々の袖にすがって購読をすすめる新聞だ。これらの人々を役所の連中は馬鹿にしている。彼等は必死になり腰を低くして購読を請う。
 市会議員に似て、誰からも愛されようと努力し、自分の仕事可愛さに蔑まれても頭を低くして役所の中を歩く。課内に入り課長の机に新聞を置き、年の購読料を乞うのだ。こうした連中は議会での写真撮影はできない。市政記者クラブではないという議会事務局の認識だ。
 つまり、役所は日刊紙に都合のいいことは書いて貰いたい。都合の悪いことは書かれたくないの腹。だから定例記者会見、臨時と時宜に合わせて役所からの一方通行の情報を流す。昨今の記者は記者魂を置き去りにしたような連中で、自分の足で探すことをしない。現場を百回廻れの理が通じないようでは真実を見つけることは困難だ。
 「はちのへ今昔」は議会でも委員会でもただ傍聴しているだけだが、議員の発言には注目するも、聞きなおしができない。こうしたときに録音が役に立つが、密かに録取するは精神に反するのでしない。こうした録取は議会事務局はしている。何故ならば委員会記録は三ヶ月先にはインターネットで公開するからだ。
 すると、現今のような時代で、「はちのへ今昔」のように市政に対して金儲けを念頭におかない情報伝達手段の者は正しく報道できるのかの疑問が残る。書く以上、正確を期すべき。しかし、真意の伝わりにくい表現を議員がしたとき、発言の内容が明確でないときに録音テープは有効な確認手段。
 議場で写真を秘密で撮影し、居眠りをしていた議員の姿を暴露したインターネットもあった。時代が変わったのだ。誰でもが気楽に世界各国の出来事を見られる時代だ。にもかかわらず、百年一日の如く、議会運営は変わらないは愚かだ。
 大館議長は人事権を持つ。議会事務局職員の対応がまずければ、それなりの手立てをこうずる権限を持つ。議会事務局職員の求めに応じて「はちのへ今昔」は要望書を書いた。当然、それに対して議長は変事をよこした。

2009年3月23日月曜日

倒産したか八戸市役所?

電話をかけても2分も出ない。電話応対は業者に委託。
倒産したのかと訊いたら、定額給付金で混雑しているとヨ。
騒ぎになる前に、臨時電話を設置するなどの対応策をとれ。
通常業務の支障になるゾ。

藤川優里市議騒動でわかった議会事務局の不徹底1

八戸市の委員会は各々が独立した体制。つまり、その長は人事課とは違う人事権を持つ。ここが妙なところで面白い点。
 藤川優里市議を昨年十二月一日、オンブズマン代表の山日が佐々木聡と共に政治資金規正法違反で告発。この告発は受理されなかった模様だが、民主党の小沢氏の秘書はこれで逮捕された。政治資金のありようが問われている。現在のような金権泥まみれの破廉恥な状態を看過する国民の資質が問われている。こんな馬鹿な状態に放置せず、献金は個人に限ると規制すべきだ。企業は金になるなら組織ぐるみで何でもやる。これを放置していれば、いつでもこの問題でゴタゴタするのは間違いない。
 さて、この藤川優里市議騒動にマスコミ各社が議場に入り、報道を開始したのは諸君もご存知。そこに、フォーカスだかの雑誌に議場での藤川優里市議の発言写真が掲載された。
 八戸市議会の議場で写真を撮れるのは議会事務局が認めたものに限ると規定。また、市政クラブに属するものには許可すると規則にある。フォーカスは市政クラブに属していない。これに特別な許可を出したのか、また、テレビ局にも許可を出したのかと問うた。
 すると出していない。どうして写真が掲載されたのかわからないという。この一連の騒動はタイに居た佐々木聡が帰国して、一層火に油を注いだ。現在は沈静化しているが、議会事務局の対応に疑問が残った。
 議会傍聴者は議場での発言は録音も写真撮影も許可されない。しかし、議会は有線放送の八戸テレビで放送される。テレビ画面を撮影、音声は録音できる。市議会はこれで対応ができる。
 「はちのへ今昔」は市政クラブに属していないため、撮影・録音は許可されない。議場での発言ばかりが市議会ではない。議場で討議される前に委員会があり、委員会は議場で行われず会議室で開催され、全てはここで論議され、総務常任委員会などは、市職員の不祥事なども露呈される。
 すると、ここの写真撮影・録音はどうなるのかの問題が出る。つまり、議会の運営は議長が行う。各委員会は委員長が行う。つまり、各委員会は委員長の許可、不許可で撮影・録音許可を出すべき。
 このことについて、議会事務局に訊いた。すると、要望書を出せと職員が言う。その要望書がこれだ。

2009年3月22日日曜日

太宰治の師匠、井伏鱒二の書いた八戸の話

野辺地の睦五郎略伝
 旧幕のころ、奥州八戸藩に野村軍記といふ武士がゐた。
文化元年、大目付に任じられ、後に社寺奉行を兼ね、藩の立法替えに精出したそのために、人の恨みをかって不幸な最期をとげた人である。
 この野村軍記の家来の一人に、野辺地の睦五郎といふ下郎がゐた。はなはだ才覚の利く人間で、軍記の立法替えについて助言を許されてゐた者である。犯罪者の取調べ方についても、偶然のことだが指紋法を案出して軍記に採用させた。睦五郎は指紋法のことを指の渦(うず)見分方といってゐた。
 当時、八戸藩では財政が疲弊の極に達してゐた。紙幣が国ぢゆうに充ちて融通の道がほとんど絶え、上下の困弊がはなはだしかった。江戸勤番の侍も夜宿の燈心の油を買へないほどの貧乏で、藩公の江戸屋敷が雨漏りしても大工を呼ぶ日当に事欠いてゐた。帰国の旅費も捻出困難であった。江戸深川町人からも「日がたつことを、江戸で一番心配するのは、南部藩の武士だ」と言われていた。
 この財政の逼迫の原因は、領内における豪商が跋扈して、賂(まいない・わいろ)を権臣(けんしん・権利をもった役人)に贈り利益壟断(ろうだん・独り占め)を専らにしていたためである。(中略)
 睦五郎の父は野辺地で船問屋を営んでいたが、八戸藩から財産没収、所払いを命ぜられた。夫婦は無宿者となり流浪の旅にでた。睦五郎は野辺地でウロウロしていた。睦五郎の両親は、三本本の馬番小屋にゐるといふ噂が伝はつてゐた。睦五郎は乞食となって三本木まで来た。十八歳になっていた。馬番夫婦は尾去沢銅山へ行ったと教えられる。尾去沢に着くと八戸へ行ったという。睦五郎八戸に行った。ここは八戸藩の城下町である。二つの川が川口のすぐ手前で合流して海に入る。その落合に天主閣のないお城をめぐつて街並がある。
 睦五郎がこの町で乞食夫婦のことをたづねると、その乞食は先ごろ仙寿寺の裏門のところで首を吊つたと教へられた。睦五郎は仙寿寺の在り場を教はつて、泣声をあげながらその寺の裏門まで駈けつけた。睦五郎は泣き喚いた。
 仙寿寺の和尚がその声を聞きつけて裏門の外に出た。和尚と睦五郎の間に簡単な会話が取りかはされた。
「おぬし、なぜ泣くか」
「ふたおやが、このあたりで首を吊りました。」
「あの二人の衆おぬしがたらちねか。いまはもう無縁塚
になって御座る。おお、そうか、ひもじかろう。先づ、こちらへおいで。」
 睦五郎五郎は裏門から連れこまれて、食を与へられた。
 この寺の和尚は、東来和尚といって美濃の生まれである。諸国を漂泊して落魄した末にここ来たと云われている。頓知がすぐれた人で狂歌をつくる余技があった。俳号を杓子定規、または早桶庵瓦鏡といった。
 睦五郎の父母は、この寺の墓地のほとりに葬られていた。和尚は睦五郎にその無縁塚をゆっくり拝ませて、「おぬしの悲嘆がほつれるまで、寺に泊まって毎日でも墓を拝ましゃれ」といった。行くあてのない睦五郎は、寺に泊めてもらって寺男の手助けをするようになった。
 ある分限者の檀家が盛大な法事をして、仙寿寺の本堂に何十人もの回向者が集まった。分限者の使いが供物の米俵を運んで来た。お布施を入れた状箱も持ってきた。和尚はその状箱を庫裏の机の上に載せておいた。
 回向がすんでから和尚が庫裏に引返すと、状箱の紐の結び目がお粗末な片結びになつてゐた。かりにも状箱を持ち扱ふ人間が、こんな紐の結びかたを.するわけがない。和尚は箱をあけないで手を束ね、庫裏の台所で後片づけをしてゐた人たちを呼んだ。煮炊きの手伝に来てゐた者や寺男など、数人の者が和尚の前に出た。
「ちょっと尋ねるが、いま回向の最中に、誰かこの居間に来ざったか」と和尚が言った。
 みんなお互に囁いて、煮炊きの手伝いの為吉が代表で返答した。
 「和尚さま、いま誰彼となく申しますに、陸五郎がここに入って来るのを見たと申します。さっき、本堂.で和尚さんが、回向文を読んで御座ったときと申します。」
 「それでは、ここへ睦五郎を呼んでくれ」
 みんなは席をはづし、本堂の掃除をしてゐた陸五郎が和尚さんの前に来た。
[おぬし、わしの留守にこの居間に来ざったか。]
「参りました。この煙草盆の掃除をしに参りました」
「そのとき、この状箱の紐に、おぬし手を触れざったか。いま見ると、この紐が片結びになってをるのぢや。どうも腑に落ちぬ。」
 こんなことをいわれると、誰だって状箱の中身に異変があったと気がつくだらう。云われる自分が疑はれてゐると思ふのが当り前である。陸五郎は「ちよっと、御免を蒙りまして」と断って、状箱に近寄って見た。
「いや、手を触れてはならぬ」と和尚が遮った。[その蓋に、人の指跡がついてをる。おぬしの指と違って、もそっと細い指のやうじゃ。]
 状箱は黒い漆塗で、蓋に宛名を書くところだけ短冊型に赤漆で塗ってある。その赤漆のところにも、黒い漆塗のところにも、よごれ手で触った指跡が歴然と残ってゐる。指さきの渦まで読み取れさうに見えるほどである。
「和尚さま、この指跡の渦を、紙に写しとる算段は御座いますまいか。私、その思案をいたします。いつか手相見が、人の指の渦は万人みな違ってをると申しました。」
「おお、さうだ、渦は万人みな違ふ。」
 煮焚きの手伝に来てゐた人たちは、睦五郎が盗んだと云ってゐたか、和尚は状箱の指絞を大事に残すため薄い布ぎれを上にかぶせておいた。
 その晩、睦五郎は眠らずに算段し今翌朝、彼は赤い目をして和尚さんの居間に罷り出て、ふところから薄い雁皮紙と何やら紙に包んだものを取出した。そのとき来客があつたので、和尚さんは書院の方にお客を案内した。
 その客人は藩の大目付役、野村軍記といふ人であった。
夜明け前の鉄砲足軽組の調練を見た帰りに、かねて和尚と懸意な仲とてお茶を飲みに立ち寄ったものである。和尚さんはお湯をわかして薄茶を出した。野村軍記は座興に白扇を出して和尚に句を頼んだ。
 和尚さんは睦五郎を呼んで硯を持って来させ、その白扇に「音に聞く野村に響く素鉄砲」と書いた。夜あけごろ調練の鉄砲の音がして煩さかつたのを諷したものである。
 「睦五郎、指跡の渦は写せたか」と和尚さんが縁側にかしこまつてゐた睦五郎に声をかけた。
 「はい和尚さま、ざっと写せまして御座います。」
 「おお、写せたか。写せたら、持って来て、野村のお殿様にもお目にかけるとよい。はて、えらい才覚したものぢや。」
 睦五郎は指紋をとつた紙を持参して引きさがった。ごく微かだが指の渦が黒く薄手の紙に現はれて、渦の流れたのや巻いたのを見分けることが山来た。
 野村軍記は一と目それを見ると、睦五郎を自分の家来に申し受けたいと和尚に所望した。
「罪人を拷問するよりも、この渦で見分けるが手近かぢやな」と軍記がいった。
 和尚は「お殿様に仕える仕えないは、睦五郎が得心次第で御座る」と返答した。
 和尚さんは指紋を見て、状箱をあけたのは若い娘さんだらうと云った。果して曲名は為吉の妹であった。
 睦五郎は野村軍記に下郎として雇はれた。管下で夜盗や人殺しがあるたぴに、鴈皮紙と薬を持って現場へ指の渦を写しに行くのである。軍記はそれを重宝なものとしてゐたが、こんな見分方のあることを断じて他言しないやうに睦五郎に云ひつけた。軍記の説によると、罪状糾察(きゅうさつ・問いただし)の仕方がこまかくなって行くにつれ、世の犯罪のすべが深く多岐に至って行く。いま御役所では力づくの拷問で犯人を詮議してゐるが、これは世の犯罪を単純なものにさせておくためには大いにあづかるところがある。だから、指の渦見分方を決して人に明かしてはいけないと睦五郎に云ひきかせた。
この論法は勝手放題であつたとは云ふものの、そのために野村軍記の罪人糾明の術は神技であると云はれるやうになった。この人は間もなく栄進して社寺奉行の兼役を.仰せつかった。
 文政九年正月、野村軍記は睦五郎を連れて江戸へ出た。領内の十和田山の材木を江戸へ積み出す目的で、深川の材木問屋に高交渉するためと、領内の物産を新造船で江戸に運搬して商取引を始めるためであった。ところが江戸の商人たちは八戸藩が小藩であるために信用しないのである。なかには八戸藩の名前さへ知らないものがゐた。江戸の大半の人は、そんな藩の名前は聞いたことがあったかもしれぬといふ程度のもので、取引を承諾する商賈(しょうこ・あきんど)は皆無であった。大坂道頓堀の商家に使ひの者を差向けたが、互市(ごし・貿易)開始を承引(しょういん・承諾)する商家は一軒もなかった。
 睦五郎は江戸滞在中に江戸相撲の春場所を見物した。面白いので五日も六日も続けて見物した。その問ぢゆうも、主人の野村軍記は相撲など見る暇もなく江戸の街を駈けずりまはって、血まなこになって商取引をする相手を捜してゐた。結局は駄目であった。洟汁もひっかけられないやうな有様である。軍記は焦慮のあまり、日に日に面やつれが目立つやうになった。今まで軍記は財政を立て直すため、藩中の反対を排して資源開発の説を剛直に主導して来たもので、もし江戸や大坂に互市を持てないと軍記の面目は丸つぶれである。地位も危くなって来る。
 ある日、軍記は陸五郎を連れて大川端から魚釣に出た。野辺地の海辺育ちの睦五郎は船が漕げるので、船頭を雇わないで註八郎に掴がした、船中、二人だけであっだ。軍
記は釣糸を垂れなから独りごとのやうに云った。
「江戸では、魚まで八戸藩を侮ってをる。江戸の人間と同じこと、魚も八戸藩の名前など心得ぬかもしれぬ。釣も通商も、ことごとく散々ぢや。」
「畏れながら、お殿様」と睦五郎がいった。「江戸の相撲取りを、お雇いになりましてはいかがで御座います。人気のある相撲取りを八戸藩の籍に入れるんでございます」
 「愚かなこと申すやつだ。-いや、それはそれは着眼。
相撲の番付には、藩籍が必ず書いてある。これは思ひつきだ。」
 軍記は急に晴々とした顔で、すぐ船を漕ぎ戻すやうに陸五郎に言いつけた。
 睦五郎は船を漕ぎながら、先日の春場所で見た人気のある相撲取の噂をした。いま一ばん人気のあるのは大関の四ケ峯で、この相撲取りは滅多なこと負けないが、たまさか負けても見物が「四ケ峰、四ケ峰」と声援する。四ケ峯のほかに、また見物人の贔屓する甚だ美男で人気のある相撲取がゐる。それも八戸藩の籍に移せば、たちまち八戸藩の名が天下に知れ渡るだらうと睦五郎は入れ知恵した。
「美男で人気の、相摂取か」と軍記は苦虫を喘みつぶしたやうな韻をしたが、すぐにまた晴々として云った。「いや、それも悪くない。ほかに数人、まだ雇ひ入れたきものぢや。奥州白石ごときは、傾城で名が知れてをるだけぢや」
軍記は藩公に対面を願って許しを受け、一方また相撲の元締にも掛合って四ケ峯のほか散人の力士を藩のお抱へにした。このことが、正式に八戸藩から発表されたのは、文政十年四月であった。
 江戸の一般市民は、四ケ峯たちの藩籍を見て八戸にも藩があるといふことを知った。大坂の市民も、旅興行の江戸相撲を見て八戸藩の名前を知った。
 文致十一年の春、四ケ峯は大坂興行のとき、素哨しく派手な手を使って非常な人気を呼んだ。美男の相撲取も白星を取った。その大評判の影響で、間もなく八戸の町市場ヘ大阪の問屋から漆器類の註文が大量に来た。引きつづいて材木の註文もどっさり来た。江戸深川からも材木の註文が来るやうになった。
中略
天保二年、三年は凶歳であった。八戸領内は大困窮であった。藩主は他国から米を買入れることにして、野村軍記に一万七千両の金を授けて出発させた。
 軍記は酒田に行って掛合ったが断わられた。次に、新発田、金沢、富山、高田、新潟という順に、三ヶ月がかりで交渉して歩いた。どこの町でも、あまりいい顔はされなかったが、新発田の町で一万五千両の米を予約して、年内にその三分の二を送りつけてもらう約束ができた。軍記は八戸に帰った。ところが師走になっても越後の廻船が着かないので、領内に餓死する者が次第に出るようになった。当然、百姓一揆が起こった。一揆の数は八千人。これが豪商たちの住む八戸の城に押しよせた。藩の十五歳以上の侍は城中に集合を命ぜられ、それぞれ要害の守りに派遣された。軍記が米穀の買入れ金を着服したという流言が伝わった。軍記は改易幽閉を命ぜられた。間もなく越後から廻船が届いたので、藩主は特典をもって軍記を復職させようとしたが、当人は幽閉中に人知れず亡くなっていた。後略

2009年3月21日土曜日

いづみや薬局のこと


八戸の中心街にいづみやって薬局がある。これは誰でも知ってるほどの老舗。昔は雑貨屋。薬局を開いたのは昭和三年九月のこと。昭和十二年の八戸商工名鑑には鈴木レンが店主としてある。
薬局で古いのは寛政四年の二十三日町のおなじみ金子安兵衛の金子薬局。十三日町の加藤能萬堂は加藤万吉、明治五年。三番目は明治三十六年、最上光男の明治薬館。四番は倒産した関野薬局、関野郁郎、大正十一年。五番は湊本町、浪打定雄の大正十二年。六番は荒町の大和屋、河野富之助、大正十五年。七番は小中野新丁、済生堂、岩上信次郎、昭和二年。八番は昭和三年五月創業の小中野新丁最上薬店、最上亀之助。九番が和泉屋になる訳で野球なら投手の打順か。
この薬局に図書館の帰りにフラっと入った。というのも、指先が荒れてヒビ、あかぎれの類になって直らない。昨年の九月ころからひどくなり、バンドエイドのバンソウ膏をぐるぐる巻きにしていたが、ミイラの指先みたようでめぐさいばかりで非能率。図書館で本はめくれないコピー代の十円硬貨は落とすと効果がない。さて、弱ったとおもったとき、いづみやで聞いてみようと行ったナ。美人の姉さんが白い服着てにこやかに応対。指先見せて薬がほしい。「尿素の軟膏がいいですヨ」と出されたのを塗ったナ。親切に手袋履いて寝るといいと教えてもらった。
早速実行。これが効いた。たちまち太郎はお爺さんじゃない、浦島太郎は土産に貰った玉手箱、開けてびっくり、ビックリ箱だったが、いづみやが教えてくれた軟膏は結構なもの。
老人性乾燥肌の人も多いだろうから、いづみやが教えてくれた軟膏を教える。ムーゲホワイトだ。伊豆に旅行に出て、これを忘れて量販店の薬局で尿素入りを買ったが、効き目は提灯と釣鐘ほども違う。やはりいづみやの物が一番。七十過ぎの爺さんにも貸してやったが「良く効く」と絶賛。
そのいづみやの話がデーリー東北の昭和三十四年にシリーズ企画、トップに聞く
催眠術・漢方薬あれこれ
に掲載されていた。この社長鈴木吉十郎氏も鬼籍。
催眠術、自己暗示を手助け、走り出した歩行困難者
 八戸市番町にある老舗和泉屋薬局。記録は大正十三年の火災で焼いて正確にはわからないというが、創業は明治の始め、当時は雑貨商を営んでいた。曽祖父が八戸商業銀行(のちの八戸銀行)を設立したというから八戸経済界の名門である。薬局の開業は昭和三年。当主吉十郎氏(四六)が家業を継いだのは昭和二十一年。旧制八戸中学から東京薬専(今の東京薬科大)に進み復員してからのことだ。童顔で温厚な紳士で漢方薬の研究家としても知られ催眠術の権威。
鈴木 私たち同業者の組織に日本薬局共励会というのがありまして、この会は会員二千五百人、折にふれて研究会を開いておりますけど、三年前に、この会主催で催眠術の講習会があったんです。全国から二十五人の希望者があつまり三日間缶詰にされて教えてもらったのが初めです。やってみますと、なかなか面白い。やみつきになって勉強を始め研究を続けているわけです。
知能指数が高いほど成功
だれにもかかるというものですか
鈴木 催眠術は自己暗示を助けるもので、かける、というものではないんです。だから知能指数七十以下の人には成功しない。知能指数が高ければ高いほど成功しますね。年代別にみますと小学生はかかりやすいけど、高校生は難しい。二十代、三十代と年齢が進みますと精神の集中力が出てきますので比較的容易になってくる。
なるほど、自己暗示を手助けするということになればかける側、つまりあなたを絶対信頼してもらわねば無理ですね。
鈴木 そうですね、尊敬といえば僭越(せんえつ・)ですが、そういった感情を持っていただかないとむずかしいんです。私たち同好者たちのあ いだで「女房を催眠術にかけられるようになれば一人前」とよくいいますが、残念ながら、私も女房にはまだ成功していない。
八戸では他に…
鈴木 青南病院の千葉先生もかなり前からされておられます。「私も催眠術を始めましたよ」と言ったら「考えつく所は結局同じなんですネ」と例の調子で愉快そうに笑っておられましたが…
疲労ひどく、眠れぬ人にきき目
鈴木 まず疲労がとれる、ということですね。疲れがひどくて眠れない人によく効きます。
病気の人に応用したことがございますか
鈴木 三年前から坐骨神経痛を患っている人から手紙が着ましてネ。病院に行って注射を打ってもらったら、痛みは三日で確かに止まったが、そのあと歩行困難になったという。四、五歩歩くとのめってしまうんだそうです。漢方薬を送っていましたが、つい先日娘 さんに連れられて店にやって来たんです。いろいろ症状を聞いてみると、どこも悪い風がない。潜在意識が働いて足をかばっているように判断されましたので、テストに催眠術を応用してみました。催眠をかけたまま、手をとってやるとチャンと歩くんです。そばにいた娘さんが「あ、歩いた」と手を叩いて大喜びでした。そのことをよく説明して帰したんですが、奇跡はそのとき起きました。店を出たら向こうから車がきたんですね。あっと思っているうちにご本人が走って道路を横断してしまったのです。あの時のうれしそうな顔はまだ忘れられません。この人のように、病気の原因は意外なところにあるものなのです。漢方でも気の持ちようを重視しますけど神経を必要以上に使うということはやはり病気につながるようですね。
ほかにはありますか。
鈴木 いろいろありますが、このあいだもゼンソクの人がきましてね。この人は薬が全くきかないという、どうも精神的な面に原因がありそうに思いましたので、催眠術を応用してみたわけです。眠らせて「ノドのゴミが全部出てしまいましたよ」と何回か繰り返したら、完全に回復しちゃった。この人の場合は周囲が騒ぎすぎたのです。その反動で常時ノドがつかえているような感じを抱いていたわけです。そこをついて「ノドのゴミがなくなった」という暗示をかけてみたんですがね。
効能たちまち現れるというところですね。時間はどのくらいかかるものですか。
鈴木 四、五十分ですね。店が忙しいときなどは大変です。
ご自分でも利用されていますか。
鈴木 他人からやってもらうことは不可能ですね、かけかたを覚えるとなかなか暗示にはかからないんです。結局は自己催眠しかない。この場合も、意識の半分は催眠にかかって、半分は目覚めている。しかし、からだの緊張がとけますので、それが精神面にも波及して効果はあがります。私の健康法です。
まず「ジン」を強く
長生きの秘訣、薬効著しい「八味丸」
話題を変えて長生きと薬について話しましょう。近年、平均寿命が延びてまいりましたが。
鈴木 乳児の死亡率低下、結核の減少などが、寿命伸張の大きな原因でしょうね。
常用すれば下半身に力つく
長生きする秘訣という方法はありますかね。
鈴木 漢方からいきますと、よく肝腎要といいますでしょう。これは、人間の保健上、肝臓と腎臓が最も大切だとすることからきているんです。カンシャクを起こすというのも、イライラしたりすると肝臓がシャクを起こすことを意味しており、まったく肝と腎が健康保全には重要とされています。とくにジンが問題ですね。腎臓の場合には利尿剤にはきき目のあるいい薬がありますけど、腎臓そのものに力をつけて病気をなおす薬となれば難しいのです。漢方ではジンといいます。これは腎臓、膀胱、生殖器をひっくるめての総称ですが、ジンを強くすることが第一なのです。食べる面から考えればなんといっても玄米食ですね。漢方薬では「八味丸」をすすめております。これを常用すれば下半身に力がつく。足はもちろんあそこにもききます。ジンが強くなるからですが、問題は毒薬も含まれているので取り扱いは慎重でなければならないということです。このため普通用いられているのは毒薬を入れない「六味丸」なんですが。
毎日服用するわけですか。
鈴木 続けてのんだほうがいいですね。糖尿にも効果があります。
価格は?
鈴木 一日分で百円です。副作用の心配もございませんし、どうですか、お試しになってみませんか。
早速のむことにしましょう。糖尿にもいいんですね。
鈴木 漢方では体のバランスのくずれを糖尿病の原因としています。玄米と野菜を主にした食事で力をつけないと、この病気はなおらない。糖尿には減食うんぬんといいますが、これには私は疑問を持っている。理にあった薬を用いて、とにかく下半身に力をつけることです。人生の楽しさ、生きていることの楽しさもこの辺からじゃありませんか。
すぐ効き目を期待することは無理なんですね。
鈴木 そういう薬もないわけではありませんが、瞬間的に効能がでても、あとガクンとくる例が少なくない。体力をたくわえる、蓄積する、こういったことにもっともっと意を注ぐべきでしょう。そのためにはふだんの食事が肝要ですね。最近、どこの家庭、レストランへ行っても、料理は確かにおいしいが、酸性のものが多すぎる。アルカリ性の食品が不足です。このため栄養のバランスがくずれ、体力を低下させている。食事はおいしければいいというわけではないんです。
ところで和泉屋さんは昔から漢方薬を扱っていましたか。
鈴木 昔は漢方を扱う薬局はなかったんです。一種ずつの薬草はありましたけど。私が漢方に興味を持ちはじめたのは、復員まもなくのころです。倉庫を整理していたら、薬草がずいぶんあるんです。多少の知識は持っておりましたので、思わずこれはもったいないということになり研究開始。そしてあるお客さんに投薬してみた。意外なほどの効き目がでた。それからは、漢方のとりこになってしまいました。勉強をすればするほど魅力が大きくなる。とりつかれる、という言葉がありますが私の場合はまったくそれでしたね。早いものであれから二十年たってしまいました。だいたいが漢方というものは、いまの医薬とは考え方が違う。さっき説明した「八味丸」にしたところで、これは糖尿にも効くし勢力剤としても効き目が顕著だ。医薬とはやはり違うんですね。ぬずかしいのですが研究すると奥が深いんです。
栄養剤が最近多く出回っていますが漢方には?
鈴木 漢方は体全体を考えますからね。そういう意味からいくと、やはり「八味丸」でしょうか。
糖尿病、白内障にもきく
ということは「八味丸」の効能範囲はかなり広いんですね。
鈴木 そうですね。白内障にもきくし、排尿回数の多い人にも効果がある。さっきも申し上げたように、漢方では体のバランスを重視します。これがくずれると主として下半身が弱くなる。よくのぼせ症の人がいますね。こういう症状の人はした が弱い。「八味丸」の常用で力がつくんです。自然の状態にかえりますね。
ニンニクとかクコ、コンフリーなどはどうなんですか。
鈴木 ニンニクは摂取した食物の栄養を全身にまわす、酸性を中性にする、つまり体の毒を中和させる効果があり、確かにいいと思います。コンフリーは薬ではないんです。薬草の許可がおりていない。しかし、分析してみるとかなり栄養価が高いようです。クコも同じですね。しかし、クコを用いてかえって体の調子をくずしておられる方が少なくない。それは、クコをお茶がわりにガブガブ飲んでいるからですね。
水分の取りすぎはよくないんですか。
鈴木 そうですね。たとえばジュース類とかコーラなどをあまり飲むと、水分のとりすぎで腎臓に負担がかかる。病気ではないんだが息切れがする、めまいがするとか血圧の高い人たちがよく来店しますが、症状を聞いて調べてみると、ほとんどが腎臓の機能が弱っている。さらに調べると、水分の摂取量が多いんです。
ヘビなどは。
鈴木 ヘビの油、ハブの腸からとった油などはきわめて神秘的ですね。ニンニクとヘビの油で作ったものに「ホリグロン」という薬がありますが、これは私も毎日服用しています。
マタタビがいい、ということでウイスキーにつけて用いてみたら、塩辛くてとても飲めるものではなかったですね。
鈴木 漢方ではマタタビは使いません。これは「サルの腰掛」がガンに効くというのと同じで民間薬、民間療法の一つでしょうね。「サルの腰掛」は十和田の蔦沼付近にたくさんありますね。これは乾燥させてくだき、煎じて飲めば利尿作用はあるようだが学会では否定しています。抗癌作用はどうか、私にもわからない。
神経痛にきく漢方は。
鈴木 神経痛はハリ、灸でいうツボによく出ますね。これを経絡といいます。病気をしますと、経絡によって神経痛が動く。それによってどこの内臓がやられているか見当がつくんです。経絡というものは研究すると面白い。たとえばたとえば肝臓を通る経絡はノドも通っています。扁桃腺炎にかかったときは、だから肝臓に効き目のある漢方薬を飲むとなおるんです。
漢方薬の種類は?
鈴木 処方にして約百種ですね。漢方では「八味丸」のように、一つの処方をいろいろの病理に使います。だから応用するとなると、百種類しかないが、あらゆる病気につかうことができますね。
塗り薬もありますか
鈴木 漢方は内服薬が主です。水虫なども内服を用いますね。塗り薬は「紫雲膏」一つです。これもいろいろのものに応用できます。
老年期には摂生が一番
定年退職したとたんに体が弱くなって病床につく、といった例をよく聞きますが、老年期の保健対策としては。
鈴木 なんといってもそれはふだんの摂生が一番でしょう。栄養価の高いバランスのとれた食事をとり、適当に休養することですね。よく強精剤を用いられる方がいらっしゃいますが、これも乱用はむしろマイナスです。ホルモンの入ったものよりは、総合的な栄養剤をおとりになったほうがいい。その場しのぎ、そのときだけに効く薬はつつしみたいですね。とにかく体力さえついていれば、病気はあるていど抑えられます。健康管理にうるさい方は、水を飲む量も規制しますよ。一日五合が適量だから、酒を飲んだら水を減らすとか、しかし、ここまでいくと楽しみはなくなる。ふだんから健康に留意することですね。要は…
ところで薬局さんとしての景気はいかがですか。
鈴木 売れ行きは年を追ってふえています。だが、八戸の場合は、店の格差が大きくなってきた。売れ行きといえば、むしろ病院、医院が売っています。薬の消費量の七割は病、医院扱いですから。
どうもありがとうございました。(にこやかな話しぶりである。店でお客さんに接している、そのときの微笑もそうだが、鈴木氏の表情はいつも明るい。人柄がそのまま出ているのだろう。対談はソフトな雰囲気で終始した。話しぶりはきわめて謙虚である。そして造詣が深い。二十余年のキャリアに加え、たくみな、人をそらさない話術。老舗のご主人という感覚とは違う新しさが、この人にはあった。)聞き手は穂積氏

鈴木氏も亡くなった。催眠術をとりいれて人々のお役に立とう。また自己啓発の手段としようの努力の人であったように見える。
人間は誰しも死ぬ。その前に何をしたかが問われる。家業の売薬を通して八戸及び八戸人を眺め、その地域、人々に何を貢献できるかが人生の最大の課題だ。金をどれほど儲けようが、資産を増やそうが、そんなことは何の役にも立たない。
 生まれた土地、育った地に、いや、日本にどれだけの貢献ができたかが問われる。大したことは出来ずとも、道路清掃、街の美化に地道な努力をされた方に感謝するべき。類家地区でその努力をされている山田氏がおられる。報いを求めることなく、朝早く自転車でゴミ、空き缶の類を収集し、いつもにこやか、人間の鑑となる人は方々におられることだろう。しかし、そうした見えない努力は人口に膾炙されることなく、埋もれるために新聞やテレビを賑わすこともない。
人はいつも問われる、人として何を成したかを。生きてる間は若者のためにこそ、老人はいることを思い知ろう。そして、最後のご奉公として児童、生徒を健全に育てる努力をしたいものだ。
昨今は馬鹿げた時代に陥り、幼少な児童、生徒が殺される。これを守るために行政も立ち上がるところもある。また、行政ばかりではない。町内会も安全な登下校をさせるために街頭に立ち、見守り保護する役割を自発的に開始した。
沼津に旅行し、広報沼津は市内各所に設置した拡声器から「子供たちの下校時間になりました。安全に帰宅できるように市民の皆さんのご協力をお願いします」と呼びかける。同様に徘徊者の人相、服装、氏名、年齢を告げ、見つけた人は警察に電話しろと呼びかける。地域、地域でいろいろな工夫がある。沼津市は人口二十一万、八戸より小さい。八戸にも無線か有線放送か知らぬが、このようなタイムリーな情報を伝達できる仕掛けがあるといい。
「先ほどお知らせしました、山田昌夫さんは無事保護されました。市民の皆様のご協力ありがとうございました。こちらは広報沼津です」と、夜の九時に放送があった。
テレビ局もラジオもあるが、地域限定の時宜に応じたお知らせ、緊急報告はこの手の広報活動にはかなわない。市民を守り、次代を担う子供、若者のためにこそ、寒い冬も暑い夏も散歩に行く時間を調整し、子供たちのために街頭に立ち、安心、安全は地域住民の努力と協力からを実践したいもの。

2009年3月20日金曜日

月刊評論の時代、昭和十二年の八戸2


深夜の大塚横丁を探る
酒場とカフェーはいわゆるインテリの鬱憤と見栄の捨てどころとか…
さて最近市内にやたらに跋扈(ばっこ・「跋」は踏む、「扈」は竹やな。大魚が梁やなの中に入らないでおどりこえることから)上を無視して権勢を自由にすること。転じて一般に、勝手気ままにふるまうこと。のさばりはびこること)してきた一杯飲み屋は何をやっているか?記者は一夜大塚横丁群がり、それなりにやつているパイツ屋の夜を探ってみた。
ぞっとしながら
臭いゾ!と見破られてはあたら功をイッキに欠く恐れがあるのでスキー帽に破れオーバーそしてドタ靴を身につけて扨て出るには出たものの、何しろかかる飲み屋への見参は生まれて今が最初だ。記者のそれでなくとも弱い弱い心臓はいささか寒気に縮む思いなきにしもあらずであったが、職責の重かつ大なるに勇を鼓して出掛ける。
とにかく神経を殺してからと、ほど近 い角のおでん屋で熱燗二三本たおして目的地に向かった。時刻は十一時廻ったばかりである。
春の夜霧にうるんだ街を行く…なんて書くと誠に詩的な文句であるにしても、職柄とは言え虎穴に入らずんばの悲壮な?心境を持ってノレンに御休所と染め抜いた小っぽけな飲み屋のガラス戸は手を掛けた。
中にはうす暗い電灯がションぼり低い天井からぶら下がっているだけで客らしい姿は見えない、「熱いところを一本つけてくれよ!」と奥の方へ酔いどれ声よろしく呼ぶと、「いらっしゃい」元気はいいが紙ヤスリみたいなやに艶のない声帯の返事があったと思ったら、五十がらみの薄汚い婆さんがヒョッコリ現れた。
「姐さんはいないのか」がっかりさせるにも程がある。と不満たっぷりな素振りをみせると、婆さんは複雑な表情をして、一寸用達しに出したと弁解した。
「チョ、面白くねえなあ」とつぶやきな がら記者はいっぱしの御得意然としてすましこんで婆さんのつけてくれたお燗をぐい呑みして何かなきかと狼の如く待っていたが、客は無し、女っ気はなし、見切りをつけてサヨナラする。
算盤度胸?
命拾いをした様に外に飛び出してホットしたものの、これからまだ二三軒のさねばならぬ事を思って慄然とした。霧雨はまだやむことなく更けた街の灯をぼかしている。
これも職柄なれば詮もなしと第二の飲み屋へ突貫する。
此処はまた狭い店の中に、カフェーのお古らしいスプリングの利かなくなったボックスがガタガタと三つ四つ並べられてある。
奥まったボックスの一隅に鳥打ち帽子のアンチャンとむっつり小太りあいた姐さんが並んでなべ焼きをつついている。誠にもってランマンたる風景。それが記者の威勢のいい戸のあけっぷりにビックリするかと思いの外、ランマンたる構図のまま「あらいらっしゃい」記者 は初めてなのに十年の知己を迎える如き意味深な上目を使ってニット笑った。
記者も勿論百年の知己の如く「やあ…」と言いながら彼たちの隣の席へ腰をかける。周囲を見回すと安っぽい壁紙に、ショクパン、なべ焼き、ケーキ、定食、等と拙いメニューがチグハグな対照をなして貼られてある。「ほ、ほう。ショクパンとケーキ出来るのかえ?」注文を聞いて行きかけた姐さんの横顔に吹きかけると、「あらそれはご愛敬よ」「ご愛敬?」
それじゃインチキだって言うのかと皮肉ると「何ですか?」賢明なる姐さんには記者の問いが解らぬらしい。
一体飲み屋の規定になっているのか、前の店同様の偉大な徳利を運んできた。
「マア姐さん座れヨ」と傍らに座らして気分の出ないお酌をして貰いながら、向こうのアンチャンに聞こえない低声で「えんぶりに大分儲けたろう」と山をかけると、「大した こともなかったよ」と案外真面目だ。記者ももっともらしい顔をして彼女の耳に口を寄せ「おい、あの若僧帰ったら久しぶりでサービスしろよ」姐さんフフフと意味深な含み笑いする。向こうで例のアンチャン気が揉めると見えて自棄に煙草をプカプカやらかしている。
姐さんに奢った大枚十五銭のナベ焼きが記者の乱入によってフイになるのかと言う訳でもあるまいが、ともあれ内心おかしくなったり気の毒になったり…
それでもこれが四十がらみの苦み走った恐い面相のオッサンで「若僧、邪魔すると承知しねえぞ」とか何とか怒鳴られては、記者だって気味が悪くなって退却せざるを得ないんだが、相手は幸いにして悪っけのなさそうな小柄なアンチャンだ。よし喧嘩出入りになったって歩はこっちのもの…
算盤度胸で記者はボックスにふんぞりかえっていると、とたんに向こうのアンチャンたまりかねたように姐さんに声をかけた。「二階でゆっくり飲まないか」記者の傍らで煙草をふかしていた姐さんの手が横に振られた。
「どうしてダメなんだ」「とてもこの頃やかましいんだよ」記者はとぼけ顔して、そんなに厳しいのかと聞くと、この頃は日に二三度覗きに来るのヨとやりきれないという風情で姐さんうつろなる顔をなさる。
時計を見ると十一時二十分過ぎている。後四十分のタイムしかない。一寸頑張ればあと一息でハラハラする場面になるのだが、それを投げて次の突貫のために惜しくも勘定払って出る。
銘酒のため効き目あらたかなるためか、頭がズキズキ痛い。まことに記者なんどの足を入れるべき場所ではない。最後の一軒を襲うた。そこには客が二人、半纏がけの兄さん連がメートルを揚げている。三十近い姐さんがお酌の手をやめて、うろうろ門口に立っている記者に「入りなさいよ、外ばかりで浮気しないで、たまにはうちでもゆっくり飲んだらいいれせう」なかなかにして弁舌鮮やかな代物である。記者は又も十年の知己にされてしまった。空いている薄汚れたボックスに腰をかけて、偉大なる徳利の銘酒には流石記者も脅威を感じて、そばを注文する。
二人の先客は猥談を交々語って姐さんを刺激するつもりら しいが、百戦錬磨の彼女には流石に焼け石に水だ。あきらめたか二人の酔いどれも去った。さて、独壇場になったわいと時計を見るとすでに残念にも十二時二十分。これじゃ頑張るわけにもいかぬと腰をあげると「あら、もうお帰り、無情だワ」とか何とか姐さんヌカリがない。記者は恰も騙されたかの如き態度で「面白いこともないし時間にもなるから帰るぜ」と腰を上げると、「外は寒いし……
後略 結句何ということもなし、出だしだけの尻切れ原稿。戦前は朝日町、新長横町もなく、この大塚横町あたりが曖昧屋の巣窟のようだ。小中野の女郎屋にも行けぬ、銭のない連中が何か良いことないかいとウロウロしたんだろう。それを相手に鼻の下を伸ばさせたり縮めさせる手練手管の淫売が沢山いたのだろう。
世の中は金と女は仇なりどうぞ仇に廻りあいたい 太田南畝(おおたなんぽ・江戸後期の狂歌師・戯作者。幕臣。名は覃たん。別号、蜀山人・四方赤良)の世界。江戸の昔からこれだもの、人間なんてのは利口にならないもの。
市内中等学校各運動部選手卒業生と本年度選手
地方スポーツ界の華は、何を置いても先ず中等校選手の活躍に○ものおおいが、母校の名誉を担って活躍するその若人も年ごとに、母校を巣立ち実社会に飛び去る。
今年度県南中等各部選手を紹介
八戸中学
野球部
主将 林崎正雄捕手 最上正俊三塁 松尾栄右翼 坂下慶助二塁 植村嘉夫 石木田由弥一塁 中野実遊撃 工藤正義中堅 中島義好左翼 金子良一 田中平治投手 馬場幸四郎 高橋久育 卒業生 阿部久八
柔道部
卒業生 差波直三 三ケ田佐一郎 鈴木貞一 河西大弥     高橋勝人 監督 佐川圭吾
新メンバー
大将 田村徳蔵 副将 笹渡勇人 三将 福田実 吉成武久 先鋒 郷州永八 監督 加藤栄弥
剣道部
卒業生 監督三浦信一(就職)選士久保邦輔(国士舘)槻館陽三(早稲田)広沢安平(慶応)中屋敷広勝(盛鉄)浅山賢二(駒沢)小山田清澄(高船)
本年度メンバー 監督下田孝一 大将 立花左近 副将加藤一夫 中堅三浦政吉 四将近藤政吉 先鋒浪打正 補欠工藤八十寿 同金沢志郎
水泳部
卒業生 主将加藤真平 三村官左衛門 田口貢 清水徹男監督吉田良一 
今年度選手 監督村井宏三郎 主将宮崎松雄 五戸重雄 村田善一 岡部一彦 武田忠雄 篠本茂夫 森清 下斗米永三郎 江口忠吉 溝口清美 島守薫
競技部
卒業生加藤鎮雄(棒高三段) 河口與五郎(槍) 三浦一郎 木村繁夫 広沢専蔵 庭田福右衛門  
新メンバー 主将高島健三(短) 中村弘(槍)石倉鎌吉(中距)橋本隆一郎(長)高橋一郎(長)三浦象二(短)  神秀夫(中)荒井賢治(短)
スケート部 卒業生下斗米徹二(主将)川口與五郎
新メンバー 主将中村弘 藤田仁郎 金沢新太郎 川村弘康 田名部忠太郎 石橋富男 吉田実 沢村 福井 星
商業学校
競技部 卒業生 広田 中崎 泉山 北村 宮崎
新メンバー中居直三郎 佐々木 関野 高橋 馬場 監督関野幸治
水産学校
柔道部 卒業生大島 工藤
続新メンバー 主将若狭龍次郎 副将岩岸五郎 吉田富太郎 佐藤午之助 豊島万之助 柳町松雄 高見佳兵衛 服部弘 桜野倉雄 種市八十吉 榊保蔵 笹川信 伊藤庸

2009年3月19日木曜日

小学生コーラスを日本一に導いた教師・吉田とみえさん1


昭和五十六年十月十日
NHK全国音楽コンクール
図南小学校 日本一
デーリー東北新聞から
日本一の実感ひしひし
NHK学校音楽コンクール最優秀校の図南小
優勝旗、賞状手に受賞報告
昭和五十六年度NHK全国学校音楽コンクール・小学校の部で見事最優秀校に輝いた八戸市立図南小(西村祐治校長、児童数七百二十人)の合唱部員が東京都のNHK会館で行われた表彰式と最優秀校演奏会の大役を立派に果たし、二十六日午後、優勝旗や賞状を手にデーリー東北新聞社を訪れ受賞報告した。
 図南小は今月十日にテレビ放送で行われたNHK全国学校音楽コンクールで青森県としては初の最優秀校を射とめ、二十四日には東京都で行われた表彰式に三十七人の部員が出席。藤田隆君が坂本朝一日本放送協会会長から優勝旗を授与されたほか内閣総理大臣賞、文部大臣奨励賞なども受賞した。
 またこの日は午後からNHKホールで最優秀校演奏会が行われ、図南小は吉田とみえ教諭の指揮のもと組曲東北の賛歌より「南部うまっこ唄」と「冗気に笑え」の二曲を披露、最後にはオーケストラをバックに中、高校の代表と一緒に「青い地球はだれのもの」を合唱した。   
 本社を訪れた下館勝子部長ら七人の合唱部員は「表彰式では緊張しましたが、演秦会ではリラックスできオーケストラの音楽に乗って楽しく歌えました。中学生や高校生と一緒に歌うことができ日本一の実惑がわきました」と喜びでいっぱい。
 なお、この演奏会のもようは来月三日午前十一時から総合テレビで放映されるほか、同じく八日午前八時からはFM放送される。

2009年3月18日水曜日

生涯言論の人、堀川善雄は八戸に文化の大輪を咲かせた


八戸の印刷文化に二人の旗手がいた。一人は昭和十二年、「月刊評論」を興した成田昌彦、もう一人が戦後、「北方春秋」を興した堀川善雄。成田は八中卒の生粋の八戸人。堀川は福島県人。相馬藩士の末裔。
戊辰戦争で奥羽列藩と共に徹底抗戦した会津藩は領地を明け渡し斗南藩として辺境の地、下北半島の開墾に向かう。同じく同盟藩、伊達藩士の多くは北海道移住し旧領を離散、薩摩藩兵との交戦を回避し恭順を示した相馬藩士四百名は帰農し明治四年廃藩置県で田畑購入費五万円の三万円を東京の古川市兵衛(古川財閥の祖)から借り入れ、残り二万は旧藩主相馬季胤が支出。明治七年三万円の借入金の内一万四千円を相馬家が更に負担。
明治三十三年に相馬藩士の家系、掘川勘三郎景虎の息として善雄が誕生。生家貧困なれど学問にて立身(りっしん・社会における自分の地歩を確立すること。一人前になること)せんと知己(ちき・自分の心をよく知っている人。親友。また単に、知人)を頼り県都福島に出る。
ここらは不明な点であるが、誰かが弁護士丹野慶太郎の所で書生を欲しがっている。あるいは、あの人は面倒見がいいので「行ってみたらどうか」と告げたのだろう。
書生に雇ってもらうのだが、そこには一つ年上の阿部義次が書生となっていた。丹野慶太郎弁護士も決して裕福どころではなく、二人は書生部屋の三畳に一つ布団で起居。俗に言う同じ釜の飯を食う仲。丹野は学者肌、弁護の外に当時の司法制度についても研究。阿部と堀川は天下国家を論じるうち、二人とも弁護士になるのもいいが、お前は大学に行き違う分野で身を立てたらどうだと、阿部が言い出す。日本は広い、勉強するなら東京だ、お前、東京に出ろ、俺が丹野先生から頂戴する書生料を仕送りする。お前は俺より頭がいい、だから必ず特待生になれる。学費が不要になるから、俺が送る金で下宿を探せ。お前が卒業するまで、俺は必ず金を送り続けるから。
その時、堀川はただただ頭を下げ続けたことだろう。夢に見る大都会東京。そこに出て勉学に励みたい。しかし銭もなく、あたら田舎で終わるのかの憤懣やるかたないものあり。されど、どうなるものでもないと、日々の生活に埋もれるものだが、一つ布団に犬こっろのようにくるまり眠る友からの申し出で、人は人によって育てられ伸ばされるもの。
かくして、阿部の好意を得て、堀川は明治三十二年早大高等学園文科に合格し、特待生として早大法学部英法科をめでたく卒業。阿部も堀川に男の約束を果たしながら大正十二年独学で司法試験に合格する快挙。
堀川は大正十五年朝日新聞本社編集局入社、各地の支局を廻る内、樺太に出て、鰻屋を経営する店主の娘と結婚。昭和十五年まで朝日新聞社に在籍。その後、中華民国に渡り東亜新報社北京本社の整理部長と外交部長を兼務。十七年、華北新聞協会常務理事を経て十九年六月から終戦まで中華民国華中政務委員会専任委員を務めた。当時の北京には邦人八万人が居住。(内、日本人六万千人、半島人一万九千、台湾人四百人)、この新聞社には戦後作家となった中薗英助(『闇のカーニバル』(第34回日本推理作家協会賞)、『北京飯店旧館にて』(第44回読売文学賞)、『鳥居龍蔵伝』(第22回大佛次郎賞)がいた。
敗戦後、日本は半島、大陸に巨額な投資をし続けた発電所、鉄道などは持ち帰ることが出来ず放置。この設備が朝鮮半島の独立後、大いに役立ったのは間違いない事実。
堀川は続々と日本人が引き揚げるのを横目に、東亞新報を中国人の手で運営できるようにと尽力。言葉は違えど同じ報道の人間、時代、世の中を鋭く見ることは必要と、編集、印刷の総てを伝授し帰国。
その時、中国人たちは堀川の手を握り、「あなただけが本当の人間だった」と涙を流して伝えた。
人間の心は必ず伝わるものだ。会社は雲散霧消し、逃げるごとくに今まで威張っていた日本人の総てが消え去ったなか、ただの一人で、生活の保障もなく、まして命すら危うい、そんな時に、誰が堀川の真似ができよう。
そして帰国、相馬と福島の間を往復しながら生きる道を模索。心の友、阿部の許(福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務)で色々相談、そして岩手新報に職を得る。この当時、海外から帰国した人々三百八十万人とも言われ、住宅事情の悪化、食糧窮乏を招いた。生きるのに皆が必死だった。
堀川がこの岩手新報社の取締役、編集局長の地位を抛って二十五年に八戸に来る。
何故、堀川が八戸に来なければならなかったか。それは、四代目の大久保弥三郎が関係している。北方春秋刊の「大久保弥三郎伝」に次の行あり。大久保は昭和四年、朝鮮を経由し鴨緑江、撫順、奉天、長春、ハルピンと無銭旅行。この時、奉天で朝日新聞の大井二郎さん(当時、朝日新聞支社長―前デーリー東北編集局長)には往復数日お世話になったが、北稜で写した写真が残っている。とある。
この大井二郎を大久保が八戸に呼び寄せた。
そのくだりは以下の通り。
デーリー東北新聞 
中島石蔵さんが私にデーリー東北の話を持ち込んできた。当時二十万の資本金であった。デーリーを青森のリンゴ新聞が百万で買収するというがどんなもんかと。
私はこれから発展する八戸に日刊紙がなくてどうするか、青森で百万出資するというなら、吾等も百万出して暫く静観すべきであろうと主張し、私の意見が採用され百万に増資した。社長の人選も私に委すことにしたので、私は浅石大和氏を推薦した。編集局長に朝日の大井二郎さんを迎えたのも、林俊夫さんを迎えたのも、苦しい資金繰りも私一人でやった。当時の総務課長は中野周一君である。縁あって時事通信で鍛われた才腕を再びデーリーの重役総務局長として振るってもらうことになった。
大井二郎がデーリー東北新聞の紙面に顔を出すのは昭和二十五年二月十四日。発行者、編集印刷人大井二郎から。その前日までは中居與一郎とある。実質的に大井が昭和二十五年二月から編集長として辣腕を振るった。この時、同じ朝日新聞にいて、岩手新報の編集長を務めていた堀川を、大井がデーリー東北に誘ったのだろう。
堀川はこのデーリー東北新聞には一年しか在籍しない。八戸市役所の顧問に転じたとある。
そこで堀川は何をしたか。それは八戸の開発を総合的に考えることであった。
大久保弥三郎伝に、北奥羽経済開発協議会 八戸の発展を考えた時、そのセンターランドの開発なくしては港も活きない。二戸、九戸、鹿角と八戸が提携し行政上の隘路を打開する民間の経済協力体制を結成すべきことを私は主張した。中略 私は夏堀市長を説得し、湯瀬に於いて鹿角、岩手県北の指導者と一堂に会い北奥羽開発協議会の碁石を打った。
デーリー東北新聞の総務部長にした林俊夫氏を北奥羽の専務に推薦したのも私であった。とある。ここで林俊夫の名が出る。(東奥日報刊青森県人名大事典から・明治四十一年生まれ、北奥羽開発に尽力 鶴岡市産、デーリー東北新聞社総務局長、その後北奥羽開発協議会事務局長、昭和二十九年八戸市役所に入る 経済民生部長などを歴任、昭和三十八年から助役 辞職後、八戸市総合振興会副会長、北奥羽開発促進協議会の相談役などを務めた。)後年、林が助役時代、林が考え堀川が書き、熊谷義雄が実行すると言われた。八戸を大きく変えた三人であったと言えよう。
と、いうのも、八戸市の倒産は昭和三十年、この主な原因は馬淵川の三角州の埋め立てと学校の整備で前向きな投資。この三角州に火力発電所などが出て、新産業都市に指定され、急速に財政は再建された。
堀川、林たちは北奥羽開発協議会で、この三角州の開発を決定し邁進。その結果が八戸市の倒産を引き起こすが、奇跡の回復を見せたのだ。
時代を見据え、早めに手を打ったことが港湾整備にともなう新産業の進出だった。
一介(いっかい・わずかなもの。価値のないつまらぬもの)の漁港から工業港へと変身し、それが二百海里による漁業の不振にもかかわらず、八戸が片肺飛行を続けられるのは、ひとえに、この工業港を中心としたエネルギー運搬拠点と鉄鋼などの重産業の振興による。
林も堀川も八戸の良き時代を満喫できたのだ。そして堀川は八戸にガスが必要と熊谷とともに昭和三十一年ガス会社を興す。その実質的企画推進は堀川が担った。そしてその仕事の合間に若人を集め八戸に活字文化の華を咲かせるべく努力。堀川の周りには絶えず郷土愛に燃え、熱い瞳の青年達が各々の意見を張る。それを堀川はじっくりと聞きながら納得させ一つの方向へと導く。若者たちにとって堀川は夢の具現への鍵であった。
当時、八戸には有能な若者たちで満ちていた。東大出の工藤欣一、立教の秀才神山恵介、これらの頭脳が続々と八戸の歴史書を発刊。それが「概説八戸の歴史」五巻で、このエネルギーを迸(ほとばし)らせた基(もとい)となったのが、「北方春秋」であった。
堀川は言論人としての資質を失ってはいなかった。その「北方春秋」を十三号発刊し経済的理由で休刊し、その後を中里進氏が四年後に復刊する。
中里氏はそれを続けるも、タウン誌「アミューズ」へと方向を変更した。そして「アミューズ」は経営者を若手に代えて今日に至る。
堀川の興した活字文化は形を変えてもいまだに八戸市民の支持を得ているのだ。
堀川は昭和四十二年二月二十四日、午前十時、八戸市売市下久根の自宅で死去。福島県相馬市出身、六十七歳、葬儀は三月一日八戸市南宗寺で。喪主は長男浩平氏。昭和二十六年六月、デーリー東北新聞を退社するまで二十六年間を新聞と共に歩んできた。戦後は岩手新報、デーリー東北新聞の論説委員、編集局長を歴任、地域開発と本格的に取り組み反省期に入っていた北奥羽地域開発を軌道に乗せるために努力。このため北奥羽開発協議会の一員として総合的な開発計画の作成にあたったが、これを強力に推進するため二十七年、嘱託として八戸市庁入りし、国民経済の稲葉秀三氏らとともに、三角地帯を中心とした第一次八戸臨海工業地帯建設計画をまとめた。さらに地域開発と関連して都市ガスの必要性を強調、八戸ガス会社設立の推進者となった。三十一年七月、同ガス会社の設立とともに、嘱託として入社したが、その後も豊富な知識を生かして企画人として地域開発に貢献した。
とデーリー東北新聞の記事に訃報。
生涯心の友であった阿部、堀川を新聞人として送り出す基(もとい)となった、優しい心根の男はどのような人生を歩んだかをみよう。
阿部義次 県弁護士会長 明治三十二年三月信夫郡山口村(現、福島市)生まれ 昭和三十七年六月没 信夫郡山口村産、大正元年三月岡山村尋常小学校卒業後、福島市置賜町、丹野慶太郎弁護士の許に書生となり法律の勉強、大正十二年三月十九日、弁護士試験に合格。福島弁護士会に登録。以来、福島市新浜町(新浜公園東隣)で弁護士業務に従事。昭和二十八年四月から三十三年三月まで福島弁護士会長、昭和三十一年四月から三十三年三月まで日弁連理事、昭和三十五年度東北弁連会長を勤め、福島県弁護士会の重鎮としてその発展のために尽力。
又、福島県地方労働委員会長、土地収用委員会長としての功績も大きく、特に只見川の電源開発や滝ダムの土地収用については日夜奔走。佐藤善一郎知事のときに福島県法律顧問。
この阿部の足跡を今井吉之弁護士が、こう記した。
先生の師である丹野慶太郎先生は晩年眼を患ったため、阿部先生は丹野先生の手をひいて裁判所通いをした。丹野先生の着物や袴の世話をしたので、和服のたたみかたは夫人より上手だった。
昭和二十七年福島簡易裁判所から窃盗事件の国選弁護を受任、刑務所(福島市南沢又)に拘留中の被告人と接見のためタクシー代往復千二百円かかったのでその内六百円を国に対して請求する訴訟を提起。しかし、「国選弁護人は裁判所の支給する旅費、日当、宿泊料及び報酬以外に、別に費用の請求をすることはできない」として棄却。しかし、最高裁まで上告。最高裁は「国選弁護人の要するであろう費用等を総て考慮して裁判所は相当に報酬額を決定すべきである」と判示。
昭和三十一年、弁護士会長のとき、福島家庭裁判所庁舎新築問題が発生、県、市、商工会議所等が中心になり国に予算計上運動をするが、らちがあかず、地裁所長から仙台高裁長官に話があって弁護士会にも動いて貰ったほうがよいということになり、長官が先生に逢われて懇請された。先生は県会議長、市会議長、商工会議所会頭らと法務省に陳情に出向いたが、大臣は閣議中で長時間待たされた。帰りの汽車の時刻も迫り、大臣と電話で話をしたいと申し出たところ、牧野良三法務大臣は、弁護士会長とだけ会うと、先生だけ大臣差し回しの車に乗り首相官邸で大臣と面会。三年連続で予算をつけると約した。大臣とは旧知の間柄。約束は果たされ庁舎は完成。
昭和二十七年十月、衆議院選挙、佐藤善一郎候補がトップ当選。ところが選挙違反が出て、K検事は保釈許可が出ても被疑者を保釈しない。裁判所へ提出した起訴状を取り替える暴挙。主任弁護士の先生はK検事を職権濫用罪で告発。A、H先生も共同で告発すると申し出たが「検事相手の事件は火傷すると取り返しがつかなくなるから自分一人でやる」検事正が先生に謝罪し取り下げた。
昭和三十六年、今井が弁護士となり、先生の事務所を手伝うようになり間もなく、汽車往来危険罪の共同弁護をすることになった。先生は当時体調を崩しておられたので、今井が主任弁護士となった。裁判所から公判期日の打ち合わせをしたいというので、先生の予定表を持って出頭するが、公判の日程がビッシリと詰まっていて一ヶ月半以内には期日の空きがない。
主任弁護人(今井)の日程はどうかと訪ねられたが、司法研修所出たての今井は勿論、公判など一つもない。即答も出来たが、調べて連絡すると告げて先生に相談した。
すると先生は病をおして羽織、袴を身につけ裁判長と面会。そしてこう切り出した。
「被告人が弁護士を二人つけたのは、二人共同して弁護して貰いたいからである。第一回期日は先になるが、その後は集中審理に協力する」
経験のない今井は裁判所の訴訟促進をもっともだと思っていたが、先生の一言で目が覚めた。弁護士は被告人の気持ちを思いやることこそ大事だと。この事件は心神衰弱の弁護士の主張が通り、執行が猶予された。
この事件を担当した新人弁護士今井が堀川の娘、澄子さんと結婚。勿論、阿部義次の媒酌による。
そして、堀川が八戸ガス会社管理室長として永眠したとき、葬儀に参加した早稲田大学の友人たちが、堀川の末娘の進学を知って、卒業まで学資を送ることを決めた。そして末娘は早稲田大学に進学。
勿論、その学費の仕送りは実行されましたとも。
人は一人で生きるのではない。他と共に磨かれながら渡世するもの。
堀川は幸せな男だった。心の友、阿部義次、先輩の大井二郎の引き立てで八戸に来れた。そして林俊夫と巡り会い、共に八戸の発展のために尽力する。そして死しては学友たちの温情で末娘の進学を援助してもらえたのだ。
それは勿論、堀川の人間性の大きさに由来するのだろうが、往時の人々には根底に人の情けを感ずるものがあったのだろう。
貧乏苦学生、それでも青雲の志(立身出世して、高位・高官の地位に到ろうとする功名心)が誰の胸底にもあり、そしてそれに応援できる喜びを感じていたのだろう。そして、日本の為、国家のためのナショナリズム(国家、国民主義)が八戸の為となって開花する。阿部義次は福島の為となる訳だ。
現今を生きる我々は、その地域主義すらも忘れているのではなかろうか。堀川、阿部から学ぶことは大きい。

2009年3月17日火曜日

大館村

大館村史
歴代村長
初代小幡茂周 明治23年10月15日退職
二代白井毅一 明治23年1月14日より明治34年9月30日
三代浅水礼次郎 明治34年12月20日より明治38年6月8日
四代前田利見 明治38年11月3日より明治42年11月2日
五代河村稲作 明治42年11月3日より大正11年1月14日
六代遠山景雄 大正11年1月15日より昭和4年11月16日
七代高橋兵作 昭和4年12月4日より昭和7年3月20日在職中没
八代泉山善作 昭和8年12月4日・昭和20年10月27日終戦により公職追放
九代堀込孫市 昭和21年1月23日・昭和22年3月31日 制度改正で退職
十代左舘平太郎 昭和22年4月5日公選最初・昭和26年4月4日
十一代籠田勝 昭和26年4月23日・昭和27年3月8日
十二代佐々木重男 昭和27年4月1日・昭和33年9月10日町村合併で退職

歴代議長
初代高橋藤吉
二代東野源太郎
三代西村利喜蔵
四代堀込孫市
五代新井田一矢

歴代助役
奥寺大七郎
盛坂勝三
橋山治郎
寺井豊三郎
泉山善蔵
木村錠之助
掛端米吉
鈴木幸
中村正次郎
服部弘

歴代収入役
盛 熊次郎
吉島利吉
堺 浩章
河村稲作
泉山善蔵
吉島栄作
盛 麻橘
掛端米吉
東野源太郎
西村利喜蔵
下斗米友太郎
服部弘
山村幸吉

選挙管理委員
委員長 黒沢勝蔵 農業 妙字野場
委員 山子甚四郎 東十日市
   竹子専太郎 新井田石動木
   石橋大八  新井田中町
補充委員 小山助四郎 岩淵
     大西福蔵  松館
     久保梅吉  妙
教育委員
委員長 上田頼石 50歳 新井田
副委員長 高橋芳雄 47歳 新井田字外館
委員 古町増太郎 41歳 新井田字中町
委員 畑中徳蔵 48歳 西十日市
委員 小田真 33歳 真井田字岩淵

農業委員
東山甚四郎 57歳 妙字野場
畑中恵寿男 56歳 西十日市
藤巻倉蔵 53歳 新井田
会長代理 左館重作 59歳 新井田
在家常彦 41歳 松館
小山村治 57歳 岩淵
石橋大八 41歳 新井田
籠田善治 72歳 松館
釜石喜代松 57歳 新井田
武部栄之助 50歳 塩入
上条清太郎 49歳 新井田
分枝由太郎 53歳 妙
委員長 籠田政俊 36歳 松館
梅本栄蔵 65歳 東十日市
石橋孫吉 51歳 新井田
わが郷土大館村が、国家の画期的大事業たる、町村合併促進法ならびに、新市町村建設促進法の制定公布によって、数百年来の本村史に大きな変革をもたらし、七十年来の村自治の境界変更を見るに至ったことは実に感無量なものがある。
 然るに、水産商工都市として、隆々発展の途にある合併市八戸の将来が、必ずや住民の福利をもたらすことを想えば新たなる感激と歓喜を禁じ得ない。
 今や合併に当たり、当村の産業経済、教育文化、通信交通等の諸事業を、現在の状況まで築きあげられた歴代の各理事者、議会議員、村民各位のご苦労に対し深き感謝をささげるものである。この事績を、後世永く伝え、子々孫々に対する激励の一端とし、報恩感謝の念を抱きつつ、ますます郷土の発展振興に寄与せしめたく、この誌の編集を企図した次第である。
 最初この誌の編集にあたり、村長を中心とする八名の編集委員会を組織して着手したのであるが、結局左の諸氏が直接執筆にあたった。即ち、
 一般自治行政の主要事項を村長
 行政の一端は現議長新井田一矢氏
 西十日市の環境衛生を教育長古町増太郎氏
 教育全般については大館中学校長小井田幸哉氏
 写真と校正は小井田氏と大館中学校教諭中村福治氏、
ただ遺憾なことは、合併直前に際し、村当局首脳部中に病患者がいでたるため、村全般にわたり、記述しえなかったことは甚だ残念であり、深くお詫びするところである。されば、本誌は郷土史の続編として発刊いたしたのである。
 更にこの編集が非情におくれ、遂に合併時にわたった為め、予算その他の面で、八戸御当局の多大なるご援助を仰いだことを深謝いたす次第である。遅延ながらこの誌の編集発行にあたり、改めて関係各位に深甚なる謝意を表す。
昭和三十三年九月
 大館村長 佐々木重男
行政
古く大館村の起源を尋ねると、先住民の後をうけて、新井田に城が築かれるまでは、松館部落が文化の発祥地であったといわれる。
 南北朝相対する戦乱の時代になり、根城南部氏の一族新田氏が本村に城を構えて四隣を開拓し、十二代の時、遠野に移封となり(このときから廃城三百余年前)代わって八戸藩の領有地となるに及んで漸次八戸城下(旧八戸町)に移住する者多きを加え遂に昔日の殷賑さは八戸市に移り代わった。
 明治4年廃藩置県の制施かれ、青森県と改称され、同6年郡区を改め第9大区4小区の名称を廃し郡制がしかれ三戸郡に属し、十日市、妙、松館、新井田の4カ村を1小区とし、戸長を置き十日市茶立場に戸長役場が置かれた。
 明治22年町村制実施となり、区内4カ村を併合し、大舘村と改め旧村名は大字名とった(ママ)。役場は新井田横町に移され、開庁のところ昭和3年横町大火に際し、類焼の厄にあい、新井田字坂に仮庁舎を建てて移ったが、昭和26年11月、同所に新庁舎を建築し今日に至った。
 昭和11年6月内務省告示を以って、本村の一部大字新井田が、市街地建築物法適用区域となり、昭和14年泉山村長時代、八戸市との合併問題が台頭し、村会において賛成論に傾くもの多数を数えるにいたり、ここにおいて村民の批判検討するところになるに及んで、結局財政的見地から時期尚早とする世論に傾き、昭和17年ついにこの問題は立ち消えとなった。
 昭和24年1月、八戸市と本村の水利組合間に、八戸市上水道水利権補償契約が成立しやPロア屢現在に及んでいる。
 昭和28年8月、我が国自治行政の画期的大事業たる市町村合併促進法が制定公布を見るに及び、県の合併審議会の計画により、大館村が八戸市に編入合併することになり、県の勧奨により八戸市側との折衝が屡々(しばしば)行われ、当村においても、議会代表、諸団体の長及び学識経験者によって、合併研究協議会が組織され幾度となく協議が重ねられた。この際当村は、基本方針として「合併には異議なきも時期尚早」の点で合併延期をしてきたのである。然るに県が促進法の切れる昭和31年3月、県知事の合併勧告を受けるにいたったが、当村は一向これに応ぜず、ひたすら合併準備のための諸事業を進めた。このとき、国は新町村促進法を制定し、公布をみるに及んで県が益々合併促進に馬力をかけてきた。
 昭和33年、当村は愈々(いよいよ)最終の事業たる新井田小学校の旧校舎改築を計画し、入札着工に及ぶと共に、議会、当局、合併研究協議会の三者会議を持ち、一挙に具体的合併の時期を申し合わせ、来る9月10日を期して合併することを八戸市当局に申し入れた。時恰(あたか)も昭和33年2月28日である。

八戸市上水道
 昭和8年初秋八戸市において上水道市営計画がなされ、調査に着手した。この計画は当村字砥倉、字蟹沢の湧水を水源とするもので、調査の結果確信を得た市当局は昭和11年4月事業計画を市議会に提案し可決された。
 昭和13年八戸市より蟹沢湧水を引水し市営上水道施工を実施したい旨申し入れられたので、この水源を昔より利用耕作している新井田用水普通水利組合(管理者村長泉山善蔵)は対策を協議したが水利権補償案について異論が続出し容易に承諾の気配は見えず、反って村民大会によって決すべしとの声さえ聞くに至った。

2009年3月16日月曜日

八戸水産関係者の屋号と記号

マルハは○の中にハが入っている。これは記号。八戸の記号と屋号を調べた奇特な方が二人。一人は八戸の造船業で記したが小倉要一氏、この人は海運局の検査官で船には明るい。もう一人が越後松助氏、丹念に事跡、伝承を聞き書き湊の話を本にされた。この本も八戸図書館郷土資料室にあり。
このお二方の記したものをまとめて掲載する。
八戸水産関係の屋号の特徴は他人がつけたもので自分でつけたものは少ない。「あだな」のようなもの。公式の場では姓名や艇名を呼んだりしているが、酒席になるとほとんど屋号で呼び合う。それ故に屋号を知らないと話がよくわからない。このあだなは佐々木姓の船主は十六、河村は十五、秋山は十七人もいる。だからこそ屋号が大事。
船に乗り込むと佐々木だらけだ。船主も佐々木、船頭も機関長も漁労長も甲板員も佐々木じゃ誰が誰だかさっぱり判らぬ。しかも同じ湊町居住じゃ、屋号だけが頼りになる。
「おめえはまごすけやのまきだか」「わはしんまちのまきだじゃ」
八戸でまきというのは一族とか縁がある人をもさす。船を新造するとなるとまきは協力する。これが漁民の心意気なのだ。昔「白鯨」という本を読んだ。エイハブ船長が自分の足をもぎとった鯨に復讐をする話だ。船が航海に出るとき、その港の人たちが金を出し合い、船に乗り組む船員の給料や食糧を負担する。その割合に応じて漁獲高から払い戻しがある。
現今の株主の様式だ。投下した資金が沈没や、漁価の下落で思うにまかせぬかも知れぬ。しかし、自分ができない仕事、つまり、婆ァになって小金は貯めたが、大金にはできない。足腰弱くなって働けない人は、これらに出資することで、大金と夢を抱くことが出来る。遠洋まではとても行かれない、鯨の解体は力が無くて足手まといになる人でも、わずかな金を出せば夢が買える。面白い方式だと痛感した。
このような方式は世界共通なのだろう。それが八戸ではまきを中心としたのだろう。
これがまきの造船所で、まきの機械工場でとまきをたどって船が出来上がる仕組みだ。
まきが頼りのために借用証文なんて巻紙は必要ない。まきの人たちの話だけできまる。まきの長は偉大な力を持ち、どんなに行政ががんばっても、まきの長から話が通らないと、たとえ合法でも話はこじれる。まきの大旦那に十分な根回し協力を頼まないと話は円滑に進まない。
あわ     清水庄蔵 漁業 
あわだい   吉田弟吉 漁問屋
いたっこ 秋山  久栄丸 いたっこはイタコ
いたっこかまど  秋山喜一郎 永寿丸
うつぼかまど 信田恒次郎 栄丸 うつぼは九戸で大家のこと
えど    竹の子 建網 昔井戸があった
えもさ   越後右衛門 三島丸
えもさかまど  越後栄次郎 神意丸
えーごろや   大崎市太郎 大伊丸
おだいば    佐藤留吉  有明丸
おおやき  尾崎定吉  双葉丸 大家の称号
おおやきかまど 尾崎徳次郎 双葉丸
おかりや    佐々木 巻き網 義経の家来に家を貸したのでおかり家
おおみや    駒井庄三郎 酒屋
がら      柳谷第吉 久栄丸
がらかまど   柳谷明義 正寿丸
から 柳谷正三 政栄丸 新井田川の干上がりにいたのでカラ
がんてつ 榎本鉄五郎 魚問屋 頑固の鉄五郎、子供は小鉄
かしと     加賀貞三 千鳥丸
かんけ       中村酉松 長寿丸
かまり     安達太郎 安丸
かまりかまど 安達末松 初栄丸
がんべ 河村十三 丸中丸 昔、博打の最中役人に踏み込まれ壁に隠れてまぬがれた
かんでまつ 中村広志 欣栄丸 足が曲がって鍬の台(かんで)に似てることから
かんねばやし 小川貞治 栄邦丸 岩手県観音村出身
がけっこ  小島要吉 好漁丸 舘鼻崖に家あり
きへーや  佐々木喜衛門 七栄丸
きたろー  古川岩松 金比羅丸
きたろーかまど 古川五郎蔵 福神丸
ぎーぎー    関川 出雲丸
ぎーぎーかまど 関川倉吉 船大工
げんごかまど 吉田有作 有漁丸 藩政時代の浜役人源吾に縁
げんと    戸田源三郎 巻き網問屋
ごんた    長谷部金四郎 長善丸
ごんべえや   関川浅冶 大宝丸
こなや   関川乙蔵 隆祥丸 製粉業を上条で営む
こやまん  河村欣次郎 欣栄丸 体が小さいので小山
ごねど 音喜多 みさき丸 吉野屋の裏、日の出屋の所
ごんしちやかまど 尾崎市太郎 漁業 ごん七屋系統
こたっこ  秋山石松 こたっこの石とも言う
ごろべいや 沢井五郎兵衛 漁業
ごんべい  小島まき
こちゃぼ  中村広志 欣栄丸
かまり   安達太郎 安丸
ささっこじま 小島丑松 舘鼻の竹藪に居た
さんべいや  石戸澄子 恒栄丸
さいかち 富田市太郎 富喜丸 さいかちが家の廻りにあった
さいかちかまど  富田富勝 富喜丸
さくみや     清水勘市 大高丸 作衛門
さんきままかまど 角石蔵 湊船大工
さんすけや 船大工
さんしちろうや 魚問屋
しづけんちょう  秋山安雄 宝生丸 
しか 三浦兵衛 宝盛丸 浜須賀の庄屋 三浦兵蔵
しちべいや   越後円次郎 長福丸
しんまち  佐々木又蔵 善宝丸
じんべいや 高橋石太郎 漁業 川の石転んでもじんべいやは転ばない 資産家
しちろ 軒七郎 五十鈴丸 さいかちと養子関係
しゅりや   武部 船頭 汐入から
しらが    宮崎正之助 船頭白銀丸
じんえもん  島脇
じろべいや  越後 二代目えもさの分家
じがね    大坂 長運丸機関長
すも 古川三郎 清宝丸 代々体格良く角力を出す
すけごろうや 宮崎定雄 魚問屋 鮫の女郎屋経営
そーだ     佐々木熊次郎 惣宝丸
そーすけかまど 清水兼蔵 清栄丸
そしと     河村清蔵 惣宝丸
そしとかまど 河村正太郎 汐見丸
そばがら 雫石 栄丸船頭 がんべと同じで博打の手入れの際そばがらに隠れた
そーすけや  白銀湯経営
たむかい   吉田久蔵 田向居住
たてばかまど 榊小一郎 漁祥丸 湊舘鼻
たたみや   佐々木惣一 七栄丸 先代畳屋
たかへえかまど 大高明治 大鵬丸
たか     関川松太郎 共進丸 女房の名
ちゃぼ      中村亥之松 漁業
ちょうしちかまど 大坂由太郎 長久丸
ちょうべいや   三栄丸乗り組み
てらこうじ 佐々木まさ 八幡丸 白銀寺小路
でんしろう 小島留次郎 志和丸
てんぐー  関川石太郎 あさひ丸
でんじろう 大山徳次郎 伝宝丸 伝次郎
とんだち 佐々木利雄 万歳丸 武士をとんだちと呼んだ
とーすけかまど  古川寅蔵 鉄工所
たきや      大久保弥三郎 船具
なしのき     佐々木弁次郎 定盤丸 
ねぎしろ     熊野福三郎 明神丸
のそけ      佐々木 漁業
はづれっこ     榊福三郎 
ばった      岩崎福三郎 水車の音
はまや 溝口鉄也 はまかぜ 下条の浜風のあたるところに居住
へーしちや   榎本ちよ 富士丸 平七屋より
べっとーかまど 高橋宗吉 光安丸
ほーがん   まきあみ 九郎判官から
まごべいや  秋山熊次郎 成田丸
まごさく   五戸清蔵 宝福丸 大沢孫作
まごさくかまど 五戸岩吉
まごすけや   佐々木孫蔵 喜宝丸
まごすけやかまど 佐々木孫一 喜宝丸
まごじゅうろう  畑中栄吉 宝幸丸
まつえもん    島下庫松 三島丸
まんじょうや 久保保三 宝漁丸 先祖に萬蔵
まんじゅうや 大坂万吉 漁寿丸
みさこ    三戸榮太郎 イカ船
もへ     宮崎亀吉 長明丸
もへかまど  宮崎八太郎 長運丸
もぢゃかまど 佐々木弥一郎 専宝丸 もちを配るのでもぢゃ
もんちや   高橋清左右衛門 神海丸
やきば    川口石松 漁業
やへーや   関川弥兵衛 小中野鶴亀湯
やまのした  佐々木弥一郎 専宝丸
やま    柳谷吉太郎 錦栄丸 
よけや   鈴木興吉 興助屋から
やすみや  河村興助 魚問屋で安くみたから
よかめや  磯谷市太郎 北越丸 四川目出身
りさぶろう 角市三郎 船大工
やなぎ   荒川芳雄 栄久丸

2009年3月15日日曜日

検証 白銀大火 これは人災、放火犯は懲役十五年 続


八戸消防本部へ行った。大火はもう二度と発生しないのではないかと思ったからだ。その理由は①白銀大火は台風四号の通過時に重なった。②当時の家屋と現在では外壁に不燃材が用いられている。③白銀大火は停電で水道の水(消火栓)がポンプで送られなかった。④消防能力の向上。
ところが本部は発生しないと断言はできないという。古い家屋が密集している場がいまだにある。特に小中野地区、陸奥湊地区は注意を要するとのこと。言われてみると旧市内にも木造の外壁の家を見る。トタンで囲ったような家もあり、観点を変えるとまだまだ安心はできないのかも。
 しかしながら、消防車の能力は格段に向上したそうだ。現場に到着してすぐ放水できる。前は、圧力を高める時間を要したそうだ。
技術の向上が火事を防ぐ役に立つ。
当時の消防車数は二十九台、現在は八十六台、広域になったので消防署、分遣所も増加。当然消火栓数も増えた。初期消火が重要で、昨今は家庭でも小型消火器を備える家も増えたがテンプラ鍋に火が入ると気が動転、あらぬことをしがちだが、あせらずあわてず消火せよ。火事と救急は一一九だが、先ず火の元用心が江戸の昔から大事なのは変わらない。消防本部の資料に海上自衛隊が給水車一両、化学消防車二両、消防車一両が出場したとある。水産高校付近には米軍の燃料基地があったそうだ。現在はないとのこと。思わぬところに危険なもの、鉄道貨物車にも危険物、爆発可燃物を運ぶものもあり、危険は変な形で増大しているのかも。さて、時系列で大火を検証。
白銀大火 前日に怪電話
デーリー東北新聞
今晩家を……て一家を皆殺しに
十七、八歳? キンキンした声で
約千世帯を焼き尽くした八戸市白銀町大火の原因について八戸署は当夜の状況と過去の一連の放火事件地域の中心が出火場所と推定されることなどから、放火の線も濃厚だとみて捜査を続けている。大火前日に出火場所から西側約百米にある煮干し販売業安保与作さん(五十)方へ「一家皆殺しにする…」と怪電話があった事実がわかり、この電話とこれまでの放火、そして今度の大火が関連あるのではないかと地元民たちは言っている。
「おぼえない」煮干し屋さん語る
怪電話のあったのは大火前日日曜日の二十八日午前九時ころ、このとき安保さんの長女よし子ちゃん(八歳)・湊小学校三年が電話をとった。(安保さん夫婦は陸奥湊駅前で早朝から煮干し販売しているので電話に出ることがこれまでも多かった)電話を聞いたよし子ちゃんが「おっかない」と丁度家にいた安保さんを呼び、安保さんが代わって電話口に出た。電話の主はキンキンとかん高い中学生かそれより少し上の十七、八らしい男とも女ともとれるような声で「今晩十二時に家を…て(よく聞きとれず)一家を皆殺しにしてやる」と言い電話を切った。この電話より約十五分前にも電話があり、安保さんが出ると相手はただ「あっ、間違った」と切った。二回の電話の声は似ていたが安保さんは長男(高校生)か次男(中学生)の友人がいたずらしたのだろうと思ったと言っている。
その後家族に聞いても知らないというので」、安保さん一家は恐ろしくなり、その夜九時すぎ一一○番に通報した。その夜は私服警官と白銀防犯協会員が警戒したがなにごともなかった。同夜は十時ごろから十二時ごろまでぱらぱら程度の雨が降った。
翌二十九日安保さん夫婦は商売を休んで家にたてこもった。そして同夜十一時五十分ころ近くでの出火となったわけだが安保さん一家は怪電話とこの火事と関連があるのではないかと言っている。安保さん一家は人に恨みを買うようなことは全然なく、電話の声にも聞き覚えがないという。安保さんの家は湊町大沢片平の道路南側で、大火で焼けた同町内の若狭建具店から湊町寄りに八軒目、①出火場所と推定されている大沢片平二六の漁船員清水留吉さん(六六)方物置小屋付近から約百米のところ②電話加入表示番号札のある玄関は道路から少し入って湊町側。安保さん方の事情を知った者のいたずらか、単に電話番号簿で調べ出したのか③二回の電話の声が似ており④今夜なになにしてというのが放火してを意味していたのではないか…などから、付近の人たちも大火と怪電話を結びつけて考え、もし放火によるものだとしたら一日も早く放火魔をとらえてくれるように捜査当局に強く望んでいる。
…は放火?
安保与作さんの話、幸い火事では焼けなかったが、人に恨まれるようなことはしていない。怪電話の声はキンキンしていた。電話があってから恐ろしくて仕事に出られず、女房と二人とも仕事を休んだ。「家をなんとかして…」というのは火をつけるとか焼くとかの意味ではないかと思っている。
火災保険加入ごく少数
きょうから支払う
八戸市白銀町大火被災者の火災保険金支払いはきょう一日から三日間白銀小学校で始まる。支払いに先立って三十一日八戸損害保険協和会長石沢清氏は同校を訪問、同地区の保険額その他について次のように語った。
白銀地区は火災保険加入率の低い地域で、こんど保険十八社から支払われるには約百世帯三千万程度だ。このうち同一人の重複加入もあり、実質的には被災者の一割にもみたないと思われ、世帯当たりでは三十万内外になる見込みだ。
支払い日程は一日午後一時から四時まで、二日午前九時から午後四時まで、三日は午前九時より正午まで。
こんどは小中野に放火男現れる
デーリー東北新聞昭和三十六年七月十五日
三人で追跡捕らえる
鮫の漁船員犯行見られ未遂に
放火と目されている八戸市白銀町の大火から半月。その前の一連の放火事件とともに八戸署は必死の捜査を続けているが、そうしたまっただなかで、また放火未遂事件が起こった。今度は河岸?が変わって小中野町の中心地。しかしこの犯人だけは悪運もなくあっさりつかまった。
マキに火つける
十四日午前一時半ころ八戸市小中野新丁、煙突掃除業野田真三美さん(三三)方裏が現場。その時刻野田さんは寝苦しさからフトンを抜け出て台所でお茶を飲んでいた。家の中は真っ暗だったが、
外は隣家の門灯で薄明るい。横の路地をはいいてくる足音がした。酔っぱらいなどが小用をたしにくるのはしょっちゅうなので別段気にもとめないでいたが、現れた男が目の前の軒下にしゃがんだので気取られないようにして見ていた。軒下には取り外したストーブの上にたきつけ用のマキを入れたバケツが置いてある。男はあたりをうかがいながら素早くポケットから小さなものを取り出した。マッチをする音が数回聞こえ、間もなくシューという音とともにメラメラとバケツが燃え上がった。これには野田さんもビックリした。「コラー」とどなって表へ飛び出すと男はあわてて一目散。逃げ足が早くあやうく逃げられるところだったが、ちょうど通りかかった二人の男たちといっしょに追いかけ、八戸署小中野巡査部長派出所近くの旅館の門の中に隠れているのをつかめた。そのまま同派出所へ突きだし、間もなく本署へ送られた。
男は八戸市鮫町字大久喜下柏木森、漁船員高橋文夫(二四)。調べに対して付近のバーで酒を飲んでいたこと、放火の動機はないこと、またこれ以外に放火をやったことがないことなどを自供しているが、犯行がきわめて大胆なことから、同署では同日午後本格的な調べを始めた。
高橋は少年時代に盗み、銃砲刀剣類等所持取り締まり令違反で二度の前歴がある。家族は父親が十数年前に死亡し、祖母、母と兄弟が五人。兄は北洋サケ・マス漁へ出漁中で、文夫はことし一月以来失業して家で畑仕事などを手伝っていた。家族の話では五月初めに家を出たまま帰らず、イカ釣りにでも出ているだろうと思っていたという。
嶋中八戸署長は同日午後記者会見し、①放火の動機やこれ以外の犯行についてはまだわからない②過去の一連の放火事件などについては頑強に否定している③一般市民の協力により未遂で逮捕できたのは幸いだった。こんごも捜査には市民の協力を強くお願いしたいと語った。
逃げ足早かった
野田さんの話
茶を飲んでいると窓越しに男の顔が見えたので、なにしにきたんだろうと思っていたところ、男はタバコをふかしながら周囲をキョロキョロ落ち着かない様子で見回していました。そのうち腰をかがめたので横のガラス戸からのぞくと右手に紙くずを持ち火をつけてバケツに押し込んだんです。びっくりしてあわてて丹前を着、いきなりガラスをあけてつかまえようとしたんですが、その逃げ足の早いこと……。とにかく応援してつかまえてもらってよかったですよ。
連続放火、強く否認
大胆な手口、八警、きびしく追求
十四日午後六時までの調べでわかったことは、高橋は去年十一月上旬から十二月末まで八戸市鮫町忍町佐藤留蔵さんのメヌケ刺し網チャーター船栄久丸(五○トン)に乗り組み北洋へ出漁、その後五月初めまで自宅で畑仕事の手伝いなどをしていたが、夜出歩くこともしばしばで、この間元の雇い主佐藤さん方の自転車を盗むなど素行はよくなかった。五月上旬からは家を出て再び漁船に乗り組むようになったが、同じ船に長く乗ることはなく転々と船をかえ、逮捕前も同市湊町下河原、榎本常太郎さん所有イカ釣り船「第八常丸」で二日間働いただけだった。
八戸署の追求に対し高橋は野田さん方の放火以外は強く否定しているが、同署では①野田さん方の放火未遂の動機がはっきりせず累犯の可能性が十分見られる②手口が初めてにしては大胆すぎるなど以前の犯行も数件あるのではないかと厳しく追及している。また白銀大火当時の行動もとくに重視して調べているが、いまのところはっきりしたアリバイは立っていない。
尚、同署では白銀連続放火の容疑者(現住所不明)として一人を割り出し指名手配をしている。
似た男が捜査線に浮かんだことがある
神刑事部長談
東北管区警察局での東北六県刑事課長・捜査課長会議に出席している県警本部神刑事部長は、十四日放火現行犯でつかまった漁船員高橋文夫と八戸大火の放火容疑について次のように語った。
事件報告を聞いたばかりで、高橋が八戸大火の放 火容疑者か、どうかはこれからの調べの結果を待たなければなんとも言えない。しかし今まで数回発生した八戸地区の放火事件捜査の際、高橋という名はわからなかったが、今度逮捕された高橋の人相、風体に非常に似ていた人間が浮かんだことがあり、捜査を続けていた。したがって今後の取り締まりはこの線に集中し大火の放火犯人割り出しに全力をあげる。

デーリー東北新聞六月十六日
大火と無関係
小中野放火の高橋
当夜は船にいた
十四日午前一時半ごろ八戸市小中野新丁、煙突掃除業野田真三美(三三)方裏手に放火したところを見つかりつかまった同市鮫町大久喜字下柏木森、漁船員高橋文夫(二五)について八戸署は白銀大火及び昨年三月からの連続十二回の放火、同未遂事件との関連を追及していたが、十五日午後になって大火当時のアリバイが成立、大火とは関係がないことがはっきりした。自供によると高橋は大火当日の朝、同市鮫町末広町、漁業安達末松さん所有の第八初栄丸(三九トン)に雇われ夕方まで同船で働いた後、白銀大火出火当時は船内で同僚四、五人とトランプなどしていたという。同署ではただちに当時の乗組員を参考人として呼び事情を聞いたがいずれも高橋の自供を裏づけた。なお、連続放火事件については一応現在有力容疑者として鮫町の漁船員某(二四)・北海道沖に出漁中を同署で割り出し別個に裏づけを行っているが、高橋の手口から今度がはじめてとはみられないのでなお余罪追及を行うとしている。
同僚も一緒にいたとしている
第八初栄丸船主安達さんの話
大火当夜うちの船に乗っていたと聞いたので乗組員を呼んで聞いたところ高橋は確かに一緒にいたと言っていた。高橋は二十九日から五月二日までしか働かずそれっきり船に姿をみせなかったので性格もよくわからない。
高橋連続放火を自供
デーリー東北新聞六月十七日
去年暮れから六件
白銀で
他の七件は否認
八戸市小中野町の放火未遂犯が、ついに白銀連続放火の一部を自供した。
八戸署はさる十四日午前一時半ごろ同市小中野 町新丁、煙突掃除業野田真三美さん(三三)方裏に放火した同市鮫町大久喜生まれ、漁船員高橋文夫(二四)を去年から同市でおきている連続放火に関係あるものとして鋭く追求していたが、高橋は十六日夜になってついに隠しきれず、ことし一月五日から二月二十日までに同市白銀町大沢片平、同三島下地区で五件、去年暮れ同町砂森で一件の放火働いたことを自供した。
去年からことしにかけて白銀町で起きた連続放火事件は大火を含め去年六件今年七件となっているが、去年の分と今年二月二十二日夜十一時十分ごろ同町三島下、漁業島下幸吉さん(七三)方の麦わらニオの放火については否認している。
この自供のうち一月九日の同三島下、とうふ製造業松尾与三郎さん(七九)方放火のさいは与三郎さんの孫中学二年生(一三)と裏手の佐々木与三郎さんの長女キクさん(三九)に姿を見られているが、去年四月五日早朝の放火のさい女魚行商二人が目撃した「犯人らしい男」の風体も高橋とひどく似ており、同署では手口が似ていることとともに去年の放火事件も高橋に間違いないものとみて引き続き調べている。
白銀大火は別人
白銀大火については高橋のアリバイがくずせず高橋の犯行でないことが決定的とみられるので、この容疑者割り出しには特捜班三十人を動員して聞き込みに全力を挙げている。高橋が自供した六件の放火、同未遂事件は次の通り。
◇ 一月五日夜九時ごろ同町大沢片平、海産物商藤井正次さん(五三)方の台所石油コンロのそばにかけてあったタオル五本をのせて放火。(自然消火)
◇ 同夜十時四十分ごろ藤井さん方裏手の農業清水モトさん(四九)方住居から約二十米離れた豚小屋に、そばにおいてあったワラぶとんを二つ折りにして投げ入れ紙切れを使って放火。
◇ 一月九日夜九時ころ、同町三島下、とうふ製造業松尾与三郎さん(七九)方裏十米の便所の前においた竹製背負いカゴにワラ束を置いて放火。(自然消火)
◇ 一月十七日夜七時四十分ごろ三島下、漁船員佐々木与三郎さん(六二)方の麦ワラニオに放火。
◇ 二月二十日夜同町大沢片平建具商佐々木藤吉郎さん(三八)方の便所前で紙くずに火をつけたが燃え上がらず自然消火。
◇ このほかメヌケ刺し網船栄久丸で北洋出漁帰港直後(十二月下旬)同町砂森、八戸水産高校裏手のワラニオに放火したと自供するが、届け出がなかったので未確認。
環境に恵まれずうっぷん晴らしの放火?
自供しただけで六件の放火のあと、白銀大火で市民が不安におののいているさなか、発見の危険をおかしてまで」またも放火した高橋文夫はどんな男だろうか。高橋は犯行の動機について「白銀町で地元の漁船員になぐられ、仕返しに家を焼いてやろうと思った」と言い「家庭的に恵まれずやけくそになっていた」とも言っているが、八戸署の係員は「恵まれぬ環境に育った者の劣等感、社会に対する反抗心、酒と映画にしか楽しみを見いだせぬ漁船員生活の味気なさ、これらが複雑にまじりあって放火にはけ口を見いだしたのが本当のところだろう」といい、大火当時同じ近海モーカ船第八初栄丸で働いた同僚は「あれが放火犯とは信じられない。まじめに働いたし、おとなしい男だ」と言う。しかしその反面、一つの船に長く働くことはなく転々と船を変えて歩いたり、金につまると盗みをしたりの行動も再三で、物事にあきっぽく、衝動性が強い一面もあり、これが孤独感をさらに強め放火に走らせたといえそうだ。
高橋は六人兄弟の二番目、父は終戦直前に病死、現在祖母(七六)母(五三)と妹、弟が家におり、兄(二八)は北洋サケ・マス漁へ出漁中だ。中学校は市立南浜中。成績は下位で、とくに目立つこともない生徒だったが、そのころから盗みぐせがあった。学校を出てから盗みなどで八戸署に補導されたこともある。
親類の某さんの話では家にいるときは別に変わったところもなく畑仕事など懸命に働いていたという。ただ精神年齢が幼稚な所があり、成人してからも時々普通人とはちょっと別な言動をしていたそうだ。家庭環境に恵まれなかったことは事実だが、それが原因でやけくそになったり、うっぷん晴らしに火をつけて歩いたなどとは思ってもいなかったと語っている。
白銀町大火は失火
デーリー東北新聞七月五日
二四歳の大工逮捕
強風さなか 小屋にマッチ捨てる
さる五月二十九日夜の八戸市白銀町大火の原因 を調べていた八戸署は、四日午前八時、重要参考人として同市小中野町中道、大工掛端孝二(二四)に任意出頭を求め調べた結果、同夜九時過ぎ、当夜出火場所の白銀町大沢片平、水産加工業清水留吉さん(六八)方の物置小屋でタバコを吸ったさいマッチのもえさしを捨てたことを自供したので同十時三十五分重失火罪容疑で逮捕状を執行、身柄を同署に留置した。
自供によると、掛端は去年五月、出火場所から約十五米はなれた水産加工業荒川ツナさん(七二)方=類焼=にムコ入りし、ツナさんの孫経子さん(二四)と結婚したが、最初の一ヶ月に四千五百円入れただけであとは働いた金を全部自分の酒代にあてるなど素行がおさまらず、ツナさんや経子さんのおじ荒川小次郎さんのため別居させられた。その後掛端は東京へ出て働いたが経子さんと子供(一歳)が忘れられず、ヨリを戻すため五月二十三日帰八、二十七日夜同家をたずねて経子さんを連れ出そうと機をうかがううち、タバコを吸いたくなり、清水さん方物置小屋でマッチでタバコに火をつけたが、うっかりしてマッチの軸木が消えないまま炭俵近くに投げ捨てたという。掛端はすぐ小屋を出たが間もなく出火、自分の投げたマッチの燃えさしが原因と気づいたがおそろしくなり、その場から逃げたと言っている。
引き続き動機追及
放火も考えられる
同署は一応自供に基づき重過失罪容疑で掛端を逮捕したが復縁を断られた腹いせに放火したとも考えられるので、引き続き動機を追及している。
マークしていた
神刑事部長 苦しかった捜査
四日夜八時来八した県警本部神刑事部長は夜十一時半記者会見、次のように語った。掛端は大火直後から有力な参考人として捜査線上に浮かんだのでマークし続けていた。このほど更に確証を得たので自供には確信があった。とにかく苦しい捜査だった。

デーリー東北新聞七月七日
失火の線濃くなる
白銀大火 掛端、供述の不自然さ薄らぐ
八戸市白銀大火の重失火容疑者、同市小中野町中道、大工掛端孝二(二四)を調べている八戸署は、五日に続いて六日もこれまでの自供の疑問点と大火当夜の掛端の行動の細部について追求した。
同署でいままで聞きこんでいる情報は①大火当夜八時から八時半まで火元から道路側に約五十米離れた雑貨商花生繁蔵さん方で焼酎を飲んだ(花生さんの証言)②同十時ごろ出火現場近くをうろついていた(付近の荒川ツナさんの証言)③同十一時五十分の出火時には現場近くにいて「火事だ」と大声で叫んでいた(三島上、漁業磯谷福松さんの証言)④延焼中の午前一時ころ風上二百米の湊町大沢、雑貨商柏商店でタバコを買った(柏さん証言)などで、掛端が午後八時ごろから午前一時ごろまで付近にいたことはほぼ間違いないと見ており、また掛端の自供もこれを裏書きしているが、かんじんの午後十時から出火の十一時五十分までの行動がアイマイだったので、この点に重点をおいて追求した結果、掛端は「出火直前まで清水留吉さん方物置小屋の中にいた」と自供、またこの間退屈しのぎにタバコを三本ほど吸ったことがはっきりした。
何故小屋の中に一時間数十分いたのかまだ判っていないが、当初の供述の不自然さはしだいになくなり、タバコの吸い殻による出火ではないかとみられるに至った。
デーリー東北新聞七月十三日
白銀大火掛端、放火自供
妻と会いたい一心で
追求された行動時間
五月二十九日夜の白銀大火の重失火容疑で七月四日八戸署に逮捕された八戸市小中野町中道、大工掛端孝二(二四)は最初放火説を頑強に否認していたが、自供に不自然なところがあり、同署でその点を追求していたところ、十一日午後「火元の清水留吉さん方物置小屋の中にあった炭スゴに火をつけた」と放火を認めた。
犯行の動機は、別居中の妻経子さん(二四)と子供に会いたい一心さからで、別居させた経子させた経子さんの祖母荒川ツナさんやおじの荒川小次郎さんを恨んでのものではなかった。掛端は別居後東京で働いていたが経子さんと子供のことが忘れられず、三人そろって東京で暮らそうと決心、五月二十三日帰ってきた。しかし復縁の話が失敗に終わり掛端は東京行きの切符を二枚持って再び経子さんの家を訪ねた。ぜひ会うつもりだったが、経子さんは一歩も外へ出てこない。次第にムシャクシャしてきた掛端の頭にふと一つの考えが浮かんだ。だれもいない清水さん方の小屋に火をつけたら、その騒ぎで出てくるかもしれない。そのときに話をしよう。
真っ暗な小屋の中で手さぐりで炭スゴを引きちぎり、マッチで火をつけた。すぐ外へ飛び出し「火事だ、火事だ」と叫んだが、経子さんはおろか、 近所からも一人も出てこなかった。ものすごい風だけが音を立てていた。心配になった掛端は小屋の中をのぞいてみた。中はもう真っ赤に燃え上がり、手のつけようがなかった。急に恐ろしくなった掛端はそのまま湊町方面へ走ったが、経子さんたちが心配になりまた現場へ引き返した。
以上が放火の自供のあらましだが、捜査当局が初めの失火の自供のうち最も不自然な点として追求したのは、出火当時の掛端の行動時間のあいまいさだった。掛端は最初掛端は小屋の中にタバコの吸い殻を捨ててからそこを出て、約二百米ほど湊町方面へ歩いたうえ、さらに現場へ戻ったらもう火の手が上がっていたと言っていた。しかしタバコ火でわずか十分たらずの内に小屋が燃えあがるということはあまりにも不自然。この点を深く追求されてついに隠しきれず放火を自供した。




昭和三十六年七月二十七日
デーリー東北新聞
掛端起訴される
白銀大火事件
現住建造物放火で
自供と証拠など一致
八戸市白銀大火の放火容疑者が起訴された。青森地検八戸支部はさきに放火容疑で八戸署から追送検された同市小中野中道、大工掛端孝二を拘留期限満了の二十六日午後三時半「現住建造物放火」で起訴した。

白銀大火 放火か? 強制自白か?
デーリー東北新聞より
八戸市民の異常な関心の中で開かれた白銀大火の放火容疑者、同市小中野町中道、大工掛端孝二(二四)の第一回公判で、掛端は放火はもちろん
火元とみられる物置小屋に一歩も足を踏み入れなかったと起訴事実を真っ向から否認、八戸署および地検八戸支部での取り調べのさいに示した「素直さ」「悔悟」の態度を百八十度転回させ、掛端の犯行と信じて疑わなかった人たちの憤りを買った。
どういう訳か?八戸拘置所では起訴から公判までの一ヶ月、心理的動揺をおそれて他の収容者とは全然接触させなかったが、その間あまりの罪の大きさにおそれをなしたのか?それとも掛端の言う通り捜査当局による文字通りの「強制自白」なのか?にわかにクローズ・アップされてきた大火当時のアリバイを中心に弁護、検察双方の主張とその矛盾点を探ってみよう。
夜十時過ぎは現場に居通し
検察側
五月二十九日午後八時~同十時
・掛端は二十七日に続いて、この日も別れた内妻荒川経子さん(二三)・白銀町大沢片平・とよりを戻そうと経子さんの実家に向かい、途中八時から八時半まで同町雑貨商花生繁蔵さん方で酒を飲んだ。その後荒川さん方前まで入る勇気がないままブラブラし、十時ごろ近くのAさん方に「お宅の便所が風で倒れた」と知らせた(実際は倒れていなかった。時刻は時計が鳴ったから正確とAさんは証言)
三十日午前二時まで
掛端は事情を知るAさん方で経子さんに掛端が来ていることを知らせるものと期待した(らしい)が、いくら待っても経子さんが外出する様子がないので、近くの清水留吉さん方物置小屋に入りタバコ三本ほどを吸ったのち同十一時五十分放火、湊町方面へ逃げた。しかしヤジ馬に怪しまれることを恐れ、引き返し午前零時ころ八戸線の線路をうろついていつところを知人の三島上、漁業Sさんに見られた(Sさんの証言)。さらに延焼中の午前一時ころには火元の風上二百米の湊大沢、雑貨商K商店に立ち寄りタバコを買った。
一方掛端の自宅(小中野中道)では二十九日午後八時ごろ父親三之助さんが焼酎を飲んで就寝、すぐあと母親も寝た。午前二時ころ隣家の人から「白銀が火事だ」と起こされた時、母親がカーテンを隔てた隣室をのぞいたところ掛端のフトンはたたんだままで掛端の姿はなかった(母親の証言)。
家で寝ていた
弁護側
二十九日午後八時~同十時
午後八時半まで花生商店で酒を飲んだあと荒川さん方前でしばらく経子さんの外出を待ったことは検察側の調べ通りだが、その後まっすぐ小中野の自宅へ帰った。帰宅時刻は十時ごろだった。掛端はこの点について最初強硬に言い張ったが相手にされず、問いつめられて失火を自供、さらに放火まで自供させられた。また両親とも最初磐城セメントの十時のサイレンを聞いたころ掛端が帰ってきた(姿を見たのか気配でわかったのかは不明)と供述したが、全市停電でサイレンが鳴るはずがない(磐城セメントは自家発電で鳴らしたという)と取り上げられなかった。
三十日午前六時まで
掛端は十時帰宅後、すぐに就寝、朝まで白銀大火を知らなかった(午前二時両親が隣家から白銀大火を教えられたとき掛端がいなかったという検察側調書についてはハッキリした反論はない)。
以上の双方の主張のなかでまず第一に「掛端が現場付近にいて放火できる状況にあったかなかったか」を決める最大の問題点は、二十九日午後十時~三十日午前二時の掛端の行動だが、一見してわかるようにその対立点は二十九日午後十時に集中的に現れている。一方は現場で「便所が倒れた」とAさんに話しかけ一方では「家に帰って寝た」ことになっており、同時刻に掛端が二㌔も離れた白銀町と小中野に現れている。錯覚でもないかぎりどちらかが嘘の証言をしていることは明らかだが、その信憑性はどうだろうか?
それについて八戸警察署須藤刑事一係長は「掛端の供述は問題外として、Aさんと掛端の両親の証言のどちらが信用できるかと言えば、当然Aさんだ。両親が子をかばうのはあたりまえだが、ウラミもないAさんがなにを好きこのんでウソの証言をするだろうか」と言う。
もとおも浅石弁護人(私撰・既報国選は誤り)のいうように「磐城セメントのサイレンを停電だから鳴るはずがないと取り上げず」両親の最初の供述を調書に書かない捜査当局に多少のミスがないとは言えず、これが弁護側の「両親の供述調書に信憑性なし」との主張の根拠になっている。
弁護側の言う通り、掛端が十時に帰宅し就寝、朝まで白銀大火を知らずにいたのが真実とすれば、三十日午前零時十分ごろ八戸線線路上をうろついていたというSさんの証言、午前一時タバコを買ったというK商店の証言、午前二時ごろ隣家の人から「白銀が火事だ」と起こされ隣室をのぞいたところ「孝二はまだ帰っていなかった」という母親の供述(検察側)はまったくウソなのか…という疑問が浮かぶ。
また掛端は清水留吉さん方の物置小屋の薪、炭俵などの位置について詳細に供述しているが、この供述は清水さんの説明に完全に一致、明らかに物置小屋に入らなければわからない状況だったという。しかもこの供述を取った取り調べ官は小屋のなかの物品配置状況を全く知らず、供述と実況見分調書とをつきあわせてみて初めて一致していることがわかったほどだという。「これだけの証言事実が我々の手で作りあげられるものではない。否認するにしても、これはいかにもまずい否認の仕方だ」(嶋中八戸署長の話)というように、弁護側の反論は客観的にかなり矛盾の多いものであることは否定できないようだ。
「強制自白」の反論を予期して八戸署は掛端の自供の一切を録音し送検しているが、今後の公判の過程で両者の言い分の矛盾点は徐々に明らかにされてゆくにちがいない。(T)


掛端有利証言えられず
サイレンは鳴ったデーリー東北新聞
白銀大火三回公判別れた妻ら証人に
八戸市白銀大火容疑者、同市小中野中道、大工掛端孝二(二五)の第三回公判は十六日午前十一時十五分から青森地裁八戸支部で川越裁判長係り、石川検事、浅石弁護人立ち会いで開かれ、弁護側申請の九証人、検事側一証人の証言が行われた。弁護人は①掛端の義母山本ハルさんが警察、検察での陳述をくつがえし、出火前の五月二十九日午後十時ごろに被告が帰宅し、そのとき磐城セメントのサイレンが停電中にもかかわらず自家発電で鳴らされたこと②内妻の荒川経子さんと離婚したさいケンカ、口論のゴタゴタはなく、復縁が放火の動機となりえないことなどの立証が目的だったが、磐城セメント八戸工場守衛古川勇造さん(三九)がサイレンが鳴ったことをほぼ裏付けたほかは決め手になるような証言は得られず、掛端のアリバイを証明する新しい証人申請も行われなかった。
公判は前回弁護側が申請した証人のうち検察側証人と重複した四人についてはすでに現場で事情聴取が終わっているので残りの浦内すみさん(二四)・白銀町浜崖▼寺戸悦子さん(三六)・同大沢片平▼田村ゆわさん(五六)同▼荒川ツナさん(七四)同三島上▼荒川経子さん(二三)同▼荒川小次郎さん(四八)同三島下▼清水モトさん(四八)同▼荒川キクさん(五○)同大沢片平▼古川勇造さん(三九)湊町ホロキ長根の九人について証人調べが行われた。おもな証言次の通り。◇古川証人(磐城セメント八戸工場守衛)
問い(浅石弁護人)白銀大火の五月二十九日夜十時にはふつうの日のようにセメントのサイレンは鳴ったか。
答 自家発電しているから鳴らしたはずです。
問い サイレンは一日何回鳴るか。
答 午前七時、八時、正午、午後一時、四時、十時の六回鳴ります。
問い その日午後十時に鳴ったのを自分で聞いたか
答 よく記憶していません
問 鳴らなかったらわかるか
答 上司から注意があるはずですが、その時はなかったので鳴ったのではないかと思います
◇ 浦内証人(無職)
問い 掛端被告を知っているか
答え 夫が大工なので五年くらい前から知っています
問い 掛端が去年上京したのを知っているか
答え 知っています
問い 東京へ行く前にゴタゴタがあったのを聞いているか
答え 聞いていません
問い 掛端が帰八後あなたの家をたずねたというが、五月二十九日朝十時ごろ掛端はなんと言っていたか
答え 「きょうあたり東京へ行きたい」と言っていました。
問い 東京から帰八後、荒川さん方に対してとくに変わった気持ちを抱いていたということは…
答え わかりません、しかし経子さんいは会いたいと言っていました。
問い また一緒になりたいというようなことは言っていなかったか
答え ただ会いたいと言っていただけです
◇ 荒川経子証人(無職)
問い 孝二君(被告)と別れることがはっきり決まったのはいつか
答え 去年十一月頃です
問い 孝二君が九月上京したあとか
答え そうです
問い どういう風に話し合いをつけたのか
答え 手紙のやりとりで決めました
問い ケンカ口論で別れたということは
答え ありません
問い なぜ別れたのか
答え 働きに出ても金を家に入れないからです
問い 大火の翌日避難先に孝二君が来たか
答え 来ました。朝二度来て二度目にパンを置いて行ったそうですが話はかわしませんでした
このあと弁護側から荒川経子さん方の避難先、狭間まつのほか一人の証人喚問、掛端の実家の検証を申請、検事側から掛端の実父三之助さんの供述調書提出の後、足取り確認のための実地検証、掛端とその両親の調べに立ち会った地検八戸支部の田中庄市検察事務官の証人申請があった。川越裁判長は双方申請の三人の証人調べを十一月六日に行うことを決め(検証は保留)最後に検察側工藤忠一郎証人(四七)八戸署鑑識係長の実況見分調書二通の確認証言があって午後四時閉廷 この事件は警察が短時間で犯人を挙げ能力の高さを示した。最近八戸の床屋の女主人殺しも解決。女子中学生殺しは時効が近づく。これも解決してもらいたいもの。

2009年3月14日土曜日

八戸及び八戸人 7 三代に渡り銀輪渡世 三浦輪業商会

人生は嫌々生きても楽しくない。スーパーに勤務している若い人にその顔をよく見る。織田信長に仕えた猿、秀吉は胸に草履を暖めた。どんなにつまらぬと思える仕事も、させてもらえてると思えば工夫が出る。
 くだらぬ、つまらぬ仕事だと誰が決める。皆、己が決めたこと。他人からアアだ、こうだと言われて、いちいち己が行動を決めるか? 決めまい、己が信念に基づき行動は定まる。人生はただ一度の場、何を考えたかが問われるのではない、何をしたかを問われる場だ。
 売市、大橋、かっては馬車曳きを嘆かせた険阻な坂、そこに三浦輪業あり、三代に渡り八戸人の足代わりとなる銀輪を渡世とす。
 三代目を三浦健至、客の役に立とうの心が面に現れる。仕事が出来る喜びを知る男。人生の達人の部類、今、日本は四十代がしっかりしている。発想が柔軟、行動は手堅い。今後二十年の日本は安泰と見る。
 三浦輪業、初代を三浦清三郎、明治四十一(1908)年、八戸の馬喰の家に生まれた。十三歳のおり自転車競技に出場、随分と昔から自転車競走があったもんだ。見てくれ、次ページ、右から三人目のチビが初代だ。よく見るとこのチビだけ自転車を持ってない、きっと誰かから借りて走ったこった。家が貧しく自転車が買えずとも、やる気があれば誰かが見ているもんだ、あやつは見込みがあると…。
ついでに自転車の歴史をひもとく。明治初頭自転車が輸入され鉄砲鍛冶の宮田が製造開始。宮田は明治十四年に京橋木挽町で宮田栄助が銃作りを開始、業績は伸び明治二十三年に本所菊川に工場を新築、そこで日本初の自転車製造を開始。自転車は思いのほか売れ、本業の銃を投げ捨て、自転車一本で立つのが明治三十五年、名も宮田製作 所。
当然、三浦清三郎も宮田に乗ったのだろう。自転車競走は自転車が発明されてすぐに始まり、長距離化、1903年、ツール・ド・フランス開始。1日に500kキロも走る区間もあり耐久レース。舗装路の普及で、速さを競うようになる。 明治三十一年(1898年)、上野は不忍池で大日本双輪倶楽部が主催した日本人初の自転車競走会。当時、自転車は高価、貴族や財閥がスポンサー、選手は商社の宣伝用ジャージを着て走り、日当を受け取った。今から百年も前に現在のツール・ド・フランスが日本にもあった。戦争に負け焦土になった町々で競輪を開催、そのカスリで町を再建させよう、復興させようと自転車競走が実施された。ここで競輪の名が登場。何のことはな い、市町村が胴元の博打だ。賭博は法律で禁止、国がやれば罪にならない? どうなってるんだこの国は。
この初代は突拍子がなく、自転車競走と共に東京に行ったとヨ。十三の子供が競技開催者たちと一緒にウロウロする図を思い描いただけでも、こりゃ可笑しい。その後がどうなったか判然としないが、いずれ自転車とは切れない仲、どこぞやの軒下で油まみれになり、自転車の尻でも撫でながら修行してたんだろう。大正十三年(1923)、関東大震災にあい二十歳の頃(昭和3年頃か)八戸に戻った。そして嫁にツナさんを貰い新組町で自転車屋を開業、昭和十年までここで踏ん張り、商売も軌道に乗り、今度は二十三日町の丸一家具の左隣に移転。
上の写真、気のよさそうなオッカサンがストーブの前、店員さんの働く姿もあり、八戸戦前の一般的商家風景。道路面にはガラスを横に三枚か四枚入れた引き戸、冬以外は日中、これを外して家の横にしまいこみ、上の写真のように開放的空間を作る。小僧は大変、朝になりゃ開けて、夜になりゃしまいこむ、又、にわか雨でも降りゃ仕事は増えるばかり、それにブツブツ言えばおしまい。何でお終い? 仏(ぶつ)がでりゃ人間もお終いだヨ。当時八戸の自転車業界はと見てあれば、八日町に安藤自転車、明治四十年創業と最古、富士自転車をよく売り、当主を姓は安藤、名を晋吉、今は自転車のタイヤを売らずに河内屋の駐車場でタイヤキ売ってるゥ~。小中野には船場、南横町の安藤、湊に月館、吹上に横浜、朔日町に清川、 田幾の田中幾、十六日町の亀橋、寺横町の勝輪の阿部、二十三日町尾形、番町のノーリツの木村、宮田の自転車に強い二十六日町の村井自転車は当主を村井文次郎と多士済済(たしせいせい・すぐれた人材が多くあること。たしさいさいとも言うがただしくはせいせい)。当時は自動車はプロのもの、今のような自動車社会悪の時代と異なる。当時の自転車は今の自動車販売会社と等しく、見てるだけでも楽しい存在。ぞんざいに扱う現今とは隔世。
世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇にめぐり会いたい
で、どうしても金回りのいい方に気が動く。初代はそれに敏感だったんだろう。銀輪だけに廻りがいいカ。ところが現今はアジアの労働賃金の安い物に追いまくられ、ホームセンターの方が安い自転車を持つ。八戸の自転車屋の数も激減。宮田自転車も今は消火器屋に変わり自転車は申し訳程度のほんの少々。
初代の清三郎は六人の子福者(こぶくしゃ・子供を多く持つ仕合せ者)、最近は子供の数が少なく、この言葉も死語。三人が男、三人が女、繁、勝也、松三郎は皆時代を見据えた職業についた。長男は後継ぎ、次男は自動車、三男は三浦輪業を陰で支える。戦後間もなく自転車につける発動機が出現、自転車に無理やり取り付けて、バタバタとエンジン音響かせ走るが、今の草刈機のエンジン、これを駆動としてゴムベルトで車輪をブン回す。これが売れた。
雨後のたけのこの様に怪しげなメーカー続出。売れるから買に出る。夜行列車に飛び乗り東京目指す初代、有り金総ざらい、買えるだけ買って帰る訳だが、八戸には取り付けて欲しい米屋に魚屋、牛乳屋。重い自転車を転がすにはこれ一番。ところが、欠点もあり、自転車改造だけにブレーキの利きが甘い。「気をつけろ、甘い言葉に暗い道」の交番のポスターじゃないけど、甘いブレーキを心配しいしい乗ったもんだ。この自転車取り付け装置の最大メーカーはトヨモータース、愛知県刈谷市のメーカー。1949年操業だがトヨでトヨタかと思うとトヨタとは無関係。ホンダも昭和二十二年製造。
ところが、これに気づくメーカーもいた。怪しげな改造自転車より、安心して乗れるオートバイが必要と、市場に製品投入。「二式大艇」、「紫電改」を製作した川西航空機が前身の新明和は兵庫県西宮市の会社。飛行機製造をアメリカに拒まれ陸に着目、名車ポインター発売。同様船外機で有名な東京発動機、トーハツもバイクを出す。大阪発動機がダイハツ。
三浦輪業はヤマハの販売店、ヤマハがバイクを出すのは昭和三十年と後発、ホンダは八戸では十六日町愛輪社、高橋徳三郎が販売。オートバイは戦前にも陸王、メグロなど大型バイクがあった。今はハーレーが人気だが、昔は陸王がハーレー工作機を輸入製造、だから陸王はハーレーそっくり。
八戸でもバイク愛好家は多く遠乗り会を三浦輪業も実施。自転車からオートバイの時代到来。昭和三十三年、ホンダが爆発的商用車「スーパーカブ」発売、クラッチなしで運転できると寿司屋、蕎麦屋、魚屋と出前持ちは大喜び。
ヤマハは遅れをとるが、三浦輪業は海洋部門が健闘、岩手、青森を守備範囲、田名部に営業所を設けるほど。二十三日町だけでは手狭となり、売市の現在地を取得、二代目繁は昭和五年生れ、八戸工業高校を卒業後、父親を助け着実に力を発揮、久慈の下駄屋の娘シンを嫁に迎え、男の子ばかり三人を授かる。二輪から四輪をも視野にいれ、昭和三十七年、ダイハツと提携。売市に販社と工場を設けた。ダイハツは昭和三十二年ミゼットを発売し気を吐くも当時は三流。
初代は二代目の成長に満足し昭和四十三年、六十歳を潮に引退。三浦輪業の頂点の頃、全国的にも数軒しかないヤマハの代理店となり、厳しいノルマをこなし全国トップレベルの業績を示す。
好事魔多し(こうじまおおし・うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすい)の喩えあり、昭和四十七年、二代目繁は交通事故で死亡、男の盛り、たったの四十二歳で帰らぬ人。人生は残酷だ。やりたいこと、やりのこしたことも沢山あったはず。人間の体は脆(もろ)い。丁度、ゴミ袋に水を入れて持ち運ぶようなもの、落とせば破裂、釘にひっかければ洩れて出る。そうっと大事に運べば百まで持っていけるが、酒もやらずにタバコものまず、百まで生きた馬鹿もいるって、友は先立ち、孫子も死んで、あんまり長く生き残るのも利口じゃないか。(それにつけても、惜しいことをしたもんだ。と言うのも、この後、残された三人の子供たちが目覚しい活躍を示す。
皆も覚えているだろう、五輪で伊調姉妹が金・銀メダルを取ったことを。八戸の町がゆらいだような興奮を忘れてはいなかろう。同様、三浦三兄弟の末弟、孝之が長野五輪に出場した。八戸のホッケー界は大沸きに沸いた。かって神明さんの横、佐藤染物屋の倅、真弘氏が氷上の黒ヒョウと称されたことがあったが、この孝之は父、繁が亡くなったときはまだ幼稚園、それがチビッ子ホッケーからめきめきと腕を上げ、日本代表に選伐され憧れの日の丸を胸に。
そして世界の強豪相手に一歩も退かぬ手腕を見せる。読売新聞はこう伝えた。
男子アイスホッケー日本代表はNHL(北米アイスホッケーリーグ)の選手をそろえるベラルーシを相手に引き分けに持ち込んだが、八戸出身のDF三浦孝之選手(30)(西武鉄道)も大活躍した。すでに二敗の日本は第一次予選リーグ敗退が決まっていたが、「強豪相手にどれだけ戦えるか、自分たちの底力を見せたい」と全力を振り絞った。ベテランの三浦選手は冷静な判断力と激しいタックルで健闘。第二ピリオド10分に2点目を奪われてからも、盛んに指示を出すなどベテランの味を発揮。第三ピリオドにはカウンターから、自ら持ち込んでゴールに迫るなど攻撃にも参加し見せ場を作った。
三兄弟とも国体にも出場するスポーツマン一家、これを支えたのが二代目の妻シン。四輪のダイハツ販売が順調になると、メーカーが販社を八戸に出したいと言うので、営業権を完全に譲渡、もとの二輪に注力せんと、二代目が営業、妻が経理と二人三脚、商売も軌道にのり、やれ嬉しやと思った矢先の事故。
喜びの絶頂から奈落の底、どれほど涙を陰で流したことだろうが、子らにはそれを見せることなく三人の従業員を励まし、店をきりもり。店と自宅とは別、義父母に子を託し自分は店に走る。当時、三代目になる健至はまだ中学生。
なんとかしなくてはと思うものの、まだ子供だ、アイスホッケーの魅力にとりつかれ、ワも胸に日の丸付けた選手になると、夢を膨らませ八高から早稲田大学、早実高校のコーチの話もあったが、ヤマハの船舶部に入社、そして札幌勤務、船の売り方修理方法を学び四年後に三浦輪業に戻る。
岡と海とでは扱う物がちがう。ここから三代目の三代目としての苦労が始まる。かつて、代理店の資格をもちメーカーから厳しく課せられるノルマを軽々こなしていた三浦輪業も、妻シンさんとそれを支える三人の従業員では現状を維持することすら難く、次第に成績は降下。つまり、店を閉じることなく細々持続が正しい表現か。女の細腕、しかも子らを育て、大学教育もつけさせ立派な社会人とさせたことで、これはもう、女として立派な勲章。
二代目が亡くなった時、初代は健在、でも初代は二代目の妻に仕事を託し、一切口を挟まなかった。これも立派と言えば立派、非情と言えば非情。
しかし、二代目妻のシンは偉かった。女としても母としても、そして経営者としても。亭主が子供三人残して他界、のこされたのが読者とすると、選択肢は、出て行く、残るの二つしかない。
さて、あなたならどうする。人生はただの一度、万人等しくやりなおしがきかない。髪振り乱しての表現があるが、三代目は当時の母を凄い人だったと言う。父を亡くして寂しい思いをさせない、片親の子と辛い目にあわせない。この思いが二代目の妻を衝き動かしたのだろう。その苦労の甲斐あって、オリンピック選手が出た。チームプレイだけに伊調姉妹のような大きな実を手にすることは出来なかったが、多くの人に努力すれば必ず成るを教えた。孝之選手は三十歳で腰の故障を押してつかんだ日本代表の座。天才的プレイヤーをリンクに送り迎えしたのは初代。家族ぐるみの努力だ。人は生まれる家を選ぶことはできない。生まれ落ちたところで必死に見る、手探りしながら生きる道を求める。二代目の妻も必死、子らも努力に努力を重ねた。
三代目が三浦輪業で働き、手探りでオートバイを学習、二代目妻を支えた優秀な社員たちは、三代目の成長を待った。三代目は青森市のオートバイショップ、YSPで販売と修理の基本を学び、それを自分流に調整しながら顧客づくりから手を染めた。基本は信頼される店、来ると楽しくなる店。区画整理もあり、店を新築し、三代目なりの雰囲気に作りあげ、目標とした店に近づく。YSPの指定も取り、対外的な信用も増した。YSPはヤマハのオートバイを技術、営業の二面とも満足させられる店に与えられる。二代目妻を支えてくれた三人の侍たちも独立したり、リタイアして三代目の周りは若手でオートバイ好きの青年が集まった。これからが、三代目の本領の発揮どころ、平成元年に十八日町の八戸ホンダ販売の娘明香さんを嫁に迎え、男二人に女一人の子供たちに恵まれる。長期景気低迷の続く昨今、どこもかしこも意気消沈、でも、売市の三浦輪業、YSP八戸には明るい風が吹く。どんなことでも必ず解決するの気概が横溢。それがおのずと態度に表れている。オートバイのみならずプレジャーボートも勿論OK。時代は省エネルギー、ガソリンの消費の少ない車、駐車の容易なものとして、昨今は大型スクーターブーム。又、ヤマハは電気自転車開発の第一人者。それのみにとどまらず燃料電池で動くスクータも開発、間もなく市場に登場。内燃機関からモーターへと着実に移行中。さて、三代続いた三浦輪業、今度はどんな切り口で、商用、レジャーに使うオートバイを消費者にすすめてくれるのやら。意気消沈したとき、バイク見物に行ってごらん、若者の活力、役立つ者になろうの意気込みを見せてもらえるぞ。(終り)

2009年3月13日金曜日

風 の 旅   風天の弘坊


風に吹かれて旅にでた。
思い立ち「風の盆」に向かった。二年前に、友人から誘われて行ったのが、「越中八尾おわら風の盆」だ。
「風の盆」と呼ばれていて、全国に名を馳せている。テレビや書物でご存知の方も多くいらっしゃるが、私なりの旅の印象を述べてみよう。 
最近、此処は富山市に合併されてしまったが以前の呼び方は富山県婦負郡八尾町(ねいぐんやつおまち)である。富山市から山中に向かい、間もなく岐阜県といった場所だ。
此処を訪ね、あのときの情緒ある雰囲気が忘れられないのだった。八月も残り少ない、暑さのなか車で向かった。本祭は毎年九月一日から三日間ときまっているが前夜祭はその十日も前から始まる。その前夜祭がまた見もので、それにすっかり魅了されたのだった。
この祭りの起源は不明だが三百年の歴史と伝統があるのだそうだ。案内には、「叙情豊かで気品高く、綿々としてつきぬ誌的な唄と踊り」と述べている。私は「まったく、そのとおりである」とおもっている。
 現代では開催日が盂蘭盆の三日間に変わり、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う、すなわち豊穣を祈る「風の盆」になったといわれているが、台風シーズンには変わりなく、前夜祭を含めて一週間逗留している間にも二日ほどは雨に見舞われる。今回も半日ずつ二度雨がきた。
だが、町の石畳の道や累々と河原の石また石を積んだ町の壁面。 古い風情の家並みの美しさには、この雨もまた、相応しく、しっとりとした情緒が味わえ楽しめる。
坂の町、通りの両側には雪流しの側溝エンナカと呼ばれる用水がながれ心地よい音を聞かせる。
おわらの里、坂の町に、風が唄い,水音がはやす。水の音、風の旋律、胡弓の調べこんなにも心ふるわす、風の盆 などと述べている。
 前夜祭は八月二十日から三十日まで。毎年この日に決まっていて各町内で会場の持ち回りをしている。全部で十一箇所となる。運がよければ町内のお稽古の場や町流しに出逢えるときがある。ただ、三十一日だけは「お休み」になる。これがまたお見事としか言いようがない。
町中のお稽古は一切無し、あの哀愁ある唄も調べもなにもない。テープの音さえない。商店も日暮れとともに閉めてしまう。明日から三日間のための鋭気を養うためか?「本祭の準備」と言ってるのだが、それは済んでいる様子なのだ。夜の町並みの格子窓からはそれぞれの家庭でのんびりと酒を交わしている風景だけが見てとれる。
「ああ、これは、内なるエネルギーを貯めにためこんで一気に爆発させるのだ」演出にしたところでなんと小憎らしいほどのものであろうか。惜しいほどにパタリとである。それに対して観光客は気まま勝手だ。
「折角、高いお金を払ってここまで来たのに、見れないとは、どうしたものか、なんとかならないのか?」と町の人にねじ込んでいた客がいた。意地悪でも何でもない、古くからそのように決まっているだけなのだ。
JR八尾駅から百円バスが運行され近隣からは列車利用で十分に楽しんでいる。駅ホームでは列車到着のたびに踊りで客を迎える。近年、この祭りが有名になり過ぎて全国から観光客がどっと押し寄せるようになった。観光バスの乗り入れ申し込みが五〇〇〇台もあるが、いま1500台に制限しているらしい。小さな町なので宿の収容人数も少なく近隣の宇奈月温泉や富山の温泉地あるいは金沢市内のホテルが主なところとなる。
 本祭が始まるのは夜八時から十時まで。雨が降ったら中止となる。観光客が大勢であっても「それじゃサービスで」などとは間違っても行わない。その辺のところは理解して行かねば、期待はずれになろうか。祭りの主催はその土地の人なのであるから「郷に入ったら郷に従え」は、ここでも当 てはまるのだ。町のあちこちで目にした、自分本位の苦情を述べている観光客ほど見苦しいものはない。
 一般的な盆踊りは最近では現代のいわゆる流行歌的なお囃子や曲で踊るものだが、現代では、本人が楽しむことを主体に変わったのだろう。
 盆踊りは、本当のところ年に一度の亡者をお迎えするお盆の習わしのひとつとして行って来たものだろうが、世の中は自己中心主義が横行して亡者を敬い、感謝する心が失われてしまった感がある。それを此処の地、八尾 の聞名寺(もんみょうじ)で教えられた。寺の奥では奉納の囃子と踊りはかなり長い時間の読経法要のあとに行われた。それが終わると正面に出てきて町内毎の踊りのお披露目がある。境内の観光客はそれに痺れを切らして勝手気ままに大きな声で話をしだす。もっとひどいのは、酔っ払ってか「早くはじめろー」と怒鳴ったりする輩がいたり、関西弁で捲くし立てながら、墓石におおきなお尻をのっけて鱒寿司を喰っている罰当たりのおばちゃんがいたりする。
 お盆には当然、亡者の発ち日や月命日には、魚をはじめ動物質のものは、一切食事から絶った。魚釣りや殺生もしなかった。その風習は親の生存している間は続いたものだった。ほかならない、これが先祖を忘れない、敬うことなのだ。
 「人間は二度死ぬ」此処、聞名寺の住職はこう申した。「一度目は心臓と呼吸が停止した時」「二度目はその人がみなさんから忘れ去られた時」だそうな。「みなさん、どうか亡者をいつまでも生かしておけるようににご命日にはお参りをして下さい」たったこれだけのことだが、心に染み渡る法話であった。本祭のなか日、九月二日の夜のことであった。唄、お囃子は三味線、太鼓、そして、胡弓、これらを地方(じかた)と呼ぶ。寺の舞台での女踊りと男踊り。おんなは、なんと艶やかであろうか、そしてなんと、しなやかであろうか、磨きにみがき抜かれて指の先まで表情豊かなのだ。女の色香は整った顔立ちに形容されるのだが、編み笠の中の顔は通常の髪を染めた。若いネイチャンであっても、それはそれは美人のネイチャンを期待させる魔術ともいえるものだ。「ただ、うっとり」とさせてしまうのだ。手練手管の手法はここからきているのだろうか?
各町内、踊りも囃子もそれぞれに少し異なる。艶やかで魅力があったのは、鏡町。ここは、昔、色町であったそうな。やはりそうな。納得である。女姓は、未婚で二十五歳まで、あとは参加できない決まりになっている。
女性は最後の年の踊りは涙、なみだで明け方まで踊り通すもので、地方もこれに付き合って囃すのだ、見物の方も貰い泣きする。これがまた、なんとも言えない風情なのだ。胡弓の囃しが追い討ちをかけるのだろうか、それとも地方の喉から搾り出すような恋歌が心ふるわすのだろうか。たった二十五歳で、一期を終る心情を味わうことは、その女性の一生に本当の優しい心が根付き暮らせることとなる。此処の女性は、家庭を築いても、さぞ幸せに過ごせることになりましょう。町の人はみな優しさに溢れていて一週間の逗留も心地よかったのは「こんな訳であったのか」といまに思っている。風の盆の通はこれを見るために寝ないで、町なかの道端に座り、この一団が来るまでじーっと待っている。いつ来るか決まっていない。待っても来ないこともある。夜明けまででも待つ。
それにくらべ男の踊りは荒っぽいのを、想像するかも知れぬがそうではない。男の凛とした身体のしぐさ、手先、足の先までが男の色香に包まれる。男の色香とは気色が悪く感じるのだが、おっとっと、断っておくが私は、アッチの方(男色)の趣味はまったくないので申し添える。振り付けは農作業のしぐさやトンビの姿、そして案山子の表現まである。すばやく、そして、ゆったりと、メリハリが魅力と言う人もいる。簡単には真似のできない名人芸のひとつであろうか。残念ながら私 は、文筆家では
ないので、お囃子も踊りも説明だけですべてを伝える文才はなく、芸当もできないのでお許し願いたい。 またも車中泊。井田川の河原で約一週間の逗留だ。たいへんだが楽しさは極致だろうか?言い過ぎか? 「なーんだ。ホームレスの生活か?」そう、そうなんです。此処の川沿いには何百台というキャンピングカーや乗用車、それぞれに工夫を凝らした軽自動車もある。「どちらから?」「何回目?」などと会話と話題が尽きぬ。急いで走ったら旅の楽しみはマイナスになってしまうから努めて有料の自動車道は使わない。ジーゼルの貨物車なので快適な走りではない。軽自動車にも簡単に追い抜かれるほどだが、居住空間があるのでこれに限る。かといってキャンピングカーなどと言う贅沢なものには、財布と相談しても現れて来ないのだ。装備?は家にいるときも不便な生活(これを貧乏生活と呼ぶのらしい)をしているのでさして困らないのだ。まあ、困るのは、風呂とトイレぐらいかな?鍋、ガスの類、コーヒーは不可欠だ、水タンク、調理道具、食器類はまともなテーブルウエアーも(これは紙やぺらぺらのプラスチックばかりでは惨めだ) 
私は若いころから、いつの日か、風のような旅をしたいものだと、時折考えていたものである。懐は当時から、今のいままで空っぽの状態は変わりないのだが、別に豪 華なお金の沢山必要とする旅をしたいなどと思ってなかった。旅に限らず物事はお金を沢山かけたら楽しさも面白味も反比例する。お金持ちの趣味は、沢山の費用をかけて誰も真似のできないような行状をするものだが、それはそれで大名行列のごときものであって、難儀をする者は御付きの者だけである。
風の旅とは、それ自体漠然とした表現なのであるが、まあ言ってみれば風の吹くまま気の向くままのことである。世間一般に言う風来坊とか風天のたぐいで老人の徘徊やホッツキ歩きとなんら変わりない。行き当たりバッ旅とも言われている。
私の心情は、「知らぬ土地を訪ね、人との出会いを楽しんで、ただそれだけのために」「風にふかれて旅にでよう、足の向くまま、気の向くまま綿胞子のように」である。季節のうつろいは、思いのほかはやい、さくらの満開も瞬時に終わり新緑も駆け足、そして、夏の暑さもあっと言う間に終る。これを幾度か、繰り返し積み重ねると子供の計算でもできる回数をすぎると、もう一期の終着にきてしまうのだ。
人の一生なんてとてもたわいのないものだ、とつくづくと思ってしまう。
生きることとは?人生とは?などと口に泡を飛ばして論ずるほどの物識りでもないがー「まあ、出かけてみなっせーおもしれいけっー」と言ったところか。

2009年3月12日木曜日

はしかみ今昔     小山 翰墨


縁あって、文を綴ることになった。
 自分の祖先の魂をゆさぶり起こさないようにと、そっと静かに記してみよう。
江戸幕府から八戸南部藩に命ありて、北辺警備に当たった小山新十郎の生まれは今の名久井のあたり。どのような事情があったのか、一度工藤の姓になったが再度、もとのわが姓と同じく戻った。
初代の記録がないので生業も所業も不明だがこの二代目からは明白である。
 大沢多聞は野辺地戦争に出陣し津軽藩との戦をしてこれをやぶった記録もあり、歴史を残した。五十人余の鉄砲隊の隊長だったと聞く。
私の母方の祖母 せん の父親、すなわち大沢多聞がそうである。
 多聞の時代に士族制度廃止(四民平等)*すなわち士農工商のこと*により階上に転任した。
狐のたたりだろうか?
四代目 勝凭 は狩猟が好きで、銃を持っていた。古い時代なので火縄銃だろうか、それとも、もっと改良された性能のよい村田銃だったろうか。
その日の猟はなく、日暮れになり帰路の途中、狐らしき生きものに出遭い、発砲した。
よほど命が惜しかったものか、あるいはなにかの化身であったのか、拝むような姿で弾に当たり、怪我をしたまま逃げた。
それからというもの、家族はみな幼くして早世したと云う。いつの時代でも、世の中とはそんなものでありましょうか。
生き物は大層な理由があるほかは、人間を含めて、辛くあたったり、苛めたり、また、殺したりしてはいけないのである。その報いは親族や血筋の者が負わねばならぬようになっている。
それからというものは、後継が無くなり、世が世であれば「お家断絶」、樹木に例えればつぎ木をやらなければと養女を迎えた。これが私の母親となる人。そして私の父親となる養子を迎えた。
運あってか無くてか、この私が誕生した。この時代はもう八戸市になっていて、番町の亀徳しづ助産婦にとりあげられた。(上亀徳しず)
人間の誕生のことを考えると、いつも不思議な思いにかられる。なにも彼もキッカケなのだ。それも大層なものではなく、ほんのつまらぬ事に始まっているのだ。人間としてこの地上に発生した事をまずは感謝しよう。

分教場での生活
大東亜戦争がはげしくなって、国民学校石鉢分教場へ疎開、転校した。復復式で教室は二つだけ、男先生、女先生と呼んでいたが先生もこの二人だけ。生徒は二十人もあったかどうか。式典などがあれば、一里ほどもある本校まで歩いて行った。子供の足で大変な道のりであった。ろくに喰うものがなく腹を空かしての道中は遠いので辛い。まだ、バスなどが通っていない時代で今の便利な社会では想像もつかないことであろう。学校の近くに学校田があり、田植もしたが肥料もろくにない時代でお腹いっぱいに食えるほどの収穫はなかった。
分教場は明治四十四年に創立されたもので、始まった当初は、部落内の戸数は三十余世帯あって、児童も各家庭から一人はあったので三十人と少しあったそうだ。
寺子屋から引き継いだので一年生から三年生までしかなく年齢もまちまちであったと今八十歳代の恩師から聞いた。学校には古い記録が残っている。

私達の時代の分教場にはオルガンはあったが鍵が掛かっていて使用できる先生はいなかった。音楽の授業はと云うと、箱根山など口伝えに数曲しかなく、ラジオからの歌謡曲をみんなで歌っていた。たった六〇年まえの社会の姿なのである。
けれど、山には子供のおやつとなる産物もあった。砂糖も枯渇していて、甘い物の味を忘れかけている時代に天の恵みの、春は木イチゴ、秋は、栗、アケビ、キノコ、冬は野うさぎ、キジを捕らえて食べた。貴重な蛋白源であったのだ
また、家庭での現金収入のひとつは春採りの赤松の薪を小さく割って束ねて八戸町に売りに行く、町での生活でも今の時代と異なり、便利なガスなどあるわけでなし炊事から暖房は薪や炭しかなかったのだ。
八戸市の今のロー丁に馬用のガレージと云うべきものがあった。飼い葉を食わせ、水を飲ませて料金をとる仕事もあった。それを生業にしていたのである。そこに馬を預け、一仕事終われば酒を飲み、至福の時を過ごす。時として売上がよければ酒も余計に呑めるのでつい過ぎるのだ。すっかり酔っ払ってしまっても馬鹿の主人より馬のほうが利口なのだ。「イッヒンヒー」と馬が笑ったかどうかはわからぬ。
馬の主人は空っぽの荷台に大の字になって眠り込むが、なんの心配もない。飲酒運転で警察官に咎めを受けるではなしなのだ。深夜に自動運転で馬が石鉢の家まで引いて来てくれた。現代の自動車ではこうは、いかない。不便な?時代になったもんだ。我が家の庭に到着したら、馬がヒッヒーんとクラクションを発して家族を呼んでいたのを今でも鮮明におぼえている。
まだ、バスも通じてなく八戸まで遊びに出かけるのは徒歩で、年上の腕っ節のつよいガキ大将を携えて来たものだが、途中、新井田のガキ達と、いさかいがありよくいじめられた。だが、ガキ大将はやさしく、たよりがいがあった。喧嘩で負けても子分達を先に逃がしてから自分ひとりで孤軍奮闘の殴り合いを惜しまなかったっけ。事が済んだら、急な坂道を登りきった野場の集落あたりで傷だらけの大将と落ち合って、全員仲良く、夕暮れのなか大声で唱って家路についた。陽がとっぷりと暮れ、途中で狐のぎゃーぎゃーと鳴く声が聞こえると、誰かが、「馬の死骸を捨てているのでそれを喰いにきている」と恐々とした話し振りに、みんな震いあがった。握り締めた手のなかの銭が温かくなっていた。
秋の季節は、かなり遠い距離である三社大祭の太鼓の音が石鉢まて聞こえたもので、現代では環境がすっかり変わり車の騒音だけでもかき消され、お祭りの太鼓の音など聞こえるのは叶わないのである。農作業は、「お祭りの前までに稗刈りしなければ大風吹ぎあ来る」と云われたものです。すなわち二百十日の台風シーズンだったのでございましょう。「自然の脅威にはちっぽけな人間なぞ勝てるわけがない」と口にはしないがちゃんと昔の人々は知っていあんしたんだ。          
第一話終わり

2009年3月11日水曜日

八戸及び八戸人8轟木小学校初代校長藤沢茂助後編



会津鶴ケ城落城時に藤沢茂助は三の丸不明口を守備(会津戊申戦争日誌より)、前号に掲載した鉄砲を城から政府軍に乱射した山本八重子は城を去るにあたり白壁に「明日よりは 何処かの誰か眺むらむ 馴れにし大城に 残る月影」と墨書、後に同志社を創立した新島譲の妻となった。
開城した会津藩士には過酷な運命、最後まで抵抗したことで懲罰が科され猪苗代湖のそばに移り三万石、本州最果て下北半島での三万石を取るかの決断を迫られた。猪苗代湖畔の三万石では食えないことは明白、山川大蔵(後・浩)、広沢安任、永岡久茂ら参事は下北での斗南藩の道を選択。明治3年4月18日斗南藩五戸旧代官所に藩庁を設置。この後、田名部に藩庁は移転。
会津藩士たちは薩摩兵に家を空け籠城した折り、空家から家財、書画骨董、金品を根こそぎ略奪された。薩摩兵はそれらを荷駄につけ福島方面で金にする。会津藩士の胸に薩摩の暴挙がしまいこまれた。
明治三年、春から十月にかけ会津藩士とその家族一万七千三百余人の移住を海路と陸路で決行。薩摩の兵に略奪され、まさに着の身着の儘(きのみきのまま・着ている着物のほか、何物も持っていないこと)。老幼をふくめての徒歩にての旅は難儀を極めた。藩士の中には鶴カ城のような城勤めが再び出来ると信じて移住したものもあろうが、五戸には代官所、田名部にはまったく何もない原野、武士を捨て百姓になる以外に生きる道は閉ざされた。士農工商、武士が搾取するために作った
身分制度、つまり差別が我が身を襲う屈辱は想像以上のものあり。
武士が刀を捨て鍬をもち、糞尿を撒くは死ぬより
山川浩屈辱、しかし、それをしなければ食えぬ、扶持が出るはずもない。現今なら会社倒産、残党はむつ市の原野で開墾しろ、給料は出ない、自分たちで自給自足せよと言われて、誰がその地にしがみつく者があろう。ところが、この困苦を克服し、地の塩として生き抜いた者たちがいた。それが藤沢茂助であり広沢安任であった。
明治四年、廃藩置県、新政府から食えないからと米を二度に渡り借りるが、それを金に換えるも、寒さと貧困で、移住者の多くは会津や全国に散った。大参事山川浩もその一人。早々と東京に去り、多くの会津藩士を困窮の淵に追い込みながら逃亡。そして明治政府に職を得る。明治六年陸軍省に勤務し陸軍中将にまでなるが、斗南藩士を窮乏に追い込んだ責任とらずして、何の栄達、明治七年の佐賀の乱(佐賀の不平士族が江藤新平・島義勇をかついで蜂起した事件、士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された)鎮定に出て左手に負傷、明治十年西南戦争では激戦熊本城に入城し政府軍を援助、さらに進撃し仇敵薩摩を落城させる。十年の遺恨を晴らした。しかし山川は困窮の民を捨て我が身ばかり助かっても卑怯、臆病の誹り罵り(そしりののしり・大声で非難すること)は免れない。たとい西南戦争でどれほど勲功をとげたとしても。
次に、鳥羽伏見の戦いで鬼官兵衛と呼ばれた佐川官兵衛は斗南藩で百姓を続けながら、仇敵薩摩の報復の期を待つ。明治四年の廃藩置県で斗南藩は滅亡し、おのおのはたづき(手付き・生活の手段)
の道を探ることになった。懲罰の意味での明治新政府はやりすぎたの思いもあり斗南藩に救済米を出すが、もとより生活手段もなければ返済は夢の夢。これを斗南藩は踏み倒す。廃藩となれば取りようもなし。現在のむつ市から斗南藩士たちは、てんでに生きる道、食える道を探す流浪の民、明治六年、佐川は目処なく会津に戻る。が明治七年新設された東京警視庁は羅卒を巡査と改称、番人も巡査に格上げされたため、旧幕府奉行所の与力、同心等は番人は元は番太、番太郎と呼ばれ、長屋の木戸番、そんな細民風情と共にならぬと
佐川官兵衛退職者が続出。これを補うため警視庁は二千人の巡査を募集。これに佐川は斗南藩士を誘い三百名で応募。佐川は大警部(今の警部)として採用。機会到来、明治十年西南戦争では豊後口警視隊一番小隊長兼副指揮官として赴き、三月十八日、熊本県阿蘇郡二重峠付近で薩摩軍の砲撃にあい戦死、享年四十七。
さて、少参事永岡久茂は廃藩置県後、青森県庁田名部支庁に勤めるも明治五年に辞して東京浅草菊屋橋(現在のかっぱ橋商店街)に居住、湯島天神下で私塾を経営。赤貧洗うが如き生活。(せきひんあらうがごときせいかつ・極めて貧しく、洗い流したように所有物が何一つないさま)ここまで追い込まれると、人を呪うようになる。我が身のままならぬを、世間のせいにすりかえる、まして昔年の恨みのある新政府に、永岡の凄いところは、薩摩だ長州だではない、政府に対しての憤懣と化した所にある。
 今我らの窮するは奴らの会津に対する陰謀によるものと、竹林に伏す虎のごとく、浅草の市井(しせい・人家あつまる所)にありながら、じっと機会を窺っていた。
明治九年、十月、維新政府に不満を抱いた前原一誠が挙兵、県庁を襲い山陰道から中央に出ようとした萩の乱に呼応し、千葉県庁を襲い佐倉鎮台の兵を利用しようと計画。
警視庁史には以下の通り。新政府に対する反感は、佐賀、神風連等あいついで騒乱となってあらわれたが、その後もあとを絶たず、旧会津藩士永岡久茂等の一派もまた同様で、かねてから前原一誠と気脈を通じ、もし事をあげる場合は、東西相呼応して蹶起(けっき・おもいきって行動する)すべく、同志とともに本郷湯島天神下で手習い師匠を装い、機会を窺っていたところ、明治九年十月二十五日、萩の前原から「四五日ころ開店、錦の店開く」との電報に接し、いよいよ決行と千葉県庁を襲い公金を奪い、茨城、栃木で同志を集め新潟に至り前原と合流し反旗をひるがえすべく、十月二十九日夜、井口新次郎、竹村俊秀、中原成業等十数名の者を芝山内に集め、ここから日本橋小網町一丁目思案橋際の陸運会社出張所武田喜右衛門方に向かい、下総登戸行の舟を仕立てさせ、出船の用意中、挙動に不審を感じた船頭がひそかに交番に訴える、巡査はただちに本署へ連絡、寺本義久警部補、河合好直二等巡査、木村清三、黒野巳之助三等巡査を現場へ急行させるも、永岡一味に近づくやいなや、賊は洋傘に仕込んだ白刃を不意に抜き一刀のもとに寺本警部補は即死、河合、木村も斬られ倒れるも黒野巡査は難を逃れ本署に急を告げる。現場へ急行し岸を離れる瞬間舟に飛び乗り、六名を捕縛、他の者は逃走したため警察は数隻に分乗し追跡、午前三時ころ、深川区上佐賀町一丁目で五名の暴徒を乗せた舟を発見、仙台堀に逃げるを水陸から挟撃、賊は「寄らば斬るぞ」と大声で叫びつつ万年橋へと向かう。ところが観念してか脱刀し降伏、逮捕を免れ逃走の横山俊蔵、中原成業はその後東京で、松本正直、満木清繁は新潟県で逮捕、明治十年二月七日に処刑。永岡久茂は巡査と格闘中、闇夜のため仲間に腰を斬られ明治十年一月十二日獄死、享年三十八。
佐川、永岡は薩摩に、新政府に一矢報いん(いっしむくいん・相手から受けた攻撃・非難に対して、わずかであっても反撃し反駁・はんばくを加える)と機会を窺い、いずれも成功はせぬが、武士の面目躍如(めんぼくやくじょ・大いに面目をほどこすこと。いかにもその人らしい特徴が表れ、世間の評価が高まるさま)。山川のようにひたすら官に属することを嫌い、仇敵を逃さずあまさず必ず喉笛に食らいつき、必ずや息の根をとめるを志すのが武士道。
武士道とは死ぬことなりとみつけたり。もし図に外れて生きたれば腰抜けなり。佐川、永岡は不滅の侍魂なり。
地の塩になった人々
少参事広沢安任は多くの会津藩士を斗南の地にひきずりこみ、流浪の民としたことに責任をとることは、この地で成功することと、十和田の開拓に力を注ぐ。それが牧場経営、この人のことは八戸人はおおよそ知っておられるので省略。
明治五年、流浪の民は三本木に流れ着く。金崎に大宮蜂太郎ら四七戸、八戸通り、深瀬透ら三一戸、並木、渡部彦多ら四一戸、小稲、松田幾弥ら四九戸。
そして藤沢茂助の名をここに見つける。
藤坂村六日町山に長屋が五十二戸建設され、田名部斗南ケ丘、五戸、三戸から移住者男九七、女一一五が入居。
芦沢 勇 荒川テイ 猪狩織之助 猪狩景三
石井政庫 石川作冶 伊南源助 井上熊太郎
岩田勝冶 岩田栄吾 内田 保 大場小右衛門
小沢すえ 風間久蔵 柏谷始 川村たせ
木田虎次郎 熊谷源七郎 沢井源六 宗方善九郎 白岩吉四郎 須貝りつ 薄 倉吉
鈴木彦太郎 諏訪光久 千里富次郎
相馬繁 高木盛徳 竹村髭翁
田中豊冶 谷川八郎 保志勝平
戸枝逸作 中田豊次郎 中村至
長山冶八 服部四郎 林えん
樋口幸三 樋口孝麿 日向虎五郎
日向初次郎 平田力之進 藤沢茂助
本○政治 松村貞之助 村松八太郎
森 政治 山田栄太郎 山田貞助
吉川良蔵 渡辺松次郎
藤沢が田名部にいたかの確証がつかめない。しかしここに来た人々は五戸、三戸とあるので、逆に藤沢はこの三カ所の内にいたことは間違いない。
百石小学校のことの中に、明治二年の頃、三戸郡新田に移住せし旧会津藩士原田武平氏をまねき、当村西舘三平氏宅を借り、弟子十三名に手習い読書を教授せりという。当時弟子一人から月謝として米二升、年に炭一俵、薪一間、明治四年旧会津藩一ノ瀬浦勢(女子)を招き弟子十四人に読書、裁縫を教授、三戸郡鮫村に転ぜしより、明治六年十月、旧会津藩士丸山主水氏を五戸より招き、昆伝之進別宅で筆道と読書を教授、三浦儀助、川口要之助、昆伝之進らが師匠住宅、及び教室二棟を建造し生徒二十名を教授。明治九年十二月上明堂に仮校舎を築き百石小学校として開校。
明治五年学制施行前の寺子屋
五戸 内藤信節 田子 根橋伝吾 新郷 井関挌斎 百石 丸山主水 三戸 上島良蔵 猿部 大垣義五郎 野辺地 安積泰助・土屋勝之助・  佐瀬義之助・堀恒介 鰺ヶ沢 北原房夫 岩崎村 神指某 十和田 柴宮源右衛門
藤沢の場合は轟木の鈴木徳弥が五戸の寺子屋、霞道場に通い藤沢を知り、父、清麓に藤沢を招くように懇願。市川村字高丁場に十四坪の仮小屋を建て轟木の寺子屋として発足。明治九年五月五日、轟木小学校として児童男六十七名、教員一名で開校。同九年九月市川村字新田村風穴小四郎地内に校舎新築移転、同十四年新田村八番に新築移転、同二十年轟木尋常小学校と改称。
同二十四年十月藤沢茂助没。享年六十二。
轟木墓地に埋葬された。この折り、薫陶を受けた生徒が喜捨を集め建墓。
戒名、慈学院恵與積植徳本居士
喜捨を募った人々は、発起人・鈴木徳三郎・卯之吉・均・松之助、奥寺忠助、風穴卯之松、松橋末吉、浜栄助、川村徳松・榮太郎、谷地万治、小笠原清三、向谷地篤助、福太郎。
生徒・鈴木市太郎・吉三郎・友吉・直吉・徳次郎・卯之松・清八・吉蔵・留吉・福太郎・清吉・此吉・参佐男・兼太郎・岩松・三蔵・長太郎・宇吉・倉之助・福松・忠次郎・吉蔵・吉松・熊吉・松太郎・辰太郎・岩冶・吉助・大次郎・芳三、奥寺儀助、小野寺久五郎・秀冶、風穴正記・鉄之助・直吉・勘之助・亀松・石松、浜喜之助、留吉、元八、田島吉太郎・幾太郎、川村石松・石蔵・円之助・福松・兼次郎・初太郎・己之、向谷地善松・元松・福松、小笠原太郎。
総喜捨額、十三円四十七銭
教え子の中から奥寺忠助、浜栄助は村長、鈴木卯之吉は市川村の学務委員、今の教育長を務めた。この墓は昭和二十五年に百石町浄土宗法運寺に改墓され現在に至る。
藤沢は自分の子供には教育より働くことを勧めた。四郎は五戸の菓子屋に修行に出た。当時の五戸の菓子屋は尾形直、岡村、岡清、赤寿、中村、清川、福田、福村、奥寺とあるがどこかは不明。
明治五年に学制がしかれ藤沢の寺子屋は小学校へと変わった。百石小学校のことを見ても、寺子屋経営で十数名の子弟相手に教授しても食うがやっと、子を育て会津日新館、江戸昌平黌などの学問を身につけさせても、激動する世の中、何の役に立つことかと、我が身をふりかえり痛切に感じたのだろう。
人が人として生きるにはなまじな学問より経験がものをいうと悟った。六日町山での開墾の折りも、付近の農家の女を師として農業を学んだ。一年に一度の収穫、額に汗し原野を開き、畑にしても何を何時撒けばいいのか、それをどう育てるのか、武士が刀を捨て地に生きることの難さを我が身で覚えた。
しかし、その学問が藤沢茂助を救った。寺子屋教師として、それが時代の波で小学校になり、新政府から給料を得る。全国一律の教材、指導法を確率するため、教師の側も都度試験があり、それに合格すると報酬が上がった。その免状も四年間有効の期限付き。更に上級を目指さなければ昇給はない。現今の教師のように一枚の教員免許状で生涯食える保証はない。
時代の波に翻弄され、新政府と戦い、斗南藩と命運を共にし、青森県の地に足踏み込み、畑耕す鍬を捨て、轟木の地にて人を耕す。たずきの道を得、我が子等を育て、安息の日々を送る。不平も不満もなく教鞭をとり、轟木の地の塩と化す。古人も多く旅に死せるあり。茂助の旅はここで終えた。 娘が百石の寺、法運寺に嫁いでいた。この寺は毎年八月六日、七日の両日に死者の霊を口寄せするというイタコが集まる。下北の恐山、津軽金木の川倉地蔵とならび日本三大イタコ霊場の一つ。法運寺は浄土宗、百石の住民のほとんどがこの寺の檀家。
倅、四郎はその縁で百石に菓子屋を営む、その店の始めはこの法運寺の門前、そのため門前の菓子屋と呼ばれた。藩政時代、五戸には代官所があり繁栄の地、そこで菓子の修行、近在の人から支持を得て商店街へと店を並べる。弟、六郎も菓子業を営み共に、明治、大正、昭和、平成の現在も堂々看板を掲げる。その繁栄を見たのが写真の茂助の妻みね。
四郎の倅、茂十郎が家業を継ぐようになるが、この茂十郎が修行に出たのが八戸、老舗が揃った 町、嘉永三年創業は八日町の立熊、安政二年は湊の武尾万寿堂、二十三日町、柴幸、安政四年、鍛冶町の鹿島、安政五年、十六日町のたけや、慶応元年が十三日町の清馨堂村福。
二代目は一番古い立熊で修行した。
三代目は啓次氏だが、兄の真一さんは、十六日町のたけやに修行に出たが、満州で戦死。上写真はたけや主人家族と奉公人たち。
茂十郎さんの女房は十和田の人、名をヨネ、働き者で気が優しい、その息子三代目を継いだ啓次さんの所に八戸吹上から嫁に来たのが、またもヨネさん。二代に渡り嫁さんの名がヨネというのも珍しい。
このヨネさんが実に働き者、昭和二十五年に嫁にきてから一日も欠かさず五十五年間、店番から倉庫にしまう粉に小豆と懸命に働き通す。そして、今なお店頭に立って「いらっしゃいませ」と笑顔で応対。主人が生きていた時は主人を引き立てるように、主人が亡くなった今は、少しでも足手ま といにならぬように、そして代々続く藤沢菓子屋が少しでも繁栄する役に立とうと、家族でがんばってます、でも、年々重い物が持てなくなり、忙しい時は朝四時から起きて働きますが、目がかすんできたりして、いやいや歳はとりたくありませんと笑う。
上写真は子福者、茂十郎さん一家、手前右端が吹上から嫁に来たばかりのヨネさん。左端がご主人の啓次さん。この人とヨネさんの汗を流し藤沢を支えた話が幾つもある。昭和二十七年に開発されたのが軽のトラック、バンメーカーはダイハツその名もミゼット。これがあれば商売も盛んになると、車を買ってから免許を取りに通ったのがヨネさん。昭和三十二年に免許取得と、時代を先取り、そして店番から配達まで一人でこなす。昔の人は働き者。
現当主、茂登氏が四代に渡る藤沢製菓を牽引する。この人は東京の菓子作りを教える専門学校に入り、そのまま教官になるほどの腕前。製造方法 などに独自の技術を生かす。
右写真は働き者ヨネさんと店、車がダイハツミゼットのバン。共に居るのが四郎さんの弟、六郎さんの妻、フルヤキャラメルの文字も見えるところから、菓子総合を扱っていた。ドブふさぎの石、道路はまだ未舗装の模様。百石の時の流れを感じさせる。昔は割烹着(かっぽうぎ・料理や家事の際に着物の上に着るうわっぱり、エプロンの大きな物)をきていたもの。このヨネさんは五月号紹介の中山千里氏の姉。銘菓「百石栗」、大きな栗がごろっと入る青森県を代表する菓子の一つ。将棋界の十五世名人大山康晴を記念する焼き菓子王将はイチゴ味で有名。藤沢製菓に支店が小中野にある。ヨネさんの娘さんが経営。名を太郎庵、八戸人にも「百石栗」を味わっていただける。会津から流れ、地の塩になり市川の人々を薫陶した藤沢茂助、そして菓子業を渡世とし四代に渡り人々から愛され支持される藤沢製菓、一族の地域への貢献の不思議さを見た。(終)

2009年3月10日火曜日

五戸今昔 怪傑剣士実は床屋の親父、工藤一夫さん


世の中、ダラダラ生きるは易けれど、我が道見つけ、それをトコトン追求し、その神髄であります奥義を極めることは、そりゃァ難しいなんてもんじゃァありません。
道にも色々ありまして、商売の道に色の道、華道に茶道に柔道と極めることは並大抵な努力じゃァあーりません。今回紹介いたしまするは五戸のクドウ床屋の親父さん、父の代から剣術、剣道、居合い抜きに鎖鎌と伝統を受け継ぎ、五戸を馬肉の町から天下の剣道の町へと変貌させたい、いや、させると孤軍奮闘、はりきりまくり、捲るは競輪選手の斉藤か、それとも山田か、最近山田を頭にすると皆外れる、そんなことは筆者の話で、クドウ床屋には、アンタ、何にも関係ありません。このクドウ床屋が目指すは八段、剣道の世界には厳 然たる三角ならぬ資格がありまして、千日の稽古を鍛と呼び、万日の稽古を錬と称する訳で、アンタ、万日というと毎日稽古しても二十と七年もかかるんだヨ。それらの稽古をして、これは日本剣道連盟がどこへ出しても恥ずかしくないと認定した剣士に錬士(れんし・五段以上の者から選ばれる。もと大日本武徳会で定めたものを継承)の称号、さらに上がありまして、今度は教士、頂上が範士でその上はありませーん。今、クドウ床屋は八段を目指して奮闘努力、何回受けても、なかなか合格させないそうだ。百人受けて一人入ればいいそうで、この試験のために稽古の日々。
 頭が下がるが、これ位熱心に床屋の仕事もすりゃいいだろうと思うのは筆者のヒガミかしら。
 この親父の先代は鎖鎌の名手、水鴎流って聞いたことない? 子連れ狼の拝一刀がこれ、その鎖鎌の免許皆伝が先代サ。なにしろ中村錦之助が演じて有名なTVドラマ、むちゃくちゃ強い。これが鎖鎌で、宍戸梅軒ってのもいた
ナ。クドウ床屋は八段とったら鎖鎌も継承するそうで、夢は大きい爺さん剣士。小島剛夕の絵で全 国を風靡したこともありましたゾ、橋幸夫がしとしとぴっちゃんと歌いましたナ。
これを継承するってんだから凄い話。凄いといえば、このクドウ床屋の先祖は五戸代官所の目明しの子分で下引きをしていたそうで、昔、目明しは通り者と呼ばれ、名が通る人間しか成れない。十手をもち町奉行所の仕事をこなしたもんで、与力、同心の下の下役。五戸は宿場町、宿屋に女郎屋もあり、博打場もあったそうで、その博打場に食い詰め浪人ならぬ、会津藩士が槍一本ひっつかみ、俵を三段に積んで、それを反対側、つまり背中の方にドンドン投げ飛ばす、するとアラ、不思議反対側に俵の山が同じように出来たという。江戸幕府の槍の指南番高橋泥舟がよく見せたというゾ。それを博徒の親分に見せたのが安藤市蔵。首尾よく用心棒に収まり明治の荒波をくぐり子孫繁栄商売繁盛が安藤陽三氏の先祖。
武道の道も極めると、ここまで届くゾ。生計を立てることができるんダ。クドウ床屋の先代は世話好きな人、親戚が床屋を五戸で開業していて、そこに弟子入り、そこである程度覚えて八戸六日町の床屋、板橋に入った。この店は大正十三年の創 業で主人は板橋吉蔵。ここで野球の大下常吉氏の知己を得たのがこれまた世の中を広くするんで、人との付き合いは大切にしな。
 ここで腕を上げて、今度は東京に出たと思いナ。場所は麻布の隣の白金三光町。ここは麻布、赤坂、芝、白金、六本木住まいは気が知れないと言われる高級住宅街の一つ。
 当時、東京六大学が話題の的、エンタツ、アチャコの漫才にも早慶戦てのがあったほど、その早稲田の選手から監督になったのが大下常吉氏、早速大下さんを訪ねると、おお、よく来たと大歓迎してくれて、勿論ご馳走にあずかる訳だが、毎週通ったそうだ。この大下氏を尊敬していたようで、五戸に戻り青少年のための剣道道場を建て、ここを無料開放したことを、大下氏に告げ、その返信が道場に掲額されている。心のよりどころだったんだろう。五戸に店を開くようになったのは、弟子入りした親戚のおじさんが床屋では食えないと夕張炭坑へ炭坑夫として働きに行くと言うん で急ぎ五戸に戻り、真偽をただせば、まさに夕張に行くところ、それではと、貯金した銭を全部おじさんに手渡すと、涙ながして喜んで、これで汽車賃に困らないと先代の手をしっかと握った。おじさんは昔草相撲で大関を張るほど、力がこもったんだろうナ。床屋道具一式を譲られたが、店と言っても軒先のような店。それでも先代は東京帰りの腕を持ち、いつもニコニコ笑顔を絶やさず、せっせと働く正直者。
 汗して働く姿を認め次第に増えるはお客様。弟子も一人二人と次第に増えて、ごらんのような大所帯。おじさんは繁盛させられなかったが、先代は大繁盛、おじさんは子供が十一人、その一人が大相撲の呼び出し奴、美声呼び出しと評判高いカンキチがそのひと。六歳で呼び出し世界に入ったそうだ。幼い子が辛い修行に寝小便垂れたことだろうなァ。親は夕張に行っていないんだが、ある日、店の前を行ったりきたりする十四、五の少年がいる。誰だろうと先代が見ると呼 び出しカンキチ。出世するまで帰ってくるなと言われても、故郷忘れる者はいません。夢にまで見た五戸町、秋田巡業の帰り道、一目見たさの故郷の町、見慣れた坂や森また林。そのまま帰るも良いけれど、先代の顔もみたいが出世は遠い、しかられるかな、このまま帰ろうかなと思案しながらウロウロ。
「カンコウ、入りな」の言葉を待ってましたと脱兎のごとくに店の中、ああ、よく来た、大きくなったなァと思案したのが馬鹿みたい。一族郎党が集まって心ばかりの祝宴開き、志を果たしていつの日にか、帰らん、山は青き故郷、水は清き故郷と合唱、カンキチがこれを機に五戸に顔を出すようになりました。
上の写真が先代の造った剣道道場。ここでクドウ床屋が少年剣士の道を踏み出しました。剣を取ったら日本一、二、夢は大きな少年剣士、赤胴鈴の助だ。小学校四年で初めて竹刀を持ち、五戸で教わるだけではもの足らず、南部鉄道に揺られて八 戸は十三日町の三新スポーツの裏の道場に通った。槻門さん、石亀さん、野沢県議などに稽古をつけてもらいましたヨ。中学三年で三戸郡剣道大会に出て、五位に入り初めて賞品を貰ったの。今まで誉められることが少なかったが、賞品貰ったのが嬉しくて剣道に励むんだから単細胞丸出し、でも、人間なんて多かれ少なかれ、誉められたり物貰うのが嬉しくて、はしゃぎ廻るもんだヨ。
 子供はおだてて、誉めて育てよ、の言葉があるが、実にそうしたもんだヨ。クドウ床屋を見ててもそう思う。
 五戸高校に進学したけど剣道部がない、なけりゃ作ろうと三年生を焚きつけて部を創立するところはなかなか賢い。その剣道部で青森県大会に出場し、な、なんと準優勝。これで血が頭に昇りきっていまだに降りてこないんダ。こうした人は幸せだヨ。一生夢見てボウっとして暮らせるんだもの。子供がそのまま大人になったようなもの。丁度、青森県知事みたいな もんだ。とっちゃん坊やだヨ。高校で初段、二段と順調に実力向上、修学旅行に行く金を貰って水戸の剣道道場に武者修行に行く。そこの道場主は戦前、京都にあった武道専門学校の卒業生、二段のクドウ床屋が赤子の手をひねるように簡単に投げ飛ばされ、終いには馬乗りになられて亀の子状態。自信と自慢の高い鼻はへしおられた。そこで一ヶ月ミッチリ教えられ、男の子がないので養子にこいとまで見こまれるも、私は長男、ごめんなさいと両手をついて謝った。そして青森県剣道秋期大会で準優勝。その実力が認められ日本大学が特待生で誘いましたゾ。そこで知り合った一年生、合宿所で同じ釜の飯、それを食ったのがアンタ、梅宮アンナの父、辰夫だよ。上の写真右端のチンチクリンがクドウ床屋、竹刀で頭ぶたれすぎて背が伸~びない。梅宮は前列左三番目。
 なんで梅宮が剣道部? この人は品川戸越銀座の医者の倅、甘いマスクで女が騒いでどうにもならない。高校ではハイジャンプの選手、東京都 高校生記録を持ち、百七十九㌢を飛ぶスポーツマン。水谷八重子の娘や江利チエミなんかから合宿所に電話がかかる。「クドウ床屋、うまいこと言ってヨ」、と夜遊びで門限に遅れる。大体、親が言っても言うこときかないので合宿所にブチ込まれた。
親の意見も合宿所も屁のカッパ、なにしろ高校生で松竹から映画に出ろとスカウトされるほど。クドウ床屋は目の玉ひんむいて驚いたのなんの。松竹? 水谷八重子の娘? 江利チエミ? 今まで松竹って映画は見たけど、出演する人初めてみたヨと、アア、東京は何て刺激的な所なのかと、しばし呆然、空中遊泳、日大に入れてヨカッタ~。しみじみ思ったゾ、「梅宮、門限遅れそうになったら裏の木戸開けておくがら、こっそり入ったらよかベ」クドウ床屋も悪い知恵つける。「だども、今度はオラも江利チエミに逢わせてけんだ」「お前は訛がひどいからだめ」「だども…、ならおみやげ貰ってコ」クドウ床屋は門限破りの片棒を担 ぐのでありました。そして二年生のある日、梅宮が来て、「クドウ床屋、俺は今度東映のニューフェイスに合格したから、学校はやめる。俺と一緒に合格した女は三田佳子だヨ、これからはサインの練習が忙しい」と、日大の合宿所、これは下高井戸にあったが、そこからドロン雲隠れ。
 それからの活躍は皆様御存知の通りでゴザマス。一年生の時は炊事係りを一緒にしまして、豆腐一丁買いに梅宮の親父の外車を無断で合宿所に持ち込んで、それを梅宮運転、クドウ床屋は隣で鍋持って豆腐屋に乗り付けるんだから、豆腐屋もあきれたネ。
 「外車乗り付けて学生が豆腐一丁買いに来る、世も末だ」。鍔釜でコゲ飯作って梅宮と二人で、それを握り飯にして食べたり、江利チエミがくれたウイスキーボンボンに、世の中にゃ、こったらうめえもんがあったんだと驚嘆、アララ、紙面が足らない、この続きは叉、来月。
続く。

2009年3月9日月曜日

八戸及び八戸人13 この道一筋四十年、日本の宝を生み出した大川みほさん

東北の片田舎八戸に功成り名遂ぐ(こうなりなとぐ・手柄をあげ、名声も得る)秘密の場所があるとしたら聞きたい聞きたくありません? 大きな声じゃ言えないけど小さな声では聞こえません。その場所は八戸のウルスラ学院音楽科。ここは日本一への登竜門。でも知っている人は一握り、知らない人が多いからこそ登竜門なんです。
 ここで四十年教鞭をとり続けられたのが大川みほ先生、旧姓は西田みほ、青森県は下北郡川内町で誕生されました。これを義太夫風に言えば、
「父の名は要一、母はひでと申しまする」「して父母の仕事はいかに?」「あいあい、共に教師でござりまする」「すると転勤族で、そちはいかほど苦労しやったか」「小六の頃、父母は転勤し山の奥、残された兄妹は祖母の家にて下宿住まいで ござりまする」「エ、エエッ、幼い頃より苦労を味わい、辛いことであったよナ」
この少女は父親が呪文のように「音楽の教師になれ」と言い続けました。、それが見事成就となりました。青森高校に進学し弘前大で英語にしようか、それとも音楽とお悩みになる英才です。そこで父親の言葉が生きました。音楽はピアノをとりました。でも、やはり声楽と思い直して発声練習。 ピアノはそれなりに楽しいんですけど声楽は楽器を運ぶ手間がいらないだけ便利でもあります。ただ自分が楽器のため、絶対音階を擦りこむ時間はかかるんです。でも、弘大生の西田みほさんはそれを苦もなくこなしまして、仲間と音楽のツアーをして歩きました。
もっとも、この西田さんが在籍していた青森高校の生徒たちは少々ならず図々しいところがありまして、大川先生の生まれ故郷の川内町に高校生の身で音楽会を演奏に出かけるんです。好きなことして人に喜んでいただけるを体で覚えると、 その道にどっぷりはまります。
大川先生は前列右四番目、麦藁帽子を手にされておられます。通りを歩いている人は下駄ばき、古き良き時代でした。これは高校の頃のお話です。大学時代はおおがかりになりまして、県内をくまなく廻りました。先生は中学時代から音楽に親しんでいましたが、なにしろ一九四三年生まれでおられます故、川内中学の音楽部では木琴を担当していたんです。エッ? 嘘ではありません、証拠の写真が次ぎです。なにしろ先生は戦時中に誕生されましたから、そうしたこともあったんです。なにしろ戦争に負け、アメリカ兵が進駐してきて、基地の傍の質屋に壊れたと称して不正に軍隊から持ち出された楽器がピカピカ光って陳列される以外にヤマハも日本楽器も製造しません。宮田ハモニカが唯一の子供の楽器、それを口に当てているんです、曲目は何でしょう、昔のことですからNHKのラジオ歌謡曲でしょうか。
そんな少女時代もありました。昔は、東海道線の浜松駅に「ハモニカ」娘が駅弁の代わりにハモニカを売っていました。それを作ったのが浜松の河合楽器です、昭和九年からハモニカを製造し、戦争も終え人心が落ち着いてきて、楽器を演奏する余裕も出てきました、ピアノの河合はこれで大儲けです。世の中は良くしたもので、辛く厳しい時代を経てこそ、喜び輝く時を味わえるもの、平々凡々に過ごすと人生の機微(きび・容易には察せられない微妙な事情・おもむき)を知らずに年を重ねてしまいます。
人間という者は平々凡々に大過なく人生を送る者より、苦しく辛い年月を重ねた人こそ、チョットした人情にも喜びを感ずることができるようになります。だからこそ、他人の境遇境涯にも同情し、共に涙を流し、
「そして、でもね、ここでへこたれちゃダメ、あんただからこそ出来るの、私には判る、だから、もう一度ここやりなおそう、サア、元気を出して もう一度」
大川先生はこう言って門下生を励ましていませんか、あの人はそうした人です、これを仏門では観音力と言う言葉で呼び、キリスト教ではマリア様のような、と言う表現を用います。これが長い間生きていく、いえ、生かされていく上で、数少ない者に許される希な力なんです。我を忘れての言葉があります、我が身をかえりみずの言い方もあります、人の世に生きていく上で、金の苦労に人の苦労、いくつもいくらも乗り越えなければならない人生の山坂、もしお金があったら、この子にしてあげたい、大川先生は何度もこの言葉を呟くけど、金の苦労はまた別の世界、ここで教師はつまずくんです。したい、させたい、してやりたい、でも、どうしても手を差し伸べることの出来ない事もある。それでも先生は言います。
「サア、元気を出してもう一度」
そうなんです、人生に二度はありません、たった一度の人生、まるで方向の見えなくなった夕暮 れの道、なんかの拍子につまずき転んで、泣きじゃくる、黄昏時(たそがれどき)は誰でも忙しく、他人のことは見ても見ぬふり、サッサと行き過ぎるだけ、でもネ、元気を出して起きあがり、体についた泥と埃を叩いて落とし、もう一度頑張ることは出来るんです。
けれども万人にそれは許されてはいないんです。ごく限られた、自分自身が何者であるかを見定めることの出来る信念と執念のある者にしか許されてはいないんです。
大川先生の登竜門に音楽に目覚め、何人もが足を運んできます。何に一つ非のない、つまり可も不可もない恵まれた家庭の子女は、人生の蹉跌(さてつ・つまずき、失敗)を味わうことなくノンビリと過ごしてきました。だから大川先生の厳しい指導に音をあげる。せっかく登竜門にとっつきながら激流を昇りきれないのです。登竜門を解説すれば、卑弥呼が出てくる後漢書東夷伝と同じ頃、後漢書党錮伝に、こう書かれてあります。黄河中流にある急流で有名な竜門、ここを登った鯉は竜になる。これが登竜門の語源、困難ではあるけど、そこを突破しさえすれば立身出世ができる関門。富裕な子弟はこの大川みほの激流に音をあげるんです。ここを嬉々として渡る者はいません。でも、辛さに耐えて耐え抜いて渡った竜女たちが出たんです。
そのうちの幾人かをご紹介します。最初は加賀ひとみさん、この人は幼い頃からピアノを練習し、音楽の道に進むと決めていた訳ではありません。宝塚にあこがれ、バレーをしていれば宝塚に入れると漠然と夢見ている少女でした。ところが中学時代に足を痛めて、医者から体操をしないようにと指示がありました。そして高校受験、そのとき母親がウルスラの音楽科は一年間体育の授業がないからと勧めました。世の中はヒョッとしたことから人生が大きく展開していきます。そして声楽の鬼とまで呼ばれる大川先生と巡り会います。自分の信念を貫き、子弟を必ず一人前にしようと使命感に燃える大川先生の言葉は高校生には刺さるように痛いんです。加賀さんはそれに耐えながら教えられたことを体に刻み込んだのでしょう。その時は嫌だったのかも知れません。宝塚に行きたいという夢は現実の前には雲散霧消します。いいえ、この加賀さんに素質がなかったのでは決してありません。
人生は運なのです。縁がないものは運んでいただけないものなのです。そうなんです、運はみずからを運んでいくのではなく、満潮の汐がみなぎってくるように我が身が運ばれていくものなんです。
世の中、運がいいとか悪いとか、あたかも自分の意志でことが成就するようなしないような表現が曖昧に繰り返されたりするものなのですが、本当は満潮の汐のように我が身は翻弄(ほんろう・思うままにもてあそぶこと。てだまにとり、なぶりものにすること)されるだけなのです。でも、わずかなりとも自分の意志がそこに介在するような自尊心だけが運は自分の意志でどうにかなると耳元で囁きますが、なぐさめ以外の何物でもないんです。
加賀さんは九人いると伝えられる知的活動の女神ミューズに運ばれます。この神たちに見こまれるとどうあがいても逃れることなんかできないんです。次第に音楽の楽しさに目覚め、加賀さんは芸大進学を決意します。そして受験、でも失敗してしまいました。何ごとにも興味を持てず、浪人と称して東京で一人暮らしを始めます。両親の仕送りを得ながらぼんやりとしているうちに、アルバイトを開始、それはそれなりに面白く、月日の経つのも夢のうち。気づけば東京でも一、二と呼ばれる百貨店のブティックで楽しく働いていました。それはそれで楽しいのですが、何かもの足りなくて、その頃知り合う友は、皆音楽関係の人ばかり。三年も受験から経過していたんです。歌謡曲の歌手たちを集めるプロダクションの人に、思わず自分の境遇境涯を語っていました。
ミューズの神の作用なんです。すると、その人は大学進学を勧めました。ブランクがあるのに、でも、どうしたらいいかしらと、加賀さんは受話器を挙げ、大川先生に電話をしていました。あんなに厳しく、あれほど辛い時を送った大川先生に思わず知らず電話をしていたんです。
大川先生は「どうしてたの」と心配してくれました。その言葉を聞いてどんなに胸が熱くなったことでしょう。そうして受験を喜んでくれました。先生に歌を聴いていただき、三年半も音符も見ずに暮らした加賀さんが、心機一転また音楽の世界にのめりこんで行きました。今度は時間がなくてダメでも必ず合格できるワ、と大川先生は励ましてくれました。それは満月が大きく空に確かな位置 を占める、葉ずれの音もさわやかな空気の澄んだ秋のことでした。それから死にものぐるいの勉強を開始し、何と見事に芸大に合格したんです。三年半の空白は加賀さんが一年に合格した時、下級生の林満理子さんは四年生、それでも加賀さんは希望に燃えていました。ミューズの神に微笑まれた人は、どんな紆余曲折(うよきょくせつ・事情がこみいっていろいろ変化のあること)があろうとも必ず願いは成就するように出来ているんです。その後、芸大の大学院に進み、今は美貌とメゾソプラノを生かしオペラの世界の主役を努め大きな花を咲かせるようになったんです。
大川先生は人を育て伸ばす天賦の才があるんでしょう。それも、その道の一流へと導く偉大な力が…。
オペラの開始は日本歴史では秀吉の時代、刀狩りが行われたころです。世界に通用する日本の代表的女性歌手は三浦環(みうらたまき・東京生れ、東京音楽学校卒。帝国劇場歌劇部に入り、のち欧 米各地で歌劇「蝶々夫人」などに出演、国際的な声価を得ました。この三浦環もお嬢さん育ちで女学校の教師に才能を見いだされ進学を決意しました。親は婿を貰うことを条件に進学許可、滝廉太郎に師事し、明治三十六年、日本初の歌劇「オルファイス」の主役をつとめました。卒業後、離婚、再婚という試練をへて欧州へ勉学に出ます。俗に言う洋行です。ロンドンで実力を認められ、アメリカで花を開かせ、蝶々夫人の作曲家プッチーニから「世界唯一、理想的な蝶々夫人」と賞賛されました。なんと名誉なことでしょう。ここでも、女学校の教師が重要な役割を担っています。人生は人間対人間の真剣勝負の場、もし、環の女学校の先生がいなければ、世界のプリマドンナ三浦環は誕生しなかったんです。
ここに人生の不思議さを感じませんか、加賀さんが大川先生と出会うことがなかったら、バレーで足を悪くしていなければ、ウルスラ高校に進学もしていないんです。加賀さんの人生を大きく左右させたものはミューズの神以外考えられますか。
芸大に進んだ林満理子さんも素晴らしい才能に恵まれた人です。松田トシ賞を受賞し大学院に進み長野県小諸高校の教師となり、生活を一応安定させ、山口大学に招かれ教鞭をとり、今年の十 月二日、東京で開催された「第三十六回イタリア声楽コンコルソ」で金賞を射止めるも、この人の実力から言えば少々不服があるんです。やはり小渡恵利子さんと同じ大賞を手にしてもおかしくない本格派なんです。時に人間には運が作用する事があるんです。でも、この林さんは努力の人、きっと大きな賞を手にすることでしょう。根城中の合唱部出身で声に透明感のある美人です。
さてさて、この大川先生が日本の宝を生み出したと書いたけど、いつになったら、その宝を見せるのと、気の短い人の声がきこえますけど、慌てることはありません、夜道に陽は暮れないと申します。ゆっくりとお聞きください。
その宝は倉石村出身の皆さんご承知の小渡恵利子さん。
この子には天性のものありと見通した大川先生は声を造る指導をします。ここが存外難関なんです。でも、見事に変えてきます、それも先生が理想と描く領域にまで。
声楽の鬼、大川とまで言われるほど、徹底した指導は受ける人物を大きくします。でも、それは辛さを辛さとして受け止めることのできる人だけが得ることのできる果実なんです。小渡恵利子さんの話は幾つもしなければなりません。この人は必ず世界に通用する歌手になります。三浦環をしのぐ歌手になることでしょう。この人の実力は世界レベルなんです。でも時折自分を見失って、どうしようと悩むんです。これは人間ですもの致し方のない部分なんです。この人は厳しい境遇に追い込まれました。親が事業に失敗し金銭的な悩みの中に投げ込まれたんです。本人は何の関係も ないんです、親の仕事上の事なんですから。でも子供というのは、そうした事を恥と受け止めます。金の世界は人間にだけ存在します。
大坂人は道ばたで「もうかりまっか」「ぼちぼちでっな」と言うのがしきたりのようなものですが、これも人間だからこそ、こうした会話をするものですが、犬が片足上げながら「もうかりまっか」とは言いません。なにしろ、犬の世界にお金はありません。どんなに気の利いた犬でも、毎月月給を拾ってはきません。
まして高校生の身でお金の苦労は死ぬほど辛く惨めなものです。月謝が払えない、未納者の名が掲示されるは耐えられないものですが、親権者ではない子供の身、平気の平左衛門でいればいいのですが、存外気になるもんで、学校中の人が皆知っているような気に陥ります。でもそうした苦労は本当の苦労ではないんです。人間死ぬ気になれば何でも耐えられます。小渡さんはそうしたことを若い内に体験し、克服する術を身につけたか らこそ、次々に押し寄せてきた悩みに、真剣にそしてうまくかわして行けたんです。
高校三年間は鬼の大川先生の指導が楽しく思えてくるほど、彼女は色々なことにぶつかったんです、でも歌を歌っているときこそ、これが自分、本当の自分だとの確信を得ました。
そして最初山形大学に進学し、一年後に芸大に入学しました。これにも少々事情がありました。どうしても現役入学でなければいけないという、今になって考えれば、なんだか良く理解できないような話だったんですが、小渡さんは寡黙に耐えるんです。二十歳になるやならぬ若者です、周囲の都合に振り回されてしまいます。そして更に自分を見失ってしまうものなのです。
でも彼女には天賦(てんぷ・天が授けた)の才能があり、それがたまたま殻に覆われて外に出ないだけなんです。大川先生はそれを惜しみました。でもネ、どんなに判っていてもどかしく思っても、一介(いっかい・たかだか、わずかな)の教師に 出来ることと出来ないことがあります。教師は自分の畑である音楽の指導なら、他に負けない自負(じふ・自分の仕事や才能に誇りをもつ)も矜持(きょうじ・自分の能力を信じていだく誇り)もあり、大川先生の熱心な指導ぶりは青森県のみならず中央にも轟(とどろく)くようになっていました。
そんな自他共に力量を認める大川先生でさえ、家庭が抱える悩みに首を突っ込むことはできないのです。ええ、おっしゃる通りなんです。そうした悩みは各自が解決しなければならないんです。でも、大川先生は指導こそ厳しけれど、母親が我が子の帰りを門口で待ちわびるような優しさがあり、それが大川先生を衝き動かすのです。その優しさゆえに卒業後の子女をいつまでも心の底にしまいこみ、時折どうしているやらと案ずるのです。だからこそ、加賀さんの時も、すぐ帰ってらっしゃい、いい方法を考えるからと適切で、それでいて情愛のこもった言葉がとっさに出てくるのです。
だからこそ、であるからこそ、先生の教職四十周年コンサートにも、世界のプリマドンナたらん小渡さんも、加賀さんも、林さんも、今回は時間の都合で詳しく紹介できなかったけど、遠く異国のパナマ国立大学芸術学部教授になられた中川昇子さんも参加してくださるのです。この中川さんは第三回生、家庭の都合でいったんは音楽の道からそれてしまいますが、持ち前の頑張りと不断の努力で自らの道を切り開いていかれました。それが、あろうことか、あるまいことか、日本で花が開くのではなく、中川さんの実力を外国の人が認めて、あなた以外に私たちの国の若者を導ける者は見あたらないと、固辞しつづける中川さんを説得します。相談を受けた大川先生は、「サア、元気を出して外国に骨を埋める気でおやりなさい、それほど認めていただけて、教師冥利に尽きるというものヨ」と励ましたんです。中川さんは今や押しも押されもしない国際的な指導者でありソリストなんです。
道が少々逸れてしまいました。大川先生の話はまだまだ紹介しなければならないことが沢山あります、紙面の都合で今回出演の一人一人について熱く先生は語られますけど、掲載枚数に限りがあり、ごめんなさい、掲載しなかった方たちを先生は忘れているんじゃないんです。
 そうそう、小渡さんは芸大に入り上浪明子先生に教えを請います。彼女の才能を認め上浪先生は腰の入った指導をされました。でも小渡さんは先生への謝礼が払えないんです。皆、誰でも一流を目指す音楽家は、これと目指す先生から個人指導を受けます。ちょうど武者修行のように、実力、ナンバーワンの先生に、一対一で奥義の伝授を得るんです。小渡さんは必死です。小渡さんの努力の真似は誰もできないかも知れません。授業の合間に築地の弁当屋で朝の五時から昼の一時まで働き通しました。すこしでも食費、学費を稼ぐ必要に迫られていたんです。誰も助けることの出来ない険しく胸を突く人生の坂道を小渡さんは必死で這うようにしながら登り続けます。なんで、どうしてそこまでしなければならないの? 小渡さんはこう答えたでしょう。だって、歌は私の命、私の存在そのものなんです。
 だから、バイトができずお金のない日は、小渡さんは行きたくても上浪先生の所にレッスンを受けにいけませんでした。行きたくなくて行かないは自分の意志です。お金が無くて行けないは辛いことです。
 上浪先生が大川先生に電話をかけてこられました。「大川先生、私も小渡がお金のない苦労をしているのを知っているワ、お金のことは心配しないで来るように言ってネ、あの子は私たちの宝ヨ、いいえ、あの子は必ず日本の宝になるの、私にはそれが見える。タダと言うと小渡のことだから来ないと言うワ、だから、出世払いということで大川先生、あの子に伝えてください」
 それからの上浪先生は小渡さんに自分の持てる物の全てを無料でお教えになられたんです。勿論、出世払いですもの一円も貰わずに…
なんと言うことでしょう、上浪先生は不治の病に倒れて、亡くなってしまわれたんです。
大川先生は泣きました、小渡さんはハンカチを固く握りしめて涙をこらえます。大恩を頂き、それを返す事も出来ずに黄泉の道をたどられた上浪先生に、どうして感謝の言葉を伝えればいいのか、小渡さんは葬儀の日に、大恩ある教師、上浪先生の柩に向かいアベマリアを心をこめて歌いました。お世話になったのは上浪先生ばかりじゃない、青森市で小渡さんが公演したとき、楽屋を訪ねて来た老婆が、こう言いだしました。これから貴女が着るドレスを私がプレゼントしますと。この人は衣装を造るプロでした。公演があるたび、約束通り仮縫い衣装が公演練習日に届けられ、そこに老婆が来て調整をし、それを本公演には間に合わせる神業です。いくつも造ってくださったんです。どうしておばあちゃんは小渡さんに造ってさしあげるんですかの問いに、「人生、一つくらい損得抜きで人に奉仕がしてみたかったの」屈託のない玉を転がすような笑い声が今も耳に残ります、エエ、その後、この方もほほえみを浮かべて亡くなられました。小渡さんに着きれないほどの量の衣装を残して…。
まだあります、十和田市のソロプチミストが婦人向上賞に、苦学しアルバイトを続けながらコンクール優勝を目指す小渡さんこそ、同会の日本本部表彰者に最適と推薦、これが認められ二年間奨学金が出ました。これを陰で画策されたのも大川先生でした。名前は明かせませんが、その外にも幾人もの方たちが…、青森県教育厚生会、倉石村も彼女に力を貸しました。さらに、八戸市の三八五貨物が引っ越しのTVコマーシャルに小渡さんを抜擢し安定した広告契約料を頂きました。これらは若い日々に、しなくてもいい苦労をされたご褒美にと天が小渡さんに授けたのでしょう、誰彼の別なく引き立てられ、好かれるのは小渡さんの個性以外のなにものでもありません。人生、楽は苦の種、苦は楽の種、まさにその通りじゃありませんか。
さて、いよいよ最後になりましたが、ここでウルスラ高校音楽科卒業ではありませんが、バリトンの福山出(いずる)さんを紹介して、大川先生の門下生の話を終えます。
 福山さんは工大二高卒、国立音大を卒業、テノールの錦織健と同門です。福山さんは芸大受験するもピアノで落ち、国立音大に入りました。テノールよりバリトンの声だと教授から言われ、二年半かけて声質を低音に作り替えます。プロはこうした努力を人が見ないところで必死にするものなんです。ここが並の人間と違うところです。
 この人の実家は新郷村、ええ、あのキリストの墓のある村です。なにしろ希有のほら吹きが新郷村にいたんでしょう。ゴルゴダの丘で殺されたのは弟で、兄はここまできて死んだという、あまりの誇大妄想にめまいがします。ここにバイテンという売店があります。ヤマザキのデイリーショップです。ここが福山さんの実家です。変わった名前です。つけた人の顔がみたいもの。上の写真のデカイのが福山さん、高校では柔道もされていました。今は二期会に所属しています。大川先生に、この人はどうですかと尋ねました。錦織さんより上に行けそうですかの問いに、ズバリ「福山君は錦織より実力はあります、期待できますヨ」と断言。あの、人を誉めないことで有名な大川先生が、福山さんに嘱望(しょくぼう・将来や前途にのぞみをかけること。期待すること)されているんです。私たちはこの福山君に期待しましょう。そして、大川先生の門下生たちの今後の展開を見守りましょう。幸い地元新聞のデーリー東北は大川先生の門下生たちへ熱い期待をかけてくれ、いつもそ の動静が手に取るように理解でき、ありがたいと感謝しています。声楽やオペラはどうも一般市民の関心を引きにくい芸術ではありますけど、こうして地道に多くの子女、子弟を育て続けた立派な教育者が八戸にいることを心の隅に刻んでください。そして願えることなら、これらの若者が日本を代表する声楽家となれるよう声援、応援をお願いします。小渡さんほどの大人物でもまだまだ生計は楽ではありません。他の者は押して知るべしです。長い間、声楽、音楽を通して多くの才能溢れる人々を世に輩出してくださった大川先生、ありがとうございます。そしておめでとうございます。貴女を、もしウルスラ高校が得なければ、こうした結実を見ることはありませんでした。更にウルスラ高校が大川先生を支持し、好きなように子女を教育させたことを喜びとします。この大いなる心がなければ偉大なる指導者大川みほ先生も存在しなかったからです。私たち八戸市民はこの目で、この耳でウルスラの活動をみさせていただきました。五輪の伊調姉妹を八戸市民の誇りとするような熱いものを… 本当に本当にありがとう。

2009年3月8日日曜日

八戸及び八戸人12 水産都市八戸を見続けた男、島守巌氏

昭和三十四年のデーリー東北新聞に二十歳代の経営者が連載され、その中の島守さんは大した男だと感心、鮮魚の仲買商をされていた。その人がその後どうしたかを知りたくて探すと、鮫のダイマル水産の会長をしておられた。
八戸屈指の水産会社にまで昇りつめられた島守巌さんの働きぶりを振り返りながら、水産都市八戸の流れを振り返ってみよう。参考資料は漁連三十年史。
日本が戦争に負けました。優秀な八戸の漁船は徴用され、日本各地のみならず外国までもでかけ、魚雷や爆弾で沈没した船もあったんです。漁船の乗り組み員も戦争にとられて、浜は女子供や老人ばかりで、四万四千トンの水揚げがあった八戸港は灯が消えたようなありさま。
 沖合に魚がいても船がない、漁師もいないという状態、それでも飯は食わなきゃならな い、魚は経済統制で配給制、いやあ、食べる苦労から始まったんです。役所も内地の人、さらに外地から引き揚げてきた人たちを食わせるために、規制を緩和しましたとも。木造船を二つに切って、大きな板をつないで大型に船を造りかえたんです。
 無茶な? ええ、無茶を承知でやったんですよ。そんな船に乗り込んだ漁師は怖かったと言っていましたとも。いつ船がバラバラになるかわからないんですから。
そんな無茶が通って、八戸の漁獲量も昭和二十四年には戦前なみに戻りました。
イカの町八戸の言葉がありますが、このイカ釣り漁業は戦後爆発的に栄えたんです。それには理由があったんです。漁網や漁具には大きな資金が必要になりますけど、巻き網や流し網となれば何キロという距離の大がかりなものですが、何、イカは釣るわけですから簡単な道具があればいい、なにしろ戦争に負けて働く場所のない人が山ほどいるんです。現在は働きたくない若者が山ほどいます、あれは嫌だ、これはいいとえり好みしてるうちに年をとって、若者じゃない馬鹿者になるのも妙な話ですが、必ず年寄りになりますなア、好むと好まざるに関わらず。ハイ。
 イカが沸いて出るほどにいたんです。海の中はどうなっていたか、つまりいかばかりかと言うと、 イカばかりイカばかりで、あいつらは魚類でも人間なみに目が発達している、網ですくうと網の中で共食いして、玉に疵ならぬイカに疵、釣り針でとるイカは活き活きしてて身も厚い。なにしろ、釣り針と糸だけ買って、知己を頼りに方々捜して、イカ船になんとか乗り組む、すると船頭がイカがうようよしてる所に船を泊める。ジャンジャンかかるんだ、イカが。そのとれたイカを船頭と五分分けだ。
 つまり、今の乗り合い釣り船みたいなもの。イカは目がいいから、面白い釣り針をみると、マアいいか食って見ようとなる、魚の餌ならぬ人間の餌と針持って船に乗る、船賃の代わりに獲れたイカを半分置いてくる訳。こうした釣り子たちがウヨウヨしたな。これらのイカをほまちイカと呼んだ。これらは市場を通さずに売買されたんで、漁価が統一されずに混乱。
 戦前は白銀浜でイワシの巻き網が盛ん。ところが、戦後はイワシがいなくてワシが困ったと漁師言い。八戸のイワシ船は福島、茨城まで出かけてイワシを追うも良い年はマレ。
 八戸は底引きが好調。イカと合わせると八戸の水揚げの八割を占めた。イカもほどほどに獲れればいいが、獲れすぎると値段が下がる豊漁貧乏。イカはただでやるから箱を返してくれという、実に奇妙な話もあった。箱が三十五円、イカが十五円、これじゃ箱返してもうなずける。時代が下がってイカ釣り船に強烈なライトをたくさん付けて発電器で光らせる、目がいいから海上にキャバレーができた、それ見に行けって、イカの野郎が急いで海面に浮上、それを浅利研究所が作成したイカ釣り機でどんどん釣り上げる、イヤア八戸前沖もいい時代がありました。船も大型化しました。
底引きは北海道太平洋海域で入会調整問題が発生しまして、昭和二十四年に青森・岩手・宮城・福島・新潟の船百五十隻が操業を認められました。この時期北洋漁業へ進出しました。昭和二十七年青森県に四隻が割り当てられ、三隻を八戸から出しました。赤字でしたが二十八年は八戸から六隻が出ました。二十九年は大洋冷凍母船のサイパン丸、独航船十四隻のうち八戸は七隻が操業、うまく行きましたが昭和三十二年に大洋冷凍母船は日魯漁業に吸収されました。企業が大型化していった時代でした。
昭和二十七年には県外船がサバ一本釣り、サンマ棒受け網、マグロ突きん棒などで九百三十六隻、その後、八戸沖にサバ釣り漁業が形成されたことで昭和三十二年には八千六百九隻もきました。新井田川に船がビッシリと並び、その船を渡って向こう岸まで行けたんです。
昭和二十三年には水産業協同組合法が施行、二十四年には漁業法が整備され、組合には加入・脱退の自由が保証され、自主運営に参加できるようになりました。二十四年から六年にかけて八戸を中心として二十二の組合ができました。
県外船がきても係留する場がない、漁港の整備が必要になります。またイカが獲れすぎて貧乏になる、これを解消するにはどうしたらいいか。これらを討議するために業界も動きました。昭和二十七年の八戸漁業振興協議会がそれです。
八戸市漁業協同組合高谷金五郎、八戸市白銀組合関下松太郎、鮫浦組合宮崎市太郎、青森県鰹遠洋組合中島石蔵、八戸底引き組合中島石蔵、青森県旋網組合秋山皐二郎、八戸市柔魚釣組合大坂由太郎、湊小型組合秋山吉三郎、八戸目抜延縄組合熊谷義雄、八戸刺し網組合柳谷第吉、八戸沿岸発動機組合安達末松、八戸南浜組合二部菊松、八戸小型組合河村正太郎、これに次の組合が参加して、(写真島守岩松さん)昭和三十二年に二十二組合となった。八戸鯖流し網組合、八戸近海組合、八戸鯖一本釣り組合、市川組合、八戸さけます延縄組合、小舟渡組合、榊組合、大蛇組合、荒谷組合、追越組合です。
創立時の役員構成は会長熊谷義雄、副会長秋山皐二郎、副会長高橋勝三郎、理事高谷、中島、大坂、関下、宮崎、柳谷、大下文平、久保保三、町田米次郎、月舘幸太郎、吉田利八郎、秋山吉三郎、倉本象二、夏堀正作、高橋五郎、二部、河村、尾崎市之助、監事佐川真一、五戸勘次郎、岩間日出夫の諸氏。
 懐かしい顔ぶれです。健在なのは高谷さんかな、私の会社の名前、ダイマルは父の姉、つまり伯母にあたる人が、大丸の名を付けた会社は皆、繁盛している。これは縁起の良い名前だからとすすめたそうです。それでダイマルなんです。
 私の父は福地村の近くの出身で、夏堀源三郎さんと親しくしておりました。この人のもとで番頭をしてました。夏堀さんは積極的に水産と取り組まれ、この人なしに八戸の水産は語れません。幼い頃からの苦労人です。豪農の家に生まれたんですが、十三歳の年に家運が傾き、八戸中学を中退されました。漁業界に飛び込み、頭のいい方です、たちまちに頭角を現し、漁業はもとより海産物、回船問 屋を手がけられますが、機船底引き、マグロの流し網、イカ釣り、めぬけ延べ縄(写真がめぬけ)経営を軌道に乗せ、昭和四年湊川魚市場を組織しました。これは昭和七年八戸魚市場ができ、この中に統合されました。八年には市営の魚市場を開設し、その委託販売を社長の夏堀さん、専務の熊谷義雄さんのコンビで業績を向上させます。
 なにしろ湊川魚市場を軌道に乗せた人ですから手腕は抜群でしたネ、父はこの夏堀商店に十二歳から奉公しました。そして昭和十二年に独立して、ダイマルを興しました。四国や九州からの船が八戸に魚を下ろします。父は夏堀商店の番頭でしたから、それら県外の人とも付き合いがありましたけど、そういう人とは取引せず、たまたま八戸に初めて入港し、どこの問屋とも取引のない船頭の荷をさばきました。勿論夏堀商店に遠慮したわけです。取引できなかった人もその事情を知り、主家に弓をひかない位だから信頼できると、自分の友人を紹介してくれ、かえって人気が出たほどです。何が幸いするかはわかりません。でも父は誠実と信頼こそ発展の道とよく言っていました。夏堀さんは昭和二十一年には衆議院議員になり、八戸を留守にすることが多く、役員の不正経理問題が昭和三十六年に発覚し引責辞任、翌年七十四歳で亡くなりました。前にも申し上げましたけど、大洋冷凍母船を経営されていました。北洋、南洋と幅広く船を出した八戸一の実業家でした。南洋マグロをキャッチャー式母船で漁獲する方法は夏堀さんが創始されました。
 漁業で歴史の古いのは湊の五戸岩次郎さんの文久二年、明治十年が浜須賀の秋山熊五郎さん、明治十二年が湊柳町の神田商店神田俊雄さん、二十二年が鮫の岩五商店、岩岡義剛さん、二十五年が白銀の長谷川藤次郎商店、四十年が高橋商店、高橋善蔵さん、大正に入りますと、三年が鮫の宮市商店宮崎市太郎さん、同じく三年に南横町夏堀商店、夏堀源三郎さん、十年が下條の武尾商店武尾憲三郎さん、十二年が湊本町倉本商店倉本象二さん、十五年が小中野新町中石商店中島石蔵さん、昭和元年が下條の吉田商店吉田利八郎さん、二年が鮫の平岡春松さん、八年が小中野北横町の角栄漁業角栄次郎さんなどでしょうか。
 デーリー東北が昭和三十六年に郷土の人物地図という好企画を立て、各界の人物を紹介しました。この年は八戸の魚関係の人々にとって激震が走った珍しい年でした。大工が放火し、白銀が丸焼けになった白銀大火、そして魚市場の内紛で夏堀さんが辞職されました。白銀地区は魚加工の人々が多く、干場がたくさんありましたが、仕事ができず困った状況が長く続きました。
 そんな中、デーリー東北がシリーズで紹介しました。記事を抜粋してみます。
 八戸は全国有数のトロール漁業の盛んな港だ。業界ナンバーワンの実力者として知られるのは吉田利八郎氏(五九)。この道三十年、いまではトロール、メヌケ刺し網、マグロ延縄、巻き網な ど十七隻・一千六百五十㌧の漁船を持ち、全国でもベストテンにランクされる文字通りの実力者でそのたたき上げた漁業者としてのカンと実力は貴重。さる八月には北日本最大の二百四十㌧鉄鋼マグロ延縄船第八十正進丸を一億円で建造するなどスケールは大きい。
 手堅い経営の中島石蔵氏(六四)は浜の指導者 的立場にあり、これまでもニシン積みとりなどで経営感覚のさえを見せ、トロール船第三海晃丸、北洋サケ・マス独航船海晃丸、太平洋サケ・マス船第十三海晃、積みとり船第十明石丸の四隻を的確に動かしてスキがない三つの冷蔵庫を持ち、合わせて製氷日産十㌧、冷蔵能力一千二百㌧という港きっての冷蔵庫経営を続けている。カン詰めハム、ソーセージなどの畜産加工品販売も扱う幅の広さもある。
 名門角万商店代表者の高橋五郎氏(五二)は東京生まれで水産講習所出身のインテリ漁業者。昭和十年に先代に見こまれて八戸にやってきて二 十六年、トロール船第三十二海鳳、第三新栄の両船をフルに動かすほか冷凍冷蔵工場も持ちスジを通した経営ぶりがこの人の身上。先代からこの商店で教育を受け優秀業界人に成長した人は多い。
 柳谷一家の長男、柳谷明義氏(五○)は頭の切れるトロール船主で、業界でも一家言の持ち主、明快な口調のトロール経営論激しい業界の中で 三十年間努力してきた内容がある。トロール船第二十、第十五正寿丸、イカ釣り船第一正寿丸の船主。
弟の勝雄氏(三八)はトロール船第十二北王丸、サバ釣り船第十三北王丸の船主で市営魚市場の大口仲買人の許可を持つ。
 柳谷明義氏の本家筋に当たる第四代柳谷第吉氏(三七)は八戸と北海道稚内でトロール業を営む実力者だ。先代は昭和三十三年鉄鋼船第二十一 久栄丸を室蘭で建造。その合理的経営の教育を受けたこの人も叉、筋金入りだ。現在はこのトロール船第二十一久栄丸、第五久栄、それにメヌケ刺し網船の第十三久栄丸で北海道沖トロール、そして稚内を基地としてカラフト周辺まで船足を伸ばしスケールの大きい操業を続ける。
河村平吉氏(五一)も忘れてならない業界人。 トロール船第十開洋丸、北洋サケ・マス独航船第十五開洋丸を持ち大洋漁業天洋丸船団の南方カツオ・マグロ漁へ十五開洋丸を出している。この船団は新潟、秋田、宮城、山形、八戸と優秀船五十隻をかり集めているが、同氏はこの出漁船団の理事を務める。
このところめきめき頭角を現してきた杉本大福氏(四七)はトロール船第十五みなと、北洋サ ケ・マス独航船第二十みなと丸、メヌケ刺し網第十一みなと、イカ釣り第二、第二十一みなと丸の五隻を持つ。大漁業の北洋サケ・マス独航船からイカ釣り船まで幅広い経営ぶりで、その新感覚による多角経営は定評のあるところ、次代の八戸トロール業界を背負って立つホープ的存在で、根っからの漁業者としての雰囲気が親しまれている。
トロール業界若手第一人者の尾崎鉄也氏(二九)はまったくの魚男だ。捕鯨船を除いたイカ、サバ、イワシは勿論、マグロ、トロールとすべての船に乗りまくり、若者らしいエネルギッシュな 行動の人、トロール船第二十、第二稲荷丸を率い弱冠二十五歳で業界にデビューした独立独歩の男だ。そして三十四年には百八十㌧の大型トロール船第二十五稲荷丸を建造するという離れ技をやってのけた。狭い日本の海だけでは物足りないと、三十三年九月には自費で単身世界漁業視察の旅に出て中南米を廻ってきた。
港のリーダー秋山魚市場社長、八戸地区漁連会長秋山皐二郎氏(五一)はミナト八戸を背負って 立つ中心人物。さる八月十日の八戸魚市場臨時株主総会で同市場社長に選任された。かねて唱え続けてきた漁業者中心の市場運営を実現し、株式会社ながら内容をオール漁連色に染め上げた手腕は理論家肌のこの人らしい。中型トロール船第三十五成田丸を持ち実力は八戸漁港のリーダーにふさわしい。
古いのれん島守氏
遠洋カツオ・マグロ延縄船団第三松福丸船主の 島守岩松氏(五六)は、八戸漁港育ての親の夏堀源三郎前八戸魚市場社長と同郷に近い八戸市烏沢の出身。十二歳で夏堀商店に入り、以来四十五年間魚一本に生き抜いてきた。夏堀、中石、町田の三商店に次ぐのれんの古さを誇る鮮魚問屋である。八戸市営魚市場鮮魚仲買の実力者でもあり、自慢の第三松福丸はミッドウエイから赤道直下までスケールの大きい操業ぶりで、県遠洋カツオ・マグロ延縄漁協組モデル船の一つに数えられている。
昭和三十六年は八戸は沸いていました。魚が獲れて獲れて仕方がないほど。海の幸が獲れなくなるなんて誰も考えていなかったんです。
続く

2009年3月7日土曜日

昭和33年の八戸

行政
一億四千万円という膨大な赤字のため、三十一年四月の市議会で論議の末、ついに同年五月、地方財政再建促進特例措置法の適用を議決してから二年、八戸市の財政はようやく好転、三十二年度は五千四百万円の余剰金が出る見込みとなった。もちろんこれは地財法適用恩恵による地方交付税大幅増額が第一の原因で、いわば他力本願によ るものだが、このほか、税の自然増収、一般経費の節約も大きかった。この結果、市理事者は当初七ヵ年の予定だった再建償還期間を二ヵ年短縮し、三十五年度までには残りの債権債(一億八百万円)を償還したい意向で、市財政の将来はようやく明るいメドがついてきた。
 三三年年度当初予算は六億七千万円だったが六月定例議会で五千万円が追加更正され総額では七億三千万円となった。これは三二年度実行予算に比べて七千万円減、内訳は市税が五十三%、国庫支出金十六%、地方交付税十六%の割合。歳出は社会及び労働施設の一億六千万円が一番大きいが、前年度に比べると三百万円の減、また公債費の占める割合は十二%。財政事情は好転してきたといえ、一般ならびに特別会計を合わせ起債その他の合計五億三千万円に上る借金、その償還とさらに市政充実にふり向けねばならぬため、ここ二、三年、再建団体の枠内での緊縮財政の形が続くものとみられる。

機構改革 三二年度二月設立された民間有力者からなる総合振興会とタイアップして市の産業振興を強力に推し進めるため同年七月、企画室が新設された。部内の助役、交通、水道両部長なら びに庶務、土木港湾、農林、商工、水産各課長が委員となった。室長は林商工課長の兼務、また同市の都市計画は三一年一月認可を受けたがこの仕事を推進するため、従来の土木港湾課から都市計画課が分離独立し、庶務秘書係りが一月一日付けで昇格、秘書室として新設され、全部で二部一一課三室となった。
合併問題 三二年三月、県の合併勧告を受けて以来くすぶりつづけていた大館村(八六二世帯、六千六人)の合併問題は三三年三月に至ってようやく村側が合併に踏み切り、市側に意思表示をした 結果、同年九月十日を期して合併が実現する運びとなった。またかねて五戸町に分布を希望していた豊崎町豊間内部落(二三四世帯、一六五七名)は関係市町の円満な話し合いがつき、同年六月一日から分布、五戸町に編入となった。
第二工業地帯造成と港湾建設 三角地帯の北側にある八太郎沼及び北沼付近一帯約一五○万坪を第二工業地帯として造成、大工場の誘致にあてるものだが、東北砂鉄鋼業八戸精錬所が製銑、製鋼一貫工場を建てるため敷地一五万坪を市に要請したことが契機となったもので、市では八太郎 地区の地主九六名の離作について十月頃から交渉を進め、三三年五月末に至りようやく全地主の用地買収を完了。
市民会館と故神田市長銅像 三二年八月三十日、千六百万円の工事費で着工した市民会館が三三年四月末、第一期工事が完成。木造モルタル約二三○坪の大ホールで収容人員は最高千五百名、引き続き第二期工事(木造モルタル二階建て三四五坪、会議室、郷土品展示室、食堂など)が同じく一六○○万円で行われる。
港湾計画生みの親の故神田市長の銅像除幕式が 三三年四月、市内湊町上ノ山の館鼻公園で行われた。八戸市出身の彫刻家名久井十九三氏の手による。
小中野魚市場新築と館鼻開削街路の着工 水揚げ量の年々の増加にともない従来の鮫魚市場だけでは処理できず工費一億三千万円で鉄筋一部三階、のべ建て坪三四六三坪の新魚市場を新井田河畔の小中野場尻に二ヵ年計画で建てる。
三二年大火で焼失した尻内駅前を区画整理、組合を設立し、約六○米の整理。
八戸沖のイカ大量貧乏解消として、地元業者は県知事の許可制を要請していたが、十一月期間を三五年三月末までとして水産省から認可、三三年一月県イカ釣り漁業臨時調整規則として交付、同年の夏イカ漁期から全面実施。この結果許可対象船は三一、三二年度の操業実績を持つ者に限定。許可申請船は四五○隻に達し、八戸漁業のガンとい われるイカ釣子の身分確立なども遅遅として進んでいない。
不振な三八漁協組の育成と生産者の団結で経営 合理化と安定を計るため、三二年七月八戸漁業連合会(会長秋山皐二郎)が十七単協参加によって 誕生。
三三年度以降の市の主な事業 市庁舎の新築(二ヵ年で建築費一億八千万円)衛生センター(汚物処理、し尿処理施設)、第二期上水道、(給水人口十五―二十万人)。
三十五年度から全市国保が施行される予定で、これに先立ち県厚生連三八城病院を譲り受けて私立病院とする計画も三三年度に終わるが三四年度には白銀三島上に労災病院も予定。定例市議会で敬老年金(八十歳以上、年額二千四百円)の支給条例も決定。

2009年3月6日金曜日

BeFmの脆さの原因

聞こえないラジオのビーエフエムは経営努力不足もさることながら、根源的原因を解消しないから十年経過しても市民の役に立たない。
 そもそも地域限定のFm波はNHKが最近Fm誕生四十周年と叫ぶように、ようよう壮年期に入った。見通し距離しか飛ばないという特性を持つ電波に全国規模の伝播力を期待できない。狭隘な地域情報発信が根源。そこで、これを市町村単位で免許することになった。丁度十年前だ。
 なんで、このビーエフエムが誕生したかを、昨日面談した市役所職員、防災課の二十代と思しきは知らなかった。もっとも二十五とすれば十年前は中学生だ。知らないのも当然のような気がするが、総体に市役所職員は不勉強。議会事務局に勤めながら、議会史すらも知らないのがいた。配置転換時に勉強させないのかネ。勉強・指導なしにワイワイ群れているのじゃ下北の猿とどこが違う。あやつらは動物園から捨てられた猿。市役所職員は給料を貰うと立場が違う。
 このビーエフエムの誕生は、青年会議所の構成員だった、米屋の倅と車屋の倅が、携帯電話のはしりに手を出した。大体、八戸人は流行り物に手を出す傾向あり。そして、すぐに飽きる。
 この地域携帯電話会社設立に悪感情を抱いた仲間に入らなかったか、入れてもらえなかったかは判らぬが、こいつらが八戸特有の足ひっぱり。儲けるのはきゃつらばかり、自分たちには声もかからなかったとか、洟もひかけてもらえなかったと大騒ぎ。挙句、あんなものを使うなと連合軍で拒否。五戸の入り口に巨大なアンテナを建て、小屋も準備し投資をしたのはいいが、利用者が少ないのに、競争相手が登場、それがドコモなどの携帯電話会社、東北電力なども参入し競争は激化。
 そこに中里市長が就職を依頼された会話が盗聴された。これはビーエフエムの前身の携帯電話を利用していたことによる。慌てて中里市長はその利用をやめた。そしてお定まりの凋落。
 「はちのへ今昔」が地域Fmラジオ認可をすすめているときに郵政省から地元商工会議所の協力を得ろとの指示があり、相談をしたところ、自分たちでやったわけだ。車屋の塚原氏に広域でやるべきだと「はちのへ今昔」がいうが、郵政省から五戸入り口の小屋と電波塔を他の携帯電話会社に買い取らせる相談が出来ていて、広域でやるには電波の発信場所を失っていた。
 Fm波は見通し距離のため、電波塔は高ければ高いほどいい。ところが売却したため足がかりがない。階上岳に電波塔を建てるには権利がモゴモゴと出来ない条件ばかりを並べた。挙句、八戸市役所に摺り寄って、市役所の上にアンテナを建てた。
 あせってやるから足元固めが出来ずにヨロヨロ。電波は十分に飛ばないから小中野でも聞こえない所が出た。改良改善などする気もなく、広告広告と銭のことばかり十年言い暮らしてくるがどもこもならぬ。ドコモにやられてどもこもならぬ奴らは、市役所に泣きついた。それがビーエフエムの放送局の入り口をバス待合室にする件。これは新幹線対策で感心センやり口。これが打ち切られて、こんどは哀訴で広報調整課に泣きつき、広報番組を増やすから補助をくれで、五百万をふんだくった。
そして、これを「はちのへ今昔」にブチ抜かれた。こんな補助は無意味だという論法のなかで、広域断水事件。これは人災。
 ここで広域緊急情報の発信が問われた。地域Fm放送がそれを担うはずだったが、初手からそれを拒否し、あせりにあせって携帯電話事業の赤字解消に走ったビーエフエムの咎めが出た。
 広報調整課も電界強度の確認もせず諾々とこれを容れた。そしてこれが既得権となり毎年踏襲される愚かさ。ビーエフエムはこれを好機と捉え、階上岳にある民放のアンテナの下を間借りし電波を出すことを考えるべき。貧乏人だけに自前のアンテナは立つまい。立たなきゃ立った奴の力を借りるのサ。
 そんなことにも頭が廻らず銭の苦労でアップアップじゃ溺死も間近い。その前に広域に電波を出す工夫をしろ。そして巻き直しで、広域から参加料を得るのサ。そうすれば防災を軸としたラジオの意味が見える。Fmラジオ登場し四十年。防災無線ばかりが情報提供じゃない。暮らしに直結する情報のなかの一部に緊急情報がある。楽しい話、嬉しい話題満載のラジオが生活に潤いを出す。それを忘れて銭、銭とばかり叫ぶビーエフエムの経営者は交代するか、広域を管轄する第三セクターなどに身売りするのがよかろう。本来なら「はちのへ今昔」に無償で渡すが良いが、こちとらも少々くたびれた爺になったので願い下げだ。
 今回の断水で緊急情報の有り様が問われた。おいらせ町のように防衛省をだまして一台5万円もする受令機をそなえるところもあるが、普段はダンマリを決める防災無線機に電気を通す意味があるのか。ここいらも考えるところだが、時代は変わり人々の生活様式にも変化。八戸市役所が把握する外国人居留者への情報伝達について、国際交流課のアリサ・ジャネット・トビンさんに訊いた。
 明快な日本語を駆使する彼女はドナルド・キーン氏にも似て流暢な日本語を話される。キーン氏は米海軍日本語学校で日本語を修得し情報士官として太平洋戦争では通訳として活躍するが、氏の本来の仕事は日本文学の研究、近松から芭蕉、そして現代文学までも博識を駆使し判り易い英語に直し世界へ日本文学のよさを紹介。その功労で文化勲章を昨年受章された。世界のキーン氏だ。そのキーン氏のように言葉を選びながら語るアリサ女史は明晰な八戸居留外国人への情報伝達方法を説かれた。
 言語的には中国語・朝鮮語・英語とある。英語を利用する人の携帯電話、パソコン所持率は高いが、中国語利用者は研修生として来ているため頻度は高くないかもしれない。つまり、携帯電話、パソコンによらない伝達網の構築が必要になるだろう。
 地域ラジオ局での外国語放送の時間を持つことは大事だ。女史の出身地は人口4万5千人だが、スペイン語の放送時間がある。シアトルは人口60万、ここには多くの言語放送がなされているそうだ。ほっとするメールも必要には思うが。携帯電話所持者の数が未把握、多くの言語に翻訳する機能がどの程度かなど更に確認する作業があるように思えると語られた。島国根性の日本人の「はちのへ今昔」、流暢に操られる日本語に驚嘆するも、英語圏の中には素晴らしい才能を持つ人がいるのだと再確認。それもキーン氏には敵国日本を知悉するべきの義務感があったが、平和の時代に生まれたアリサ女史の教養の深さに感心。後生畏おそる可し(こうせいおそるべし・後進の者は努力次第で将来どんな大人物になるかわからないからおそるべきである)を痛感し、このような若い衆の居る世界は頼もしいと悟った。
 ビーエフエムのスポンサーの広報調整課はビーエフエムに物言いをせよ。外国語放送の時間を設けよと。

2009年3月5日木曜日

八戸弁と片町の朝市 ましゅまろ貴史

時計の針はまだまだ五時をまわったばかりでした。お花見も過ぎたというのに、時には肌寒さも伝わる今朝、ゆうべ遅かった割に日差しが妙に心地よいのです。
ふと思い立ち、鍛冶町、片町の朝市へと足を向けました。ひとりじゃ嫌なので悪妻を無理やり誘いました。
数年ぶりで訪ねたそこには、まだ昔ながらの八戸がありました。
ちょうど陣形を整え終えたおばちゃんたちが、早々にお客さんをさばき始めています。長者のお山の方角から、カラスたちの鳴き声も聞こえてきます。
ふ~ん、おまえたちも起きてきたんだ。結構、早起きなんだね。
この界隈に約百人くらいの人たちが、朝の元気な挨拶を交わしながらひしめいています。と、狭い八戸ですよね、どっかでみたことのある人たちとすれ違いまました。親しそうに挨拶してくれたおじさんがいます。ごめんなさい、思い出せませんけど「あっ、どうも」と知ってたふりしてアタマを下げました。最近、こんなこと多くなったな。
「お客さま」というよりは「お客さん」といった方がぴったり。母親と一緒に買い物にきた娘さんまでが、たった今起きてきたばかりよって言わんばかりの素顔なのです。「私、お昼はランチよ」なんて気取っているOLのようには到底見えません。こんな気楽さが早朝の朝市にはあるんですね。
今日は休日。急ぐ必要はまったくありません。ポケットに手を突っ込んで、
ボ~ッとしながらヒトやモノを観察しておりました。
売り手がいて商品があります。ディスプレィとかプレゼンテーションにはおおよそ縁がなさそう。でもここでは夜も寝ずに自分で創ったもの、収穫したもの、そして仕入れてきたものなどを売り捌きながら、もう何十年も家を支えてきたお母さん、いいえかっちゃがいて、孫に小遣いをあげるのを楽しみにするおじいちゃんがいます。みぃんなみんな、真剣にものを商っていることには変わりないのです。
遠慮のいらない八戸弁が飛び交い、伝統の朝市は安さだけで続いていないことを、ほおかぶりした鼻の頭の汗が教えています。
「おらよ、こったらごどすて、ふごつこぎながら動げるうぢに片町さねまってるんだじゃ」と、無精ひげで前歯のかけた籠売りのじいさんがいました。顔はそうとは見えないのに、実演の籠編みの手はとても手早く器用です。
「いずだり来ても、はぁねぇんだ。今しがたまでズバッとあったんども、いづのまにが、ゲソッとなぐなってしまったじゃ」と意気まく花売りの少女ならぬかっちゃん。
「あんだぁ、足病めるってへってらんども、どごだりさ行がねで○○さん(お医者さん)で診てもらうんだ。あそごはいいってみんなでしゃべってるすけ」とお互いの健康を気遣うおばっちゃ同士。
そうです、片町には素朴な笑顔と活気の良い掛け声がありました。
市場はいつの時代もコミュニケーションの場でもあるんですね。
甘党の僕には好物の本物のよもぎ餅も売ってましたね。次々とバットが空になってゆくほどの繁盛です。分かりますか、二尺(約66センチ)ほどのスペースのお餅に、4~5人のお客さんが群がっている様を。もちろん、対面での販売です。
「おかあちゃん、そのよもぎ餅、おらの権利にしてけんだ」と思わず最後の二個に向ってくちからこぼれ出ました。
「ほれ、兄さん(うれしいなぁ!)こればサービスするすけ」と揚げたてのコロッケ。歩きながらほおばる行儀の悪さもここではつい許してもらえそうな片町です。
どっちが入り口でどっちが出口か知らないけれど、鍛冶町側からの入り口にやたらに笑い声の大きいお兄さんが焼くせんべい屋があります。この朝も厚めで生焼け風のおせんべい:てんぽを前掛けで手を拭きふき一生懸命焼いていました。このヒト実は知り合いです。彼って典型的な八戸弁の標準語を使います。
 ここまで徹底している彼は偉い。逆にがらにもなく気取ったふりをしたがる僕には、とてもここまでは真似できません。気持ちだけはつい昨日、東京から帰ってきたんだよと言いたいんだけど、化けの皮はいつも簡単にはげてしまいます。
真っ黒い生イカを売ってた日焼け気味のおばちゃんでした。
「どうもありがっと。それだば刺身にいいよ。またおよりあんせ」
ふ~ん、またおよりあんせだって? 母が元気だった頃、時々使ってたな。なんとなく懐かしさが込み上げてきました。
そしてあれって思ったのです。これって八戸弁でも敬語だよなって・・・。
最近では港八戸をピーアールするポスターなんかに使われていることば「おんでやんせ」これも同じように敬語ですよね。
およりあんせもおんでやんせも丁寧語。日本各地に方言は多いけど、今まで方言の中に敬語が使い分けられていたと感じたことはありませんでした。
もしかしたらどこでも同じような使われ方をしているかも知れないけど、なんとなく八戸で生まれ育った者には、ほんのチョッピリでも誇らしさが込こみあてきたのです。これっておかしいですか?

2009年3月4日水曜日

断水で判った八戸だけが遅れた防災連絡体制


おいらせ町は防衛省の金をふんだんに使い全戸に受信機を整備。これが一番徹底している。市民、町民の財産生命を守るのが行政の仕事。
 これに腐心をしたのがおいらせ町。同様に南部、階上、三戸が整備。五戸、六戸は備えがおろそか。八戸に至ってはまるでやる気がない。八戸の防災は津波だけだと思っている。海岸部にわずか39を設置。その三台が壊れたまま。
 時代は変化し徘徊老人が増加。これらの発見にはタクシー無線が有効。一月も八戸から三戸まで徘徊した老人あり。たまたま暖かな夜のため凍死は免れたが、重大な事故になりそうだった。これらの人々の保護、救済にも重要な役を担うのが防災無線。しかし、これも設置したら良しではない。活用方法が問題。夜中に発生する事件、事故に行政マンが眠い目をこすりながら出るのか? これらは民間放送局、つまり、地域FM放送に任せるべき。アナウンスが不慣れな人よりプロに喋らすべき。 地域は地域で守る。これが協働の町づくりの根本。小林市長も言うだけでなく、具体的な策を見せるべき。ゆうばっかりじゃウドン屋の釜だ。何? 中身は湯うばかりだヨ

2009年3月3日火曜日

八戸市役所も定額給付金に対応、部屋が準備された

国体準備室などに使用される本館地下の、職員互助会が不正占拠する部分に給付金室が出来た。これに問題。
八戸市役所の清掃におよそ6000万円を使う。この地下部分の清掃も業者に依頼。その対価を互助会から徴収するが、その計算方法に矛盾。
新館・本館の清掃は清掃人員をもって設計書を作成したという。掃除は面積により人員が決定される。ところが八戸市役所総務課は人員数を決定し清掃額を決めた。
 すると、この互助会はどの程度の面積なのか。これを計算するには定額給付金など臨時に使用する部分を減ずる必要がある。総務課は職員組合、互助会事務所部分は計算に入れないという。
 つまり面積計算で清掃料を徴収。ところが、清掃業者には人員割で支払う。これには間違いがある。そもそも地下部分は互助会が不法占拠し、それを職員生協に家賃600万円を支払って、貰ってではない、支払って食堂と売店をさせている。この生協は税制上の優遇措置がある。職員互助会には毎年1000万円が税金から支出される。これはタダ。つまり補助金。返す必要がない金を貰い、それを職員生協にくれてやっている。それが家賃として出ている。タダで借りて、食堂経営のためにタダで貰った金をタダでくれる。ここに矛盾はないが、もともと市民の税金を不正に貰い、それが貯まったので三億円返金したことがある。いかにも自分たちが貯めたような顔をして。
 もともと不要な金なのだから、こんな互助会に補助する必要はない。この互助会経営のために人事課職員は残業をして帳簿処理をする。こんなのは職員組合にさせろ。不当残業代三億五千万円は返却しろ。勤勉でもない奴に一律に勤勉手当を支給するな、これは最高裁で判決が出た。違法だと。市民は無知で従順だと思うな。市役所職員が巧妙に隠しているだけだ。
 互助会長は市長だった。市長が互助会長の市長に金をくれていた。こんな馬鹿なことはないと噛んでくれたら、市長は副市長にそれを押し付けた。そんな市長が再選を狙う。他に人材がいないから小林市長でも市長はまたも務まるだろう。
 職員のために喫煙室が出来た。あれは互助会が建てた。プレハブだが、市役所の許可を得ず建てた。これの契約書を見せろというと不法占拠だと認めた。
 この部屋の清掃も業者にさせている。これは契約違反だ。この銭も互助会に支払わせろ。世の中はすべからく契約に基づく。契約もしていないのに気のいい清掃婆さんたちを督励しタダで働かすは言語道断。市役所職員は残業代もなしに一時間でも働くのは嫌だろう。自分はいい、他人はダメの法の運用はない。世の中は万人に通じるから法であり律である。運用する側の都合でどうにでもなるなら県警職員の飲酒運転などあるはずもない。
 誰がしてもダメなものはダメなのだ。だから万人が法を守る。こんな最低な論理すら八戸市役所総務課にはないのだ。自分は適当にやる。そのために業者は泣けでは、これは堪らない。こうした奴バラが清掃業者の入札をする。これは業者いじめ以外のなにものでもない。
 業者にとってはお役人さま、ご無理ごもっともだ。こうした不正は顕在化しない。業者が泣き寝入りするだけなのだ。だから性質が悪い。嫌なら他の業者にするよと言われるのだ。だから表面はニコニコしながら嫌々やるんだ。市役所職員の仕事と同じだヨ。嫌々ながらも仕事をこなしているから残業になるんだ。
 抜本的解決は市役所職員互助会に地下を貸さないことだ。市役所が全てを管理する。互助会が貸せといわなくとも必要な部分は使用させる。しかし、労働組合は家賃を払うべき。医務室は市役所で設置すればいい。妙な癒着を互助会とするから問題が複雑になる。ボタンのかけちがいはなおせばいい。それをしないから、その場しのぎの姑息な手段で終始する。

2009年3月2日月曜日

八戸及び八戸人14続 八戸造船業の歴史 速水造船四代目速水金一氏

図書館の住宅地図の八戸港造船は現在速水造船のある場所に間違いはなかった。この土地の由来を速水さんにうかがった。
蕪島は陸続きではなかった。細い吊り橋が渡っていて、そこを歩行するのは恐ろしい。チビなどは途中で足がすくんで渡れなかったそうだ。
蕪島は独立した歴然たる島、その前は磯で左右に砂浜が広がる。右手は海水浴場、左手の浜に速水造船があった。そこで四代に渡る速水一族が糊口をしのぐために船づくりに精を出した。前号で紹介したように明治期は勿論木造船、船は荷物を運ぶ重要な手段。また、漁労にも役立つ。おのおのの必要により舟形が変化する。
 木造だけに木の手配が至難な技、速水さん一族は名久井や福地、三戸、五戸まで足を伸ばし、どの山にどんな木があるかを調べた。荷物を運ぶには平らな底、漁船は水を捕らえ、いかに後方に流すかに船大工の腕がかかる。
速水造船は独特な舟形を誇り多くの漁民から支持を得て、数え切れないほどの船を造った。
初代の速水金蔵は長内大治郎の三男で、速水家に養子にきた。十四歳の時だ。言い伝えでは長内家は久慈の武家だったそうだ。
戸籍を見ると長内家の文字の上が空欄になっているので、戸籍係の人は士族とかかれていた可能性があると断言。しかしながら、長内家は上組町だかに居住していたようにも見える。
郷土史研究家の富岡明先生は、幕末の記録に武家の長内一族があるので、この流れではなかろうかと教えてくださった。
上写真前列右端が三代目金作さん。木造船の舳先が見える。船は水をかきわけて進む、このかきわけた水をいかに処理できるかが試される。漁船は作業がしやすくなければならない、そして獲った魚を沢山積めなければならない。そして重心が上がっても安全に港に戻れなければならない。当たり前に思えることだが、これが重要なのだ。だか らこそ船大工の腕のみせどころでもある。船の底の竜骨(りゅうこつ・船底の中心線を船首から船尾まで貫通する船の背骨にあたる材。キール)には曲がった木材を探さなければならない。家を建てるには適さない曲がり木材も船大工には欠かせない。こういう木は谷間に生えている。それらを丹念に見て歩く船大工の努力は並ではない。大きな船を建造するには肋骨にあたる部分も曲がり材を必要とする。巨大な木材を切り出すには木挽きの力を必要とする。上の写真でも大きな板が前に並んでいる。これらは木挽きがひいたもの。
造船所は多くの人間を必要としていたのだ。船の図面をひく者、木を組み立てるもの、木を乾燥させるものなどの共同作業なのだ。現今は木材も外国産、日本の木は高いと買わないようになった。だが、考えてもみてくれ、木造船のころは水が漏ってこないように木をいかに組み合わせるかを、絶えず頭に入れて作った。木挽きが挽いた木材を乾燥させるための広い場 所が必要となった。蕪島の左手、つまり鮫漁港よりの砂浜近くには船に使う木材の山が出来ていた。ところがこれが昭和三十五年のチリ津波で八太郎まで流れてしまう。船大工は注文が来る前に木材の手配、木挽きへの賃金支払い、船大工たちへの給料と、相当に懐が暖かくないと出来ない仕事。上は長横町の神代から養子に入った貞吉さん。船大工は技術は要求される、寝かす木材の代金は前払いと緻密な経理感覚がないと倒産する。
 速水さん一族は若い内は方々の造船所に働きにでる。東京は隅田川造船、静岡や宮古、石巻と大型船を造るところで、その技術を盗んで帰るのだ。漁船は獲る魚に合わせて舟形と装備が異なる。舳先を前に大きく出すカツオ・マグロ船、イカ釣りやサバは胴間を広くし釣り子が作業しやすいようにと、それぞれ特徴がある。船の装備を艤装と呼ぶ。木造手こぎ船から次第に船が大きくなり帆走から、エンジンへと変っていく。速水一族はそれらに機敏に対応していく。時代の流れに巧み に乗ったのだ。木造船の船体を造り艤装を施し、エンジンを載せ、船一杯に大漁旗をつけて、いよいよ進水式だ。八戸特有の魂入れも大事な儀式。鮫の漁港は砂浜で、満潮を利して船を進水させる。
晴れの日、船大工は一張羅を着込み、船主は船から紅白餅や銭を惜しみなく投げる。
それが楽しみで付近の洟垂れ小僧たちが集まる。船主は無事の航海と豊富な魚を賜れるようにと、精一杯の心をこめて、我が船の門出を祝う。船大工は精魂こめて育てた娘を嫁がせる男親のように、どうぞ、行った先で人々に愛されるような働きをして漁民たちに幸をもたらすようにと、それぞれの思いを込めて潮に舳先を入れるのだ。
これこそが海洋で仕事をする者達の心意気に他ならない。
尊いものだ。先の見えない人生、誰だって不幸は望まず、幸多かれと祈るが、なかなかそんなに簡単、一筋縄でいかないのが世の中だ。多くの船主が倒産し、千艘もあった八戸船籍は今は二百余、
速水さんが重い言葉を吐かれた。
「人生には必ず一回はチャンスが来る、それをどう生かすかが大事、商売にはふけさめがあるから」ふけさめとは八戸特有な言葉で蒸け冷めとでも書くのが至当か、つまり好不況を指す。
 戦後間もなくは徴用の対象にもならなかったようなボロ船で沖合に行けば魚は豊富にいた。若者が戦地から帰り、農林省の国策で飢えた国民の腹を満たすように、船を二つに割り、板でつないで漁獲量を増やした。八戸沖の海は沸き返るように魚で一杯。マグロがなんぼでも獲れた。イカも勿論、サバは釣りから網で掬うようになり、八戸の魚市場は好況で笑いがとまらなかった。造船、造船で船大工も忙しかった。
ところが乱獲で水揚げが落ちた。遠洋まで出るようになり、船は大型化の一途。何故って北洋に行くには大型船でなければ波が高くて恐ろしい。船が大きくなればエンジンも大きくなり、八戸のエンジンメーカーでは追いつかなくなり、ヤンマー
やヤマハ、トーハツのバイク、農機具メーカーが進出。船も鉄鋼船の時代に突入した。
速水さんはチリ津波で丹精こめて集めた木材が流された時に、これでもう木造船の時代は終わったなと感じたそうだ。多額な資金を必要としても、船代金の支払いは盆暮れの節季払い。ただ、八戸港が特定第三種の港に指定され、海上保安庁の船を造る、あるいは水産高校、海洋学院などの注文は国や県の仕事で支払いは確保され、銀行も容易に資金を用立ててくれたが、船大工は手間の割に収入にならない。
初代中央金蔵さんは鮫の漁民の魚を買い取り、それを八戸六日町に運び、その市場で売却しコツコツと蓄財、それで畑や土地を購入。木材の干場も必要だったからだ。その資産をすべて船大工に注ぎ込んだ。後列中央二代目、右隣が三代目二代目の腕の中。三代目の時代が一番盛んだった。四代目は木造船からFRPへと変わることを予測し積極的に取り組んだ。これは型を作り作業を分担しながら作成できる画期的な方法だった。速水さんの造った型から同じ船が何十艘も太平洋や小川原湖で活躍した。いまでも現役で頑張っている 船もある。FRPはベークライトのお椀のようなもので、浸水の心配はない。このため船大工の腕のみせどころの水漏れのしない船が誰でも造れるようになった。しかしながら、だからこその船の形が要求されるようになった。船が押しのけた水をプロペラにどう伝えるかの技術が問われた。速水さんが進水した船と同じようなものが直ぐに出てくるようになった。苦心に苦心を重ねた艤装などを、大手のメーカーが盗んだのだ。大量生産で全国どこへでも陸送する方式に、地元だけを対象とする造船所は苦労をさせられた。
それでも、漁民たちの声を聞き、すこしでも使い勝手のよい船を作成しようと速水さんは努力を 重ねた。ところが蕪島を観光の名所にするべきだの声が上がる。八戸港造船所は鉄鋼船を造り、付近住民から鉄板を叩く音がうるさいとの苦情、速水さんも鮫の砂浜も浅くなり使いにくく、沼館に移転した。時代が変わり又、鮫へ。大きく勝負すると大きく転げる、小さく商売をしていれば転げることはないが、儲けも知れたもの。多くの船主が消え、わずかばかりの人たちが生き残り努力を重ねている。船主から水産加工業へと変身した人も出た。皆、必死の食う努力で誰が良くて誰が悪いわけでもない。遠洋で稼いだ人も二百海里で行き詰まった。海洋王国日本の面目は全く無くなってしまった。多量の魚を水揚げしさええすればいい時代は過去の物。新井田川に係留される船の数もめっきり減った。乱獲がたたったのかも知れない。速水さんはこれからは栽培漁業だという海洋学院の先生の言葉をいれてコンブの養殖に手を染めた。造船所を経営しながら取り組んだためにえらい苦労をされた。房総からタネに なるコンブを買い、それを水温管理した水槽で胞子を出させ、試行錯誤の繰り返しで鮫の港に養殖コンブの基を開かれた。今から三十年も前の話だ。いまではこれが立派に華を開かせ、鮫の漁民の多大な収入源。この種つけは今は水産高校が実施するそうだ。上の写真は水産高校のカッター。無論速水造船が造った。並んでおられるのは水産高校の先生方。
速水さんは四代目、長年の水産に対する功労で県から水産賞もいただいた。感謝状や賞状は青森県から水産庁といろいろあり、長年の苦労がしのばれる。蕪島海水浴場は今は利用されないが、かつてはここが八戸一のにぎわいを誇った場、そこに貸しボートがあったのを覚えているだろうか。そのボートを製造したのも速水造船。長根公園の貸しボートも同じ。時代が変わり速水さんも高齢になられ五代目は登場することなく速水造船は幕を閉じるが、なんの、速水さんは全く仕事をされていないのじゃない。建造した船、それ以外の船 の修理や艤装はいまでも手がけられておられる。今回八戸市長になられた小林氏は速水さんの親戚筋。二代目の葬儀に参列している小林市長の祖父の写真もあったが紙面の都合で掲載できない。
 八戸は水産の町、その水産に元気がないのは半身不随な病人状態。鮫浦漁協は沿岸漁業、遠洋の組合のような大負債もなかったが、百七十億円を踏み倒す漁業組合もあり、国は漁協の一本化をねらう。こつこつ手堅く努力した漁民たちも国の政策には逆らえない。長年の組合の歴史の灯も消える。それでも、海洋学院が教えた栽培漁業も地について、全国初の県立漁民道場の面目躍如。速水造船四代目は八人兄弟の長男坊、学校出ると気仙沼の高橋造船所で丁稚奉公、辛く苦しい修行を終えて、北は北海道から南は神奈川県まで船造りに精を出す。昭和九年生まれの御年七十一歳。足腰しっかり重い材木自在に担ぎ、蕪島の横で養殖コンブのブイ握る。波を押さえ波を征する船大工速水金一ここにあり。

2009年3月1日日曜日

八戸市鮫町のこと

江戸の昔、鮫を訪れた噺家がいた。噺家と書いたが、落語家を噺家とも言う。口偏に新しいと書くが、これには理由あり。日本の伝統話芸に落語、浪曲、講談の三つがあり、落語は江戸の末期に登場する。
つまり、江戸の末期には落語家の話というのは、新しいものだった。新しい、聞いたこともない噺をしてみせるので、人々に珍重された。そして、その噺を聞く場を、人を寄せる場、つまり寄席が誕生した。江戸の末だけに歩ける範囲に寄席がある。簡単に言えば町内に三つも四つも寄席があった。噺家はあっちこっちと出稼ぎをする。客が待っていて、そこに噺家や音曲などの出し物が顔を並べる。当然、あたりを得る噺家が高いギャラを取り、寄席の経営者を席亭と呼ぶが、これが興行師だと思えばわかりいい。これが、次ぎに誰を出すかを決める。その巧拙で寄席の収入が決定するだけに、ボケは出来ない利口はしないのが席亭の仕事。
江戸の末に都々逸が盛んになった。茨城県石岡の医者の倅がいたと思え。医者は食い合わせを研究していた。サバとなんとかを食うと体に悪く、死ぬ恐れもあるてんで、倅に食わせたナ。するてえと、倅は死ななかったが目が見えなくなった。悪い医者がいたもんで、倅はそれから江戸に出て三味線ひきになる。都々逸が上手で寄席にも出るようになる。当時も今も寄席に出るには誰かの弟子にならないと出れない。そこで適当な師匠を見つけて弟子になり、その噺家の名前の一字をもらい、扇歌として、都々逸坊扇歌と名乗った。都々逸よりも、即興で当意即妙な歌を作るのが得意。
客が題を出し、それをひっかけて答えてみせる。 これが人気を呼び、師匠をしのぐ有名人となった。都々逸は俗曲、1800年(寛政12)名古屋の熱田神宮の門前,神戸(ごうど)町の宿屋に私娼を置くことが許され,女たちを〈おかめ〉と呼んだ。遊客の間で歌われたのが〈おかめ買う奴あたまで知れる、油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がつけられた歌で,《神戸節(ごうどぶし)》と呼ばれた。この歌は明和(1764‐72)ころから江戸で流行していた《潮来節(いたこぶし)》に似た曲調で,まもなく地元ではすたれたが,江戸や上方に流れて《名古屋節》と称された。 1838年(天保9)江戸の寄席音曲師だった都々逸坊扇歌(?~1852)が,同じ《潮来節》を母体とした《よしこの節》の曲調を変化させ,名古屋節の囃し詞を加えて〈どどいつ節〉を大成し,旗揚げしてから〈どどいつ〉の名称でもてはやされるようになった。
いまでも人気を持ち、たまに歌う通人もいる。この都々逸坊の師匠が八戸の鮫を訪問した部分を紹介。
盛岡から八戸へと来た。
十三日に八戸に着いた。松前から竹田甚太郎の子分がきた。去年から扇蝶が親しくしていた。この甚太郎は江戸の小網町の田辺南子という講釈師で、蝦夷の松前にゆき、芝居や角力の興行師の所へ養子に入った。それで講釈はやめていい男にあなりになった。甚太郎の話だと松前は不景気で旅人は船で足止めをくって上陸ができないそうで、松前行きはとりやめる。
二晩林兵衛さんに泊り、十五日から荒町のしまり役の清兵衛さんという人の家へ引き移った。ここの願主は松太夫さんで、江戸麻布十番仲町の万屋さんで知り合った心やすい人。
林兵衛さんの妹婿に河内與兵衛さんという人は大変世話好きで、落語の席なども取り持ってくれた。市兵衛さん西町屋という屋敷にゆき、番頭の惣助さんと仲良くなった。この人はおじさんにあたるそうだ。
鬼柳さんというお屋敷にいった。家老の家来がきているそうで、小南部様がご隠居をされていた自分にたびたびお屋敷にうかがったことがある。
八戸はとても魚が豊富なところで、目の下一尺ぐらいの鯛は目方が百五十匁もあるだろう、サバやいわしは一文で十匹も買える。
昨今は夕立が降りつづく、與兵衛さん、市兵衛さん、惣助さんらと湊に行った。城下町から一里ほど離れている。遊女屋が沢山あり、大谷屋へ行った。與兵衛さんの妻の家にお熊って女がいますが、これは昔遊女であだ名があら熊、酒が強く三味線をひきおもしろい女だ。
鮫の遊女屋はみな後家で侍の家や町人の金持ちの世話になっている。
そこから鮫に行った。ここにも遊女屋が十二軒もあった。湊は鰯網を引き、油を絞って取る。魚油役所がある。
鮫も湊も芸者はいない。遊女がみな三味線をひく。かまど返しという歌を歌うが、これは道中節のたぐいだが、少し違うところもある。どんちゃん騒ぎの中に琴を入れる。
海辺を方々見て歩いた。景色のいいところだ。
林さんあたち十五名で石手洗という村の川原行き名主の家で大騒ぎの宴会、あら熊や遊女が来て夜通しで遊んだ。その帰りに、湊から鮫に寄った。川口屋という所へ泊まった。
ここは東回りの回船問屋でたばこやお茶は江戸から来る。私の弟子の都々逸坊扇歌の作った都々逸トッチリトンの本もあった。盛岡より鮫の方が江戸に近い。
台所、唐人までもうかれなん、わかいのもとのかまどかえしに
とり組みて、さて、おもしろし金時も、酒の相手に負けぬあら熊
二十七日、八戸を立った。櫛引村から剣吉をぬけて三戸へ行った。云々
鮫を佐女と書いてある。当時そう呼んだのだろうか。湊とあるのは小中野のことだろう。川口屋という回船問屋があったのだろう。
詳細に書いてあるのが面白い。当時は誰でも知っていること。だが、江戸の噺家には珍しく、記録していたから現代人も目にできる。フムフム。